2014年11月30日日曜日

説教集B2012年:2011年待降節第1主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 63章16b~17、19b、64章2b~7節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章3~9節
福音朗読 マルコによる福音書 13章33~37節

    本日の第一朗読は、バビロン捕囚から解放されて帰国し、廃墟と化していたエルサレムの都を見て落胆したイスラエルの民のため、第三イザヤ預言者が、神による救いを切に願い求める長い祈りの言葉であります。「私たちは皆枯れ葉のようになり、」「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたに縋ろうとする者もない」という言葉から察すると、この時のイスラエルの民は一時的に神に対する信仰・信頼までも失う程の、絶望状態に陥ってしまったのかも知れません。でも預言者は、神が御顔を隠して民の力を奪い、そのような深刻な心理状態に突き落とされたのは、民が全能の神の愛と力を自分たちのこの世的繁栄のために利用しようとするような、いわば本末転倒の利己的精神の夢に囚われていたためであることに気づき、その罪を深く反省していたようで、「あなたは私たちの悪の故に力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの御手の業」と申し上げて、人間主導に神を利用しようとするような精神をかなぐり捨て、創り主であられる神に徹底的に従う精神で神の憐れみを願い求めています。

    父なる神に対するこの徹底的従順は、主キリストや聖母マリアが身をもって実践的に証ししている生き方であり、主の再臨前に起こると思われる数々の恐ろしい試練に耐え抜くためにも、私たちが日頃から実践的に身につけて置くべき生き方だと思います。最近、知識や技術の伝授だけを重視し、心の鍛錬や社会奉仕の精神を軽視した歪んだ戦後教育の不備のためか、物騒な事件が頻発しています。このような時代には、自分の中の「もう一人の自分」と言われる心の奥底の自己をしっかりと目覚めさせ、その自己にそっと伝えられる神からの導きに、主イエスのように従おうとするのが、私たちの表面の心が人間的弱さから産み出して止まない不安に打ち克つ、一番有効な手段であると思います。その奥底の自己の目覚めには、私の個人的体験から申しますと、各人が戴いて命の恵みを神に深く感謝する祈りと奉仕の精神でその感謝を表明する実践とを、日々積み重ねることが大切だと思います。愛深い神は、幼子のように素直な従順心で生活する人の心の中で、特別に働いて下さると信じるからです。

    本日の第二朗読は、使徒パウロがコリントの信徒たちに宛てた最初の書簡の冒頭部分からの引用ですが、その中で使徒は、「主も最後まであなた方をしっかりと支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころがない者にして下さいます」と述べています。この「非の打ちどころがない」という言葉を、何かの画一的な理想像を当て嵌めて受け止めないよう気を付けましょう。私たち各人は皆同じタイプの存在に成るよう神から召され、主キリストに生かされているのではありません。無限に豊かで多様性を愛しておられる神は、私たち各人に夫々親とも他の誰とも違う、全く独自の遺伝子・ヒトゲノムをお与えになって、各人がその人独自の花を咲かせ、その人独自の仕方で永遠に仕合わせな存在になることを望んでおられると信じます。ですから永遠のあの世では、各人はこの世にいた時よりももっと多種多様の花を咲かせ、もっと様々な実を結び続けて、無数の人々と共に神に感謝と讃美の歌を捧げつつ、永遠に自由にまた幸せに生きると考えてよいのではないでしょうか。私は使徒パウロの「非の打ちどころのない者」という言葉で、そのような天国の状態を連想しています。無限に豊かな私たちの神は、それ程私たち各人に多種多様の賜物と喜びを与えて下さる愛の神であると信じます。

    本日の福音の出典であるマルコ福音の13章は、神殿の境内から去って行かれる主に、弟子の一人が「先生、御覧下さい。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう」と話して、エルサレム神殿の美しさを讃えたら、主が「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とお答えになった話から始まっていますが、その後でオリーブ山で神殿の方を向いて座られた主に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの弟子たちが密かに、「そのことは何時起こるのですか」、その時には「どんな徴があるのですか」と尋ねると、主はエルサレム神殿と世の終りの時の徴について長い話をなさいました。そして最後に、「その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけが御存じである」とおっしゃいましたが、そのお言葉に続いて話された警告が、本日の福音であります。短い福音朗読ですが、そこには「眼を覚ましていなさい」という言葉が三回も繰り返されています。また「門番に眼を覚ましているようにと、言いつけて置くようなものだ」「いつ主人が帰って来るか分らないからである」というお言葉もあります。しかし、人間は一晩や二晩は眠らずに起きていることはできても、主キリストの再臨や世の終りは一晩や二晩先の出来事ではありませんので、主がここで話された「眼を覚ましていなさい」は、肉体の目のことではないと思います。それは、私たちの無意識界と言ってよい、奥底の心の眼、霊魂の眼のことだと思います。

    人間は霊魂と肉体とから成る存在で、肉体は他の多くの動物たちと同様に眠りを必要としています。心臓や肺ぞうは眠りませんが、頭脳も目も眠りを必要とする器官です。しかし、霊魂は肉体とは違って眠りを必要とせず、心臓や肺ぞうのように絶えず目覚めていることができます。でも、その霊魂が神の支配しておられる無料奉仕の博愛精神が支配する霊界に生きようとせず、神に背を向けてこの世の物質界の出来事や自分中心の生き方に深入りしてしまいますと、肉体よりも長くて深い眠りに落ちて行くようです。そして神中心の霊界からはますます離れて、この世中心・人間中心の「古いアダムの心」、この世的自力主義の心に支配権を譲り、その支配下であの世の神を忘れたり無視したりして眠り続けるようです。主が言われる「眼を覚ましていない」というお言葉は、そのような眠りから眼を覚まし、神中心の霊界に結ばれて神からの光に照らされ、神からの恵みと愛に生きるように努めなさい、という呼びかけだと思います。クリスマスと新年を間近にしているこの待降節の期間は、主のこのお言葉に従って、私たちの霊魂のそのような目覚めにあらためて心がける時だと思います。


    先日NHKのラジオで、チェロの演奏で特別に優れていた青木十良という音楽家の話を聞きましたが、今96歳というその青木氏が最後に、「自分の人生は一瞬のように感じられる」と語られた言葉に私は感動しました。それは、この世の事物現象に注目している肉体の頭脳からは生まれない感覚、私たちの無意識界に属する霊魂から生まれる感覚だと思ったからでした。私たちの霊魂・奥底の心は、あの世の神の支配する霊界に属していて、既に過去や未来というもののない神の御前での「永遠の今」に生きているのではないでしょうか。ゲーテやその他の多くの偉大な思想家や芸術家たちも、神の御前でのこういう「永遠の今」という次元の存在することについて語っています。私たちの霊魂がそういう「永遠の今」という次元に目覚め、神の働きの器や道具のようになって神主導に生きるのが、主キリストが私たちに示された生き方であり、不安の多い終末の時代にあっても、神の授ける力によって神中心に平穏に生活し、神のため溢れるほど豊かに実を結び続ける生き方なのではないでしょうか。古今東西の優れた芸能人も体験した、あの世の神の働きに支えられ導かれて生きる生き方を、あの世主導の生き方をこの世の人々に体現するために召された私たち修道者も、心がけるべきだと思います。そのための照らしと恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。

2014年11月23日日曜日

説教集A2011年:王であるキリストの祝日(三ケ日で)

 第1朗読  エゼキエル 34章11節~12節,15節~17節

 答唱詩編  123(1, 3, 4)(詩編 23・2+3, 5, 6)

 第2朗読  コリントの信徒への手紙一 15章20節~26節,28節

 アレルヤ唱 266(王であるキリスト)(マルコ11・9b+10a)

 福音朗読  マタイによる福音書 25章31節~46節


   朝夕の寒気がひときわ深まって、行く秋の寂しさが身にしみる頃となりました。本日の第一朗読はエゼキエル預言書からの引用ですが、エゼキエルはアナトテの祭司の息子エレミヤと同じ時代、すなわちバビロン捕囚が始まる前後頃に祭司の息子として生きていた人であります。しかし、神からの強い呼びかけを受けて、ユダ王国の支配層に対する厳しい警告の言葉を語り続けたエレミヤとは異なり、滅びゆくユダ王国やエルサレムの末期的症状を静かに眺めながらも、やがて主なる神が廃墟と化したその土地に働き出し、「新しい心と新しい霊」とを授けて、新しい時代が始まるのを希望をもって予見していた預言者で、時々はその夢幻のような予見を黙示録風に語った預言者であります。

   本日の朗読箇所で神はご自身を、羊の群れを自分の家族のようにして世話する「牧者」に譬えておられます。伝統的な古い国家体制や宗教組織が、心の教育の不備や内外の各種対立などで極度に多様化し、悪を制御する力も弱小者を温かく世話する力も失って根底から崩壊しても、全てが崩れ去って無数の人間たちが暗雲の下でバラバラに不安を耐え忍んでいると、主なる神が全能の力強い「牧者」となって働き始め、「失われた者を尋ね求め、追い出された者を連れ戻し、傷ついた者を癒し、弱った者を強くする」のを、エゼキエル預言者は予見したのではないでしょうか。それは25百年程前のイスラエル民族のバビロン捕囚の頃に一時的局部的に実現したでしょうが、預言者が予見した神のそのお姿が恒久的全世界的に実現するのは、世の終わりになってからだと思います。信仰と希望をもって、その日を待ち続けましょう。

   本日の第二朗読にも、使徒パウロに啓示された世の終わりが多少具体的に描かれいています。「世の終わり」と聞くと、多くの人は私たちの今見ているこの世界の様相が悉く崩壊するマイナス面ばかり想像するかも知れませんが、使徒は「キリストによってすべての人が (復活し) 生かされることになる」全く新しい時代の到来を教えています。それはこの世に居座り、全ての人に伴ってその心を不安にしている「死」が、永遠に滅ぼされてしまう喜ばしい時であり、全ての人も被造物も、神の御子キリストに服従する時、主キリストが内的にも外的にも王として全世界に君臨する輝かしい光の時であります。復活なされた主キリストは、内的には既に今も王として世界の奥底に君臨し、罪と死の闇に苦しむ全世界をしっかりと両手で受け止め、神の方へと静かに押し上げ導いておられるのですが、その日には外的にも力強い「牧者」としてのお姿をお示しになると思います。私たちの中でのその「王である主」の現存に対する信仰と感謝を新たにしつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。


   本日の福音は、その王である主が生前弟子たちにお語りになった、世の終わりの審判についての話であります。そこでは主が創立なされた新約時代の教会に所属しているかどうかや、洗礼を受けているかどうかは問題にされていません。今私たちの所属しているカトリック教会は、その時は既に内部分裂などで崩壊し、無くなっているかも知れません。司祭がこんな話をすると、主キリストの現存しておられるカトリック教会は滅びることがない、と信じている人たちから迫害されるかも知れません。ちょうどエレミヤ預言者が、神のおられるエルサレム神殿は永遠と真面目に信じていた人たちから迫害されたように。しかし、主は「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の国の門もこれに勝つことはできない」と宣言なされても、カトリック教会の外的体制や信仰生活が滅びゆくこの世の流れに汚染されて崩れ去ることはない、と保障なされたのではありません。ルカ福音書18:8には、「人の子が来る時、果たして地上に信仰を見出すであろうか」という主の御言葉が読まれますが、19世紀以来世界各地に御出現になって、人類をまたカトリック教会を襲う恐ろしい苦難について警告し、ロザリオの祈りを唱えるよう勧めておられる聖母マリアの御言葉にも、教会内に発生する嘆かわしい分裂についての予告が読まれます。そのような事態に直面しても躓くことのないよう、今から塩味を失わない決意を固めていましょう。世の終わり前には、何が起こるか分からないのですから。

2014年11月16日日曜日

説教集A2011年:第33主日(三ケ日で) 

第1朗読  箴言 31章10節~13,19節~20節,30節~31節

 答唱詩編  103(1, 2)(詩編 128・2+3ab, 3cd+5+6a)

 第2朗読  テサロニケの信徒への手紙一 5章1節~6節

 アレルヤ唱 274(33A)(ヨハネ15・4a+5b)

 福音朗読  マタイによる福音書 25章14節~30節 △25・14-15, 19+21


   本日の第一朗読の出典『箴言』は、「主を畏れる知恵」(9:10)の観点から様々の格言を集めた人生訓で、本日の朗読箇所はその最後の31章に読まれる、マサの王レムエルが神信仰に生きたその母から受けた諭しの言葉であります。当時の女たちは、社会的な制約もあって大きなことは何もできませんでしたが、しかしその女たちが神に目を向けて為す小さな業に神は特別に御眼を向けて、彼女たちの住む町に、神によるご加護の恵みを豊かにお与えになられたのではないでしょうか。

   第二朗読は、世の終わりの主の来臨に強い関心をもっていたテサロニケの信徒団への使徒パウロの書簡からの引用ですが、パウロはその中で、人々が「無事だ、安全だ」と言っているその矢先に、突然破滅が襲うのです、ちょうど妊婦の産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそこから逃れられない、などと述べています。典礼暦年の最後を間近にして、教会は世の終わりを間近にした時のための心構えを、教えようとしているのだと思います。日々出遭う小さな仕事や愛の奉仕を、神に感謝しながら喜んで為す生き方を続けている人は全て「光の子」で、その奥底の心は、ちょうど私たちの体の心臓や肺のように、無意識の裡にいつも目覚めて働いています。そのような人には、主の日の恐ろしい破滅が突然に襲うことはない、とパウロは自分の体験に基づいて教えているのだと思います。無数の小さな体験から目に見えない神のご保護や導きというものを確信するに至ったパウロの述懐だと思います。私たちも自分の体験から実践的に、神のそのような導きやご保護を体得するに至るよう、日々小さな愛の奉仕に心掛けていましょう。そしてパウロが「光の子、昼の子」とされている人たちには、「眼を覚まし、身を慎んでいるなら」「主の日が盗人のように突然あなた方を襲うことはない」と保証している、この言葉をしっかりと心に刻んで置きましょう。

   ところで、「身を慎む」とは、具体的にどういう生き方をすることでしょうか。現代のような豊かで便利な時代には、先進国に住む多くの人は自分の望みのままに何でも自由に利用しながら生活し勝ちですが、その時は、外的知識や技術を利用しながら自主的に働く私たちの自我が心の主導権を握っていて、神の憐れみに縋りながら貧しく清く神の博愛に生きようとする、心の奥底の自己は眠ってい勝ちです。しかし、しかし、既に70億を超えた人類のうち少なくとも数億人の人たちは、今でも水不足・食料不足や病原菌の多い劣悪な自然環境の中で、あるいは故郷を奪われた避難民となって、互いに助け合い励まし合いながら生きるのがやっとの生活を続けています。生命の危機にさらされているその人たちとの連帯精神を新たにし、その人たちの労苦を少しでも和らげるための神の助けを願って、個人的にも日々祈りをささげたり、小さな節水・節電などに心がけたりしていますと、その小さな実践の積み重ねによって神の献身的愛に生きようとする奥底の自己が目覚めて来るのではないでしょうか。そして隠れた所から私たちに伴い、私たちの心の奥の無意識界にそっと呼びかけて下さる神のかすかな呼び声に対する奥底の魂の感覚も磨かれて来ます。パウロの言う「光の子、昼の子」というのは、そういう生き方をしている人のことを指しているのではないでしょうか。


   本日の福音にある話は、天の国について主が語られた譬え話であります。恐ろしい程高額の基金や儲けの話が登場しますが、これはこの世の商売や儲け仕事についての話ではありません。1タラントンは6千デナリオンで、当時は一日の日当が1デナリオンでしたから、1タラントンは約20年分の賃金に相当することになるからです。この大金は神から天国で生活する資格を自分の献身的愛の奉仕で獲得するために預けられた恵みで、この世の生活のための金ではありません。私たち各人の心の奥には、天国で幸せになるためのかなり大きな霊的資本金が既に預けられているのではないでしょうか。その霊的資本金はこの世の生活のためには「少しのもの」に見えるでしょうが、私たちはその霊的愛の資本金を、日々祈りと小さな奉仕愛の実践に励むことによって増やすことに努めているでしょうか。自分のこの世的生活にだけ没頭していますと、神よりのその貴重な資本金を土の下に眠らせてしまい、やがて「役立たずの僕」として、天国に入れてもらえなくなります。主のこの警告も、しっかりと心に受け止め、刻み込んで置きましょう。

2014年11月9日日曜日

説教集A2011年:第32主日(三ケ日)

第1朗読  知恵の書 6章12節~16節

 答唱詩編  10(1, 2, 3)(詩編 63・2, 3+4, 5+6)

 第2朗読  テサロニケの信徒への手紙一 4章13節~18節 △4・13-14

 アレルヤ唱 274(32A)(マタイ24・42a+44)

 福音朗読  マタイによる福音書 25章1節~13節

   本日はこのミサの後、すぐに出発なさる人たちもおられますので、時間の都合で本日の福音からだけ、少し学んでみたいと思います。マタイ福音書24章には、エルサレム滅亡の預言やキリスト再臨の前に起こる様々の徴についての話の後に、2442節に「眼を覚ましていなさい。主が何時の日にお出でになるか、あなた方は知らないから」という御言葉があって、忠実な僕と悪い僕の話が語られています。そして25章には、本日の福音である十人の乙女の譬え話、タラントンの譬え話、また天使たちを従え栄光に包まれて来臨なさる人の子による最後の審判の話が語られています。これら四つの一連の話は、私たちが神から頂戴した信仰の恵みを単に外的に所有しているのではなく、それを心の奥底に根付かせて働かせ、日々目覚めて奉仕的愛の実を結ぶように、と勧めているのだと思います。

   その内、当時の人たちがごく普通に見聞きしている結婚式の例を引き合いに出して話された十人の乙女の譬え話では、愛の実を結ばせる実践の話はありませんが、賢い乙女たちが壺に油を入れて用意していた実践とその灯油は、愛の実を結ぶための霊的命と受け止めてよいと思います。主のこれら四つの話から察すると、洗礼を受けて新約時代の神の民に迎え入れられても、自分の欲のままに飲み食いして仲間の同志を打ち叩いたり、積極的に働かずに神から受けた恵みを土の中に眠らせて置いたり、助けを必要としている弱い者、貧しい者を助けようとしないような怠け者たちが新約の教会の中にもいるようです。本日の譬え話にある愚かな乙女たちは、教会の中のそういう怠け者の組に属していると思います。始めは皆ともし火を持参して、花婿を迎える花嫁の家へと出かけたのですが、その花婿の来るのが非常に遅れたので、皆仮眠をしていました。部族の系図や家の格式などを重視していた当時のユダヤ社会では、花婿・花嫁の両親の間では婚約が結ばれていても、結婚式当日になってから婚宴に招かれた花嫁の一族の中から、その結婚の条件などを巡って花婿の家で煩いことを言い張る人がいたりして、花婿の来るのが真夜中になることもごく稀にあり、話題になっていたようです。主はそんな例をこの譬え話に利用しておられるのだと思います。


   真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がして、乙女たちは皆起きて夫々のともし火を整えたのですが、油を用意していなかった乙女たちのともし火は消えそうになっていました。それで店に油を買いにいっている間に戸が閉められて婚宴が始まり、遅れて来た乙女たちは花婿から「私はお前たちを知らない」と冷たく言い渡されて、婚宴の席には入れてもらえませんでした。主は愚かな乙女たちのこの失敗を例にとって、死の時や世の終りの時のため、「だから、眼を覚ましていなさい。あなた方はその日、その時を知らないのだから」と警告しておられます。油は心の奥底に絶えず保持して置くべき信仰・希望・愛の命を指していると思います。体は眠っていても心臓は絶えず働いているように、奥底の心は眠らずに、絶えずこの霊的命の火を燃やし続けていることはできるのだと思います。

2014年11月3日月曜日

説教集A年:2011年11月3日、修道女たちに

 第1朗読  ローマの信徒への手紙 14章7節~12節

 答唱詩編  73(1, 2)(詩編 27・1, 4)

 アレルヤ唱 276(諸聖人)(マタイ11・28)

 福音朗読  ルカによる福音書 15章1節~10節

〔聖マルチノ・デ・ポレス修道者 p103<祈願874 叙唱617>〕

(大分教区司教座教会献堂記念日)


   主はマタイ24章に、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と宣言なさいましたが、私たちの今生きている時代は、既にその終末時代に入っているのではないでしょうか。神はこれからの時代に、神中心に生きていないもの全てを徹底的に滅ぼそうとしておられるように思います。私は「神を信じる」とは、自分の傍近くにおられる神の現存を感知し、その神からの小さな呼びかけや示しにもすぐに従うことと教わり、またそのように信じています。これからの時代には、無数の聖人たちが実践していたこのような信仰の生き方が大切だと思います。

   技術文明が極度に発達し、個人主義・自由主義が世界中に流布しつつある現代社会では、自然界も人間社会も神も、自分中心の考えで自由に利用する生き方に慣れ親しんでいる人が多いようですが、神はこれからの終末時代に、そのような生き方に留まり続ける人を残らず滅ぼされると思います。気を付けましょう。東日本大震災以来「正常化バイアス(bias)」という言葉を時々耳に致しました。これは、「間もなく津波が来ます。すぐにもっと高い所に避難して下さい」という指示を耳にしても、果たしてその津波が今自分のいるここまで来るだろうか、などとこれまでに得た知識や経験などから考え始め、すぐには決断させない無意識界の心の先入観などを指しているようです。日頃すぐに従うという生き方はしておらず、いつも様々な情報をまず自分で理解してから、自分の対応を選択し行動するという生き方に慣らされているからなのではないでしょうか。東日本大震災の時には、巨大地震の発生から津波の到来まで15分乃至40分前後の余裕があったのに、そのために逃げ遅れて命を失った人が少なくなかったようです。

   岩手県最北端の海岸に位置する洋野(ひろの)町では、1993712日夜の北海道・奥尻島での津波などに学んで、日頃から大地震の時に避難する道路を各部落毎に整備し、声を掛け合って高台へ避難する訓練をしたり、避難路の草取りをしたりしていたので、津波は15mの高さにまで押し寄せ、住宅や水産業関係の損害は66億円にもなりましたが、死傷者・行方不明者は一人もいない唯一の被災地となりました。やはりマスコミなどからの情報を待たずに、大地震の時には声を掛け合ってすぐに高台へ避難するという日頃の訓練が、大切だと思います。大自然を介して示される神からの導きには、自分で理解できなくてもすぐに従うという実践的生き方を日頃から心がけている信仰の人も、そのような場合にすぐに行動して救われると思います。世界各地で異常気象や人間の想定外の災害が多発するかも知れないこれからの時代のため、神からの導きや示しには、自分でその理由を理解できなくてもすぐに従う、神の僕・神の婢の生き方を大切にしていましょう。そして神が私たちの日常茶飯事の中で絶えず私たちに伴っておられ、屡々小さな事を介して私たちの心に呼びかけ、私たちを導いて下さるという、神の現存に対する信仰感覚や、神の導き中心主義の生き方を日々磨いていましょう。それが、これからの不安な時代に正しく賢明に生き抜く生活の知恵だと思います。

   私たち修道者には、修道会の会憲・会則というものがあります。それはキリスト時代のユダヤ人も現代のユダヤ人も大切にしている律法と同様に、神の摂理によって与えられた神よりの法であります。その法は、私たちがそれを忠実に順守することによって、自分中心主義の古いアダムの罪に打ち克ち、神の御旨中心に生きるよう自分の心を矯め直すための手段であり、心が神からの呼びかけに対する霊的感覚を磨き、神の声に聞き従うようになるための基盤造りの手段であります。その手段である法を最高のものにし、神の御旨や神の働きをその法の下に置かないように気を付けましょう。2千年前のファリサイ派の人たちは神を信じ、神を崇めてはいましたが、自分たちの受け継いだ律法を最高のものとし、神もその法に従って神のためにと思って為している自分たちの働きに報いて下さると信ずるような、人間中心の本末転倒の宗教心で自主的に生活していたようです。ですから主は弟子たちに、「ファリサイ派のパン種に気を付けなさい」と警告しておられます。それは神の御旨中心主義ではなく、神をこの世から遠く離れておられる存在と考え、人間の考えや人間の価値観を中心にして営む宗教生活だからだと思います。


   現代の私たちも気を付けましょう。これからの終末時代には、私たち人間の想定外のことが次々と発生すると思います。神がますます私たちの間近に臨在して、私たちを人間中心主義から救い出し、神の御旨中心の生き方へと悔い改めさせようとなさるからだと思います。小さき聖テレジアのように霊的幼児の心に立ち返って、神の愛の導きに対する無意識界の心の感覚を鋭敏にし、神の声に忠実に従うことによって、これからの不安な時代を乗り切るように心掛けましょう。神はそのようにして信仰に生きる人、善き牧者の声を正しく聞き分けて従おうとしている小羊たちには、真に恵み深い憐れみの神だと思います。

2014年11月2日日曜日

説教集A2011年:第31主日(三ケ日)

 第1朗読  マラキ書 1章14節b~2章2節b,8節~10節
 答唱詩編  74(1, 2)(詩編 131・1+2ab, 2cd+3)
 第2朗読  テサロニケの信徒への手紙一 2章7節b~9節,13節
 アレルヤ唱 270(31A)(マタイ23・9b+10b)
 福音朗読  マタイによる福音書 23章1節~12節

   本日の第一朗読は、旧約聖書最後の書であるマラキ書の、1章の終りと2章前半からの引用であります。バビロン捕囚後の紀元前5世紀にエルサレム神殿は再建されましたが、少し時代が降って旧約時代の末期に入ると、このエルサレム神殿では神の御心を崇め宥めて神に感謝する礼拝が正しく為されていなかったようです。本日の朗読の少し前、マラキ書1章の終りには、「日の出る所から日の入る所まで、諸国で私の名は崇められ、至る所で私の名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている」「それなのに、あなた達は」「私をさげすんでいる」「あなた達は盗んできた動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを献げ物として携えて来ている」「群れの中には傷のない雄の動物を持っており、それを捧げると誓いながら、傷のあるものを主に捧げる偽り者は呪われよ」という神の厳しい叱責のお言葉があり、そのお言葉に続いて、本日の第一朗読が読まれます。神と先祖たちの間で交わされた契約により、傷のない最も良い雄の動物を燔祭のいけにえとして神に捧げることになっていたのに、旧約末期のエルサレムの祭司たちは、その聖なる契約に背き、神を軽んじ蔑むようないけにえを捧げていたようです。それ故、本日の第一朗読では、「大いなる王で」「諸国の間で畏れられている」「万軍の主なる」神は、祭司たちに宛てて厳しい命令や宣告を告げておられます。「あなた達は道を踏み外し、教えによって多くの人を躓かせ、レビとの契約を破棄してしまった」「私も、あなた達を民の全てに軽んじられる価値なき者とした。あなた達が私の道を守らず、他人を偏り見つつ教えたからだ。云々」と。

   神の民イスラエルの祭司たちが、旧約の末期に初期の情熱や清さを失って世俗化し、神から厳しい叱責を頂戴したように、私たちの生きている現代のキリスト教会も、これ迄の伝統が生活の豊かさと便利さと自由主義や相対主義によって根底から崩壊しつつあるようなグローバル時代、新約時代末期の巨大な過渡期に当たり、使徒時代の宣教熱や清さを失って世俗化し、神から厳しい叱責を頂戴するよう事態に陥りつつあるのではないでしょうか。今年の典礼暦年の終りに、全ての国民を集めてなされる王たるキリストによる審判の福音が読まれる主日が近づいて来ましたら、ふとそのような思いが心に去来するようになりました。

   本日の第二朗読には使徒パウロの珍しい言葉が読まれます。「私たちはあなた方の間で幼児のようになりました」という言葉であります。これは、どういう意味でしょうか。すぐその後には、「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、云々」という言葉が続いていますので、一部の写本ではこの珍しい表現を「優しく振る舞いました」と訳し変えていますが、それでも良いと思います。しかし、私はこの表現のすぐ前にある「私たちはあなた方の間で、キリストの使徒として幅を利かすこともできたのですが」という言葉と関連させて、やはり「幼児のようになりました」で良いと考えます。以前にあるドイツ人の心理学者から聞いた話によりますと、円満に成熟した女性の心の奥には、母親になっても高齢に達しても、いつも若々しく清く美しい娘心が生きていますが、同様に円満に成熟した男性の心の奥にも、いつまでも幼児のような心が生きているのだそうです。使徒パウロたちもそのような心の持ち主で、それが、信仰と愛と希望に輝いていたテサロニケの信徒団に宛てて書簡を認めた時に、このような珍しい表現となって顔を見せたのではないでしょうか。文章を読者に解り易いものに整えようとする翻訳者たちには、この言葉は躓きの石のように見えるかも知れませんが、「幼児のように」という表現は、そのまま大切にして残して置きたいと思います。

   本日の福音は、主が御受難の前に大群衆に歓迎されてエルサレムに入城なさった後に、悪い小作人農夫たちの譬え話や、王子の結婚披露宴への招きの譬え話などを民衆に語って、神から派遣されて来る使者や神の御子を受け入れようとしない律法学者やファリサイ派の生き方を批判してから、群衆と弟子たちに向けてお話しになった説教であります。主は、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座についています。だから、彼らの言うことは全て行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いに見倣ってはなりません。言うだけで実行しないからです」とおっしゃいます。彼らは皆、神を信じています。毎日神に祈り、神から与えられた掟を守ることや、その掟を民衆に教えて守らせることに熱心です。しかし、その心はこの世の社会やこの世にある教会にだけ眼を向けていて、神をどこか遠い天上におられる存在として崇め、今のユダヤ社会を自分たちの人間的理念で指導し導くことだけに専念しており、彼らの現実生活の中での神の現存や神の新しい働き、新しい呼びかけなどは殆ど無視しています。彼らが民衆から「ラビ(先生)」と呼ばれているのは、民衆の信仰を指導する「モーセの座」についているからですが、主はここで、神がそれまでとは異なる新しい形で現存し、新しい働き方を為す時代には、神のみを「父」とし、キリストのみを「教師」として、その導きに従って生活するようにと、お命じになります。

   現代の私たちも現代の教会も、神が新しい形で世界に現存し新しい形でお働きになるそのような大きな過渡期、終末の時代に差し掛かっているのではないでしょうか。近年世界の各地で大地震や想定外の津波や洪水が発生したり、気象が異常な動きを示したりしていますが、私はそれらを、私たちの奥底の心を目覚めさせるため、信仰をもって神の現存を身近に感知しつつ神と共に生きさせるための、神よりの警告や新しい呼びかけと受け止めています。2千年前のファリサイ派のように、神を信奉し日々熱心に神に祈っていても、奥底の心が人間中心の精神で世界や神を利用しているにすぎないような生き方に留まっていたり、神の新しい呼びかけや働きを察知して、すぐにそれに従おうとする神の僕・神の婢の精神で生活しようと努めていなかったりしますと、キリスト時代のファリサイ派やサドカイ派のように、神からの恐ろしい天罰を免れることができないと思います。神はこれからの終末期には、神中心に生きていないこの世の全てを徹底的に滅ぼし、全く新しい復活の栄光に輝く世界に創り変えようとしておられるようですから。

   技術文明が極度に発達し、個人主義・自由主義が世界中に流布しつつある現代社会では、自然界も人間社会も神も、自分中心の考えで自由に利用する生き方に慣れ親しんでいる人が多いようですが、神はこれからの終末時代に、そのような生き方に留まり続ける人を残らず滅ぼされると思います。気を付けましょう。東日本大震災以来「正常化バイアス(bias)」という言葉を時々耳に致しました。これは、「間もなく津波が来ます。すぐにもっと高い所に避難して下さい」という指示を耳にしても、果たしてその津波が来るだろうか、などとこれまでに得た知識や経験などから考え始め、すぐには決断させない心の先入観などを指しているようです。日頃すぐに従うという生き方はしておらず、いつも様々な情報をまず自分で理解してから選択し行動するという生き方に慣らされているからではないでしょうか。東日本大震災の時には、巨大地震の発生から津波の到来まで15分乃至40分前後の余裕があったのに、そのために逃げ遅れて命を失った人が少なくなかったようです。


   岩手県最北端の海岸に位置する洋野(ひろの)町では、北海道の奥尻島での津波などに学んで日頃から大地震の時に避難する道路を各部落毎に整備し、声を掛け合って高台へ避難する訓練をしたり、避難路の草取りをしたりしていたので、津波は15mの高さにまで押し寄せ、住宅や水産業関係の損害は66億円にもなりましたが、死傷者・行方不明者は一人もいない唯一の被災地となりました。やはりマスコミなどの情報を待たずに、大地震の時には声を掛け合ってすぐに高台へ避難するという日頃の訓練が、大切だと思います。大自然を介して示される神からの導きには、自分で理解できなくてもすぐに従うという実践的生き方を日頃から心がけている信仰の人も、そのような場合にすぐに行動して救われると思います。世界各地で異常気象や想定外の災害が多発するかも知れないこれからの時代のため、神からの導きや示しには、自分でその理由を理解できなくてもすぐに従う、神の僕・神の婢の生き方を大切にしていましょう。そして神が私たちの日常茶飯事の中で絶えず私たちに伴っておられ、屡々小さな事を介して私たちの心に呼びかけ、私たちを導いて下さるという、神の現存に対する信仰感覚や、神の導き中心主義の僕・婢の生き方を日々磨いていましょう。それが、これからの不安な時代に正しく賢明に生き抜く生活の知恵だと思います。