2010年12月26日日曜日

説教集A年:2007年12月30日聖家族(三ケ日)

聖書朗読:マタイ2・13-15,19-23

① 毎年最後の日曜日は、かよわい幼子の姿でこの世にお生まれになった救い主を囲む、ヨゼフとマリアの「聖家族」を偲び、その模範に見習う祝日とされていますが、私たちの一番見習うべき点はどこにあるでしょうか。それは、何よりも日常茶飯事の中での神の現存と神の愛の御配慮を、日々心の眼で新たに発見し、生き生きと見定めながら、神の御旨に従って生きようとする生き方にあると思います。各人の自由と個性を何よりも尊重した戦後教育の誤った成果なのでしょうか、今年も家族の一致と団欒の崩壊を示す悲惨な事件が、我が国にたくさん発生しました。目に見えないながらも人間社会の上に君臨しておられる天の権威、神の権威に謙虚に従おうと努める心に、私たち各人の一致と和合の基礎があることを軽視し、その基礎に違反する言行が招いた破滅と悲惨なのではないでしょうか。自分の自由や個性の主張よりも、神の御旨への従順を先にしていた聖家族の生き方に学びたいと思います。
② ヨゼフもマリアも、この家族は神のお考え、神の御働きによって生まれたのであることを確信し、何よりも神から与えられた使命を大切にしつつ、神に従う心で家庭生活を営んでいたでしょうし、人間イエスも物心がついたころから、同じ精神で両親に対する従順に心がけていたと思われます。この模範は、人間各人の考えも価値観も極度に多様化しつつある現代には、特に大切だと思います。
③ パスカルはその『パンセ』の中で、「流転。人の所有する一切のものが流れ去るのを感じるのは、恐ろしいことである」と書いていますが、年末にあたり自分の使いなれた事物だけではなく、富も名声も業績も家族や親しい知人も、全て流転して行くものであることをあらためて思う時、自分中心・人間中心に周辺の自然をも神をも利用しようとする生き方の虚しさを痛感させられます。詩編24に、「地とそこにあるもの、世界とそこに住むものは神のもの。神は海に地の基をすえ、水の上に固められた」とありますが、私たちのこの存在も、私たちの所属するこの世界の全てもことごとく神のものであり、神はそれらを水のように流動的なものの上に据えて、支えておられるのではないでしょうか。したがって、その神に背を向け、神から完全に独立して生きようとすることは、内的根本的には自分の存在を恐ろしく不安なもの、内面から崩れゆくものに陥れる危険な道なのではないでしょうか。自分の存在の全ては、流れゆく水のように流動的なものの上にのせられており、神の支えと導きから逸脱するなら、地盤の液状化で傾き倒壊する危険にさらされる運命に置かれているのですから。日々何よりも神に心の眼を向け、感謝と奉仕愛の心で神の御旨に従っていようとするのが、外的にはどれ程弱く貧しい生活であろうとも、内的には最も実り豊かな充実した生き方であると思います。
④ 聖家族が貧しさの中で全てを全知全能の神に委ね、ひたすら神の御旨への従順中心に生きていたことは、万物流転の不安な現代世界に生きる私たちにとっても、一つの貴重な模範であると思います。やがて私たちが皆、神のもとで永遠に生活することになるあの世の人生に視点を移して、あの世の人生の側から、この世での生き方をじっくりと考察してみましょう。
⑤ 本日の第一朗読は紀元前200年頃に書かれたと考えられているシラ書からの引用ですが、このシラ書は、全てを「主を畏れること」を基盤にして教えており、本日の朗読箇所でもその立場から、父母を尊び敬う人が神から受ける恵みについて教えています。また第二朗読であるコロサイ書は、洗礼によってキリストとひとつ体になったキリスト者の生き方について教えていますが、本日の朗読箇所に読まれる「互いに忍び合い」「赦し合いなさい」という勧めは、極度の多様化と各人の個性対立に揉まれて生きる私たちにとっても、大切な勧めだと思います。使徒パウロはさらに、「妻たちよ、夫に従いなさい」「夫たちよ、妻を愛しなさい」などと、夫婦間の従順と愛の精神を勧告していますが、「子供たちよ、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」などと続けており、全ては「主に喜ばれる」という、神御旨中心の聖家族の精神で受け止めるべき勧めであると思います。
⑥ 本日の福音は、ヘロデ大王によるベトレヘムとその周辺での幼子殺害を逃れて、ヨゼフが幼子とその母を連れてエジプトに逃れたことと、その数年後エジプトでヘロデ大王死去の知らせを再び夢の中で天使から受け、ナザレの町に戻って来たこととを告げています。
神は、ひたすら神の御旨中心に生きている最も愛している聖家族に、時としてこのような苦難・労苦をお与えになる方なのです。あの世の人生のための功徳や救いの実りを一層大きくしてあげるためだと思います。それらの苦難や労苦によって、まだ神による救いの恵みに浴していない多くの霊魂たちに、神からその恵みが届けられるのだ、と考えてもよいでしょう。幼子イエスを守り育てる家族員、ヨゼフとマリアの団結と相互愛も、また神への信仰と愛と感謝も、それらの苦難や労苦によって実践的に鍛えられ、いっそう堅く深いものになったことでしょう。神は、私たちの修道院家族に属する各人の奥底の心も、苦難や労苦や小さな価値観の対立などによって一層大きく信仰と愛に成長することを、深い愛の内にお望みになる方であることを、心に銘記していましょう。私たちが今年一年、その神の温かい御配慮によってこうして護られ導かれていたことに対する感謝の念を新たにして、本日の感謝の祭儀を献げましょう。

2010年12月25日土曜日

説教集A年:2007年12月25日降誕祭日中のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 52章7~10節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 1章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節

① 本日の福音は、私の所属する神言修道会では最も大切にしているヨハネ福音書の序文で、創立者聖アーノルド・ヤンセンの時から神言修道会に直接関係するすべての式典の中でいつも朗読されている、ヨハネ福音書の序曲のような福音であります。ヨハネはまず、「初めに言(ことば)があった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と繰り返すようにして、神の言の神聖な起源を荘厳に強調します。それから「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と、神の言は被造物ではなく、神と同じ次元にいる創造者であることを宣言します。神言会は、この神の言を特別に崇め、そこに根ざし、そこから派遣されて働こうとしている布教修道会であります。
② ヨハネは続いて、その福音の幾つかの重要なテーマに触れながら、次のように語ります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」言によってご自身をお示しになる神は、根本的に命なのです。そして言は、その神の命を私たち人間に伝える光なのです。この根源的愛の命に参与させることが、神による創造と救済の御業の目的であると申してもよいでしょう。しかし、光は輝き照らし続けても、闇は続いています。その光を受け止めるものがない、真空のようになっているからです。宇宙船に乗ってこの地球の大気圏から飛び出し、空気も何もない真空の宇宙空間に入るなら、途端に周辺は真っ暗闇になります。太陽は遠くに照っていますが、その光を反射するものは何もないからです。ちょうどそのように、あの世の神の光は照り輝いていても、それを信仰と愛をもって受け止めるものが何もない霊的真空状態に留まっているなら、暗闇はこの世に居座り続けます。
③ 「その光は真の光で、世に来てすべての人を照らす」「言は世にあったが、世は言を認めなかった」「言はご自分の民の処に来たが、民は受け入れなかった」という悲惨な霊的状況に心を痛めながら、ヨハネはその福音を書き始めます。ここで「世」あるいは「民」と表現されている人たちは、目前の過ぎ行くこの世の事物現象を理解するための理性は持っているのですが、心の奥底に与えられている神に対する感謝・愛・信仰などの能力や感覚はまだ深く眠ったままにしているのだと思います。あの世の神の光は、この世の経験に基づいて自分中心に考える理性によって理解するものではなく、何よりも感謝と愛の心のセンスを実践的に磨くことによって心の眼に見えて来るもののようです。「暗闇は光を理解しなかった」というヨハネの言葉は、そのことを指しています。
④ ヨハネはここで、神の摂理によって派遣された洗礼者ヨハネを登場させます。「彼は光ではなく、光について証しするために来た」のです。「証しする」というのは、闇夜に輝く月や金星たちのように、信仰と愛のうちに神よりの光を受け止め、自分の身も心も生活もその光によって照らされ輝きながら、その光を反射して世の人々に伝えることを意味していると思います。洗礼者ヨハネがどれ程熱心に証ししても、光と闇との対立、神よりの光を受け入れようとしない人たちの暗躍は、根強く続くことでしょう。しかし、神の言は、ご自分を受け入れた人々、その名を信じる人々には「神の子となる資格を与え」、あの世の神の命によって生まれた新しい存在に高めて下さいます。使徒ヨハネは、こうして「神の子」とされる恵みに浴した者の体験に基づいて、その序文の後半に「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いています。
⑤ 洗礼者ヨハネの後を受け継ぎ、この使徒ヨハネのように「神の子」として戴いた恵みに感謝しつつ、自分の見聞きした体験に基づいてこの世にお出でになった神の言、メシアについて証しすることが、主が創立なされたこの世の教会、そしてその教会から派遣される宣教師たちの最も大切な務めであると思います。現代の教会も宣教師たちもこの使命にしっかりと目覚め、闇に住む無数の人たちのためよりよく働くことができるよう神の恵みと助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年12月24日金曜日

説教集A年:2007年12月24日降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

① クリスマスは、全宇宙の創り主で、時間も空間も、その他私たちの現実を規制している一切の枠組みを無限に超越しておられる、真に思い描くことさえできない全知全能の神秘な神が、私たちの歴史的現実の中に人間となってお生まれになったことを記念し感謝する、喜びと希望の祭りであります。ご自身に特別に似せて人間をお創りになった、と聖書に啓示されているその人間のお姿をとって、私たちの歴史的現実の中にお現れになったのです。ということは、神よりのその人、救い主イエスの生き方の中に、私たち人間の本当の生き方の模範が示されていると申しても良いでしょう。

② その人は、神としては計り知れない程の無限の富と絶対の権力の持ち主ですが、人間としてはそれらの一切をあの世に置いて、罪の闇に抑圧され苦しんでいるこの世の人間社会の最も貧しく弱い者たちの所に、貧しく弱い幼子の姿をとってお生まれになりました。その人間社会の最上位には、当時ローマ皇帝アウグストゥスが君臨し、シルクロードを介しての東西世界の国際貿易を積極的に支援して、驚くほど豊かな富と軍事力を保持してオリエント・地中海世界の平和と繁栄を安定させており、民衆からは「世の救い主」と賛美されていました。そしてこの社会的豊かさの中で人口の移動が国際的に激しくなっていたので、税制の公平さのためにも14年毎に全領土の住民に住民登録をさせる勅令を発しました。その最初の住民登録は、多くの地域で紀元前8年に施行されましたが、ローマの属国となっていたヘロデ王の支配するユダヤでは、まだ識字率が低いため住民が登録のために各々自分の出身地に集められ、顔を見比べながら役人に記録されるという登録方法に不満を持つ人が多くて一年遅らせ、強大な国境警備軍を持つシリア州の総督クリニウスの軍事的圧力の下に紀元前7年に行われました。この最初の住民登録の時に、救い主がダビデ家に属するヨゼフの出身地ベトレヘムにお生まれになったのです。ローマ帝国の住民登録は、紀元6年にも第二回登録が行われましたが、その時ガリラヤで発生した厳しく弾圧されました。そのことは使徒言行録にも述べられています。反対があまりにも強いので、アウグストゥス皇帝が紀元14年に没すると、その後はもう行われなくなりました。しかし、その二回の住民登録により、救い主イエスの名がこの世の人類社会の歴史の中にはっきりと書き留められ、登録されたという意義は注目に値します。

③ ヘロデ王を支援する強大なローマ軍の圧力下で、貧しく弱い幼子となってこの世にお生まれになったという事実は、この世の政治的平和とあの世の神による内的平和との違いを如実に示していると思います。ローマ皇帝アウグストゥスは、当時の政治的次元では多くの人から「世の救い主」と称えられましたが、ある意味では確かにそう言われるに相応しい支配者であったと思います。しかし、当時の平和で豊かな世界の下層には、経済的格差と政治的抑圧に苦しむ弱い貧しい人たちも少なからずいて、彼らは自分たちの心に新しい生きがいを与えてくれる「救い主」を捜し求めていたと思います。その人たちの願いと祈りに応えるようにしてこの世にお生まれになったのが、神の御子メシアなのではないでしょうか。

④ 経済的格差や政治的抑圧に苦しむ人たちは、全体としては平和で豊かなように見える現代世界の各地にも、少なくないと思います。神である救い主は、ご自身を信ずる人たちを孤児として残すことなく、世の終わりまで共にいると宣言なさったのですから、時間空間を超越して永遠に生きるあの世の霊的命に復活なされた後の今も、全世界の信仰に生きる人たちと霊的に共にいて下さると信じます。クリスマスは、その主の霊的命が各人の心の奥底に新たに生まれて下さる日と申しても良いと思います。しかし、その御命は自己中心のこの世的所有欲や権勢欲でいっぱいになっているような心などは避けて、苦しんでいる弱い貧しい人たちとの愛の連帯感に生きる心の中に、新たに生まれて下さるのではないでしょうか。2千年前の主の最初の御誕生は、そのことを私たちに教えていると思います。

⑤ 今宵の第一朗読は、預言者イザヤが紀元前8世紀に見た幻ですが、彼はその数百年後にベトレヘムで起こる出来事をはっきりと予見し、「一人のみどり児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。云々」と語っています。しかし、その恵みの光を仰ぎ見て、深い喜びに満たされ、喜び祝ったのは、何よりも「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者たち」であったようです。彼らを抑圧し虐げていた者たちのくびきも、杖も、鞭も、その主によって打ち滅ぼされ、虐げられていた人たちは、「刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむ」などと、預言されているからです。

⑥ また今宵の第二朗読で使徒パウロは、「全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れました」という言葉に続いて、どういう心の人がその恵みを豊かに受けるかを、次のように説明しています。「その恵みは、私たちが不信心と現世的欲望を捨てて、この世で思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えています」と。主は「私たちをあらゆる不法から贖い」、「良い行いに熱心な民として清めるため」また「ご自分のものとするために」、この世に来られたのだとも語っています。私たちがクリスマスを喜び祝う本当の深い目的は、ここにあると思います。その目的が少しでも新たに私たちの心の中で達成されるよう恵みを願い求めつつ、今宵のミサ聖祭を献げましょう。

2010年12月19日日曜日

説教集A年:2007年12月23日待降節第4主日(三ケ日)

聖書朗読:マタイ1・18-24

① 本日の第一朗読の背景について、はじめに少し説明致しましょう。アッシリアが軍事力を強化して南の国々を侵略する勢いを見せ始めた時、シリアと北イスラエル王国とは同盟を結び、ユダ王国をもこの反アッシリア同盟に参加させようとしました。しかし、ユダのアハズ王はその同盟に参加しようとはしませんでした。すると突然シリアとイスラエルの同盟軍がまずユダ王国を攻撃して反アッシリア同盟を強大にしようと、攻め上って来ました。その時「王の心と民の心は、風に動かされる森の木々のように動揺した」とイザヤ書7章にあります。

② 神の言葉がイザヤに臨み、預言者は「恐れることはない。云々」と告げたのですが、恐れに囚われて気が動転していたアハズ王は、なかなかその言葉に従おうとしなかったようです。そこで神は預言者を通して、本日の朗読にあるように、「神にしるしを求めよ」と話したのです。でも、王はそのしるしを求めようともしないので、神はもどかしい思いをさせるそのマイナス志向の態度を非難なさった後に、まずお与えになったのが、「おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というしるしでありました。神は続いて、アハズ王の恐れるシリアとイスラエルがアッシリアに征服されることも予告なされ、事実そのようになりました。神が真っ先にお与えになったしるしにある「インマヌエル」という名は、「神我らと共に」という意味の言葉です。主キリストの来臨によって現実のものとなった神の御子のこのお名前を、現代の私たちも大切にし、その神秘を実践的に益々深く悟るよう心掛けましょう。「神我らと共に」ということを。

③ 本日の第二朗読は、ローマ書の冒頭にあるローマの信徒団に宛てた挨拶文ですが、その中に「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」とある言葉が、降誕祭を目前にしている私たちにとって大切だと思います。しかし、使徒パウロのこの表現から、主イエスは死者の中から復活した時に初めて神の子とされたのだ、などと誤解しないよう気をつけましょう。新約聖書・旧約聖書の他の個所の啓示も総合的に考え合わせますと、主イエスはこの世の時間や出来事と関係なく、永遠から神の御子であり、人間としても受肉の瞬間から神の御子であります。使徒パウロもこの信仰の立場でその幾つかの書簡を書いていますし、ローマ書も例外ではありません。全てを神の側から総合的に考え合わせる、神中心の広い霊的立場で主イエスのご誕生を受け止め、深く悟る恵みを願いつつ、降誕祭を迎える心を整えましょう。

④ 本日の福音は、マリアを迎え入れる前頃のヨゼフの悩みと夢について教えています。マリアが三か月あまりナザレを留守にしてユダヤに滞在して来た後に、身ごもっていることが明らかになった時、婚約者であるヨゼフは深刻に悩んだと思います。当時のユダヤの制度では婚約を結んだ時に既にヨゼフはマリアの夫なのですが、同居前にユダヤの親戚の家に滞在するため、当時ユダヤ社会では女の慎みを欠く行為として禁じられていた「若い女の一人旅」をあえて為して来たマリアの身に、何かが起こったことが明らかになったからでした。察するに、マリアも同じころ苦しみつつ、ヨゼフのために神に真剣に祈っていたと思います。

⑤ 天使から一人でお告げを受けただけでは、自分が本当に神の御子を宿しているのかどうか自分でもわかりませんし、古今未曾有のそんな奇跡についてヨゼフを説得することもできません。おそらく二、三日間悩んだ挙句に、天使が最後に告げた「あなたの親戚エリザベトが老齢なのに男の子を身ごもってもう六カ月になっている」という言葉は、自分がそれを実際に確認して、それを自分が神の御子を宿したことの証拠とせよ、という意味なのではなかろうか、身重になっている老エリザベトは若い自分の手助けを必要としているであろうし、自分が神の御子を宿しているのなら、一人旅をしても神によって守られるであろう、などと考えて、レビ族出身で識字者であったマリアは、夫のヨゼフに簡単な書置きをし、朝早くに急いでユダヤのザカリアの家への女の一人旅をなしたのだと思います。年老いたエリザベトが男の子を産み、ザカリアのおしがその割礼の直後に天使の言葉通りに癒された奇跡などを目撃したマリアは、すでに自分が神の御子を宿している証拠を握っていました。自分が一人旅の途中でも神に守られていたことを体験したマリアは、そのことをヨゼフに伝えてその疑いを晴らす機会を求めて、一心に神に祈っていたと思います。

⑥ その時、主の天使、恐らく大天使ガブリエルがヨゼフの夢に現れて、本日の福音にあるような知らせをしたのだと思います。マリアの誠実さを少しも疑っていないヨゼフは、素直に天使の言葉に従い、マリアを迎え入れてマリアの見聞きして来た神よりの奇跡的出来事も聴いて、信仰と喜びのうちに、二人で神の御子の誕生と育ての世話に励んだのだと思われます。現代の私たちも、小さなご聖体の形で私たち各人のうちに宿り、現存して下さる全人類の救い主であられる神の御子主イエスに対する信仰を新たに致しましょう。そして2千年前の主のご誕生前のヨゼフとマリアのご心情を偲びつつ、主をお迎えする私たちの心の準備に励みましょう。そのための恵みと導きを祈り求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。

2010年12月12日日曜日

説教集A年:2007年12月16日待降節第3主日(藤沢で)

聖書朗読:マタイ11・2-11

① 第一イザヤ書は紀元前8世紀に記された預言ですが、預言者は200年以上後の出来事をも幻のうちに予見していたようです。本日の第一朗読は、紀元前537年にバビロン捕囚から廃墟と荒れ野と化したユダヤに戻って来て、失望落胆するユダヤ人たちを慰め励まし、彼らに神の力による新しい希望を与えるにふさわしいような預言であります。同じ預言は、主の再臨前に起こると予告されている様々の戦争や暴動、あるいは偽預言者たちの偽りの言葉や偽作などによって生活を脅かされ、打ちひしがれている無数の人たち、現代世界の各地に、そしてわが国にもいるそのような人たちに対する神よりの慰めと励ましの言葉として受け止めることもできると思います。私たちの本当の希望、本当の人生は、罪と闇の支配するこの世にあるのではなく、主の栄光の再臨によってすべての人が復活した後の世にあるのです。ご存じのように待降節の前半12月16日までは、主の再臨を待望し、それに備えて心を整え、悔い改めに励む期間とされています。本日はこの心を新たにしながら、ミサ聖祭を献げましょう。

② 本日の短い第二朗読には「忍耐」という言葉が4回も登場していて、主の再臨を待望する期間、特に本日の朗読にもあるように「主が来られる時が迫っている」時には、何事にも忍耐して心を堅く保つことが大切であることが強調されています。使徒は、「互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます」と警告しています。隣人に対する私たちの言行は、皆小刻みに終末の時の主キリストによる審判につながって行くのですから。主は私たちから、何よりも主と一致して実践する愛と忍耐の証しを求めておられると思います。無数の預言者、殉教者たちのように、神の御前に立派な証しを立てるよう心掛けましょう。

③ 待降節にはよく、「牧場におりる露のように、地を潤す雨のように王は来る」という、詩篇72の言葉が唱えられたり歌われたりしますが、「地を潤す雨」という表現は、「降るとも見えず」と言われる春の真に細い柔らかな雨を連想させます。牧場に降りる露も、いつ降りたか分からないような存在であります。待降節にあたって私たちの心がけるべきことは、そういう目には見えない真に秘めやかな主キリストの来臨と現存に対する、奥底の心の信仰感覚を磨くことだと思います。復活なされた主は、世の終わりの時点までこの世から遠く離れて天にだけ留まっておられるのではなく、それまでの間にも霊的にこの世の被造物界全体を両手でしっかりと受け止めておられ、ゆっくりと天上へと持ち上げつつあるのです。私たちの日常茶飯事の中でもそっと現存しておられる、その主に対する信仰のセンスを磨きながら、隣人と交わる時、あるいはミサ聖祭や祈りの時、そのことに心がけてしっかりと深く目覚める恵みを願い求めましょう。

④ 本日の福音は、投獄された洗礼者ヨハネが自分の弟子たちを主イエスの許に派遣して、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか」と尋ねさせた話で始っています。聖書に基づいてこの世の政治・社会を改革しようとするのがキリスト教の務めである、と考えるプロテスタントの改革的流れに属する人たちがこの箇所で、洗礼者ヨハネは、メシアが来臨してもユダヤ人の政治・社会になかなか期待していたような改革が進まず、牢獄で疑問と不安に悩んでこのような質問を主に届けさせたのであろう、と主張したことがあります。近年は政治運動に熱心なカトリック者の中にも、それに類する発言をする人を見受けるようになりましたが、カトリックの伝統はそのような解釈を退けています。主を「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した洗礼者ヨハネは、過越の小羊のようにして受難死をお迎えになるメシアの救いの御業をすでに予見していて、自分の弟子たちをそのメシアの方に行かせようとしていたのですが、一部の弟子たちは厳しい預言者的生活を営まないメシアの方には行こうとしないので、自分の名で本日の福音にあるような質問を主イエスにさせて、直接に主の人柄とその活動に触れさせようとしたのだ、というのがカトリックの伝統的解釈であります。

⑤ ヨハネから派遣された弟子たちが、イザヤ書61章にメシアの徴として予告されていた通りの活動をしておられた主のご活動を見聞きして、そのことをヨハネに伝えた後、どのような道を歩んだかについては福音書に述べられていません。しかし、ヨハネが殉教した後にその遺骸を引き取って葬ったのも、そのことを主イエスに伝えたのも、同じヨハネの弟子たちであったと思われます。本日の福音後半にあるように、彼らが去った直後に主が洗礼者ヨハネのことを褒めて語っておられることから察すると、ヨハネはやはり、主のメシア性について疑問を抱いたのではなかったと思われます。

⑥ このことから学んで、私たちも聖書を読む時に人間中心の先入観を持ち込まないよう慎重でありましょう。私たちの本当の救いも人生も、死後の霊的な世界にあるのです。主は私たちがあの世で神の御許で永遠に幸せに生きるようにと、神から派遣されたメシアであって、この世の政治社会を改革して神の国とするためにあの世から来られたのではありません。福音をこの世中心の観点から受け止めていますと、洗礼者ヨハネがメシアについて疑問を抱いたのではないか、などという解釈を産み出すに至ります。似たような誤った聖書解釈が、公会議直後頃の西欧の若者たちの間にも一時的に流布したようで、私が1965年にドイツを旅行した時には、年配のカトリック者たちから幾度も「神の国はこの世にではなく、あの世にあるのです」という言葉を聞かされました。察するに、誰かが当時の若者たちの改革的動きを批判して、そのようなことを新聞などに書いたのかも知れません。伝統的カトリックの立場からの聖書理解がこれからも世界に定着するよう希望しつつ、主の隠れた来臨と現存に対する私たちの信仰感覚が実践的に磨かれるよう恵みを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年12月5日日曜日

説教集A年: 2007年12月9日待降節第2主日(三ケ日)

聖書朗読:マタイ3・1-12

① 一週間前のイザヤ2章始めからの第一朗読のように、イザヤ11章始めからの本日の第一朗読も、神の霊に満たされたメシアの支配する世界における、万物平和共存の理想的状態について預言していますが、これもメシアの栄光に満ちた再臨によってすべての人が復活し、神の子らとされた人たちの生きるあの世の世界についての描写であると思います。罪の力がまだ支配している死と苦しみのこの世においては、そのような完全な平和共存は一度も実現したことがなく、使徒パウロもローマ書8章に、「被造物は神の子らの現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです。(今は)虚しさに服従させられていますが、」「やがて腐敗への隷属から解放されて、神の子らの栄光の自由にあずかれるのです」などと書いていますから。

② 神に特別に似せて創造され、神のように永遠に生きる存在とされている私たち人間はその神の国に復活したら、主キリストと一致して愛をもって万物を深く理解し支配する、神からの特別の使命を頂いていると思います。私は以前にもここで、「作品は作者を表す」という言葉を援用して、命の本源であられる神から創られた万物は、ある意味で老化も死も経験し得る生き物であると考える立場からの、ネオアニミズムについて話したことがあると思います。同じ立場でこの苦しみの世の万物を観察する時、今はまだこの世の万物は気象も大地も動植物も皆苦しんでいるように思われてなりません。神信仰のうちに毅然として立ち、愛をもって呼び掛けたり命令したりするなら、主キリストも話しておられるように、万物の霊長である神の子らの呼びかけや願いに応じてくれるような側面も感じられますが、まだまだこの罪の世の大きな不調和と相互対立関係の中で、苦しみながら生きているように思われます。

③ 私は時々私たちを苦しめる蚊や家の中に巣を作る蜘蛛を駆除したり、庭の美観を損なう雑草や桜の木々にまつわりつく癌のような生命力旺盛な蔦を駆除したりしますが、その時はいつも、「あなたのその逞しい命を私に下さい。私の中で神を称える力となって下さい」などと呼びかけています。そして私が今もこうして健康に生活しておれるのは、神の力がそれらの被造物を介して私の中で働いて下さるお陰であると感じています。このようなネオアニミズムの温かい被造物観が、現代の私たちには大切なのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読であるローマ書15章の始めに、「強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」と述べている使徒パウロは、本日の朗読箇所で、強い者と弱い者、ユダヤ人と異邦人とが互いに相手を受け入れ合うようにと勧めています。というのは、使徒がその前半に述べているように、聖書が私たちに忍耐と慰め合うことを教えており、それを実践する人は神に希望を持ち続けることができるからです。私たち相互の人間関係を能力主義や実績主義、あるいは過去から受け継いでいる法的権利などを中心にして、理知的に考えないよう気をつけましょう。私たちの相互関係の中に神の国があり、神が現存しておられて、神の愛に根ざして奉仕し合うよう強く求めておられるのですから。何よりも、その神の働きに心の眼を向けながら生きるように心がけましょう。

⑤ 主は、誰が一番偉いかを道々論じ合って来た弟子たちに対して、「第一になろうと望む者は、皆の後になり皆に仕える者とならなければならない」と話されたことがあり、ご自身についても、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と話しておられます。隣人に接する時、私たちは何よりも主のこれらのお言葉を念頭に置いて交際しているでしょうか。待降節にあたり、この点を一つ反省したみましょう。使徒パウロも本日の朗読箇所で、「忍耐と慰めの源である神があなた方に、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり父である方を、たたえさせて下さいますように」という祈りを添えています。単に日々声をそろえて神を讃えるだけではなく、そこに互いに忍耐し慰め合う実践を添え、内的にも心を合わせて神を讃えるように心がけましょう。それが、使徒の願いであると思います。

⑥ 毎年待降節第二と第三の日曜日の福音には洗礼者ヨハネが登場しますが、本日の福音に登場している洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で「天の国は近づいた」と叫びながら、非常に厳しい調子で人々に悔い改めを呼びかけています。ラクダの毛衣をまとい、腰に皮帯をしめて貧しい生活を営む、預言者エリヤを思わせるようなその姿を見聞きして、大勢の人がヨハネの下に来て罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けました。そのことを伝え聞いたのでしょうか、ファリサイ派とサドカイ派の人たちも洗礼を受けに来ました。しかし、ヨハネはこの人たちに対しては、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れることを誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。云々」「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。云々」などと、恐ろしい程の脅しの言葉を連ねて、悔い改めを迫っています。この時のヨハネは「神の国」という言葉で、メシアによる終末の審判を考えていたのではないか、などと解釈する人もいますが、これから始まるメシアによる救いの時を歓迎するヨハネの他の言葉などを考え合わせると、察するに、まだ世の終わりの審判の時が迫っているのだとは考えずに、ただ心の目覚めの鈍過ぎるファリサイ派とサドカイ派の心に衝撃を与えて、少しでも深くしっかりと目覚めさせるために、厳しい言葉を発したのだと思われます。

⑦ しかし、メシアがこの世にお生まれになったことは、内的には既に世の終わりの審判の始まりでもあると思います。そのこと自体は神からの大きな救いの恵みなのですが、それを受け止める各人の内的態度は、恵みに接する度ごとに、目には見えなくても既に裁かれており、世の終わりにはそれら無数の個々の裁きが劇的に露わになって、赦されるか断罪されるかの決定的裁きが下されるのだと思います。私たちも気をつけましょう。隣人に対する言行、あるいは祈りの時の心の持ち方などは、皆小刻みに終末の時の審判につながって行くのですから。待降節にはよく、「牧場におりる露のように、地を潤す雨のように王は来る」という、詩篇72の言葉が唱えられますが、「地を潤す雨」という表現は、「降るとも見えず」と言われる春の真に細い柔らかな雨を連想させます。牧場に降りる露も、いつおりたのか分からないような存在であります。待降節にあたって私たちの心がけるべきことは、そういう真に秘めやかな主キリストの来臨と現存に対する奥底の心のセンス、心の信仰感覚を磨くことだと思います。隣人と交わる時、あるいはミサ聖祭や祈りの時、そのことに心がけて、しっかりと深く目覚める恵みを願いましょう。洗礼者ヨハネの説いた「悔い改め」は、自分中心に考えたり話したりし勝ちな私たちの心を、これからは神の方に向けながら為すというだけの、根の浅い回心ではなく、神の現存と働きに対するそのような奥底の心の目覚めと、それによる生き方の根本的刷新とを意味しています。その恵みを神に願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年11月28日日曜日

説教集A年: 2007年12月2日待降節第1主日(三ケ日)

聖書朗読:マタイ24・37-44

① 待降節初日の今朝は、美しく晴れ渡った星空に聖母マリアのシンボルとされている「明の星」金星が大きく輝いていました。私は名古屋でも毎朝5時少し前に起床して、部屋のすぐ横にあるベランダに出て外の空気を吸うのを習慣にしていますので、晩秋から早春にかけては星空を眺めることが多いです。金星の見える位置は年によっていろいろと変わりますが、これまで待降節の夜明け前に金星を眺める年が多かったように記憶しています。他の星たちに比べて金星の昇るのは少しずつ遅れていますが、今年はこの分ですかと、待降節の間じゅうは、日の出の一時間ほど前に「明の星」を眺めることができるように思います。この「明けの星」のように、いつもそっと私たちを見守っていて下さる聖母マリアの温かい母性愛に感謝し、その取次ぎを願い求めつつ、主の来臨に対する心の備えに努めましょう。

② 本日の第一朗読は、2千7百年数十年も前に、イザヤ預言者が見たこの世の終末後の世界についての幻であります。典礼暦年最後の週である先週の週日に、教会ルカ福音書の中からこの世の終末についての主の予言を毎日のように朗読させ、主の再臨の日に備えて「いつも目覚めて祈る」よう私たちの心を堅めさせましたが、しかし、終末の恐ろしいマイナス面にだけ心の眼を向けることのないよう、本日の第一朗読では、主の再臨後の輝かしい平和と愛の世界についても眼を向けさせています。それは、全知全能の神が直接に支配なさる世界であり、国々の民がこぞって大河のように主の御許に集い、もはや一切戦うことをしない美しい平和と愛の世界であります。現代世界の多くの民族は、人間中心の理知的な考えや意欲が齎した各種の対立抗争のため、テロや破壊・貧困・不安などに悩まれていますが、主キリストが全宇宙の王としての権威と栄光の内に再臨なさり、諸国民や国々の不義と争いをお裁きになると、忽ち素晴らしい人類世界が実現するに至るのです。この大きな明るい希望を心に抱きながら、神が聖書を介して提供しておられる勧めや戒めのお言葉に従うよう心がけましょう。

③ 使徒パウロは第二朗読の中で、「眠りから覚めるべき時が既に来ています」「救いが近づいているからです」「闇の行いを脱ぎ捨てて」「品位をもって歩みましょう」「争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを見にまといなさい」などと勧めています。新しい典礼年の初めにあたり、とかく目先の苦楽や不安などに囚われ勝ちであったこれまでの生き方を脱ぎ捨てて、洗礼の時に神に捧げた決心を新たにし、神中心の聖い生き方に目覚めて誇りと品位をもって生活しようというのが、使徒の勧めだと思います。

④ 主イエスも本日の福音の中で、二度も目を覚ましているよう警告しています。世の終りも私たち各人の裁きの時、死の瞬間も、思いがけない形で突然に来るからです。旧約聖書に語られているノアの洪水も、主によると全く突然に、人々が楽しく食べたり飲んだりしていた時に、急に始まったようです。未曾有の恐ろしい大集中豪雨が始まってからでは、もう逃げ場がありません。主は「人の子が来る時も、このようである」と警告しておられます。一緒にいる二人のうち、「一人は連れて行かれ、一人は残される」のです。どちらが救われ、どちらが滅ぼされるのか分りませんが、ノアの洪水を例にとって話されたのですから、ノアとその一族のように、残された人の方が救われるのかも知れません。現代世界に流行している各種の詐欺や盗みも、全く思いがけない巧妙な仕方で多くの人を不幸のどん底に陥れています。通常の常識に従って用心していても、その想定外の仕方で発生するのが、現代の詐欺や盗みの特徴のようです。これまでの社会的常識に従って生きているだけでは足りません。何よりも神に祈り、神の勧め・神のお言葉に対する心のセンスを実践的に磨いていましょう。そうすれば、私がこれまで幾度も体験して来たように、神が不思議な程私たちを護り導いて下さいます。神に対する信頼心を新たにしつつ、神を迎える待降節の修行に励みましょう。

2010年11月21日日曜日

説教集C年: 2007年11月25日 (日)、王たるキリスト祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. サムエル下 5: 1~3. Ⅱ. コロサイ 1: 12~20.
     Ⅲ. ルカ福音書 23: 35~43.


① いよいよ典礼暦年の最後の日曜日となりました。来週はまた新しい典礼年が待降節という形で始まります。教会はこういう一つの典礼年の暮れに、この世の終末や私たちの人生の最後を思い起こさせるような聖書の言葉を、週日のミサ聖祭の中でも朗読させて、過ぎ行くこの世の事物に対する心の執着を捨てさせ、神の御前に進み出て罪の裁きを受ける覚悟を新たに固めさせますが、私たちを取り囲む晩秋の気候や風景も、盛者必衰の現実を見据えてあの世での新しい人生に備えるよう、私たちの心に呼びかけているように感じられます。一週間前にも申しましたが、罪に汚れたこの世の事物は全て、その根底において冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風はそのことを私たちに告げ知らせているのではないでしょうか。

② 私たちの心の奥底にも、そのような無色透明で孤独な「無」あるいは「空」と呼んでもよい、小さな虚無の世界が潜んでいるように思われます。私たちが時として感ずる侘びや寂びの美しい心情は、その「無」の世界から産まれ出るのかも知れません。事が思い通りに運ばずに失敗したような時や、愛情が実らずに愛する人に捨てられたような時、あるいは病気が進んで死が迫って来たような時、人間はその虚無を、挫折感や喪失感、あるいは悲痛や恐怖として痛感させられますが、しかしそれは、私たちの心が神と結ばれ、神に生かされて生きるという人間本来の生き方を見失って、意識的にしろ無意識的にしろ自分中心に生きている時に、その心の眼に恐ろしく悲しいもの、空しいものとして映る虚無であって、人間をそのような存在としてお創りになった神の側に立って観るならば、その「無」あるいは「空」の場こそ、愛の神が私たちを生かすために、心の一番奥底に眠っている能力を目覚めさせて働いて下さる場なのではないでしょうか。心がこの世の儚さ・わびしさや、自分の働きの空しさなどを痛感する時は、神に眼を向けるように致しましょう。神はその時、そっと私たちの心の奥に伴っておられ、私たちが人間中心・この世中心の生き方に死んで、心の底から真剣に神に縋り、神の愛に生かされようとするのを、静かに待っておられるのですから。

③ 本日の第一朗読は、サウル王を失って国の乱れに悩んでいたイスラエルの全部族の長老たちがへブロンにいたダビデの所に来て、彼を全イスラエルの王として戴く話です。私は時々こういう話を読むと、使徒パウロがローマ書8章に書いている、「被造物は空しさに服従させられていますが、」「神の子らが現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです」という言葉を連想します。神にかたどり神に似せて創られた、と聖書に啓示されている私たち人間は、自分中心・人間中心のこの世的思想や生き方に留まっている限りでは、その心の内に神の超自然の力がまだ働けないために、神の支配に服従しようとしていないこの苦しみの世にあって悩み苦しむ弱い存在でしかありません。しかし、ダビデのように神を讃え、自分中心の生き方に死んで、ひたすら神の御旨中心に生きようと立ち上がりますと、そこに神の御独り子メシアの命が働き始めます。そして神が創造の始めに意図しておられた「神の子ら」としての人間像を体現するようになり、神の命と力に生かされて、次第にメシアのように何者をも恐れない霊的王としての威厳、万物の霊長としての威厳を身に帯びるようになります。多くの聖人・殉教者たちは、そのような模範を私たちに残していますが、この世の無数の被造物たちも皆、私たちがそのような霊的王、万物の霊長として生き始めるのを、「切なる思いで待ち焦がれている」のではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読では同じ使徒パウロが、神の御独り子メシアが宇宙万物の創り主であると共に、それらに対する王権も支配権も持っておられる「第一の者」「王」であることを讃美していますが、その前に、「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。私たちは、この御子によって贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」と書き、また「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなた方が与れるようにして下さった御父に感謝」とも書いています。これらの言葉から考えますと、私たちも主キリストにおいてその王権に参与し、神の子らとして神と共に永遠に万物を支配する権力と使命を受けるに至るのではないでしょうか。黙示録22: 5に、「神である主が彼らを照らし、彼らは永遠に支配する」とありますから。罪に沈む今の世の流れがどれ程乱れて、荒れすさぼうとも、主キリストと一致して万物の霊的王としての誇りと尊厳を堅持し、姿勢をまっすぐに正し、勇気をもってそれらの乱れに対処するよう、今から私たちの心を神の子らにふさわしく整えていましょう。洗礼によって主キリストの霊的からだの細胞にしていただいても、自分中心のこの世的精神に死んで、キリストの聖い愛に内面から生かされる心に実践的に転向しない限りはガン細胞のようなもので、王としてのプライドをもって美しく逞しく生きることはできません。

⑤ 本日は王たるキリストの祭日ですが、本日の福音を見ますとちょっと驚きます。十字架につけられて死を間近にしておられる主イエスの頭上には、「ユダヤ人の王」と書かれた捨て札が掲げられており、福音の前半には、その王が人々のあざ笑いと侮辱の対象とされているのですから。私たちは「王たるキリスト」と聞くと、世の終わりに天の大軍を率いて、輝かしい栄光のうちにこの世に再臨なさる主キリストのお姿を考え勝ちですが、それは、世の終わりにお示し下さるお姿、その御前に全ての国民がひれ伏すお姿で、その時までは、主はその栄光を深く深く覆い隠して、この罪の世・苦しみの世に生きる私たちの心に、日々そっと伴っておられるのではないでしょうか。日本語に「ぼろを着てても心は錦」という言葉がありますが、今の主イエスは外的には正にそのような全く貧しい無力な王として、目に見えないながら私たちの間に現存しておられるのだと思います。目に見えないその無力なやつれたお姿の王たるキリストを、全てを自分中心に考え利用しようとしている人たちは、無意識的ではあっても、現代の今も軽蔑したり、からかったり呪ったりしているのかも知れません。私たちは、どうでしょうか。

⑥ 本日の福音の前半には三種類の人々が登場し、いずれも王たるキリストをあざ笑ったり侮辱したり罵ったりしています。最初に登場するのはユダヤ人社会の指導者たちで、登場する人々の中ではたぶん十字架から一番遠く離れている位置で、ユダヤ人の王をせせら笑っていたと思われます。次に登場するのは処刑を執行した兵士たちで、十字架の斜め前辺りにいて、すっぱいぶどう酒を浸したものを主のお口につけたりしながら、主を笑いものにしていたのではないでしょうか。そして第三に登場するのは、主のすぐ隣に十字架にかけられていた犯罪人の一人ですが、この三種類の人々は、それぞれ社会や教育界をリードする支配者・宗教家・文化人グループ、軍人や労働者のグループ、そして庶民や犯罪人のグループの代表で、今もなお隠れて現存する主を無視し、あざ笑って、神を悲しませている社会各層の人々の代表なのではないでしょうか。

⑦ しかし、社会にはそのような自分中心・この世中心一辺倒の人たちばかりではなく、言葉や態度を通して見えて来る心の愛や清さ・美しさに対する心の感覚を養っており、神による救いを願い求めている人たちもいます。そのような人たちの代表が、本日の福音の後半に登場しているもう一人の犯罪人ではないでしょうか。嘲り侮辱する人たちに対しては黙しておられた主は、そういう人たちにははっきりと神の国の恵みや喜びを約束し、与えて下さいます。フーゲルという画家の描いたご受難の絵には、十字架の主の向かって右側で十字架にかけられているこの良い盗賊のすぐ近くに、聖母マリアと使徒ヨハネが立っています。私たちもこの世の利己的世俗的人々の側からではなく、いつも聖母や諸聖人たちの側から王たる主キリストを眺め、主に話しかけるように努めましょう。

⑧ 90年ほど前の第一次世界大戦によって、それまで皇帝あるいは王として君臨していた人たちが皆失脚し、世界にはもう王としての大きな政治的権力をもって君臨している者が一人もいなくなった時、カトリック教会は1925年に「王たるキリスト」の祝日を制定し、毎年秋の日曜日に盛大に祝うようになりましたが、これは決して時代錯誤ではありません。サムエル記上巻の8章によると、イスラエルの民がサムエル預言者に王を立てて欲しいと願った時、サムエルはその願いを退けようとしました。神の民を支配し導くのは神ご自身であって、神以外に王があってはならないと信じていたからでした。民の代表者たちがそれでも尚、目に見える人間である王を持ちたいとしきりに願い続けると、神も「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ」とおっしゃいましたが、しかし、目に見える王を持ちたいという人間側の強い憧れを受け入れて、預言者が彼らのために王を立てることをお命じになり、こうしてまず神がその御摂理によってお選びになったサウルという青年を王に祝聖させました。メシアによる将来の支配を、神の民に多少なりとも実感させる形で予告するために、神が王をお立て下さったのだと思います。

⑨ 従って、聖書思想によると、王または王朝というものは神の御摂理によって神の側から選ばれ立てられる者、世の終わりになってメシアが全被造物を支配する時が来るまでの間、神の王権を代行する者であって、民衆の側から多数決によって選出された者は王ではありません。ところが、神の王権を代行するそういう王が第一次世界大戦後にいなくなったのですから、神はカトリック教会に「王たるキリスト」の祝日を制定させて、これからは目に見えないながらも世の終わりまで実際に私たちの間に現存しておられる主キリストを、私たちの魂の王として崇め、神の支配に対する私たちの従順と忠実の精神を実践的に磨くよう導かれたのだと思います。主キリストは永遠の神の支配の実行者であって、民衆の多数決によって選ばれた過ぎ行くこの世の政治家とは質的に大きく違う、本来の王であります。本日はその王の私たちの間での現存に対する信仰を、新たに深める祝日だと思います。「現存」という言葉は、単にそこにあるということではなく、何かパーソナルな存在が私たちの方に向いて呼びかけつつ、そこにいることを意味しています。教会は、メキシコで国際聖体大会が挙行された2004年10月からの一年間を「聖体の年」として祝いましたが、その時の教皇の言葉に従ってご聖体の中での王たるキリストの現存に対する信仰を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年11月14日日曜日

説教集C年: 2007年11月18日 (日)、2007年間第33主日(三ケ日)

(2007/11/18 ルカ21・5-19)

① いよいよ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になりました。平安前期の紀貫之の従兄弟で歌人の紀友則には、この世の悲哀感を慎ましやかに詠っているものが幾つもありますが、「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」と、晩秋の風のもの寂しさを「色なきもの」と表現しているのは、注目を引きます。この罪の世の事物は全て、その根底において無色で冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風はそのことを私たちに教えているのではないでしょうか。典礼暦が終わりに近づくこの時期のミサ聖祭に、教会も終末の時を思うに適した朗読を読ませています。本日の第一朗読は、旧約聖書最後の預言書マラキ書からの引用ですが、マラキはヘブライ語で「わが使者」という意味だそうで、長年のバビロン捕囚から帰郷した最初の人々は故国の荒廃に驚き、まずは自分たちの生活の建て直しに努めましたが、ハガイ預言者からの要求で神殿の再建を優先させられ、何とか外的に神殿もでき上がりました。しかし、預言者が約束した神の祝福を受けることはできずにいました。それで、マラキ預言者が神の言葉を受け、自分の望み第一で、神への愛故になしていない献げ物に問題があることなどを示したのが、マラキ書であると思います。

② 本日の朗読箇所は、恐ろしい終末の日には、日頃自分の社会的地位や外的業績などを誇りとしていた人々と自分の望み中心に生きていた人々が、全てわらのように焼き捨てられ、神を畏れ敬いつつ神の僕・婢のように慎ましく生きていた人たちが、義の太陽によって癒され救われると教えていると思います。私たちは果たしてその日に神から癒され救われるような、内的に神と共に生きる生き方をしているでしょうか。自分の死の時を先取りして、本日ゆっくりと反省してみましょう。もし私たちが何よりもこの世の人からよく思われようとして、神の眼を無視したり忘れたりしているなら、神を畏れ敬う者ではないと思います。福音書に語られている主の譬え話はほとんど皆、怠りの罪を警告していると言うことができましょう。私たちも神と共に、主キリストと共に生きるという信仰の務めを忘れたり怠ったりしていないか、自分の心の眼のつけ所を厳しく吟味してみましょう。単に神の国のためのこの世的教会組織の中で、この世の人々の方に眼を向けながら、人並みに働いているだけでは足りないと思います。各人が何よりも神に心の眼を向け、それぞれパーソナルな愛をもって神と共に生活し、日々神に自分の祈りと苦しみと働きを献げることを、神は求めておられるようですから。

③ 本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書の1章と2章に、使徒パウロはこの世の終りに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きとその再臨の前に世に現れ出る徴、例えば神に反逆し、自分を神として神の聖座に居座る「滅びの子」の出現などの験について語っていますが、そのすぐ後に、
信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて繰り返し勧めています。その話の一つが、本日の第二朗読になっています。そこには、「働きたくない者は、食べてはならない」という命令も読まれますが、パウロは、間もなく世の終りが来ると考えて労働を軽視し、残り少ない人生を働かずに楽しもうとするような人たちに警告したのかも知れません。私たちも、世の終り前に世に広まると予告されている異端説や悪の勢力に警戒しつつ、最後まで神に忠実に留まり、働き続ける覚悟を新たに堅めていましょう。

④ 本日の福音は、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王によって見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった話ですが、「一つの石も石の上に残ることのない日が来る」という予言は、それから40年後の紀元70年に実際にその通り実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、火をかけられると燃え落ちる石ですから。アウグスト皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易商が来ており、町は豊かになって建設ブームが続いていましたが、経済的には豊かに発展しつつあったその町が急に徹底的廃墟と化してしまったのです。かつてなかったほど便利にまた豊かに発展しつつある現代世界も、内的堕落の道を歩むなら、いつ恐ろしく悲惨な崩壊に落ち込むか判りません。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終りについても話しておられるからです。同じルカ福音の17章にも、主は人の子が再臨する時に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が豊かさと繁栄の最中に突然襲来することを予告しておられます。私たちも覚悟していましょう。

⑤ 「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という質問に、主は本日の福音の中で、大きく分けて三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終りはすぐには来ないことの三つであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れることです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、すなわち起こり始めている時に、キリスト者に対してなされる迫害であります。

⑥ ところで、主がここで話しておられるような徴は、一時的局部的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終りが近いと結論することはできません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中到る所で発生し、天空に何かこれまでになかったような恐ろしい現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終りが間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神から与えられるものだけに眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けてくださる新しい命を勝ち取るよう努めましょう。それはある意味で、この世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい世界への門であり、新しい命への誕生なのですから、「恐れてはならない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の災害・苦難を神の御手から感謝して受けるよう心がけましょう。主は本日の福音の後半に、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束しておられますし、「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ」「全ての人に憎まれ」ても、「あなた方の髪の毛一本も決してなくならない」と保障しておられます。そして本日の第一朗読にも、「その日は、と万軍の主は言われる」「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼には癒す力がある」という慰めの言葉が読まれます。神よりのこれらの言葉を心に堅持して、迫害には雄々しく忍耐強く対処するよう、今から覚悟を堅めていましょう。神は、弱い私たちを必ず助け導いて下さいます。

2010年11月7日日曜日

説教集C年: 2007年11月11日 (日)、2007年間第32主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. マカバイ後 7: 1~2, 9~14.   Ⅱ. テサロニケ後 2: 16 ~ 3: 5. Ⅲ. ルカ福音書 20: 27~38.

① 本日の第一朗読は、ユダヤがまだシリアのセレウコス王朝の支配下にあった紀元前2世紀の中頃に、シリア王アンティオコス四世が、国民の団結を宗教によって固めるため、全国民にギリシャ人の神々を拝ませようとして生じた、ユダヤ教迫害の時の母子8人の殉教について述べています。この迫害が、宗教創始者や伝道者だけではなく、社会的犯罪無しの一般庶民をも宗教信仰ゆえに無差別に殺害した、歴史上最初の宗教迫害であります。ギリシャの神々の神殿では豚をいけにえに献げ、その肉を食べることでその神々の力に参与すると信じられていました。しかしユダヤ人たちは、神に献げるいけにえとして使うことが許されていない豚を清くない動物と考えて、豚肉を口に入れることはアブラハムの神に対する背信・棄教と信じていました。それで、国家権力によるそのような強制に、民族をあげて強く抵抗し続けました。結局シリア王はユダヤ人たちの民間から生まれた抵抗勢力に勝てず、BC 142年には遂に、ユダヤ人に国の独立を認めざるを得なくなりました。

② 本日の第一朗読には永遠の命への復活を意味する動詞が三回読まれますが、そこに登場しているユダヤ人殉教者たちは、いずれもその来世信仰に根ざして生きており、神から授けられた律法に背かず、神に忠実であり続けるなら、その神によってあの世で永遠の命に復活させていただけるのだと、堅く信じていたようです。彼らの言葉を拾ってみましょう。最初の息子は「我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ」と言い放ち、第二の息子は「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へと蘇らせて下さるのだ」と、その希望を命をかけて表明しています。また第三の息子は「主の律法のためなら惜しいとは思わない。私は主からそれらを再びいただけるのだと確信している」と言明しており、第四の息子は「たとえ人の手で死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせて下さるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、蘇って再び命を得ることはない」などと、来世信仰・復活信仰に生きていない迫害者を憐れんでさえいます。

③ 四百年前、三百数十年前のわが国のキリシタン殉教者たちも、皆同様の強い来世信仰・復活信仰に生きていました。この世的には貧しく苦しい人生であっても、彼らはその貧しさや苦労を全てあの世の神に献げつつ、日々大きな希望と喜びのうちに生活していました。信仰と希望に生きるこのような心のある所に、神も特別に眼をかけ生き生きと働いて下さいます。察するに、彼らは日々神の不思議な助けを体験し、神の身近な現存を実感しつつ生きていたのではないでしょうか。彼らの残した数多くの言葉の背後には、そのような体験に基づく喜びが感じられます。

④ これまでの伝統という伝統が全て次々と揺らぎ出し、内面から崩壊しつつある現代世界の、黒潮のように大きな潮流に押し流されながら生活することになると思われる私たち現代人も、心の深刻な不安に打ち勝って日々大きな希望と喜びのうちに生活するには、昔の殉教者たちの生き方にもっと本腰入れて見習うべきなのではないでしょうか。この世に生まれた以上、誰もが必ず死ぬことは心で分かっているのに、目前の過ぎ行くこの世の事柄にだけ心を向けて、自分の死については考えないようにしている人が余りにも多いように思います。「いくら考えても分からないから」と言う人も多いでしょう。確かに、この世の経験に基づいて考えるように造られている人間理性でいくら考えても、経験していない死後のあの世については何も分りません。しかし、私たちにこの素晴らしい大自然とこの命を恵んで下さった偉大なお方に対する感謝の心で、謙虚に、また欺瞞の教えに対する十分な警戒心をもってたずね求めるなら、あの世の神からの声なき声での呼びかけや啓示は、そっと驚くほど多く提供されています。聖書をこの世中心の理知的精神で読まないよう心がけましょう。そこには、何よりも私たち各人の心に対するあの世の神からの呼びかけが込められ、隠されているのですから。

⑤ シリア王朝から国の独立を勝ち取った時には、まだ来世信仰に生きていたと思われるユダヤ人指導層の一派サドカイ派は、神殿礼拝の収入を独占して豊かになり、更にローマ帝国の傘下に入ってギリシャ・ローマ文明の恩恵にも恵まれて生活するようになると、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の伝統を悪用して、過ぎ行くこの世の事物や社会的権利などに執着するようになり、あの世での復活を否定するようになったようです。神の民の教会は神のもので、そのものとしては聖なるものですが、人間が指導し統治する組織体でもありますので、十分に気をつけていないと、そこに悪の力が介入する可能性を排除できません。このことは、全てが極度に多様化するグローバリズムの波にもまれて苦闘している現代の教会についても言うことができます。私たちも警戒していましょう。本日の福音ではそのサドカイ派の人々が、来世の復活を信じるファリサイ派の人々を悩ますために持ち出していたレビーラト婚の問題を、主キリストに吹っかけて、主を悩まそうとした話を扱っています。長男が先祖の伝統を第一に受け継ぐ長子権が重視されていた時代に書かれた申命記25章には、先祖以来の家名を存続させて財産が人手に渡るのを阻止するためか、兄が子なしに死んだら、弟はその兄嫁と結婚して兄の後継ぎを設けなければならないと規定されていますが、もしあの世に復活があるなら、馬鹿げたことになるというのが、彼らサドカイ派の主張でした。

⑥ 主はこれに対して、この世の人間は皆死ぬ運命にあるので、結婚によって子孫を残そうとするが、この世に死んで次の世に復活した人々は、天使たちのように、もはや死ぬことのない永遠の神の命に神の子として生きるのだから、娶ることも嫁ぐこともなく、誰の妻だ、誰の夫だなどという一切の束縛から自由になるのだ、と説明なされたようです。そして更に、復活を信じないサドカイ派の誤りを正すために、彼らが唯一聖書として重んじているモーセ五書の中にも、モーセが神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、既に数百年も前にこの世を去った太祖たちが、あの世に復活し生きているように話していることに注意を喚起しています。日本語ではこのように呼んだだけでは、それらの太祖たちが今生きているという証拠になりませんが、ここで主が引用しておられる出エジプト記3: 6には、神がモーセに「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあって、この「である」という現在形の動詞が、アブラハムたちが今も神と共に生きていることを示す証拠になることを、主は指摘なされたのです。

⑦ 私たちの人生はこの世で終わるものではなく、死後にもずーっと永遠に続くものなのです。「永遠に続く」と聞くと、あの世は何と退屈な所だろうなどと想像する人もいますが、それは井の中の蛙が考えるような現実離れの想像だと思います。聖書がそれとなく啓示している断片的な言葉から察せられるあの世は、この小さな地球上の目に見える経験からの想像を遥かに絶する大きな霊的世界で、その世界に迎え入れられた神の子らは、この世の体とは比較できない輝かしい体に復活し、仕合わせに暮らす処のようです。退屈するどころか、尽きぬ感動と喜びと感謝のうちに神を讃え、皆天使たちのように神出鬼没に動き回りつつ、神から与えられた命を永遠に楽しく暮らす処のように思われます。いかがなものでしょうか。

⑧ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちの主イエス・キリスト御自身、ならびに私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えて下さる私たちの父である神が、どうかあなた方の心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者として下さるように」と祈っていますが、使徒パウロにこの祈りをさせて下さった慈しみ深い父なる神は、私たちが皆この苦しみの世界から死の門をくぐって美しいあの世に生れ出る日を、大きな愛の御心でお待ちになっておられると信じます。この喜ばしい信仰と希望を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年10月30日土曜日

説教集C年: 2007年11月4日 (日)、2007年間第31主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 11: 22 ~ 12: 2. Ⅱ. テサロニケ後 1: 11 ~ 2:   2 Ⅲ. ルカ福音書 19: 1~10.

① 本日の第二朗読は、テサロニケ教会への第二の書簡からの引用ですが、この書簡が果たして使徒パウロが書いたものであるかどうかは、不明のようです。テサロニケ教会への第一の書簡は確かに聖パウロのものですが、そこではキリストが再臨する終末が突然襲来するように語られているのに、第二の書簡ではその終末はまだ来ていないとして冷静さと忍耐とが説かれており、まず神に逆らう滅びの子が現れ出て、自分を神のように拝ませようとサタンの力であらゆる不思議なことをなし、この世に勢力を拡張した後に初めて主キリストが再臨し、その勢力の支配を裁き、崩壊させるとされています。表現の仕方にも、使徒パウロの他の書簡と多少違っている点が見受けられるので、パウロの名で誰か別の人が書いた書簡ではないのか、という聖書学者の意見もあります。しかし、使徒パウロが、テサロニケ教会で第一の書簡が少し誤解され、世の終わりが近いと騒ぎ立て、多くの信徒たちの心を不安にしたり、同調しない人々に圧力をかけたりする人々がいることを知って、第二の書簡を認めた可能性も否定できません。

② 第二朗読の始めにある「いつもあなた方のために祈っています」という言葉は、テサロニケの信徒団が浮き足立っている心のそのような動揺や内部対立などを、神に対する全面的信頼と、どんな苦しみの最中にあっても忍耐して待つ心とによって乗り越え、主の突然の再臨の日まで落ち着いて豊かに信仰と愛の実を結ぶよう、祈っていますという意味なのではないでしょうか。察するに、現代に生きる私たちのためにも、神をはじめあの世の人々は皆、同様に希望し呼びかけているのではないでしょうか。過去の時代とは比較にならない程文明の機器が大きく発達し、それに適応しようと際限なく改造を重ねている家庭や地域社会などの伝統的組織の中にも、また極度の多様化と特殊化の巨大な流れの中で、統制力を失いつつある現代の国家にも、自分の人生の意義を見出せずに悩み苦しむ人が、増加の一途を辿っているようですから。

③ 十年ほど前からでしょうか、わが国では中高年の人たちの間で自殺者が激増していますが、その理由の一つは、今の世に生き甲斐が感じられないことにあると思われます。自殺した人たちの多くは、子供の時から競争また競争の忙(せわ)しない能力主義教育を受けて来た人たちで、長じても実社会での就職難や実績競争に苦しみ、鍛えられて来た人たちでした。しかし、歳が進んで自分よりも若い意欲溢れる人たちや新しい技術や能力を身につけた若者たちが増え、自分の力ではもう対抗できないのを痛感するようになると、自分の存在意義がどこにあるのかと悩むようになります。人々が家のため、社会のため、国のためと思って働いていた昔の落ち着いていた時代には、その家・社会・国家がいつまでもしっかりと自立していて、所属するメンバーを末長く大切にしていましたから、年老いて働けなくなっても安心しておれましたが、海流のように巨大なグローバル化の流れに家も社会も国家も呑み込まれ、流されつつある現代世界にあっては、生活が驚く程便利で豊かになりつつある反面、各人の過去の働きは次々と忘却の淵に捨てられてほとんど誰からも感謝されず、皆はただ新しい流れに乗り遅れまいと、続々登場する新しい流れを利用しようとのみ努めているように見えます。これが、多くの現代人に生き甲斐を見出せなくしているのだと思います。

④ ではその人たちが、このようなグロバーリズムの時代にも生き甲斐を見出して日々喜んで生きるには、どうしたら良いでしょう。私は、この全宇宙をお創りになった神の働きに心の眼を向け、自分の力よりも、その神の力に生かされて生きようと心がけるなら道は開けて来ると、自分の数多くの体験から確信しています。目に見えない創造神の存在と働きに身を委ね、キリストを通して啓示された神の御旨に素直に聞き従おうとすることは、自分の好みや傾向などを常に相対化しながら、ある意味では自分に死に、自分を神の御旨に絶えず関連させて変えて行こう、高めて行こうとすることであり、パスカルの言葉を引用するなら一種の冒険的な「賭け」であります。しかし、自分中心に考え勝ちであったこれまでのエゴから抜け出て、神の導きに聞き従い、神の働きに身を委ねる生き方に漕ぎ出すと、やがて自分が、今まで知らなかった全く新しい希望と喜びと確信に満ちて生き始めるのを体験するようになります。それは、神がご自身を信じる人にお与えになる、神の命・神の働きへの参与だと思います。

⑤ 「神を信じる」と聞くと、教会という組織の枠に入れられて、様々の堅苦しい教えや規則に縛られながら生きる生活を連想する人がいます。しかし、組織や教義や規則は、様々な誤りの危険から私たちを守って、神の祝福を全人類の上に呼び下したアブラハム的信仰に生きさせるためのもの、いわばガードレールや道しるべのようなであって、アブラハム自身は後の世に広まったそのような理知的組織も教義も規則も知らずに、ひたすら実生活の中でその時その時に示される神の導き・働きに従って生きていたと思います。理知的な頭の知識は現代の私たちよりも遥かに少ししか知らず、自然界や人間社会をごく単純素朴に眺めて暮らしていたことでしょう。しかし、神からの呼びかけ・働きかけに対する心のセンスは、神への愛と信頼によって鋭敏に磨かれていたと思われます。そして神への愛と従順に生きようとする心の意志も、日々ますます強靭なものに成長していたとのではないでしょうか。2千年前の主キリストも聖母マリアも、同様の生き方をしておられたと思います。心が目前の規則や困難・貧窮などに囚われ過ぎず、それらを越えてますます高く神への愛に成長しようと努める所に、キリスト教信仰の特徴があります。

⑥ 全ての伝統がますます多様化され相対化されつつある現代世界に生きる私たちも、何よりもこのアブラハム的・新約時代的な、主体的で自由な信仰生活に心がけるべきだと思います。これまでの伝統にある難しい教理や小難しい規則などは知らなくても、子供のように単純で素直な心で神の働きを歓迎し、それに従おうと努めるなら、神がそういう私たちの心を受け入れ、私たちのために働いて下さる不思議を、幾度も体験するようになります。これが、極度に不安で複雑になりつつある現代世界の中で、神の働きに根ざし自由で主体的な、新しい生き甲斐を見出す道ではないでしょうか。聖書によると、神との関わりは神よりの言葉としるしをそのまま素直に受け入れるよって始まるようです。神から啓示された言葉は勝手に取捨選択せずに、全部そのまま素直に受け入れ、神が与えて下さる洗礼や祝福などのしるしも、幼子のように素直に身につけて頂きましょう。こうして神の子、神の所有物となる人の心に、神が救いの働きをして下さるのです。

⑦ 本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働く、ユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな無花果桑の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を家に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。律法のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。

2010年10月24日日曜日

説教集C年: 2007年10月28日 (日)、2007年間第30主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 35: 15b~17, 20~22a. Ⅱ. テモテ後 4: 6~8, 16~18. Ⅲ. ルカ福音書 18: 9~14.

① 昨日の嵐の雲が台風20号に連れ去られて、今朝はすばらしい秋晴れになりましたが、朝の3時半頃にふと起きて外を眺めましたら、東の方に明けの明星、金星が大きく輝いており、中天には満月を二日ほど過ぎた月が夜の世界を照らしていました。地上が嵐にどんなに苛まれても、天上の月や星は、こうしていつも静かに私たちを見守り、護っていて下さるように覚えました。

② 本日の第二朗読は、ローマで囚人とされている使徒パウロがその弟子テモテに宛てて書いた書簡の最後の部分からの引用ですが、パウロは自分の殉教の時が近いことを自覚しながら、救い主キリストに対する信仰を広めるため、また多くの人々を神による救いへと導くために、長年働き続けて来た自分の一生を感謝の心で静かに回顧しつつ、この書簡を書いているようです。彼は苦難や苦労の多かったその人生を、主キリストのように、多くの人の救いのために神に捧げる「いけにえ」として営んでいたようで、「私自身は既にいけにえとして捧げられています」と書いていますが、しかし神によってそのような神の御旨のままに生きる生き方に召されたことに、大きな喜びと満足を覚えていたのではないでしょうか。「私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠 (すなわち永遠の命の光栄)を受けるばかりです。正しい審判者であられる主が、それを私に授けて下さるのです」と書き、最後に「主は私を全ての悪業から助け出し、天にあるご自分の国へ救い入れて下さいます」とも書いています。

③ 私たちも皆、やがてこの世に別れてあの世に移る日がそう遠くないのを痛感し始めている身ですが、自分の人生の最後に自分の一生を振り返り、この世に生を受けたことを感謝しながら、また神があの世で与えて下さる永遠の光栄と幸せに期待しながら、使徒パウロのように、「主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン」と満面の喜びで神を讃えることができるなら、どんなに嬉しいことでしょう。その時、死はもう悲しい涙の別れではなく、あの世の栄光への門出であり、新しい幸福な命への誕生なのですから。パウロの模範を心に銘記しながら、私たちも少しでもそれに近づき、周囲の人たちからも羨ましがられる程の美しい死、大きな希望に溢れた死を迎えるように努めたいものです。しかし、そのためには彼が日ごろから心がけていたように、内的にいつも自分のエゴというものに死んで、主キリストに生きていただく、キリストの霊の生きている器のようになって、日々神と人とに仕えようと励む必要があるのではないでしょうか。パウロはガラテア書2: 20に「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのだ」と書いていますから。

④ 「キリストが私の内に生きる」と言っても、私が内的にも外的にもキリストに成り切ることはできません。弱い人間、罪ある人間としての私は、あくまでもその弱さのまま留まり続けるのです。鎌倉時代に浄土信仰を広め、阿弥陀仏の命に生かされるよう努めていた法然上人は、『選択集』の中で「水月を感じて昇降をうる」と書いています。静かな池の水は天に昇りはしませんが、水面に月を映します。満天の星空に輝く月はその池の中に降って来ているのではないですが、その池の水面に映り輝いています。同様に他の多くの池の水面にも輝いていることでしょう。法然の言葉は、その美しい現実を讃えて、私たちに一つの宗教的真理を教えているのです。池の水は私たち人間のシンボルですが、それはどれ程濁っていても、この世のガラクタが表にでしゃばったり心が波立ったりしていなければ、立派に仏の心、神の心を映し出し輝かせることができます。水が月になるのではなく、水のまま月をこの地上に映し出すのです。神は、このようにして私たちの心に働いて下さるのです。私たちの心は皆そのようにして輝き、闇の支配する暗いこの世を少しでも明るく美しくするよう、神から創られているのではないでしょうか。

⑤ 本日の第一朗読は、紀元前2世紀頃に書かれたシラ書からの引用ですが、そこでは神を畏れることに始まる宗教的智恵に従う生き方が勧められています。自分がどれ程弱く貧しい人間、そして自分の歩んで来た一生がどれ程怠りと失敗の連続であったように見えても、主に信頼し、主に助けを願い求める心があるならば、心配する必要はありません。本日の朗読にもあるように、全てをお裁きになる主は、貧しいからといってえこひいきをなさらず、虐げられている者や、孤児・やもめの願いを特別に御心に留めて下さる方ですから。御旨に従って主に仕える人や謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて主の御許に届く、とまで述べられています。察するに、これらの言葉は数多くの体験に基づいて語られているのではないでしょうか。実は、今年この10月で77歳に達した私自身の体験を振り返ってみても、また私がこれまでに見聞きした多くの実例を思い出してみても、やはり同様に断言してよいように思います。私は自分に与えられたこの長い人生を回顧して、全知全能の神が実際に私たちの全ての言動を見ておられ、遅かれ早かれその全てに裁きや報いを与えておられると確信しています。

⑥ 本日の福音に主が語られた譬え話の中には、神殿に上って祈る二人の人物が登場しますが、二人の祈る内的姿勢は対照的に違っています。立って祈るファリサイ派の人は、おそらく胸を張って、自分が他の罪人たちのようでないことを神に感謝し、自分が週に二回断食し、全収入の十分の一を神に捧げていることを、神がお忘れにならないよう申し上げています。しかし、その心の眼は過ぎ行くこの世の外的ガラクタや自分の日々なしている外的業績にだけ向けられていて、察するに、その心の池の水面にはこの世のガラクタがたくさん浮かんでおり、高慢な野心や虚栄心などの風がその水面をいつも波立たせているのではないでしょうか。それに比べると、末席に立って自分の胸を打ちながら、ひたすら聖なる神を畏れ、神の憐れみを願い求めて祈った徴税人の方は、心の水面からこの世のガラクタを全て除き去り、神の方にだけ心の眼を向けていたのではないでしょうか。

⑦ 主は最後に、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる」とおっしゃいましたが、ここで「へりくだる者」とあるのは、この世中心・自分中心の価値観を退けて、万事においてひたすら神の御旨中心に全てを考え、神への従順と愛の心で謙虚に生きようとしている人のことを指しているのではないでしょうか。神はそのような人を正しい者とし、事ある毎に守り導き、次第に高く高く上げて下さるのだと思います。私たちも主キリストや聖母マリアの静かで美しい模範の月を心に宿しながら、激動する今の世の流れを超越し、ひたすら神への従順と愛に励む謙虚な生き方を体得するよう心がけましょう。本日のミサ聖祭は、そのための照らしと恵みを願って献げます。

2010年10月17日日曜日

説教集C年: 2007年10月21日 (日)、2007年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 17: 8~13. Ⅱ. テモテ後 3: 14 ~ 4: 2.    Ⅲ. ルカ福音書 18: 1~8.

① 本日の第一朗読には、「アーロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた」という言葉がありますが、これは古代の神の民が神に祈る時、両手を斜め上に高く挙げて祈っていたからだと思います。キリスト教会に両手を合せて祈る慣習が普及したのは、皇帝アウグストの政策で盛んになったシルクロード貿易で、東西文化の交流も盛んになり、両手を合せて祈るインドやシャム辺りの綺麗な慣習が導入された2,3世紀頃からだと思います。

② モーセが丘の上で手を挙げて祈っているとイスラエル人が勝ち、疲れて祈りを止めるとアマレク人が勝ったという言葉を、あまりにも外的、短絡的に理解しないよう気をつけましょう。神は祈っている間はお助けになるが、祈らない時にはお助けにならないような方ではありません。モーセがイスラエル軍の指揮者ヨシュアに「私は神の杖を手に持って、丘の頂に立つ」と告げていることも、見落としてはなりません。神の杖、これはモーセがあの出エジプトという難事業を遂行するために神から与えられた唯一の道具であり、それは神が彼と共にいてくださるという約束のしるしでもありました。モーセは、イスラエル人たちを滅ぼし尽くそうとしてやって来た強力なアマレク人たちを見た時、この杖を通して働いて下さる神に頼る以外に救われ得ないという深刻な恐怖感のうちに、この神の杖をもって丘の上に立ち、神に真剣に祈ったのではないでしょうか。彼のその真剣な祈りと信頼に応えて、神がイスラエル軍を助けて下さったのだと思います。手を上げて祈る時に勝ち、手を下ろすとアマレク人が優勢になったなどという、外的一時的な勝ち負け、進退の現象にあまり囚われないよう気をつけましょう。神に信頼して真剣に祈る者には、必ず最後の勝利が与えられるのですから。モーセは目先の勝ち負け現象に一喜一憂したりはせずに、それらを超越して、ひたすら神の愛に対する信頼を新たにしながら、終日祈り続けていたのだと思います。そして神はその信頼と祈りに応えて、最後の大勝利を与えて下さったのだと思います。

③ この前の日曜日にも申しましたように、私は本日の第二朗読の出典であるテモテ後書は、自分の愛弟子であるテモテ司教に対する使徒パウロの遺言のような書簡だと考えます。パウロはその中で、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と命じた後、「全て神の霊の導きの下に書かれ」ている聖書が、「信仰を通して救いに導く知恵をあなたに与えることができます」と説いています。そして「神の御前で、…キリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」と前置きして、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。咎め、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。云々」と、多少くどく感ずる程、厳しい命令を続けています。パウロは、自分たち使徒が殉教して死に絶えた後、まだ歴史の浅い教会には、外の世界からの迫害や内部からの異端説などの嵐に、根底から揺り動かされるという大きな試練の時が来ることを予感して、このような命令を書き残したのではないでしょうか。

④ 私たちの生きている「グローバル時代」といわれる現代も、キリストの教会にとっては、これまでの伝統的信仰が内外の様々な新しい荒波によって根底から揺り動かされている、大きな試練の時だと思います。極度の多様化や相対化などの荒波に抗して、主キリストの信仰遺産を護り抜くには、神の導きに対する徹底した従順と信頼と共に、実り少ない絶望的事態にも怯まずに忍耐強く神に祈ること、時には咎め、戒め、励ますことも大切なのではないでしょうか。使徒たちの残した戒めの言葉を心に銘記しながら、逃げ腰にならず積極的に、現代の巨大な激流をバランスよく渡り切るよう努めましょう。神に信頼し、神の杖をもって祈り続けたモーセのように。

⑤ 本日の福音の中で、主は「気を落とさずに絶えず祈り」続けることを教えるため、一つの譬え話を語っておられます。ユダヤ人やアラブ人の社会は、今日でも男性優位の傾向が根強く残っていますが、古代には外的社会的に女性を軽視する風潮が強かったと思われます。それで、聖書にもイスラム教のクーランにも、夫や父親の保護を失った寡婦や孤児の権利を弁護し尊重させようとする規則や言葉がたくさん読まれます。出エジプト記22章には、「寡婦や孤児は全て苦しめてはならない。もしあなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞き入れる」という神の厳しい警告の言葉も読まれます。本日の福音の譬え話に登場する不正な裁判官は神の裁きを恐れず、人を人とも思わないような人だったので、そういう規則のことは知っていても、寡婦の訴えなどは取り上げようとしなかったのだと思います。察するに、その訴えというのは、古代にも多かった遺産問題のトラブルであったでしょう。遺産を不当に横取りされて貧しくなった寡婦は、これからの一生に関わることですから我慢できず、いつまでも叫び続け、訴え続けるのだと思います。

⑥ 始めは取り合おうとしなかった裁判官も、遂にその寡婦の執念に負け、裁判に立ち上がったようですが、神信仰に生きる人も、このような「心の執念」ということもできる、不屈の真剣な信仰の叫びを持ち続けて欲しい。そうすれば神は、夜昼叫び求めている選ばれた人たちの願いを、いつまでも放っておかれることはないというのが、この譬え話の趣旨だと思います。

⑦ 必要なものを一言で、あるいはワンタッチで入手できる豊かさと便利さに慣れている現代人には、祈りの中で二、三度申し上げても神に聞き入れられなかった願い事を、いつまでも根気強く願い続けるということは、難しいかも知れません。すぐに聞き入れられないと嫌気がさし、沈黙の神に、冷淡・無関心な態度をとり勝ちになるかも知れません。しかし神は、私たちがいつまでも口先だけの祈り方をしていないで、もっと苦しんで奥底の心を目覚めさせ、心の底から本気になって祈るのを待っておられるのではないでしょうか。「本気」は「根気」なのです。日々真剣に根気強く祈る人の祈りは、必ず神に聞き入れられます。それが、主がこの譬え話を通して教えておられる真理だと思います。忍耐して根気よく祈っても、神は少しも変わらず、沈黙し続けておられるでしょう。しかし、苦しみながらのその真剣な祈りによって、私たちの心がゆっくりと変わり始め、神が待っておられる霊的土壌の中に深く根を下ろすようになります。

⑧ 相田みつをさんの「いのちの根」という詩をご存知でしょうか。「なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに くるしみにたえるとき いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が    ふかくなる」という詩であります。私たちの心が苦しみに耐えて祈りつつ、黙々と根を深く下ろし、神が待っておられる地下の水脈にまで達すると、その時神の神秘な力が私たちの内に働き出して下さるのではないでしょうか。しかし主は最後に、人の子が来臨する時、この地上にそのように本気になって叫び求めている信仰者を見出すであろうか、というような疑問のお言葉を残しておられます。

⑨ ルカ福音書によると、主が弟子たちにこの話をなさったのは、エルサレムへの最後の旅行中でしたが、弟子たちはこの段階になっても、まだ神に心から本気になって祈るようなことはしていなかったのではないでしょうか。しかし、このルカ福音書18章の後半には、エリコの盲人が「ダビデの子イエス様、私を憐れんで下さい」、「ダビデの子イエス様、私を憐れんで下さい」と真剣になって叫び続け、遂に主から癒して頂いた話が載っています。この盲人のように、本気になって叫び続ける祈りの姿を、主もゲッセマニで弟子たちにお見せになっておられます。私たちもその模範を心に銘記して、将来の時に備えていましょう。

2010年10月10日日曜日

説教集C年: 2007年10月14日 (日)、2007年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. 列王記 5: 14~17. Ⅱ. テモテ後 2: 8~13.
     Ⅲ. ルカ福音書 17: 11~19.

① 本日の第一朗読である列王記によりますと、シリア王の将軍ナアマンがハンセン病にかかって苦しむようになったら、イスラエルから戦争捕虜として連れて来られ、ナアマンの家に下女として働いている女が、サマリアにいる預言者エリシャの話をして、その預言者に病を癒してもらうよう勧めました。それで将軍ナアマンは、イスラエル国王に宛てたシリア王の書簡をもらい、銀10タラント、金6千シケル、晴れ着の服10着など、預言者に差し上げる高額の贈り物を携え、数頭の馬や多くの随員を連れ、戦車に乗って神の人エリシャの所へやって来ました。ところが、預言者は入口に立つ彼を出迎えようとはせず、取り次いだ下男を介して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば体は元に戻り、清くなります」と言わせました。世間一般の儀礼を無視したこのぶっきらぼうの言葉に驚き気を悪くしたナアマンは、「彼自ら出て来て私の前に立ち、神の御名を呼んで私の患部に触れて、癒してくれると思っていたのに」と言い、更に「イスラエルのどの川の水よりも、ダマスコの川の水の方がきれいだ」などと言って、預言者の元から立ち去りました。

② しかし、その時家来の者たちが近づいて、「あの預言者がもっと大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなしたでしょうに。ヨルダン川で洗えば清くなると命じただけなのですから」と言って、その言葉を信じてその通りなすよう勧めました。それでナアマンは思い直し、ヨルダン川の水に七度身を浸して洗ったら、病は癒され小さな子供の体のように清くなりました。それでナアマンが随員全員と共に神の人の所に引き返し、真の神を信奉するようになったというのが、本日の第一朗読の話です。キリスト教の神は私たちから、修験道の行者たちがなしているような難行苦行や、数十日も続ける断食などを求めておられるのではありません。謙虚に従おうとする心さえあれば、誰にでもできるような簡単な実践を求めておられるだけなのです。ただしかし、罪に穢れている俗世間の価値観やこの世の幸せ第一の精神を脱ぎ捨て、何よりもあの世の神のお言葉に徹底的に従って生きようとする、神中心の価値観と博愛の実践意志とを切に求めておられます。その心のある所に神の救う力が働き、悩み苦しむ私たちを癒し、守り、導いて、周辺の人々や社会にも救いの恵みを豊かに与えて下さるのです。

③ 本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた書簡からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、他の囚人たち数名と共にローマに連行されたパウロが、紀元61, 2年頃にローマで番兵一人をつけられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた頃の書簡ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて、殉教を目前にしていた頃に書かれた書簡であると思います。従って、この書簡は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちばかりでなく、獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にして、その牢獄で説いた福音の要約であると思われます。

④ 本日の福音は、主キリストによるハンセン病者たちの癒しについての話ですが、ナアマンを癒したエリシャと同様、主はここでも遠くから命令を与えただけで、病者の体に触れて癒されたのではありません。社会から公然と追放され、人里離れた所で死を迎えるようにされていた当時のハンセン病者たちは、その病気を社会の人に移さないため、人に近づいたり話しかけたりすることも禁じられていました。その極度の寂しさ故に、病者たちはよく群れをなし、互いに助け合って生活していたのかも知れません。夜にはそっと人里に近づいて、村人たちがキリストによる奇跡的治癒について話し合っているのを、密かに聞いていたことも考えられます。それでその主キリストがある村に近づかれると、10人のハンセン病者たちが遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて「イエス様、先生、私たちを憐れんで下さい」と願いました。主はそれを見て、一言「祭司たちの所へ行って、体を見せなさい」とだけおっしゃいました。万一ハンセン病が治った時には、祭司たちがそのことを確認し宣言すれば、社会復帰ができるからです。主は彼らの体に触れて癒されたのではありません。しかし、彼らはそのお言葉を聞いて、すぐにそれに従い、それぞれ自分たちの祭司の所へ出かけました。彼らの体は、この従順と実践行為の過程で癒され清くなりました。ゲーテは「奇跡は信仰の子である」と書いているそうですが、この信仰は、単に頭で全くそうだと考え信じているだけの言わば「頭の信仰」ではなく、神の言葉に従って実際に行動する意志的な「心の信仰」であり、心にその実践的信仰が働く時に、神の力が発動し奇跡的癒しが起こるのです。

⑤ 癒された人の一人は、自分の体が癒されているのを見て、大声で神を賛美しながら主の所に戻って来て、主の足元にひれ伏し感謝しました。その人はユダヤ人ではなく、サマリア人でした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人は、ユダヤ人だったのでしょうか。としますと、ファリサイ派が活躍していた当時のユダヤ社会では、この世で不幸を避け幸せになるためにも律法の厳守が異常なほど強調されており、ユダヤ人は皆子供の時から頭にそのことを叩き込まれていましたから、癒されたユダヤ人たちは、社会復帰が認められたら、今後は律法を守って幸せに暮らそうなどという、自分個人の嬉しい社会復帰と生活のことで頭がいっぱいで、恩人のイエスや神に感謝することなどは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。ファリサイ派の宗教教育では、神は無限に清い存在で、罪に穢れているこの世からは遥かに遠く離れておられる方であるかのように教えられていたでしょうから。しかし、これは人間が勝手に作り上げて広めたこの世中心の思想で、神は、特に主キリストの来臨によって、私たちの想像を絶するほど私たちの身近に隠れて現存し、苦しんでいる人たちを救おう、助け導こうとしておられるのです。何よりもその神の愛と働きに心の眼を向け、感謝の心で生活するよう心がけましょう。

⑥ 主は大声で神を賛美しながら感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、このサマリア人は律法のことは知らないので、ただ現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けていたのではないでしょうか。本日の日本語福音には「その中の一人は、自分が癒されたのを知って」と翻訳されていますが、ギリシャ語原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に体の目で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味合いのエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で鋭敏に感知したり洞察したりする時に、聖書で用いられることの多いこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも心の眼や心のセンスを磨くよう心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している、隠れている神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などにばかり囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日々の体験の中にあって、何よりも自分に対する神の愛の保護や助け・導きなどに信仰と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から切に求めておられる信仰なのではないでしょうか。「あなたの信仰があなたを救ったのです」という主のお言葉から、これらのことをしっかりと学び日々実践しつつ、神の望んでおられる新約時代の信仰の生き方を体得し実践するよう努めましょう。

2010年10月3日日曜日

説教集C年: 2007年10月7日 (日)、2007年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ハバクク 1: 2~3, 2: 2~4. Ⅱ. テモテ後 1: 6~8, 13~14. Ⅲ. ルカ福音書 17: 5~10.

① 本日の第一朗読は、紀元前600年頃、ユダ王国がバビロニアに滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの話ですが、先週の日曜日にも話したように、豊かさの中で贅沢に生活していたユダ王国の支配者たちの相互対立や不正・不法には目にあまるものがある上に、周辺の外国勢力との関係にも深刻な不安の念を抱かせるものがあって、ユダ王国末期の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求めて、叫ぶように声高く祈っていたようですが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってその贅沢な社会に迫りつつある様々な災いの幻を預言者に見せておられたようです。

② それが本日の第一朗読の前半にある預言者の嘆きですが、後半部分は第2章の始めからの引用で、この前半と後半との間にはかなり長い話が省かれています。その省かれた部分の中で、神は預言者の嘆きに答えて、「お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。大いに驚くがよい。見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略を詳しく啓示します。それで預言者は、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に、一層激しく嘆きます。それに対する神の答えが、後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神がちっとも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過(よ)ぎります。それは、本当に苦しい試練の時なのです。神は私たちの信仰を深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を体験させるのです。今大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

③ その時に人間中心・自分中心の立場や観点から脱皮して、神の御旨中心の立場に立って神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかもその支配が私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いますが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、それに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に素直に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する「信頼」を意味しています。

④ 本日の第二朗読のはじめには、「私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」という言葉が読まれますが、これは叙階の秘跡によってテモテ司教に授与された神の賜物と、それに伴う神からの使命とを指していると思います。それは叙階式の時にだけ注がれる一時的な恵みではなく、その時霊魂の奥底に湧出した内的泉のように、その後も継続して続いている賜物であります。ですから使徒パウロは、その賜物を「再び燃え立たせるように」と強く勧めているのです。実は、私たちの受けている洗礼の秘跡も、堅信の秘跡も、私たちの霊魂の奥底にそれぞれそのような恒久的賜物を授与する秘跡であります。私たちも皆、神から洗礼の恵みの内的泉を、また堅信の秘跡による聖霊の愛の泉を霊魂の奥底に頂戴しているのです。日々その泉に心の眼を向けて力と導きを受けつつ、自分に与えられている神からの使命に生きるよう心がけましょう。それが、新約時代の人たちに神から求められている、「信仰によって生きる」生き方だと思います。

⑤ ルカ福音書によると、本日の福音のすぐ前に「一日に七回あなたに罪を犯しても、七回悔い改めると言うなら、赦してあげなさい」という主のお言葉があります。それで使徒たちは、そこまで自分の同僚を赦す自信はないからか、本日の福音の始めにあるように「私たちの信仰を増して下さい」と願ったようです。察するに、彼らは信仰を自分たちが何かを為すための能力と考えていたのではないでしょうか。そこで主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになります。彼らを失望させたくないからでしょうか、端的にあなた方には「まだ本当の信仰がない」とは話されませんが、しかしこのお言葉から察しますと、あなた方には神がお求めになっておられる本当の信仰は、まだ芥子種一粒ほどもないという意味にもなると思われます。

⑥ では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。我なしのそういう人は、神がその人の罪をお赦しになるなら、自分もその人の自分に対する負い目を百回でも千回でも喜んで赦すことでしょう。それが、神の求めておられる信仰というものであり、全能の神はそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の持つ能力で、何かの奇跡的成功を獲得し体験するのではありません。神がその人を介して働いて下さるのです。

⑦ 本日の福音の後半は、私たちの持つべきその真の信仰について説明しています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食の用意を必要としておられるなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家の嫁さんたちは、皆このようにして我なしに家族皆に奉仕していました。我なしの奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを皆無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。二十数年前頃だったでしょうか、「主婦業」という言葉が社会に流行してことがありました。全てを儲ける金銭で評価する価値観が広まった中で、家庭の主婦たちの自己主張と結ばれて生まれた言葉であると思いますが、しかし、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場ではないでしょうか。家庭の無料奉仕の愛をパイプラインとして、神の恵みが私たちの上に、また社会の上に豊かに注がれるのだと思います。私たちがこういう信仰と愛の精神に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年9月26日日曜日

説教集C年: 2007年9月30日 (日)、2007年間第26主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 6: 1a, 4~7. Ⅱ. テモテ前 6: 11~16.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 19~31.


① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の中頃に多くの貧民を犠牲にして獲得した富で、贅沢三昧に生活していた神の民、北イスラエル王国の支配者たちに対する、アモス預言者を介して語られた神の警告であります。はじめに「災いだ。シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者たちは」とありますから、神はシオン、すなわちエルサレムにいるユダヤの支配者たちにも、サマリアにいる北王国の支配者たちと同様に厳しい警告の言葉を発せられたのだと思います。これらの警告の20数年後の頃でしょうか、残忍さで著名なアッシリアの襲来で、サマリアの支配者たちは徹底的に滅ぼされ、この時は難を逃れたエルサレムの支配者たちも、その後に興隆したバビロニアの襲来で亡国の憂き目を見るに到りました。過度の豊かさ・便利さ・快楽などは、人間本来の健全な心の感覚を麻痺させ眠らせて、神の指導や警告などを無視させ、怠惰な人間にしてしまう危険があります。人類が未だ嘗て経験したことがない程の大きな豊かさと便利さの中で生活している現代の私たちも、健全な心のセンスを眠らせ麻痺させないよう気をつけましょう。

② 本日の第二朗読は、「神の人よ、あなたは正義、信心、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」という言葉で始まっていますが、このすぐ前の箇所には、宗教を利得の道と考える者たちに対する厳しい非難の言葉が続いていますから、この第二朗読も、金銭欲に負けないために心がけるべきこととして読むこともできます。例えば本日の朗読箇所のすぐ前の9節と10節には、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭欲は、全ての悪の根です。云々」とあります。富と豊かさの礼賛は、心の中に悪霊を招き入れる一種の危険な偶像礼拝だと思います。豊かさの中に生活している私たちも、このことを心に銘記し警戒していましょう。

③ 本日の福音は、先週の日曜日の福音である不正な管理人の譬え話に続いて、主がファリサイ派の人々に語った譬え話ですが、当時のファリサイ派の間では次のような民話が流布していました。ほぼ同じ頃に死んだ貧しい律法学者と金持ちの取税人についての話です。貧しい律法学者は会葬者もなく寂しく葬られたが、金持ちの取税人の葬式は、町全体が仕事を休んで参列するほど盛大であった。しかし、学者の同僚が死後の二人について見た夢によると、学者は泉の水が流れる楽園にいるのに、取税人は川岸に立ちながらも、その水を飲めずに苦しんでいたという話です。察するに、主はよく知られていたこの民話を念頭に置き、そこに新しい意味を付加し、それを新しい形に展開させながら、本日の譬え話を語られたのだと思います。主は以前に、ルカ福音書6章にあるように、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである」、「富んでいるあなた方は不幸である。あなた方はもう慰めを受けている」と話されたことがありますが、この逆転の思想が本日の譬え話の中でも強調されています。

④ しかし、この世で貧しかった者はあの世で豊かになり、この世で豊かに楽しく生活していた者はあの世で貧困で苦しむようになるなどと、あまりにも短絡的にその逆転の思想を受け止めないよう気をつけましょう。この世で貧しく生活していても、その貧しさ故に金銭に対する執着が強くなり、恨み・妬み・万引き・盗み・浪費などでいつも心がいっぱいになっている人や、貧しい人々に対する温かい心に欠けている人もいます。他方、この世の富に豊かであっても、事細かに省エネに心がけ、無駄遣いや過度の贅沢を懸命に避けながら、努めて清貧に生活している人、生活に困っている人たちに対する応分の援助支援に惜しみなく心がけている人もいます。これらのことを総合的に考え合わせますと、本日の譬え話の主眼は、自分の楽しみ、名誉、幸せなどを最高目標にして、そのためにはこの世の物的富ばかりでなく、親も隣人も社会も神も、全てを自分中心に利用しようとする精神で生きているのか、それとも神の愛に生かされて生きること、その御旨に従うことを最高目標にして、そのためには自分の能力も持ち物も全てを惜しみなく提供しようとする精神で生きているのか、と考えさせ反省させる点にあるのではないでしょうか。

⑤ 譬え話に登場している金持ちは、門前の乞食ラザロを見ても自分にとって利用価値のない人間と見下し、時には邪魔者扱いにしていたかも知れません。それが、死んであの世に移り、そのラザロがアブラハムの側にいるのを見ると、自分の苦しみを少しでも和らげるために、また自分の兄弟たちのために、そのラザロを使者として利用しようとしました。死んでもこのような利己主義、あるいは集団的利己主義の精神に執着している限りは、神の国の喜び・仕合せに入れてもらうことはできません。自分中心の精神に死んで、ひたすら他者のために生きようとする神の奉仕的愛の精神に生かされている者だけが入れてもらえる所だからです。察するに乞食のラザロは、死を待つ以外自分では何一つできない絶望的状態に置かれていても、この世の人々の利己的精神の醜さを嫌という程見せ付けられ体験しているだけに、そういう利己主義に対する嫌悪と反発から、ひたすら神の憐れみを祈り求めつつ、自分の苦悩を世の人々のために献げていたのではないでしょうか。苦しむ以外何一つできない状態にあっても、神と人に心を開いているこの精神で日々を過ごしている人には、やがて神の憐れみによって救われ、あの世の永遠に続く仕合わせに入れてもらえるという大きな明るい希望があります。福者マザー・テレサは、そういうラザロのような人たちに神の愛を伝えようと、励んでおられたのだと思います。

⑥ 一番大切なことは、この世の人生行路を歩んでいる間に、自分の魂にまだ残っている利己的精神に打ち勝って、あの世の神の博愛精神を実践的に体得することだと思います。戦後の能力主義一辺倒の教育を受けて、心の教育や宗教教育を受ける機会に恵まれなかった現代日本人の中には、歳が進むにつれて、この世の幸せ中心の従来の能力主義的「追いつけ、追い越せ」教育に疑問を抱き、もっと大らかな心の余裕をもって、相異なる多くの人と共に開いた心で助け合って生きる、新しい道を模索している人たちも少なくないようです。二、三日前のある新聞によると、名古屋市の職員の中で「心の病」を理由にして長期間休養する例が、最近非常に多くなっているそうです。仕事をするための情報技術の能力は優れていても、その地盤をなす心がその根を大きく広げて、必要な力を供給してくれないと、現代の効率主義社会の中では心にストレスが蓄積して、耐えられなくなる人が多くなるのではないでしょうか。私たちの周辺にもいるそういう人たちのため、本当に幸せに生きるための照らしと導きを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年9月19日日曜日

説教集C年: 2007年9月23日 (日)、2007年間第25主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 8: 4~7. Ⅱ. テモテ前 2: 1~8.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 1~13.


① 本日の第二朗読の始めにある勧めは、異教徒たちに大きく心を開いていたパウロの国際的精神の証しであり、現代の私たちにとっても大切だと思います。彼は、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを、全ての人のために捧げなさい。王たちや全ての行政官たちのためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。云々」と書いていますが、キリスト者の中には、自分たちと信仰や考えの異なる異教徒には心を閉ざし、その人たちやその人たちの社会のために祈ることを怠っている人がいるのは、残念なことだと思います。

② 今から70年、80年ほど前の昭和初期に、日本のカトリック信徒たちは、日本社会のためまた天皇陛下のために熱心に祈っていました。歴史の研究をして来た私は、その頃の信徒たちの話をたくさん聞き集めていますし、またその頃のカトリック新聞やその他の定期刊行物にも目を通していますので、このことについて証言したいと思います。70年前の7月に中国との戦争が始まると、カトリック信徒の間には「日本の聖母マリア」と題する、富士山の上に聖母子の姿を配した綺麗な絵を縮小した小さな御絵が普及して、多くの信徒は軍部に牛耳られている日本国の将来のため、特に聖母マリアの取次ぎを熱心に祈っていました。そうしましたら、日中戦争は米英諸国との太平洋戦争にまで進展し、その戦争に負けて、天皇陛下はじめ日本国民は当時の軍部の過激派から解放され、新しい平和日本への道を歩むことができるようになりました。戦時中の学徒動員で、軍需工場に働いていて終戦を迎えた私は、少し後では、あの絶望的な戦争に負けて本当に良かったと思うようになりました。

③ ところで今から50数年前、私がまだ南山大学の学生であった頃、一部の古いカトリック信徒たちの間で、この太平洋戦争は聖母マリア様の特別の執り成しによって導かれ、日本の国を新しく生まれ変わらせるための、ある意味では神からのお恵みだったのではなかろうか、などとささやかれていました。というのは、日本国にとっては、いずれも聖母マリアの大きな祝日である12月8日に始まり、8月15日に終わって、1951年の9月8日にサンフランシスコで講和条約が調印されたからでした。その後の日本社会の動きを見ても、戦後の日本は、戦前とは比較できない程の大きな自由と経済的豊かさを享受していると思います。それを思うと、数多くの犠牲を出した太平洋戦争でしたが、今の日本の繁栄はその犠牲の上に築かれた神よりの恵みであると、感謝のうちに受け止めることもできると思います。

④ 現代の人類世界は手段選ばずのテロ攻撃に脅かされていますが、これも、単に怒りと嘆きのうちに消極的に成り行きを見守るのではなく、70年前ごろの日本のカトリック信徒たちのように、今こそ聖母マリアの執り成しを願うべき時と考え、神の働きに対する信頼と希望をもって祈り続けているなら、数々の犠牲の上に神の働きによってこれまで以上の平和で自由な人類社会が新たに生まれることを、期待してよいのではないでしょうか。自分個人の救いと幸せのためばかりでなく、広く人類社会全体のため、すべての人のため、また特に政治家・指導者たちのために、聖母マリアと共に希望をもって、神の御憐れみを願い求め続けましょう。

⑤ 本日の福音は、先週の日曜日の福音であったなくした銀貨や放蕩息子の譬え話のすぐ後に続く譬え話ですが、なぜか「その時イエスは弟子たちに言われた」という導入の言葉で始まっています。しかし、先週の日曜福音の譬え話はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られた話とされていますし、本日の福音のすぐ後の14節には、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」とありますから、本日の福音の譬え話はファリサイ派の人々にも語られたのだと思われます。キリスト時代のユダヤ社会では、律法上では金や物品を貸してもその利息を取ることが禁じられていましたが、実際には様々なこじつけ理由で利息が取られていたと考えられています。本日の譬え話に登場する不正な管理人は、事によると日ごろから主人からの借りを返却してもらう段階で、その量をごまかして差額を着服したり、借り主に与えて友人を作ったりしていたのかも知れません。現代でも管理人任せにしてチェック体制を確立していない所では、密かに似たようなごまかしや着服が横行しているかも知れません。2千年前のオリエント世界よりも大きな過渡期に直面している今の世界でも、心の教育が不十分なための「誤魔化し人間」が少なくありませんから。主がこの話を直接ファリサイ派に向けて話されず、むしろ弟子たちに向けて話されたのは、その危険性が新約の神の民にもあることを、弟子たちによく理解させるためであったと思われます。

⑥ この譬え話の末尾に、主人が不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふるまっている」と話していることは、注目に値します。私は勝手ながら、主キリストはこの「光の子ら」という言葉で、暗にその場にいたファリサイ派の人々を指しておられたのではないか、と考えます。彼らは競って律法を忠実に守ることにより、この世においてもあの世に行っても神の恵みを豊かに得ようと努めており、自分の生活を光の中で眺めていて、律法を知らず忠実に守ろうと努めていないこの世の子らを、闇の中にいる者たちとして批判し、神に呪われた罪人たちとして断罪していました。彼らは、その罪人たちに背負わせている重荷を少しでも軽くしてあげよう、助けてあげようとして指一本も貸そうとせず、罪人たちの心の穢れに感染しないよう距離を保ちながら、ただ批判し軽蔑するだけだったようです。それで、彼らから遠ざけられ軽蔑されていたこの世の子らは、年老いて今携わっている仕事や生活から離れる時のため、せめて自分の仲間たちに対しては親切と奉仕に努めて、孤立無援の状態に陥った時に助けてもらおうなどと考えていたのではないでしょうか。

⑦ 主はこの譬え話で、たとえ律法上では不正にまみれた富であっても、神から委託されているその富を人助けに積極的に使って友達を作るなら、愛の実践を何よりも評価なされる神はその実践的努力を嘉し、その人たちを永遠の住まいに迎え入れて下さると教えておられるように思います。本日の第一朗読の中で、アモス預言者は、「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」という呼びかけに続いて、貧しい農民に対する支配階級の搾取を列挙し、最後に、「私は、彼らが行った全てのことをいつまでも忘れない」という、神の厳しいお言葉を伝えています。神の摂理によって豊かな富に恵まれている者たちは、それだけ多く貧しい人たちへの奉仕に配慮しなければならないと存じます。

⑧ 実は私たちも、神から日々非常にたくさんのお恵みを頂戴しています。この世の命も健康も、日光も空気も水も、日々の食物も聖書の教えも洗礼も、全ては直接間接に神よりのお恵みであり、委託物であります。私たちはそれらを人助けに積極的に利用しているでしょうか。自分を光の中において眺め、この罪の世の社会やその中で苦悩している人々のためには別に何もしなくても、天国に入れてもらえる「神の子」の身分なのだなどと、慢心を起こさないよう気をつけましょう。私たちに委託されている数々の内的外的富や、神の導き・啓示などを最大限に利用しながら、この世の社会や人々のためにも、せめて祈りによって積極的に奉仕するよう励みましょう。そのように心がける人たちだけが、神に忠実に生きようとしている「神の子ら」であり、そうでない人たちは、神よりも富(マンモン) に仕えようとしているのではないでしょうか。ここで「富」というのは、物質的富だけでなく、ファリサイ派が大切にしていたこの世での自分の地位、名誉などをも指していると思います。それらを神よりも崇めている人たちは、神から一種の偶像礼拝者と見做されると思います。私たちも神の御前で謙虚に反省し、神よりの委託物をより忠実に利用するよう、決心を新たに致しましょう。

2010年9月12日日曜日

説教集C年: 2007年9月16日 (日)、2007年間第24主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 32: 7~11, 13~14. Ⅱ. テモテ前 1: 12~17. Ⅲ. ルカ福音書 15: 1~32.

① 本日の第一朗読の話を読んで、ふと2世紀の古代教父聖エイレナイオスの「人祖はその幼児性の故に罪に落ちた」という言葉を思い出しました。聖人の言う「幼児性(子供っぽさ)」は、心の幼児性を指しています。外的に体も理知的な頭の働きも一人前の大人であっても、内的には自分の身の回りにあるこの世のこと、今目前にあることにしか関心がなく、何事も自分中心に「今の自分にとって」という立場から価値評価してしまう、そして自分の欲求をコントロールすることのできない人が、今の時代にも少なくありません。それが、エイレナイオスの言う「幼児性」だと思います。

② 私たちは時々、生まれてから一歳半くらいまでの幼子の目の美しさや従う態度の素直さに感心することがありますが、人間は皆、心の奥底にそういう美しい素直な命を神からいただいているのではないでしょうか。それが、神が本来意図してお創りになった人間の心だと思います。しかし、人祖が神の掟に背く罪を犯した時からその心にもう一つ、何でも自分中心に評価し、自分の欲のままに利用しようとする根強い利己的毒麦の種が芽を出すようになりました。この毒麦が私たちの心の美しさや素直さを台無しにして、事ある毎に自分の心の中でも、神や人との関係においても、無意識の内に対立や争いを造り出して、私たちのこの世の人生を複雑で悩ましいものにしています。

③ 私の観察した所では、人間の心には一歳半頃から利己的幼児性の雑草がそっと芽を出し始めるようです。そこで私は30数年前から20年前頃にかけて、親族や知人の二歳、三歳ぐらいの幼児がそのような雑草の芽を露骨に現した時、その親たちの了解を得てその子の手の甲をパチンと叩いて叱り、泣かせることによりその子のもう一つの善い心の働きを目覚めさせたことが数回あります。それからその子の善い心を愛撫し励ますようにしますと、不思議なほど子供の態度は良くなります。このような幼心の教育、躾の訓練を怠り、ただ可愛がるだけ、理知的な頭の能力を伸ばしてやろうと努めているだけに努めていますと、利己主義の根強い毒麦に勝てずにいる子供の心は、心の欲求を統御する力に不足して苦しむことが多くなり、長じて自分の心の中の矛盾・対立にも苦しみ始めるようになります。そして育ての親の権威や愛に対する心の感覚が失われて、親に対しても冷たく逆らったりします。心の教育には、冬の厳しさと春の温かさとの両方が必要で、この二つがバランスよく提供される時に、心は数々の美しい花の芽を伸ばし始めるのではないでしょうか。まだ柔らかくて素直な二歳、三歳頃の心が、そういう躾を一番必要としている時だと思います。

④ 心の幼児性・心の毒麦性は現代に始まった問題ではなく、何時の時代にもあった問題であり、特に出エジプトの時代や2千年前のキリスト時代など、社会や民族の大きな過渡期には激しく表面化して多くの人を苦しめた問題でした。第一朗読からも明らかなように、神はそのような「大人の心の幼児性」に厳しいです。厳しく対処して、せめてまだ残っている健全な心を目覚めさせようとなさるのだと思います。モーセは、一方ではその神のお怒りをなだめ、他方では自分が神に代って裏切りの罪を犯した民に厳しい態度をとり、神に忠実に従わせようとしました。これが、言わば私たちの心の中での良心の働きだと思います。主イエスの「毒麦の譬え話」の中で、主人が毒麦の根を全部抜き取ることに反対したのは、毒麦と共存してその働きと絶えず戦うことによって、良い麦が一層豊かな実を結ぶようになるからではないでしょうか。

⑤ 本日の第二朗読には、若い時にファリサイ派の律法学者になり、不動の律法に対する原理主義的忠実心に駆られてキリスト者たちを迫害したことのある使徒パウロの言葉が読まれます。「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」という彼の言葉から察すると、復活なされた主イエスは、現代人の心の幼児性や偏った原理主義の熱心さなどに対しても、限りない忍耐をもって、その人たちの改心を待っておられるのではないでしょうか。私たちもその主の限りない憐れみと忍耐の聖心に眼を向けつつ、あくまでも忍耐強く、心の幼児性に振り回され勝ちな現代の悩む人たちに伴い続けましょう。

⑥ 本日の福音に登場するファリサイ派の人々や律法学者たちは、この世の理知的知恵を駆使してユダヤ教内に社会的地位を築いている人たちで、自分たちの律法解釈や価値観に従おうとしない人々を罪人として軽視し抑圧していました。主はしかし、人間中心のそういう利己的律法解釈で自分を義人と思っている人々の中にこそ、神が最も忌み嫌われる「大人の幼児性」を見抜いておられたようです。そして彼らから罪人として社会的に軽蔑され抑圧されている人たちの心の中にこそ、社会的孤独の苦しみによって漸く人間本来の真心に目覚め始め、これまでの生き方を悔い改めて救いを求めようとしているもがきを洞察なされて、その人たちの所に、神による救いの恵みを届けようとなさったのだと思います。主が語られた本日の福音の譬え話は、そのような悔い改めを神がどれ程待ち望んでおられ、また喜ばれるかを示しています。福音の後半はいわゆる「放蕩息子の譬え話」ですが、時間の都合上ここでは「なくした銀貨の譬え話」についてだけ、考えてみましょう。

⑦ 当時の貧しい人々の間では価値の高いドラクメ銀貨は、現代にすれば大工さんや技術者の一日の日当に相当する程の銀貨ですが、もしもその銀貨に心があるとすれば、夜に転げ落ちて家具の後ろの暗いゴミの中にまぎれ込んでいた時は、自分がどれ程価値の高いものであるかを知らず、自分の存在に生きがいも感ぜられずに、ただ諦めて何もせずに淋しくしているだけだったでしょう。しかし、ともし火をつけて発見され、人々の手に取り上げられて大いに喜ばれた時には、どれ程嬉しかったか知りません。ゴミを吹き払われて温かい手にもまれた自分の体も、光を受けて銀色に美しく輝くのに驚いたことでしょう。この罪の世の穢れにどれほど汚れた罪人であっても、悔い改めて神の恵みの手に拾い上げられた時には、同様の大きな喜びに満たされ、新たな輝かしい生きがいを見つけるのではないでしょうか。福者マザー・テレサは、一人でも多くの孤独な人たちにそのような喜びを味わわせたいと活躍しておられました。世知辛いわが国の社会生活に失敗し、深い挫折感のうちにホームレスになっている人々の中にも、そのような「なくした銀貨」が少なからずいるように思いますが、いかがなものでしょう。そういう人たちに対して温かい眼を注ぎ、大きなことはできなくても、福者マザー・テレサの御精神に心を合わせてその人たちの幸せのため、せめて祈ることを忘れないよう、心がけましょう。

2010年9月5日日曜日

説教集C年: 2007年9月9日 (日)、2007年間第23主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. 智恵 9: 13~18. Ⅱ. フィレモン 9b~10, 12~17.
     Ⅲ. ルカ福音書 14: 25~35.


① 古代ギリシャでは紀元前6世紀頃から、生活に余裕のある知者たちが世界や人間や人生などについて、思弁的に深く考究するようになり、優れた哲学者や思想家たちが輩出するようになりました。紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王のペルシア遠征が成功し、ギリシャ系の支配者たちがエジプトやシリアなどオリエント諸地方を支配するようになると、ギリシャ文明もオリエント全域に広まり始め、エジプトでは紀元前3世紀に、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたりしましたが、ユダヤ人たちはまだ信仰の伝統を堅持していて、紀元前2世紀の半ばにシリアのセレウコス王朝が支配下のユダヤにギリシャの宗教を広めようとした時には、多くの殉教者を出してまでも強い抵抗を示し、遂にセレウコス王朝も諦めて、ユダヤ人抵抗勢力に政治的自由を容認するに到りました。

② しかし、現代世界の雛形と思われるほど国際交流が盛んで、特にユダヤ人たちが優遇されていたエジプトでは、国際交流を積極的に推進したソロモン王時代の智恵に見習おうとするような知恵文学が新たに盛んになり、処世術や人生論などに対する人々の関心が高まっていたようです。本日の第一朗読である「知恵の書」は、そのような流れの中で執筆された聖書で、人間の知恵の源泉である真の神の知恵について教えています。この神の知恵に導かれ、聖母マリアのように、自分の考えや人間の知恵中心の生き方に死んで、神の婢として神の御旨中心に生きようとする信仰精神の賢明さは、国際交流が盛んで各種の思想が行き交う中で生活する現代人にとっても、大切なのではないでしょうか。理知的なこの世の知恵が万事に優先され、何事にも合理的な理由付けを求める考え方が、社会の各層に広まっている現代社会には、そういうこの世の理知的知恵やその論議に振り回され、心の奥底にストレスを蓄積している人が少なくないように見受けられます。

③ 長年岡山のノートルダム清心女子大学の学長を務め、学生指導に大きな成果を挙げて、近年各地から講演に招聘されることの多いシスター渡辺和子さんも、一時は鬱病に苦しまれたそうで、次のように書いています。「私は50歳のとき心に風邪をひきました。はっきり言えば、鬱病にかかりました。」「人様とお話していても、….. 笑顔ができない自分。そんな私をまわりの人たちが心配して、入院させてくれました。たった一人で個室に置かれ、自殺さえ考えました。何とも言えない胸苦しさ。何を見ても何の興味も湧かない。そして朝の二時ごろ目が覚めて眠ることができない。その苦しさは、自分のことしか考えられない苦しさと言っていいかも知れません。それまでの私は、学生のため、人様のため、神様のため、という生活で、幸せだったと思います。それが、自分にとらわれて自分の痛みしか考えられない。それほどつらいことはない、と私はこの病気で習いました。さらに私を苦しめたのは、修道者のくせに、自殺を考えるという事実でございます。云々」というような、恐ろしく苦しい体験談です。

④ しかし、私の知っている例から察しますと、役職者や大学教授などで鬱病を体験した人は、祈りつつそこから立ち直った暁には、精神指導の面で大きな働きをするように思います。神はその方に一層大きな実を結ばせるために、数年間の苦しい試練をお与えになって、その方の奥底の心に宿る一番美しい精神を目覚めさせようとなさるのではないでしょうか。シスター渡辺さんもその試練によって鍛えられた後、今では驚くほど大きな活躍をしておられます。それで私は、鬱病で精神医にかかっている親しい知人には、「神様のため、人様のため、自分が主導権をとって何かをしよう、仕事の実績を挙げようなどとは考えないで下さい。神がお望みなのは、あなたがその試練を契機に、この世の仕事や人間関係などに対する過度の執着から心を引き離し、これまでとかく後回しにし勝ちであったご自分の奥底の心に眼を向け、そこにおられる神とのパーソナルな感謝と愛と信頼の対話に時間を割くことだと思います。そうすれば、もうあなたが主導権をとって働くのではなく、神が主導権をとり、あなたを僕・婢のようにしながら、あなたの中で働いて下さいます」などと話したり書いたりしています。これが、主が本日の福音の中で求めておられる生き方であり、この世の知恵ではなく、神の知恵によって救われる者の辿る道だと思います。

⑤ 本日の福音の中で読まれる「(父母や妻、兄弟姉妹たちを) 憎まないなら、私の弟子ではあり得ない」という主のお言葉は誤解され易いので、少し説明させて頂きます。ヘブライ語や当時パレスチナ・ユダヤ地方で一般民衆の話していたアラマイ語には比較級がないので、たとえば「より少なく愛する」、「二の次にする」というような場合には、「憎む」と言うのだそうです。従って、主が受難死の地エルサレムへと向かっておられた最後の旅の多少緊張感の漂う場面で、付いて来た群衆の方に振り向いておっしゃったことは、私に付いて来ても、私を父母兄弟や自分の命以上に愛する人でなければ、また自分の十字架を背負って付いてくる程捨て身になって私を愛する人でなければ、誰であっても私の弟子であることはできない、ということだと思います。察するに、そこにいた群集の多くは、農閑期の暇を利用し、単に大衆ムードのまま多少の好奇心もあって、主の一行にぞろぞろ付いて来ていたのだと思います。そこで主は、付いて来たいなら、各人腰を据えてよく考え、捨て身の覚悟で付いて来るようにと、各人ひとりひとりのパーソナルな決意を促されたのではないでしょうか。

⑥ 主が最後に「自分の持ち物を一切捨てなければ、誰一人私の弟子ではあり得ない」とおっしゃっておられることは、大切です。主は受難死を間近にして、全ての人の贖いのために、ご自身の命までも捧げ尽くそうと決意を新たにしておられたと思いますが、主の弟子たる者も、ご自身と同じ心で多くの人の救いのために生きることを求めておられるのだと思います。主の御跡に従う決意で誓願を宣立した私たち修道者は、その初心を今も堅持しているでしょうか。主のこれらのお言葉を心に銘記しながら反省してみましょう。ルカ福音書は、本日の話のすぐ後で「塩は良いものだが、塩気を失えば、外に捨てられる」という主の厳しいお言葉を入れていますが、メシアの存在が全く他の多くの人の救いのための存在であったように、私たち修道者の存在も、ちょうど塩のように全く他の人々のためにある存在、他の人々の心に味付けをし、その腐敗を防止するための存在だと思います。私たちは、自分が神から召されたこの素晴らしい「他者のための祈りの生き方」「他者に自分を全く与え尽くす生き方」の意義を、しっかりと自覚しているでしょうか。本日の福音に読まれる主のお言葉を心に刻みながらあらためて反省し、初心を新たに堅めましょう。

2010年8月29日日曜日

説教集C年: 2007年9月2日 (日)、2007年間第22主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 3: 17~18, 20, 28~29. Ⅱ. ヘブライ 12: 18~19, 22~24a. Ⅲ. ルカ福音書 14: 1, 7~14.

① 本日の聖書朗読のテーマは、神は遜る者を高められると言ってもよいと思います。第一朗読であるシラ書(「集会の書」とも言う) には、旧約のユダヤ人たちの間に伝えられ愛用されていた多くの格言や教訓が集められていますが、本日の朗読箇所には「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる。」「主は、遜る人によって崇められる。」などの言葉が読まれます。「遜る」と聞くと、多くの人は人前で出しゃばった言行を慎み、謙虚に振舞うというような意味で理解し勝ちですが、聖書に言われている遜り、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前の外的遜りとは大きく違っています。それは、神に背を向け神の愛を裏切った人間の罪を自覚し、それを背負って神の御前に遜る姿、心を大きく開いて全てを神から受けながらも、神の無益な僕として我なしに生きようとする内的姿勢を指しています。それは、主イエスが御自ら生きてみせた生き方であり、聖母マリアも神の婢として実践していた生き方ですが、神はそのように遜る者を通して、救いの恵みを人類に豊かにお与え下さったのです。

② 主は一度、この世の成功や快楽だけを追い求めている町々の不信を厳しくお咎めになった後に、「天地の主なる父よ、私はあなたを褒め讃えます。あなたはこれらのことを知恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。云々」と祈っておられます。神の御前に神にあくまでも従順で忍耐深い「小さな者」として生きるのが、聖書の教えている「遜り」であると思います。ヘブライ語の「アニィ」という言葉には、「小さな」という意味と共に「遜る」という意味もあると聞いています。アウグスチヌスはこのような遜りを「メシアの徴」としていますが、神はこの遜りを実生活の中で実践している人を通して、この世で働き、救いの恵みを豊かにお与え下さるのです。そのことを幾度も体験し確信するに到ったからでしょうか、聖母はその讃歌の中で「神はその力を現し、思い上がる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座から下ろし、見捨てられた人を高められる。云々」と歌っています。運命の神が、遜った神の子ら「小さな者たち」を通して、救う働きをして下さる新しい時代が始まったのです。私たちも、聖書の教えているこの内的遜りの生き方を体得し実践するように努めましょう。本日の第二朗読は、そのような遜る生き方をする者たちの行く着く先について教えています。神の子らのこのような内的遜りを体得している人は、外的言動においても、慎みや謙遜の態度をごく自然に体現するでしょうが、それらの振る舞いを単に外的に真似るだけでは、ファリサイ派の教師たちのように心の内容が伴っていない「偽善者」と非難され、神から救いの恵みを人々の上に呼び下すことはできないと思います。幼子のように謙虚で素直な心、いつも神の御前で生きていようとする心が、何よりも大切だと思います。

③ 本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主イエスが、一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」という言葉は、日本語の「譬え」よりはずーっと広い意味であり、二つの全く異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時にも、よく使われます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会にも適用して、この世の社会生活においても「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」などと考えてはなりません。それは、主のお考えではないと思われますから。主は神より遣わされた使者、神の僕として、人々の救いのために奉仕する場合の内的心構えについてだけ語っておられるのです。相手からの報いを全く期待せずに、この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に、あなた方は神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。

④ この世的損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けながら、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちが、小さいながらもそのような生き方を身につけることができるよう、恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

⑤ 福者マザー・テレサは、「誰からも必要とされない病気」という言葉を話されたことがあります。病気にはそれぞれ医薬品や治療法がありますが、心を極度の内的孤独感で蝕むこの病気は、「喜んで差し伸べられる奉仕の手と、愛の心があるところでない限り、癒されることがない」というのが、福者マザー・テレサのお考えだそうです。来日なさった時に話された、「日本は豊かな国ですが、内的には貧しい国です」というというお言葉は、必要なものは何でもあり余る程所有している外的豊かさの故に、非常に多くの人たちの間に心と心との献身的愛の交流が育たず、外的豊かさの中にあって「誰からも必要とされていない」という病気に苦しんでいる人が少なくないことを見抜いて、話されたのではないでしょうか。自由主義・個人主義・能力主義などは皆それぞれに個人や社会を発展させる長所を持つ善ですが、ただその対極にある共同体精神や連帯精神などと共にバランスよく心の中に育てないと、個人をも社会をも内面から病的にする危険なものでもあります。近年外的豊かさの中でメタボリック症候群の病人が急増したら、適度の運動の必要性や食生活のバランスなどが強調されるようになりましたが、同様のバランスの必要性は精神面についても強調されないと、多くの日本人も日本社会も、いずれ恐ろしい内的病魔に苛まれることになるでしょう。一人でも多くの人が早くその危険性を察知するよう、神からの照らしと導きの恵みも祈り求めましょう。

2010年8月22日日曜日

説教集C年: 2007年8月25日 (日)、2007年間第21主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 66: 18~21. Ⅱ. ヘブライ 12: 5~7, 11~13.
     Ⅱ. ルカ福音書 13: 22~30.


① 本日の第二朗読には「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」という、私たちキリスト者を「神の子供」と考えているような勧めの言葉が読まれます。

② 戦後暫く経ってから「めだかの学校」という歌が流行り、戦前の「雀の学校」とは対照的に違うその歌詞の故に話題になりましたが、しかし、各個人の自由だけを謳歌するその「めだかの学校」を愛唱しながら育ち、頭の能力や理知的技術能力を早く開発して競わせる教育を受けた人たちの中には、心を鍛える厳しい教育に不足し勝ちであったため、大人になっても心の本当の底力が眠ったままで、心に宿る欲情をバランスよく統御することができない人や、酒・タバコ・ギャンブル・麻薬・万引き等々に対する様々な依存症や、登校拒否・家出・うつ病などに悩む人たちが少なくないようです。70年前の日本にもそのような人たちは少しはいたようですが、現代はそれとは全く比較できない程激増しています。各人の知的能力の発達に比べると、奥底の心の力、すなわち無意識界の底力があまりにも脆弱で、見えない内に疲れやストレスを心の中に溜めている所に、その根本的原因があると私は考えています。

③ この世の能力主義一辺倒に傾いている現代の育児教育に反対して来た私は、40年ほど前から、親しくなった若い夫婦たちに「愛をもって叱る」という心の教育も部分的に必要であることを説き、二歳、三歳位の幼児を20人ほども厳しく叱って泣かせたことがありますが、私に叱られて大きくなった子供たちは、後年私が会って知っている限りでは、比較的素直に育って、親にも先生にもほとんど心配をかけない人間になっているように思います。父なる神も、主キリストにおいて神の子とされた信仰者たちを愛すればこそ、そのような心の底から生きる積極的愛の人、すなわち心の底に宿る神の愛に生かされて生きる人にしようと厳しく鍛え、主キリストが実践なされた神に対する従順と忍耐を身につけさせようとなされるのではないでしょうか。神によるその鍛錬を嫌がらず、どれほど苦しめられ鍛えられても落胆しないよう努めましょう。オリンピックに活躍している選手たちは、私たちの想像を絶するほどの厳しい訓練や指導に耐えて、心の底力を磨いています。その努力を積み上げて高度の技を発揮するようになったからこそ、多くの人の中から選ばれるに到ったのではないでしょうか。神ご自身によって、もっと遥かに大きな永遠の栄誉を受けるよう召されている私たちも、その人たちの努力に負けてはならないと思います。

④ 2千年前に主イエスが、また聖母マリアが歩まれた、心の奥底に宿る神の愛・神の聖霊に生かされて生きる信仰生活と、同じ頃のファリサイ派ユダヤ人たちの信仰生活との違いも心得ていましょう。善意からではありますが、当時のファリサイ派ユダヤ人たちは、自分たちの頭に宿るこの世の人間理性を中心にしてあの世の神の言葉(聖書) を解釈し、その解釈に基づいて生活していました。彼らは自分の力によってこの世からあの世の神に近づこうと、競うようにして熱心に努力していたと思われます。500年前、450年前頃のプロテスタント宗教改革者たちも、一心に神の助けを祈り求めながら、近代人的な頭の理性、人間社会の力に頼って、基本的にはほぼ同様の人間主導の精神で、あの世の神のためこの世の教会を改革しようと励んでいました。彼らはいずれもその努力によってそれなりの成果を残してはいますが、しかしそれは、奥底の心に宿る神の霊に従い、神の僕・神の婢として自分というものに死し、あの世の神の御旨だけを中心にして生きておられた主イエスや聖母マリアの生き方ではないと思います。

⑤ 本日の福音の始めには、「イエスは、……エルサレムに向かって進んでおられた」という言葉が読まれますが、ルカは既に9章51節に「イエスは天に上げられる時が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書いており、それ以降19章後半のエルサレム入城までの出来事を、受難死目指して歩まれた主の最後の旅行中のこととして描いていますので、ルカ13章に読まれる本日の福音も、死を覚悟であくまでも主に従って行くか否かの、緊張した雰囲気が弟子たちの間に広がり始めていた状況での話であると思われます。ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねられた主は、そこにいた弟子たちと民衆一同に向かって、「狭い戸口から入るように努めなさい。云々」とおっしゃいました。その最後に話されたお言葉から察すると、東西南北から大勢の人が来て「神の国で宴会の席に着く」のですから、救われる人は多いと考えてよいでしょう。ただ、救い主のすぐ身近に生活し、外的には主と一緒に食べたり飲んだり、主の教えに耳を傾けたりしていても、内的にはいつまでも自分の考えや自分の望み中心に生活する心を改めようとしない人は、神の国に入ることを拒まれることになる、という警告も添えてのお答えだと思います。

⑥ としますと、主が最初に話された「狭い戸口」というのは、エルサレムで主を処刑しようとしていたサドカイ派やファリサイ派が民衆に求めていた伝統的規則の遵守ではなく、当時荒れ野で貧しい隠遁生活を営んでいたエッセネ派が実践し、民衆の間にも広めていた神の内的呼びかけや導きに従うことを中心に生きようとする、謙虚な預言者的精神や信仰生活を指していると思います。伝統の外的規則を厳しく順守し定められた祈りを唱えているだけでは、この世の人たちからは高く評価されても、神からはあまり評価されないのではないでしょうか。自分中心・この世中心の心に死んで、神の子キリストのパーソナルな愛に生かされて生きようとする精神を、その生活実践に込めていない限り。このことは、現代の私たち修道者にとっても大切だと思います。外的に何十年間修道生活を営み、数え切れない程たくさんの祈りを神に捧げていても、内的に自分のエゴに死んで、神の子イエスの精神に生かされようと努めていなければ、それはこの世の誰もが歩んでいる広い道を通って天国に入ろうとする、2千年前のファリサイ派の信仰生活と同様、神から拒まれるのではないでしょうか。聖書にもあるように、神が私たちから求めておられるのは山程の外的いけにえや祈りなどの実績ではなく、何よりも神の愛中心に生きようとする、謙虚な打ち砕かれた心、我なしの悔い改めた心なのですから。天啓の教理についてはほとんど知らなくても、非常に多くの人たちが、心のこの「狭い戸口」を通って天国に導き入れられるのだと思います。

⑦ 3年前のお盆休みに、名古屋で夕食を共にした横浜の知人から、十数年前から「うつ病」に悩まされており、医師にかかってもなかなか治れずにいることを打ち明けられて、少し驚いたことがありました。現代の日本社会には、非常に有能な人たちの中にも職場の複雑な人間関係の中で生じる問題を自分独りで背負い、合理的に解決しようとして「うつ病」になり、夜も眠れなくなる人、時には自殺したいなどと思ったりする人が増えているようです。私もそのような人を他にも数人知っており、その一人は十数年前に自殺しています。相談を受ける精神医たちは、その人を取り巻く周囲の人たちの協力で、温かい人間関係やくつろげる環境を造ることにより、その病気が数年かけてゆっくりと治るのを待つという療法を取っているようです。多くの人はそれで結構癒され、立ち直っているようですが、しかし中には、内的周辺環境がほとんど変わらないためなのか、十数年経っても治れずにいる人たちもいます。そういう人たちは、どうしたら良いのでしょう。

⑧ そこで私が3年前にその知人に話したことを、少し補足して紹介してみましょう。今の日本には、これからも「うつ病」に苦しむ人が続出するでしょうし、皆様もそのような人に会うことがあるかも知れませんから。私は、ストレスが心の中に蓄積して奥底の心が成熟できず、底力を発揮できずにいる所に、「うつ病」の一番の原因があると考えています。もしそうであるなら、奥底の心を目覚めさせて成熟させれば、治るのではないでしょうか。その道は、聖書に示されていると思います。まずペトロ前書5章7節の「全ての思い煩いを神に委ねなさい」という勧めに従って、人間主導の考えで生きようとはせずに、神の御旨・神のお導き中心に生かされて生きようと立ち上がり、主イエスや聖母マリアのように、神の僕・神の婢として生活することです。それは単純なことですが、実際上これまで長年続けて来た人間主導、この世中心の生き方から、あの世の神中心の生き方へと心を脱皮させることは、簡単でありません。

⑨ まず、聖人たちの模範に習って自分の奥底の心に愛の眼を向け、時には厳しく時には優しく、日に幾度も話しかけるように致しましょう。シトー会に入会した聖ベルナルドは、しばしば「ベルナルドよ、何のためにここに来たのか」と話しかけていたそうですが、聖フィリッポ・ネリやその他の聖人たちも、皆それぞれに自分の心に話しかけています。古来わが国には「言霊(ことだま) 信仰」というものがあり、心を込めて話した言葉には、不思議にいのちや霊がこもると信じられていました。主キリストも「私があなた方に話した言葉は、霊であり命である」(ヨハネ6:63)と話しておられます。現代世界に氾濫している単なる「頭の言葉」ではなく、心の深い愛のこもった言葉には、不思議な力が宿るからだと思います。若い動植物の命にも、そういうパーソナルな愛の言葉をかけていると、育ちが違うと聞いています。私たちの奥底の心も、いつまでも幼子のように若々しい命なのです。ですから主も、「ひるがえって幼子のようにならなければ、天の国には入れない」(マタイ18:3) などとおっしゃったのだと思います。

⑩ その幼子のように素直な奥底の心に、日に幾度もねぎらいの短い言葉やシュプレヒ・コールのような励ましの言葉をかけたり、その奥底の心に立ち返って神に射祷を捧げたりしていると、その心の中に神の霊が働くようになるようで、ゆっくりとですが、不思議に心の底力が育って来ます。そして次第に、この世のさまざまな困難や失敗などには挫けないようになります。これは私が年来実践していることで、相談を受けた「うつ病」を患っていると思われる別の人にも勧めたら、数ヶ月して将来に希望を持てるようになったそうです。頭の思想などとは違って心は生き物であり、その命は急には流れを変えることができませんが、幾度も話しかけ呼びかけているうちに、だんだんと神中心の新しい流れに変わって行くもののようです。神ご自身も、私たちが自分の権利や言い分などを一切神の御前に放棄して、素直な幼子のように神から与えられるものに満足し、神の僕・婢として神の導き、神の働きに聴き従い、日々喜んで生きていようとするのを待っておられると思います。そのため、自分に必要と思われる導きや力を願ってみて下さい。きっと与えられます。希望と忍耐をもって励みましょう。

2010年8月15日日曜日

説教集C年: 2007年8月19日 (日)、2007年間第20主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 38: 4~6, 8~10. Ⅱ. ヘブライ 12: 1~4.  Ⅲ. ルカ福音書 12: 49~53.

① 本日の第一朗読に登場するゼデキヤ王はユダ王国最後の王で、在位は紀元前597年から587年とされています。エルサレムが598年から翌年にかけ、強力な新バビロニア王ネブカドネザルに侵略されて、国王はじめ一群の貴族・祭司たちが第一次バビロン強制移住でいなくなり、後に残されたユダ王国を新バビロニアの属国として統治するために立てられた国王でした。戦争に負けたのですから、王国の再建は容易でなかったと思われます。側近たちは国王を動かしてエジプトと提携させ、新バビロニアに反抗させたようです。それで既に有名になっていたエレミヤ預言者は、カルデア軍とエジプト軍との両大軍の間にあって揺れ動く国王とその役人たちに、いろいろと神からの言葉を伝えて活躍しましたが、それが国王を囲む役人たちに理解されずに、監禁されたり迫害されたりしました。第一朗読は、その迫害の一端を伝えています。

② 時代の大きな過渡期にこの世の人々の見解が相互に激しく対立したり、この世の諸勢力が相争ったりするような時、エレミヤ預言者のように神中心に生きようとすること、神よりの啓示を世の人たちに伝えようとすることは、この世中心の立場で生きている人たちから誤解されたり迫害されたりする危険があって、決して容易なことではありません。主キリストも、2千年前のユダヤ人たちが政治的にも宗教的にも意見が分かれて一致できずにいた過渡期に、神中心に生きる模範を実証しつつ、神よりの新しい啓示を世に伝えようとして、誤解されたり迫害されたりした人であります。

③ 本日の第二朗読であるヘブライ書の著者は、恐らくは紀元1世紀の末葉に、使徒たちがほとんどいなくなりエルサレムも紀元70年に滅亡して、産まれてまだ間もない初代教会の結束が内面から大きく動揺していた時代に、キリスト教に転向したユダヤ人たちに向けてこの書簡をしたため、彼らの信仰を堅めようとしたのだと思います。本日の朗読箇所12章の始めに読まれる、「このように夥しい証人の群れに囲まれている以上」という言葉は、11章に読まれる、アベルを始めとして、アブラハム、モーセなど旧約時代の数多くの信仰の証人たちを指しており、ユダヤ人たちの誇りであるそれら信仰の偉人たちの模範に倣って、時代の大きな過渡期に増大する「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、(神から) 自分に定められている競争(のコース) を忍耐強く走り抜こう」と励ましているのだと思います。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉も、大切だと思います。

④ 「グローバル時代」と言われる現代に生きる私たちも、一つの大きな過渡期に生きています。人類史上にいまだ嘗てなかった程の、規模の大きな過渡期と称してもよいと思います。現代文明、特に交通・通信機器の目覚しい発達で、これまで各種の壁で分断されていた人類全体が一つの群れとなり、大小無数の伝統的文化も宗教も慣習も皆一つの巨大な海の渦の中で相互に出会い、切磋琢磨させられるような激動の過渡期に、私たちは既に入って来ているのだ、と言ってもよいでしょう。この大きな渦の中で、私たちの受け継いでいるキリスト教信仰も、日本文化や理知的な西洋文明も、他の多くの文明文化との接触・軋轢・抗争・協働などによって、徹底的に試され、磨かれ、鍛えられることになるかも知れません。この渦の中で、自力ではどうしても耐えられなくなって苦しみ滅んで行く人たちもいるでしょうが、しかし、その渦の背後に、私たちの魂を磨き高めようとしておられる神の御摂理、神の導きや働きを感知し受け入れている人たちは、主キリストのようによくその苦しみに耐え、神の力に基づく本当の平和と祝福を全人類の上に豊かに呼び下すことでしょう。

⑤ 本日の福音の中で、主が「私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう」と話しておられることから察しますと、この話は既に主を殺そうとしている大祭司たちの勢力がいるエルサレムへの、最後の旅の途中で弟子たちに語られた言葉であると思われます。「洗礼」は、自分のこの世の命に死ぬことと、神の新しい不滅の命に生きることとの両面の恵みを与える秘跡ですが、ここでは主キリストの受難死と復活の二つを指していると思います。この地上の人々の心に神への信仰と愛の火を点し、燃え広がらせようと3年間ひたすら尽力して来たのに、生活を共にしている弟子たちの心にさえ、まだその火を大きく燃え上がらせることができずにいる程なのに、既に御父の御摂理によってご自身をいけにえとして神に献げる時が間近に迫って来たのを切実に感じ取りつつ、人間としての主の御心は、いろいろと深く苦しんでおられたのではないでしょうか。迫り来る死苦を目前にした時に覚えるその苦しみや孤独感なども、主は人類救済のため天の御父にいけにえとして献げておられたのだと思います。

⑥ 福音の後半には、「私が地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂である」というお言葉がありますが、ここで言う平和は、単に外的争いのない平穏無事の状態を指していると思います。主はこの世の支配階級中心、既にある社会的価値観中心に、全ての不備や労苦やしわ寄せを超越し我慢させようと説く、そんな消極的我慢の生き方を広めるためにこの世に来られたのではありません。人類の生活の営み全体を、宇宙の創造主・所有主であられる神の御旨中心のものへと積極的に変革し高めるために、そしてあの世的神の国を広めるために、来られたのだと思います。それは、一つの大きな内的改革を各人の心の中に導入することを意味しています。そのため、その神の国を受け入れるか拒むかで、同じ家族に属していても、人の心と心とが互いに対立し分れるということは大いに起こり得ます。

⑦ そのような場合、神に従わないこの世の一切は、神ご自身によってやがて徹底的に滅ぼされてしまうこと、ならびに私たちの永遠に続く本当の人生は、神中心に生きる者たちだけの住むあの世にあることを思って、神のみに頼って生きる一念発起の決意を新たにし、あくまでも主キリストの御後に従って行きましょう。過ぎ行くこの世の命を日々いけにえとして神に献げつつ、その命の奥に宿る神よりの博愛の命に生き抜くこと、それが主がこの世で歩まれた道であり、主はその道を歩むための力を私たちにも、「洗礼」の秘跡を通して豊かに提供しておられます。そして世の終りまで、私たちのそば近くに内的に伴っていて下さいます。「信仰の創始者また完成者」であられる主イエスを見つめながらという聖書の勧めを心に銘記しつつ、今の世のこの大きな過渡期の流れを乗り切りましょう。

2010年8月8日日曜日

説教集C年: 2007年8月12日 (日)、2007年間第19主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 18: 6~9. Ⅱ. ヘブライ 11: 1~2, 8~19.
      Ⅲ. ルカ福音書 12: 32~48.


① 日本のカトリック教会は、ローマ教皇が1981年に広島でなされた「平和アピール」に応え、その翌年より毎年の8月6日から終戦記念の15日までを「平和旬間」と定めて、世界平和のためのさまざまな共同的祈りと催しを致しています。今日はその平和旬間中の日曜日であります。私たちは、北朝鮮が核開発を再開した昨年の春以来、極東アジア諸国の平和共存のため、毎月一回この祭壇で、神の恵みと導きを願ってミサ聖祭を献げています。幸い事情は今では好転しつつありますが、本日は同じこの意向でミサ聖祭を献げます。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読である『知恵の書』の後半10章から19章は、イスラエルの歴史の中で働いた神の知恵について語っていますが、本日の朗読箇所は、そのうちのエジプト脱出の夜のことについて語っています。その夜、神の民は神からの約束を信じて、動揺することなく神による救いと、敵ども(すなわちエジプト人たち) の滅びとを待っていたように述べられています。そして清い子らは「密かにいけにえを献げ、神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。それは、聖なる民が、順境も逆境も心を合わせて受け止めるということである」と語られています。これは、エジプト脱出の出来事から千年以上も経ってから、民間の伝えに基づいて歴史を多少美化しながら語られた話ですから、事実はこれとは多少違っていたと思われます。

③ しかし、こういう描写の中に、旧約末期の神の民の歴史観や信仰心が反映していることは疑い得ません。神を信ずるということは、目前の世界の情勢がどれ程絶望的であっても、たじろぐことなく神による救いを従順に待ち続けることであり、また神にいけにえを献げ、神からの掟を守り、順境も逆境も全員で心を合わせて受け止めるということである、と考えていたことを示しています。旧約末期に伝統的信仰に忠実であったユダヤ人たちは、このような精神で救い主の到来を待ち望んでいたと思われます。現代に生きる私たちも、同様の精神で主の再臨を待ち望んでいましょう。

④ 第二朗読はヘブライ人への書簡からのものですが、そこでは「信じる」とはどういうことかについて教えられています。最初にまず、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉が読まれます。これは、どういう意味でしょうか。「信じる」とは、頭で理解し納得することではない、心で受け入れ、その受け止めたものに堅く信頼して生きることだという意味ではないでしょうか。心は意志です。神からの言葉、神からの啓示をまだよく理解できなくても、それを聖母マリアのようにそのまま素直に受け入れ、日々心の中で考え合せ模索しつつも、神の僕・婢としてそれに身を任せ、意志的に生き続けることはできます。信仰の暗闇に置かれていても、このような信頼と従順の実践に励むなら、神はその人の魂に次々と必要な導きと照らしと助けを与えて下さいます。こうしてその人は、神が自分の将来に計画しておられることについてはよく知らなくても、神の導きと助けに対しては益々大きな希望と感謝と信頼を抱くことができるようになります。第二朗読に述べられているアブラハムも、ひたすら神のお言葉、神の約束に信頼し不安と困難に耐えて歩む、そのような意志的信仰生活を実践して、神からの大きな恵みと祝福を一族の上に、また全人類の上に呼び下した太祖であります。

⑤ ある男の人が私の所に来て、洗礼を受けたいと思って一年前の春から土曜日毎に教会の神父に教理を習っていますが、まだなかなか納得できなくて悩んでいます、という話をしたことがありました。そこで私は、信仰は頭で理解するものではありません、教理の理解は道しるべとして、あるいは危険防止の柵や手すりのようなものとしてある程度必要であり有益でもありますが、信仰は神よりの言葉や啓示を自分に対する神からの呼びかけとして意志的に受け止め、それに従って生きようとすることです、というような話をしました。

⑥ その時に引用したのが、「信仰は一種の賭けである」というパスカルの言葉でした。どれ程優秀な人間理性でも、神からの啓示や聖書を疑問なく明確に解説することはできません。理性は何よりもこの世の事物を理解し利用するために創られているので、それが優秀であればある程、神からのお言葉に疑問や謎を見出すように、神は人間にお語りになっているからです。ですから、全てを自分中心に理性で考え理解しようとすることを止めて、心に次々と生じてくる疑問や不安などを全て神の御許に投げ出し、神に下駄を預けて神のお求め通りに、まず祈りと愛の実践に励むと、何でも自分中心に理知的に考え勝ちだった自分の心が、不思議に神秘な神の方へと引き上げられて、自分の頭で理解できなくても、そんなことは全然問題でなくなり、それよりも神が目に見えないながら不思議に自分に伴っていて下さるという心の感覚が目覚めて来ます。そして神が自分を守り導き助けて下さるという体験に関心が高まって来るようになります。これが、聖書の教えている信仰というものです、というようなことも話しました。

⑦ 本日の福音はルカ12章の後半部分からの引用ですが、その前半部分には、一週間前の日曜日の福音である「愚かな金持ち」の譬え話があります。それでか、主は後半部分では、まずその愚かな金持ちとは対照的に、尽きることのない富を天に蓄えるようお勧めになります。天の父なる神が喜んで神の国を下さり、天に蓄えた富には盗人も虫も近寄らないからです。また、その宝のある所に私たちの心も高められて、たとえこの世では貧困や困難の内に生活していても、内的にはいつも大きな希望と喜び・感謝の内に生きることができるからです。この世にどれ程大きな富を所有していても、自分の将来に大きな明るい希望を持てずにいる人や、日々神に守られ導かれる喜びと感謝の内に生活できない人は、決して仕合わせではないと思います。

⑧ 主は富を天に蓄えて、天に心を向けている人に、この世では「腰に帯を締め、ともし火を点していなさい」と勧めています。その人たちの所には時々天から主人が来て下さり、御自ら帯を締めてその人たちの食事の給仕をして下さるからです。ここで言われている「主人」とは誰を指しているのでしょうか。37節には「そばに来て給仕をしてくれる」という言葉が読まれますが、日本語で「そばに来て」と訳されているギリシャ語原文の動詞パレルトーンは、本来「通り過ぎる」という意味で、ラテン語でもtransiens(通り過ぎる) と訳されており、聖書では神が来臨する時に用いられる特殊用語となっています。例えばアブラハムの所を神が三人の旅人の姿で訪れた時や、主が夜に湖の上を歩いて弟子たちの船に近づいた時などに、この言葉が使われています。後者の場合、マルコ福音書では「そばを通り過ぎようとされた」と訳されています。その訳で結構なのですが、同時にそこには、神である主が来臨なされたという意味も込められていることを、見逃してはなりません。

⑨ 私は、天から来臨して給仕して下さるという「主人」を、復活なされた主キリストのことだと考えています。主は今もミサ聖祭の度毎に、眼に見えないながらも実際に私たちの所に来臨して、私たちに恵みの糧を給仕して下さるのではないでしょうか。この信仰をもってミサ聖祭にあずかる人は、その信仰ゆえに豊かな祝福を頂きますが、この信仰がなければそれだけ恵みは少ないと思います。本日の福音を、自分にそのような心の信仰、神である主の現存に対するパーソナルな愛の信仰を持つように、という神からの個人的呼びかけのお言葉として受け止め、実践的にそれに従おうとするのが、アブラハム的あるいは聖母マリア的信仰の生き方だと思います。

2010年8月1日日曜日

説教集C年: 2007年8月5日 (日)、2007年間第18主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. コヘレト 1: 2, 2: 21~23. Ⅱ. コロサイ 3: 1~5, 9~11.  Ⅲ. ルカ福音書 12: 13~21.

① 本日の第一朗読にあるコヘレト(すなわち集会の指導者) は、書面の上では紀元前10世紀のソロモン王を指していますが、聖書学者によると本書が編纂されたのは、古代オリエント世界の各種伝統がアレキサンダー大王のペルシャ遠征後に、根底から液状化現象によって崩れ始めた紀元前3世紀頃とされており、その頃に誰かが智恵者ソロモンの権威を利用して執筆したのだと思われます。としますと、ある意味では現代社会のように、それまでそれぞれの社会で絶対視されていた価値観が相対化されて、何が善、何が悪であるかも、人それぞれに判断が大きく違っていた時代、大儲けをする人たちの陰に、いくら真面目に働いても貧困から抜け出せずにいる人たちが多いという、貧富の格差が大きかった時代、何を基準にしてこの世の人生を生きたら良いかに迷う人、悩む人が多かった時代に書かれたのではないでしょうか。「なんという空しさ、空の空」というような激しい嘆きの言葉で始まるコへレトの言葉はもっと長いのですが、第一朗読は、その始めと2章の終わりの部分だけに限られています。しかし、人生の空しさを語るこのコへレトの言葉の12:13には、「神を畏れ、その戒めを守れ」とありますから、この世を超越した次元におられる神を畏敬し、神からの戒めを守る人は、この極度に空しく見える人生の営みの中にあっても、心の眼を神に向けつつ、神の導き、神の助けに支えられて、永遠に価値ある人生を営むことができるのではないでしょうか。現代の私たちも、そのような生き方をしたいものです。

② 本日の第二朗読には、ちょっと驚くような表現があります。「あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなた方の命であるキリストが現れる時、あなた方もキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」という言葉です。ここで「命」とある言葉は、ギリシャ語の原文では「ゾーエー」となっていて、間もなく時が来て死んでしまうこの世の儚い命ではなく、神の内に神と共に永遠に生き続ける命を指しています。私たちはキリストの洗礼を受けた時、この「ゾーエー」の命を授かり、神からのこの命を中心に据えて生きることを神に誓いました。ということは、この世の富や名誉や快楽などを目標にし勝ちなこの世の過ぎ去る命は、いわば神の命のための着物や器のような一時的手段と見做し、それらを神の愛のために利用しながら生きることを意味していると思います。聖書はそのことを、この世の過ぎ去る幸せのために生きているのではないという意味で、「あなた方は死んだのです」と表現したのだと思います。

③ 私たちの本当の命(ゾーエー) は、この世の命を卵の殻や母体のようにしてその中に孕まれていますが、その本当の姿と栄光は、主キリストの再臨の時に輝き出るというのが、聖書の教えであります。その栄光の日が来るまでは、第二朗読の後半に述べられているように、この世の過ぎ去る幸せを目指して生きようとする「古い人」を、その行いと共に絶えず新たに脱ぎ捨て、「創り主の姿に倣う新しい人(すなわちキリストの生き方) を絶えず新たに身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」ようにというのが、聖書の勧めだと思います。本日この勧めを心に銘記して、私たちが洗礼の時になした神への約束を新たに堅めましょう。

④ 本日の福音にある主の譬え話の中の金持ちは、畑の豊作でますます豊かになり、「どうしよう。作物をしまって置く場所がない。云々」と話していますが、そこに現れる動詞は全て「私」が主語ですし、日本語の訳文では煩わしいので省かれていますが、ギリシャ語原文ではここに「私の」という所有代名詞が4回も繰り返されています。この金持ちは、何事も常に自分中心に考え、自分が獲得し、自分が利用し、自分が所有し使うことのみに関心を示している人のようです。しかし、貧しい人・苦しむ人のために与えようとする愛の精神に欠けている人が蓄えている富は、死と共にその人から完全に奪い取られる性質のもので、その時貧者への愛に欠けていたその人の魂は、愛のない恐ろしく暗い冷たい苦しみの世界の中に投げ落とされてしまうことでしょう。

⑤ このような人は、豊かさと便利さを追い求めて45年ほど前から急速に発展して来たわが国でも増えているのではないでしょうか。神を無視する、神なしの利己主義一辺倒の毒素が家庭や社会をますます酷く汚染しているのかも知れませんが、以前には考えられなかったような犯罪も多発しています。近年一人の若い母親が、同じ幼稚園に子供を通わせているもう一人の母親の女の子を絞め殺し、自分の家の庭に埋めたという事件がありました。その子を殺しさえすれば、もうその母親と顔を合せなくて済むという、全く短絡的利己的な気持ちから起きた事件のようです。「言葉に表せない心のぶっつかり合いが、相手の母親との間にありました」という、子供を殺した母親の言葉は、現代の多くの日本人にとって他人事ではないように思います。共に助け合って共同の困難に耐えていた時代の、温かい愛の共同体が失われ、各人がそれぞれ主体的に自力で親も社会も利用しなければならない、と思っている人たちが増えているようです。愛のないそのような冷たい個人主義時代には、神という超越的権威を受け入れ、そのお言葉に従って神の愛に生きようと努めない限り、個性的な人間同士の理解の限界、理知的な言葉の限界に苦しむことが多くなり、その悩みから逃れるための離婚や嫌がらせや殺人などは、今後もますます多くなると思われます。既に自分中心になっている心の中にとじ籠っていくら考えてみても、人間の力では解決の道が見出せません。心を神に向かって大きく開き、自分を捨てて神のお考えに従おうと立ち上がりましょう。その時、上から新たな光が心の中に差し込んで、神の愛による問題解決の道が可能になります。

⑥ 本日の福音にある譬え話の最後に、神は金持ちに「愚か者よ」と話しかけていますが、聖書には「愚かな」という形容詞と「愚か者」という名詞は非常にたくさん使われていて、それぞれ皆共通した意味を持っています。私が調べた所では、両方を合せて旧約聖書には108回、新約聖書には38回登場しています。例えば詩篇14には、「愚かな者は心の内に神はないという」とあり、マタイ福音書には「砂の上に家を建てた愚かな人」の譬え話や、五人の「愚かな乙女」の譬え話などが読まれます。これらの用例をよく吟味してみますと、「愚かな」とか「愚か者」という言葉は、頭が悪い人のことではなく、この世の利益や楽しみのためには頭の回転が早く、利にさとい人かも知れませんが、神はいない、あるいは神は見ていないと考え、神を信じ神に従おうとしている人を軽視している人、その頭にも心にもエゴが居座っているような人を指しています。そのような人間にならないようにというのが、本日の福音の一つの教訓だと思います。

⑦ もう一つ、主は本日の譬え話のすぐ前に、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と話しておられますが、ここで「命」と言われている言葉は、先程の時と同様ギリシャ語の「ゾーエー」で、あの世に行っても失われない永遠の命、神から湧き出る命を指しており、ヘブライ語の「ハイ」という言葉に対応しています。新約聖書には「生命に到る門は狭い」だの、「死から生命に移る」だの、「私に従う者は、生命の光を得る」などという言葉が多く読まれますが、これらの場合には、いつもゾーエーという言葉が使われています。しかし、日本語に「命」と訳されていても、ギリシャ語のゾーエーではなく、この世の過ぎ去る命を意味する「プシュケー」という言葉の訳であることもあります。ヘブライ語の「ネフェシュ」という言葉に対応していて、自我とか小我などと訳すこともできる言葉です。例えば「命のために何を食べようかと思い煩うな」だの、「善い牧者は羊のために命を捨てる」などという時に、このプシュケーという言葉が使われています。本日の譬え話の中で「今夜お前の命は取り上げられる」と神から宣告された金持ちの命も、ギリシャ語原文ではプシュケーとなっています。ですから、日本語では「命」と訳されていても、ある場合には永遠の神の命を、他の場合にはこの世の過ぎ去る自我の命を指していることを弁えていましょう。そして何事にも、主キリストの御功徳によって与えられた神からの愛の命、永遠に失われることのないゾーエーの命に生きるよう、日々大きな感謝と喜びのうちに心がけましょう。

2010年7月25日日曜日

説教集C年: 2007年7月29日 (日)、2007年間第17主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 18: 20~32. Ⅱ. コロサイ 2: 12~14.
     Ⅲ. ルカ福音書 11: 1~13.

① 本日の第一朗読の始めには、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」という神のお言葉があって、罪悪を忌み嫌われる神がそれらの町々を滅ぼそうとしておられる御決意が、朗読箇所全体の雰囲気を圧しているように感じられます。3千数百年も前の出来事についての伝えですが、神は現代世界に対しても同様の憂慮と決意を抱いておられるのではないでしょうか。ソドムとゴモラの罪をはるかに凌ぐ罪悪が日々横行し、万物の創造主であられる神を無視し悲しませるような、自然界の汚染が急速に進行しているからです。人類の人口は2030年に80億、2050年に90億と予測されていますが、産業革命と共に始まった地球温暖化が、節度を厳しく守ろうとしない人間の欲望によってますます進行し、異常気象による農作物の減少や農地の砂漠化、氷河の溶解などの現象が深刻になりつつあります。国連の「気象変動に関する政府間パネル (IPCC)」の今年2月の報告では、このままの状態が続くと、2050年には世界の飢餓人口が1千万人、水不足に悩む人が10億人に増え、その後はもっと恐ろしい事態が発生すると警告されています。

② 私たち神信仰に生きる人たちは、既にここまで地球環境を悪化させ、滅びへの道を進んでいるこの世の流れの中で、どう対処したら良いでしょうか。まずは本日の朗読に登場したアブラハムのように、神は罪悪を憎まれるよりも善に生きる人を喜ばれる方であることを信じつつ、一人でも多くの人が神に対する信仰と愛に目覚めて生きるよう、真の神信仰を広めることに心がけましょう。神が求めておられる程多くの人を信仰に導くことができず、天罰は避け得ないかも知れませんが、せめてアブラハムの甥ロトたちのように、天使の導きや助けによって救われる人たちの数を増やすことは、可能なのではないでしょうか。

③ 本日の第二朗読には、「肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなた方を、神はキリストと共に生かしてくださったのです」という言葉が読まれます。「キリストと共に」という言葉は、「内的にキリストと結ばれ、一致して生きることによって」という意味に受け止めてよいと思います。それは使徒パウロの教えに従うと、自分主導の生き方に死んで、主キリストのように、天の御父の御旨によって自分に与えられる全てのもの、喜びも苦しみも快く受け入れ、主の十字架上のいけにえに合わせて神に奉献しながら生きることを、意味していると思われます。神は主キリストと一致してなすそのような生き方を殊のほかお喜びになり、その人が献げる苦しみや働きを介して、豊かな恵みを世の人々の上にお注ぎ下さると信じます。パウロはコリント後書4章に、「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」、「こうして、私たちの内には死が働き、あなた方の内には命が働きます」と書いていますが、本日の朗読にあるように、これが「キリストと共に葬られ」「キリストと共に復活されられて」神の内に生きる人の道であり、パウロのように、主において豊かな救いの恵みをこの世に呼び降す道なのではないでしょうか。

④ 本日の福音は、弟子たちの求めに応じて主が祈りを教えて下さった前半部分と、神に対してなした祈りは必ず聞き入れられることを確約なされた後半部分とから構成されています。私たちがミサ聖祭中に唱えている「主の祈り」はマタイ福音書6章に載っているもので、マタイはそれを山上の説教の中に収録していますが、ルカが伝えている「主の祈り」はそれよりも短く、主が熱心に深く祈っておられるお姿に心を引かれた弟子たちが、洗者ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さいと願ったことなど、主がその祈りを教えて下さった事情も書き添えていることから察すると、ルカが伝えているこの短い形の「主の祈り」が、主が実際に弟子たちに教えて下さった元々の祈りであると思われます。

⑤ それは「父よ」という神への親しい呼びかけで始まっており、主が弟子たちと話しておられたアラム語では「アッバ」という、幼児が父を呼ぶ時の言葉であると思われます。それは、現代人が自分の父を「パパ」と呼ぶ時のような、親しみの溢れている幼児語です。主はゲッセマネの園でも、神を「アッバ」と呼びかけながら真剣に祈っておられたことがマルコ福音書に記されていますし、使徒パウロもローマ書やガラテア書で神を「アッバ」と親しみを込めてお呼びする神の子の霊について教えています。従って主は、弟子たちに実際に天におられる父なる神を「アッバ」と親しみを込めて呼ぶよう、教えられたのだと思います。しかし、このあまりにも馴れ馴れしい幼児語で神に話しかけることは、ミサ聖祭のような公式の共同的祈りには相応しくありません。それで初代教会の時から、主が教えて下さった祈りの内容はなるべく変えないようにして、「天にまします我らの父よ」という言葉で始まる、公式の場で唱えるに相応しい形の祈りに作り変えて唱えるようになりました。マタイはこの形の「主の祈り」を、山上の説教の中に収録したのだと思われます。しかし、一人で個人的に祈る時には、今でもルカ福音書に記されている、主が教えて下さったままのこの大胆な親しみの呼びかけで始まる「主の祈り」を使うことができますし、その方が神に喜ばれるのではないでしょうか。私たちは何かの外的法によって神の子なのではありません。神の子キリストの愛の命に生かされる度合いに応じて、内的に神の子と見做され、神に受け入れられているのですから。

⑥ ところで、この祈りを唱える時は、これが主が教えて下さったという意味での「主の祈り」であるよりも、主が今も目には見えなくても今も実際に人類の中に現存して、全人類のために唱えておられる祈りであることを心に銘記し、主と心を一つにして主と共にこの祈りを唱えること、主の器・主の道具のようになり、主の聖心を心としてこの祈りを唱えることが大切だと思います。マタイ福音にある「御旨が天に行われるように、云々」と「私たちを悪から救って下さい」という言葉はここにありませんが、これらはそれぞれ「御国が来ますように」と「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」という主の願いを、初代教会が少し膨らませて表現しただけなのですから、ルカの伝えている短い形の「主の祈り」の中に全て含まれています。「悪から救って下さい」という言葉は、ギリシャ語原文では「悪者(すなわち悪魔) から救って下さい」となっていて、「誘惑に遭わせないで下さい」という祈りに含まれていますから。とにかく要は、私たちの内に現存しておられる主と内的に深く結ばれ、主の聖心に内面から生かされてこの祈りをゆっくりと唱えることだと思います。その時、主が私たちの中で私たちを通して天の御父に祈って下さり、私たちもその祈りの効果を、主において生き生きと身に感ずるようになるのではないでしょうか。

⑦ なお、本日ここで朗読された邦訳では「御名が崇められますように」となっていますが、これも原文を直訳しますと「御名が聖とされますように」となっていて、私は、主が教えて下さったこの「あの世的」表現で祈ることを愛好しています。それはこの世のどの民族の言語にも解り易く訳すことができない、少し違和感を与える言葉だと思います。真善美などのこの世的価値と違って、「聖」はあの世的価値だからです。しかし、主があえてこの言葉をお使いになったのですから、私はそれを尊重し、この言葉を唱える時にはいつも、イザヤ預言者の見た幻示、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は全地を覆う」と呼び交わしながら、天使たちが壮大なスケールで神を讃美している場面を心に描いて、天上のその讃歌に心を合わせることにしています。

⑧ 次に本日の福音の後半部分について考えてみましょう。まず突然夜中に訪ねて来た空腹の友人のため、食べさせるパンが全然なく、友人の家にパンを恵んでくれるよう頼みに行く人の話がありますが、この話の要点は、執拗に頼めば最後にはパンを与えて下さるということにあると思います。主がなぜこのような話をなさったかと申しますと、天の御父は、人となられた神の子イエスがお願いすれば、いつもすぐにその願いを聞き届けようとはなさらずに、その願いが人となられた主の人間的聖心の内に十分深く根を張るまで、しばしば時間をかけてお待たせになることを、幾度も体験なさったからなのではないでしょうか。主イエスも、この罪の世に生きる被造物人間としてのこのような制約を、耐え忍ばなければならなかったのだと思われます。ですから時々は、夜を徹して長時間天の御父に祈られたのではないでしょうか。その主の祈りに参与するため、私たちも忍耐を失ってはなりません。

⑨ 本日の福音には、「求めなさい」「探しなさい」「門を叩きなさい」という三つの命令が相次いで強調されていますが、ギリシャ語の原文では、それらの動詞は動作の継続を意味する現在形になっていますから、日本語では「求め続けなさい」「探し続けなさい」という意味になります。時間をかけて忍耐強く求め続けましょう。しかしその場合、「こうして欲しい」などと、あまりにも自分の望みや要求にこだわってはなりません。神の僕・婢として、全てが天の御父の御旨のままになるようにと、ひたすら主キリストから教わった「主の祈り」を唱えていましょう。異教徒たちのように、あの事もこの事もなどと、一々細かく申し上げる必要はありません。神は私たち以上に、私たちが必要としている全てのことをよくご存知なのですから。ただ、ひたすら主キリストと一致して祈るように努めましょう。そうすれば、本日の福音にありますように、天の御父は「聖霊を」与えて下さいます。そしてこの聖霊が、私たちの考え及ばない程、全てが私たちの救いと仕合せのためになるよう、助け導いて下さいます。

2010年7月18日日曜日

説教集C年: 2007年7月22日 (日)、2007年間第16主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 18: 1~10a.  Ⅱ. コロサイ 1: 24~28.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 38~42.


① 新約聖書が書かれた時代のローマ史、特にオリエント諸地方の社会的状況を細かく調べてみますと、それはある意味で現代世界・現代社会を先取りした一つの雛形のような印象を受けます。それまでの各国、各民族・部族毎の伝統的文化や慣習、価値観などは、シルクロードの開発や各種の発明などで急速に広まって来た国際的経済交流や文化交流により、時代遅れのものと見做されたり、軽視されたりするようになり、多くの若者たち、特に能力ある者たちは、積極的に新しい技術や、新しい商品・文化・価値観などを捜し求め、新しい流行、新しい流れの中で生活しようと努めていたように思われます。

② このことは、新約聖書の中にもいろいろな形で反映しています。例えば本日の福音の少し後のルカ福音12章には、明日の食事のことで思い煩う無産者たちに、主が父なる神の摂理に対する信頼心を強調したり、盗人がいつ来るか分らないので腰に帯をしめ、目を覚ましているようにと警告したり、忠実な僕と不忠実な僕の譬え話をしたり、「今から後、一家に5人の者がいるなら、三人は二人に、二人は三人に対立して分かれる。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるであろう」などと話したりしておられます。これらのことは、現代社会にも到る所で頻発している現象ではないでしょうか。もう長年来の伝統的社会秩序がよく守られているような落ち着いた時代ではないのです。同じ家に生まれ育った兄弟姉妹であっても、性格も好みも価値観も大きく異なっていることが珍しくありません。親子であっても同様です。ですから、主が話された「放蕩息子の譬え話」にある親子の考えの違いや、兄弟の考えや性格の違いなどは、現実にも大いにあり得たことだと思います。現代社会においても同様ではないでしょうか。

③ 本日の福音も、このような大きな社会的過渡期の流れの中で、受け止めたいと思います。主が弟子たちを連れてやって来た村は、エルサレムに近いベタニヤという村でした。そこにはラザロという、多分富裕な貿易商と思われる人が大きな家屋敷を構えていて、いつも主の一行を快く泊めてくれていました。主のご受難の少し前に、このラザロが死んで屋敷内の墓に葬られていたのを、主が蘇らせた話がヨハネ11章に書かれていますが、そこにもマルタとマリアの姉妹が登場しています。福音書には、罪の女マグダラのマリアもいて、主によってその心の罪から救われたこの女が、主の受難死と復活の時にも主に忠実に留まり続けて活躍したように描かれていますが、同じ古代末期の崩れ行く社会の中に生まれ育ち、4世紀後半に長年エルサレムにあって新約聖書をラテン語に翻訳したり、聖書の注解書を著したりした聖ヒエロニモは、このマグダラのマリアとラザロの妹マリアとを、同一人物としています。しかし、社会体制も社会道徳も比較的安定していた時代しか知らないある聖書学者が、この二人が同一人物であるとは考えられないという仮説を唱えたことがありました。確かに、首都圏の立派な資産家の家に生まれ育った女が、貧しい家の出身者が多い遊女の間に生活する程に身を持ち崩し、社会からも「罪の女」として後ろ指を指されるに到ったなどということは、通常には考えられないことですが、しかし、社会全体が根底から文化的液状化現象で揺らぎ、社会道徳も心の教育も、基盤とする権威を失って崩壊しつつあるような時代には、現代においても起こり得るのではないでしょうか。良家の娘が家出をしたりした話は、現代にもたくさんありますから。

④ 本日の福音に戻りますと、罪の女の生活から足を洗って元の家に戻っている、そのマリアがいる家に主が弟子たちを連れてやって来ました。妹と違って伝統的良風を堅持し、家事を任せられていたと思われるマルタは、突然の客たちの夕食の準備で大忙しであったと思われます。ルカ福音書8章の始めには、「悪霊や病気から救われた数名の婦人たち、すなわち七つの悪魔を追い出してもらったマグダラのマリアと、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、それにスザンナ」たちも主と弟子たちの一行の「お供をした。彼女たちは、自分たちの財産を出し合って一同に奉仕していた」とありますから、この時も数人の婦人たちがマルタのお手伝いをしていて、マルタは決して一人で食事や宿泊の準備をしていた訳ではないと思われます。マルタという名前は、当時シリア、パレスチナ地方に住んでいた庶民、異教徒もユダヤ人もごく一般的に話していたアラム語で「女主人」の意味だそうですが、家のことは自分が一番よく知っているのですから、マルタは名実共に女主人として、本日の福音の40節にありますように、「いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いていた」のだと思います。せわしく立ち働く(ペリスパオー)というギリシャ語原文の動詞は、ペリ(周囲に)とスパオー(引き離す)という二つの単語の合成語ですから、マルタは、他所から来た婦人たちにいろいろと指示を与えながら、周囲の雑事に囚われて、心が散り散りになっていたのかも知れません。

⑤ ところが、自分の家のことをよく知る妹のマリアは婦人たちと一緒に手伝おうとせず、広間で主の弟子たちと一緒に、主の足元に座して、主の話を聞き入っていました。当時の伝統的慣習では、女性は公的なシナゴガだけではなく、個人宅の広間などでも客人の男性たちの間に一人で入り混じって話を聞いたり論じ合ったりすることは、慎みに欠ける行為とされていました。当時の律法学者たちが、律法の教えを学ぶことは男の務めであって、女性にはふさわしくないと教えていたからでもあると思います。伝統的慎みの慣習を重視していたと思われるマルタは、折角自宅に戻って来た妹のそのような慎みを欠く行為を見て、できれば一言すぐに注意したかったでしょうが、主のすぐ真ん前ですし、主が何もおっしゃらないので、暫くは見て見ぬふりをしていたのかも知れません。しかし、遂に我慢できなくなったのだと思います。主のお側に近寄って「主よ、妹が私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい」と申しました。

⑥ 主はそれに対して「マルタ、マルタ」と二度も名前を呼んでいますが、これはマルタへの親しみの情の表現だと思います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」というお言葉は、今の私たちにとっても忘れてならないお言葉だと思います。私たちも、神に捧げる祈りや典礼のことで、間違わないようにいろいろと細かく配慮しますし、客人のもてなしや隣人との人間関係のためにも、人から良く思われるようにと種々配慮しています。その配慮は必要でありますが、しかし、そのことで心を乱し、客人に対する接待を喜びの心のこもらないものにしてはならないというのが、主の教えではないでしょうか。外的この世的配慮の価値は、それらの配慮や奉仕に込める神や客人への感謝と愛にあると思います。人と人の考えや好みや価値観などが大きく多様化するような時代には、この本質を念頭において、外的この世的不完全さに心を乱さずに、ひたすら神の方に眼を向けて、喜んでなす奉仕愛に生きるように、というのが主のお勧めなのではないでしょうか。

⑦ 最後に「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というお言葉も、大切だと思います。ここで「良い方」とある言葉は、何を指しているのでしょうか。いろいろと意見があるでしょうが、私はこれを、昔ある人たちが考えたような観想生活のことではなく、自分に対する主の御言葉、神からの呼びかけなどを指していると思います。罪から立ち上がる恵みを得たマリアは、ひたすら神よりの呼びかけにのみ心を向けて生きようとしていたのではないでしょうか。女性を家事や子育てだけに閉じ込めて来た旧来の伝統に反対し、いわば自分も主の女弟子になって、男たちと共に主のお言葉を聴聞し、その証し人になることを望んでいたのかも知れません。主はその大胆な試みを快く容認なされ、そのことを「良い方」と表現なされたのかも知れません。この世の伝統的やり方や考え方を最高の基準とせず、その人が神を愛し神に従おうとしているなら、その人のそのような心がけを是とし、多少の不完全があるとしても心を大きく開いて容認致しましょう。それが、人間がそれぞれ極度に多様化する大きな過渡期に、主が多種多様な個性的人々を救うためにお示しになった生き方だと思います。現代もそのような大きな過渡期と言ってよいと思います。私たちも主のそのような心の広い生き方を身につけるよう心がけましょう。

2010年7月11日日曜日

説教集C年: 2007年7月15日 (日)、2007年間第15主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 30: 10~14. Ⅱ. コロサイ 1: 15~20.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 25~37.


① 本日の第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主の御声に従って、…あなたの神、主に立ち帰りなさい」と言った後に、「この戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。…御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と話しています。長年待望して来た約束の地を目前にして、モーセの語ったこの言葉は、私たちの信じている神をどこか遠い海の彼方や、天高くに離れておられる方と考えないように、神はいつも私たちのごく近くに、ある意味では私たち自身の頭の考えよりも私たちの心の近くにおられて、私たちの話す言葉や私たちの心の思いの中でまでも働いて下さる方なのだ、と強調しているのではないでしょうか。察するに、モーセは自分の口や心の中での神のそのような神秘な働きを実際に幾度も体験し、神の身近な現存を確信していたのだと思われます。私たちも神のこの身近な臨在に対する信仰を新たにしながら、その神のひそかな御声に心の耳を傾け、神の働きに導かれて生活するよう心がけましょう。それが、私たちの本当の幸せに到達する道であると信じます。

② 本日の福音には、一人の律法の専門家が主に「永遠の命をいただくには、何をしなければなりませんか」と尋ねていますが、当時の律法学者たちは、旧約聖書に書かれている数多くの法や掟を、私たちの言行を律する外的理知的な法規のように受け止め、人間の力ではそれらを全部忠実に守り尽くすことはできないので、それらの内のどの法、どの掟を守ったら永遠の命をいただいて幸せになれるかを論じ合っていたようです。この律法学者も、その答えを主に尋ねたのだと思います。主が「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」とお尋ねになると、その人はすぐ「心を尽くし精神を尽くし、云々」と、申命記6章に読まれる愛の掟を口にしました。この掟は、今でもユダヤ教の安息日の儀式の中ほどに、声を大にして唱えられている、特別に重要視されている掟であります。ですから、その人の口からもすぐこの掟がほとばしり出たのでしょう。主は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とお答えになりました。しかしその人は、毎週幾度も口にしているこの掟の本当の意味内容を理解できずにいたようで、実行と言われても、何をどう実行したら良いのか判らず、「では、私の隣人とは誰ですか」と、まず隣人について主に尋ねました。主がそれに答えて話されたのが、「善きサマリア人の譬え」と言われる話であります。

③ ある人がエルサレムからエリコへ下って行く、石と岩ばかりが累々と10数キロも続く長い淋しい荒れ野の坂道で、追いはぎに襲われて衣服まで奪い取られ、半殺しにされてしまいました。そこに一人の祭司が、エルサレムでの一週間の務めを終えて帰る途中なのか、通りかかりました。しかし、その人を見ると、道の反対側の方を通って行ってしまいました。聖なるエルサレム神殿での聖なる勤めにだけ奉仕していて、穢れたものや血の穢れのあるものには関わりたくない、という心が強かったのかも知れません。同じように、神殿に奉仕しているまだ若いレビ人も通りかかりましたが、その人を見ると、道の反対側を通って過ぎ去って行きました。日頃綺麗な仕事にだけたずさわっていることの多い私たち修道者も、神の導きで全く思いがけずに助けを必要としている人に出遭ったら、その人を避けて過ぎ去ることのないよう、日頃から自分の心に言い聞かせていましょう。

④ 1962年の夏、私が夏期休暇でドイツのある修道院に滞在した時、その近くにあったアメリカ軍のバウムホルダーという、人口3万人程の大きなキャンプ場からの依頼で、そのキャンプのホテルに二週間滞在し、アメリカ人と結婚している日本人女性数人に洗礼前の教理を教えたことがありました。日曜日のミサに出席しましたら、ちょうど本日のこの福音が読まれ、その時の米軍チャプレンは説教の中で、信徒に具体的にわかり易く説明しようとしたのか、少し笑みを浮かべながら通り過ぎた祭司をユダヤ教の「神父」、レビ人を「神学生」と呼んでいました。現代のカトリック聖職者も気をつけていないと、苦しんでいる人や助けを必要としている人に対して、冷たく対応してしまうおそれがあるかと思います。皆生身の弱さを抱えている人間です。気をつけたいと思います。

⑤ 譬え話に戻りますと、最後にサマリア人の旅人、おそらく商用で旅行している人が来て、その傷ついた人を見ると、憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せます。そして宿屋に連れて行って介抱します。ここでルカが書いている「見て、憐れに思い、近寄る」という三つの動詞の連続は、主がナインの寡婦の一人息子を蘇らせた奇跡の時にも登場しており、ルカが好んで使う一種の決まり文句のようも見えます。なお、「憐れに思う」という動詞は、新約聖書に12回使われていますが、主の譬え話の中で放蕩息子の父親や、僕に対する主人の行為として、また半殺しにされた人に対するサマリア人の行為として3回使われている以外は、新約聖書では全て主イエズスの行為、または神の行為としてのみ使われています。従って、譬え話にある放蕩息子の父親も僕の主人も、共に神を示しているように、この善いサマリア人の譬え話においても、サマリア人の中に愛の神が働いておられる、と考えてよいと思います。

⑥ 主はこの譬え話をなされた後で律法の専門家に、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。そして律法学者が「その人に憐れみの業をなした人です」と答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。ここで、律法の専門家の「私にとって隣人は誰ですか」という質問に戻ってみましょう。主が「あなたにとって隣人はこの人です」と具体的に隣人を示して下さっても、その人に対する愛が生ずるとは限りません。この人を愛するよう神から義務づけられていると思うと、人間の心は弱いもので、その人に対する愛よりも嫌気が生じて来たりします。ですから主は、外から法的理知的にその人の隣人を決めようとはなさいません。実は、愛が自分の隣人を産み出すのです。しかもその場合、相手が自分に対して隣人になるのではなく、その人を愛する自分が、相手に対して隣人になるのです。このようにして主体的積極的に隣人を産み出し、隣人愛を実践することが、律法学者が始めに尋ねた「永遠の命をいただく」道なのです。同じことは、夫婦の相互愛についても言うことができると思います。そのようにして隣人愛・夫婦愛に生きる人の中で、苦しんでいる人・助けを必要としている人を見て、憐れに思い、近寄って助けて下さる神が働くのであり、その人は、自分の内に働くこの神の愛を、数々の体験によってますます深く実感し、自分の心が奥底から清められ高められて、日々豊かに強くなって行くのを見ることでしょう。私たちがそのような幸せな神の愛の生き方を実践的に会得できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年7月4日日曜日

説教集C年: 2007年7月8日 (日)、2007年間第14主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 66: 10~14c. Ⅱ. ガラテヤ 6: 14~18.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 1~12, 17~20.


① 本日の第一朗読は、イザヤ預言書の最後の章からの引用ですが、イザヤはここで、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰国しても、祖国の再建を難しくする様々の困難に直面している民に向かって、喜んで神に従うよう励ましつつ、平和と慰め、繁栄と豊かさを約束して下さる神のお言葉を伝えているのだと思われます。48年前の1959年に、大きな明るい希望のうちに司祭に叙階された時の私は、ここに「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のゆえに喜び躍れ」と言われている「エルサレム」を、勝手ながら救われる全人類と考えてみました。その頃の日本は既に敗戦後の暗い貧困状態から抜け出て、豊かな社会を築こうとして皆意欲的に働いているように見えましたし、戦後目覚しく復興した西ドイツでは、「経済的奇跡」という言葉が持て囃されていました。イザヤの預言には、ただ今ここで朗読されましたように「平和を大河のように、国々の栄えを洪水の流れのように」という言葉も読まれます。半世紀前からの世界の動きを振り返って見ますと、多発する数多くの不穏な動きにも拘らず、この預言はある意味で現代の多くの国でも実現していると考えてよいのではないでしょうか。

② しかし、2千年前のエルサレムがその繁栄の絶頂期に徹底的に破壊され、廃墟と化してしまったように、今文明の豊かさを謳歌している国々も、その繁栄を支えてくれている陰の力、神の働きに対する感謝と奉仕を蔑ろにし、神から離れて生きようとしていると、その繁栄の地盤が崩壊し、思わぬ液状化現象によって建物全体が根底から倒壊する恐れに、悩まされる時が来るのではないでしょうか。聖書の語る神からの警告に、心して深く学ぶよう努めたいものです。

③ 本日の第二朗読は、ガラテヤ書の結びの言葉といってよいですが、このガラテヤ書は、異邦人キリスト者も皆割礼を受けて、神から与えられた律法を順守しなければならないと説く、ユダヤ主義者の誤りを排除するために書かれた書簡であります。ガラテヤ書3章に述べられている教えによると、神がアブラハムとそのただ一人の子孫、すなわちキリストに約束なさった救いの恵みは、その430年後にできた律法に由来するものではなく、神の約束が律法によって反故にされたのでもありません。律法は、信仰によってキリストを受け入れるように導く養育係として、与えられたのです。しかし、今や信仰によってそのキリストと一致し、神の子となる時代が到来したのですから、私たちはもはや養育係の下にはおらず、律法を順守しなくてもよいのです。もはやユダヤ人とギリシャ人の区別も、奴隷と自由人の区別もなく、皆キリストにおいて一つとなって神の子の命に生き、神の約束なさった恵みを受け継ぐ者とされているのです。

④ 使徒パウロはこの観点から、私たちを人間中心の文化や思想や自力主義から解放してくれる、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」、「大切なのは、新しく創造されることです」などと、本日の朗読箇所で述べているのだと思います。「私は、イエスの焼印を身に受けているのです」という言葉は、焼印を押されて主人の持ち物とされ、主人の考え通りに働く古代の奴隷たちを連想させますが、使徒パウロは、それ程に全身全霊をあげて神の子イエスの内的奴隷となり、神中心に生きる「神の子」という新しい被造物に創造されることに打ち込んでいたのだと思われます。私たちも、この模範に倣うよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音を書いたルカは、主が6章に選定された12使徒を村々へ神の国宣教のために派遣した話を、9章に記述しています。続く10章の始めにも、今度は他に72人を任命し、ご自分が行くつもりの全ての町や村へ、二人ずつ先に派遣されたと書いています。そして神の国の到来を宣べ伝え、病人を癒すために派遣された使徒たちと同様に、この72人の弟子たちも喜んで戻って来て、各人の仕事の成果を主に報告しています。ルカ福音書にだけ読まれるこの72人の指名と派遣の話は、ルカが、使徒たちだけではなく、救いの恵みを受けた一般信徒も、主から派遣されて自分の持ち場で出会う人々に、神の国の到来を証することの大切さを重視していた証拠だと思います。宣教は、教会から宣教師として公式に選ばれ派遣されている人たちだけが為す活動ではありません。第二ヴァチカン公会議は、教会は本質的に宣教師的であり、信徒も皆キリストの普遍的祭司職に参与していると宣言していますが、その教会に所属しているメンバーは皆、それぞれの持ち場、それぞれの生活の場で主から宣教の使命を頂いていると考えているからだと思います。

⑥ では、どのようにしてその使命を果たしたらよいでしょうか。本日の福音からヒントを得て、ご一緒に考えてみましょう。主は72人を派遣するに当たり、まず収穫のために働き手を送って下さるよう、収穫の主(すなわち天の御父・神)に願いなさい、と命じておられます。商工業の急速な発達で社会がどれ程豊かになっても、その豊かさの陰で自分の心の弱さ、未熟さを痛感させられ、悩んでいる人や道を求めている人は非常に沢山います。自分の心の欲を統御できずに、もう止めたい止めたいと思いながらも止められずに、アルコールや麻薬やギャンブルなどの奴隷のようになり、知りつつ健康を害している人や、良心の呵責に苦しみつつ資金作りのため悪事を働いている人も少なくありません。私は30数年前に、中学時代に親しかった同郷の優秀な下級生で、クレーン車操作の技術などで建築業界で活躍していた人が、アルコール依存症で仕事ができなくなり、妻子にも逃げられて入退院を繰り返し、遂に死ぬまでの間、一年間程その世話を担当したことがありますが、その時、自分の心を持ち崩したそういう人たちは、バランスよく健康に暮らしている人たちの何倍も多く深刻に苦しんでいることを、思い知らされました。2千年前のキリスト時代と同様、現代にも心の救いを捜し求めている人、必要としている人は大勢いるのではないでしょうか。

⑦ ですから主は、「収穫は多いが、働き手が少ない」とおっしゃったのだと思います。ここで「収穫」とあるのは、心の救いを必要としている人や捜し求めている人たちを指していると考え、また「働き手」とあるのは、何かの社会的資格を取って働く人ではなく、自分が体験した神の働きや神による救いを、感謝と喜びの内に他の悩んでいる人、求めている人の心に語り伝えることのできる人を指している、と考えてもよいと思います。主は、神の国の到来を証しするそういう働き手が少ないと嘆き、一人でも多くそういう働き手が増えるよう、天の御父に祈ることをお命じになったのだと思います。まず神が働き、その神から派遣されて実践的に証しするのが宣教だと思います。

⑧ 次に主は、このような信徒の派遣を「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とも話しておられます。この世の一般社会には個人的あるいは集団的エゴイズムの精神で生活している人が大半で、そのような人たちにはいくら真面目に証ししても正しく理解されず、逆にその人たちと同じように考え行動するよう、強引に引き込まれることも起こり得ます。特に自分が何か、その人たちに利用価値ありと思われるような物を持っている場合には。それで主は、「財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな」などと、警告なさったのだと思われます。しかし、神から自分に与えられた生活の場に入ったら、まず「この家に平和があるように」と神に祈りなさい。もしそこに神の平和を受けるに相応しい心の人がいるなら、あなた方の願った平和はその人の心に留まり、恵みをもたらすでしょうが、もしいなくとも、その平和は無駄にはならず、あなた方の上に戻って来るのです、と主は教えておられるのだと思います。このようにして、人から注目されるような富も能力も何もなくても、自分の魂に宿る神の働き、自分の頂いた神の恵みを出会う人たちに実践的に証しして、やがて主ご自身がその人たちに受け入れられるよう地盤造りをするのが、信徒の宣教活動だと思います。

⑨ 最後にもう一つ、主が「二人ずつ遣わされた」という言葉にも注目しましょう。釈尊は、ご自分が会得した人生苦超克の道を、できるだけ多くの人に伝えさせるために、弟子たちに一人ずつで行くようお命じになったそうですが、主が二人ずつ派遣なされたのは、何かの個人的悟りや生き方を伝えるためではなく、何よりもその二人が各人の考えや性格の違いを超えて、神の愛のうちに一致して働く実践を世の人々に実証させるためだと思います。我なしの積極的博愛のある所に神が臨在し、働いて下さるのですから。信徒の宣教活動の本質は、このような神の愛を証しすることである、と申してもよいのではないでしょうか。

2010年6月27日日曜日

説教集C年: 2007年7月1日 (日)、2007年間第13主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 列王記上 19: 16b, 19~21. Ⅱ. ガラテヤ 5: 1, 13~18. Ⅲ. ルカ福音書 9: 51~62.

① 本日の三つの朗読箇所に共通しているのは、主に従う者が身につけるべき特性と言ってよいかも知れません。第一朗読にはそれが明確には示されていませんが、少し自由な推察を働かせながら探ってみましょう。第一朗読は預言者エリシャの召命の話ですが、その頃神の預言者は、王妃イゼベルに命を狙われて神の山ホレブ(すなわちシナイ山) に逃れたエリヤ一人だけでした。しかし、その預言者エリヤが天に召される日も近づいていました。そこで神はエリヤに現われて、神の山からダマスコの荒れ野へと向かわせ、二人の男に油を注いでそれぞれアラムの王、イスラエルの王となし、エリシャにも油を注いで、エリヤの後を継ぐ預言者にすることを命じます。こうしてアラムでもイスラエルでも軍事的対立が始まって、預言者の活躍を必要とする舞台が生まれたのでした。

② 第一朗読は、エリヤがそのエリシャを預言者として召し出す独特の仕方について伝えています。言葉で呼びかけて自分に従わせたのではありません。何も言わずに、ただ働いているエリシャのそばを通る時に、自分の外套を彼の上に投げかけただけなのです。この出来事の前に、神からエリシャに何かの話があったのかどうかは、聖書に伝えられていませんが、この思いがけない突然の出来事に出遭った時、エリシャは牛を捨ててエリヤの後を追い、父母に別れの接吻をさせてくれるよう願って、「それからあなたに従います」と話しています。エリヤのなした風変わりな行為を神よりのものとして受け止め、正しく理解してすぐに対応する預言者的信仰のセンスが、エリシャの心の中に成熟していたしるしだと思います。エリヤもそれを認めて願いを許可しましたが、その時「私があなたに何をしたのか」という、不可解な言葉を口にします。よく判りませんが、これは、私があなたになした象徴的行為を忘れず、どんな思いがけない出来事の背後にも、神からの呼びかけを感知する信仰のセンスを大切にしているように、という意味を込めている言葉なのではないでしょうか。

③ 第二朗読には、キリストが「私たちを自由の身にして下さったのです。自由を得させるために」とありますが、ここで言われている「自由」とは、何からの自由なのでしょうか。この世の社会的身分制度や煩わしい外的労働、その他の生活の苦労からの自由ではありません。この朗読箇所に省かれているガラテヤ書5章2~12を読んでみますと、それは律法からの自由、すなわち律法の細かい規定を厳守することによって宗教的救いの恵みを得ようとする、ある意味では自分中心の利己的生き方からの自由を指していると思います。換言すれば、それは自分主導で何かを獲得しよう、所有しようとする欲求や生き方からの自由を指していると思います。したがって、最初に読まれる「奴隷のクビキに二度と繋がれてはなりません」という言葉は、そういう自分中心の生き方や肉の欲望に負けてはならないという意味だと思われます。

④ しかし、長年そういう生き方を続けて来て、その生き方がすっかり身についている通常の人間にとって、それはそう簡単なことではありません。ですからパウロは「だから、しっかりしなさい」と書いているのだと思います。仕事がうまく行かない時も、思わぬ困難や病気などに直面した時も、私たちの心を一番苦しめ悩ますのは、自分中心に自分主導で生きようとする私たち自身のエゴなのです。そのエゴからの自由を指しながら、パウロは、「あなた方は自由を得るために召し出されたのです」と書いているのではないでしょうか。では、どうしたら良いのでしょう。パウロはそれについて、「愛によって互いに仕えなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」等々の勧めを挙げています。人に負けまい、少しでも人の上に立とうとして、「互いにかみ合い、共食い」しないように、とも警告しています。

⑤ 使徒パウロがここで私たちに言いたいのは、神の愛の霊に導かれて生きるようにせよ、ということだと思います。その愛の霊は、既に私たちの心の奥底に与えられているのです。何かの事で失敗して自力の限界を痛感させられ、心の上層部に居座っている古いエゴの殻が破られてしまった時、すなわち聖書に度々語られている「打ち砕かれた心」の状態になったような時、その時がチャンスです。心の奥底に現存しておられる神の霊に信仰と信頼の眼を向けるなら、その霊は私たちのその信仰に応えて働き出して下さいます。自分中心に何かを得ようとするのではなく、神中心に神の愛の霊に導かれて、この不信の闇の世に神の愛の灯を点そう、輝かそうとして生きること、神よりの恵みの保護や導きを人々に与え続けようとして生きること、それが、神が望んでおられる新約時代の信仰生活であり、古いエゴの悩ましい思い煩いから心を解放し、豊かな祝福と恵みを人々の上に呼び下す、幸せな生き方であると信じます。主キリストや聖母マリアのように、自分のためではなく、多くの人のために生きるよう心がけましょう。その時、天からの引力が私たちの心の中で働き、様々の善い成果を産み出してくれます。目には見えなくても、そういう引力は実際に働いているのです。人間中心の精神を捨てて神中心の心で生きようとする時に、その引力が心の中で働き始めるようです。

⑥ 本日の福音の始めにある「天に上げられる時期」という言葉は、主のご受難ご復活の時を指しています。主は既にそのことを弟子たちに予告して、エルサレムに向かう決意を固め、ガリラヤを後にされたのです。いわば死出の旅に出発し、その旅の途中に横たわるサマリア人の村で泊めてもらおうとしたのです。しかし、エルサレムのユダヤ人たちと敵対関係にあったサマリア人たちは、主の一行がエルサレムへ行こうとしているのを知って、宿泊を拒みました。使徒のヤコブとヨハネはそれを見て怒りましたが、主は二人を戒めて、一行は別の村へと向かいました。主は殺されるために、エルサレムへ向かっておられるのです。何か緊迫した雰囲気が一行の上に漂っているような、そんな状況での出来事だと思います。

⑦ しばらく行くと、次々と三人の人が登場しますが、ルカがここで登場させている人は、マタイ8章の平行記事では「弟子」と明記されていますし、エルサレムへと急いでおられた主に話しかけたのは、いずれも一行の後を追って来た弟子であったと思われます。数多くの大きな奇跡をなされた主イエスが、その主を殺害しようとしているユダヤ教指導者たちの本拠エルサレムに向かっておられると聞いて、メシアの支配する新しい時代が始まるのだと考え、この機会にメシアのために手柄を立てて、出世したいと望んで駆けつけたのかも知れません。最初の人は「どこへでも従って参ります」と申し上げていますが、主は、メシアに敵対する悪霊たちが策動する大きな過渡期には、どんな苦労をも厭わぬ覚悟が必要であることを諭すためなのか、「人の子には枕する所もない」などと話されました。

⑧ 第二の人は「私に従いなさい」という主からの呼びかけに、「まず父を葬りに行かせて下さい」と答えましたが、主はその弟子に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を宣べ伝えなさい」という驚く程厳しい返事をなさいました。死に逝く父の世話や埋葬が、ユダヤ社会では息子にとって重大な義務であることを知ってのお言葉だと思います。その弟子は、主はエルサレムで敵対勢力を打ち破るか、殺されるかのどちらかであろうと考え、もし主が勝利して王位に登られたら、自分が逃げて弟子でなくなったのではなく、末期の父の世話と埋葬のため、主の許可を得て家に戻っていたのだということにしておけば、将来の出世の道が閉ざされることはないであろう、などと両天秤にかけて考えていたのかも知れません。それで主は、捨て身になって主に従おうとしていないその弟子の心を目覚めさせるために、厳しい言葉を話されたのかも知れません。「死んでいる者たちに」とあるのは、この世の人間関係や生活の配慮に没頭していて、まだ神の国の命に生きていない者たちという意味だと思います。

⑨ 第三の人は、「まず家族に暇乞いをしに行かせて下さい」と願いますが、主はその人にも、「鋤に手をかけてから後ろを振り返る者は、神の国に相応しくない」と冷たい返事をなさいます。本日の第一朗読では、エリヤがエリシャの願った家族への暇乞いをすぐに許可しましたが、主はここではそれを認めようとなさいません。その人の心が、まだこの世の人間関係などへの拘りを捨て切れずいるからなのかも知れません。私たちの心は本当に自分を捨て、聖母マリアのように神の僕・婢として主に従おうとしているでしょうか。心は無意識界ですので目に見えず自覚も難しいですが、日ごろの何気ない態度や言葉などに反映されることの多い自分の心をしっかりと吟味しながら、まだ何が自分に不足しているのかを見定め、神の導きと恵みを願い求めつつ、決心を新たに堅めましょう。

2010年6月20日日曜日

説教集C年: 2007年6月24日 (日)、第12主日、洗礼者聖ヨハネの誕生(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 49: 1~6. Ⅱ. 使徒 13: 22~26.
     Ⅲ. ルカ福音書 1: 57~66, 80.


① 本日の第一朗読の出典である第二イザヤ書 (イザヤ40~55章) には、「主の僕の歌」と言われている歌が四つありますが、本日の朗読箇所はその第二番目の歌であります。イザヤ42章の1~7節に読まれる最初の歌は、「見よ、私の僕、私が支える者を」という言葉で始まって、神の霊を受け、叫ばず呼ばわらずに、裁きを導き出して確かなものとしつつ人々に教え、囚われ人を解放し、闇に住む人をその牢獄から救い出すために、主である神が形づくり、諸国の光として立てるという、言わば主の僕の召命について述べている、神ご自身の歌であります。

② それに比べますと、本日ここで朗読された第二の歌は、内容的にはほぼ同様に主の僕の召命と使命について述べており、3節と6節に神がその僕に語られたお言葉が引用されていますが、全体としては主の僕が話している歌であります。ついでに申しますと、イザヤ50章4~9節の第三の歌は、自分の受ける迫害について述べている主の僕の歌であり、52章13節から53章12節までの一番長い第四の歌は、同じく主の僕が受ける受難死についての歌ですが、始めの3節で神が語られた後、53章に入るとその受難死を目撃する「私たち」が主語となっていますから、救いの恵みを受けるに到る人類の歌と称してもよいでしょう。しかし、最後の2節に再び神が登場し、その受難死によって神の僕が多くの人を義人とし、夥しい人を戦利品として受けることを詠っています。

③ 神の僕メシアについての預言である第二の「主の僕の歌」を、カトリック教会が洗礼者ヨハネの誕生を祝うミサ聖祭の中で朗読するのは、天使ガブリエルによるヨハネ誕生の予告からヨハネ殉教までのその生涯を、メシアの生涯の先駆と受け止めているからだと思います。私たちも洗礼者ヨハネを、神においてメシアと内的に深く結ばれていた先駆者として崇め、ヨハネの説いた悔い改めの恵みを、その取次ぎによって豊かに受けるよう努めましょう。

④ 第二朗読は、使徒パウロが第一回伝道旅行の時、ピシデアのアンティオキアで、安息日にユダヤ教の会堂でなした長い説教の一部であります。イスラエルの民の長い歴史を通して度々民に語りかけ、民を守り導いて下さった神は、約束された救い主によって救いの御業が実現する直前に、洗礼者ヨハネにイスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えさせました。ヨハネは、自分が数百年来かみから約束されている偉大なメシアの先駆者であることを自覚して、本日の朗読箇所にもあるように、「私はその足の履物をお脱がせする値打ちもない」と、公然と人々に話していました。私たちも洗礼者ヨハネの模範に倣い、自分を神の僕・婢、神から今の世に派遣されている使者と考えて、ミサ聖祭毎に実際にこの祭壇に来臨して下さる救い主に対し、謙虚な畏れと信仰を表明するよう心がけたいものであります。

⑤ 本日の福音は、エリザベトから生まれた洗礼者ヨハネが、誕生日から八日目に割礼を受けた時の話ですが、「近所の人々や親類は、主がエリザベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」という言葉や、「皆驚いた」、「近所の人々は皆恐れを感じた」などの言葉から推察すると、その割礼式の日が来るまで、近所の人々も親類の人たちも、老婦人エリザベトの奇跡的懐妊のことや男の子出産のことを全く知らずにいたのではないでしょうか。そこで、ルカ福音書の中で十分に詳述されていない洗礼者ヨハネの誕生にまつわる様々の異常事について、多少自由な想像を加えながらまとめて考察してみましょう。

⑥ この割礼式の十ヶ月ほど前に、アビアの組に属する老祭司ザカリアはエルサレム神殿で奉仕していました。アビアの組は、ダビデ王が制定したレビ族祭司24組のうちの第8組で、各組は一週間ずつ当番制で神殿に奉仕していました。神殿の収入は本来レビ族の祭司全員にバランスよく分配される筈のものでしたが、ハスモン家の大祭司が前2世紀の中葉にユダヤの政治権力を掌握してからの旧約末期には、その大祭司と結託しているサドカイ派の祭司たちが、神殿収入の大部分を自分たちのものにして祭司貴族のようになり、それ以外の祭司たちは年に2回一週間ずつ神殿に奉仕する報酬として支給される収入だけで生活する、貧しい下級祭司にされてしまいました。年に二週間の神殿奉仕の収入だけでは、長年住み慣れたエルサレムでは生活できません。それで多くの下級祭司は、エリコ周辺の誰の所有地でもない荒れ野や、ユダヤ南部の山地や荒れ野などの無住地に移住して開墾に励み、細々と生計を立てていました。当時の貧しい下級祭司たちが、神殿奉仕の二週間以外の時は都から遠く離れた不便な地域に生活していたのはそのためでした。この貧しいレビ族出身者の一部は、預言者的信仰精神の高揚に励みつつ、クムランやその他の諸所で共同生活を営んでいて、「エッセネ派」と呼ばれていますが、死期を間近にしていたザカリアとエリザベトも、幼子ヨハネの養育をそのエッセネ派の人たちに委ねてあの世に旅立ったようです。本日の福音の最後に、「幼子は、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」とあるのは、そのことを指していると思います。察するに、洗礼者ヨハネはエッセネ派の教育を受けて成長し、そこで行われていた水のこ洗礼式を既に始まったメシア時代のために一般化して、悔い改める全ての人に授けたのではないでしょうか。

⑦ 神殿に奉仕する下級祭司たちは、毎日くじで選ばれた一人が神殿の聖所に香をたく勤めをしていました。サドカイ派に所属しない下級祭司にとってこの勤めは特別の名誉でしたので、できるだけ多くの祭司にこの名誉を与えるため、一度この勤めを果たした祭司は、その後は一生くじ引きから除外されていました。各祭司には年に14回もくじ引きの機会が与えられているのですから、祭司たちは早ければ30歳頃に、遅くとも40歳代、50歳代でほとんど皆聖所で香をたく勤めを果たしていたと思われます。しかし察するに、ザカリアは60歳代になってもくじに当たらず、神殿勤務の期間中は毎日、年若い祭司たちに伍してくじを引かなければなりませんでした。それは年老いたザカリアにとって耐え難い程の恥さらしであったと思われます。加えて、妻エリザベトに子供が授からないのは何か隠れた罪があるからではないか、というのが当時の人たちの一般的受け止め方でしたから、二人は神にその隠れた罪の赦しを願い求めて、ルカも書いているように、「主の全ての掟と規定とを落ち度なく踏み行う」ことに、他の人たちの何倍も細かく注意しながら努力していたと思います。

⑧ ところが、ある日そのザカリアにくじが当たったので、彼は老祭司の荘重さを保ちつつ、香炉と香をもって主の聖所に入って行きました。外では同僚の祭司たちと民衆が祈っていました。香をたいた時、彼は香壇の右に立つ天使を見て心乱れ、恐怖に襲われました。「恐れるな、ザカリア。お前の願い事は聞き入れられた」と、天使はエリザベトが男の子を産むことと、その子につける名前、その子が神から受ける恵みや使命などについて告げると、恐怖と緊張で心が固くなっていたザカリアは、「私は何によってそのこと(が本当だと) 知ることができましょうか。私は 老人で妻も年老いています」と、天使に答えました。すると天使は、「私は神の御前に立つガブリエルである。あなたにこの福音を伝えるために遣わされた。聞け、あなたはこれらの事が起こる日まで口が利けず、ものが言えなくなるであろう。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」と告げ、ザカリアは直ちにオシとなり、生まれて来る男の子に天使から告げられたヨハネの名をつけるまで、ものを言うことができなくなりました。誤解しないように申しますが、長年細心の注意を払って信仰生活を営んで来たザカリアが、急に神の存在や全能の権威などを信じなくなったのではありません。自分と妻エリザベトに対する神の特別の愛が、信じられなかったのだと思います。これまでの数十年間、どれ程熱心に祈っても償いの業に励んでも、子供が生まれずくじ運も悪かったのですから、自分たちは隠れた罪を背負って神から退けられているのだと、信じ切っていたのだと思われます。

⑨ 外でザカリアを待っていた人たちは、非常に遅れて聖所から出て来た彼が口が利けず、身振りで説明するのを見て、彼が聖所内で幻を見たのだと分り、隠れた大きな罪を持つ身で聖所に入ったために、天罰を受けたのだと考えたことでしょう。勤めの期間が終わって家に帰る時のザカリアは、外的には大きな社会的恥に覆われていたと思います。しかし内的には、心がこれまでの掟中心の生き方から自分に対する神の愛とご計画中心の生き方へとゆっくりと大きく転向し、新しい希望のうちに家に帰り、そのことを妻エリザベトに筆記で伝えたことでしょう。民の宗教的伝統を堅持し、民を代表して祈ることを本務としていたレビ族では女性も文盲ではなく、エリザベトも聖母マリアも字を読み書きできたと思います。旧約の信仰生活から新約の信仰生活への転向は、「悔い改め」の説教者ヨハネが母の胎に孕まれる前に、既にその両親の心の中で始まっていたと考えられます。ギリシャ語のメタノイア (悔い改め) は、単に何かの悪い生活態度や悪習を改善することではなく、奥底の心の根本的考え方や生き方を転換することを意味していますが、それを短期間に実現させるためには、ダマスコでのサウロの改心の時のように、何か奥底の心を揺り動かすような苦い体験が必要だと思います。神はザカリアたちにも、その体験をさせたのだと思います。

⑩ 事によると、ザカリアが天罰を受けたという噂がレビ族の間に広まり、人々はその隠れた恐ろしい罪に汚染されないよう、オシとなったザカリアの家には近づかないようにしていたかも知れません。口の利けない老ザカリアも人々に弁明することなく、家に引きこもっていたことでしょう。しかし、エリザベトが懐妊すると、二人の心には全く新しい希望と旧約聖書理解が育ち始めたと思われます。そのことは、ヨハネに名前をつけて口が利けるようになった時のザカリアの讃歌に、雄弁に反映しています。懐妊したエリザベトは、ルカ福音1: 24によると、「五ヶ月の間引きこもった」とありますが、身重と老齢のため、山里の坂道を自由に歩けなくなったのかも知れません。そのため、同じ山里に住む村人たちは、エリザベトの懐妊を知らずにいたのだと思います。

⑪ しかし、よくしたことに、そこへ天使のお告げを受けた親戚の聖母マリアが訪ねて来て一緒に生活し、老夫婦の生活の世話をしてくれました。マリアの世話を受けてエリザベトが出産した時も、近隣の人たちは知らずにいたでしょうが、その割礼式のためにマリアがその人たちを呼び集めた時、初めて大きな喜びが皆を満たしたのだと思います。そして更に、口の利けなくなっていたザカリアが、神からのお告げに従って、親類にはないヨハネの名前を幼子につけた時、舌がほどけて神に対する讃歌を詠い、その中で幼子が神から与えられた使命についても語るのを聞いて、人々は神の新しい救いの御業に畏れや希望の念を抱くにいたり、それがユダヤの山里で話題になったのだと思います。洗礼者ヨハネの誕生を記念し感謝するミサ聖祭を献げるに当たり、私たちも、外的画一的な規則順守中心の旧約時代とは違う、神の新しい愛の働きと導きに対する預言者的センスや価値観を大切にするよう、決意を新たにして恵みを願うよう心がけましょう。

2010年6月13日日曜日

説教集C年: 2007年6月17日 (日)、2007年間第11主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. サムエル下 12: 7~10, 13. Ⅱ. ガラテヤ 2: 16, 19~21. Ⅲ. ルカ福音書 7: 36~56.

① 本日の第一朗読は紀元前千年頃の話で、カナンの地の先住民ヘト人の出身者である家臣ウリヤの妻を奪って子を身ごもらせたダビデ王が、その姦通罪の発覚を恐れてウリヤを戦場で死なせたという、もっと酷い二重の罪を犯したことを、預言者ナタンが主の名によって厳しく咎めた話であります。預言者はこの叱責に続いて、ダビデ王の家族の中から反逆者が出てもっと恐ろしい罪を公然と犯すという、耐え難い程の天罰も王に予告しています。

② しかし、王がナタンに「私は主に罪を犯した」と告白し、悔悟の心を表明すると、本日の朗読箇所にもあるように、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、神からの赦しと慰めの言葉を告げます。私たちにとって、神からのこのような赦しと励ましの言葉は大切だと思います。エフュソ書の2: 3に述べられているように、私たちは原罪により神の「怒りの子」として神に背を向け、神以外の被造物を選び取り、それを自分の人生の中心として  生きようとする、いわば神に対する忘恩と反逆の強い傾きをもって生れ付いています。

③ 私たちの人間性を生まれながら歪めている、この利己的自己中心の傾きは心の奥底に深く隠れていて、自分の持って生まれた自然の力ではどんなに努力しても勝てません。神のため人のためと思って為した献身的善業にも、いつの間にか無意識の内に入ってきてしまうほど根深い、本性的罪の傾きなのですから。ダビデ王がなした程の大きな罪は犯さないとして、心を細かく吟味してみますと、私たちも日々数多くの小さな忘恩や怠りの罪を犯しており、神から無意識の内にそれなりの小さな罰や失敗・不運などの天罰を受けているのかも知れません。しかし、ダビデ王のように神の憐れみの御心にひたすら縋りつつ、罪を赦して下さる神の愛と力に生かされて生きようと努めるなら、私たちも晩年のダビデ王のように、憐れんで救う神の新たな働きを生き生きと体験するようになるのではないでしょうか。

④ 使徒パウロは本日の第二朗読の中で「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と書いていますが、ここで「信仰」とあるのは、ハバクク書2章やローマ書1章その他に「義人は信仰によって生きる」とある言葉なども総合的に参照してみますと、「信仰の実践」と考えてよいと思います。パウロはその理由として、「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」と述べていますが、この言葉の背後には、彼が若い時にキリストの教会を迫害したという、苦い体験があると思います。改心前の彼は、誰にも負けない程熱心に律法の全ての規定を順守しようとしていた律法学者だったと思います。しかし、復活なされた主キリスト御出現の恵みに出会い、その主から厳しく叱責された時、神と社会のためと思ってなしていた律法の厳守は、神の新しい救いの御業を妨げるものであったことを痛感させられたのでした。

⑤ 彼はその時から、人間が自力で研究し順守する律法中心の立場を捨てて、ひたすら神の新しい導き中心の立場に転向し、その信仰に生きて下さる復活なされたキリストの命に内面から生かされる、新しい信仰実践に励むようになりました。「キリストが私の内に生きておられるのです。云々」の言葉は、この新しい信仰体験に根ざした述懐であると思います。私たちも使徒パウロの模範に見習い、主キリストが新約の神の民から求めておられるこのような信仰実践を、しっかりと体得するよう心がけたいものであります。

⑥ しかしここで、「律法の実行によっては誰一人として義とされない」という使徒パウロの言葉を、あまりにも理知的原理主義的に誤解しないことにも気をつけましょう。熱心なユダヤ教徒は現代でも律法の規定を研究し順守することに励んでいますが、彼らはその敬虔な信仰生活にどれ程努めても義とされずに皆滅んでしまうという意味ではないと思います。元来律法はアブラハムの神信仰を民族の伝統として子孫に受け継がせ、メシアによる救いの御業の地盤を備える目的で神ご自身から与えられた善いものであります。旧約時代からのその伝統を現代に至るまで守り続け、神信仰に励んでいるユダヤ人たちの上には、主キリストによる救いの恵みが豊かに注がれていると信じます。彼らは律法の実行という過ぎ行く行為によってではなく、その行為を通して表明されている神信仰と神の大きな憐れみの故に、皆永遠の救いへと導かれていると信じましょう。2千年前のユダヤ教指導層の中には、宗教的伝統の権威や法規を重視するあまり、心が一種の原理主義に囚われてメシアを正しく理解できず、死刑へと追い詰めてしまった人たちもいましたが、その後2千年にわたって耐えて来た数々の苦難に学んだユダヤ人たちは、今日では神から新たな道へと導かれつつあるように感じています。

⑦ 本日の福音の中では、主イエスを食事にお招きしたファリサイ派のシモンと、その時イエスの足元に後ろから近づき、泣きながら主の御足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗った罪深い女とが比較されていますが、44節から46節に読まれる主イエスの言葉を誤解しないように致しましょう。長旅で足が汚れている時は別として、普通に客を食事に招待したような時には、足を洗う水を差し出す必要はなかったし、日頃親しく交際している友でない客を接吻で迎える義務もありませんでした。シモンの応対には、取り立てて言う程の無礼はなかったと思われます。しかし、主があえてシモンの応対を口になされたのは、シモンの親切な招待よりも遥かに大きな愛を表明した罪の女の態度と行為を際立たせるためであったと思われます。事によると、シモンはイエスの預言者的能力や人柄を試すために、イエスを招待した食事の場に、その町の罪の女が来るよう取り計らったのかも知れません。主はそれをご承知の上でシモンの招待を受け、罪の女に救いの恵みをお与えになったのかも知れません。

⑧ しかし、聖書学者の雨宮慧神父はここで、47節前半に読まれる主のお言葉をどう受け止めるかに、一つの問題があることを指摘しています。ギリシャ語の原文では、その箇所は「私はあなたに言う。彼女の多くの罪は赦された。なぜなら彼女は多く愛したからである」となっています。雨宮神父はこの言葉を、「彼女は多く愛したがゆえに私はあなたに言える、彼女の多くの罪は赦された」という意味に取れば、多く愛したことから分るように、彼女の多くの罪は赦されてしまっているという意味になるが、その場合その後の48節に、主が女にあらためて、「あなたの罪は赦された」と言われた言葉へのつながりが少し悪くなると言います。47節の「罪は赦された」は、現在完了形の動詞でもあるからです。

⑨ しかし神父はもう一つ、47節前半の言葉を「私はあなたに言う、彼女は多く愛したから彼女の多くの罪は赦された」という意味にとり、愛することが罪の赦しを受ける条件と考えるなら、48節の赦しの言葉へのつながりはよくなるが、しかしこの場合も、40節から46節へのつながりが不自然になる、と迷っています。しかし、神父は最後に、「二者択一でなくても良いと思う。ルカ自身、どちらの解釈も可能になるよう意識して両義的に述べたと考えることもできる」、「救いと愛は相互的である。救いが愛を生むと同時に、愛が救いを生み出す。この相関関係に人を含み込むのが、イエスとの出会いである」などと書いています。私が神学生であった時にも、主のこの言葉をめぐって話題になっていることを聞いたことがありますが、雨宮神父のこの解説で結構だと思います。しかしこのことと関連して、規則違反などの外的な罪の赦しは、お詫びの言葉や外的償いなどによって与えられるとしても、心の奥底に隠れ潜む罪の赦しは、神の愛の火を心に点火し燃え上がらせる実践によってのみ、与えられるものであることを心に銘記していましょう。罪の女がその罪の赦しを受けたのも、主イエスに対する愛を可能な限りで表明した実践を通してだったのではないでしょうか。