2015年12月27日日曜日

説教集C2013年:2012聖家族の祝日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節
福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節

    本日の福音には、過越祭の巡礼団に参加して両親と共に聖都エルサレムに滞在した、12歳の少年イエスの言葉が読まれます。福音書にはそれ以前のイエスの言葉が全く載っていませんから、この言葉が私たちに残された主イエスの最初の言葉になります。過越祭の祭りが終わって、ヨゼフとマリアは、ナザレからの巡礼団の男組と女組とに分かれてエリコ辺りにまで行ってから、一緒に野宿しようとしましたら、巡礼団の中に少年イエスがいないことに初めて気づきました。それまでは毎年、まだ小さな子供であったイエスは、母マリアと一緒に女組に属して巡礼していたと思います。それが当時の男の子の慣例でしたから。しかし、男の子は12歳頃から男組に移行する慣例になっていましたから、ちょうどその境目の時でしたので、マリアはイエスがヨゼフと共にいると考え、ヨゼフはまだマリアと共にいると考えて、帰路最初の一日分の道のりを巡礼団と共に歩いたのだと思います。
    ところが巡礼団の中にはいなかったので、野宿の後二人は巡礼団から分かれて、心配しながらエルサレムに戻り、夕刻になっても知人の家々を訪ね歩いて、少年イエスを捜しまわったのだと思います。そして三日目の朝に漸く神殿の境内にいるイエスを見つけ、母が「なぜ (無断で) こんなことをしたのですか。ご覧なさい。お父さんも私も、心配して捜していたんです」と、詰問したのだと思われます。それに対する少年イエスのお答えは、日本語の邦訳では、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」となっていますが、これは聖書の原文とは違っています。主はそのように話されたのではなく、もっと神秘的な言い方をしたのです。ギリシャ語の原文を直訳しますと、「なぜ私を捜されたのですか。自分の父のにいる筈だ、ということを知らなかったのですか」となります。「自分の父のにいる」では読者に解り難いという理由で、欧米の近代語でも、それに倣う日本語でも「自分の父の家にいる」と言葉を補って翻訳したのだと思われますが、それでは主イエスの真意が歪められたことになり、逆に「なぜ父の家に?」という疑問も生じて来ます。殊に本日ここで読まれた日本語訳のように、「私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを」などと訳しますと、母のマリアもそのまま黙って引っ込みはしなかったと思われます。そんな事は「当たり前」ではないのですから。
    実際にはしかし、主イエスは12歳ながらよく考えた神秘的表現で、「自分の父のにいる」とお答えになったのだと思います。事によると、主はその時父母に大変なご心配をかけたことで、目に涙を浮かべておられたかも知れません。それで両親は、イエスの言葉の意味が分からないながらそのままに受け止めて、その言葉について尋ねることはしなかったのだと思われます。イエスはすぐ両親と一緒にナザレに帰り、それまで通り両親に仕えながら生活なされたようですが、聖母マリアは自分の産んだイエスが天の神を「自分の父」と初めて表現したことから、この時からイエスに対する態度を幾分変更し、これらのことを全て心に納め、改めて考え合わせるようになったのではないでしょうか。
    3年前にもここでお話した私の推察ですが、12歳になった少年イエスは、この巡礼の時にエルサレム神殿で生まれて初めて神からの呼びかけの声を聞き、神を「自分の父」と表現し始めたのではないでしょうか。そしてその父なる神の声に従って神殿に留まり続け、巡礼団と一緒に行動しなかったのだと思います。その行為が両親に大きな心配と迷惑をかけることは、後でお気づきになったと思います。しかし、人間社会の論理や通念で両親に迷惑をかけたことを謝ろうとはしませんでした。天の父なる神の御旨に従うことは、この世の人間社会の道徳や論理よりも大切な絶対の倫理で、神は時として敬虔な信仰者たちからも、多くの人の救いのためにこのような苦しみや犠牲をお求めになることを示すために、あのような解り難い神秘的返事をなさったのだと思います。私たちもこの世の社会的通念だけで善悪を判断したり行動したりしないよう気をつけましょう。天の父なる神は時々私たちの平凡な日常生活にも介入し、この世の人たちの誤解を招き兼ねない言行をさせて、思わぬ苦しみや犠牲を捧げることをお求めになります。神からのそのような突然のお求めにも適切に対応できるよう、何事にも神の御旨を第一に尋ね求める信仰と愛に生き抜く恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

    幾度も繰り返し話していますが、私たちの住んでいる今の世界は、次第に終末的様相を濃くしています。創世記1章の28節には、人祖をご自身に似せて創造なされた神は、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」と言われましたが、現代では人類が70億人を超えて全世界に広まり、水や食物やその他の資源やエネルギーにも不足し始めています。創世記に読まれる神のお言葉は、そのまま実現していると考えてよいのではないでしょうか。私たちの人間の生活を極度に便利にし豊かにして来た現代文明の進歩も、飽和状態に近付いていると考えてよいと思います。ヨハネの第一書簡には、「終りの時」に反キリスト、即ち悪霊たちが多く現れて活動するかのように記されていますが、これからの時代にはこれまでになかったような新しい形の犯罪や災害が多くなるかも知れません。日々祈りによって神と聖母マリアにしっかりと繋がれていましょう。聖母が、悪霊のわなから私たちを護り導いて下さると信じます。ルカ福音21章に主は、キリスト再臨の徴として「民は民に、国は国に逆らって立ちあがり、また大地震があり、方々に疫病や飢饉が発生するであろう」「日と月と星にしるしが現れ、地上では海が逆巻き荒れ狂うので」「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさと不安のあまり気を失うであろう。云々」「これらの事が起こり始めたら、恐れずに頭を上げなさい。あなた達の贖いの時が近づいているからである」と話しておられます。主のこのお言葉を忘れずに、身近に何かの災害や危険が発生したような時には、恐れずにすぐ神に心を向けて祈る習慣を今から身につけていましょう。主の予言なされた出来事は既に世界の各地に起こり始めている、と考えてよいかも知れません。悪のいや増すところには、神からの恵みもいや増すと思います。恐れずに神との心の繋がり、羊飼いの声に聴き従う生き方を、日々の生活の中に根付かせるよう、実践的に努めていましょう。主または聖母は、そのように生きる信仰の人を必ず護り導いて下さいます。聖家族を記念し崇める本日のミサ聖祭の中で、現代に生きる多くの家族のために、その御保護を願い求めましょう

2015年12月25日金曜日

説教集C2013年:2012降誕祭日中ミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

    本日の日中ミサ聖祭は、私の所属する神言会の慣例に従い、ローマ教皇のご意向に従って全教会・全人類の上に、人となってこの世にお生まれになった救い主の祝福を願い求めて献げられます。世界中のキリスト者たちと心を合わせ、この意向でお祈り致しましょう。本日の第一朗読には、「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、全ての人が私たちの神の救いを仰ぐ」という大きな希望の言葉が読まれます。これは、エルサレムの滅亡とバビロン捕囚という悲惨な現実を体験し、落胆していた神の民に第二イザヤ預言者が語った言葉ですが、預言者はこの言葉の少し前に、「シオンよ、目覚めよ。目覚めよ」と、信仰の眼を見開いて神の働き、神が為しておられる新しい救いの御業をしっかりと見据えるよう勧めています。
    私たちこの世の人間は、とかく肉の目に見える目前の現実に支配され易いですが、聖書によりますと、刻々と過ぎ行くこの仮の世の現実は皆夢のようなもので、本当の現実は、その外的現実の陰で神がなさっておられる働き、救いの御業にあるようです。信仰の眼を見開いてこの現実を見定め、神の囁きに心の耳を傾けるよう、預言者は勧めているのだと思います。私たちの住んでいるこの現代世界は、次第に終末的様相を呈し始めているようにも見えますが、終末は神による被造物世界の徹底的浄化刷新への生まれ変わりを意味しており、それは、人となられた神の子と、その神の子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、長い年月をかけてゆっくりと準備された後に、突然に世界の表に現われ短時日で実現するもののようです。ちょうど最後の晩餐から受難死・復活までの短時間のうちに成就したメシアによる贖いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い年月の生命的準備期を基盤としているように。本日の第二朗読の中で、神の子メシアの来臨により「終りの時代」、終末時代が始まったかのように述べられていることも、注目に値します。人類の人口が70億を超え、人間の文明も極限に近い程に発達した現代世界は、そろそろ突然に訪れるという世の終りに近い時点にいるのではないでしょうか。祈りによって神と内的にしっかりと結ばれていましょう。
    本日の福音は、ヨハネ福音の序文(プロローグ)からの引用ですが、この世に来臨なされた神の子メシアの本質が何であるかを教えていると思います。それによりますと、かわいい幼子の姿で赤貧の中にお生まれになったメシアは、実は永遠に存在しておられる神で、万物を創造した全能の神のロゴス、すなわち神の言葉であり、全ての人を生かす神の命、全ての人を照らす神の光なのです。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」という、ただ今朗読された聖句に注目しましょう。ここに「言葉」と記されているものは、私たち人間の言葉とは全く違う、愛の命と光とに溢れている全能の神の言葉なのです。この生きている言葉、すなわちロゴスは、三位一体の共同体的愛の交わりの中では永遠に明るく燃え輝いている光ですが、神に背を向け目をつむる暗闇には理解されず、その暗闇の勢力下に置かれて、神に背を向けて生きる暗い罪の世に呻吟し、道を求めている人たちを訪ね求めて救うため、己を無にして本来の光と力をそっと隠し、赤貧の内にか弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中に、深く身を隠して現存しておられる全能の神のロゴスを、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのだと思います。恐るべき終末の審判は、今すでに始まっていると言ってもよいでしょう。
    本日の福音の後半には、人となってこの世に来臨した神のロゴスについて語られています。ご自分の民の所へ来たのに、その民は受け入れなかった、という悲しい叙述がありますが、しかし、受け入れた者には神の子となる資格を与えた、という喜ばしい言葉もあります。罪に穢れたこの世の暗い内的闇の勢力に囲まれて生きている私たちには、自分の力、自分の努力によって神の子の資格を得たり、その恩恵に浴したりすることは全く不可能ですが、己を無にしてこの世にお生まれになった神のロゴスが、ご自身を信じ、ご自身により頼む全ての人にその恵みを無償で与えて下さいます。社会の伝統的秩序や価値観が悪を統御する力を失って、闇の勢力が世界中に跋扈する様相を呈し始めている今日、私たちを神の子とし、全能の神の働きによって罪の闇から救い出して下さるため、この世にお生まれになった神の御子にひたすら縋り、私たち自身も神の御子に倣って己を無にし、貧しさ・小ささを愛することを喜ぶことにより、内的に深く神のロゴスに結ばれるよう努めましょう。

    私は昨夜の説教に、私たちの心の奥にはいつも素直で純真な子供心と言われるものが住んでおり、幼児の姿でこの世にお出でになった救い主は、夢を愛するその奥底に子供心の中にお出で下さるのです、というような話をしましたが、このクリスマス・お正月の時には、特に各人のその子供心に立ち帰って、幼児姿の救い主をそっと眺めて祈ることにも心がけましょう。ローマ教皇は今年のクリスマスを前にして、珍しくイタリアの企業主や経済学者たちの集会に出席なさり、この世の金銭問題にばかり目を向けていても、現代の経済不況は解決されないので、せめてクリスマスには子供のように素直な心で、神と神の御子キリストに心の目を向けて、その助けと導きを願い求めるようお勧めになりました。クリスマスに当たり、絶望的不安のうちに真の道を捜し求めている多くの人々の上にも、そのための導きの光と恵みの力とを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年12月24日木曜日

説教集C2013年:2012降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

    ベト・レヘムはヘブライ語で「パンの家」という意味ですが、二千年前にそのベトレヘムでお生まれになった救い主は、今宵はパンの形で私たち各人の内に、神からのご保護と救いの恵みを豊かにもたらすためにお生まれになるのだと信じます。理知的な人たちは、その信仰を子供じみた夢として軽蔑するかも知れません。しかし、冷たい合理主義や能力主義、あるいは自分の権利主張などが横行して潤いを失っている社会に、温かい思いやりや赦しあう献身的奉仕の精神をもたらすには、心が若返って美しい夢に生きる必要があります。私たちの体や頭がどれほど逞しく成長しても、心の奥底にはいつも素直で純真な子供心というものが残っていて、それが同じことの繰り返しでマンネリ化し勝ちな私たちの日常生活に、いつも新たに夢や憧れ、感動や喜びなどを産み出してくれます。そして数々の困苦に耐えて生き抜く意欲も力も与えてくれます。私たち各人の命の本源は、その奥底の心にあるのです。救い主も、夢を愛するその奥底の心の中にお出で下さるのです。二千年前の救い主の誕生前後に、ヨゼフも東方の博士たちも、夢によって教え導かれましたが、神は今も度々夢を介して私たちを教え導かれます。心が外的心配事や仕事にばかりこき使われていますと、夢を見なくなります。私たちの心はまだ時々夢を見ているでしょうか。夢を見る柔軟さを保持しているでしょうか。夢を愛する子供心を大切にしましょう。今宵の聖体拝領の時、二千年前の聖母のご心情を偲びつつ、神のため社会のために私たちの授かる恵みの御子、かわいい乳飲み子のような救い主を心の内に内的に育てよう、そして神による救いの恵みがこの御子によって、周囲の社会に行き渡るよう奉仕しよう、との決心を新たに堅めましょう。夢を愛する子供心を持って神に近付く人は、クリスマスの恵みを豊かに受けると思います。
    今から790年ほど前のことですが、アシジの聖フランシスコは子供のように単純な信仰心と夢を愛する心で、弟子たちとクリスマスのお祝いをしようとしたのでしょうか、1223年の12月に、ローマから60キロほど、アシジからは120キロほど離れたリエーティ(Rieti)という古い田舎町の郊外にある小さな山村グレッチオ(Greccio)の洞窟に、牛とロバを二匹ほど連れて来て、クリスマスのお祝いをしました。私はローマに留学していた時、神言会本部修道院の会員たちの遠足で、一度その洞窟を訪れたことがあります。洞窟の中は詰めれば人が十数人か二十人位も入る程の広さになっていて、その中程に高さ30cm程の上部が平らになっている腰かけにちょうど良いような小さな岩がありました。聖フランシスコはこの岩の上に、この世にお生まれになった幼児イエスがお出で下さると想定して、この岩を中心にして人々を集め、その千二百年ほど前にこの世にお生まれになった幼児救い主に感謝し、その幼児を讃えて礼拝する夢のようなクリスマスの祈りと説教をなさったそうです。するとそのお祝いの最中に、実際に生きている幼児がその岩の上に現れたのだそうで、聖フランシスコの腕に抱かれ愛撫されたそうです。私の聞き違いが混じっているかも知れませんが、何かこのような夢のような小さなクリスマスのお祝いが実際にその洞窟で行われたことが発端となって、クリスマスに聖堂内に幼児の像を迎える小さな厩(うまや)を作ったり、その厩の前で神に祈ったり歌ったりする信心深い慣習が世界中の教会に広まり始め、17世紀からは信徒の家庭でも、そのような小さな飾りを設けることが広まったと言われています。夢を愛する子供のような素直で単純な信仰心で、私たちも今宵あの世の救い主に祈りましょう。主は実際にそのような祈りを好み、あの世から求めておられると信じます。

    今宵主の降誕祭の記念ミサを捧げている私たちの目の前に、救い主は目に見える幼子の姿でお出で下さることはありませんが、しかし、内的には私たち各人の心の内に密かにそっとか弱い幼子の姿でお出で下さり、もし私たち各人が心を開いてその主をお迎えするならば、私たちの心の願いをしっかりと受け止め、その達成のために尽力して下さると信じます。子供騙しの夢のような話と思われるかも知れませんが、信じましょう。私は63年前に公教要理を学んでいた時、素直な子供心に立ち返って、神が私たちに提供しておられる数々の夢をまともに信じ、全てを神に委ね、神のお望み通りに生きようとし始めました。そうしましたら、今振り返っても驚くほど沢山の不思議な出逢いや恵みの出来事を体験させて戴きました。神は実際に存在し、私たち各人の人生に伴っておられると思います。既に復活してあの世に生きておられる主キリストの、私たち各人の心の中での隠れた誕生、隠れた来臨に対する信仰を新たにしながら、今宵のミサ聖祭を献げましょう。

2015年12月20日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第4主日(三ケ日)

第1朗読 ミカ書 5章1~4a節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章5~10節
福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節

   本日の第二朗読の前半に読まれる主キリストのお言葉は、詩編の40: 7~9を引用してヘブライ書の著者が記したものですが、神または復活なされた主がそれらの著者に特別に啓示して下さった、聖三位の第二のぺルソナがこの世に受肉された時の祈りであると思います。人間としてのご自身のお体は、神の民の罪を贖うために捧げられた旧約時代の焼き尽くされる幡祭(はんさい)のいけにえよりも遥かに優れたいけにえを神に捧げるためのもの、御父の御旨を行うためだけのものであるという、この徹底的献身と従順の決意は、主イエスが聖母マリアのお体に宿られた瞬間から受難死を成し遂げた時まで、救い主の人生を貫いている不屈の御精神であったと思います。聖母も単に主のお体だけではなく、そのお体に籠る主のこの御精神をもご自身の内に宿し、この御精神でご自身の人生を神に捧げ尽くすことによって、主と共に救いの恵みを人類の上に呼び下し、私たちの精神的母となられたのではないでしょうか。私たちも、救い主のこの御精神に参与して生きる度合いに応じて、クリスマスの恵みを豊かに受けると信じます。そのための照らしと力を願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

   以前にもここで話したことですが、聖マリアの「無原罪」という言葉を聞きますと、多くの人は、あらゆる罪の穢れを免れた心の完璧な清さや美しさだけを考え勝ちのようです。それは正しいのですが、しかし、罪に穢れた私たちの心の現実を高く凌駕している、そのような清さや美しさだけに注目するのは、片手落ちだと思います。もっと大切なことは、聖マリアが救い主に先立って、神からの特別の恵みであるそのような超自然的清さをもってこの罪の世に生れ、子供の時から生涯、私たちの想像を絶するほど多くお苦しみになったことに、注目することだと思います。お心のその超自然的清さ故に、聖マリアは原罪の穢れを持つ他の子供たちや社会の人たちの言うこと為すことに、人知れず苦しみ悩んでおられたのではないでしょうか。なぜそんなことをするのか、なぜそんな言い方をするのか、などと。生来罪の穢れに慣れている私たちの心とは、感じ方が大きく違っていてお苦しみになることが多かったのではないか、と思われます。

   聖マリアは、子供の時から頻繁に体験したその苦しみ故に、ひたすら神の助けを祈り求めつつ生活するようになり、ご自身のその苦しみをそっと神に捧げて、人々の救いや仕合わせのためにも祈っていたと察せられます。神は聖マリアに、子供の時から人類の救いのためこのようにして苦しみ祈る生き方をさせておられたのだと思います。そして聖マリアも、その苦しみ祈る生き方を介して、やがてご自身を「神の婢」と思うようにもなられたのではないでしょうか。天使から全く思いがけないお告げを受け、その説明をしてもらった後にすぐ、「私は主の婢です」というお言葉を口にされたのは、日頃その精神で生活しておられたからだと思います。そして救い主イエスも、生来の無原罪のため同様に子供の時から生涯お苦しみになられたのではないでしょうか。神の御子はその絶えざる御苦しみを、この罪の世に派遣された最初の瞬間から天の御父に捧げつつ、「ご覧下さい。私は御旨を行うために来ました」と申し上げたのだと思われます。

   本日の福音は、天使のお告げを受けた聖マリアが、ザカリアの妻エリザベトを訪問した時の話ですが、ナザレから徒歩で数日かかるザカリアの家までの旅は、以前にもここで説明したように、大胆な女の一人旅であったと思われます。当時のユダヤ社会の状況を考慮しますと、それは不安も危険も大きい旅であったと思います。しかし聖マリアは、神の御子を宿しているなら神ご自身が護って下さるという信頼の内に、ひたすら御胎内の神の御子に祈りつつ、この危険な旅をなさったのではないでしょうか。天使が最後に付言した、親戚のエリザベト、産まず女と呼ばれて軽視されていた老齢のエリザベトが、男の子を奇跡的に懐妊しているという知らせも、マリアの心を照らす一条の光となったいたと思われます。もし自分がそのエリザベトを訪問し、既に六ヶ月になっているという胎児を宿して、生活の世話を必要としているその老婦人が出産するまでの生活を手伝い、産み落としたその子が男の子であるのを確認すれば、それは天使のお告げが神よりのものであるという証拠になり、ヨゼフを説得する道がそこから開けて来ると思われるからです。天使は自分にそのことを確認させるために、エリザベトの懐妊を知らせてくれたのではないか、とお考えになったのだと思います。

   こうして無事ザカリアの家に辿り着いた時、聖マリアは安堵の喜びと神に対する感謝の内に、感動に満ちた挨拶の言葉を発したのだと思います。それは通常の儀礼的挨拶とは異なり、神の霊と力に満ちた挨拶になっていたのではないでしょうか。果たしてその声を聞いたエリザベトの内にも、既に六カ月を越えていた胎児が聖霊に満たされて大きく踊り、エリザベトも聖霊と喜びに満たされて戸口に現われ、女預言者のように声高らかに話し始めました。こんなことは、事細かに旧約時代の掟を遵守していた以前のエリザベトには、長年全く見られなかったことだったと思われます。彼女の内にも既に新約時代の新しい信仰生活、すなわち不動の文字で認められている掟や規則の順守中心の生活ではなく、何よりも自分の体内、自分の日常生活の中でお働きになる神の御旨に注目し、その御旨に従って生きようとする預言者的信仰生活が始まっていたのではないでしょうか。


   現代は世界的に大変動の時代を迎えていますが、一般社会だけではなくカトリック教会も司祭・修道者の激減という深刻な危機に直面しています。このような大変動の時代には、私たちも聖母マリアや聖エリザベトの模範に倣って、自分が今体験している日々の小さな出来事の中から、神の新しい働きや呼びかけを学び取りつつ、画一的規則的になり勝ちであったこれまでとは少し違う、もっと自由で流動的な新しい愛と従順の信仰生活を、神目指して営むべきなのではないでしょうか。そのための照らしや導きを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。

2015年12月13日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第3主日(三ケ日)


第1朗読 ゼファニヤ書 3章14~17節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 3章10~18節

   本日のミサは昔から「喜びのミサ」と呼ばれて来ました。入祭唱に「喜べ」という言葉が二回も重ねて登場し、第一朗読にも第二朗読にも「喜び叫べ」「喜び躍れ」「喜びなさい」などの言葉が何回も言われているからです。いったい神は、なぜ「喜べ」と言われるのでしょうか。またなぜ「恐れるな」と言われるのでしょうか。第一朗読はその理由を「イスラエルの王なる主がお前の中におられる」から、「主なる神がお前のただ中におられて、勝利を与えられる」からなどと説明し、第二朗読も「主が近くにおられる」からと説いています。しかし、主なる神は単に近くにおられる、あるいは私たちのただ中におられるだけではないのです。第一朗読の末尾には、「主はお前のゆえに喜び楽しみ」「お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」という言葉も読まれます。私たちに対する大きな愛ゆえに喜んでおられるその神と共に喜ぶよう、神が私たちを招いておられるのではないでしょうか。神が私たちの中におられて愛の眼差しを注いでおられる、私たちを救おう助けようと見つめておられるのだと、信じましょう。そのように信じ、その信仰に堅く立ってこそ初めて、私たちの恐れや思い煩いが全て消えて行くと思います。そして神と共に日々喜んで生きる時に、神の恵みも私たちの内に働き易くなると信じます。

   「愛する」とは、「見つめること」だと思います。神は隠れておられても、私たちをじーっと見つめておられるのです。私たちもそれに応えて、時々その神に信仰の眼を向けるよう心がけましょう。何も見ず何も言わなくてもよいのです。ただ静かに神に感謝と愛の心の眼を注いでいますと、神の霊が私たちの中に働いて、心の奥に深い喜びと安心感を与えて下さいます。日々の黙想の時など、目をつむって神の愛の視線を体の肌で感ずるように心がけましょう。乳飲み児のように素直な心で。そして目には見えないその神の御心に私たちの感謝と愛の心を向けながら、静かに神と共に留まるようにしてみましょう。日々このようなことを続けていますと、不思議に神が私に伴っておられて私を護り導いて下さるのを、小刻みながら幾度も体験するようになります。そしてその小さな体験が積み重なると、私たちの心の中に神に対する感謝と愛が深まってくるのを覚えるようになります。神の霊が私の心の内に、働いて下さるのだと思います。

   神言神学院の一番高い個室の一つに住んでいて、歳をとり毎晩夜中過ぎに、あるいは夜の2時頃にトイレに行くのが習慣になった私は、自室のすぐ横にあるベランダで星空を眺めて祈る習慣も身につけました。秋の後半にはその時間帯に、冬の夜空に輝くオリオン星座の大きな三角形や三つ星などが既に現れており、待降節の日の出前に東の空に輝く「明けの星」金星も、十月の夜の2時頃には既に東から昇って話しかけています。それでいつの頃からか、夜空を仰いで聖母マリアに祈る習慣も私の身についてしまいました。

   金星は夏には「宵の明星」となりますが、金星だけではなく、私はむしろ月を眺めて聖母に祈っています。そこで、本日は少し月について考えてみましょう。米国の天文学者カミンズ博士の『もしも月がなかったら』という著作によりますと、もし月の引力がないなら、地球の自転は非常に速くなり、一日は三分の一に短縮されて8時間程になるそうです。そして自転が速いと、地上には猛烈な風が吹き続け、台風ともなれば秒速80mの風になるそうです。地上の生き物たちの生活も騒々しくなり、花はのんびりと咲いておらず、鳥の囀りも猛々しくなるかも知れません。いやそれどころか、植物も動物も今とは全く違う進化を遂げて生きるために真剣になっており、みな美しさや落ち着きのない存在になり、人類もせっかちで、甲高い大声で話す人ばかりになっているかも知れません。それを思いますと、現実の私たちの生活環境が太陽と月の引力によって程良く美しく整えられ、保たれていることに大きな感謝を覚えます。太陽はよく主キリストのシンボル、月は聖母マリアのシンボルとされていますが、私たち人類の精神生活も、死ぬことのない復活体によみがえられて、あの世から人知れず黙々と全人類を見守り、静かに助け導いておられるこのお二人の方からの恵みに負うところが絶大なのではないでしょうか。全能の父なる神は、あの世から絶えずこの世の人類の生活を見守り、その救いのために尽力しておられるこのお二人に、私たちの想像を絶する大きな霊的引力をお与えになっておられるのではないでしょうか。私は主のご聖体や夜の月を眺める時などに、神がこのお二人に与えておられる霊的引力の大きさを、太陽と月の引力の大きさに譬えて想像したり、その霊的引力は日々神に感謝し、神を讃える心で喜んで生きている人たちの内に大きく働くのではないか、と考えたりしています。クリスマス・新年を迎えるに当たり、お二人の絶えざる支え・導きと御保護に対する感謝の念を新たにし、これからもこの信仰と感謝の内に生きる心を表明致しましょう。

   本日の福音は、民衆や徴税人・兵士たちの質問や思惑に対する洗礼者ヨハネの返答と申してよいと思います。ヨハネの力強い呼びかけや、悔い改めの洗礼を見聞きした群衆は、いよいよファリサイ派の宗教教育で教わったメシア到来の時が来た、と思ったことでしょう。そこである人たちは、社会改革やユダヤ独立のため自分たちは何をしたらよいか、と尋ねたのだと思います。ヨハネはそれに対して、貧しい者たち、困っている者たちに下着や食べ物を分けてやるように勧め、徴税人や兵士たちにも同様、規定以上のものを取り立てないように、自分の給料で満足するようになどと、今置かれている地位や職業の中で実践すべき、ごく平凡な兄弟愛の勧めを与えただけでした。群衆は少し拍子抜けしたかも知れません。主キリストも同様に、何かの新しい社会活動や政治活動などではなく、例えば金持ちの青年には、子供の時から教わっている掟の遵守や貧しい人々への施しを勧めるなど、既にユダヤ教で子供の時から教わっている、外的には少し平凡に見える掟の遵守と愛の実践を勧めておられます。主は一度「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返せ」とおっしゃいましたが、これはローマ皇帝に対抗するこの世的政治社会活動よりも、私たちの平凡な日常生活の中に隠れて現存し、全てを観ておられる神の導き・働きに従う生き方を優先したお言葉であると思います。新約のメシア時代には、自分の置かれている所で神に心の眼を向けながら、小さな愛の実践に生きること、日ごろの私的生活を厳しく律することに努めるなら、そこに主の愛の霊が働いて、その人をも周辺の社会をも変革し、神による救いへと導いて下さるというのが、聖書の教えなのではないでしょうか。私たちの心は神に眼を向け、神の霊をそのような小さな実践によって自分の内に迎え入れることにより清められるのです。それが、待降節に当たって神から私たちに求められている、改心・悔い改めだと思います。


   本日の福音の中で洗礼者ヨハネは皆に、「私よりも優れた方が来られる」と話していますが、ここで「優れた」と邦訳されているイスキューロスというギリシャ語原文の言葉は、「力強い」「激しい」という意味合いの言葉です。ヨハネはここで水で洗礼を授け、神の働きに従って生きるため各人の心の目覚めと人間的決心を促していますが、メシアが始められる新約時代の洗礼は、ヨハネの洗礼とは違って神の聖霊と火による洗礼であり、人間の望みや努力が主導権を取って神の恵みを利用し強くなるのではなく、そういう人間中心の主導権が消えることのない神の愛の火で焼き払われ、神の聖霊が主導権をとって私たちの心を神の神殿として下さるような洗礼なのです。洗礼者ヨハネはそのことをはっきりと認識し予告しているのです。私たちの魂は皆この洗礼を受けて神の神殿となっているのですが、まだそのことを十分に自覚していないのではないでしょうか。救い主から受けたこの大きな恵みに感謝しつつ、終末の日にその主を少しでも相応しくお迎えできるよう、神への愛と信仰の精神で日頃の平凡な生活を整え、自分の心を厳しく律する実践に努めましょう。そしてそういう信仰実践のための照らしと力とを、今の世に苦しんでいる多くの人々のためにも、本日のミサ聖祭の中で祈り求めましょう。

2015年12月6日日曜日

説教集C2013年:2012待降節第2主日(三ケ日)

第1朗読 バルク書 5章1~9節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章4~6、8~11節
福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節

   本日の第一朗読は、長年エレミヤ預言者の書記として働き、エレミヤ書の殆どを書き残したバルクが、バビロン捕囚が始まって5年目のBC593年にその捕囚の地で書いた書簡のからの引用であります。ユダ王国が北の大国バビロニアに反抗しないようにと説き続けて来たエレミヤは、バビロニア軍によってエルサレムが包囲攻略された後、ネブカドネツァル王の招きを断ってエルサレムに留まり、この王によって属国とされたユダ国のゼデキヤ王の下で、エルサレムの信仰生活がどのように変わるかを見届けようとしたのか、バビロンには行きませんでした。エルサレムに留まって何をしたかは不明ですが、エルサレムのその後の状況を捕囚の民に知らせるようなパイプ役をしていたのかも知れません。エゼキエル書などからも知られるように、以前にエルサレムの支配層に属していた人たちと、その協力者たちの殆どが捕囚の民となった後に、ゼデキヤ王の下で新しく支配層となった人たちの生活は、以前よりもっと酷く神の怒りを招くものとなり、最後にエジプト王に頼ってバビロニアから自由に成ろうとしたエルサレムは、遂にネブカドネツァル王によって徹底的に破壊され、廃虚とされてしまいました。捕囚の地にいたエゼキエル預言者は、そのエルサレムの人たちに真の神信仰に立ち帰るよう強く呼びかけていますが、バルク書も、同じくエルサレムの人たちに悔い改めを勧めたり、神の知恵を讃美したりした長文の書簡であります。その最後の部分が、本日の第一朗読であります。「エルサレムよ、立ち上がれ。高い山に立って東の方に目を向けよ」などと、真の神の声に従う明るい希望と信仰の内に生きるよう呼びかけていますが、残念ながらこの呼びかけはエルサレムの新しい支配層によって無視され、エルサレムの都はBC587年にバビロニア軍の激しい攻撃で破壊され、瓦礫の廃虚とされてしまいました。
   福音の始めに登場するローマ皇帝ティベリウスは、紀元12年に高齢のアウグストゥスと共同支配の皇帝とされたので、この年がティベリウス治世の第1年とされています。従って、その治世の第15年は紀元26年になりますが、紀元14年夏にアウグストゥスが没すると、いろいろな勢力の言い分が複雑に絡み合って混迷の度を深めつつあった、当時の多様化した政治に嫌気がさし、自分の親衛隊長であったセヤーヌスに政治を任せて、自分はナポリに近いカプリ島に退き、何年間も静養を続けていました。このセヤーヌスはユダヤ人が大嫌いで、紀元6年から14年まではユダヤ人の気を害さないようにしながら統治していたローマのユダヤ総督3人の伝統を変えさせ、15年からはユダヤ人指導層に強い弾圧を加えさせました。それで紀元5年から終身の大祭司になっていたアンナスは15年に辞めさせられて、アンナスの5人の息子が次々と大祭司になりましたが、彼らも次々と辞めさせられ、18年にはアンナスの娘婿カイアファが大祭司になって、何とか第四代ローマ総督Valerius Gratusの了承を取り付けました。しかしユダヤ人たちは、律法の規定によりアンナスを終身の大司祭と信じていましたから、表向きの大祭司カイアファの下で、アンナスも大祭司としてその権限を行使していました。これは、それまでには一度もなかった異常事態でしたが、ヘロデ大王の時には一つに纏まっていたユダヤの政治権力も分裂して、本日の福音に読まれるように、複雑な様相を呈していました。第五代ローマ総督Pontius Piratusが紀元26年に就任した時は、そういうユダヤの政治的分裂と衰退の色が静かに深まりつつあった時代の大きな変わり目の時だったのです。
   私たちの生きている現代世界も、ある意味では似ているような異常事態を呈しているのではないでしょうか。価値観の多様化と複雑さの中で、家庭でも社会でも共同体が内部から崩壊し始め、各人ばらばらに生活する個人主義が広まっていますし、貧富の格差も拡大しつつあります。日本の厚生労働省の発表によりますと、わが国で貧窮のため生活保護を受給している人は、2000年には107万人でしたが、今年の1月には209万人に増え、過去最多を更新しています。生活保護の申請理由も、失業や倒産など長引く経済の低迷に起因しており、目立つのは、20歳から50歳までの働き盛りの年齢層が生活保護を受給していることです。この世代の人たちの受給は、12年前には18万人でしたが、今は30数万人になっています。生活保護の支給総額も3兆円を大きく超えているそうです。生活保護を申請しても待たされている人や、十分に受けられずに苦しんでいる人たちも多いのではないでしょうか。一人暮らしのお年寄りが自宅で死んでいたという例は、これまでにも多くありましたが、今年になってからは、家族と一緒に病死したり餓死したりする事例が増えているそうです。高齢の親を支える働き盛りの子供が困窮し、親と共倒れになるのだと思います。世界有数の経済大国と言われる日本ですが、政治も何も様々な小グループに分裂して、莫大な借金を年々増やしながら将来を模索している状態や、社会的犯罪の激増など考慮しますと、多くの人はまだこれまでの豊かさと便利さの中で暮らしてはいますが、これからの日本の政治や社会に明るい夢や希望を抱くことが出来ずにいると思われます。
   救い主が世に出て活躍なさる直前頃の豊かになっていたユダヤ社会も、ローマ帝国との精神的対立や、政治権力の分裂、社会道徳の乱れなどで、自然的人間的には、将来の世界やユダヤ社会にはもう明るい夢や希望を抱くことができないような、不安な社会状態に置かれていたと思われます。神の言葉が荒れ野のエッセネ派の所で成長し修行を積んでいた洗礼者ヨハネの心に降ったのは、ユダヤ社会がそのような不安な雰囲気に覆われていた時なのです。ルカは、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」とイザヤ書にある預言を引用して、洗礼者ヨハネの活動を描写していますが、この預言の続きは、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。云々」と、その神の声がもたらす結果が受動形で述べられています。これは聖書によく見られる「神的受動形」と言われるもので、神を口にするのが畏れ多いので、神の働きやその結果を受動形で表現しているのだと思います。従って、谷を埋め、山を低くし、道をまっすぐにするのは、皆神ご自身のなさる救いの業であると思われます。ヨハネは、全ての人が神の新しい働きによる救いを仰ぎ見る時代の到来したことを、告げたのだと思います。

   メシアの出現を待望していた民衆の多くは、そのヨハネの所にやって来てその説教を聞き、神の新しい導きや働きに従って生きるために、悔い改めの洗礼を受けたようですが、ユダヤ人社会の宗教的政治的な実権を握っていた支配層の人たちとそれに従う人たちは、自分たちの人間的な願望や見解を中心にして、洗礼者ヨハネの呼びかけと民衆の動きを監視するだけで、積極的に神の新しい呼びかけをたずね求めよう、それに従って生きようとはしませんでした。神の権利や働きを後回しにするその人たちのわが党主義的態度は、ヨハネの後でメシアが現れ、活躍し始めても変わりませんでした。そして遂には、自分たちの支配するユダヤ社会を危険に曝す人物として、メシアに死刑を宣告する程にまで落ち込んで行きました。今の世界の指導者たちや日本の指導者たちも、ある意味で神から一つの選択を求められているのではないでしょうか。現代の私たちは、ますます低迷し続けるこの世の政治経済的問題にだけ没頭するのではなく、それを乗り越えて神にまで視野を広げ、神の愛による国民の精神的刷新・若返りを目指すところにまでも真剣に取り組むべきなのではないでしょうか。今の時代の深刻な問題の解決は、神からの新しい導き・助けに真剣に従うことなしに、人間の力だけでは実現し難いと思います。今の日本と世界の指導者たちのため、神からの照らしと導きとを願い求めて、本日のミサ聖祭を捧げましょう。