2016年5月29日日曜日

説教集C2013年:キリストの聖体 (三ケ日)



第1朗読 創世記 14章18~20節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 11章23~26節
福音朗読 ルカによる福音書 9章11b~17節

   本日はキリストの聖体の祭日、そして今週の金曜日はイエスの聖心の祭日ですので、本日は主の御聖体と聖心の崇敬を合わせて、ご一緒に考えて見ましょう。イエスの聖心に対する信心は、私たちが受洗した戦争直後の頃や1950年代の前半には、わが国でも欧米諸国でも盛んに行われていました。当時のカトリック教会では、五月を聖母月、六月をイエスの聖心の月として、どちらの月にもその信心が熱心に行われていました。その頃の世界に普及していた聖心の信心は、1673年にフランスで聖マルガリタ・マリア・アラコクに出現なされた主イエスがお示しになった形の信心でした。すなわち各個人や家族が家の中にイエスの聖心の御絵を飾り、毎朝決まった奉献の祈りを唱えること、そして人々の罪の償いの業を捧げること、度々聖体を拝領し、特に毎月の初金曜日に聖体を拝領して主の聖心を崇めることなどでした。しかし1950年代の中頃から、技術文明の急速な進歩と経済的奇跡で、一般の人々の生活が益々便利にまた豊かになり始めますと、このような信心業は世界中どこでも衰え始めました。当時のカトリック者たちのこの動向を心配なさった教皇ピオ12世は、19565月発行の回勅
”Haurietis aquas”を通して、教会の中世紀にまで遡る古い伝統である聖心の信心を新たな形で盛んにするよう、全教会に呼びかけました。これは神学的にも深く考えて書かれている回勅です。その後の教皇たちもこの路線でイエスの聖心の信心を勧めており、前の教皇ベネディクト16世も20065月、この回勅発布の50周年を記念してイエスの聖心の信心を広めるよう強く勧めておられます。
   ピオ12世以来の歴代教皇が勧めているこの聖心の信心は、聖マルガリタ・マリア・アラコク以来の聖心の信心業とは少し違っています。何か特定の信心業や信心形態を順守してイエスの聖心を崇めるのではなく、もっと深く主イエスの聖心に自分自身を完全に献げ、己を無にして主イエスの聖心に心の底から生かされて生きようと努める信心、と申してもよいと思います。主は一度「幼児のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)とお話しになりましたが、いとけない幼児のように、あるいは主の御声を正しく聞き分ける小羊のように、我なしの精神で徹底的に主の御声に聴き従おうと励む者の心には、主の聖心が喜んで現存し働いて下さいます。主イエスは、私たちにそのように生きる力と導きを与えるために、御聖体の秘跡を通して私たちの霊魂にお入り下さるのではないでしょうか。このことを堅く信仰し、全てを主に委ね、主に従って生きるよう心掛けましょう。これが、教皇たちが新たに勧めておられる信心だと思います。
   近年の教皇たちは皆、神中心主義でない現代文明の歪んだ価値観を無批判的に受け入れ、心の中まで知らないうちに人間中心の相対主義精神に汚染されている司祭や信者のことで、深刻に心配しておられたようです。豊かさ便利さを武器にして現代世界に広まっている相対主義的価値観を、「信仰に対する大いなる脅威」と呼んで、主の聖心に根ざし、そのような隠れた内的敵に抵抗するよう呼びかけておられます。復活なされた主イエスは、今も新約時代の預言者、大祭司、全宇宙の王として御聖体の内に現存し、私たちの心を介して今の世の変革のため働こうとしておられると信じます。御聖体を拝領する度毎にその主の聖心に私たち自身を全く献げ、生前主がなさっておられたように、いつも天の御父の御旨に心の眼を向けながら生活するよう努めましょう。そうすれば、主は小さな私たちをも道具としてお使いになりながら、多くの人を悩ましている現代世界の隠れた内的病を癒して下さると信じます。現代の私たちキリスト者は、その内的病と積極的に戦うために神から召され、今の時代に派遣されているのだと思います。
   本日の第二朗読の最後に読まれる、「あなた方は、このパンを食べこの杯から飲む毎に、主が来られる時まで主の死を告げ知らせるのです」という使徒パウロの言葉も、大切だと思います。「主の死を告げ知らせる」というのは、単に口先で「主が死んだ」などと、人々に語り伝えることを指しているのではありません。パンは主のお体を、ぶどう酒は主の御血を指していますが、その二つを分けて祭壇上に置き神への供え物にするということは、主が受難死によってこの世の命に死に、救いの恵みを人類の上に呼び下すいけにえ、神への供え物になっておられること、またいけにえとしてのお姿を天の御父に示しつつ、今も私たちの上に恵みと祝福を呼び下しておられることを示していると思います。そしてその主のお体と御血を拝領して、自分の血となし肉となす私たちは、主の御精神、主の御力に内面から生かされ、新たに神の愛に生きる恵みを受けるのであることをも、示していると思います。主はそのためにこそこの世に死んで、ご自身を私たちの糧や飲み物となされたのですから。
   「主の死を告げ知らせる」とは、主が今も御聖体のうちに現存し、数々の恵みを齎してくださっているという、隠れている霊的現実を私たちが深く自覚し、いつも信仰の内にその主と共に歩む生活を営むことにより、世の人々にその事実を実践的に証しすることを意味していると思います。私たちは御ミサの聖変化の直後に、いつも「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と唱えていますが、この言葉が口先だけの習慣的言葉にならないように気を付け、もっと御聖体の主に対する感謝と忠誠の心を込めて唱えるよう心掛けましょう。御聖体の祭日にあたり、何か一つこのような小さな決心を主にお献げして、主がこれまで以上に私たちの心の内に生きてくださるよう、照らしと導きの恵みを願いたいと思います。

2016年5月22日日曜日

説教集C2013年:2013年三位一体(三ケ日)



第1朗読 箴言 8章22~31節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節
福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節

   本日の第一朗読は神の知恵が語る言葉ですが、この知恵は何方を指しているのでしょうか。神の創造の御業に先だってあり、いつもその創造の御業に伴っておられることから察しますと、神の御独り子あるいは神の聖霊を指している、と考えてよいと思います。この箴言の言葉は詩的で、主なる神はまるで遊んでいる子供のように、全く自由に次々と天地万物を創造なされたように描かれています。神の知恵は、主なる神のこの御業についての話の最後に、「私は御許にあって巧みな者となり、日々主を楽しませる者となって絶えず主の御前で楽を奏し、主が創られたこの地上の人々と共に楽を奏して、人の子らと共に楽しむ」と語っています。「日々絶えず主の御前で楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」というこの生き方は、神に似せて創られた私たちも心掛けるべき、人間本来の生き方なのではないでしょうか。私たちも、神が創造なされたこの大自然界を眺めて神に讃美と感謝の歌を捧げつつ、楽しく喜んで生活しましょう。
   奈良の都を建設した万葉時代の人たちの心の表現である和歌には、「御民われ生けるしるしあり 天地の栄ゆる時に逢えらく思えば」という歌もあり、太平洋戦争が連戦連勝を続けていた小学六年生の春に、この和歌に節をつけた歌を教わった私は、戦後にカトリック信者になってからも、時々美しい日本の自然界を眺めながらこの歌を口ずさんでいます。小さな自分個人の苦楽よりも、神がお創りになったこの美しい天地万物の発展、その中での日本国の発展に心の眼を向けて喜び祝いつつ、その発展のために自分の人生を捧げようとしていた人たちが、奈良時代には多かったのではないでしょうか。この大宇宙を創造なされた三位一体の神も、そのような感謝と喜びに溢れている若々しい社会を、また生まれて間もない日本の国家を、喜びの御眼で眺めておられたと思われます。
   それに比べると、現代日本の社会では人々が高度に発達した科学文明のお蔭で、遥かに豊かにまた便利に生活していますが、そこでは驚くほど多くの人の心が孤独に苦しんでいるようです。毎日同じ家に住む家族であっても、相互に殆ど会話せず、各人ばらばらに自分なりの生活を孤独に営んでいるということが多いようです。相互に喧嘩もしないが、積極的に愛し合うこともなく、各人が夫々自分の好みや自分の考えのままに、家庭も社会も日々出会う自然界も、全て自分中心に利用しながら生活しているという、そんな個人主義・自由主義に生きている人たちの家庭や社会を、三位一体の神はどんな御眼で眺めておられることでしょうか。わが国では、今の人生に生きがいが感ぜられずに自死する人が、十数年前から毎年3万人以上も続いたことがあり、最近多少少なくなったようですが、それでも心の奥に自分の人生に感謝も喜びも感じられず、内的には全く孤独な個人主義の中に寂しく生きている人が多いようです。
   奈良時代のまだ貧しかった時代には、皆で助け合って希望の内に逞しく生きていた日本人が、現代文明の豊かさの中で、どうしてこれ程惨めな人間に成ってしまったのでしょうか。貧しさの中で皆で助け合って一緒に働く共同体精神が家庭でも社会でも消え失せ、個人主義・自由主義の利己的精神が社会のあらゆる分野に広まり、昔の人たちが大切にしていた共同体精神や心の教育をなし崩しに葬り去ったからだと思います。皆のため全体のために生きようとする、自己犠牲的無料奉仕の愛のない心、自分中心の「古いアダムの精神」がはびこっている心には、ずる賢い悪霊が働きかけて来ます。こうして神にも人にも信用できない絶望的孤独感の内に、人間相互の温かい心の交流も消え失せ、自分の命を絶つ人が増えて来たりしたのではないでしょうか。真に恐しいことだと思います。
   本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちは」「このキリストのお陰で」「神の栄光にあずかる希望を誇りにしており」「苦難をも誇りとしています」という、どんな苦労も苦難も厭わない、力強い希望と喜びの言葉を表明しています。聖書学者たちによると、新約聖書の中に23回登場する「誇り」という名詞は、ヤコブ書とヘブライ書にそれぞれ1回使われている以外は全てパウロの書簡に使われており、新約聖書に39回登場する「誇りとしている」という動詞も、ヤコブ書に2回使われている以外は全てパウロの書簡にだけ使われています。この頻度から察しますと、使徒パウロにとって復活なされた主キリストにおける「誇り」は、何か特別な意味を持っていたように思われます。彼は、神の働きやキリストの救う力にしっかりと根ざして生活し、日に幾度もそのことに思いを馳せながら、日々の労苦や苦難を多くの人の救いのため、主キリストの救いの御業に合わせて、天の御父に献げていたのではないでしょうか。こういう実践を数多く度重ねたので、キリストご自身の御命がその心の中に次第に力強く働き始め、やがて彼のいう嬉しい「誇り」の心情も、心の中に強く逞しく成長して、輝き始めたのだと思います。
   未曾有の過渡期である現代に生きる私たちも、刻々と移り行く現代世界の流れや、社会から提供される事物には少し距離を置いて、何よりもまず三位一体の神の共同体的愛の働きに日々幾度も心の眼を向け、その働きに根ざして生きるように心がけましょう。そして使徒パウロのように、自分の祈りや生活の全てを、主キリストの救いの御業に合わせて神に献げるよう努めましょう。そうすれば三位一体の神の愛が私たちの心の中でも次第に力強く働き始め、明るい感謝と喜びの心情と共に、神に愛され神に支えられているという誇りの心情も、私たちの心の中に芽生えて輝き始めると信じます。

2016年5月15日日曜日

説教集C2013年:2013年聖霊降臨(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 2章1~11節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節
福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節

   本日の第一朗読は、過越祭から五十日目の五旬祭に弟子たちが体験した出来事を伝えていますが、この出来事は、復活なされた主キリストの許に呼び集められた新しい神の民、新約時代の教会の根本的特徴を如実に示していると思います。御昇天直前の主から、聖霊によって洗礼を受けるまでエルサレムを離れないようにと命じられた弟子たちは皆、「婦人たちやイエスの母マリア、及びイエスの兄弟たちと共に、心を合わせてひたすら祈っていた。百二十人程の人たちが一つの群れとなっていた」と、使徒言行録に記されています。ここで「イエスの兄弟たち」とあるのは、使徒小ヤコブやイスカリオテでない使徒ユダたち、主イエスの従兄弟に当たる弟子たちを指していると思います。各人は主のお言葉に従い心を一つにして集まり、一緒に熱心に祈っていたのですが、それだけではまだ百パーセントの新約の教会になっておらず、そこに聖霊が下って各人の心を内部から生かす必要があったのだと思います。それが、聖霊による洗礼というものであると思います。使徒たちが、聖母や婦人たちを中心にして集まっていたように記されていることも、注目に値します。ペンテコステ前の神の民は、女性が主導権を持つ自由な家庭的性格を示していたのではないでしょうか。復活なされた主が、女性たちに先にそのお姿をお示しになり、使徒たちに告げるように命じておられることも、注目を引きます。男性は自分で現実を把握し理解することを重視し勝ちですが、女性は愛の心で新しい現実を受け止め、与えられた現実に従って行動しようとする素質を心により多く持っているからではないでしょうか。聖霊降臨前の家庭的教会においては、神は女性を介して信仰の群れをお導きになることが多かったのかも知れません。
   余談になりますが、私が大学一年の神学生であった時、あるドイツ人神父が聖霊降臨の説教の中で、当時のあるヨーロッパ人神学者のこんな見解を紹介したことがありました。聖霊降臨前のその家庭的教会の段階で、突然ペトロが立って、ユダが主を裏切って使徒職から離れ死んでしまったので、聖書に基づいて12という使徒の数を補充するため、私たちと行動を共にした人たちの中から誰か一人を主の復活の証人にしなければならないと呼びかけたこと、そしてヨゼフとマティアの二人を選んで、「全ての人の心を知りたもう主よ、この二人の内、あなたはどちらをお選びになったかをお示し下さい。ユダが捨てた使徒職の後を継がせるためです」と祈って二人に籤を引かせ、マティアを使徒に加えましたが、これは聖霊の導きに基づかない、人間側の聖書解釈に基ずく早まった決定だったのではないか、という見解でした。聖霊降臨前のペトロたちによって使徒に選ばれたマティアが、その後どれ程福音宣教の実績を挙げたのかは知られていませんが、その神学者によりますと、後に主イエスご自身によって使徒に召されたパウロを、ユダに代わってその裏切りを償い、他の使徒たち以上に大きな苦しみと働きを神に捧げる使徒となすことを、神はあらかじめ予定しておられたのではないかとのことでした。一つの注目に値する見解だと思います。主は聖霊によって洗礼を受けるのを待ちなさい、と弟子たちに命じられたのですから、聖霊降臨の後に、すなわち新約の教会が聖霊に生かされ導かれる新しい社会的共同体として誕生してから、神に祈り神によって決めて戴くべきであったと思います。私たちも、自分の人間的合理的な見解や聖書解釈を先にして、神や教会のために何か良いことをしようとするような早まった生き方に警戒し、何よりも祈りの内に聖霊の導きや働きを待つこと、そして心から聖霊に生かされて生きることに心掛けましょう。
   過越祭から七週間後のペンテコステは、出エジプト記23:1634:22によりますと、古くはイスラエルの民にとって畑に蒔いた産物の初物を刈り入れる祭り、小麦の初穂の収穫祭とされていました。しかし、エルサレムでは後に、シナイ山での律法の公布を記念する祝日、すなわちイスラエル民族が神の民となったことの記念日として、過越祭に次ぐ大きな祝日にされていました。それでキリスト時代には、この日にオリエント・地中海世界の各地から多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まり、神への忠誠心と民族の団結心とを新たに固めていました。天にお昇りになった主は、その十日程後のこのペンテコステの祭日を選んで、天から聖霊を豊かに派遣なされたのだと思います。本日のミサの三つの祈願文はいずれも天の御父に向けられていますから、聖霊降臨の祝日は聖霊だけの祝日と考えてはなりません。天からその聖霊を派遣なされた天の御父と主イエスの祝日でもあると思います。本日の福音に読まれる、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」という主イエスのお言葉も、聖霊降臨の祝日に当たって忘れてならないと思います。聖霊だけではなく、天から聖霊をお遣わしになった天の御父も復活の主ご自身も私たちの心を訪れ、聖霊とご一緒にお住み下さることに感謝する大祝日なのですから。
   本日の第一朗読によりますと、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し始めた」のです。それはもう、この世の人間が主導権を持つ人間的な活動や出来事ではありません。全世界に散在している全ての人を復活の主キリストの一つ体に呼び集めて、神の愛に生きる全く新しい神の民に創り上げようとする、神の霊による新しい創造であります。この新しい社会的教会においては主イエスから召された使徒たちが立ち上がり、「霊が語らせるままに」語り始めましたが、彼らはガリラヤ人たちの一つの言葉だけで話したのではありません。自然的人間的には彼ら自身もまだ知らない、いろいろな国の言葉で話し始めたのです。そしてオリエント・地中海世界のいろいろな国からエルサレムに来ていた多くの人たちが、それぞれ自分たちの国の言葉で、自分たちの文化的伝統の立場から使徒たちの語る「神の偉大な御業」、神の新しい救いの御業を理解できたのです。この福音宣教は、無学なガリラヤ出身の人たちが自力ではなし得ない大きな奇跡であったと思います。神の御業の証し人、宣教師として召された使徒たちは、神の僕・聖霊の生きる道具のようになり、自分たちの受けた神の霊の語らせるままに話せば良いのです。それが、新しく生まれた社会的教会、神の民の根本的特徴だと思います。家庭的教会とは違うこの社会的教会においては、男性が主キリストと聖霊の器・道具となって活躍する使命を持つというのが、神の御旨であると思います。
   現代のカトリック教会はこの一番大切な特徴を無視し、忘れ去っているのではないでしょうか。人間たちが自力でなす宣教活動をどれ程続けても、神が求めておられる豊かな実を結ぶことができません。そこでは、神の霊が自由に働けなくなっているからです。現代の教会がこの残念な現状に目覚め、ファリサイ的パン種に警戒しつつ、神の僕・婢として謙虚に神の霊に導かれ生かされて生きる初代教会の熱心を体得するに至るよう、本日のミサ聖祭の中で恵みを祈り求めましょう。本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体の業を絶つならば、あなた方は生きます」と説いています。私はこの「肉に従って生きる」や「体の業」という言葉を、可能な限り大きく広げて理解しています。大きな善意からではあっても、自分の人間的主導権を第一にして、神のため何か良いことをしようと励むファリサイ的信仰生活も、パウロの言う「肉に従って生きる」こと、「体の業」なのではないでしょうか。そんな古いアダムの精神、古いアダムの生き方には、「聖霊による洗礼」によって一旦完全に死に、天の神への従順中心の主キリストの精神、我なしの僕の精神に徹底して生きるよう心掛けましょう。しかし、このように心掛ければ、全能の神の働きによって万事が問題なく順調に行くと思ってはなりません。むしろ主イエスご自身や使徒パウロが度々体験したように、様々な不運や誤解、失敗や迫害などを体験するかも知れません。でも、その時神の霊が私たちの心の中でも自由にのびのびと働いて下さいます。そして後になって見ると、自分が耐え忍んだこの苦しみを介して、神ご自身が豊かな実を結ばせて下さったことを見出すに至ると思います。本日私たちのこの献げの決心と神への信頼とを、復活の主キリストがお献げになるこのミサ聖祭のいけにえに合わせて、天の父なる神に献げましょう。聖霊も私たちの心の中で、私たちの全てを天の御父に一緒に献げて下さると信じます。