2010年4月25日日曜日

説教集C年: 2007年4月29日 (日)、復活第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 13: 14, 43~52. Ⅱ. 黙示 7: 9, 14b~17.
     Ⅲ. ヨハネ福音 10: 27~30.


① ご存じのように、復活節の第四主日は昔から「善き牧者の日」と呼ばれていますが、第二ヴァチカン公会議の後半頃から「世界召命祈願の日」ともされて、善き牧者・主キリストの生き方を体現するような司祭・修道者が一人でも多くなるよう、この日に全教会と心を合わせて祈ることが勧められています。私たちは毎月の第一月曜日に司祭・修道者の召命祈願の意向でミサ聖祭を献げており、毎週土曜日の晩の祈りにも、同じ意向で一つの祈りを唱えています。今日のこのミサ聖祭も、その意向でお献げ致します。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読は、パウロとバルナバの最初の伝道旅行からの話ですが、それまではユダヤ人キリスト者の多いシリアのアンティオキア教会でサウロと呼ばれていたのに、この伝道旅行の時からは「パウロ」という名前を使っています。「サウロ」は、恐らくサウル王にあやかってつけられたユダヤ系の名前です。「パウロ」は、ラテン語で小さい者を意味するPaulusで、父親の時からローマ市民権を取得していたようですから、ユダヤ人社会以外の所ではローマ系のこの名前を使うよう、父親からつけて戴いた名前であると思われます。パウロとバルナバは、アンティオキア教会の預言者や教師たちに与えられた聖霊の言葉によって、異邦人世界へ伝道に派遣されたのですから、パウロはこの時からローマ人の名前を使い始めたのだと思います。

③ この宣教活動は、二人が自分で思い立って始めた事業ではなく、神の言葉によって教会から派遣され、始めた事業であります。ですから、二人はいつも神の御旨、神の導きを念頭に置きながら、いわば神の生きている道具のようになって働こう、と努めていたと思われます。ちょうど人類救済のために天の御父から派遣された主イエスが、いつも「父の御旨」を念頭に置いて働いておられたように。心にこの精神が燃えている人の中では、聖霊も生き生きと働いて下さいます。本日の朗読箇所にも、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」という言葉が読まれます。しかし、目に見えない神の御旨や聖霊の導きへの従順を根幹として信仰生活を営んでいないユダヤ人たちは、先祖たちから伝えられた聖書についての自分たちの伝統的解釈を最高のものとし、それに基づくユダヤ人社会の伝統護持を念頭に置いていたので、その伝統を乱すものとして主イエスに対しても厳しかったですが、パウロとバルナバをも迫害し始めました。

④ 神からの啓示である聖書は、私たちの人生を各種の危険や誤謬から護り導くための、いわば道路沿いの案内板や柵のように貴重なものですが、そこが人生の目的地なのではなく、聖書はそれに守られ導かれて神の待っておられる所へと進み、牧者であられる神の御声を正しく聞き分けて、神の愛に生きるようになるための手段であることを忘れてはなりません。最高のものは、神の御声に聞き従い神の愛に生きることです。私たちも過ぎ行くこの世の動きや組織体制などに囚われ過ぎて、本末を転倒しないよう気をつけましょう。世の終りまで私たちと共にいて下さるとおっしゃった、主キリストの現存に対する信仰を新たにしながら、日々その御声に心の耳を傾け、それに従うよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音は、ヨハネ福音書10章の後半部分からの短い引用ですが、10章の前半部分には、「私は良い牧者である」という主の宣言を含む、良い牧者とそれに従う羊たちについてのかなり詳しい話が載っています。それを聞いたユダヤ人の間では、主に聞き従おうとする人々と、主を悪魔憑きとして非難する人々とに分かれる分裂が生じ、激しい議論が交わされたようです。主の御受難の三ヶ月ほど前のある冬の日のことでしょうか、ヨハネはそれを「神殿奉献記念祭」の時と書いていますから、ユダヤ人の太陰暦で12月25日に当たる日だと思いますが、主が神殿のソロモンの回廊を歩いておられると、主に批判的なユダヤ人たちが主を取り囲み、「いつまで私たちの心をいらいらさせるのか。もしメシアなら、はっきりそう言ってもらいたい」と迫りました。

⑥ それに対する主のご返答の一部が、本日の短い福音であります。主は彼らに、「あなた方が信じないのは、私の羊でないからである」とおっしゃって、「私の羊は私の声を聞き分ける」の言葉で始まる、この話をなさったのです。それは裏を返せば、人間の作り上げた理念や主義・主張を中心にして、主の話されたお言葉を理解しよう、合理的に解釈しようと努力しても無駄で、不可解なものが次々と生じて来て心をいら立たせることになることを、示していると思います。しかし、神に背を向けて堕落した人間の、そういう自分の理解中心、この世の生活中心の生き方に一度全く死んで、神がお遣わしになった預言者や人の子メシアを受け入れ、まだよく理解できなくてもその教えに従って生きようと努めるならば、神に向かって大きく開かれたその心の中にあの世の光が差し込んで明るく照らし、それまでいくら考えても不可解であったことが、次々と問題なく解消して行くのです。大切なのは、まずメシアを神よりの人として受け入れ信じることと、そのメシアの教えに従って生活しようとする謙虚な信仰心の実践です。そうすれば、神よりの恵みの光が心の闇を追い出して、神の声を聞き分けることができるようになり、本当の真実が明らかになって行くでしょうというのが、主がユダヤ人たちに言おうとなされことだと思います。

⑦ ところで、本日の福音の29節は、古い写本が二つの相異なるタイプに分かれていて、その一つは、「私に彼らを下さった私の父は、全てのものより偉大である」となっており、彼ら(すなわち羊たち)を主にお与えになった天の父の力強さを強調していて、それに続く「誰も父の手から奪うことはできない」という言葉にスムーズに繋がり、分かり易くもあります。もう一つの写本は「私の父が私に下さったものは、全てのものより偉大である」という、天の父が守って下さる羊たちの偉大さを強調していて、本日ここで朗度されたプロテスタントとカトリックの共同訳も、この写本の方を聖書に採り入れています。この写本を疑問視する聖書学者もいるようですが、私はこれでよいのではないかと考えます。本日の短い福音を構成しているギリシャ語の九つの短文を吟味しますと、その書かれている順で1, 3, 5, 7番目の短文は、全て羊たちが主語ですし、それ以外の短文は、「私は」、「誰も」、「私と父とは」などが主語となっていて、一応主語が交互に替わる綺麗な整合性が保たれているように見えますから。

⑧ 主が批判的なユダヤ人たちの質問に答えて話されたこの短い話に登場する表現も動詞も、全てヨハネ福音書10章の前半部分に登場していますが、ただ前半部分では「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」などと表現しているのに対して、本日の福音の中では「私は彼らに永遠の命を与える」という風に、「永遠の」という形容詞が登場しているのが、ちょっと注目を引きます。なお、日本語の訳文で「命を受ける」「永遠の命を与える」「命を捨てる」などと、「命」という一つの言葉で表現されているものは、聖書のギリシャ語原文では「ゾーエー」と「プシュケー」という二つの言葉に使い分けられており、あの世の永遠に続く命や、神の恵みの命を指す時には「ゾーエー」、この世のやがて死ぬべき肉体的命や、人間中心の理知的精神や心などを意味している時には「プシュケー」という言葉を使っています。ヘブライ語でも同様の区別があって、「ゾーエー」は「ハイ」、「プシュケー」は「ネフェシュ」と言うそうですから、主も良い牧者の話をなされた時、この二つの言葉を正しく使い分けて話されたのだと思われます。良い牧者キリストは、私たちを贖うために、この世の人生のための命「プシュケー」は犠牲になさいますが、それは私たちにあの世の永遠の命「ゾーエー」を与えるため、しかも豊かに与えるためであって、ご自身が「ゾーエー」を捨てるなどとは一度も話しておられません。主に従う私たちも、既にこの世で生活する時から自我中心・自分の考え中心の「プシュケー」に死んで、洗礼によって神から戴いた神中心の愛の命「ゾーエー」に生きるよう努めましょう。それが、私たちの内的牧者であられる主が私たちに切望しておられることであると思います。

2010年4月18日日曜日

説教集C年: 2007年4月22日 (日)、復活第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 5: 27b~32, 40b~41. Ⅱ. 黙示 5: 11~14.
     Ⅲ. ヨハネ福音 21: 1~19.


① 私たちは毎月一回、極東アジア諸国の平和共存のためにミサ聖祭を献げて、神による照らしと導きの恵みを願い求めていますが、神がその祈りに応えて人々の心の中で働いて下さったようです。北朝鮮の支配層の動きにも漸く新しい確かな動向が感じられるようになりました。本日のミサ聖祭も、同じ意向で献げられます。希望をもって祈りましょう。

② 本日の第一朗読は、使徒言行録の4章に述べられている、サドカイ派祭司たちによる使徒ペトロとヨハネの捕縛、ならびにこの二人に対するユダヤ人の最高法院の尋問と、二人の答弁などの話に続く、再度投獄されたペトロと他の使徒たちに対する最高法院からの尋問と、それに対する使徒たちの答弁について扱っています。主キリストの受難死と復活の後、使徒たちの証言を聞いて悔い改め、洗礼を受けた人の数は、既に男たちだけで5千人ほどにもなりましたが、その多くはエルサレム以外の地に住んでいたようですから、エルサレム市内に住む信徒数は、まだそれ程大勢ではなかったと思われます。しかし彼らは、神が使徒たちを通して行われる多くの不思議なしるしを見て、恐れの内に心を一つにし、資産も共有にして、祈りも食事も共にしながら生活していたようです。

③ 社会的、人間的には弱く小さなこういう人たちのグループが、神に対する畏れのうちに心を一つにして信仰と相互奉仕の愛に励んでいるのを御覧になると、神はそういう人たちの中で特別にお働き下さるようです。無学なペトロたちがソロモンの回廊などで堂々と説教したのも、度々癒しの奇跡などのしるしをなしたのも、神の霊に動かされてのことでした。本日の第一朗読の話の直前にも、使徒たちはサドカイ派に捕らえられて公共の留置所に入れられていたのに、夜に主の天使が牢の戸を開いて彼らを連れ出し、「行きなさい。神殿の境内に立って、この命の言葉を全て民衆に語りなさい」と命じたのでした。信仰に生きる人たちが、この世的弱さ・小ささ・窮乏などの中で、祈りに応えて生き生きと働いて下さる神の支えや導きを体験すると、神に対するその信仰・信頼は一層強まり、どんな脅しや迫害にも屈しないものになります。第一朗読の最後に、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行った」とあるのは、そのことを示していると思います。信仰を磨き鍛えるものは、何よりも実生活の中で神の働き・導きを体験することであると言っても、過言ではありません。私たちも自分の弱さ・小ささ・貧しさを愛し、それらの中で神に結ばれて生きることにより、信仰を実生活の中に深く根を下ろした、根強いものにするよう心がけましょう。

④ プロテスタントの作家椎名鱗三氏は、本日ここで朗読された福音の箇所を読んで鳥肌が立つほど感動し、キリスト教に改心したのだと聞きます。一晩中漁をしても何も取れず、明け方には疲れと空腹を覚えていたと思われる弟子たちに、既に炭火をおこしてその上に魚を載せ、別にパンも用意して提供して下さる復活なされた主は、決して遠いあの世の存在、遥かに高い天上の存在ではなく、私たちの日常生活に伴っていて下さるごく身近な存在としてのご自身を、この出来事を通してお示しになったのではないでしょうか。153匹もの大漁をさせて下さったばかりでなく、自分たちにパンと魚などの朝食まで提供して、あの世を本当に身近なものとして痛感させて下さる、真に優しい思いやりに溢れておられる主のお姿を間近に見て、主と一緒に朝の食事をしながら、弟子たちは何を考えたでしょうか。

⑤ 以前とは多少お姿もお顔も違って見えますが、その風格やお声、並びに主がご受難によってお受けになった手足の深い傷跡は、エルサレムでご出現なされた時と同様、全く主ご自身であります。ですから弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」などとお尋ねしませんでした。しかしそれにしても、神から遣わされたメシアの来臨と復活によって、この世の人生がこんなにもあの世に近いものとなったことに、言い知れぬ感動を覚えたのではないでしょうか。ご復活後のあの世の主は、この世の私たちの平凡な日常生活にもすぐそばで伴っておられ、黙々と全てを御覧になったおられて、必要な時には助けようとしておられるのです。私たちも、このことを堅く信じながら、生活するよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の主題は、「不思議な大漁」というよりも、「復活の主が提供された食物」といった方がよいと思います。夜明け頃に岸辺に出現なされた主は弟子たちに、「魚は獲れたか」とお尋ねになったのではなく、「何か食べるものはあるか」とお言葉をかけられたのですから。ここで「食べるもの」と訳されている言葉プロスファギオンは、もともとは主食に味を添えるおかずの意味です。主食のパンは、主が既に弟子たちのために豊かに用意しておられたのだと思います。まだ春の曙の薄闇が残っていた時でしょうから、200ぺキュス、すなわち約90mも離れていますと、主のお姿も定かには見えなかったでしょうが、マグダラのマリアが「マリア」という主の呼びかけで、すぐに主だと判ったように、聴き覚えのある主のお声と不思議な大漁から、ヨハネは「主だ」と言ったのではないでしょうか。ヨハネのその声を聞くと、ペトロはすぐ上着をまとって水に飛び込み、泳いで主の御許に行きました。初めに述べられている弟子たち7人の名前から察しますと、主の生前に出来上がっていた出漁のグループは主の死後もそのまま続いており、これは、将来の信仰共同体も自然の人間的結びつきを排除しないことを示しているように見えます。

⑦ 153という数値の意味について、アウグスティヌスは、それは17x9=153で、17は10+7=17であり、10も7も9も、聖書の中ではいずれも全体性や円満さを象徴する聖なる数であると指摘しています。153という数値も、復活なされた主が私たちに提供して下さる恵みの全体性や豊かさを象徴しているのかも知れません。11節の「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」という言葉は、ヨハネが書いているあのパンの奇跡の所でも、同様に書かれています。そこでは主が後で、「私は天から降って来た生きるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるであろう」と宣言しておられますから、復活なされた主がこの時、ガリラヤ湖畔で弟子たちに提供なされたパンも、単に彼らの胃袋を満たすための食物ではなく、同時に彼らを復活の主の愛の命に参与させ、永遠に生きるように養う霊的恵みの食物であったかも知れません。その同じ主は、今も目に見えないながら私たちの日常生活に伴っておられ、事ある毎に私たちの生活や必要を助け、霊的恵みの食物で私たちを養い力づけて下さっているのではないでしょうか。本日の聖体拝領の時、日ごろの主のこの隠れたお助けとお力添えに、深く感謝申し上げましょう。

2010年4月11日日曜日

説教集C年: 2007年4月15日 (日)、復活第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 5: 12~16. Ⅱ. 黙示 1: 9~11a, 12~13, 17~19.Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~31.

① 本日の福音はヨハネ福音書20章の後半から引用されていますが、ヨハネ福音書20章の前半は、主が復活なされた日の朝の出来事について述べており、後半は同じその日の夕方の出来事と、そのちょうど一週間後の出来事について語っています。朝の出来事は、主のご遺体が葬られた墓が空になっている事実をめぐる町の外での出来事でしたが、夕方の出来事は、弟子たちがユダヤ人の恐ろしさに戸を閉じて集まっていた部屋、すなわち彼らの生活の場での出来事でした。主の復活という現実を正しく受け止めるには、空になった墓だけに囚われていてはなりません。私たちの日常生活の場に神出鬼没に出現し、いつも私たちに伴っていて下さる主の神秘な現存についても、しっかりと心に受け止め、一緒に考え合わせる必要があることを、ヨハネは私たちに教えているのではないでしょうか。

② ところで、復活の日の夕方のご出現と、その一週間後のご出現についての話を比べてみますと、幾つかの点で類似しています。その一は、どちらも「週の初めの日」、すなわち私たちのいう日曜日に起こった出来事であることです。それで教会は初代教会の頃から、復活なされた主が特別にお働きになったこの日を「主の日」として大切にしており、今でも教会は、この日に主の復活を記念し、その恵みに感謝を献げています。天に昇られた復活の主が、天から聖霊を火の舌の形で劇的に送って下さったのも、同じく日曜日でした。

③ その二は、どちらのご出現の時にも、主は初めに「あなた方に平和があるように」と、弟子たちに挨拶しておられることです。恐らく今日でもユダヤ人の挨拶にごく普通に使われている「シャローム」という言葉で、挨拶なさったのだと思われますが、しかし復活なされた主は、社会で言い交わされている挨拶よりは遥かに深い意味を込めて、弟子たちにこの言葉を話されたと思われます。すでに主は、最後の晩餐の席上弟子たちに、「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」と話しておられますが、復活の日の夕方にも、その挨拶のすぐ後で、重ねて「あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」とおっしゃいました。これはもう、単なる挨拶や相手の上に平和を祈る願望の言葉ではなく、主が実際にご自身の内に持っておられる「神の平和」を、弟子たち各人の心に与えるために話された言葉であると思われます。

④ 主はこう話されてから、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せばその罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ赦されないまま残る」とおっしゃっておられます。主がこの時お与えになった平和は、全ての罪を赦して神と内的に和解させる実存的恵みの平和、神に背を向け勝ちだった私たちの存在を聖霊の愛によって変革し、新しい被造物に創り変える「神の平和」だからではないでしょうか。「シャローム」という言葉は「平和」と邦訳されることが多いですが、「平安」と訳すこともできます。他者との関係に注目する時は「平和」という訳が、各人の心の状態に注目する時は「平安」という訳が適当でしょう。「シャローム」には、この両方の意味が含まれていると思います。心に神の働きによる平安を宿しながら、神とも人とも平和に暮らす生き方、それが復活なされた主が弟子たちに齎された最初の恵みであると思います。

⑤ 主は、やがてまた死ぬことになるこの世の命に蘇られたのではありません。永遠に死ぬことのないあの世の栄光の命に復活なされたのです。その主が、あの世の命に復活したお体でこの世に顕現なされると、そのお体にはただならぬ威厳や霊能のようなものが伴っていて、人々の心に恐れを感じさせるものがあったのではないでしょうか。復活の日の出来事について他の福音書に読まれる記事を調べてみますと、例えばマタイ福音書には、「婦人たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去った」とか、「婦人たちは近寄り、その前にひれ伏した。イエズスは言われた。恐れることはない。云々」などという言葉が読まれますし、ルカ福音書にも、「弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」などの言葉が読まれます。本日の第二朗読でも、幻示の中で復活の主に出会ったヨハネが、その足元に倒れて死んだようになると、主は「恐れるな。云々」と呼びかけておられます。察するに、復活なされた主はその威厳や霊能を極力覆い隠して、婦人たちや弟子たちにそのお姿をお見せになったのだと思います。しかしそれでも、神秘なあの世のお体に伴う言い知れぬ霊能に、人々は大きな恐れを感じたのではないでしょうか。

⑥ 復活の日の夕方に他の弟子たちと一緒にいなくて、復活の主に出会わなかったトマスは、この世的実体験を優先する立場から「私は…この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」などと言い張りましたが、一週間後にその主と実際に出会った時、驚きと恐れからでしょうか、「私の主、私の神よ」と叫んでしまいました。私たちはトマスのように、この世で復活の主と実際に出会う恵みに浴することはないでしょうが、しかし「見ないで信じる人は幸いである」という主のお言葉に従い、私たちの平凡な日常生活の場に、実際にそっと伴っていて下さる復活の主の現存を、堅く信じながら生活するよう心がけましょう。そうすれば、その信仰のある所に、復活の主が実際に私たちに伴い、助け、導いて下さいます。

⑦ 本日の第一朗読は、幾たびも復活の主のご出現を目撃して、主の復活と現存を堅く信ずるに到った使徒たちの活動について語っています。しかし、よく読んでみますと、使徒たちが神のためにこれをしよう、あれもしようなどと自分で考え、自分の力で活動したのではなく、復活の主ご自身が彼らを生きた道具のようにして利用しながら、多くの病人たちを癒して下さったように思われます。現代の私たちも日々内的に自分に死んで、主の復活と現存を堅く信じつつ生活しているなら、主はその私たちを道具にように利用しつつ、今の世に苦しむ人たちの上に救いの恵みを呼び降して下さるのではないでしょうか。外的には、全く平凡な生活であっても良いのです。この信仰と明るい希望を堅持しながら、今日も各人の置かれている場で、心の花を咲かせるように生活しましょう。

2010年4月4日日曜日

説教集C年: 2007年4月8日 (日)、復活の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 10: 34a, 37~43. Ⅱ. コロサイ 3: 1~4.
     Ⅲ. ヨハネ福音 20: 1~9.


① 本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいるローマ軍の百人隊長コルネリオの家で話した説教の引用ですが、そこでは、律法に従って割礼を受け、ユダヤ人にならなければ救いの恵みを受けないなどとは言われていません。ペトロは、神がナザレの主イエスを介して提供しておられる救いの業について簡潔に説明した後、自分たちはこのことについて証しするようにと、その主イエスから命じられていると述べ、さらに「預言者たちも皆、イエスについて、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられると証ししています」と付け加えています。旧約時代からの数々の厳しい伝統的法規を遵守しなくても、救いの恵みを豊かに受ける新しい道が、主イエスの受難死と復活によって開かれ、全人類に提供されたのです。今日は、そのことを喜び神に感謝する祝日だと思います。

② ローマ皇帝アウグストゥスがシルクロード貿易を積極的に支援し、東洋と西洋との国際貿易が盛んになると、オリエント・地中海世界の社会が一層豊かになったばかりでなく、人口移動も盛んになって社会が際限なく多様化し始め、それまで各地の共同体や民族的宗教の根幹となっていた伝統的慣習も価値観も、次第に時代遅れとみなされるようになってしまいました。このような状況は、2千年後の現代においても、国際的にもっと大規模な形で進行しつつあります。「時が満ちて」社会が大きく流動化し、こういう状況になった時、神はかねてから約束しておられた救い主をこの世にお遣わしになり、全人類のために新しい救いの道、新しい信仰生活の道を開いて下さったのです。それはもう、何か不動の掟や規則に従って、一律に型通りの生き方を自力で順守する生き方の道ではなく、むしろもっと自由に主キリストの命に内面から生かされ導かれながら生きる道、主が生前生きておられたように、何よりも神の愛、神の御旨に心の眼を向けつつ、実践的に奉仕の愛に生きる信仰生活の道と言ってよいと思います。

③ 神の愛、神の御旨は、ちょうど風のようにその時その時、その場その場の具体的状況や必要に応じて多様な現れ方を致します。私たちが自分中心の考えや欲求を退け、他者を差別扱いにするわが党主義も捨てて、ひたすら神の導きに従って生きようと努める時、神による救いの恵みが力強く私たちの内に働き、極度に多様化しつつある人類諸民族も、神において互いに相手を愛し赦しあって、平和に共存し、相互に助け合うことができるのではないでしょうか。現代のように社会が極度に多様化している時代には、各人が、また各国・各民族の代表者たちが、いくら心を開いて理性的に話し合ってみても、なかなか恒久的平和協力の体制を打ち立てることができませんが、主キリストのように己を無にして、神の超越的権威に従おう、神の奉仕的愛に生きようとする時、そこに神の恵みの力が働き、新しい道が開けてくるのだと思います。

④ 本日の第二朗読には、「あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」という、真に神秘的で理解し難い言葉が読まれます。いったいこの言葉は、どう受け止めたら良いのでしょうか。御独り子をメシアとなして、罪と死の支配下にあるこの世へお遣わしになった、天の御父の絶大な愛のご計画を中心に据えて考察してみましょう。

⑤ 私たち人間の理性は、通常「罪」と聞けば、他者の名誉や当然の権利を損傷したり、皆で守るべき秩序を乱したりして、他者に迷惑を及ぼすことと考え、「死」と聞けば、命を喪失することと考え勝ちです。いずれもこの世の具体的経験からの考えや受け止め方ですが、あの世の神は、罪や死について、それとは大きく異なる考えをもっておられるのではないでしょうか。罪や死によって傷ついたり迷惑したり喪失したりして不幸になるのはこの世の被造物ですが、それらは、言わば罪と死によって齎された外的結果であって、私たち人間は、数々の目撃体験から罪と死が齎す悲惨な結果については知っていても、宗教的な罪そのもの、死そのものについては、まだほとんど何も知らずに深い闇の中に暮らしているのではないでしょうか。命を目で見ることができないように、死そのものも目でみることはできません。私たちが見聞きしている現象は、神が問題にしておられる宗教的罪と死の本質ではありません。神は、神に背を向けた人間たちが、その無知と傲慢の内にますます深く堕落の道に落ち込んで行くのを憐れみ、限りない大きな愛の御心をもって救おうとなさいます。

⑥ しかし神は、ご自身に似せてお創りになった人間の自由を少しも束縛せずに、罪と死の霊的闇の支配下にいる人の心に神の愛の火を点火し、その火によって罪と死の闇を追い払い、滅ぼし尽くそうとなさいます。そのため、この苦しみの世に生きる人間となして、その御独り子を派遣なさいました。聖書の啓示によると、この世の生きとし生けるもの全ては、罪に穢れたこの世に生れ落ちた時から、目に見えず無自覚であっても、罪と死の恐ろしい悪魔的力にまとわりつかれているのです。この世の私たちは皆死に向かって歩んでいるのであり、たとい人間の科学がどれ程発達しても、誰一人として死を免れることはできません。これは、人間が神に背を向けて悪魔の勧めに従う生き方を選択したことによって生じた、人間性倒錯の結果であり、罪と死の力が支配するこの世が続く限り、世の終りまで次々と被造物を苦しめて行くことでしょう。本日の朗読に「あなた方は死んだのであって」とあるのは、皆死に向かって生きていることを指していると思います。

⑦ しかし、使徒パウロがコリント後書5章の終りに書いているように、「神は罪と関わりのない方 (すなわちメシア) を私たちのために罪となさって」、これに全ての責任を背負わせ、恐ろしい苦しみの内に死の国のどん底にまで追いやられたのです。神の御独り子メシアは、罪と死の悪魔的力を打ち砕くため、火のように強い愛の精神、悪と戦う精神をもってご自身の命をその勢力に委ね、ちょうどヨナが大きな魚に呑み込まれたようにして、死に呑み込まれて地獄にまで降りて行き、全能の神の力によって罪と死の奥底の力を打ち破りつつ、そこから死ぬことのない栄光の愛の命に復活して、天の玉座にまで御昇りになったのだと思います。罪と死の力に対する神の愛のこの勝利を堅く信じて、その神の愛の内に生きるように努める人は、その信仰と愛の度合いに応じて主キリストの復活の恵みに参与し、まだ罪と死の闇が支配しているこの世に生活していても、その闇に打ち勝つ主の力に内面から生かされ支えられつつ、喜びの内に生き且つ働く生き方を体験できます。ですから、「過ぎ行く地上のものに心を引かれないようにしていなさい」というのが、本日の第二朗読の勧めだと思います。私たちの本当の愛の命は、キリストと共に神の内に隠されており、すでにキリストと共に復活させられているのです。主キリストのように、一度は死の力に呑み込まれても、そこから天の栄光へと昇って行く道は開かれているのです。それはしかし、死を経て昇ってゆく道であることを、心に銘記していましょう。

⑧ 現代のように全てが極度に流動化し多様化しつつある大きな過渡期には、各種の対立、あるいは経済的格差や詐欺・犯罪などのために極度に苦しんでいる人、不安におびえている人が激増していると思われます。その数はこれからも増え続けることでしょう。下の世界から人間理性によって築き上げられた政治的理念や制度からでは、あまりにも多いそれらの問題の解決は期待できず、現代社会は混迷の度をますます深めて行くと思われるからです。私たち信仰に生きる者たちは、主キリストの復活の力に支えられて、宇宙万物の創り主・持ち主であられる天の御父の御旨に心を留めつつ生きることにより、また苦しむ人たちのため敬虔に執り成しの祈りをなすことにより、罪と死の力を打ち砕く復活の主キリストの力強い恵みを、その人たちの上に呼び降すことができるのではないでしょうか。それが、現代における一つの賢明な世渡りの道であると信じます。神はそのような人たちを捜し求めておられ、その人たちを特別に守り導いて、全ての悪に打ち勝たせて下さるからです。多くの人が動揺し混迷の度を深めつつある現代、せめて私たちは、永遠の命に復活して今も共にいて下さる主において、そのような仕合せな生き方を世に証しする恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年4月3日土曜日

説教集C年: 2007年4月7日 (土)、聖土曜日(三ケ日)

朗読聖書: 第二部の「ことばの典礼」では旧約聖書からの七つの
   朗読があるが、その記述は省き、「感謝の典礼」の朗読だ
   けにする。Ⅰ. ローマ 6: 3~11. Ⅱ. ルカ福音 24: 1~12.


① 今宵の典礼の中では、光と水が大きな意味を持っていますが、聖書には「光」という言葉が、創世記の初めから非常に多く登場しています。天地創造の時の「光あれ」を初めとして、「光と闇を分ける」だの、「命の光を輝かせて下さる」だの、「み顔の光を僕の上に」などと、旧約聖書には多く読まれますが、新約聖書にも「私は世の光である」「光の子として歩みなさい」「神は光であり、神には闇が全くない」「兄弟を愛する人はいつも光の中にいる」などと、数多く読まれます。それらを通覧してまず目を引くのは、光と命との密接なつながりであります。人は闇から生まれることによって光を見るのですが、ヨブ記や詩篇などには、神によって死から解放された病人を喜ばせるのも命の光であるとされ、聖書の他の所では、光の源であられる神から派遣された救い主は世の光とされていて、信仰をもってその救い主を受け入れた人々も光の子らと呼ばれ、世にその光を輝かすよう求められています。

② 今宵の式で、私たちは「キリストの光」と唱えながら、私たちが心に戴いている神の子キリストの光の恵みを、改めて心に想起しましたが、感謝と喜びの内にこの恵みの光を日々の生活を通して実践的に輝かせ、激動する今の世の不安な闇の中で希望を見出せずにいる人々の上にも、光の恵みが与えられるよう願い求めましょう。主キリストの成し遂げられた救いの御業を遠い過去の出来事としてのみ考えないよう気をつけましょう。この世の歴史の上では、それは確かに2千年前の出来事ですが、しかし、時間空間を超えて現存しておられる絶対の存在者であられる神に献げられ、神によって受けいれられたその御業は、時間空間を超えて世の初めから終りまでのあらゆる被造物にとり、「今」となって現存している超自然的現実なのです。ただ今ここで朗読されたローマ書6章に「あなた方も、自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対しては生きているのだと考えなさい」とある言葉も、同様に超自然的現実についての話です。復活なされた主キリストと内的に一致する度合いに応じて、私たちはすでに罪に対しては死んだ者、ただひたすら神目指して生きる者となっているのだ、という意味だと思います。使徒パウロが実感していたと思われる、私たちの存在のこの霊的現実を、私たちも堅く信じつつ、感謝と喜びの内に生きるよう心がけましょう。

③ パウロはローマ書9章の後半に、神と人との関係を焼き物師と粘土との関係に譬えて語っていますが、私たち被造物は、主キリストの超自然的救いの御業に対しては、全く粘土のような素材・道具としての価値しかなく、主は今も私たちの中で、私たちを使って私たちを救う御業をなしておられるのだと信じます。それで私は、苦しむ時や死ぬ時には、主が私の中で共に苦しみ、共に死んで、その苦しみや死を天の御父に献げて下さるのだから、その主にしっかりと捉まっていよう、主と一致してその苦しみを天の御父にお献げしようと考えることにしていますが、「キリストの光」と唱える時にも、復活なされた主が、罪と死の闇を駆逐するその霊的光を、私の心を蝋燭のようにして人々の心に点火して下さるように、そしてまだその光を知らずにいる多くの人たちを照らし導いて下さるようにと祈ります。目に見えなくても私たちのすぐそばに現存しておられる、その主に対する信仰・感謝・信頼の心を新たにしながら、これから行われる洗礼の約束の更新と今宵のミサ聖祭とを、心を込めて致しましょう。

④ 次に本日の典礼に度々登場する「水」という言葉について調べてみますと、聖書には、水という言葉は火という言葉と共に、「光」よりも遥かに多く読まれます。しかも、聖書では水も火も、単に汚れを清めるだけではなく、悪を滅ぼし尽くす手段、そして新しい命を与え育てる手段としての意味も持っているようです。先程ここで朗読された旧約聖書にもそのように描かれていますが、イスラエルの民は水と火を通り、それらに守られてエジプトの奴隷状態から解放され、神の恵みと自由の支配する約束の地へと導かれたのでした。悪の勢力から解放され、新しい神の恵みが働く国で生きるよう導かれたのです。そしてそれは、キリストの命に参与し神の愛に生きるための、洗礼のシンボルされています。主はニコデモに「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と話しておられますが、これも霊魂が洗礼によって新たに生まれることを意味しています。ここでは「水と霊」と表現されていますが、この「霊」とは、神の愛の息吹、神の愛の火、すなわち聖霊を指しています。私たちはこの説教の後で、火をともした蝋燭を手に持ちながら洗礼の約束を更新しますが、その火は洗礼によって神から受けた光の恵みを指しており、同時に神の聖霊、神の愛の火を指していると思います。目には見えなくても、私たちはこの火をいつも心の中にもっているのです。事ある毎に心の眼を自分の中にいて下さるその神の霊に向けながら、その霊の力に支えられて生きるように努めましょう。

⑤ ところで、人類の罪の贖いのため十字架上での死を遂げ、墓に葬られた後、死ぬことのないあの世の永遠の命に復活するまでの間、主キリストのご霊魂はその御遺体と共に留まっていたのでしょうか。教会は、初代の使徒時代からそのようには考えていません。既に使徒ペトロは、ペトロ前書3章に「キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして霊においてキリストは、囚われていた霊たちの所へ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちです。云々」などと書いています。箱舟に乗って救われたノアの一家8人以外の人々、ノアを介して伝えられた神の言葉や警告を軽んじて、この世の幸せだけを追い求めていた人々は、ほとんど大多数の人類の象りだと思います。この世において洗礼の恵みに浴することなく、あるいは洗礼の約束に忠実に生きずに、あの世に移った霊魂たちであっても、心の奥で神の愛の命に憧れ、神に背を向けていないならば、神の憐れみにより、キリストの贖いの恵みを受けて救われる時があるのではないでしょうか。

⑥ 初代教会の信仰内容を簡潔にまとめている3世紀から4世紀にかけての諸教会の信条を調べてみますと、初期の頃の一部の教会の信条に「死者のもとに下り」という言葉が抜けているものもありますが、東方教会の使徒信経をはじめ、西方教会の使徒信経にも、主キリストが「十字架につけられて死に、葬られて死者のもとに下り、三日目に復活し」という言葉が入っており、これがその後の時代には定着しています。ラテン語でad inferos (死者のもとに) が、ad inferna (死者の所に) となっているものも多く、以前の日本語訳使徒信経にはそれが「古聖所に」と訳されていました。最近の日本語訳には「死者のもとに」となっているものも出回っています。いずれにしても、私たちの人生はこの世だけで終わるものではなく、死後にも継続されて永遠に神へと上昇して行くものであることをしっかりと心に銘記し、主キリストの受難死と復活によって将来の栄光への道が開かれたことを感謝しつつ、今宵のミサ聖祭を献げましょう。

2010年4月2日金曜日

説教集C年: 2007年4月6日 (金)、聖金曜日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 52: 13 ~ 53: 12. Ⅱ. ヘブライ 4: 14~16, 5: 7~9. Ⅲ. ヨハネ福音 18: 1~19, 42.

① ただ今のヨハネ受難記の中で、「お前がユダヤ人の王なのか」というローマ総督ピラトの質問に対して、主キリストは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、他の者が私について、あなたにそう言ったのですか」と聞き返しておられますが、それは察するに、もしピラトが当時の内的に堕落と崩壊の道をたどっている社会の中にあって、人生に本当の生きがいを与えてくれる心の王を探し求めているのなら、総督の心からのその問いにまともに答えてあげようと思われたからではないでしょうか。しかし、ピラトは自分の心ではそのような精神的指導者を探し求めておらず、ただユダヤ人指導者たちから言われて、裁判の職務上の質問をしているだけでした。

② ピラトが「いったい何をしたのか」と尋ねたので、主は「私の国は、この世に属していない。云々」と神秘的なお答えをなさいましたが、それを聞いて、ピラトの心は何か謎に包まれたような思いがしたことでしょう。この世に属していない国なら、それはローマの主権外の国であり、この世の法では裁くことのできない宗教的な国、神に属するあの世の国ということになるでしょう。今は捕縛されたみすぼらしい囚人の姿になっていますが、心の威厳を堅持しているこの男は、あの世の国の支配者だと言うのですから驚きますが、ちょっと戸惑った後、総督はもう一度「それでは、やはり王なのか」と質問してみました。主はそれに対して、「私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世の来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」とお答えになりました。「あなたが言っていることです」という言い方は、相手の言葉を否定したものではなく、ただ相手の考えている意味とは多少違う意味で、王であることを肯定している、特殊な言い方の言葉だといわれています。

③ この世的には全く貧しくて、ローマ帝国にとっては少しも危険でないように見えるこの男に、ピラトは裁判官としてどう対応したらよいかに困ったことでしょうが、「真理とは何か」と吐き捨てるように言って、ユダヤ人たちの所に戻り、「私はあの男に何の罪も見いだせない。云々」と言いました。しかし、支配者に何かを強く要求するデモ隊のようになって、感情をますます高ぶらせているユダヤ人たちの気持ちを少しでも和らげようとして、彼らに譲歩を重ねているうちに、遂に真理に属しているあの世の王を、十字架刑に渡してしまう羽目になってしまいました。感情的叫び声が飛び交う団体交渉の場には、容易に悪霊たちも介入し扇動するからだと思われます。

④ ピラトには、社会的犯罪もローマ法に背く罪も何一つないイエスの裁判を回避する道はなかったのでしょうか。私はあったと思います。もしピラトが、正義のためには民衆のどれ程熱狂的な要求にも屈しない強い精神で、国法を順守しようと日頃から心がけ冷静であったなら、「王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と叫ぶ民衆や、「私たちには、皇帝の他に王はありません」などという祭司長たちに対して、「そんならこの裁判は、皇帝に裁決していただくことにする」と言って、判例の全くないこの裁判の判決をローマ皇帝の法廷に仰ぐことにし、その間に民衆の激情を沈静化させる道はあったと思います。しかし、ピラトは「何の罪も見出せない」と言いながら、民衆の過激な要求に同調し、イエスを鞭打たせたり、茨の冠をその頭にかぶらせたりしてしまいます。ここに彼の大きな罪があり、悪の勢力に屈服した所に、やがて彼が失脚するに到った一因があると、と私は考えています。

⑤ 聖書にも言われている通り、この世はまだまだ暗闇の霊が跋扈(ばっこ)して止まない世界だと思います。各地の堅実な伝統文化が拘束力を失って、心の教育が崩れ極度に不足し勝ちな現代のように大きな過渡期には、特に危険が大きいと思います。私たちも気をつけましょう。私たちは、主キリストと同様真理に属する者、神に属する者であって、この世に国を建設するためではなく、何よりもあの世の神の国へと一人でも多くの人を導くために、神から召され派遣されている者なのです。悪霊も介入し勝ちなこの世の政治や政治的イデオロギーに対しては、少し距離を置いて対処しなければならないと思います。主イエスのあの世的神の国は、全く次元の異なる国なのですから。いつの日か、カトリック教会も主キリストのように、この世の悪魔的論理によって裁かれ、その資産を奪われるような事態が来るかも知れません。しかし、少しも慌てず驚かないように致しましょう。私たちには、この暗い儚い仮の世にではなく、永遠に続くあの世に栄光に輝く神の国が既に備えられているのですから。どんな苦難も死も恐れずに、主と共に王者の威厳を堅持しながら、あくまでも神に忠実に留まり続けましょう。

2010年4月1日木曜日

説教集C年: 2007年4月5日 (木)、聖木曜日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 12: 1~8, 11~14. Ⅱ. コリント前 11:
       23~26. Ⅲ. ヨハネ福音 13: 1~15.

① 本日の福音によりますと、主キリストはこの世での最後の晩餐の初めに、突然食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、大きな手ぬぐいを腰にまとわれて、盥 (たらい) の水を運んで来て弟子たちの足を洗うという、卑しい奴隷がしているような行為を始められたので、弟子たちは驚いたと思います。主は弟子たちの足を洗い終わった後に、「私があなた方にしたとおりに、あなた方もするようにと模範を示したのである」と説明しておられるので、今宵は主が示して下さったこの模範について、少し考えて見ましょう。

② 福音にはまず、主がいよいよこの世から天の御父の元へ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを極限まで愛し抜かれたとあります。それは激しく燃え上がる人間的情熱的な愛で愛されたのではなく、むしろご自分を徹底的に与え尽くすという深い静かな神の愛で、極限まで愛されたのだと思います。おそらくこの時の主のお顔もお姿も、優しく穏やかな愛の威厳に美しく輝いていたのではないでしょうか。主はこの後に続く最後の晩餐に、ご自身のお体も御血も、パンとぶどう酒の中に込めて弟子たちに与え、彼らに食べさせ飲ませることによって、ご自身の御命も精神も霊的に完全に彼ら一人一人に与え尽くし、主があの世に移った後にもこの儀式を続けるようにとお命じになりました。復活後のご昇天の時には、「私は世の終わりまであなた方と共にいる」とおっしゃって、今もミサ聖祭の中で聖別されるパンとぶどう酒の秘跡により、私たち全人類に伴っておられることを宣言しておられます。神の愛はこのように、ご自身の持っているものを余す所なく相手に与え尽くし、相手を苦しめている重荷も共に引き受け担おうとする、実践的奉仕の内にあるのではないでしょうか。そのためには、これまで衣のように主が身にまとっておられた師匠としての外的姿も脱ぎ捨て、奴隷の姿になって働くことも厭わないのが、神の愛だと思います。

③ 主は弟子たちの足を洗うことにより、各人の心の奥に巣くう自分中心の罪の穢れを、ご自身の受難死という水で洗い清めようとなされたのだと思いますが、ペトロの所に来ると、事柄の目に見える側面にだけ囚われていたペトロは恐縮し、「私の足など決して洗わないで下さい」と言いました。主はこれに対して、「私のしていることは、後で分かるようになる」と答え、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」と、神秘的なお言葉を話されました。驚いたペトロは、「主よ、足だけではなく、手も頭も」と願いましたが、主は「足だけ洗えば、既に全身清い」とおっしゃったようです。他人の足を洗うという行為は、自分に死んで相手に奉仕する精神の表現であると思います。主は、弟子たちの間に、そして新しい神の民の内に、自分に死んで相互に奉仕し合う愛の精神を広めるために、弟子たちの足を洗うという模範をお示しになったのではないでしょうか。

④ 洗礼者ヨハネがまだ洗礼を授けていた頃、主も別の所で多くの人に洗礼を授けていましたから、主の弟子たちはその時に受洗したと思いますが、しかし、洗礼を受けた後にも自分中心の精神で考えたり行動したりすると、心の奥に蓄積されるその穢れは、足の裏まで汚すのではないでしょうか。肉体的にも足の裏は心の動きと深く関連しているようで、心にストレスが溜まると、足の裏に汗が放出され、そこに黴菌 (かびきん) がたかって臭いを出すようにもなります。弟子たちが互いに相手の欠点や罪科を自分の犠牲や忍苦の水によって洗い流し、こうして日々自分に死んで奉仕する神の愛の実践により、一層深くキリストの与える新しい命に根ざして生きるように、そして神の奉仕的な愛の実を豊かに結ぶようにというのが、弟子たちの足を洗った時の主の切願だったのかも知れません。

⑤ しかし、後でご自身を裏切ろうとしていたユダの足も洗われた主は、「みんなが清いわけではない」という悲しいお言葉も漏(も)らされました。主の財布を預かって、一行の生活のため世間に出て買い物をすることの多かったユダは、次第に世間の現世主義の空気に心の中まで汚れて来ていたようです。主が幾度もご自身の受難死について予告したり、律法学者・ファリサイ派と神殿の大祭司たちとが、主を捕らえて殺そうとしている動きを幾度も見聞きしたりしているうちに、ユダは心の中で、ユダヤでの神の国建設の夢は絶望的と考え始めたのではないでしょうか。もしも主がユダヤ教の指導者たちに捕らえられ処刑されるなら、主に積極的に協力した弟子たちも罪を着せられて探索され、処刑されるに到るであろう。ユダヤ教指導者たちからの責めを逃れたいなら、主のすぐおそばにいる弟子としての地位を逆に利用して、主を捕らえようと躍起になっている彼らに情報を知らせ、主の逮捕に協力するのが良いだろう。どうせ神の国の実現は絶望的になったのだから、などとユダは考えて、すでに大祭司側の人々と関係を深めていたのではないでしょうか。

⑥ 主は、ユダの心や行動のそのような動きを全て察知しておられたと思います。しかし、そのユダにも極みまでご自身を与え尽くす愛を示していれば、裏切った後のユダの心にも、きっと後悔の念が起こる時が来るであろう。その時でも遅くない。もし主を否認した後のペトロのように、大いに泣いて悔い改めるならば赦してあげようという、最大限の大らかな愛をもって、主はユダの足を洗ったのではないでしょうか。主が最後の晩餐の席で、ユダにパンを甘酸っぱい汁に浸してお与えになったのも、当時のユダヤ人の慣習では、格別の愛のしるしでした。他の弟子たちの多くは、主がユダにそのような特別の愛のしるしを示されたので、主が彼に「しようと思っていることを、今すぐしなさい」と命じられた時にも、ユダが裏切ろうしていたことは全く知らずにいたと思います。主の絶大な愛が、ユダをも含めその場にいた全ての人を覆い包んで、その仕合わせを天の御父に願い求めていたのですから。主は今宵、ここに集まっている私たちをも同じ絶大な愛をもって覆い包み、私たちの真の仕合わせのために、ご自身の全てを与え尽くして、天の御父に祈っていて下さるのではないでしょうか。私たちも、その主の愛とご期待に応えて、互いに罪科を赦し合い、互いの重荷を共に担い合って、主の奉仕的愛に生きる決心をあらたに主に献げ、主と共に天の御父に、これまでの怠りの罪の赦しと助けの恵みとを願い求めましょう。