2013年1月27日日曜日

説教集C年:2010年間第3主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. ネヘミヤ 8: 2~4a, 5~6, 8~10.
                Ⅱ. コリント前 12: 12~30. 
                Ⅲ. ルカ福音 1: 1~4;  4: 14~21.

 
    本日の第一朗読であるネヘミヤ記は13章から成っていて、7章までの前半はエルサレム城壁の修築について、8章からの後半は祭司エズラによる律法の公布と、総督ネヘミヤによるユダヤ社会の改革について扱っています。70年間余り続いたバビロン捕囚の後、バビロニアを滅ぼしたペルシャの国王から、ユダヤ人たちに故国に帰って神殿を再建することが許され、必要な権限や資金も与えられると、ユダヤ人全員ではありませんでしたが、帰国したユダヤ人たちは紀元前515年に一応神殿を再建しました。しかし、隣国のサマリアを統治するペルシアに従属する総督は、サマリア人たちを軽蔑して神殿の再建にも儀式にも参加させず、共に生きようとしないユダヤ人たちをペルシャ帝王に訴えて、エルサレムの政治経済的再興に積極的に協力しなかったため、エルサレムのユダヤ人たちは間もなく経済的に行き詰まり、やがて周辺諸部族による襲撃も受けて、神殿礼拝も行われなくなる程悲惨な状態になったようです。

    そこで、ペルシャの第二の都スサで帝王アルタクセルクセス1世に愛されて奉仕していたユダヤ人の高官ネヘミヤは帝王に願い、エルサレム再建のために必要な権限と援助を与えて派遣してもらい、まずエルサレムを周辺の諸部族による襲撃から安全にするため、片手に剣を持たせ、片手に煉瓦を積み上げさせながら、壊されたエルサレムの城壁を修復させました。この工事が完成すると、ネヘミヤは一旦スサの都に戻って帝王から新たに権限と援助を受け、大祭司の家系出身でモーセ五書の律法に精通していた祭司エズラの教えに基づき、ユダヤ社会を律法を基礎として再建することに尽力しました。

    エルサレムでのその宗教的社会改革の初日についての話が、本日の第一朗読であります。祭司であり書記官であるエズラが、用意された木の壇の上に立ち、会衆にむかって荘厳に律法の書を読み聞かせ、レビ人がその意味を解き明かすということを夜明けから正午頃まで繰り返し続け、最後に総督ネヘミヤと祭司エズラと解説したレビ人が、「今日は我らの主にささげられた聖なる日だ。云々」と宣言して、この日を喜び祝うことにしたのでした。「嘆いたり泣いたりしてはならない」とあるのは、神から与えられたその律法を知らなかったために為していたこれまでの生き方の罪深さに囚われて、後ろ向きの後悔に終始していてはならない、という意味だと思います。神によって自分の失敗、自分の罪に気づかせて頂いたなら、謙虚にそれを受け止めると同時に、感謝と新しい希望の内に喜んでその失敗、その罪から立ち上がって生き始めたら良いのですから。ちょうど重い十字架を背負わせられた主イエスが、ゴルゴタへの途中で幾度倒れても、倒れたままに留まることなく、すぐにそこから立ち上がって歩まれたように。

    本日の第二朗読には、「私たちは、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。云々」という言葉が読まれましたが、使徒パウロの強調するこの指摘も忘れてならないと思います。主キリストの制定なさった洗礼は、死と生命の泉のような秘跡であります。自分が主導権を握っている自分中心の生き方に死んで、神が主導権を持つ神中心の霊的生命に生かされる恵みを与える泉なのです。洗礼の秘跡を受けたその時一回だけ死ぬのではありません。自分中心に生きようとする古いアダムのこの世的命、この世的精神は、その後も事ある毎に自分中心主義の頭をもたげようとしますので、その度毎に私たちの霊魂の奥底に地下水のように現存している洗礼の泉から恵みの水を汲みとり、絶えず新たに自分中心の精神に死んで、神中心の僕・婢として生き方に立ち返るようにと、私たちの霊魂には泉のような洗礼の秘跡が与えられているのです。その泉を、古井戸のようにしてしまわないよう心掛けましょう。

    そして私たちは皆、聖体拝領の時に一つの神の霊を飲ませてもらっているのです。「主のからだ」という言葉を聞いて、そこに復活なされた主キリストを眺めるだけでは足りません。目には見えなくても、その体には聖霊という神の御血も流れており、その聖なる御血によってキリストの体は生かされているのですから。ミサ聖祭の奉献文を調べてみますと、どの奉献文にも、「これは私の体です」という主キリストの言葉の前に、「神がこれを祝福し、主イエス・キリストの御体と御血にして下さいますように」とか、「聖霊によってこの供え物を尊いものにして下さい」とか、「聖霊がこの献げものを尊いものにして下さいますように」などという祈りが必ず入っています。これは古代教会以来の伝統です。それで東方教会では昔から、聖変化はキリストの言葉によってではなく、聖霊によってなされるのだと、今も信じています。ちょうど聖霊が聖マリアの許に下ることによって、キリストの体が造られたように。ですから、主の御聖体のある所には聖霊も一緒に現存し、その体を生かしているのです。使徒パウロの「皆一つの霊を飲む」という表現は、この信仰に根ざしていると思います。

    使徒が続けて「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。云々」と説いている教えも、大切だと思います。その教えを今風に言い直すなら、私たちは皆洗礼と聖体の秘跡によって、復活なされた主キリストの体の細胞になっているのです、と表現してもよいと思います。生物体の各細胞は皆、それぞれ多少の主体性を堅持しながら、より大きな命の力や血によって生かされている存在で、その大きな命の力から離れるならば、灰に帰してしまう儚いものであります。このことをいつも心に銘記し、主キリストが身をもってお示しになったように、何よりも父なる神の霊の働きや導きを鋭敏に感知し、それに従って生き且つ働くよう努めましょう。自然界の動植物の種類の多さからも分かるように、神は多様性の愛好者で、相異なる者が全体の生態系を乱さずに協力し合い、共に喜んで神の愛に生きることを望んでおられます。人間界にも驚くほど多種多様の素質・考え・性格の人々がいますが、皆心を大きく開いて互いに相手を受け入れ、協力し合って全体の福祉発展に尽くすことを、神は望んでおられるのではないでしょうか。同様に主キリストの体とされている私たちキリスト者も、多種多様の素質・考え・性格のキリスト者と心を開いて協力し合いながら、神の御計画実現のために働くよう召されていると思います。これが、本日の第二朗読の趣旨だと考えます。

    ご存じのように、毎年118日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。それでこのミサ聖祭は、カトリック教会をはじめキリスト教諸派が、神を目指す人間たちがそれぞれ善意から主導権をとって造り上げて来た伝統的教義や組織に、一旦内的に死んで自由になり、素直な小羊のように大牧者キリストの御声を正しく聞き分け、それに忠実に聞き従うことによって一つの群れになる恵みを願い求めるために、お献げしたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

2013年1月20日日曜日

説教集C年:2010年間第2主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 62章1~5節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章4~11節
福音朗読 ヨハネによる福音書 2章1~11節

 
    本日の第一朗読の出典であるイザヤ書の、56章から最後の66章までは、バビロン捕囚から解放される希望や喜びについての預言である第二イザヤには出てこない、安息日や神殿についての記事が登場することから、神の民が既にエルサレムに戻り、破壊された神殿を再建していた頃に預言されたもので、「第三イザヤ」と言われています。当時のエルサレムには数々の大きな問題や困難が山積していたと思われますが、本日の朗読箇所ではエルサレムが擬人化されて、神から「あなた」と親しく呼びかけられています。そして「あなたは再び捨てられた女と呼ばれることなく、あなたの土地は再び荒廃と呼ばれることはない」などと、神の特別な愛と保護が約束されています。神から神の御手に抱かれた王冠や花嫁のように愛の御眼をかけられているこのエルサレムを、数多くの問題を抱えて苦悩している現代の教会のシンボルと観ることも許されると思います。司祭・修道者の老齢化や減少で、将来が絶望的と思われることもありますが、全能の神の愛にあくまでも信頼し続け、忍耐と希望の内にこの苦境を乗り切るよう心がけましょう。どれ程問題が山積していても、神の御旨に対する私たちの信頼と従順が揺るがないなら、全能の神は必ず全てを終りが良くなるよう導き助けて下さいます。

    本日の第二朗読には、神の賜物(ギリシャ語でカリスマ)についての使徒パウロの見解が述べられています。それによりますと、カリスマはその人の訓練・努力によって獲得され磨かれるような能力、現代流行の言葉で言えば個人的な「超能力」ではなく、神の霊によって無償で与えられる神の働きであり、その働きには様々な種類があります。それらの働きをなさるのは、全ての場合に神ご自身のようです。そして神は、共同体全体の利益のために、一人一人の内に相異なるそのような働きをなさるのだそうです。神の霊は、私たち一人一人の内にもそのように働いておられます。自分中心の人間的考えを慎み、聖霊の働きに徹底的に従う心が大切だと思います。

    紀元前2世紀の中ごろに、カルタゴと同様にローマ軍によっていったん完全に滅ぼされてしまった港湾都市コリントには、その後当時の世界各地から夢多い有能な若者たちが次々と数多く流れ込み、それぞれ出身地の古い伝統から完全に解放された自由な雰囲気の中で、新しい港湾都市、新しい社会の建設に競って働いていました。地の利を得て経済的にも大きく発展しつつあったこの若さに溢れているコリントで、使徒パウロによって創始された教会内にも、聖霊は積極的に働いて、いろいろのカリスマに恵まれた信徒たちが活躍していたようです。その恵みを自分個人の能力と誤解することのないよう、パウロはその書簡にこのような教えを書いたのだと思われます。古い伝統的組織がその統制力を失いつつある現代においても、各地で頻発する恐ろしい悪魔的事件や災害・不幸に抗して、神の霊は人目につかない様々な新しい形の働きを展開しておられるのではないでしょうか。キリスト者の中だけではなく、善意ある異教徒や無宗教者の中でも、教会の祈りや私たちの願いに応えて働いておられると思います。目には見えなくても、心を大きく開いて聖霊のそのような働きに感謝しつつ、世界の平和のため、また全ての人の贖いのため、今後も明るい希望の内に日々の祈りと捧げに励みましょう。

    本日の福音は、主がガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えて、結婚祝宴の最中にぶどう酒不足に困っていた家庭に、そっと大量のぶどう酒をお与えになった奇跡の話です。使徒ヨハネはこれを「しるし」と書いています。私たちが表面の力ある業・奇跡的出来事にだけ心を奪われ、神介入のしるしと、そこに込められている神のメッセージを見逃さないように、との配慮からだと思います。結婚式に招かれて出席した人が多すぎたのか、祝宴の最中に台所のぶどう酒がもう無くなっていることに気づかれた聖母マリアは、そのことをそっと主に知らせます。台所にまで心を配る女性特有の細やかな配慮からの行為であったと思われます。祝宴の席から台所の方へ行かれた主は、聖母に「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」と、冷たいような謎めいたお言葉をおっしゃいました。しかし、拒絶なさったのではなく、「母よ」といわれなかった事から察しますと、主はここであのエルサレム神殿での12歳の時のように、この世の母子の人間関係から離れ、天の御父との特別の関係にお入りになって、葡萄酒の不足という差し迫った困窮事態に注目しておられること、そして天の御父からの使命達成のために働こうとしておられることを知らせる言葉であったと思われます。

    神が提供される終末の日の祝宴について預言しているイザヤ書の256~8節では、ぶどう酒は、神が死を永久に滅ぼして神の民の恥を地上からぬぐい去り、全ての民にお与えになる救いのシンボルとされています。主は、この預言のことを考えておられたのかも知れません。主の受難死によって成就され提供されるに到るその救いの時はまだ来ていませんが、いま目前にぶどう酒不足で大恥をかくことになる新婚夫婦の差し迫った危機を前にして、神による終末の大祝宴の前兆をここで人々に味わわせるのが天の御父の御旨であると、主はお考えになったのではないでしょうか。台所での主のその御態度から、主が天の御父から使命を受けて何かをして下さろうとしておられるのを感じ取った聖母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言いました。神が何かをして下さろうとしている時には、一切の人間的な判断を控えて、ただ従おうとすることが大切だからです。

    そこには清めのための水がめが六つ置いてありましたが、いずれも2乃至3メトレテス入りとありますから、80リットルから120リットル位も入るような大きな水がめだと思います。主がそこに皆、水をいっぱいに満たさせ、それを無言のうちに最上等のぶどう酒に変えて、祝宴に集まっている人々に提供なされたとすると、これは真に驚嘆に値する奇跡であります。しかしそれは、神が終末の日に救われる全人類に提供しようとしておられる大祝宴の、まだほんの小さな小さな前兆でしかないのです。私たちに対する全能の父なる神の絶大な愛と、日々のご配慮に感謝しつつ、明るい大きな希望のうちに本日のミサ聖祭を献げましょう。

2013年1月13日日曜日

説教集C年:2010主の洗礼(三ケ日)


朗読聖書: . イザヤ 40: 1~5, 9~11. 
                . テトス: 2: 11~14,3: 4~7.  
         Ⅲ. ルカ福音: 3: 15~16, 21~22.

    本日の第一朗読であるイザヤ書は、1章から39章までは神の民の罪を糾弾して神の裁きについて預言している紀元前8世紀のイザヤのものですが、40章から54章までは紀元前6世紀のバビロン捕囚頃の第二イザヤのものとされています。この第二イザヤ書は、旧約聖書の中でも新約時代の喜びの福音に最も近い預言書の一つと言ってよいと思います。本日ここで朗読された個所は、その第二イザヤ書の序曲ともいうべき個所であります。はじめに「慰めよ」という神の御言葉が二度も繰り返されています。神はバビロンの大軍によってエルサレムが滅ぼされ捕囚の身となった神の民に、全能の神の力に頼って生きる、新しい希望と喜びを与えようとしておられるのだと思います。

    しかし、羊の群れを導き養われる羊飼いのような神の導きと働きに聞き従うには、まずこれまでの人間の考えや望み中心の生き方に死んで、神のお導きや御旨中心のあどけない素直な幼子や小羊の心に立ち返り、人間の望みや考え中心のこれまでの生き方で築かれた諸々の山や丘を崩し、荒れ地をならす必要があります。第二イザヤは、神の御旨中心の神の僕・神の婢のその新しい生き方を教えようとしていると思います。本日の福音に登場する洗礼者ヨハネも、民衆にそのような新しい生き方をさせるために悔い改めの説教をなし、水による悔い改めの洗礼を授け始めたのだの思います。

    ところがメシアである主イエスは、民衆が皆ヨハネの洗礼を受けにやって来ていた時、その民衆の群れに混じってヨハネの洗礼を受けに来たので、ヨハネは驚いたのだと思います。マタイ福音によると、ヨハネは恐縮して「この私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と申し上げて、主に受洗を思い止まらせようとしましたが、主は「今はそうさせてくれ。このように全ての義を満たすのは、私たちに相応しいことだから」と答えて、ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになりました。もし主のこの受洗が公然と書き残されるなら、主は清めを必要としている罪人だったと誤解される恐れがあります。そこでマタイは、二人の間のこのような会話を福音に載せたのだと思います。誤解される恐れが大きいにも拘らず、四人の福音史家が揃って主の受洗について書いていることを考えると、主の受洗は、人類救済の上に大きな意味を持つ史実であったと思われます。それはどんな意味でしょうか。察するに、公生活を始める当たって、まず御自ら全人類の罪を背負い、罪深い民衆の中の一人となって、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるのが、天の御父の御旨だったのではないでしょうか。主のお言葉にある「義」という言葉は、御父神のこの御旨のことを指していると思います。

    主がヨルダン川の濁流に全く沈められ、そこからすぐに立ち上がって祈っておられると、その時天が開け、聖霊が鳩の姿で主の上に降って来ました。そして天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、聞こえて来ました。それは、詩篇2番とイザヤ42章に預言されていた通りの言葉ですが、同時に聖霊が主の上に降ることによって、この方が洗礼者ヨハネが預言したとおり、聖霊によって洗礼を授けるメシアであることを神ご自身が証しなされたことを示す、言わば一種の主の御公現であると思います。こう考えますと、ヨルダン川での主の受洗は、救い主としての務めへの主の就任式といってもよいのではないでしょうか。そして聖霊の降下は、その任務を遂行する力の授与だったのではないでしょうか。救われるべき民衆と救い主とを結ぶ接点、それがメシアご自身もお受けになった、ヨハネの悔い改めの洗礼であると思います。

    私たちも、救い主による救いの恵みを受けて豊かな実を結ぶには、悔い改めの洗礼を受けて自分の奥底の魂の肌に深い傷をつける必要があるのではないでしょうか。さもないと、救い主による洗礼を受けても、その恵みは魂の奥にまでは入り込まず、魂の奥にはいつまでも原罪の名残である自我中心の精神が居残っていて、神の愛に生かされて生きることができないのではないでしょうか。新約時代の恵みは、旧約時代の準備を基礎にして与えられたものです。キリストによる洗礼を受けた者には、洗礼者ヨハネの説く悔い改めは必要ないなどと、短絡的に考えないようにしましょう。洗礼者ヨハネから受洗なされた主は、今の私たちにも、「我に従え」とおっしゃっておられるのではないでしょうないでしょうか。

    本日の第二朗読には「私たちが行った義の業によってではなく」という言葉が読まれますが、私たちが救われるのは神のために為した自分の努力や実績によるのではないのです。私たちは一旦自分に絶望し、自分に死んでひたすら神の憐れみに縋る必要があります。その生き方へと魂を立ち上がらせるヨハネの悔い改めの洗礼は、現代の私たちにとっても必要であると思います。主はそのことを教えるためにも、ヨハネの洗礼をお受けになったのではないでしょうか。主に見習って、私たちも日々悔い改めに励み、魂の奥底にまだ残っている自我の部厚い肌に深い傷をつけつつ、そこから神の無我な愛が、新約時代の洗礼の水が魂の奥にまでしみ込むように致しましょう。本日はそのための勇気と忍耐と導きの恵みを神に願い求めつつ、ミサ聖祭を献げましょう。

2013年1月6日日曜日

説教集C年:2010年主の公現(三ケ日)


朗読聖書: . イザヤ 60: 1~6. 
         Ⅱ.  エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
      . マタイ福音 2: 1~12.

    「公現」とは、読んで字の通り「公に現れる」あるいは「公に現わす」ことを意味していますが、「主の公現」という場合には、本日の福音に読まれるように、東方の占星術の博士たちがエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに」と訊ねたり、「私たちは東方でその方の星を見たので拝みに来ました」などと話したりして、これを聞いたヘロデ王やエルサレムの人々を不安にさせたという出来事を通して、それまでベトレヘムのごく一部の人たちにしか知られずにいた神から約束されていた救い主の誕生を、エルサレムに住む多くの人々にも知らせたことを示しています。

    またこの出来事と合わせて、ナザレトでの私生活中は、単なる貧しい民間人、労働者と思われていた救い主が、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから受洗したら、天から「これはわが愛する子」という声が聞こえて、神ご自身が主をメシアとして公に宣言なさった出来事や、主がその後カナで結婚の祝いに参加なさって、大量の水を葡萄酒に変える奇跡を行い、ご自身が全能の救い主であることを初めて実証なさった出来事も「主の公現」と呼ばれて記念されています。

    さて本日の福音に戻りますが、ヘロデ大王は前述した東方の博士たちの言葉を聞いてなぜ不安になり、エルサレムの人々も皆同様に不安になったのでしょうか。ヘロデはユダヤ人ではなく、エサウの子孫とされるエドゥマイヤ人の出身で、ローマの将軍アントニウスがBC42年にオリエント諸国を征服し、ユダヤをローマ軍に降伏して従順であった大祭司ヒルカノス2世に支配させた時、アントニウスに巧みに取り入って、ヒルカノス2世の支配をエドゥマイヤ人の一族を挙げて擁護する命令を受けた人間です。しかし、ローマ軍がいなくなると、ローマに恨みを持つユダヤ人たちが、東方の強力なパルツィア人たちと組んで、大祭司を騙してエルサレムの外へ誘い出し、捕えてバビロンに連行してしまいました。そして別の大祭司を選び、エルサレムを奪い取る動きを始めました。それで少数の兵と共に神殿の留守を担当していたヘロデは夜に急いでエルサレムから逃げ、大祭司の娘と孫娘、並びに自分の一族郎党たちをエルサレムの南66キロの死海を見下ろす山の要塞マサダに滞在させて、自分はローマに行って二人の将軍アントニウスとオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス皇帝)に会って、支援を願いました。二人は若いヘロデのこの積極性を高く評価し、元老院に紹介してヘロデをユダヤの国王に任命してもらいました。ローマ軍の援助を受けたヘロデはパルツィア軍や反乱軍を次々と撃ち破ってエルサレムを取り戻し、BC37年に王位に就きましたが、耳を切られてバビロンに連れて行かれた大祭司をエルサレムに迎えて優遇し、大祭司の孫娘を王妃に迎えて、自分の子孫の血筋を高めることにも努めていました。しかし、かつて自分と戦ったユダヤ人反乱軍の徒党はほとんど皆粛正され、定員70名の衆議所の議員の内45名も死刑にされたので、ユダヤ人の間にはヘロデ王に恨みを持っている人が少なくありませんでした。

    BC30年にアントニウスに勝ったオクタヴィアヌスが初代皇帝の位に就き、シルクロード貿易を積極的に支援して商工業を発展させる平和外交を盛んにすると、由緒ある神殿の建つエルサレムにも国際貿易商が押し寄せるようになりましたが、その人たちを優遇して間接税で大儲けをするようになったヘロデ王は、多くのユダヤ人の支持を得るためか、BC20年からエルサレム神殿をもっと大きく美しく改築する工事に着手しました。ギリシャから招聘した建築士ニカノールに活躍させ、大量の美しい大理石も買い集めました。神殿の周囲にあったソロモン王のハーレムの跡地は整理されて、異邦人もそこで祈ることのできる広々とした神殿の外庭になり、その周囲に「ソロモンの回廊」と言われた大理石の四列の大柱廊をめぐらせました。中央と左右の三つの門からなる「美しの門」と言われた神殿の東に新築された正門は、多くの異邦人の讃嘆の的でもありました。その東にあったエルサレムの城門は、当時の人々によって東から来られるメシアが入城する門と信じられていたようです。それでヘロデ王は「黄金の門」とも呼ばれたこの総門の上に、ローマのシンボルであった鷲の紋章を掲げさせ、これだけはユダヤ人たちから反対されても譲りませんでした。当時の人々によってローマをユダヤから独立させると信じられていたメシアが現れても、自分はローマと結託して決してその王権を譲らないという意志表示でした。

    その疑い深いヘロデ王の晩年に、国際的に高く評価されていた東方の占星術の博士たちが、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられますか」「東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」と言ったので、王は不安になりました。そしてエルサレムの人々も皆不安になったというのは、残酷なヘロデ王がまた新たに多くのユダヤ人を殺すのではないか、と怖れたからだと思います。祭司長たちや律法学者たちからベトレヘムに生まれることになっていると聞き、占星術の博士たちから星の現れた時期を聞くことのできたヘロデ王は、ひと安心したと思います。メシアがまだ幼いうちに殺してしまおう、考えたでしょうから。「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も拝みに行こう」と言って快く博士たちを送り出したのですが、その博士たちに密かに密偵を伴わせる慎重さには欠けていました。しかし、後で神が博士たちの夢に介入し、彼らを別の道を通って東方に帰してしまわれると、ヘロデ王は怒って、ベトレヘムとその周辺の男の幼子たちを皆殺しにするという、残忍なことをさせています。しかし、神の御子を殺すことはできませんでした。

    自由主義・民主主義・人間中心主義の空気を吸いながら生まれ育った現代人たちの中にも、ヘロデのような精神の人間や、2千年前のユダヤ教祭司長や律法学者たちのような生き方をしている人たちは無数にいると思います。現代の抑圧されている人たち、小さい人・貧しい人たちの中で隠れて現存しておられる主キリストは、そういう自分中心・わが党中心の生き方をしているこの世の有力者たちによって、日々人知れず様々なしわ寄せを受けているのではないでしょうか。現代社会の表向きの華々しい発展や黒潮のように力強い流れだけに目を向けることなく、深い海の底の栄養豊かな深層水の静かなゆっくりとした流れにも、心の眼を向けるよう心がけましょう。主はその深層水のようにして、人知れず静かに私たちの生活に、また現代社会の流れに伴っておられると信じます。….

 

 

今宵降誕祭の記念ミサを捧げている私たちの目の前に、救い主は幼子の姿でお生まれになることはありませんが、しかし、内的には私たち各人の心の内に密かにそっとお出で下さり、もし私たち各人が心を開いてその救い主をお迎えするならば、私たちの心の願いをしっかりと受け止め、その達成のために尽力して下さると信じます。既に復活してあの世のおられる主キリストの、私たち各人の心の中でのこの隠れた誕生、隠れた来臨に対する信仰を新たにしながら、このミサ聖祭を献げましょう。

2013年1月1日火曜日

説教集C年:2010年神の母聖マリアの祝日(泰阜のカルメル会で)



朗読聖書: . 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
     Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

    元旦の本日はカトリック教会で「世界平和の日」とされており、世界平和のために特別に祈る日ですので、このミサ聖祭も、ローマ教皇の意向に従い、全世界の教会と一致して世界平和のために神の照らしと導きの恵みを願い求めてお献げ致します。ご一緒にお祈り致しましょう。

    「私は主の婢です」と返事して、神の御子を懐妊することに承諾し、神の母となられた聖母マリアについて黙想する時、私はよく紀元2世紀から3世紀初頭にかけての偉大な教父聖エイレナイオスの模範に倣って、創世紀の神話の中で教えられている人祖の罪も考え合わせます。聖エイレナイオスは2世紀に流行した各種グノーシス異端を批判し退けたその著『異端駁論』の中で、人祖エワと聖母マリアの精神の違いを明記しているので、「マリア学の生みの親」と呼ばれています。神はアダムをお創りになった時、その鼻に命の息を吹き入れて、それまでにお創りになった全てのものを支配するようお命じになりました。ここで「命」とあるのは、刻々と過ぎ行く儚いこの世の命ではなく、永遠に死ぬことのないあの世の命、神の愛の霊が参与させて下さる超自然の命を指していると思います。そのアダムの助け手としてアダムの体から創られたエワも、同じ愛の命の息を受けていたと思います。聖書の近代語の翻訳には、ここであの世の命とこの世の命を区別せずに、すべて一律に「命」と翻訳していますが、聖書の原語であるヘブライ語やギリシャ語には、この世の命とあの世の永遠に死なない命とでは異なる言葉を使用されており、この区別はラテン語の翻訳においても守られています。

    また人祖に与えられた「支配せよ」という命令は、自分中心に支配せよという意味ではなく、神から吹き入れられたその愛の息吹、神の御旨中心に生きる超自然的命の導きに従って、神の子として支配せよという意味だと思います。エデンの園の中央には命の木善悪の知識の木が生えていましたが、もし人祖たちがその命の木の実を食べていたら、彼らの心の内に神の奉仕的愛の命が逞しく育って来て立派に全ての被造物を統治しただけではなく、死の苦しみを味わうことなく、神の永遠の栄光へと召し上げられていたと思います。しかし、エワは好奇心に駆られてか、まず善悪の知識の木に近付き、蛇の姿をとって現れた悪霊に「神のようになる」と騙されて、じっくりとその木の実を眺め、それを食べると神のように賢くなるように思ってしまいました。それでその木の実と取って食べ、夫アダムにも食べさせました。

    すると途端に、それまで自分たちの心を支えていた神の奉仕的愛の息吹は消えてしまい、心は急に寂しく不安になったようです。神の被造物・神の所有物・神の愛の道具として、神の御旨中心に、いわば神の僕・婢となって神の支配に奉仕する生き方を拒み、神のように賢くなろう、自分中心に自分の力で自由に生きようとしたからだと思います。彼らはまず自分が裸であることに気づき、いちじくの葉をつづり合わせて、自分の腰を覆うものを作りました。これからも、神のお創りになった神の所有物を、次々と自分の望みのまま自分のために利用しながら、自分中心に生き続けることになるでしょうが、神の奉仕的愛の息吹に内面から生かされていないその生き方、その精神が、神の忌み嫌われる罪というものだと思います。善悪の知識の木の実は自分たちにとって善か悪か、自分たちにとって善か悪か、利用価値価値があるか否かの、人間中心の知識を優先させる木の実だったようです。

    2千年前のユダヤでは、ユダヤ教指導層のサドカイ派やファリサイ派の人たちも、自分たちの望み中心、自分たちの知識や聖書解釈を中心にユダヤ社会を指導し、神の御旨中心に生きるよう悔い改めを説く洗礼者ヨハネの呼びかけには耳を貸そうとしませんでした。小さな者・弱い者を冷たく蔑視していたそういう人たちの統治するユダヤ社会の、貧しい最下層に神の御子がか弱い幼子の姿で生まれ、自分の手に抱かれているのを見た時、聖母マリアはどれ程深い感動を覚えたことでしょうか。神の婢として小さく清く生きておられた聖母は、マグニフィカトの讃歌にあるように、これからは小さな者・弱い者を介して神の救いの力が働き、奢り暮らす者たちを退け、見捨てられた人を高めて下さる新しい時代が始まったのだ、という感動を新たにしたことでしょう。私たちもその感動を改めて想起し、追体験するよう心がけましょう。
    当時の僕や婢は、主人がどういう将来計画を持っているか具体的には何も知らず、ただその時その時の主人の言葉に従って奉仕するだけでした。聖母マリアも同様に、これからの自分の人生が、また神から授かったこの幼子の人生がどのようなものになるかは全く知らず、ただその時その時に神から示される御旨にすぐ忠実に従おうとしておられただけであったと思います。夜中に急いでエジプトへと避難したり、またナザレトの平凡な貧乏生活に隠れたりと、その人生は波乱に富んでいました。しかし、最低限必要なものはその時その時に神から支給されていたと思います。人類が最も必要としている救いも平和の恵みも、人目に隠れたこの小さな僕・婢たちの従順をお喜びになる神ご自身によって準備され、実現する恵みであると思います。

    今年一年、私たちの将来に何が待っているか、どんな幸運あるいは不運が訪れようとしているのか、私たちも全く知りません。しかし、僕・婢の精神で日々何よりも神の御旨に心の眼を向けながら、神への信頼と愛の内に生きておられた聖家族の模範にならい、私たちも今年一年同様の精神で生きる決心を新たに神にお献げしましょう。そうすれば、神は私たちのその小さな心がけをご覧になって、世界平和のためにも多くの人の幸せのためにも、ご自身で人々の心の中にお働き下さると信じます。平和の基礎は自分中心に考え主張する心に死んで、相手と共に仲良く生きようとする自己犠牲的奉仕的愛の精神にあると思いますが、このような愛は、神の働きによって心の中に生まれ育つ神の恵みであると信じます。神はその御旨を屡々平凡な日常茶飯事の中で出遭うごく小さな出来事や兆しを介してお示しになります。それらを軽視しないよう、心がけましょう。そして神の御旨中心の従順心を磨く導きと、神のお働きを鋭敏に感知する信仰のセンスも祈り求めましょう。こうして今年も神による救いと平和の恵みが、多くの人の上に豊かに与えられるよう願いつつ、本日の感謝の祭儀を献げましょう。







『ヴァチカンの道』60 (2009/12/25発行) 所収