2016年2月28日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第3主日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 3章1~8a、13~15節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章1~6、10~12節
福音朗読 ルカによる福音書 13章1~9節

    本日の第一朗読には、主なる神がモーセの質問に答えて、「私はある」というご自身の御名を教えて下さったことが述べられています。ヘブライ語では多分一人称単数のehyeh(エイエ)だと思いますが、これをモーセが民に伝えるため三人称単数に言い換えますと、ヤーウェになると聞いています。古代人は、名は単なる呼び名ではなく、そのものの本性を表現すると考えていましたので、神はこの御名でご自身の本質を表現なさったのだと思われます。私たち人間は、「ある」とか「存在する」という言葉を、ただそこにあるだけで、動くことも成長することも働くこともしていないものと考え勝ちですが、実は聖トマス・アクィナスも強調しているように、存在は最も活発でダイナミックな働きなのです。この世の一切の事物現象は本来本質的に無なのですが、神の「存在」という働きによってその本性も存在も生命も活動も与えられているのであり、その存在も働きも絶えず神に支えられているのです。「存在」という神の働きから離れるなら、忽ち完全な無に帰してしまう儚い有でしかないのです。神は万物の大元であるその「存在」を本質としておられる方で、霊界と物質界の一切のものを、時間も空間も、その他の諸々の枠組みも全て創造なされ、絶えず支えておられる永遠の存在であり、現在も過去も未来も全ては神の御手に支えられ生かされてあるのですから、その全能の神から召されて派遣されるモーセは、何者をも恐れる必要がないのです。「存在」そのものであられる神がモーセと共にいて、救いの御業の全てを為そうしておられるのだという意味で、神はその御名を名乗られたのだと思います。私たちも皆、その全能の「存在神」を信奉しているのです。感謝と喜びの内に、日々を明るい希望と信頼の心で生活致しましょう。
    第二朗読は使徒パウロのコリントの教会への書簡からの引用ですが、東西二つの良港に恵まれて栄えていた港町コリントは、BC146年にローマ軍によって徹底的に破壊されると、百年程はギリシャ人も誰も住まない廃虚とされていましたが、BC44年から後の皇帝アウグストュスがこの港町を復興させ、属州アカイアの首府とすると、地中海沿岸やオリエント諸国から大勢の若者たちがこの新しい商業都市に集まり、自由で豊かな生活を営むようになりました。新しく導入された異教の祭儀に参加する人たちも多くいましたが、キリスト教信仰に転向する人たちも少なくなかったようです。自由主義教育を受けた現代人たちのように、人間中心の自由を重んじているそのようなコリント人信徒に対して、使徒パウロは出エジプト記にある神の民の体験について語ります。その民は、神臨在の徴である雲の下に護られ導かれて、一度は湖の下を通って対岸に渡り、彼らを追跡して来たエジプト軍から救い出されました。これらの出来事は、彼らが彼らなりに一種の洗礼を受けたことを示していると思います。彼らはその後も、神が大きな石灰岩から溢れ出させた大量の水を飲んだり、大量の渡り鳥を食べたりしましたが、しかし、彼らの多くはそれらが神よりの特別な愛の贈り物であることを心に刻んで、感謝の内に生活しようとはしていませんでした。それで神の御心に適わず、荒れ野で死んでしまいました。使徒は聖書のこの出来事に学んで、新約時代というこの世の終りの時代に直面している私たちも、神からの霊的食べ物と霊的飲み物、即ちご聖体のパンと葡萄者に養われていることを想起させながら、神に対する感謝から信仰・愛・従順に成長しなければ、荒れ野で滅ぼされた人々のようになると警告しているのです。
    本日の福音は、二つの部分から構成されています。前半では、エルサレムで実際に起こったと思われるローマ軍によるガリラヤ人殺害事件が伝えられたのをきっかけに、主がお語りになった教えが、後半には、三年間も実を結ばないイチジクについての譬え話が語られています。ガリラヤ人殺害の事件は、過越祭の時に起こったと思われます。毎年の過越祭にはガリラヤの巡礼者たちが大勢エルサレムに滞在し、通常は港町カイザリアに滞在している千人程のローマ軍の一部も、ローマ総督と共にエルサレムに滞在して、暴動が発生しないよう警備に当たっていたからです。度々反ローマ運動の拠点とされていたガリラヤからの巡礼者と首都警備のローマ軍との間で、何かの偶発的事件が発生して、ガリラヤ人の一部が殺害されたのかも知れません。「ピラトがガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜた」という言葉は、神殿で過ぎ越しのいけにえの動物たちが屠られた時刻と同じ頃に、ガリラヤ人たちが殺害されたことを強調する、文学的表現であると思われます。
    主はこの知らせを聞いて、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。それは、当時の律法学者・ファリサイ派たちが、勧善懲悪の合理的思想に基づいて、何か不慮の事件や災害などで犠牲者が出ると、その人には隠れた罪があったのではないか、などと考える思想を広めていたからだと思われます。現代でも時としてこのような推測を口にする人がいますが、主はこのようなこの世の不運や不幸を中心に判断する罪の概念や勧善懲悪思想をはっきりと退けられます。察するに主が考えておられる罪とは、神がこの世の不運や不幸によってその償いをお求めになる外的な掟違反や、先祖から受け継いだまだ償われていない罪の重荷のようなものではなく、どの人間の心の奥にも根強くはびこって働いている、神に背を向け神を無視する自分中心主義の根性、暗い闇の力であり、いわば私たちの生来の人間性である「古いアダム」の心、人間中心主義の精神なのではないでしょうか。それは、洗礼を受けた私たちの心の奥にもまだ実際に働いている罪の力であり、私たちが自分の受けた秘跡の恵みで、日々それに負けないよう戦うべき根強い現実的力であると思います。これ迄は一度も不運な事件や災害に出会うことなく仕合わせに生きているとしても、悔い改めてこの世に来られた神の御子の呼びかけと働きを受け入れ、それに従って神の僕、神の婢として神中心に生きようとしないなら、遠からず皆不運によって滅びてしまうのだ、と主はこの時、恐らく真剣なお顔で人々に警告なされたのではないでしょうか。

    そして続いて話された後半の譬え話も、その差し迫っている不幸の警告と関係して、悔い改めを勧める話であったと思われます。ぶどう園の主人は、実を結ぶ年になっているイチジクの木が、なお3年も忍耐して待ったのに実をつけないのだから、「切り倒してしまえ」と命じます。それに対して園丁が、「ご主人様、今年もどうぞこのままにしておいて下さい。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒して下さい」と願っている所で話が終わっています。受難死を間近にしておられた主はこの話で、神の働きに結ばれ支えられて実を結ぶよう早く悔い改めなければ、切り倒されてしまう時はもう迫っているのだ、今はエルサレムにとって最後の憐れみの期間なのだ、と強く訴えておられるのではないでしょうか。四旬節に当たり、私たちも主のこの警告と悔い改めの勧めとを、私たちの時代に対してもなされている警告として真摯に受け止め、主が目に見えないながら今の私たちの所にも実際に現存し、神中心に生きるよう求めておられることにもっと心の眼を向け、日々信仰生活の改善と深化 に努める決心を、新たに主にお捧げ致しましょう。

2016年2月21日日曜日

説教集C2013年:2013年四旬節第2主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 15章5~12、17~18節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙一 3章17~4章1節
福音朗読 ルカによる福音書 9章28b~36節

    本日の第二朗読に読まれる「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」という使徒パウロの嘆きの言葉は、豊かさと便利さの中で生活しつつ、楽しみだけを追い求め勝ちになり勝ちな現代人の忘れてならない警告だと思います。洗礼の秘跡を受けても私たちの奥底の心の中にまだ生き残っている「古いアダムの命」が、苦しみに対してはあくまでも逃げ腰で、死についてもなるべく考えないようにし勝ちなのはよく解ります。しかし、キリストが最も強く力説し体現しておられる福音によりますと、神は私たちの死の背後に、主キリストにおいて復活の栄光を備え提供しておられるのです。父なる神の御旨に徹底的に従った主と一致し、主の力に生かされ支えられて、暗い苦しい死の門、死のトンネルを通り抜けてこそ、私たちの卑しい体も主の栄光ある体と同じ姿に復活するのであることを、四旬節に当たって幾度も自分の心に言い聞かせましょう。そして自分の死の苦しみを先取りし、その苦しみを、主と共に多くの人の救いのために神にお献げする決意を新たに固めましょう。
    創世記によりますと、私たち人間は神に特別に似せて創られた存在であります。ということは、神と共に永遠に幸せに生きる存在として創られていると思います。私たちは不安や誤解や苦しみの多いこの世でわずか百年ほど生活するために創られた存在ではありません。私たちの本当の人生は、神と共に生きるあの世にあるのです。人祖の原罪の穢れを受けて生れた私たちは、この苦しみの世でその罪を償い、その穢れを死の苦しみを介して完全に洗い流してから、あの世の本当の人生に入ることができるのです。神の御独り子キリストがこの世にお出でになって、御自ら死の苦しみを受けて悪霊の攻撃を退け、あの世に入る道をお開きになったのです。そして私たちに、その御後に従ってその十字架の道を歩む力を提供しておられるのです。私たちが日々授かる秘跡も、体験する大小様々の苦しみ、誤解や失敗、やり直しや病気なども、皆主が私たちにその力を与えて下さる恵みの器であり、手段なのです。神の愛に対する信頼とあの世に対する明るい大きな希望の内に、喜んで日々の苦しみを受け止め、神にお捧げするよう心がけましょう。それが神から私たちに求められている「信仰」である、と申しても良いと思います。「信仰年」に当たり、この信仰実践に生きる覚悟を新たに堅めましょう。
    本日の福音にある主の御変容は、以前にも話したことですが、受難死直前の冬の時期に起こったのではなく、それよりも半年も前の夏の農閑期に起こった出来事であったと思います。ご受難までにはまだ数ヶ月ありますので、主はそれまでの間に、地上的栄光に満ちたメシア像という、ユダヤ人一般の通念から抜け出せずにいる弟子たちの心を、時間をかけて新しい真のメシア像を受け入れるように教育しようと意図しておられたと思います。その最初の段階で、主は三人の弟子たちだけを連れて、マタイとマルコによると、最初の受難予告から「六日の後」「高い山に登られ」ました。ルカによると、一同は「翌日に」山を下りて、麓で大勢の群集と他の弟子たちとに迎えられていますし、マタイとマルコによると、一行はその後でガリラヤに行っていますから、ご変容の山は、ローマに反抗する暴動の発生したガリラヤでの不測の事態に備えて、当時ローマ軍の砦があったと聞く、ガリラヤ中央部の海抜588mのターボル山ではなかったと思われます。大ヘルモン山の辺りには標高2千メートル級の山が幾つもありますから、そのうちのどの山かは特定できませんが、そういう高い山で一夜を明かしたとしますと、それは始めにも申しましたように、夏の出来事であったと思われます。この世で世界を支配し栄光の王座につくという、現世的メシア像に囚われている弟子たちの心を、メシアの王国も栄光もあの世的なものであることを、体験を通しても段々と悟りへと導くために、主はまず三人の弟子たちと共にその山で一夜を過ごされたのだと思います。せめて三人の弟子たちには、主が受難死の後に復活して入る至福の栄光を垣間見せて、主の受難死という大きなショックから、彼らの心が新しい希望の内に立ち直り易くするために。死の苦しみは、父なる神が備えて待っていて下さる約束の国、天国の素晴らしい栄光への脱出過程なのです。主と内的に結ばれている私たちも皆、父なる神によってその栄光へと召されているのです。感謝と大きな明るい希望の内に、主と共に、死のトンネルを恐れずにあくまでも神に忠実に従って行く心構えを、今からしっかりと整え、堅めていましょう。

    東方教会では主の御変容を、この世の私たちの人間性を神にそっくりの存在に高め清めて下さるDeificatioの恵みを、三人の使徒たちに現実に目撃させて下さった出来事として、特別に大切にしています。洗礼の秘跡によって神の子として戴いた私たちは、あの世では実際に神によって神のように栄光に輝く存在にして戴くのです。そして大きな自由と喜びの内に神によって創造された万物を愛し、支配するようになるのです。使徒パウロはローマ書8章に、「被造物は、神の子らの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、」「同時に希望も持っています。被造物もいつか滅びへの隷属から解放されて、神の子らの栄光に輝く自由に与れるからです。云々」と書いていますが、私はここで「被造物」とあるのは、神によって創られたこの世の宇宙万物、全ての動植物などを指していると思います。ヒトゲノムの発見により、数億もある人間の遺伝子の内93%はこの世でoffの状態にあることが明らかになりましたが、あの世の人生のために各人に与えられているこのような遺伝子は、個々の動植物にもたくさん与えられているのではないでしょうか。あの世では宇宙万物も、神の栄光に参与して輝く人間の支配下で、皆美しく輝いて永遠に生き続けるのではないでしょうか。あの世での人生に対するこのような明るい希望を堅持しながら、それとは比較できない程少ないこの世の苦しみを厭わずに喜んで耐え忍び、全ての苦しみを主キリストを介して神にお捧げしましょう。

2016年2月14日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第1主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 26章4~10節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 10章8~13節
福音朗読 ルカによる福音書 4章1~13節

   30年余り前のことですが、私は東京で1980年秋にユダヤ教の安息日の礼拝を、1982年秋にイスラム教の安息日の礼拝を、それぞれ聖堂内の立派な客席から参観させて戴きましたが、いずれの場合も出席していた信徒たちは、神を自分の人生の主、絶対的中心として頭を深く垂れ敬虔に礼拝していました。イスラム教の所では床に頭をつけ、特別に心を込めて礼拝しているように見受けました。復活の主キリストにおいて神から豊かな恵みを戴いている私たちキリスト者も、神を自分の人生の与え主、絶対的所有主として崇め感謝するその人たちの礼拝の熱心に、負けてはならないと思います。30余年前頃の日本のカトリック教会では、古い伝統から抜け出て新しいものを追い求める改革的動向が盛んで、神の導きに従ってここまで発展して来た古い伝統の中での神の現存を信じ、その神を敬虔に礼拝し、何よりもその神の御旨に従おうとする信仰心や従順心があまり見られませんでしたので、私はユダヤ教徒やイスラム教徒の礼拝に深い感銘を受けました。
   本日の第二朗読に読まれる、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という使徒パウロの言葉を、軽く外的に受け止めないよう気をつけましょう。信仰を頭で理解している、いわば「頭の信仰」に生きている人にとっては、その信仰を公に言い表すのは実に簡単で、易し過ぎると思われるかも知れません。しかしパウロは、それとは違う「心の信仰」の立場でこの言葉を書いているのではないでしょうか。心は無意識界に属していますが、私たちの意志・望み・態度・実践などの本拠であり、日頃心に抱いている望み・不安・信仰などは、無意識のうちにその人の言葉や態度や夢などに表われ出るものです。頭で意識して受け入れた信仰が、心の中に根を下ろし、不屈の決意と結ばれた「心の信仰」となるには、度重なる敬虔な信仰実践が必要であり、時間がかかります。
   「頭の信仰」に生きている人はよく、目に見える外的な寄付の金額や奉仕活動の量などで、その人や自分の信仰の熱心を計り勝ちのようですが、聖書に描かれている神の秤は、少し違うようです。2千年前のサドカイ派やファリサイ派の人たちは、熱心にたくさん祈れば、また神の栄光のために熱心に何かの苦行や活動をなせば、神に喜ばれると考えていたかも知れません。宗教に熱心なのは結構ですが、問題はその熱心が何に基づき、どこから生じているかだと思います。もし神に対する私たち人間の熱心が神を動かすとか、神の栄光のため神をお喜ばせするために、私は毎週2回断食し、これこれの仕事をしているなどと誇らしげに考えているなら、その熱心は自分の考えや努力に重点を置いており、神からはあまり喜ばれないと思います。聖書の神は、神の声を正しく聞き分け、神の御旨中心に従順に生きる人、神の僕・神の婢として忠実に生きる心の人を捜し求め、祝福しておられるように見えるからです。心の底から神中心に生きようとする「心の信仰」の人になる時に、私たちはその信仰によって義とされるのではないでしょうか。そしてその神信仰を口でも表明することによって、救いの恵みに浴するのだと思います。神の愛の霊、聖霊が、そのような人の心の内に、存分に生き生きと自由にお働きになるからです。
   本日の福音の始めには「イエスは聖霊に満ちて」という言葉があって、この福音箇所に続く次の段落の始めにも、「イエスは聖霊の力に満ちてガリラヤに帰った」という言葉が読まれます。この聖霊は救い主を敵の手から護り、その使命を全うさせるために与えられた神の力ですが、人祖の罪によって、この世の人間の心に対する大きな影響力・支配権を獲得している悪魔は、神と人間イエスとの間に割って入り、両者の絆を断ち切ろうとします。しかし、三度にわたる悪魔の試みは、いずれも申命記から引用された神の言葉により、断固として退けられました。聖書に載っている神の言葉には、威厳に満ちた神の力が篭もっているからだと思います。私たちも、主や聖母マリアの御模範に倣って、日々神の言葉や神の為された御業を心の中に保持し、思い巡らしていましょう。いざ悪魔の誘いと思われる局面に出遭った時、断固としてその誘惑を退けることができるように。
   創世記によりますと、楽園の中央には命の木と善悪の知識の木とがありましたが、エワはこの善悪の知識の木に先に近づいて、目前の楽しみ・この世的幸せを先にする人間理性に従って考え判断したために、悪魔に騙され不幸になったのではないでしょうか。もし神から戴いた命を神に感謝しつつ、「命の木」の下で神の愛に心の眼を向けながら、神のお考えに従うことを優先していたなら、その心の奥には神の愛・聖霊が力強く働いて、道は大きく異なっていたのではないでしょうか。
   主は、悪魔から「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と誘惑された時、「人はパンだけで生きるものではない」という申命記の言葉でその誘いを退けておられますが、この言葉と共に、ヨハネ福音の434節に読まれる「私の食べ物は、私をお遣わしになった方の御旨を行い、その業を成し遂げることである」というお言葉も、合わせて心の中に留めて置きましょう。神や主キリストを、どこか遠く離れた天上の聖なる所に鎮座しておられる全知全能者と考え勝ちな「頭の信仰」者たちは、「神の御旨」と聞いても、それを何か自分の頭では識別し難い神のお望みやご計画と受け止めることが多いようですが、そんな風に人間が主導権をとって理知的な頭の中で考えていたら、神の力は私たちの内に働かず、「神の御旨」は私たちの日々の糧にはなり得ません。主は天の御父の御旨をそんな風には考えず、今出遭っている目前の出来事の中でその御旨を神の霊によって鋭敏に察知し、その時その時の具体的呼びかけに応えて、御旨の実行に努めておられたのだと思われます。
   福者マザー・テレサのお言葉の中に、「遠い所にイエス様を探すのは、お止めなさい。イエス様はあなたの側に、あなたと共におられるのです。常にあなたの灯火を灯し、いつでもイエス様を見るようにするだけです。その灯火を絶えず小さな愛のしずくで燃え続けさせましょう」というのがありますが、ここで「灯火」とあるのは、主の現存に対する心の信仰と愛の灯火だと思います。人間イエスも、目に見えない天の御父の身近な現存に対する信仰と愛の灯火を絶えず心に灯しながら、その時その時の天の御父の具体的御旨を発見しておられたのだと思います。主イエスにとって「神の御旨」とはそういう身近で具体的な小さな出来事や出逢いによる招きや呼びかけのようなものであったと思われます。それは、罪によって弱められている私たち人間の自然的理性の光では見出せないでしょうが、心が神現存の信仰によって聖霊の光に照らされ導かれるなら、次第に発見できるようになります。

   難しい理屈などは捨てて、幼子のように単純で素直な心になり、目前の事物現象の内に隠れて伴っておられる神に対する、信仰と愛の灯火を心に灯して下さるよう、まず聖霊に願いましょう。日々己を無にしてこの単純な願いを謙虚に続けていますと、心に次第に新しいセンスが生まれ育って来て、働き出すようになります。そして小さくても、その時その時の神の御旨と思われるものを実践することに努め、その実践を積み重ねるにつれて、次第に自分に対する神の深い愛と導きとを実感し、心に喜びと感謝の念が湧き出るのを覚えるようになります。人間イエスも聖母マリアも、このようにして「神の御旨」を心の糧として生きておられたのではないでしょうか。それは、実際に私たちの心を内面から養い強めて下さる霊的糧であり、弱い私たちにも摂取できる食べ物なのです。福者マザー・テレサも、その他の無数の聖人たちも、皆そのようにして深い喜びの内に心が養われ、逞しく生活できるようになったのではないでしょうか。四旬節の始めに当たり、私たちも決心を新たにして、主がご自身で歩まれたその聖なる信仰と愛の道を、聖霊の力によって歩み始めましょう。

2016年2月7日日曜日

説教集C2013年:2013年間第5主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 6章1~2a、3~8節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節
福音朗読 ルカによる福音書 5章1~11節

    本日の福音では、ペトロとその漁師仲間たちの召し出しがテーマになっています。神の御言葉を聞こうとして押し寄せて来た群集に押されるようにして岸辺にまで来られた主は、そこに二そうの舟と数人の漁師たちとを御覧になり、舟から上がって網を洗っていたペトロの舟に乗せてもらい、岸から少し漕ぎ出すように頼んで、その舟の中から岸辺にいる群衆に教えを説きました。話し終えるとペトロに、沖の方に少し漕ぎ出して網を下ろすようお頼みになりました。夜通し漁をして疲れている漁の専門家ペトロは、昼の今時網を下ろしても何も取れず、無駄であるとは思いましたが、漁師でない先生の「お言葉ですから」と、いわば先生に対する好意と尊敬の証しとして網を降ろしたのだと思います。ギリシャ語原文では「私が網を降ろしましょう」となっていて、夜通し働き続けた「私たちが」ではありません。ペトロは、どうせ今日は魚がいないのだからと、仲間たちには協力を願わず、軽い気持ちで網を降ろしたのだと思います。ところが夥しい魚がかかって網が破れそうになったので、岸辺にいたもう一艘の舟の仲間たちに合図して助けてもらい、二艘の舟は沈みそうになる程、魚でいっぱいになりました。
    この大漁に驚き恐縮したペトロは、少し前には「ラビ(先生)」とお呼びした主の足元にひれ伏し、神に向かっての呼びかけ「キリエ(主よ)」とお呼びして、自分の罪深さを告白しました。心が自分の罪深さを直感して畏れにおびえる程、自分の舟に乗っておられる主の内に、全能の神の力、神の臨在を痛感したのだと思います。主はそれに答えて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話し、ペトロを新しい人生へとお召しになり、ペトロとその仲間たちは、全てを捨てて主に従いました。聖書学者の雨宮神父によると、ここで「人間をとる」と訳されている動詞は、形容詞「生きている」と動詞「捕る」との合成語で、捕まえて生かすという意味合いの言葉だそうです。それで、ある聖書学者は「人間を生け捕る」と邦訳したことがあるそうですが、「生け捕る」は捕虜にするという意味になりますので、適当でないと思います。しかしとにかく、ここでは食べるためや何かの利益を得るために捕らえるのではなく、その人々にもっと仕合わせな、新しい生き方をさせるために捕らえることを意味していると思います。この世で学んだ自分の考えやこの世の常識に従ってではなく、自分には理解し難い主のお言葉にも、素直に従って主に奉仕しようと努めることにより、新しい生きがいと神の大きな祝福とを見出すに到った使徒ペトロに倣って、私たちも、日常茶飯事の中に思わぬ形で出会うことの多い神の御旨やお導きに、すぐ素直に従うことを優先する神の僕・婢としての心構えを日ごろから磨き、大切にしていましょう。
    二千年前頃のファリサイ派は、神の啓示なされた律法を自力で熱心に研究し、その人間的理解を中心にして全てを判断し神に奉仕しようと、互いに競っていました。ルカ18章に読まれる主の譬え話によると、週に二回も断食する人もいたようです。神のために何かを為そうとするその熱心は大きかったと思いますが、しかし神が全く新しい働きを為そうとしておられるメシア時代・新約時代には、自分の聖書研究や人間社会の律法理解を中心とした信仰生活は、神の御旨中心ではないので、神による救いの御業の妨げになります。それで主は弟子たちに「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」とお命じになったのだと思います。使徒パウロはガラテヤ書3章に、律法は「私たちをキリストに導く養育係」であると説き、キリストがお出でになった信仰時代には、私たちはもう「その養育係の下にはいません」と明言しています。使徒がここで律法について書いている事を、現代の私たちは自分の聖書理解や、自分のカテキズム理解と言い換えて受け止めることもできると思います。旧約の律法もカテキズムも、私たちの心を各種の危険から守って、キリストの御声に従うようにするために与えられた恵みであり、宗教教育の手段であります。しかし、この信仰段階では私たち各人の自然理性が主導権を握っており、自力で理解したり決定したり神に祈ったりしています。
    ところで神からメシアや聖霊の恵みが豊かに派遣される新約時代には、神は私たちの心がいつまでもそのような理知的養育係の下に留まっていることをお望みにならず、神の新しい働きや聖霊の導きを正しく感知して、それに従う生き方へと進むことを求めておられます。そのためには、各人の心の奥に眠っている霊魂の預言者的信仰能力とあの世の神に対する従順心を目覚めさせ、人間主導の生き方に死んで神の御旨・主キリストの御声に従って生きようとする、神の僕・婢としての生き方に転向しなければなりません。新約時代に生きる私たちは皆、主も聖母も無数の聖人たちも生きてみせている、そのような神主導の福音的信仰生活を体得し、世に証しするよう神から強く求められているのです。私たちの修道生活も、何よりもそのような福音的信仰生活を実践し、その霊的喜びを世に示すためのもので、外的理知的な修道会則を自力で自主的に守り通し、その報酬を神に期待するような人間主導のファリサイ精神は神から厳しく罰せられると思います。

    神から全人類に派遣された救い主の御声を聞き分けてそれに従う羊たちは、仏教や他の宗教にもたくさんいると思います。主は善い羊飼いの譬え話の中で、「私にはまだこの囲いの中に入っていない羊たちもいる。私は彼らをも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いになる」などと話しておられるからです。第二ヴァチカン公会議の開催前から開催後まで、その下働きに参加する恵みに浴して来た私は、帰国後も公会議の精神に従って、1969年から2000年まで毎年、高野山や比叡山を始めとして数多くの諸宗教の本山や中心的施設を二泊三日で訪問し、多くの宗教者や有名人の話をじかに伺って来ましたが、主キリストは実際にそれら異教の信仰者たちの中で働いておられると証言できます。罪と誤謬の世であるこの世に人生を営んでいる間は、外的社会的な宗教思想は多様化して相互に大きく違っていても構いません。あの世に行けば、全ては神ご自身によって清められ高められて、完全なものに補足修正されるのですから。ただ大切なのは、私たちの奥底の心が目覚めて、神の僕・婢として主の御声を正しく聞き分け、日々その御声に従って行く従順心に生きているか否かだと思います。「信仰年」に当たり、自分の魂が果たして主の御声を正しく聞き分けているか否かを吟味してみましょう。また自分の理解や考えを第一にするこの世的「頭の信仰生活」ではなく、何よりも主の御声を正しく聞き分けて、それに従う「預言者的霊の信仰生活」を営んでいるか否かを吟味してみましょう。アブラハムもモーセも旧約時代の無数の預言者たちも、また新約時代の聖母マリアも主キリストも、皆あの世の神の御旨への従順を中心にして、信仰生活を営んでいました。明日の現実がどうなるかは知らなくても良いのです。聖ヨゼフも夜に突然夢の知らせを受けて、聖母と幼子イエスを急いでエジプトに連れて行き、その御命を守ったのでした。私たちも皆その伝統を受け継ぎ、自分の個人的人間的考えや欲求を全て無にして、神の僕・婢・器として生きる決心を主にお捧げしながら、本日のミサ聖祭をお捧げ致しましょう。それが、今のこの不安極まりない終末の時代に、神が私たちから求めておられる信仰の生き方だと思います。全能の神を明るい希望の眼で仰ぎ観ながら、全てを神に捧げて喜んで生き抜きましょう。