2008年12月28日日曜日

説教集B年: 2005年12月28日、年聖家族の祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヘブライ 11: 8, 11~12, 17~19.
 Ⅱ. ルカ福音 2: 22~40.

① 神の御子イエスを中心とする聖家族を特別に崇敬することによって自分たちの家族精神を浄化しよう、その精神の上に神の恵みを祈り求めようとする信心は、一部の地方ですでに17世紀に始まり、人間中心の合理主義的啓蒙主義が18世紀にヨーロッパ各地で盛んになり、それまでの家族の温かい結束が乱され始めると次第に広まったようですが、教皇レオ13世は1893年に任意の祝日として定め、推奨しています。その後第一次世界大戦によってヨーロッパ社会の伝統が崩壊し、民衆の力で新しい社会を築こうとする機運が高まり、共産主義やその他の思想が広まり始めると、教皇ベネディクト15世は1921年にローマ教会の典礼に導入し、それ以来全世界のカトリック教会で祝われるようになりました。その時は1月6日の主の公現祭後の最初の日曜日に祝われていましたが、1969年の典礼暦改定後は主の降誕祭後の主日に祝われることになりました。ただし、今年の場合のように降誕祭が日曜日と重なり、年末までに日曜日がないときは、12月30日に祝われることになっています。その場合には主日ではないので、朗読聖書は二つだけとなります。
② 本日の第一朗読は、典礼の上では創世記15章から選ぶことも、ヘブライ書11章から選ぶこともできますが、このミサではヘブライ書から朗読してもらうことにしました。ヘブライ書11章は、「信仰とは、希望していることの保証、見えないものの確信です」「信仰によって私たちは、この世界が言葉によって創造されたこと、したがって、見えるものは現われ出ているものから生じたのではないことを知っています」という言葉で始まって、アベル以来の旧約時代の信仰の模範を列挙しています。本日の朗読箇所は、そのうちのアブラハム関係の所からの引用です。神の声を聞いたアブラハムは、その声が自分を実際に幸せに導くものであるかを確かめようとして従ったのではなく、自分に語りかけてくださった神の愛に信頼し、これからの旅の行き先も知らず、自分の将来に何があるのかも知らずに出発したのでした。神の招きの声に従って人生の旅を続けているうちに、神はアブラハムのその信仰実践に応えて、次々と遠い将来に、自分の子孫だけではなく全人類に与えられる大きな祝福を約束してくださいました。しかし、それがいつどのようにして実現するのかは、人間の側からは全く知る由もありませんでした。人間理性にとってはすべてが深い闇に包まれていて、限りなく不安な人生であったかも知れません。
③ でも、こうして神からの約束、神から与えられる夢のような祝福をひたすら信じ希望して、日々の労苦を神に捧げつつ生活しているうちに、アブラハムの心は次第に、自分が目に見えない神から特別に愛され、いつも神に見守られ伴われていることを、数多くの体験から確信するに至ったのではないでしょうか。神に信頼し切って生きているアブラハムのこの骨太信仰に感化されて、妻サラも甥のロトも神の御旨中心主義の生き方を次第に体得するに到り、一族はどんな試練に出遭っても堅く団結し、その試練を乗り越えることができたのではないでしょうか。カトリック教会が聖家族の祝日の聖書朗読にヘブライ書のこの箇所を選んだのは、家族の成員の団結も一致も本当の幸せも、各人が神の愛に信頼し、神の導きに従うことを万事に優先させることから生まれることを教えていると思います。聖母マリアも聖ヨゼフも、そして成長して自主的判断ができるようになった主イエスも、いずれも父なる神の人類救済の御旨に従うことを万事に優先し、そのためその日その時の神の導きに従うことに努めていたと思われます。私たちの修道家族の団結と一致と幸せも、各人がこの一事に励むか否かにかかっていると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の福音は、生後40日目の幼子イエスの神殿奉献の話ですが、律法に従って男子の初子を神に献げるため、聖母マリアと聖ヨゼフがエルサレム神殿に連れて来たら、エルサレムに住んでいた信仰の厚いシメオンという老預言者が、聖霊に導かれてちょうどその時神殿の境内に入って来て、その幼子がメシアであることを悟り、両腕に抱かせてもらって神を讃えたこと、神殿で夜も昼も神に仕えていた84歳の女預言者アンナも、その子がメシアであることを看破して神を讃え、救い主を待ち望んでいた人たちにこの幼子について話したことに、注目したいと思います。ここで聖書に「初子」とあるのを取り上げて、「初子」と言うからには、マリアはその後も子供を産んだのではないか、などと主張した人がいたそうですが、ユダヤ社会ではそんな意見は通用しません。一人っ子であっても「初子」と言いますから。日本でも「初孫が生まれた」といってお祝いしても、その後にも孫が生まれたとは限らないのと同様です。ついでながら、「イエスの兄弟」という言葉もユダヤ社会では広い意味で使われており、ヨゼフの兄弟姉妹の子供たち、すなわちイエスの従兄弟姉妹をも指しています。
⑤ さて、死を間近にした高齢のため、日々メシアを待望しながら祈りと断食に専念していたと思われる預言者シメオンとアンナは、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などからは離れて、精神的には神の民全体を自分の家族として愛し、生活するようになっていたのではないでしょうか。そして神から預言者たちを通してその神の民に約束されていたメシア到来の時は近づいていたので、死ぬ前にできればひと目神から派遣されたメシアに会いたいと願いつつ、祈りに励んでいたのではないでしょうか。エルサレムに住む二人の預言者は、当時の世俗化しているユダヤ教指導者たちが預言者的精神に欠けていること、しかし年毎にエルサレム神殿に来る巡礼団の中に、神の霊に生かされていない無力なユダヤ教の実態に満足できず、ひたすら神による救いを待ち望む願いが高まっていることを、鋭く感知していたと推察されます。シメオンが幼子イエスを胸に抱きながら神に申し上げた祈りと母のマリアに語った言葉とは、日ごろ預言者の心に去来していたそのような願いや心配などを反映していると思います。しかし、預言者たちは問題の多いその神の民を自分の家族として愛し、神が万民のために備えてくださったメシアがこの神の民の中に生まれ出ることで、この家族の中から異邦人を照らす啓示の光が輝き、それが神の民イスラエルの誉れになることも予見していたと思われます。
⑥ この推測が正鵠を得ているとしますと、二人の預言者に神の民全体との家族的連帯感を与え、祈りのうちに日々その連帯感や結束を強めていたものは、太祖アブラハムの場合と同様、神の啓示や働きに対する信頼、従順と愛と言ってよいでしょう。私たち修道者も、こうして歳が進んでみますと、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などは超越して、一緒に生活している修道家族に対する愛着が深まっていることでしょうが、しかしその段階に留まってしまわずに、主キリストと一致してもっと大きく神の民全体、人類全体のための家族的連帯精神にも成長すべきなのではないでしょうか。すべての家族的精神、家族的愛の源は神にあると思います。日々その神に祈っている私たちは、救い主の全人類的家族愛にも成長するよう心がけましょう。子供の心が悩み苦しめば苦しむほど、その子を愛する親や教師たちは一層愛に燃えると言います。現代の教会、また現代の人類が数々の問題を抱えて悩み苦しめば苦しむほど、私たちも主キリストと一致して、まずは祈りによる献身的愛の奉仕に努めましょう。その恵みを願いつつ、聖家族を崇め記念する本日のミサ聖祭を献げましょう。

2008年12月25日木曜日

説教集B年: 2005年12月25日、年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 52: 7~10.  Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
 Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

① 本日の第二朗読は、「神はかつて預言者たちによって、多くのかたちでまた多くのしかたで先祖に語られたが、この終りの時代には、御子によって私たちに語られた」という言葉で始まっていますが、ここでは、2千年前の神の子メシアの来臨が、すでにこの世の終末時代の始まりであることが教えられていると思います。マタイ福音書3章やルカ福音書3章で悔い改めを説いた洗礼者ヨハネの厳しい説教も、終末時代の到来を示しています。しかし、聖書によると、終末は神による恐るべき審判の時であると同時に、神による被造物世界の徹底的浄化刷新の時、救いの時を意味しており、それは、人となられた神の御子とその御子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、ゆっくりと実現するもの、長い準備期や成長期・変動期などを経てから実現するもののようです。ちょうど受難死と復活によって短時日のうちに完成したメシアによる救いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い生命的準備期・成長期・活動期などを基盤としているように。
② 聖書が、神の子メシアのこの世への来臨によってすでに終末時代が始まったとしていることは、注目に値します。本日の朗読箇所にある「神は、この御子を万物の相続者と定め、」「御子は神の栄光の反映、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」などの言葉を読みますと、私たちの生活しているこの病的な世界は、メシアの受肉によって根底からしっかりと神の御手に握られており、すでにゆっくりと栄光の世へと持ち上げられつつあり、その過程で発生する無数の善悪闘争や悲劇は、根の深い病気が癒される過程で生ずる各種の症状や痛みのようなものと考えても良いのではないでしょうか。救い主の復活のすぐ前に恐ろしい受難死があったように、この終末時代の終りにも、神により最後の恐ろしい苦難と試練が予定されているかも知れません。神の力によってそれらの試練に耐え抜くことができるよう、今から覚悟を堅め、心を整えていましょう。
③ 本日の福音は、この世に来臨した神の子メシアの本質が何であるかを教えています。それによると、赤貧のうちに無力な幼子の姿でお生まれになったメシアは、実はこの世界が存在する前から永遠に存在しておられる神であり、万物を創造した全能の神の御言葉、すべての人を生かす神の御命、すべての人を照らす神の光なのです。私たち人間が互いに話し合っている言葉とは違って、父なる神の発する言葉には、私たちの想像を絶する巨大な力と光が込められているのだと思います。この神の御言葉は、三位一体の神の共同体的愛の交わり中では永遠に力強く燃え輝いている光ですが、その神に背を向け目をつむる暗闇の霊とその支配下にある人々には理解されず、その暗闇に覆い包まれ、その勢力下に置かれて罪の世に呻吟している人々を救うために、神の御言葉は己を無にして本来の力と光を隠し、か弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中で、深く身を隠して臨在しておられるその神を、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのではないでしょうか。私たちの恐るべき終末の審判は、目に見えないながらすでに始まっていると考えるべきだと思います。
④ 神を無視し、何よりも自分の自由、自分の考えや望み・計画などを中心にして生きている人は、温かい世話を必要としている小さなか弱い存在、貧しい者の来訪を喜ばず、足手まといとして嫌がることでしょう。しかし、小さな者のかげに隠れて伴っておられる神は、万物の創造主、絶対の所有者で、私たちに何事にも神のため、神中心に生きるよう求めておられること、ならびに「私はねたみの神である」「どんな偶像も造ってはならない。それらに仕えてはならない」と厳しくお命じになったことを忘れてはなりません。神が「偶像に仕えてはならない」という言葉で禁じておられるのは、未開民族の間に広まっていた木や石で造った神々の像を崇めることよりも、現代人にも多く見られる、自分の富・名誉・社会的地位等々、万物の創造神以外のものを神のように崇め尊ぶ生き方を指していると思います。私たちも、そのような偶像を崇めることのないよう心細かに気をつけましょう。そのため、何よりもまず神の隠れた臨在に心の眼を向け、小さいものを大切になさる神に仕えよう、神のお望みに従おうと心がけましょう。そうすれば、思わぬとき、思わぬ形での神の隠れた来訪にも適切に対応することができ、ますます豊かに神の恵みに養われ、栄光から栄光へと次第に高く導かれて行くのを体験することでしょう。
⑤ 日本語の「いのち」という言葉の「い」は語源的に息を、「ち」は力を指していると聞きます。太古の日本人は「いのち」を「息の力」と表現して、息のなくなることを死と考え、外的には真にはかなく見える息の中に、神秘な神の力を感じていたのではないでしょうか。黒潮のように巨大な現代の国際化・流動化の流れにより、世界中の諸国諸民族の伝統的道徳も価値観も社会組織も根底から突き崩され押し流されて、社会全体がますます暗い不安な霧の中に呑み込まれて行くように覚える終末期には、これまで生活の拠り所として来たものすべてが、真に頼りなく感じられるかも知れません。そのような世界的混沌時代には、社会や国家が形成され発展する以前の、神の護りと導きを願い求めつつ一日一日を生きていた原初の単純な人々の心に立ち帰り、隠れてこの世に現存しておられる神の息吹の力に生かされ、導かれようと心がけることが大切だと思います。
⑥ 「私は世の終りまであなた方とともにいる」とおっしゃった全能の神の御言葉、神の子の受肉は、霊的に今もなお続いている現実です。神の御言葉は、忽ち色あせて過ぎ去る木の葉のような人間の言葉とは違って永遠に残るものであり、私たちの生活に伴っていて、事ある毎に私たちの前に密かに現われてくる生きている神秘な存在だと思います。多くの人はそれを見ても、それと気づかずにいるのではないでしょうか。神の子の臨在を感知するには、花や鳥や四季の移り変わりなどに感動する詩人や画家たちのような、鋭敏な心のセンスが必要だと思います。神の働きの微妙な動きを感知し、心を開いてその恵みを受け止める信仰も、一種の芸術的センスだと思いますから。私たちがそのような「心の信仰」に生き、神の力と御保護とを豊かに受けることができるよう照らしと導きとを願いつつ、神の子の来臨に感謝する本日の「感謝の祭儀」を献げましょう。

2008年12月24日水曜日

説教集B年: 2005年12月24日、年降誕祭夜中のミサ (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 9: 1~3, 5~6.  Ⅱ. テトス後 2: 11~14.
 Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の後半に恐ろしいアッシリアの支配下に置かれ、絶望的な闇の状態に置かれているガリラヤの民が、大きな希望の光を見るに至ることを預言しています。紀元8世紀に破竹の勢いでオリエント諸国を征服し、サマリアをも征服して、エルサレムを襲撃する気配を示していた凶暴なアッシリア帝国の大軍を、神の救う力に頼っている預言者イザヤは少しも恐れずに、神がその支配を粉砕してくださることを予見し、ただ今朗読された神の言葉を書きました。「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者たち」とあるのは、そのすぐ前に「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とありますから、アッシリアの支配下に呻吟しているガリラヤの人々を指していると思います。神は「彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を」すべて折ってくださるのです。かつて士師ギデオンが、侵攻して来たミディアン人たちを打ち破った時のように。
② ここで預言者イザヤの予見は、間もなくアッシリアの支配から解放されたガリラヤの民衆から離れて、悪魔の支配下にあって、罪と死の内的暗闇の中で呻吟している無数の人々、全人類にまで思いを馳せ、その人々のために神から派遣された一人の男の子が生まれることを預言します。神の権威がその肩にあって、その子はやがて「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と崇められ、その王座と王国、また平和は永遠に続くこと、万軍の主であられる神がこれを成し遂げられるのであることも、預言します。ガリラヤの民をアッシリアの支配から解放して下さった神は、この男の子によって全人類を悪魔の支配、罪と死の闇から解放して下さることを預言しているのだと思います。イザヤが預言したこの男の子が、2千年余り前にベトレヘムで誕生なされた救い主イエスであります。
③ 今宵のミサで、私たちはその男の子の誕生を祝いますが、それは2千年前の出来事の単なる記念ではありません。この世の万物を時間空間の枠組みの中に創造なされた全能の神は、被造物であるその枠組みの外で全存在の中に現存し、それらの存在を支えておられる方であります。その神が、この世の時間空間を超越しているその世界から神のロゴス、神の御独り子を人間となして派遣なされた受肉の神秘は、特定の歴史的時間空間の中に生じたという意味では歴史的事実ですが、歴史的要素と永遠的要素とを含んでいて、単なる歴史的出来事ではありません。19世紀の著名なデンマーク人のプロテスタント神学者キェルケゴールは、こういう出来事を「絶対的事実」と呼んで、歴史的探究からはイエスが神であるという結論は導き出せないとしても、神からの啓示を素直に受け止める各人の心の信仰、心の意志によって、その歴史的不確実性は乗り越えることができるので、神の啓示を信ずる人には、その出来事は「今ここに」確実に現存する事実となるのである、と説いています。
④ カトリック教会もこの教説を受容しています。第二ヴァチカン公会議後に導入された第四奉献文には、聖変化の直後に「聖なる父よ、私たちは今ここに贖いの記念をともに行って、云々」という祈りがあります。ここで「今ここに」の言葉を入れたのは、時間空間の制約を超えて実際に現存する神の絶対的事実を想起させるためであると思います。本日私たちも、信仰によって幼子イエスが霊的に私たちの心の内にお生まれになり、現存してくださることを堅く信じましょう。12月16日までの待降節はメシアの再臨を待望しつつ救いを願う典礼になっています、と申しましたが、待降節最後の一週間は、同じ救い主の私たちの心の中での霊的誕生のために、心を準備し整えるための典礼と申してもよいと思います。今宵の聖体拝領のとき、聖母マリア、聖ヨゼフと共に神の御子を感謝の心で迎え入れ、慎んで深く礼拝し致しましょう。粗末な私たち各人の心は、いわばその幼子を迎え入れるまぐさ桶のようなものかもしれませんが、救い主はどんな所をも厭わずにお出でくださるのですから。
⑤ 本日の第二朗読では、「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れ出ました」という言葉に続いて、その恵みが私たちにどうするようにと希望し教えているかが、述べられています。そして最後に、「キリストが私たちのために御自身を捧げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」とありますが、主が私たちの中にお生まれ下さったその目的について、少し考えてみましょう。「贖い出す」という言葉は日本人にはなじみ薄い言葉ですが、それは奴隷状態から解放することを意味しています。罪と死の闇の中に生まれ育った私たちは、不安と苦しみの絶えないこの不条理の世にあって嘆くことはあっても、自分が奴隷状態に置かれていることを自覚していません。しかし、神からの啓示によると、これが神が初めに意図された私たちの本来あるべき姿、あるべき状態ではないのです。小さな儚い存在である朝露でも、朝日に照らされるとダイヤモンドのように美しく輝くように、私たち人間の眼も顔も、神の愛を反映して喜びと感謝に美しく輝いているはずなのに、現実がそうでないのは、心の奥底がまだ神に背を向けていて神中心に生きようとしておらず、そこに自我中心主義が居座り続けているからではないでしょうか。
⑥ 神の子は私たちの心を、罪に穢れたその自我への奴隷状態から解放するために、か弱い幼子の姿で私たち各人の心の中に生まれて下さるのだと思います。私たち自身も、救い主の力によって自分の中の古い自我に死に、幼子のように素直な心で神中心に生きる決意を堅めながら、主の御聖体を拝領し、主の御降誕に感謝致しましょう。私たちは今の世の奴隷状態から完全に救い出されてみて初めて、救いとは何か、神が初めに意図された人間とはどういう存在であるのかを、はっきりと知るに至るのです。それまでは幾度神の恵みに浴しても信仰の闇は続くでしょうが、しかし、神の御子はすでにこの闇の世にお出でくださっているのですから、その現存を信じつつ、希望のうちに日々その神の御子と共に生きるよう努めましょう。
⑦ 今宵のミサの福音に登場するベトレヘムの羊飼いたちは、天使から救い主誕生の知らせを受けると、すぐに話し合ってから、急いでお生まれになった神の子を拝みに行きましたが、彼らのその対応について少し考えてみましょう。遊牧民の生活の現場で神の声を聞き、神に希望をかけながら信仰と愛と感謝に生きていた太祖アブラハムたちの時代と違って、社会形態も宗教形態も大きく発展し、人々が皆子供の時から神殿の境内や会堂でファリサイ派の教師たちから律法順守の教育を受け、神殿礼拝や会堂礼拝に参加しながら安息日を厳守しているような時代には、昔ながらのアブラハム的生活を続けていた羊飼いたちは、社会の人々から見下げられ、まだ誰の私有地にもされていない、町や村から離れた草地を経巡りながら羊の群れを世話するという、非常に苦しい生活を営んでいたと思われます。羊の群れは絶えず保護し世話しなければならない生きている財産・生きている生活の糧ですから、その生活の場から遠く離れて会堂礼拝などに参加することはできません。羊を襲う狼や盗人たちも出没していた時ですから、親が干草を集めたり羊毛を売ったりする仕事に忙しい時には、子供も羊の群れを監視してくれる大事な働き手です。羊が一頭迷い出ても病気になっても、貧しい一家にとっては困るのです。子供に宗教教育を受けさせることはできません。あるラビは、「羊飼いほど罪に沈んでいる職業はない。彼らが貧しいのは、律法を守らないからだ」と言ったそうですが、当時の社会形態・宗教形態の下では、律法を守りたくても守れず、ひたすら忍従しながら生きるのが、羊飼いたちの生活実態であったと思われます。
⑧ それだけに、彼らは互いに助け合い励まし合って、日々の生活の場で一心に神による保護と救いを祈り、羊の群れと家族と隣人に対する愛一筋に生きることで、あらゆる苦しみに耐えていたのではないでしょうか。当時の社会の最下層にあって、最も熱心に神による救いを祈り求めていたその羊飼いたちに、神の天使は真っ先に救い主誕生の知らせを告げたのでした。おそらく真夜中ごろの出来事でしょうから、彼らは交互に睡眠をとりながら、共同で羊の群れを守っていたのだと思います。天使と天の大軍による壮大な讃美を目撃した後、彼らは相談し合って、寝ている羊の群れをそのまま交互に監視しながら、交代で生まれたばかりの救い主を拝みに行ったのではないでしょうか。天使から彼らに与えられた「乳飲み子」という印は、同時に神ご自身、救い主ご自身でもありました。彼らは、聖母と聖ヨゼフに次いで、最初にその救い主を、人となられた神をじかに眺めて拝む栄誉に浴した人々であります。彼らは同時に、天の大軍による壮大なクリスマス讃美についての福音を、聖母と聖ヨゼフをはじめ、その後も出会う人々に語り伝えた最初の福音伝道者でもあったと思います。しかし、彼らはその後も会堂礼拝などには参加せず、自分たちの生活の場で一層大きな希望と感謝のうちに神を讃え、神信仰に生き続けていたと思います。これが、神から喜ばれる新約時代の生き方なのではないでしょうか。
⑨ すでに諸外国で問題になっているように、ミサを捧げる司祭数の激減のため、これまでの伝統的教会形態は、将来大きな改変を余儀なくされるかも知れません。しかし、日曜・大祝日などにミサに出席しないからと、その信徒の信仰を疑ったり見下げたりするようなことは固く慎みましょう。何よりも太祖アブラハムのように、自分の生活の場で神の働き、神の導きに心を向け、神と人への奉仕の愛に生きるよう努めましょう。神はベトレヘムの羊飼いたちを介して、私たちにもその生き方を求めておられると思います。

2008年12月21日日曜日

説教集B年: 2005年12月18日、年待降節第4主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ.サムエル下 7: 1~5, 8b~12, 14a, 16. Ⅱ. ローマ 16: 25~27.
Ⅲ. ルカ福音 1: 26~38.

① 本日の第一朗読は、神の助けにより周辺の敵をすべて退けて、平安のうちに王宮に住むようになったダビデ王が、神の臨在する契約の箱が昔ながらの素朴な天幕の中に置かれたままなのを心配し、預言者ナタンに相談した話から始まっています。自分の住む王宮よりも立派な神殿を建立すべきではないのか、と考えたようです。ナタンも同様に考えたのか、王に「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と答えました。するとその夜、ナタンに臨んだ神の言葉が、本日の朗読の後半部分です。神はそこでダビデを「私の僕」と呼び、ダビデとその子孫、ならびにその王国のため、遠大な祝福の約束を披露なさいました。ダビデが死んでもその身から出る「子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。私は彼の父となり、彼は私の子となる」というお言葉は、将来ダビデの家系から世に出ることになるメシアのことを予告していると思います。
② 本日の第一朗読に続く箇所を読んでみますと、ナタンはこれらのお言葉をすべてそのままダビデ王に告げましたが、それを聞いた王は神の御前に進み出て、幾度も神を「主なる神よ」と呼び、自分自身を「僕」と称しながら、長い感謝の祈りを捧げています。そこではもう、神のために神殿を建立しましょうなどという、人間が主導権をとって神のために何かをなそうとするような言葉はなく、ひたすら神の御計画に感謝し、神の御旨に従って従順に生きようとする僕の心だけが輝き出ています。「ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、」「御言葉のとおりになさってください」など、このダビデの祈りに読まれる言葉に接していますと、神を「主」と崇め、自分をその「僕」あるいは「婢」として、万事において主の御旨を尋ね求めつつ、ひたすら主に従って生活しようとするのが、神に最も喜ばれる信仰の生き方であるように思われてきます。聖母マリアも救い主も皆、この生き方の秘訣を心得て、その模範を身を持って世に示しておられます。
③ ついでながら申しますと、西洋的キリスト教はそのままでは日本の人々に適合していないという理由で、日本の精神的風土や文化的特徴などを細かく研究し、現実のキリスト教をもっとその風土や特徴に適合したものに変えることができないものかと、さまざまの理論的試案を出している人たちがいますが、現実のキリスト教の形態がかなり西洋化していることと、それが日本人の精神的文化的傾向と大きく違っていることとは認めますが、しかし、人間が主導権を取って日本的キリスト教の形態を産み出そうとする試みには、私は賛成し兼ねます。まず、今ある現実のキリスト教の中で主キリストと徹底的に一致しようと努め、聖霊の導きに対する心のセンスを磨くことに努めましょう。そうすれば、聖霊が私たち日本人の心の中で働いてくださり、ごく自然に日本的な信仰生活・信心思想がそこから形成されるようになります。そういう日本人の数が増えるなら、それに応じて現実のキリスト教の形態も次第に日本人の精神的文化的特徴に適合したものになって行き、しかもそれは、他国の精神的文化的特徴ともバランスよく共存して、人類全体・神の民全体の一致共存にも大きく貢献するようなものになると信じます。これが、「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ 17: 21)と祈られた、主の聖心に適う信仰生活であると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や」「信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」と書いていますが、「信仰による従順に導くため」という言葉に注目したいと思います。それは人間たちには知り得ない、神の内に深く隠されている御計画を、神がその僕・婢となって生きようとしている人たちに次々と逐一啓示しながら、今や全人類を救いに導きつつあることを指しており、救いに招かれている人たちには、神よりの恵みを自主的に利用しながら生きようとする生き方を脱皮し、むしろ神の僕・婢となって信仰による従順に生きるよう導いていることを意味していると思います。
⑤ パウロはその書簡の挨拶文を通常祈りの形で書いており、また度々送り先の信徒団のために祈っていることを伝えていますが、テサロニケ第一書簡の末尾には、珍しく「兄弟の皆さん、私たちのためにも祈ってください」と願っています。信仰に生きている人たちに祈ってもらう必要性を痛感していた時に書いた書簡だったのかも知れませんが、しかし、神の僕・婢として生きている人たちは、口には出さなくても、自分の人間的弱さを痛感させられて不安になり、自分でも一心に祈りますが、同時に他の人たちにも祈りを願いたい気持ちになることが少なくないのではないでしょうか。ゲッセマネで弟子たちに祈るようお命じになった時の主の御心境も、同様だったかも知れません。すべてを自分で計画し、自分にできる範囲で神のために働こうとしている人は、予想外の事態にでも直面しないかぎり、不安を痛感するようなことは少ないでしょうが、神の僕・婢として生きようとしている人は、自分でまだ全容を知らない神の御計画に従って生きよう、働こうとしているのですし、悪魔の攻撃に悩まされることもあるようですから、多くの不安や自分の心の弱さと戦いながら、ひたすら神の御力に頼って生き抜くことを、覚悟していなければならないように思います。しかし、神は多くの人の救いのために、そのような器の人、信仰の不安の中に逞しく生きる人を切に求めておられるのではないでしょうか。そういう人の中でこそ、神は豊かな実を結ばせることがおできになるのでしょうから。
⑥ 本日の福音に登場するヨゼフの婚約者マリアは、察するに全く一人で自分の部屋で祈っていた時に、突然どこからともなく入って来た男の姿の天使から挨拶され、非常に驚いたと思います。しかし、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活することを身につけておられたのか、マリアは驚くほど冷静に対応しておられます。本日ここで朗読された邦訳聖書では、「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」と天使に答えていますが、この言い方では、天使を介して伝えられた神の子出産という素晴らしい神の御計画に対して少し距離を置き、神の御計画に多少の戸惑いを感じているような印象を与えます。英訳も同様の印象を与えますが、そのせいか、私が神学生時代に読んだある著書の中でアメリカの神学者フルトン・シーン神父は、マリアのこの質問から、マリアは終生処女として生きようと決心していたのではないかと推察していました。しかし、ギリシャ語原文では「どのようにしてそうなるのでしょうか。私は男を知りません」となっていて、これは神の子を産む精子をどこから受けるのでしょうか、と質問した意味になっています。これが正しい訳ではないでしょうか。天使はその質問に答えて、「聖霊があなたの上に来て、いと高き方の力があなたをおおうでしょう」と説明していますから。
⑦ 全く思いもよらない大きな神秘を啓示されて、マリアの心はすぐにはその全体像を理解できなかっでしょうが、しかし理解できなくても、それが神の御計画、神の御旨と確信したので、すぐに「私は主の婢です。お言葉どおり、この身に成りますように」と承諾したのだと思います。日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けて生活しておられたから、冷静にまたごく自然に、この承諾の言葉を話すことができたのではないでしょうか。私たちも、ファリサイ派の人たちのように自力で神のために何かを成そうとするのではなく、聖母マリアの模範に倣って、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活するよう心がけましょう。この実践に努めていますと、神の霊の導きに対する心のセンスも次第に磨かれてきます。その恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2008年12月14日日曜日

説教集B年: 2005年12月11日、年待降節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 61: 1~2a, 10~11. Ⅱ. テサロニケ前 5: 16~24.
 Ⅲ. ヨハネ福音 1: 6~8, 19~28.
① 待降節の第三主日は、フィリピ書4章4~5節の引用であるラテン語の入祭唱が ”Laetare (喜べ)” という言葉で始まっていて、昔からよく「 Laetare (喜べ) の日曜日」と言われて来ました。すでに待降節の務めも半分が過ぎて、嬉しい降誕祭が間近になったからでもありました。本日の第一朗読にも、「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る」という第三イザヤの言葉があり、第二朗読の始めにも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。云々」という使徒パウロの強い勧めがあります。神の全能に対する私たちの信仰と信頼を、日々感謝のうちに喜んで祈り生活することにより、実践的に表明するよう努めましょう。このような信仰と信頼の喜びがある所に、神も生き生きと働いて下さいます。
② 使徒パウロが第二朗読で「いつも喜んでいなさい。云々」と書いたのは、そのテサロニケ前書5章の前半に、夜の盗人のようにして突然にやって来る主の再臨の日に備えて目覚めているようにと説いた後の言葉ですから、「喜んでいなさい」という勧めにも、主の再臨を待望しながら、という意味が込められていると思われます。それに続く「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」という勧めも大切だと思います。救い主再臨の日は、察するにノアの日のように、多くの人が日々溢れるほどの快楽や遊びに囚われて神を忘れ無視している時代に、しかも社会的には極度に多様化と多元化が進展して、もはや誰一人その道義の乱れを取り締まることができないほど、内的精神的には暗いお手上げの状態になっている時に、大災害が突然に襲うようにして来るのではないでしょうか。そういう内的暗闇の時代には、人間理性で事態を理知的に分析して問題解決策を模索するよりも、私たちの心の奥底に与えられている神の霊の火を何よりも大切にし、神の預言、すなわち神からの呼びかけの声に従おうとすることが、大事になると思います。
③ 私が神学生であった時に聞いた話によると、ある聖人は「世の終りは非常に温かくなった夜が、急に冷える時に来る」と予言したそうですが、近年の世界の経済的豊かさとその反面の道義的乱れの深刻さなどを考慮しますと、これがその聖人の言った「非常に温かい夜」の到来ではないか、などと思うことがあります。しかし、終末的状況はこれまでにも人類史上に幾度も発生していますから、現代の状況もその一つで、主の再臨はまだ遠い将来なのかも知れません。でも、主は「その日は罠のように地の表に住む全て人に臨むから、いつも目覚めていなさい」(ルカ 21: 35,36) と命じておられるのですから、待降節にあたり、主がいつ来臨なされてもよいよう心の準備を整えていましょう。
④ いずれにしろ、パウロは本日の朗読の中でそういう時代に生きる信徒たちのためにも、「平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように」と祈った後に、「あなた方の霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、云々」と祈りを続けています。以前にも話したことですが、ここで「霊も魂も体も」と、パウロが神中心に生きる聖なる人間、完全な人間を、霊と魂と体という三つの要素から構成されているように述べていることも、大切だと思います。自分の死が近い時や主の再臨が近いと思われる時には、日ごろ心の奥底に隠れている霊に主導権を執って戴き、霊の導きに従おうと努めるのが、弱い私たちに各種の困難に耐える力を与える賢明な生き方なのではないでしょうか。使徒パウロによると、私たち各人は皆「聖霊の神殿」なのですから。
⑤ 本日の福音には「彼は証しをするために来た」という言葉が読まれますが、ヨハネ福音書に描かれている洗礼者ヨハネは、神の子メシアを世の人々に証しするという自分の受けた使命のために、自分の人生の全てを捧げ尽くしていると思います。私たちも、自分の受けた修道者としての使命のために、これほど徹底的に自分を無にし、神の子メシアに捧げ尽くすことができたらよいと、うらやましく思うほどです。本日の福音に登場するエルサレムからの二つの使節団のうち、最初のものは祭司やレビ人たちから派遣された人たち、第二のものは、その人たちとは思想的に対立することの多かったファリサイ派に属する人たちです。これら二つの使節団がほとんど同時に荒れ野の洗礼者ヨハネの所に派遣されて来たことから察しますと、春の祝祭などでエルサレムに来る巡礼者たちの中に、ヨルダン川でヨハネから受洗した人たちが多く、エリヤ預言者のようにラクダの毛衣をまとい、腰に皮の帯を締めているヨハネを、民衆は神から派遣が約束されている預言者ではないかと考え始め、それが大きな話題になっていたのだと思われます。
⑥ 最初の使節団は、洗礼者ヨハネに対して三つの質問をします。「あなたはどなたですか」「エリヤですか」「預言者ですか」と。最初の質問に「私はメシアではない」と答えたヨハネは、その後の質問に対しても、ただ「ノー」と答えるだけで、自分がどういう人間であるかを明示しようとはしません。察するに、人間を社会的業績や権威者から受けた任命書や推薦状などにより、自分たちの味方か敵かと考えたり、受け入れるか否かを決めたり勝ちであった当時のユダヤ教指導者たちに、そんなこの世の判断基準から抜け出て、何よりも神秘な神からの直接的呼びかけに各人の心を目覚めさせるため、ヨハネはこのような答え方をしたのではないでしょうか。
⑦ 私たちも、この世の人たちの考え方や価値観に宗教を迎合させ過ぎないよう心がけましょう。神からの啓示を理知的な現代人に受け入れさせようとして、あまりにも平易に解り易く説明しよう、あるいはこの世の文化に適合させて説明しようとすると、その啓示の中核をなす理解し難い神秘や、人間に従順を迫る威厳に満ちた神の権威などが皆抜け落ち、魅力のない形骸や誤解され易い教えになってしまう虞があります。自分中心の考え方から脱皮できずにいる人たちには、むしろ「ノー」の返答を繰り返して撥ね付ける方が、却って相手のうちに理知的考えから抜け出て求める心を目覚めさせ、真の悟りへと導くのではないでしょうか。10年ほど前のことだったでしょうか、知人の大江真道牧師がこんな話を書いているのを読んだことがあります。教会堂の上に掲げてある十字架を指して「あれは何の印」と尋ねた現代の若者に、「ノーという印だよ」と答えたら、その関心を引いたそうです。誰にも解るように十字架の印の意味を説明するよりも、世俗の生き方を拒む「ノーの印」と答える方が、その人に理知的生き方の限界を自覚させ、神を信じ神に徹底的に従おうとする生き方の魅力を、感じさせるのではないでしょうか。
⑧ 最初の使節団が、「私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と言って尋ねると、ヨハネは漸くイザヤ預言者の言葉を引用し、「私は『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である」と、神の深い神秘を感じさせるような返答を与えています。しかし、これは同時に己を無にして神の働きに徹底的に従順であろうと努めていた、洗礼者ヨハネの実践的自己認識だったのではないでしょうか。リジューの聖女テレジアはその自叙伝に、「私は幼きイエスの手まりです」と書いたことがありますが、私たちの心も神の御前で、何かこのような謙虚な実践的自己認識を持った方がよいのではないでしょうか。
⑨ ヨハネが第一の使節団に与えた答えをその場で聞いていた、ファリサイ派に属する第二の使節団は、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか」と尋ねました。ヨハネはそれに対しても、頭で解るような理知的理由を挙げて説明しようとはせず、むしろ既に来て人々の間に隠れておられる神よりの人メシアに、また各人の身近での神の働きに、人々の心の眼を向けさせようとします。そして自分は「その方 (すなわちメシア) の履物の紐を解く資格もない」、その方に奴隷として奉仕する資格もない人間であると、再び一層深い神秘を感じさせる返事をしています。日ごろとかく目に見える法規や理知的利害に心を向けて生活し勝ちな私たちですが、待降節は、身近な小さな事・弱い人・苦しむ人などの中に隠れて、今も私たちの間に現存しておられる神の子、主キリストに対する心の眼を磨くべき時なのではないでしょうか。主に対する心の眼を磨く恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。

2008年12月7日日曜日

説教集B年: 2005年12月4日、年待降節第2主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 40: 1~5, 9~11.  Ⅱ. ペトロ後 3: 8~14.
 Ⅲ. マルコ福音 1: 1~8.

① 本日の第一朗読は第二イザヤ書 (イザヤ40~55章) の序曲とも言うべきもので、旧約聖書の中でも最も喜ばしい知らせを告げている箇所の一つであります。ミサ聖祭がラテン語で捧げられていた昔には、クリスマス前の九日間に毎晩 Consolamini, consolamini (慰めよ、慰めよ) という神よりの喜ばしい言葉が、美しいグレゴリアン聖歌のメロディーで歌われていましたが、その歌詞が本日の朗読箇所からのものです。聖歌隊の中でも最も声の良い一人が神に代って独唱するその懐かしい聖歌を聴くと、いよいよ降誕祭が始まる、という嬉しい雰囲気が聖堂内に溢れるのを覚えたものでしたが、今でもヨーロッパの古い修道院などでは、この聖歌が歌われていると思います。わが国の教会や修道院などで、グレゴリアン聖歌がほとんど歌われなくなっているのは、昔を知る者たちにとり残念でなりません。
② さて約半世紀のバビロン捕囚時代の終りごろ、神は預言者を介して言われた。「苦役の時は今や満ち、彼女 (神の民) の咎は償われた」「罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた」と。そして「主のために荒れ野に道を備え、……険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。云々」と。神は更に、民にこの良い知らせを伝える者に次のように命じる。「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。云々」と。これらの力強い言葉は、いずれも既に数十年間異国の地で苦しい捕囚生活をさせられている神の民に、神による解放と新たな自由独立への希望を告げていますが、ここで「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」と、神に眼を向けさせようとする言葉に注目したいです。この世の現実だけに眼を向けていては、全てはまだ強大なバビロニア軍の支配下にあり、神の民の自由独立などという話は、現実離れの夢でしかないでしょうが、今主なる神にひたすらに信仰と信頼の眼を向けて揺るがないなら、その神の力が働いて下さるという意味なのではないでしょうか。信仰のある所に、神が来て下さるのですから。民が牧者のいない羊の群れのように、狼や猛獣に襲われ易い弱い集団であっても、本日の朗読の最後にあるように、神が羊飼いとなってその群れを養い、御腕をもって集め、小羊はふところに抱き、その母を導いて一緒に進んで行かれるのです。私たちも、今の世界が各種のテロ組織や巧みな詐欺・横領・窃盗などの横行でどれ程かく乱されようとも、目に見える現実だけに囚われずに、いつも神に心の眼を向けているなら、神の救う力が働いて下さるのを見るのではないでしょうか。
③ 第二朗読のペトロ後書については、ペトロ前書についてと同様、それが果たして使徒ペトロが書いた書簡なのか、またペトロの殉教後のおそらく1世紀末か2世紀初め頃に書かれたものではないのか、などという議論が聖書学者たちの間でなされていますが、ここではそういう問題に立ち入らずに、カトリック教会の古い伝統のまま一応使徒ペトロの書簡として、その記述内容から学ぶことに致しましょう。第二朗読は主の再臨の約束について述べていますが、それは、そのすぐ前の文脈を調べてみますと、「主の来臨の約束はどうなったのか。……全ては創造の初めからそのまま存続しているではないか」などと、主の再臨も世の終りも来ないのではないか、と言う人たちがいたからだと思います。
④ それでペトロはまず、「主の許では一日は千年のようで、千年は一日のようです」と、人間の一日と神の一日とは根本的に違っていることを説いた上で、神はなるべく皆が悔い改めるようにと、人間たちのために忍耐して、世の終りの到来を押し留めておられるのだと考えています。しかし、天が焼け崩れ、天体が火に包まれて溶け去る世の終りの来ることは決まっており、その日は盗人のようにして突然到来するので、その日にしみや傷のない者として、平和に過ごしているのを神に見出して戴けるよう励むことを勧めています。また私たちは神の約束に従って、今の世の全てのものが滅び去っても、義の宿る新しい天と新しい地に生きるようになることを待ち望んでいる、とも述べています。ということは、今の世の崩壊は神中心に生きようとしている人たちにとっては決して悲しむべきことではなくて、新しい遥かに素晴らしい世の始まりを意味しており、私たちはその日を待望しているのだ、ということだと思います。
⑤ 第二ヴァチカン公会議後の典礼改革により、待降節は12月16日までの期間と17日からクリスマスまでの期間との二つに区分され、前の期間には主の再臨を待望し、降誕祭直前の期間にはこの世への救い主の誕生を待望しつつ信仰に生きた昔の人々を記念し、その待望の熱心を祈りの内に追体験することになりました。主の再臨と聞くと、世の終りの恐ろしい大災害や最後の公審判のことだけ考えて、主の再臨を待望することにあまり意欲も喜びも感じないという人がいるようですが、主は世の終り前に激しくなる各種の社会的乱れや災害などに苦しみ悩む人々を救うために、救い主としてお出で下さるのです。主の再臨によって古い苦しみの世は消え失せ、遥かに美しい新しい世が始まるのです。待降節の前半は、その救い主の来臨を切に願い求め、待望する時だと思います。受精している鶏の卵は、3週間親鳥に温められると割れてひよこになりますが、新しい命は卵の中にいる間は将来のことは何一つ判らず、ただ信頼してひたすら成長するだけであると思われます。私たちも、今の世が将来どうなるかということは全く判らず、ある意味では卵の中のひよこのようですが、主のお言葉に信頼して大きな希望のうちに、救い主の再臨と新しい世界の始まりとを待っていましょう。この世のどんな混乱も災害も、この信頼と希望があれば耐え抜くことができます。
⑥ 本日の福音を記したマルコは、その福音書を預言書の引用から書き始めていますが、それは洗礼者ヨハネがその派遣が神から約束されていた神よりの人であることを示すためであると思います。ヨハネも、列王記下の1章に描かれているエリヤ預言者と同様に、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めて、悔い改めの必要性を力説し、悔い改めの洗礼を授けていました。悔い改めは、ヘブライ語では神に顔を向けることを意味している言葉だそうで、その意味では単に何かの原則や法規に背いた言行を反省して、後悔したり改心したりすることではなく、何よりも神に心の眼を向け、神よりのものを受け入れ、それに従って生きようとする「回心」を意味しているようです。洗礼者ヨハネ自身、己を無となしてひたすら神よりの声に聞き従おうとしていたのではないでしょうか。自分よりも後に来られるメシアについて、「私はかがんでその方の履物の紐を解く値打ちもない」と語った言葉は、その心を示しています。ヨハネが水で授けた洗礼も、神の子の新しい命や力を与える洗礼ではなく、己を無にして神に心の眼を向け、神よりのものを受け入れ、それに従って生きようとする決心を固めさせる「回心」の洗礼であります。この洗礼は、神の子メシアがお授けになる洗礼、神の愛の火・聖霊を与える洗礼の恵みを効果的に受け、その恵みに生かされるための前提であり、既にメシアの洗礼を受けている私たちの内に聖霊の恵みが働くためにも必要なものだと思います。神の導きと働きに対する心のセンスを磨く絶えざる回心のため、決心を新たにして祈りましょう。