2009年1月25日日曜日

説教集B年: 2006年1月22日、年間第3主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヨナ 3: 1~5, 10. Ⅱ. コリント前 7: 29~31.
Ⅲ. マルコ福音 1: 14~20.
① 本日の第一朗読であるヨナの預言書については、そこに描かれている話は歴史的事実ではなく、単なる作り話ではないのか、と考える人が多いと思います。当然だと思います。大きな魚の腹に三日間入れられてから吐き出されただの、ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかっただの、国王が人にも家畜にも食べること飲むことを禁じた、などの事実とは思われないことが幾つも書かれているのですから。しかし、主イエスはマタイ12章やルカ11章などに、「ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」だの、「ここに、ヨナに勝るものがある」などと、ヨナの話が単なる作り話ではないかのように話しておられますし、カトリック教会の伝統も主のこのお言葉を重視しているようですので、聖書の他の箇所にも幾つかのとんでもない誇張や誤りがあるように、ヨナ書にもそのような人間的不完全があることを容認した上で、ここではヨナが大きな魚の腹に三日間入っていた奇跡を含めて、ヨナが実際にニネベで説教し、ニネベの人たちが改心して天罰を免れたことを、一応事実として信じる立場で、聖書を受け止めたいと思います。
② 私たちが神の大いなる御業や御威光に触れる道は、二つあると思います。一つは神の怒りにおいて、もう一つは神の救いにおいてです。神の恐ろしい怒りを体験したヨナの心は、神による全く奇跡的救いを体験して、どんな困難や迫害も恐れずにニネベで説教する気になったのではないでしょうか。ニネベの都では神の言葉に従って大胆に、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫び続けました。人々がそれを信じても信じなくても、それは彼にとって問題ではなかったと思います。ただ神の語られた言葉を、そのまま住民に伝えようとしていたのではないでしょうか。私たちはよく結果を問題にし、こんなことを話したら、人々からどう思われるだろうかなどと心配し勝ちですが、一番大切なことは神の言葉に従う実践であって、その行為の結果ではないと思います。神がその行為の結果について責任を負って下さるのですから。ヨナの説教を聞いたニネベの人たちは、国王をはじめとして皆改心に励み、ヨナの告げた天罰を回避することができたようですが、その時ヨナはすでにニネベにはおらず、人々から感謝されることも、あるいは逆に「お前はでたらめを言いふらしたのではないか」などと、疑われることもなかったと思われます。
③ 本日の第二朗読の出典であるコリント前書7章は、新約聖書の中で最も詳しく結婚問題について扱っていますが、パウロはその中で、信仰に生きる人たちの結婚不解消については主の命令として強調しています。しかし、信仰をもっていない配偶者が信者との離婚を望むなら、離れて行くままにさせなさいと勧め、これは「主ではなく、私が言います」と、このような場合の離婚を認めています。また結婚者は「結婚のきずなによって奴隷として縛られているのではありません」と書き、信仰者は主によって代価を払って買い取られたキリストの奴隷ですから、「人間の奴隷となってはいけません」などとも書いて、結婚したい人は結婚してよいですが、結婚のきずなをキリストとの一致のきずな以上のものに絶対化しないよう警告しています。パウロはその後で、ただ今ここで朗読された言葉を書いているのです。これらの言葉から察すると、独身者であるパウロは、結婚生活の価値をあまり高く評価していないような印象を受けます。
④ しかし私は、結婚生活は確かにこの世に生きている間だけの過ぎ去る生活形態ですが、利己的に生まれついている人間の心に献身的奉仕の愛を目覚めさせ、逞しく成熟させる一つの真に貴重な手段であると思い、結婚生活を高く評価しています。主キリストもご自身を「花婿」と称して、私たち救いの恵みに浴している人類から「花嫁」としての献身的愛を期待しておられるのではないでしょうか。独身の生き方を選んでいる私たち修道者も、日々の茶飯事の中で主キリストに対する細やかな愛と配慮を表明することに、結婚者に負けないよう励みましょう。申命記6章には、「あなたは心をこめ、魂をこめ、力を尽くしてあなたの神を愛せよ」「家にいる時も、道を歩く時も、寝る時も、起きている時もこれについて語れ」という神の命令が読まれます。神は私たちから、そのような絶えざる愛の表明を求めておられるのではないでしょうか。使徒パウロもエフェソ5章では、「教会がキリストに仕えるように、妻も夫に仕えるべきです」などと、キリストと教会との関係を夫婦の関係になぞらえて、夫も自分の体のように妻を愛すべきことを強調していますが、パウロもやはり、夫婦の愛の関係を、主に対する愛の観点から高く評価しているのだと思います。
⑤ 本日の福音は、ガリラヤでの主の神の国宣教と最初の弟子4人の召し出しについての話ですが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は、主の宣教内容を最も短く要約していると思います。以前にも皆さんに話したことですが、「時は満ち」という言葉は、単に神があらかじめ予定しておられた時が来たという意味だけではなく、この世の人類社会も満ち潮の時の砂浜海岸のように流動化して、人々がそれまで定着していた伝統的価値観や上下関係などから自由になって、新しく考え、新しく生き始めることができるようになっていることも意味していると思います。また「悔い改める」という言葉は、何か自分が人々に対してなした悪い行為、あるいは自分の欠点などを反省して改めようとすることではなく、もっと根本的に自分の心構えや生き方を変革すること、特に神の国が近づいたという神による新しい事態に適切に対応するよう、自分の心を準備し整えることを意味していると思います。人類社会の流動化は、今日では2千年前のキリスト時代に比べて遥かに大規模に進行しており、各種の社会的伝統もその拘束力を失って、内面から崩壊しつつあります。「時は満ちた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の呼びかけを、現代の私たちは2千年前の人たち以上に真摯に受け止め、神の国に対する自分の命をかけた受け入れ態勢の実践的確立に努めるべきなのではないでしょうか。
⑥ シモン・ペトロとその弟アンデレ、ならびに彼らの漁師仲間ヤコブとヨハネの兄弟は、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の招きを受けると、すぐに主の御後について行きました。ペトロとアンデレについては、「網を捨てて従った」と邦訳されていますが、網を放棄してしまったのではなく、のちにもその網を使って漁をしていますから、「網をそこに置いて」とか「そこに残して」と訳すべき言葉だと思います。原文では同じ動詞なのに、ヤコブとヨハネの場合には「舟に残して」と訳し変えています。この後者の訳の方が適切だと思います。現代の私たちに対しても、主は思わぬ時全く唐突に、困っている人や苦しんでいる人を介して何かをお求めになることがあります。そのような時、私たちは自分の今なしている仕事をそこに置いて、すぐに主のお求めに従うことができるでしょうか。何をなす時も、内的にはいつも主の御前に、時々主の方に心を向けながらなすように心がけましょう。自分の夫を深く愛している妻は、いつもそのような心で家事にいそしんでいると思います。私たちも、それに負けないよう努めましょう。なお、毎年1月18日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。全世界の教会はキリスト者の一致のために祈りを捧げており、私たちもこの一週間、毎日そのために祈っていますが、本日のミサは、例年のようにすべてのキリスト者の一致のため、神に照らしと導きの恵みを祈りつつお捧げしたいと思います。一緒に祈りましょう。ご協力をお願い致します。

2009年1月4日日曜日

説教集B年: 2006年1月8日、主の公現 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
 Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.

① イザヤ書の56章から最後の66章までは、エルサレムに帰国した民に向かって語った第三イザヤの預言とされていますが、第二イザヤの預言に励まされ、大きな夢と希望を抱いてバビロンから帰国した神の民は、エルサレムの荒廃のひどさに極度の落胆を覚えたと思われます。それに対して第三イザヤは、本日の第一朗読に読まれるように、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と、今は荒廃しているその地に神の民を照らす主の栄光が輝き出ると、多くの国民がエルサレム目指してやって来るようになるという、遠い将来を予見した預言を語り、神の民を励ましています。
② この預言は、2千年前のアウグストゥス皇帝の時代にシルクロード貿易が盛んになると実現しており、ある意味では現代にも現実となっている、と言うことができましょう。預言の言葉は、東方の博士たちの来訪のことだけを念頭に置いて大げさに表現したものではなく、キリスト時代のエルサレムとその神殿の繁栄ぶりを、予告したものではないかと思います。当時は遠いアジア諸国とオリエント諸国との間にらくだの隊商が往復しており、それらの国際的貿易商たちは、ギリシャの天才的建築師ニカノールによって見事に増改築されたエルサレム神殿にも、大勢拝みに来ていたのですから。本日の第一朗読の後で歌われた答唱詩篇には、「タルシスと島々の王は贈り物を、シバとセバの王はみつぎを納める」という、詩篇72番から引用された句がありますが、これはソロモン王の時代のエルサレムの繁栄ぶりを讃えた言葉で、タルシスはその頃フェニキア人の商船がツロの港から往来しいた一番遠い国、今のスペインの南端辺りの国を指しており、シバは「シバの女王」が支配していたアラビア半島南西部の国を指しています。そしてセバは、そのシバの西南、紅海の海峡を挟んで西側にあった国と聞いています。いずれもソロモンの時代に国際貿易によって豊かになっていた国ですが、キリスト時代には、海路によって結ばれていた地中海沿岸諸国の富だけではなく、陸路によって結ばれたインドや西アジア諸国の富までも、国際貿易商を介して流入したのですから、エルサレムとその神殿の繁栄ぶりは見事なものであったと思われます。
③ 本日の第二朗読の中で「秘められた計画」と言われているのは、キリストの受肉・受難死・復活によって成し遂げられた救いの御業全体を指していると思いますが、中でも使徒パウロが書いているように、「異邦人が福音によりキリスト・イエスにおいて、(神から) 約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となること」は、それまでの神の民にとっては誰一人想像することもできないほど、驚天動地の驚きと新しさを感じさせる神の御業だったと思われます。神はその救いの御業を、今や聖霊によって使徒たちや預言者たちに啓示し悟らせつつ、実際に全人類の上に広め定着させつつあるのです。現代の私たちも、民族や文化の違いを超えて、すなわちある意味では自分の民族や文化の限界から抜け出て、太祖アブラハムをはじめ多くの預言者たちを介してなされた神からの約束を素直に受け継ぎ、キリストの一つの体、一つの命に参与する細胞となるよう心がけましょう。各人の受け継いでいる相異なる諸民族の血液や諸文化の伝統は、この一つの共同の命の中で互いに一層親密に出会うようになり、切磋琢磨しながら神によって磨かれ、無数の美しい花を咲かせ、神を讃美するようになるのではないでしょうか。
④ 本日の福音の始めには「ヘロデ王の時代に」とありますが、それは大規模な国際的経済発展の中で、それまでの時代の社会的伝統や仕来たりなどが時代遅れの束縛と見做されて、守られなくなっていた一つの大きな過渡期を指しています。ですから、伝統的社会秩序がよく保たれていた通常の平穏な時代でしたら、とてもユダヤ人の王などには成れないイドゥマイヤ人のヘロデが、巧みにローマの権力者たちに取り入って、ローマ軍に征服されたユダヤの国王になったばかりでなく、数々の新しい経済政策によって大いに儲け、エルサレム神殿を美しく増改築したり、各地に大きな施設や宮殿などを建築したりして、ユダヤ人たちからも「大王」と呼ばれたほど、大きな繁栄をユダヤ社会にもたらすことができたのです。
⑤ 私たちの生きている現代世界も、ある意味ではよく似た過渡期の繁栄を謳歌しているのではないでしょうか。科学文明の極度の発達で生活が便利で豊かになったのは結構ですが、能力主義・個人主義の普及でそれまでの各種共同体の連帯精神も統制力も崩壊しつつあるのに、人類が新しい事態に見合った強力な統合精神を生み出せずにいるため、ただ外的に一つの巨大なマンモス家族、グローバル世界になりつつあるだけで、その陰には無数の貧困に苦しむ人たちも産み出されつつあり、家庭も国家も統制力を大きく失って、人間は皆砂漠の砂粒のようにバラバラになって来ているようにも見えます。多くの若者たちは、日々人間たちの造り出す仮想の現実を真の現実と思いこみ、浮き草のようにその流れに疲れた身を委ね勝ちですが、テレビ・ラジオ・新聞などを介して伝えられる情報は皆、今目立っている現実の一面を示しているだけで、多面的な現実そのものではありません。ですから、ちょうど天気予報と異なる気象異変がしばしば発生するように、いつその情報と異なる事態が発生するか分からないという不安を、いつもその中に秘めています。このことを心に銘記し、磐のような神の存在にしっかりと根ざした信仰の内に、主体的に生きるよう努めましょう。砂粒のようにバラバラになっている人々の心にマスコミが日々提供する大量の新しい水が浸透すると、場合によっては長年安定していた人と人との結びつきも流動化し、そこに群発地震のようなものが発生すると、その上に建つ組織はひび割れや倒壊の危険にさらされると思います。このような時代における世渡りには、神との心の結束が何よりも大切ではないでしょうか。
⑥ 本日の福音の中心をなしているのは、ヘロデ王でも東方の博士たちでもなく、この世に来臨した神の子メシアです。このメシアの来臨が、ヘロデ王のようなこの世の富や権力の獲得保持を第一にして生きている人間には、心に深刻な不安を与えるのであり、その支配下にあって何とか旨い汁を吸いながら生きていたユダヤ教の指導者たちは、ヘロデ王の怒りや嫌疑を買うことのないようにと、生まれたばかりのメシアには無関心を装います。しかし、そういうこの世の流れからは自由になって、ひたすら人類の救い主を待望し、メシア中心に生きようとしていた人たちは、東方の博士たちのように、あるいはマリアとヨゼフ、ベトレヘムの羊飼いたちや老シメオンたちのように、幼子のメシアに会って心が大きな喜びに満たされ、恵みから恵みへと導かれ高められて行きます。しかし、この生き方にも不安がないわけではありません。ヘロデ王のような人間は、自分の利害のためには東方の博士たちのような善人をも巧みに利用しようとしたり、あるいは罪のない幼子たちを残酷に殺害することも厭わないからです。でも、神の導きを祈り求めつつその導きに従おうと努めているなら、神はヘロデ王やユダヤ教指導者のような人たちをも使って、神による救いの御業が実現する方へと導いてくださいます。場合によっては、博士たちや聖家族たちが体験したように、夢で知らせを与えて様々な危険から救い出してくださいます。
⑦ 本日の福音に登場しているヘロデ王、ユダヤ教指導者たち、東方の博士たちの三種類の人々のうち、私たちはどのグループに属しているでしょうか。もし第三の博士たちのグループに属しているなら、騒々しい現代世界の中でも人々の心に語りかけて止まない神の神秘な導きを鋭敏に受け止め、それに聞き従うことができるよう、日々信仰と愛のセンスを磨いていましょう。多くの聖人たちの実例から明らかなように、神は信仰のセンスを磨いている人の心には確かに呼びかけ、その人を導いてくださいますから。

2009年1月1日木曜日

説教集B年: 2006年1月1日、神の母聖マリアの祭日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
 Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

① 皆様、新年おめでとうございます。元日に清さを尊ぶのはわが国の尊い慣習ですが、しかし、神が何よりも望んでおられるのは、私たちの内的聖(きよ)さだと思います。この世の真・善・美という価値観とは違って、それは神の愛に美しく輝いているあの世的聖さを指していると思います。ミサの中で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を讃えるとき、私たちは神の愛のその美しい輝きと聖さを讃美し、崇め尊ぶのではないでしょうか。私たちの人生も神の恵みによってそのような内的聖さに輝くものとなるよう願いつつ、神に対する希望と信頼のうちに、本日のミサをお捧げ致しましょう。
② 聖母マリアを「神の母」として崇め、その取次ぎや御保護を願って神に祈ることは、古代ローマ帝国によるキリスト者迫害が激しくなった3世紀の末か、遅くとも4世紀初頭のディオクレチアヌス帝による迫害の頃から広まっており、キリスト者たちがその時ギリシャ語やラテン語で唱えていた短い祈りは、その後の教会にも受け継がれていて、カトリック中央協議会編集の『公教会祈祷文』にも入っています。近年はあまり唱えられなくなっているようですが、私が学生であったときにはよく唱えていましたので、皆様もご存じだと思います。文語体の終業の祈です。「天主の聖母の御保護によりすがり奉る。いと尊く祝せられ給う童貞、必要なる時に呼ばわるを軽んじ給わず、かえってすべての危うきより、常にわれらを救い給え。アーメン」と邦訳されています。
③ どれ程多くの人が、この祈りを唱えることによって神による助けを体験したか分かりません。その感謝のためなのか、ローマ中心部のフォーロ・ロマーノの一角に迫害後に建てられた小聖堂の跡地には、昔この祈りが刻まれた石壁も残っていました。しかし、キリスト教迫害が終わって信仰の教理を人間理性で合理的に解説しようとしたアリウス派の人たちが、「マリアは人間イエスの母ではあるが、神の母ではない。神の母と呼んではならない」などと言い出したら、多くの信徒が強く反対し、431年にエフェソの聖母聖堂で開催されたエフェソ公会議により、聖母を「神の母」と宣言する教義が確立されました。マリアは神を産んだのではありませんが、イエスは人間であると同時に神であり、母子関係はパーソン同志の関係なので、「神の母」として崇めることもできるからです。本日の第二朗読で使徒パウロは、神がその御子を女から生まれた者としてお遣わしになったのは、「私たちを神の子となさるためでした。あなた方が (神の) 子であることは、神がアッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実から分かります」と述べていますが、天の御父が、マリアからお生まれになった神人キリストの霊的いのちに私たちが参与して、神を「父よ」と呼ぶ神の子になることをお望みなのなら、同じ主キリストとの生命的一致のうちに、マリアを私たちの母として崇め尊ぶこともお望みなのではないでしょうか。
④ 事実、そのように受け止めて聖母崇敬に努めてみますと、不思議に神の御保護や助けと思われることを数多く体験するようになります。これは単に今の時代に始まったことではなく、4世紀以来それを証ししている例が歴史上に数多く残っており、聖母に対する感謝の心で建立された聖堂や巡礼所、ならびに聖母の祝日も、古代・中世を通じて現代に至るまで数多く残っています。それで、プロテスタントにも賛同し易いようにと、最初の草案を大きく書き改めた第二ヴァチカン公会議の教会憲章第8章にも、二度も「カトリック」という言葉を「カトリックの諸学派」、「カトリックの教理」という形で使いながら、「真の信仰は神の母の卓越性を認めるように我々を導き、我らの母を子どもとして愛し、母の徳を模倣するように我々を励ますのである」などと、伝統的聖母崇敬が細かく擁護されています。
⑤ 本日の福音は羊飼いたちの幼子イエス礼拝の話ですが、これについては昨年も、また一週間前にも皆様と一緒に黙想しましたので、本日は、第二ヴァチカン公会議後の1968年の新年に教皇パウロ6世が全世界で平和のために祈ることを呼びかけた時以来、カトリック教会で元日が「世界平和の日」とされていることに思いを馳せ、現代世界の平和を脅かしている諸原因のうち、一番深く隠れている基本的精神態度について、ご一緒に考えてみたいと思います。ご存じかも知れませんが、現教皇は昨年の4月に教皇に選出される直前の、まだ枢機卿であられた4月1日にスビアコの聖スコラスティカ修道院で、現代の西洋文化の根底を厳しく批判し、それが危機的状況にあることを指摘した講話をなさいました。一部のイスラム過激派のテロ活動が、その西洋文化の世界的広まりに対する反発である側面も否定できませんし、その文化が今後も世界各地に平和を抑圧する個人主義的、あるいはわが党主義的精神態度を広め、定着させる虞が大きいと思いますので、現代世界は正に危機的状況に揺らいでいると思います。
⑥ その時のラッツィンゲル枢機卿の豊富な話を短く要約するよりも、その一端を世界平和と関連させながら、私の言葉でごく簡単にまた自由に紹介してみましょう。ヨーロッパで始まったものでないキリスト教は、本来「ロゴス」の宗教で、神に向かって開かれている人間の信仰と知性を啓発する特性を豊かに保持するためか、ヨーロッパでは知的文化の発展に大きく貢献し、特別な意味でヨーロッパと一体化しましたが、ルネサンス時代以来、ヨーロッパはそこから科学的合理主義を発達させて、大陸と大陸、文化と文化との出会いをもたらし、やがてその技術文化を全世界に深く浸透させつつ、ある意味で世界を均一化させるようになりました。しかし、こうして世界的に広まった合理主義的西洋文化は、伝統の異なる諸宗教・諸文化をすべて同列に扱って同一の原則で統合し、各々を自由に平和共存させるために、人間の理性と経験を最高基準とする新しい啓蒙主義を普及させ、理性では立証できない神の存在や神信仰を、各人の主観的選択の領域に追いやって、神を信ずる人も信じない人も平等に自由に生活できるよう、実証主義によって合理的に発達させて来た現実の啓蒙主義的法制国家や政治の統制下に置くようになってしまいました。
⑦ 旧来の多種多様の思想・文化・宗教などを皆、一つの新しい共通理念の下に平等に統合し管理しようとすると、当然その啓蒙主義的理念以外の絶対主義は排除され、すべては相対的な価値しか持たなくなります。何ものもそれ自体では善でも悪でもなく、すべては個々の行為から生み出される、あるいは予測される結果によって実証的に善悪評価されるのです。ちょうど薬の善悪を判断するときのように。欧州連合(EU)の欧州憲法の中では、キリスト教会の権利は保証され保護されていますが、キリスト教の信仰や信仰生活は、もはやヨーロッパ人の精神基盤の領域では居場所がなくなっており、神を信じたい人は自由に信じてよいが、その神を信じていない人も一緒にいる学校や社会の場では、他の人たちの自由を妨げないよう言行を慎んで、皆と同様に行動してもらいたいと求められるようになってしまいます。イスラム教徒たちは、自らの絶対主義的神信仰とその信仰実践を冷笑的に扱うこの世俗的啓蒙主義文化が今や欧米人の共通理念となって、すべての人の自由と平等を「人間の権利」として表明しつつ、世界的に普及しつつあることに大きな危機感を抱いていると思います。そのような精神基盤が支配的になっているEUにトルコが加盟した場合、経済的には豊かに発展し始めるでしょうが、精神的にはEU諸国の社会に複雑な対立をかもし出すか、あるいはトルコが一つの世俗国家になって行くことでしょう。
⑧ 正に同じ理由で西洋のキリスト教も、現代技術文化の豊かさの中で、次第に枯れ死んだ根っこのようになって行く虞があります。理知的思考の啓蒙主義哲学は意識的に自らの歴史的宗教的な根源を捨て去り、その根元から湧き出る再生の力に心を閉ざすのですし、神は公的生活や国家の精神基盤から完全に排除されつつあるのですから。しかし、すべての人間を神の愛する被造物、神の似姿と考え、神への畏敬と神と人への奉仕を説く宗教から心の糧を受けなくなるなら、教育は技術的理解や能力の伝授だけと化して、心の欲を制御する各個人の力は極度に衰え、法規は次第に守られなくなって、自由は放縦と化して行くことでしょう。そしてすでに各地で激増しつつあるように、テロや詐欺や暴行などが頻繁に横行するようになり、世界の平和も大きく乱されるに到ることでしょう。
⑨ 蛮族の侵攻で西ローマ帝国が滅んだ後、その瓦礫の中から新しいキリスト教世界を打ち立てる力を再生させた聖ベネディクトのような人を、現代の私たちも新たに必要としているのではないでしょうか。彼は、アブラハムのように多くの国民の精神的父となりました。その会則の最後に述べられている修道士たちへの勧告は、私たちに危機と廃墟を乗り越えて天に至る道の指針を与えています。枢機卿はこう述べた後に、その会則第72章から引用して講話の結びとしています。「人を神から引き離して地獄に導く熱意があると同様に、人を悪徳から引き離して神と永遠の命に導くよき熱意がある。修道士が最も熱烈な愛をもって発揮すべきは、この熱意である。云々」という言葉であります。新しい年の始めに当たり、幼子イエスを胸に抱きつつ、人類救済のための祈りと熱意を心に燃やしておられたと推察される聖母マリアの取次ぎを願いつつ、私たちも同じ愛の熱意に生きる決心を固め、世界の真の平和のために神の祝福と助けを祈り求めましょう。
⑩ 使徒パウロは、神から離れてこの世の楽しみいっぱいの生活を営んでいる人たちの多いローマ社会に住んでいた信徒団に向けて、「あなた方は、この世に見倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御旨か、何が善で神に喜ばれるかをわきまえるようにしなさい」(ローマ 12:2)と勧めていますが、この勧めは、今の世に生きる私たちにとっても大切だと思います。この世では神の御旨を第一にして、清貧に生活しておられた聖家族の模範に見倣って、私たちも世の救いのため、また世界平和のために、自分の日々の営みや苦しみを献げるように心がけましょう。