2012年3月25日日曜日

説教集B年:2009年四旬節第5主日(三ケ日)


朗読聖書: . エレミヤ 31: 31~34. . ヘブライ 5: 7~9.
   . ヨハネ福音 12: 20~33.
本日の第二朗読には、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方 (すなわち天におられる父なる神) に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」という言葉が読まれます。全能の神の御子であられる主は、この世にお生まれになった時、実際にそこまでこの苦しみの世に生きる私たち人間の肉の弱さを背負い、苦しみながら泣きながら弱い人、苦しむ人に伴って生活し、父なる神に助けを願い求めつつ生きておられたのだと思います。全能の神の御子は、罪と闇に苦しむこの世の貧しい人たち、苦悩する人たちの間に生活し、数々のその苦しみを分かち合うことによって、この現し世の苦しみを聖化し、神の超自然的恵みの器・手段に高めて下さったと申してもよいのではないでしょうか。「傷める貝にのみ真珠は宿る」と申しますが、体内に入った異物に苦しめば苦しむ程、アコヤ貝はそれを核にして大きな美しい真珠・光輝く真珠を育て上げるのではないでしょうか。ある聖人は、主キリストと一致して耐え忍ぶ苦しみが多くの恵みをもたらすことに感嘆し、苦しみを「第八の秘跡」と呼んだそうです。
私たちの生活しているこの現し世には、病気・災難・誤解・不安・貪欲・詐欺・失敗などから齎される試練や苦しみが数限りなく存在し、時々私たちの心を襲って苦しめ悩ましますが、その時この世に受肉し、私たちの人間性をしっかりと受け止めて聖化なされた救い主が、私たちの魂の中に深く隠れてその苦しみを一緒に耐え忍び、私たちの内に人間救済の超自然の恵み、超自然の真珠を産み出しておられることに心を向け、主の生贄に合わせて、自分の不安や苦しみを神にお献げするよう心がけましょう。経験豊かな聖人たちも、皆そのように心がけています。
本日の第二朗読からは、二つのことを学びたいと思います。その一つは、「その畏れ敬う態度のゆえに聞きいれられた」という言葉からであります。主イエスは、神の御独り子であっても、また激しい叫び声をあげ、どれほど涙を流して祈っても、その出自やその祈り声だけでは、人間としてのその願いはまだ天の御父に聞きいれられず、神を畏れ敬い、神の御旨中心に生きる心を、「日ごろの態度」にもはっきりと表明し体現なさったので、その実践的態度の中に、御心の表われを御覧になった神にその願いが聞きいれられた、という意味でその説明を受け止めたいと思います。ヨハネ5章の中ほどに、主はユダヤ人たちに、「私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御旨を行おうとしているからである」と話しておられますが、何が正しいかという正義の問題になると、私たち人間は、とかく何かの法や何かの理論に基づいて権利や義務などについて考え勝ちです。しかしそれは、この世の人間社会には通用しても神には通用しません。神の上に法や人間の理論を置くことになるからです。私たちの信仰生活においては、神の御旨だけが正義の基準であり、それを実践的に畏れ尊ぶ生き方だけが、神の御前に義とされ、神に願いが聞き届けられる道であると信じます。主は、その模範を身を持って示しておられたのではないでしょうか。
第二朗読から学びたいもう一つのことは、「多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたので」全ての人の「永遠の救いの源となった」という理由付けであります。神の子という肩書きや、修道者・司祭というような肩書きが幾つあっても、それだけではたとえどれ程多くの祈りを神に捧げても、人々の上に救いの恵みを豊かに呼び降すことはできないと思います。私たちの心の奥底には、人祖から受け継いだ自分中心の罪の根、不従順の罪の力がまだ根強く残っていて、神の働きを妨げて止まないでしょうから。その隠れている罪の力を、多くの苦しみに耐えることによって根絶し、神への徹底的従順を体得してこそ、そして神の愛の恵みが心の底にまで完全に行き届く人間になってこそ、神の御独り子と内的に深く結ばれた神の子・修道者・司祭となり、全ての人に救いの恵みを伝える神の器に高められて行くのではないでしょうか。人となられた神の子イエスを、人間としても初めから全てを知っておられて、何も学ぶ必要のなかった方と考えないように気をつけましょう。主は人間としては多くの苦しみによって神への従順を学び、最後まで内的に成長し続けられた方であったと思います。神は私たちも同じ様に内的に成長し続け、人類救済の業に参与するよう望んでおられるのではないでしょうか。主において私たちにも与えられているこの使命を、私たちもできるだけ忠実に果たすことができるよう、主の実践に学びましょう。
主のご受難が間近に迫って来た頃の話である本日の福音には、まずユダヤ人の過越祭の時に礼拝するため、エルサレムに上って来た数人のギリシャ人たちが、ギリシャ系の名前を持つフィリッポとアンドレアスを介して、主に御目にかかりたいと願い出たことが語られています。彼らからの願い出を聞くと、主はすぐにギリシャ語原文によると、「時が来た。人の子が栄光を受ける時が」と、話し始められたのです。その言葉には、一種の感動のようなものが感じられます。主は以前に「善い牧者」について語られた時、「私にはこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらをも導かなければならない。…. こうして一つの群れ、一人の牧者となる。…. 私は命を捨てることができ、また再びそれを得ることができる。私は、この命令を父から受けた」などと話されましたが、異邦人の到来は、何かこの話と関係しているのではないでしょうか。主はギリシャ人たちの来訪の中に、何か御父からの徴を御覧になり、この時にあらためて全人類の罪を背負われたのではないでしょうか。とにかく主は、ギリシャ人たちの来訪を知らされると、突然ご自身の死について語られ、「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名に栄光を現して下さい」などと祈りましたが、その時天から「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が響き渡ったようです。側にいた群衆はそれを、雷が鳴っただの、天使が語ったなどと思ったようですが、その声が、雷鳴のような威厳に満ちていたからであったと思われます。
ところで、主が「栄光を受ける時」あるいは「御名に栄光を現す時」と表現しておられるその「時」は、主がその御命を捨てる受難死の時を指しています。主はその時について、「一粒の麦が地に落ちて、…. 死ねば多くの実を結ぶ」と説明し、更に弟子たちのためにも、「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所にいることになり、…. 父はその人を大切にして下さる」などと教えておられます。私たちも主と一致して神に敵対する人類の罪までも背負い、その罪に汚れた自分の命をいけにえとなして神に捧げるなら、そして地に葬られてその殻が破られるなら、その時、私たちのこの世の命の殻の中に孕まれていた神の子の永遠の命も輝き出て、多くの人を救いに導き、豊かな実を結ぶに至るのではないでしょうか。私たち各人がこのようにしてそれぞれの死を神に捧げる時、本日の福音にあるように、神の栄光が私たち各人の上にも現れて、この世の支配者、悪霊たちを追放して下さるのではないでしょうか。それは、生身の弱さを背負う人間となられた主ご自身も、「私の魂は騒いでいる。何と言おうか。父よ、私をこの時から救って下さい」と御父に祈られた程、恐ろしい苦しみの「時」でしょうが、しかし、その魂がこの世の殻を破って輝かしい栄光の命に生まれ出る時でもあります。ちょうど昆虫が羽化して成虫になる飛躍の時のように。
主の受難死と復活を記念する聖週間の典礼を間近にして、本日の福音にある主のお言葉を心に銘記しながら、私たちも主と共に全てを全能の神に委ねつつ、大きな信頼のうちに自分の死を先取りし、内的に主の死を追体験するよう心がけましょう。主は「私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所に私に仕える者もいることになる」「父はその人を大切にして下さる」と語っておられるのですから。恐れずに、主と共に勇気をもって死に向かって進んで行きましょう。多くの人の救いのため、自分の命を主のいけにえに合わせて天の御父にお献げするために。

2012年3月18日日曜日

説教集B年:2009年四旬節第4主日(三ケ日)


朗読聖書: . 歴代誌下 36: 14~16, 19~23. . エフェソ 2: 4~10.
   . ヨハネ福音 3: 14~21.
本日の福音は、ある夜ひそかに主イエスの許に訪ねて来たファリサイ派の議員ニコデモの質問に答えて、主がお語りになった話からの引用ですが、ここではこの話についてだけ少し考えてみましょう。主はまずニコデモに、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」などと、神の霊による全く新しい誕生についてお語りになり、神から民に啓示された神の言葉、神の掟について、それまで専門的に研究しその順守に努めていたファリサイ派のニコデモを驚かせています。ファリサイ派は、神から与えられた掟を忠実に守ることによって神の恵みを受け、死んでも永遠の命に入ることができると信じ、またそのように民衆に教えていたからです。主はここでニコデモに、旧約時代にはなかった水と聖霊による全く新しい洗礼の秘跡について啓示なされ、その洗礼によって霊的に新しく生まれなければ、誰でも神の国に入ることはできない、と話されたのです。
そして更に、「はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししている」、「天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者は誰もいない」と、ご自身の啓示しているこの新しい救いの道が確実に神よりの疑い得ないものであることを断言なさった後に、話の後半には神による救いの道を可能にするもっと大きな出来事、すなわちご自身のお受けになる受難死などについても啓示しておられます。この後半の啓示が、本日朗読された福音であります。ニコデモが主をお訪ねしたのは、主が最初の弟子たちを呼び集め、ガリラヤのカナで水を葡萄酒に変えるという、「最初の徴」と言われている大きな奇跡をなさった後でエルサレムに来られてからの出来事のようですから、主の公生活前半のことで、この段階では、主は弟子たちにもまだご自身の受難死について語っておられなかったと思われます。それを初対面のニコデモにお語りになったということは、ニコデモにはすでに、「神よりの人」からのそういう啓示を素直に受け止め、心の中で深く思い巡らす信仰の地盤が備わっていたからだと思われます。
本日の福音の始めに主は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。云々」と、神の民がエジプトを脱出して荒れ野を旅していた時の出来事を援用して、神による救いの道を教えておられます。旧約時代に神の民が見聞きしたことは、これからの時代に神がお示しになる新しい救いの道の前兆としての価値を保持しています。主はこういう観点から旧約聖書を見直しつつ、これから為さる神の働きの意味を考え、それを素直に受け止めるようニコデモに教えられたのだと思います。人間の力では荒れ野の毒蛇に打ち勝てず、神の言葉に従って作られた蛇の像を木の上に釘付けにしたものを、神への信仰と希望の心で仰ぎ見る人たちが皆、神の力によって救われたように、これからの時代にも、世の人々の罪を背負い十字架に上げられて死ぬ神の御独り子を信仰をもって仰ぎ見る者、その信仰に生きる者は、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」に至るのだ、というのが主の啓示だと思います。
しかし、主がその後で「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と話しておられる言葉は、注目に値します。光の本源であられる神の御子が大きな愛をもってこの世に来られたのに、悪を好み悪行をなす者たちは、その行いが明るみに出されるのを恐れて光を憎み、光の方に来ようとしません。それが、主の言われる「信じない」ということのようです。としますと、その人たちは自分で神の光を避け、その光を憎むという生き方を選び取っていることになります。従って、それは自分で神の働き、神の光を裁き退けていることになり、神の側からみれば、それが「既に裁かれている」ことになるのだと思います。私たち人間の心には、自分で神による救いの道を頑固に排除し、それに心を閉ざしてしまうという、真に痛ましい危険な自由の可能性も残されています。そのような石地のように固い心には、せっかく神の命の種が蒔かれても、根を下ろして実を結ぶことはできません。神の呼びかけや神からの光に背を向け、神の恵みの種をもらっても自分の中には根を下ろさせない、そういう石地のように固い自分中心主義の不毛の心になってしまうことが、神によって「既に裁かれている」と述べられていることから考えますと、信じない人たちは神によって公然と裁かれ退けられる前に、すでにこの世において、自分で自分の魂を神によって裁かれ退けられた状態に陥れてしまうのだと思います。これは、恐ろしいことだと思います。
自分中心・この世の考え中心の石地のような心ではなく、自分の心を細かく砕き耕すことに心がけ、神の命の種が根を張り実を結び易くするような肥沃な畑地の心にするよう努めましょう。聖母は神の御子受肉のお告げを受けた時、「私は主の婢です。お言葉通りにこの身になりますように」とお答えになりましたが、私たちも徹底的従順に生きる純朴な僕・婢の精神で、自分の怠りや欠点などを容赦なく明るみに出す神の光や働きなどを恐れずに受け入れ、それに従うよう努めましょう。それが真理を行う者の生き方であり、神の霊に導かれ支えられて心を浄化し、主キリストと深く一致する永遠の命へと高められて行く、救いの道なのですから。
私たちは数年前から、三ヶ月に1回、浜松市から豊橋市にいたるまでの地元住民のためにミサ聖祭を献げて、神の豊かな祝福とご保護を特別に願い求めていますが、本日のミサ聖祭はこの意向でお献げ致します。ご一緒に心を合わせてお祈り下さい。

2012年3月11日日曜日

教集B年:2006年四旬節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: . 出エジプト 20: 1~17.  Ⅱ. コリント前 1: 22~25.

   . マルコ福音 9: 2~10.

本日の第一朗読は、モーセを通して与えられたいわゆる「十戒」でありますが、ここでは第二朗読と福音についてだけ、話すに留めたいと思います。本日の第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、信仰と従順の闇の中で神への奉仕愛に生きようとしていないからではないでしょうか。また自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人々に神による救いの恵みをもたらすため、十字架の死を甘受なされたキリストの献身的愛の生き方を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの現し世の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。

使徒パウロがユダヤ人やギリシャ人について書いているこれらの言葉は、2千年前のユダヤ人・ギリシャ人にだけ該当する指摘ではなく、自分中心・この世の生活中心に生きている全ての人に、時代や場所の違いを超えて通用する指摘であると思います。極度の豊かさと便利さの中に生れ育ち、民主主義・自由主義の時代思想を自分中心の立場で都合よく理解しながら生活している、現代の多くの人たちにもそのまま該当すると思います。現代には若者や中年の大人たちの間で、家族や人間社会に対しても、自分の人生についても心に一種の根深い不信感ないし絶望感を抱いている人が増えて来ているように思われます。わが国で11年前から毎年3万人以上の人が自殺しているのも、各人の自我が自分で作った内的殻の中に自分の心を閉じ込め、大きく開いた明るい奉仕的精神で、家族や社会と共に生きる若さを持てずにいる証拠だと思います。私たちの生活を支えておられる神の存在を知らず認めずに、ただ人間の力だけに頼って生きることしか知らないなら、次々と際限なく様々の格差や相互対立を産み出して止まない現代の歪んだグローバル社会に、不安と絶望を痛感するのは当然だと思います。神に対する信仰・信頼・委ねの心という、人生にとって大切な霊的土台が欠如しているからです。

将来に明るい希望を持てずにいる、そういう人たちが増えつつあることを思うと、神信仰に生きる恵みに浴している私たちには、神の愛・聖霊の神殿としての生き方を実践的に深めることにより、神の恵みと憐れみを世の人々の心に呼び下す使命を、神から与えられ期待されていると思います。神は一人でも多くの人を救おうと、真剣になっておられる親心の持ち主ですから。神は私たちの奥底の心を目覚めさせるため、時として思わぬ失敗・病苦・災害などの試練をお遣わしになりますが、その時はすぐに神に心の眼を向け、神の僕・婢としてそれらの苦しみを、今神よりの照らし・助けの恵みを必要としている人たちのため、喜んで神にお献げ致しましょう。そしていつも神中心に神のため、無料奉仕の精神で生きるよう努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと目覚めて立ち上がり、私たちの自我がいつの間にか無意識のうちに築いていた、心の殻や壁を打ち壊して、新たな奉仕の意欲で自由にのびのびと生き始めるようになります。心の中に神の霊の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づいて、本日の朗読聖書の中で神の力、神の知恵を私たちにも説いているのではないでしょうか。

本日の福音に読まれる、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という主のお言葉は、主が常日頃ご自身の体を神の神殿、神の霊の生きている神殿と考えておられたことを示していると思います。使徒パウロもコリント前書3章や6章に、洗礼の秘跡を受けた私たちの体が、聖霊の宿って下さる神殿になっていることを説いています。主イエスの御模範に倣って、私たちもこの信仰を大切に致しましょう。私たちの体は自分個人のものではなく、洗礼の秘跡によって聖化され、神に献げられた神殿になっているのです。私たちは修道誓願によっても、この献げを更に堅めています。四旬節に当たってこの初心を新たにし、日々主イエスと深く一致しながら、聖霊の生きる神殿として生活するよう心がけましょう。そうすれば私たちのごく平凡な言行も、ちょうどあどけない幼子の言行が母親の愛を促すように、父なる神の愛と憐れみを促して、社会の人々の上に神による照らしと助けの恵みを豊かに呼び下すと信じます。

神殿は、神と人間社会とを結ぶ祈りの場であり、神が恵みを施すパイプのような器であると思います。神殿はまた、太祖ヤコブが夢に見た天と地を結ぶ梯子のようなもの、あるいはモーセたちが荒れ野を旅した時に神臨在の幕屋の上に留まっていた雲の柱のようなものでもあると思います。私たち各人の体と天の神とを結ぶ、目に見えないそのような霊的梯子や雲の柱の存在を信じ、自分の体を物質的動物的にだけ見ないよう心がけましょう。神殿は、神と人々への献身的奉仕にその存在価値を持つものであることも、忘れてはなりません。主イエスは「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃいましたが、私たちも同じ精神で日々神と人とに仕えるよう心がけましょう。

2012年3月4日日曜日

教集B年:2009年四旬節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: . 創世記 22: 1~9, 9a, 10~13, 15~18.

. ローマ 8: 31b~34.    . マルコ福音 9: 2~10.

本日の第一朗読はアブラハムが捧げた「イサクのいけにえ」についての話ですが、これについてはここで省き、本日の第二朗読と福音について、3年前の説教の中で話さなかったことを、補足したいと思います。第二朗読はローマ書第8章からの引用で、「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」という言葉に始まる、神に対する大胆な信頼と、どんな敵をも恐れない豪胆な意志表示だけの短い引用文であります。この意志表示に込められている使徒パウロの心を味わい知るには、使徒がその前後に述べているローマ書第8章の話全体を、一緒に考え合わせる必要があります。使徒はこの8章を「キリスト・イエスに結ばれている者には、もはや死の宣告はありません」「聖霊が罪と死の原理から解放してくれたからです」という言葉で書き始め、まずその御独り子を罪深い「肉」の姿でこの世にお遣わしになった神が、その御子を罪を償ういけにえと為して律法の要求する所を成就し、その御子に結ばれ、御子の「霊」に従って生きている私たち、すなわち御子の霊的な体の部分となって歩む私たちを、罪と死の支配から解放して下さったことを説いています。

従って、死者の中から復活なされた主イエスの霊を心に宿し、その霊に従って生きる私たちは、主イエスのように死んでも皆生きるようになるのです。「肉」に従って生きるなら死にますが、聖霊によって悪い行いを絶つなら生きるのです。聖霊に導かれる人は神の子とする霊を受けたのですから、皆神の子なのです。私たちはこの霊によって、神を「アバ、父よ」と呼んで祈ることができ、また主キリストと共同で神の国の相続人とされています。キリストと共に苦しむなら、キリストと共に栄光を受けるのです。使徒パウロはこう述べた後に、「現在の苦しみは、私たちに現わされる筈の栄光に比べると、取るに足りないと思います。云々」と書き、先日も話したように、虚しさに服従させられている被造物たちが、神の子らの現れるのを切なる思いで待ち焦がれていることや、私たちの将来に輝かしい希望があることなどを述べています。そして「聖霊も私たちの弱さを助けて下さいます。私たちはどのように祈るべきか知りませんが、聖霊ご自身が言葉に表せない呻きを通して私たちのために執り成して下さるのです。云々」と私たち各人の中での聖霊の祈りや働きについて述べており、それは、神が私たち召された者たちを「御子の生き写しになるようにと予めお定めになったからである」ことや、こうして「御子が大勢の兄弟たちの中で長子となるため」であること、また召された者たちを正しい者として、栄光をお与えになることなどについて述べています。

神による新しい救いの御業についてのこれらの言葉に続いて、使徒パウロの書いているのが本日の第二朗読の言葉です。そこには「私たち全てのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜わらない筈がありましょうか。云々」という、神の絶大な愛に対する信頼が表明されています。この引用文のすぐ後にも、「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができましょう。災いか、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。云々」という大胆な信頼の言葉が続いています。そして第8章の終末には、「死も、生命も、天使も、支配者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にいるものも、深い所にいるものも、他のどんな被造物も、我らの主キリスト・イエスにおいて現れた神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」と書いています。四旬節に当たり、神の愛ゆえに被造物界のどんな存在や現象をも恐れなかった使徒パウロのこの模範に倣い、私たちも小さい者ながら、神のその大きな愛に対する理解と信頼を一層深めるように努めましょう。

唯今ここで朗読された本日の福音の始めは鍵括弧で [その時] となっていますが、マルコ福音書には「六日の後」となっており、その前の個所を読んでみますと、そこにはガリラヤ湖の北東ヘルモン連山の麓にある、フィリポ・カイザリアの町とその周辺の村々をめぐっておられた主が、弟子たちに最初の受難予告をなさったことと、その後でペトロが主を諌めようとしたら、「サタン、退け。あなたの思いは神のものではなく、人間のものである」と厳しくお叱りになったことなどが述べられています。使徒として召された12人全員が集まっていた所で、「サタン」と呼ばれて厳しく叱責されたペトロのショックは大きかったと思います。そこで主は、移りゆく儚いこの世の体験に基づく人間の思いとは天地の差である、神秘なあの世の栄光に包まれておられる神の思いとはどのようなものかを垣間見せるために、使徒たちの中からペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、高い山にお登りになったのだと思います。

中世の十字軍遠征時代からでしょうか、ガリラヤ中心部のイズレイル平原の北東端にある、海抜588mのお饅頭のような形のタボル山が、その時の主の御変容の山だという伝えが広められ、今日ではそこに建てられた聖堂に、聖地の巡礼団が多く連れて行かれるようですが、聖書をよく読むと、それは話が違うと思います。ルカ福音書によると、一行は山で一夜を過ごして翌日下山したのですから、タボル山よりももっと高い山であったと思われます。フィリポ・カイザリアの近くにある2千メートル級のヘルモン連山の一つに、登ったのではないでしょうか。ルカ福音書には、「ペトロと他の二人の弟子たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目を覚ますと、イエスの栄光と、云々」とありますから、光輝く主の御変容は、夕刻か夜の出来事であったかも知れません。

聖書によると、主の一行はこの出来事の後でガリラヤに入り、そこで第二の受難予告がなされたようですから、御変容はガリラヤ中央部のタボル山での出来事ではないと思います。また主の御受難が間近に迫って来た冬の出来事でもなく、もっと前の夏の出来事であったと思われます。冬には2千メートル級のヘルモン連山には雪が積もって一夜を過ごすことはできませんが、夏ならそこは快い所だと思います。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。云々」というペトロの言葉もうなづけます。それに、5百メートル級の山では雲はそんなに速く動きませんが、2千メートル級の山では、雲はしばしば突然に現れて全員を覆い隠し、また急に去って行くという現象も珍しくありません。私は神学生時代の夏休みに、同僚たちと一緒に海抜2,542mの浅間山に二度登りましたが、二度目の時に山頂を一周した時には、一瞬のうちに全員が真っ白い雲に覆われ、足元と近くの人物が薄らと見えるだけでした。その雲の中をしばらく歩いていましたら、突然雲が消えて、すぐ眼の前に高さ4mほどの大岩が立っていたので、驚いたことがありました。2千メートル級の山の上では、このようなことは珍しくありません。私たちの教会暦では、毎年86日が主の御変容の祝日とされていますが、これは古代教会からの古い伝統に基づいていると思います。

この出来事は、やはりヘルモン山でのことだと思います。雲の中から聞こえた「これは私の愛する子」という威厳に満ちた神の御声は、ヨルダン川での主の御受洗の時にも天から聞こえましたが、ここでは「これに聞け」というお声も続いています。人間の思いのままに主イエスのため、神のために何かを為そうとするのではなく、何よりも主イエスの御後に従って、苦しみも死も甘受し、復活の栄光に到達するようにというのが、使徒たちだけではなく、私たち各人に対する神の強いお望みでもあると思います。四旬節に当たり、その神の思いに従う覚悟も新たに堅めましょう。