2010年12月26日日曜日

説教集A年:2007年12月30日聖家族(三ケ日)

聖書朗読:マタイ2・13-15,19-23

① 毎年最後の日曜日は、かよわい幼子の姿でこの世にお生まれになった救い主を囲む、ヨゼフとマリアの「聖家族」を偲び、その模範に見習う祝日とされていますが、私たちの一番見習うべき点はどこにあるでしょうか。それは、何よりも日常茶飯事の中での神の現存と神の愛の御配慮を、日々心の眼で新たに発見し、生き生きと見定めながら、神の御旨に従って生きようとする生き方にあると思います。各人の自由と個性を何よりも尊重した戦後教育の誤った成果なのでしょうか、今年も家族の一致と団欒の崩壊を示す悲惨な事件が、我が国にたくさん発生しました。目に見えないながらも人間社会の上に君臨しておられる天の権威、神の権威に謙虚に従おうと努める心に、私たち各人の一致と和合の基礎があることを軽視し、その基礎に違反する言行が招いた破滅と悲惨なのではないでしょうか。自分の自由や個性の主張よりも、神の御旨への従順を先にしていた聖家族の生き方に学びたいと思います。
② ヨゼフもマリアも、この家族は神のお考え、神の御働きによって生まれたのであることを確信し、何よりも神から与えられた使命を大切にしつつ、神に従う心で家庭生活を営んでいたでしょうし、人間イエスも物心がついたころから、同じ精神で両親に対する従順に心がけていたと思われます。この模範は、人間各人の考えも価値観も極度に多様化しつつある現代には、特に大切だと思います。
③ パスカルはその『パンセ』の中で、「流転。人の所有する一切のものが流れ去るのを感じるのは、恐ろしいことである」と書いていますが、年末にあたり自分の使いなれた事物だけではなく、富も名声も業績も家族や親しい知人も、全て流転して行くものであることをあらためて思う時、自分中心・人間中心に周辺の自然をも神をも利用しようとする生き方の虚しさを痛感させられます。詩編24に、「地とそこにあるもの、世界とそこに住むものは神のもの。神は海に地の基をすえ、水の上に固められた」とありますが、私たちのこの存在も、私たちの所属するこの世界の全てもことごとく神のものであり、神はそれらを水のように流動的なものの上に据えて、支えておられるのではないでしょうか。したがって、その神に背を向け、神から完全に独立して生きようとすることは、内的根本的には自分の存在を恐ろしく不安なもの、内面から崩れゆくものに陥れる危険な道なのではないでしょうか。自分の存在の全ては、流れゆく水のように流動的なものの上にのせられており、神の支えと導きから逸脱するなら、地盤の液状化で傾き倒壊する危険にさらされる運命に置かれているのですから。日々何よりも神に心の眼を向け、感謝と奉仕愛の心で神の御旨に従っていようとするのが、外的にはどれ程弱く貧しい生活であろうとも、内的には最も実り豊かな充実した生き方であると思います。
④ 聖家族が貧しさの中で全てを全知全能の神に委ね、ひたすら神の御旨への従順中心に生きていたことは、万物流転の不安な現代世界に生きる私たちにとっても、一つの貴重な模範であると思います。やがて私たちが皆、神のもとで永遠に生活することになるあの世の人生に視点を移して、あの世の人生の側から、この世での生き方をじっくりと考察してみましょう。
⑤ 本日の第一朗読は紀元前200年頃に書かれたと考えられているシラ書からの引用ですが、このシラ書は、全てを「主を畏れること」を基盤にして教えており、本日の朗読箇所でもその立場から、父母を尊び敬う人が神から受ける恵みについて教えています。また第二朗読であるコロサイ書は、洗礼によってキリストとひとつ体になったキリスト者の生き方について教えていますが、本日の朗読箇所に読まれる「互いに忍び合い」「赦し合いなさい」という勧めは、極度の多様化と各人の個性対立に揉まれて生きる私たちにとっても、大切な勧めだと思います。使徒パウロはさらに、「妻たちよ、夫に従いなさい」「夫たちよ、妻を愛しなさい」などと、夫婦間の従順と愛の精神を勧告していますが、「子供たちよ、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」などと続けており、全ては「主に喜ばれる」という、神御旨中心の聖家族の精神で受け止めるべき勧めであると思います。
⑥ 本日の福音は、ヘロデ大王によるベトレヘムとその周辺での幼子殺害を逃れて、ヨゼフが幼子とその母を連れてエジプトに逃れたことと、その数年後エジプトでヘロデ大王死去の知らせを再び夢の中で天使から受け、ナザレの町に戻って来たこととを告げています。
神は、ひたすら神の御旨中心に生きている最も愛している聖家族に、時としてこのような苦難・労苦をお与えになる方なのです。あの世の人生のための功徳や救いの実りを一層大きくしてあげるためだと思います。それらの苦難や労苦によって、まだ神による救いの恵みに浴していない多くの霊魂たちに、神からその恵みが届けられるのだ、と考えてもよいでしょう。幼子イエスを守り育てる家族員、ヨゼフとマリアの団結と相互愛も、また神への信仰と愛と感謝も、それらの苦難や労苦によって実践的に鍛えられ、いっそう堅く深いものになったことでしょう。神は、私たちの修道院家族に属する各人の奥底の心も、苦難や労苦や小さな価値観の対立などによって一層大きく信仰と愛に成長することを、深い愛の内にお望みになる方であることを、心に銘記していましょう。私たちが今年一年、その神の温かい御配慮によってこうして護られ導かれていたことに対する感謝の念を新たにして、本日の感謝の祭儀を献げましょう。

2010年12月25日土曜日

説教集A年:2007年12月25日降誕祭日中のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 52章7~10節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 1章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節

① 本日の福音は、私の所属する神言修道会では最も大切にしているヨハネ福音書の序文で、創立者聖アーノルド・ヤンセンの時から神言修道会に直接関係するすべての式典の中でいつも朗読されている、ヨハネ福音書の序曲のような福音であります。ヨハネはまず、「初めに言(ことば)があった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と繰り返すようにして、神の言の神聖な起源を荘厳に強調します。それから「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と、神の言は被造物ではなく、神と同じ次元にいる創造者であることを宣言します。神言会は、この神の言を特別に崇め、そこに根ざし、そこから派遣されて働こうとしている布教修道会であります。
② ヨハネは続いて、その福音の幾つかの重要なテーマに触れながら、次のように語ります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」言によってご自身をお示しになる神は、根本的に命なのです。そして言は、その神の命を私たち人間に伝える光なのです。この根源的愛の命に参与させることが、神による創造と救済の御業の目的であると申してもよいでしょう。しかし、光は輝き照らし続けても、闇は続いています。その光を受け止めるものがない、真空のようになっているからです。宇宙船に乗ってこの地球の大気圏から飛び出し、空気も何もない真空の宇宙空間に入るなら、途端に周辺は真っ暗闇になります。太陽は遠くに照っていますが、その光を反射するものは何もないからです。ちょうどそのように、あの世の神の光は照り輝いていても、それを信仰と愛をもって受け止めるものが何もない霊的真空状態に留まっているなら、暗闇はこの世に居座り続けます。
③ 「その光は真の光で、世に来てすべての人を照らす」「言は世にあったが、世は言を認めなかった」「言はご自分の民の処に来たが、民は受け入れなかった」という悲惨な霊的状況に心を痛めながら、ヨハネはその福音を書き始めます。ここで「世」あるいは「民」と表現されている人たちは、目前の過ぎ行くこの世の事物現象を理解するための理性は持っているのですが、心の奥底に与えられている神に対する感謝・愛・信仰などの能力や感覚はまだ深く眠ったままにしているのだと思います。あの世の神の光は、この世の経験に基づいて自分中心に考える理性によって理解するものではなく、何よりも感謝と愛の心のセンスを実践的に磨くことによって心の眼に見えて来るもののようです。「暗闇は光を理解しなかった」というヨハネの言葉は、そのことを指しています。
④ ヨハネはここで、神の摂理によって派遣された洗礼者ヨハネを登場させます。「彼は光ではなく、光について証しするために来た」のです。「証しする」というのは、闇夜に輝く月や金星たちのように、信仰と愛のうちに神よりの光を受け止め、自分の身も心も生活もその光によって照らされ輝きながら、その光を反射して世の人々に伝えることを意味していると思います。洗礼者ヨハネがどれ程熱心に証ししても、光と闇との対立、神よりの光を受け入れようとしない人たちの暗躍は、根強く続くことでしょう。しかし、神の言は、ご自分を受け入れた人々、その名を信じる人々には「神の子となる資格を与え」、あの世の神の命によって生まれた新しい存在に高めて下さいます。使徒ヨハネは、こうして「神の子」とされる恵みに浴した者の体験に基づいて、その序文の後半に「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いています。
⑤ 洗礼者ヨハネの後を受け継ぎ、この使徒ヨハネのように「神の子」として戴いた恵みに感謝しつつ、自分の見聞きした体験に基づいてこの世にお出でになった神の言、メシアについて証しすることが、主が創立なされたこの世の教会、そしてその教会から派遣される宣教師たちの最も大切な務めであると思います。現代の教会も宣教師たちもこの使命にしっかりと目覚め、闇に住む無数の人たちのためよりよく働くことができるよう神の恵みと助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年12月24日金曜日

説教集A年:2007年12月24日降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

① クリスマスは、全宇宙の創り主で、時間も空間も、その他私たちの現実を規制している一切の枠組みを無限に超越しておられる、真に思い描くことさえできない全知全能の神秘な神が、私たちの歴史的現実の中に人間となってお生まれになったことを記念し感謝する、喜びと希望の祭りであります。ご自身に特別に似せて人間をお創りになった、と聖書に啓示されているその人間のお姿をとって、私たちの歴史的現実の中にお現れになったのです。ということは、神よりのその人、救い主イエスの生き方の中に、私たち人間の本当の生き方の模範が示されていると申しても良いでしょう。

② その人は、神としては計り知れない程の無限の富と絶対の権力の持ち主ですが、人間としてはそれらの一切をあの世に置いて、罪の闇に抑圧され苦しんでいるこの世の人間社会の最も貧しく弱い者たちの所に、貧しく弱い幼子の姿をとってお生まれになりました。その人間社会の最上位には、当時ローマ皇帝アウグストゥスが君臨し、シルクロードを介しての東西世界の国際貿易を積極的に支援して、驚くほど豊かな富と軍事力を保持してオリエント・地中海世界の平和と繁栄を安定させており、民衆からは「世の救い主」と賛美されていました。そしてこの社会的豊かさの中で人口の移動が国際的に激しくなっていたので、税制の公平さのためにも14年毎に全領土の住民に住民登録をさせる勅令を発しました。その最初の住民登録は、多くの地域で紀元前8年に施行されましたが、ローマの属国となっていたヘロデ王の支配するユダヤでは、まだ識字率が低いため住民が登録のために各々自分の出身地に集められ、顔を見比べながら役人に記録されるという登録方法に不満を持つ人が多くて一年遅らせ、強大な国境警備軍を持つシリア州の総督クリニウスの軍事的圧力の下に紀元前7年に行われました。この最初の住民登録の時に、救い主がダビデ家に属するヨゼフの出身地ベトレヘムにお生まれになったのです。ローマ帝国の住民登録は、紀元6年にも第二回登録が行われましたが、その時ガリラヤで発生した厳しく弾圧されました。そのことは使徒言行録にも述べられています。反対があまりにも強いので、アウグストゥス皇帝が紀元14年に没すると、その後はもう行われなくなりました。しかし、その二回の住民登録により、救い主イエスの名がこの世の人類社会の歴史の中にはっきりと書き留められ、登録されたという意義は注目に値します。

③ ヘロデ王を支援する強大なローマ軍の圧力下で、貧しく弱い幼子となってこの世にお生まれになったという事実は、この世の政治的平和とあの世の神による内的平和との違いを如実に示していると思います。ローマ皇帝アウグストゥスは、当時の政治的次元では多くの人から「世の救い主」と称えられましたが、ある意味では確かにそう言われるに相応しい支配者であったと思います。しかし、当時の平和で豊かな世界の下層には、経済的格差と政治的抑圧に苦しむ弱い貧しい人たちも少なからずいて、彼らは自分たちの心に新しい生きがいを与えてくれる「救い主」を捜し求めていたと思います。その人たちの願いと祈りに応えるようにしてこの世にお生まれになったのが、神の御子メシアなのではないでしょうか。

④ 経済的格差や政治的抑圧に苦しむ人たちは、全体としては平和で豊かなように見える現代世界の各地にも、少なくないと思います。神である救い主は、ご自身を信ずる人たちを孤児として残すことなく、世の終わりまで共にいると宣言なさったのですから、時間空間を超越して永遠に生きるあの世の霊的命に復活なされた後の今も、全世界の信仰に生きる人たちと霊的に共にいて下さると信じます。クリスマスは、その主の霊的命が各人の心の奥底に新たに生まれて下さる日と申しても良いと思います。しかし、その御命は自己中心のこの世的所有欲や権勢欲でいっぱいになっているような心などは避けて、苦しんでいる弱い貧しい人たちとの愛の連帯感に生きる心の中に、新たに生まれて下さるのではないでしょうか。2千年前の主の最初の御誕生は、そのことを私たちに教えていると思います。

⑤ 今宵の第一朗読は、預言者イザヤが紀元前8世紀に見た幻ですが、彼はその数百年後にベトレヘムで起こる出来事をはっきりと予見し、「一人のみどり児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。云々」と語っています。しかし、その恵みの光を仰ぎ見て、深い喜びに満たされ、喜び祝ったのは、何よりも「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者たち」であったようです。彼らを抑圧し虐げていた者たちのくびきも、杖も、鞭も、その主によって打ち滅ぼされ、虐げられていた人たちは、「刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむ」などと、預言されているからです。

⑥ また今宵の第二朗読で使徒パウロは、「全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れました」という言葉に続いて、どういう心の人がその恵みを豊かに受けるかを、次のように説明しています。「その恵みは、私たちが不信心と現世的欲望を捨てて、この世で思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また祝福に満ちた希望、すなわち偉大な神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えています」と。主は「私たちをあらゆる不法から贖い」、「良い行いに熱心な民として清めるため」また「ご自分のものとするために」、この世に来られたのだとも語っています。私たちがクリスマスを喜び祝う本当の深い目的は、ここにあると思います。その目的が少しでも新たに私たちの心の中で達成されるよう恵みを願い求めつつ、今宵のミサ聖祭を献げましょう。

2010年12月19日日曜日

説教集A年:2007年12月23日待降節第4主日(三ケ日)

聖書朗読:マタイ1・18-24

① 本日の第一朗読の背景について、はじめに少し説明致しましょう。アッシリアが軍事力を強化して南の国々を侵略する勢いを見せ始めた時、シリアと北イスラエル王国とは同盟を結び、ユダ王国をもこの反アッシリア同盟に参加させようとしました。しかし、ユダのアハズ王はその同盟に参加しようとはしませんでした。すると突然シリアとイスラエルの同盟軍がまずユダ王国を攻撃して反アッシリア同盟を強大にしようと、攻め上って来ました。その時「王の心と民の心は、風に動かされる森の木々のように動揺した」とイザヤ書7章にあります。

② 神の言葉がイザヤに臨み、預言者は「恐れることはない。云々」と告げたのですが、恐れに囚われて気が動転していたアハズ王は、なかなかその言葉に従おうとしなかったようです。そこで神は預言者を通して、本日の朗読にあるように、「神にしるしを求めよ」と話したのです。でも、王はそのしるしを求めようともしないので、神はもどかしい思いをさせるそのマイナス志向の態度を非難なさった後に、まずお与えになったのが、「おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というしるしでありました。神は続いて、アハズ王の恐れるシリアとイスラエルがアッシリアに征服されることも予告なされ、事実そのようになりました。神が真っ先にお与えになったしるしにある「インマヌエル」という名は、「神我らと共に」という意味の言葉です。主キリストの来臨によって現実のものとなった神の御子のこのお名前を、現代の私たちも大切にし、その神秘を実践的に益々深く悟るよう心掛けましょう。「神我らと共に」ということを。

③ 本日の第二朗読は、ローマ書の冒頭にあるローマの信徒団に宛てた挨拶文ですが、その中に「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」とある言葉が、降誕祭を目前にしている私たちにとって大切だと思います。しかし、使徒パウロのこの表現から、主イエスは死者の中から復活した時に初めて神の子とされたのだ、などと誤解しないよう気をつけましょう。新約聖書・旧約聖書の他の個所の啓示も総合的に考え合わせますと、主イエスはこの世の時間や出来事と関係なく、永遠から神の御子であり、人間としても受肉の瞬間から神の御子であります。使徒パウロもこの信仰の立場でその幾つかの書簡を書いていますし、ローマ書も例外ではありません。全てを神の側から総合的に考え合わせる、神中心の広い霊的立場で主イエスのご誕生を受け止め、深く悟る恵みを願いつつ、降誕祭を迎える心を整えましょう。

④ 本日の福音は、マリアを迎え入れる前頃のヨゼフの悩みと夢について教えています。マリアが三か月あまりナザレを留守にしてユダヤに滞在して来た後に、身ごもっていることが明らかになった時、婚約者であるヨゼフは深刻に悩んだと思います。当時のユダヤの制度では婚約を結んだ時に既にヨゼフはマリアの夫なのですが、同居前にユダヤの親戚の家に滞在するため、当時ユダヤ社会では女の慎みを欠く行為として禁じられていた「若い女の一人旅」をあえて為して来たマリアの身に、何かが起こったことが明らかになったからでした。察するに、マリアも同じころ苦しみつつ、ヨゼフのために神に真剣に祈っていたと思います。

⑤ 天使から一人でお告げを受けただけでは、自分が本当に神の御子を宿しているのかどうか自分でもわかりませんし、古今未曾有のそんな奇跡についてヨゼフを説得することもできません。おそらく二、三日間悩んだ挙句に、天使が最後に告げた「あなたの親戚エリザベトが老齢なのに男の子を身ごもってもう六カ月になっている」という言葉は、自分がそれを実際に確認して、それを自分が神の御子を宿したことの証拠とせよ、という意味なのではなかろうか、身重になっている老エリザベトは若い自分の手助けを必要としているであろうし、自分が神の御子を宿しているのなら、一人旅をしても神によって守られるであろう、などと考えて、レビ族出身で識字者であったマリアは、夫のヨゼフに簡単な書置きをし、朝早くに急いでユダヤのザカリアの家への女の一人旅をなしたのだと思います。年老いたエリザベトが男の子を産み、ザカリアのおしがその割礼の直後に天使の言葉通りに癒された奇跡などを目撃したマリアは、すでに自分が神の御子を宿している証拠を握っていました。自分が一人旅の途中でも神に守られていたことを体験したマリアは、そのことをヨゼフに伝えてその疑いを晴らす機会を求めて、一心に神に祈っていたと思います。

⑥ その時、主の天使、恐らく大天使ガブリエルがヨゼフの夢に現れて、本日の福音にあるような知らせをしたのだと思います。マリアの誠実さを少しも疑っていないヨゼフは、素直に天使の言葉に従い、マリアを迎え入れてマリアの見聞きして来た神よりの奇跡的出来事も聴いて、信仰と喜びのうちに、二人で神の御子の誕生と育ての世話に励んだのだと思われます。現代の私たちも、小さなご聖体の形で私たち各人のうちに宿り、現存して下さる全人類の救い主であられる神の御子主イエスに対する信仰を新たに致しましょう。そして2千年前の主のご誕生前のヨゼフとマリアのご心情を偲びつつ、主をお迎えする私たちの心の準備に励みましょう。そのための恵みと導きを祈り求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。

2010年12月12日日曜日

説教集A年:2007年12月16日待降節第3主日(藤沢で)

聖書朗読:マタイ11・2-11

① 第一イザヤ書は紀元前8世紀に記された預言ですが、預言者は200年以上後の出来事をも幻のうちに予見していたようです。本日の第一朗読は、紀元前537年にバビロン捕囚から廃墟と荒れ野と化したユダヤに戻って来て、失望落胆するユダヤ人たちを慰め励まし、彼らに神の力による新しい希望を与えるにふさわしいような預言であります。同じ預言は、主の再臨前に起こると予告されている様々の戦争や暴動、あるいは偽預言者たちの偽りの言葉や偽作などによって生活を脅かされ、打ちひしがれている無数の人たち、現代世界の各地に、そしてわが国にもいるそのような人たちに対する神よりの慰めと励ましの言葉として受け止めることもできると思います。私たちの本当の希望、本当の人生は、罪と闇の支配するこの世にあるのではなく、主の栄光の再臨によってすべての人が復活した後の世にあるのです。ご存じのように待降節の前半12月16日までは、主の再臨を待望し、それに備えて心を整え、悔い改めに励む期間とされています。本日はこの心を新たにしながら、ミサ聖祭を献げましょう。

② 本日の短い第二朗読には「忍耐」という言葉が4回も登場していて、主の再臨を待望する期間、特に本日の朗読にもあるように「主が来られる時が迫っている」時には、何事にも忍耐して心を堅く保つことが大切であることが強調されています。使徒は、「互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます」と警告しています。隣人に対する私たちの言行は、皆小刻みに終末の時の主キリストによる審判につながって行くのですから。主は私たちから、何よりも主と一致して実践する愛と忍耐の証しを求めておられると思います。無数の預言者、殉教者たちのように、神の御前に立派な証しを立てるよう心掛けましょう。

③ 待降節にはよく、「牧場におりる露のように、地を潤す雨のように王は来る」という、詩篇72の言葉が唱えられたり歌われたりしますが、「地を潤す雨」という表現は、「降るとも見えず」と言われる春の真に細い柔らかな雨を連想させます。牧場に降りる露も、いつ降りたか分からないような存在であります。待降節にあたって私たちの心がけるべきことは、そういう目には見えない真に秘めやかな主キリストの来臨と現存に対する、奥底の心の信仰感覚を磨くことだと思います。復活なされた主は、世の終わりの時点までこの世から遠く離れて天にだけ留まっておられるのではなく、それまでの間にも霊的にこの世の被造物界全体を両手でしっかりと受け止めておられ、ゆっくりと天上へと持ち上げつつあるのです。私たちの日常茶飯事の中でもそっと現存しておられる、その主に対する信仰のセンスを磨きながら、隣人と交わる時、あるいはミサ聖祭や祈りの時、そのことに心がけてしっかりと深く目覚める恵みを願い求めましょう。

④ 本日の福音は、投獄された洗礼者ヨハネが自分の弟子たちを主イエスの許に派遣して、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか」と尋ねさせた話で始っています。聖書に基づいてこの世の政治・社会を改革しようとするのがキリスト教の務めである、と考えるプロテスタントの改革的流れに属する人たちがこの箇所で、洗礼者ヨハネは、メシアが来臨してもユダヤ人の政治・社会になかなか期待していたような改革が進まず、牢獄で疑問と不安に悩んでこのような質問を主に届けさせたのであろう、と主張したことがあります。近年は政治運動に熱心なカトリック者の中にも、それに類する発言をする人を見受けるようになりましたが、カトリックの伝統はそのような解釈を退けています。主を「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した洗礼者ヨハネは、過越の小羊のようにして受難死をお迎えになるメシアの救いの御業をすでに予見していて、自分の弟子たちをそのメシアの方に行かせようとしていたのですが、一部の弟子たちは厳しい預言者的生活を営まないメシアの方には行こうとしないので、自分の名で本日の福音にあるような質問を主イエスにさせて、直接に主の人柄とその活動に触れさせようとしたのだ、というのがカトリックの伝統的解釈であります。

⑤ ヨハネから派遣された弟子たちが、イザヤ書61章にメシアの徴として予告されていた通りの活動をしておられた主のご活動を見聞きして、そのことをヨハネに伝えた後、どのような道を歩んだかについては福音書に述べられていません。しかし、ヨハネが殉教した後にその遺骸を引き取って葬ったのも、そのことを主イエスに伝えたのも、同じヨハネの弟子たちであったと思われます。本日の福音後半にあるように、彼らが去った直後に主が洗礼者ヨハネのことを褒めて語っておられることから察すると、ヨハネはやはり、主のメシア性について疑問を抱いたのではなかったと思われます。

⑥ このことから学んで、私たちも聖書を読む時に人間中心の先入観を持ち込まないよう慎重でありましょう。私たちの本当の救いも人生も、死後の霊的な世界にあるのです。主は私たちがあの世で神の御許で永遠に幸せに生きるようにと、神から派遣されたメシアであって、この世の政治社会を改革して神の国とするためにあの世から来られたのではありません。福音をこの世中心の観点から受け止めていますと、洗礼者ヨハネがメシアについて疑問を抱いたのではないか、などという解釈を産み出すに至ります。似たような誤った聖書解釈が、公会議直後頃の西欧の若者たちの間にも一時的に流布したようで、私が1965年にドイツを旅行した時には、年配のカトリック者たちから幾度も「神の国はこの世にではなく、あの世にあるのです」という言葉を聞かされました。察するに、誰かが当時の若者たちの改革的動きを批判して、そのようなことを新聞などに書いたのかも知れません。伝統的カトリックの立場からの聖書理解がこれからも世界に定着するよう希望しつつ、主の隠れた来臨と現存に対する私たちの信仰感覚が実践的に磨かれるよう恵みを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年12月5日日曜日

説教集A年: 2007年12月9日待降節第2主日(三ケ日)

聖書朗読:マタイ3・1-12

① 一週間前のイザヤ2章始めからの第一朗読のように、イザヤ11章始めからの本日の第一朗読も、神の霊に満たされたメシアの支配する世界における、万物平和共存の理想的状態について預言していますが、これもメシアの栄光に満ちた再臨によってすべての人が復活し、神の子らとされた人たちの生きるあの世の世界についての描写であると思います。罪の力がまだ支配している死と苦しみのこの世においては、そのような完全な平和共存は一度も実現したことがなく、使徒パウロもローマ書8章に、「被造物は神の子らの現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです。(今は)虚しさに服従させられていますが、」「やがて腐敗への隷属から解放されて、神の子らの栄光の自由にあずかれるのです」などと書いていますから。

② 神に特別に似せて創造され、神のように永遠に生きる存在とされている私たち人間はその神の国に復活したら、主キリストと一致して愛をもって万物を深く理解し支配する、神からの特別の使命を頂いていると思います。私は以前にもここで、「作品は作者を表す」という言葉を援用して、命の本源であられる神から創られた万物は、ある意味で老化も死も経験し得る生き物であると考える立場からの、ネオアニミズムについて話したことがあると思います。同じ立場でこの苦しみの世の万物を観察する時、今はまだこの世の万物は気象も大地も動植物も皆苦しんでいるように思われてなりません。神信仰のうちに毅然として立ち、愛をもって呼び掛けたり命令したりするなら、主キリストも話しておられるように、万物の霊長である神の子らの呼びかけや願いに応じてくれるような側面も感じられますが、まだまだこの罪の世の大きな不調和と相互対立関係の中で、苦しみながら生きているように思われます。

③ 私は時々私たちを苦しめる蚊や家の中に巣を作る蜘蛛を駆除したり、庭の美観を損なう雑草や桜の木々にまつわりつく癌のような生命力旺盛な蔦を駆除したりしますが、その時はいつも、「あなたのその逞しい命を私に下さい。私の中で神を称える力となって下さい」などと呼びかけています。そして私が今もこうして健康に生活しておれるのは、神の力がそれらの被造物を介して私の中で働いて下さるお陰であると感じています。このようなネオアニミズムの温かい被造物観が、現代の私たちには大切なのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読であるローマ書15章の始めに、「強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」と述べている使徒パウロは、本日の朗読箇所で、強い者と弱い者、ユダヤ人と異邦人とが互いに相手を受け入れ合うようにと勧めています。というのは、使徒がその前半に述べているように、聖書が私たちに忍耐と慰め合うことを教えており、それを実践する人は神に希望を持ち続けることができるからです。私たち相互の人間関係を能力主義や実績主義、あるいは過去から受け継いでいる法的権利などを中心にして、理知的に考えないよう気をつけましょう。私たちの相互関係の中に神の国があり、神が現存しておられて、神の愛に根ざして奉仕し合うよう強く求めておられるのですから。何よりも、その神の働きに心の眼を向けながら生きるように心がけましょう。

⑤ 主は、誰が一番偉いかを道々論じ合って来た弟子たちに対して、「第一になろうと望む者は、皆の後になり皆に仕える者とならなければならない」と話されたことがあり、ご自身についても、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と話しておられます。隣人に接する時、私たちは何よりも主のこれらのお言葉を念頭に置いて交際しているでしょうか。待降節にあたり、この点を一つ反省したみましょう。使徒パウロも本日の朗読箇所で、「忍耐と慰めの源である神があなた方に、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり父である方を、たたえさせて下さいますように」という祈りを添えています。単に日々声をそろえて神を讃えるだけではなく、そこに互いに忍耐し慰め合う実践を添え、内的にも心を合わせて神を讃えるように心がけましょう。それが、使徒の願いであると思います。

⑥ 毎年待降節第二と第三の日曜日の福音には洗礼者ヨハネが登場しますが、本日の福音に登場している洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で「天の国は近づいた」と叫びながら、非常に厳しい調子で人々に悔い改めを呼びかけています。ラクダの毛衣をまとい、腰に皮帯をしめて貧しい生活を営む、預言者エリヤを思わせるようなその姿を見聞きして、大勢の人がヨハネの下に来て罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けました。そのことを伝え聞いたのでしょうか、ファリサイ派とサドカイ派の人たちも洗礼を受けに来ました。しかし、ヨハネはこの人たちに対しては、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れることを誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。云々」「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。云々」などと、恐ろしい程の脅しの言葉を連ねて、悔い改めを迫っています。この時のヨハネは「神の国」という言葉で、メシアによる終末の審判を考えていたのではないか、などと解釈する人もいますが、これから始まるメシアによる救いの時を歓迎するヨハネの他の言葉などを考え合わせると、察するに、まだ世の終わりの審判の時が迫っているのだとは考えずに、ただ心の目覚めの鈍過ぎるファリサイ派とサドカイ派の心に衝撃を与えて、少しでも深くしっかりと目覚めさせるために、厳しい言葉を発したのだと思われます。

⑦ しかし、メシアがこの世にお生まれになったことは、内的には既に世の終わりの審判の始まりでもあると思います。そのこと自体は神からの大きな救いの恵みなのですが、それを受け止める各人の内的態度は、恵みに接する度ごとに、目には見えなくても既に裁かれており、世の終わりにはそれら無数の個々の裁きが劇的に露わになって、赦されるか断罪されるかの決定的裁きが下されるのだと思います。私たちも気をつけましょう。隣人に対する言行、あるいは祈りの時の心の持ち方などは、皆小刻みに終末の時の審判につながって行くのですから。待降節にはよく、「牧場におりる露のように、地を潤す雨のように王は来る」という、詩篇72の言葉が唱えられますが、「地を潤す雨」という表現は、「降るとも見えず」と言われる春の真に細い柔らかな雨を連想させます。牧場に降りる露も、いつおりたのか分からないような存在であります。待降節にあたって私たちの心がけるべきことは、そういう真に秘めやかな主キリストの来臨と現存に対する奥底の心のセンス、心の信仰感覚を磨くことだと思います。隣人と交わる時、あるいはミサ聖祭や祈りの時、そのことに心がけて、しっかりと深く目覚める恵みを願いましょう。洗礼者ヨハネの説いた「悔い改め」は、自分中心に考えたり話したりし勝ちな私たちの心を、これからは神の方に向けながら為すというだけの、根の浅い回心ではなく、神の現存と働きに対するそのような奥底の心の目覚めと、それによる生き方の根本的刷新とを意味しています。その恵みを神に願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。