tag:blogger.com,1999:blog-24793101541781480542024-02-08T21:02:51.758+09:00青山玄神父の説教この説教は、3年前の待降節に浜松市三ケ日の聖ベルナルド会海の星修道院でなしたものです。カトリックの伝統を大切にしている司祭がどのような考えや信仰心をもって生活しているかについて、多少なりとも関心をお持ちの方のご参考までにと思い、カトリック者でないある知人からの勧めに従って、毎週その日曜日にカトリック教会で朗読される聖書についての話を公刊することにしてみました。青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.comBlogger484125tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-11756182910710396022016-11-20T16:21:00.000+09:002017-01-22T16:22:11.594+09:00説教集C2013年:2013年王たるキリストの祝日<span style="color: red;">・ 第1朗読:サムエル記:(サムエル下5・1-3)<br />・ 第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・12-20)<br />・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ23・35-43)</span><span style="color: red;"><span style="background-color: white; font-family: ゴシック; font-size: x-small;"><br /></span></span>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">典礼暦年の最後の日曜日を教会は「王であるキリスト」の祭日としています。聖書の思想では、王または王朝というものは神の御摂理によって神の側から選ばれ立てられる者、世の終わりになってメシアが全被造物を支配する時が来るまでの間、神の王権を代行する者であります。ところが、神の王権を代行するそういう王は第一次世界大戦後のヨーロッパではいなくなってしまいました。それで神はカトリック教会に「王たるキリスト」の祝日を制定させて、これからは目に見えないながらも世の終わりまで実際に私たちの間に現存しておられる復活の主キリストを、私たちの魂の王、全人類の霊的王として崇め、神の支配に対する私たちの従順と忠実の精神を磨くように導かれたのだと思います。天使は聖母マリアに「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その名をイエズスとつけなさい。彼は偉大な者となり、いと高き御者の子と呼ばれます。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになり、彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続くでしょう」と告げました。神からのこのお言葉が、カトリック教会によるこの祝日の制定により、全世界で記念され感謝されるようになったと申してよいと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読はダビデが全イスラエルの王として就任する話ですが、ダビデはこの時に神の民から王として選出されたのではありません。既に羊の群れを世話していた子供であった時に神によって選ばれ、預言者サムエルに注油されて、神の御前のでは王とされていたのです。しかし、同じく神から選出されて王位についていたサウル王が在任中は王位につかず、戦士となって活躍していました。そしてサウル王の死後にヘブロンで王位についたのです。それで本日の朗読個所では、「イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ」とあります。この時から、ヘブロン周辺に住んでいたユダ族だけではなく、イスラエルの全部族がダビデ王の支配下に入り、その保護と指導の下にエルサレムを首都とする強い王国を建設し始めたのです。長老たちがダビデ王の下に来て王に注油したのは、自分たちの王として推戴するという儀式であったと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">同様に、神の御子イエスは既にこの世にお出でになった時から神によって王とされていました。ですから星によってその誕生を知った東方の博士たちはエルサレムに来て、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにおられますか」という、奇妙な質問をしています。神によって立てられた生まれながらの王を拝みに来たのですから。人間達によって公的社会的に選出された王ではなく、神によって立てられたその永遠に支配なさる王の許に来て、その方を王として推戴する人達はその支配下に入り、そのご保護と指導の下に新しい霊的王国、神の国の建設にたずさわりますが、そうでない人たちは、やがて神によって徹底的に滅ぼされてしまうこの世の世界と運命を共にすることでしょう。本日、「王であるキリスト」の大祝日は、神から派遣された神の御独り子であられる主を私たちの王として推戴し、その王に対する従順の誓いを新たにして、王のご保護と指導の下に新たに生き始める日であると思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読は、使徒パウロが今のトルコ半島の中央山岳部西南にあった町コロサイの信徒団に送った書簡からの引用であります。当時のコロサイでは、あの世にいる様々の霊に対する怖れや崇敬が盛んであったようです。ちょうど昔の日本人が山の神や田の神、あるいは竈の神や火の神を畏れ敬っていたのに近いのかも知れません。パウロはそれに対し本日の朗読の中で、天と地の見えるもの見えないものの全てをお創りになった神の御子こそ、私たちの畏れ敬うべき「第一のもの」であることを強調しています。あの世にいる諸々の霊たちも、全てその神の支配下にあるのですから。しかし、パウロのこの言葉によって、あの世の世界に属する八百万の小さな神々を、全て悪魔的なものとして排斥する必要はありません。私は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1990</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年前後頃に、京都の国際日本文化研究センターの共同研究員として選ばれ、その創立期</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">5</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年間を、毎年</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">4</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">回文部省から支給された出張費で京都に二泊三日の旅行をなし、内外の優れた学者たちと実りの多い討議や談話を交わしていました。そして初代センター長の梅原猛さんや三重県出身の安田喜憲さんたちが提唱した「新しいアニミズム」に、私はカトリックの立場から賛同していました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">18</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀に西洋の理知的な啓蒙主義者たちが最低の宗教信仰として、多少軽蔑の意味を込めて言い出した「アニミズム」は、万物の働きの背後に神霊を認めてそれを神々と崇敬し、その保護を受けようとする信仰と言って良いかと思いますが、私はその神霊を、私の信奉する神の聖霊の働きや呼びかけの声と読み替えて、その声の背後に臨在しておられる神に対する信仰と畏れの念とを大切にし、私たちが日々接している平凡な森羅万象の背後に神からの呼びかけを聴き分け、その声に従うように心がけています。それでこの立場から、梅原さんたちの言う「新しいアニミズム」を受け止め賛同したのです。私は、生きとし生ける全てのものの背後に臨在してその存在を支えておられる神が、畏敬の心でどんな小さな物をも大切にする私の小さな心がけに、豊かに報いて下さるのを幾度も体験していましたから。このように申しますと、そんなら煩い蚊も蠅も殺すことができなくなるではないか、などと心配する人がいるかも知れません。私は神学生の時からドイツ人宣教師に倣って、生活の邪魔になるものや家の美観を損なうような生き物は、「お命頂戴するよ。ありがと」などと言いながら遠慮なく殺して、その命を頂戴しています。それは神の摂理が諸々の食べ物と同様に私の命を強め、私がそれらの生き物の分までも、神を讃えるために与えて下さった命であると考えるからです。私は「作品は作者を表す」という言葉を神にも援用し、命の源であられる神のお創りになった物は、太陽も月も星たちも全てある意味で皆生き物であり、いずれ老化と死を迎えるに至る存在と考えています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音は主と一緒に十字架にかけられた二人の犯罪人について述べていますが、その一人が主を罵って「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったのに対して、もう一人はその言葉をたしなめ、「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だが、この方は何も悪いことをしていない」と主を弁護し、「イエスよ、あなたの御國においでになる時には、私を思い出して下さい」と願いました。すると主は、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」とお答えになったとあります。今自分の受けているこの恐ろしい十字架の苦しみを、神から与えられた自分の罪の償いとして受け止め、多くの病人を癒して神の預言者・メシアと仰がれていた主が、自分たちよりももっと酷い苦しみや、大祭司たちからの悪口を静かに耐え忍んでおられるお姿に感動し、死後の命を信じていたこの犯罪人は、主の憐れみを願い求めたのだと思います。そして主は、神に向かって大きく開いたその信仰心をお喜びになり、御功徳で楽園を約束なさったのだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑦<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">私たちも神に向かって大きく開いた心で、アブラハムのように神と親しく語り合いながら、日々の生活を営むように心掛けましょう。神はそれを何よりもお喜びになります。主は「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」と話されました。ファリサイ派は全ての律法をできるだけ忠実に守り、社会道徳に背く罪は何一つ犯さない、人間的社会的には尊敬に値する人たちで、その生き方に誇りを感じていました。しかしその心は、律法という神の民の伝統的規則とこの世の人々にだけ向けられていて、神をこの世から遠く離れたあの世に鎮座しておられる存在と考えていました。従って、アブラハムのような信仰には生きていませんでした。ですから自分を神として振る舞われる主の言行に躓き、それを赦し難い冒涜と受け止めたのです。その主はあの世の命に復活して、今はあの世から永遠に全人類を霊的に支配する王として、日々私たちのすぐ近くに現存し、私たちの全てを観ておられます。私たちの修道会則も何も、全てはその主と共に生きるためのものです。神の一番嫌っておられる自分中心・人間中心の「古いアダム」の罪、心の奥底に宿るそのファリサイ派のパン種による罪と戦いつつ、幼子のように素直な従う心で神の御旨中心に生きるよう心がけましょう。これが、昨年から今日までの「信仰年」の一番貴重な実りであり、神にも喜ばれると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<br /></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-86277114537380067302016-11-13T00:00:00.000+09:002016-11-13T00:00:14.547+09:00説教集C2013年:2013年間第33主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal" style="line-height: 50%;">
<span style="color: red;">第1朗読 マラキ書 3章19~20a節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="line-height: 50%;">
<span style="color: red;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="line-height: 50%;">
<span style="color: red;">第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 3章7~12節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="line-height: 50%;">
<span style="color: red;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="line-height: 50%;">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 21章5~19節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="line-height: 50%;">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="line-height: 50%;">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">真夏日の長く続いた今年の秋は短くて、もう落ち葉の目立つ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になってしまいました。本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書で、使徒パウロはまず、この世の終わりに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きと、その再臨の前に現れ出る徴などについて語っています。そしてその後で、テサロニケの信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて勧めています。その話の一つが、本日の第二朗読であります。使徒はそこで、「働きたくない者は、食べてはならない」などと、神の教えをファリサイ派律法学者たちのように頭だけで理解し、宗教的規則順守にだけ努めようとはせずに、むしろ体を使って働き、誰にもなるべく迷惑をかけずに喜ばれる生き方を体得するように、と勧めています。この勧めは、私たちも忘れてはならないと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">余談になりますが、禅宗と呼ばれている禅仏教は、インドから渡来した達磨大師によって六世紀に中国で成立したと聞きます。仏教は文字通り仏の教えですが、文字で書き残された仏の教えをどれ程研究しても、文字で表現されたその経典には限界や不完全があって、経典の研究だけでは仏の悟りを自分のものにすることができません。そこで、仏の心を直接体験的に学び取ろうとしたのが禅宗だそうで、始めのうちは「仏心宗」と呼ばれていたそうです。それは、何よりも仏の心を座禅や実生活の中で、仏と一心同体になって生きる実践を通して学び取ろうとする生き方を指しているのだそうです。仏が座っているいる姿が座禅で、仏者は禅堂で座って仏と一心同体になろうとしますが、しかしそれだけではなく、行住坐臥の全てを仏と一つになって生きようとするのが、本来の「仏心宗」・禅宗の趣旨だそうです。キリスト教も、日常生活を内的に復活の主キリストと一致して営むところに実現するのではないでしょうか。私たちも聖書についての理知的ファリサイ的研究によってではなく、禅僧たちのように日々の平凡な実生活の中で、実践的に主の導きや働きを心で体得するように努めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音に読まれる、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王により見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの高価な奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった予言「一つの石も石の上に残ることがない日が来る」というお言葉は、それから</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">40</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年後の紀元</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">70</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に実際に実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、強い火をかけられると燃え崩れる石であります。アウグストゥス皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易賞商が立派になった神殿を訪れたりしていて、町は経済的に豊かに発展しつつありましたが、ユダヤ人がローマ皇帝の支配に敵対して立ち上がったら、徹底的廃墟とされてしまいました。美しい大理石で固められていた神殿も、火をかけられたら燃え上がり、主が予言なされたように「一つの石も石の上に残らない」程に崩れてしまいました。かつてなかった程便利にむまた豊かに発展しつつあるこの現代世界も、人々の心が人間としての尊厳を失わせる内的堕落の道を歩むなら、いつの日か同じ神によって恐ろしく悲惨な崩壊へと落とされることでしょう。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終わりについても予言しておられるからです。同じルカ福音の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">17</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章に、主は人の子が再臨する直前に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が人間社会の豊かさと繁栄の最中に、突然襲来することを予告しておられます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という弟子たちの質問に、主は本日の福音の中で、三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってはならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終わりはすぐには来ないことであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れるむことです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、即ち恐らく起こり始めている時に、信仰に生きる人たちに対して迫害がなされることであります。主は「親・兄弟・友人にまで裏切られる」と話されましたが、現代のように家族共同体が崩れ、人生観も価値観も極度に多様化して来ますと、このような現象は既に世界の各地に起こり始めているのではないでしょうか。内戦で揺らぐシリアのある村人は、上からの指令で同じ村の知人を殺してしまうと、もう殺し合いが現実となって何が正義か判らなくなってしまう、と告白しています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ところで、主がここで話しておられる徴は、一時的部分的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終わりが近いと結論することは出来ません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では一応終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中で大規模に発生し、天空に何かこれ迄になかったような現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終わりがいよいよ間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神の与えられる導きだけに心の眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けて下さる新しい命を勝ち取るように努めましょう。それは、ある意味でこの世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい栄光の世界への門であり、新しい永遠の命への誕生なのですから、「恐れてはなからない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の大災害と苦難を神の御手から感謝して受け取るように心がけましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-58251414753653107272016-11-06T00:00:00.000+09:002016-11-06T00:00:35.575+09:00説教集C2013年:2013年間第32主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 マカバイ記二 7章1~2、9~14節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 2章16~3章5節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;"><span lang="EN-US" style="font-size: 18.6667px;"></span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 20章27~38節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<u><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><br /></span></u></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は、ユダヤがシリアのセレウコス王朝の支配下にあった紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀の中頃に、シリア王アンティオコス四世が、国民の団結を宗教によって固めるため、ユダヤ人にもギリシャ人の神々を拝ませようとして生じた迫害と殉教について述べています。国家権力によるこのような宗教迫害は、歴史上度々発生していましたが、最近のグローバル時代にはごく限られた地域で一時的に発生するだけで、迫害される民衆の実情や要求もマスコミによって国際的に明らかにされ、迫害する国家権力に対しては強力な諸外国がすぐに反発するので、国家による残酷な人民迫害はもう定着できない、と申してよいと思います。しかし、国家権力だけではなく、大小全ての共同体の指導力が、極度の自由主義やマスコミなどによって弱体化して来ている現代には、いじめや詐欺など民間の私的な迫害や搾取などが激増しているのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">30</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年程前の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1980</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年代の前半からわが国では各地で「いのちの電話」協会が次々と設立されて、増え続けていた、自殺を考えて煩悶する人たちの悩みに伴うことに努めていますが、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1997</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年から</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">14</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年間は全国で、毎年</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">万人以上も自殺しています。幸いその数値は昨年</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">万人を下回りましたが、しかし、「いのちの電話」協会への電話相談の数は増え続けており、その原因の大半が家族問題や対人問題ではなく、自分の人生に生き甲斐が感じられず、夜も眠れないなどの個人的精神問題のようです。察するに、その人たちの心の悩みを解消するには理知的な人生観は無力で、何よりも神秘な神の働きや助けを実際に体験させることが、その人の奥底の心を目覚めさせ、新しい生き甲斐を見出させるのではないでしょうか。私は二十世紀の末期から急増しているこれらの多くの人の心の絶望現象の背後には、聖書に世の終わりに多くなるとされている反キリストや小さな悪霊たちが策動しているのではないかと考えています。如何なものでしょうか。その悪霊たちは、密かに私たちの心の中にまでも入り込むことができます。自分の心の動きにも警戒し、幼子の素直な心でひたすら神の御旨に従って生きようと心がけましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読は、使徒パウロがコリントからテサロニケの信徒団に書き送った第二の書簡であります。第一の書簡の中でパウロはテサロニケ信徒団の信仰心を高く評価していますが、この第二書簡では、迫害を受けながらもその苦しみに耐えて信仰を堅持しているテサロニケの信徒団に感謝と喜びを表明しつつ、まず主キリストの再臨と神の審判について語っています。続く書簡の後半部分で、神による選びを感謝し、神が信仰に生きるテサロニケの信徒たちの心を励まし強めて下さるようにと祈り、宣教する自分たちも悪者たちから護られるよう祈って欲しいと願っています。そして最後に宣教する自分たちの模範に見習って、正当な教えに従わない兄弟たちを遠ざけ、交際しないようにと警告しています。本日の朗読個所は、書簡のこの後半部分からの引用であります。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">そこに読まれる「全ての人に信仰がある訳ではないのです」の言葉は、世界中の様々な思想がマスコミによって紹介されたり宣伝されたりしている、現代社会に生活する私たちにとっても大切だと思います。現代人が生活を便利に楽しくするために次々と産み出す利己的快楽主義的発想を、マスコミを介してそのまま鵜呑みにして心の中に入れていますと、全てを自分中心・人間中心に考えて評価したり行動したりする「古いアダム」の精神が、知らない内に心全体を支配するようになって来ます。そして私たちの日常生活に密かに伴って時折そっと呼びかけて下さる神の御声を聞き取れなくして行きます。気を付けましょう。信仰の恵みに浴し洗礼を受けた私たちは、洗礼のとき神に約束したように、自分中心・人間中心の「古いアダム」の精神に死んで、神の御旨中心の主キリストの精神で生活するよう召されています。主キリストの精神で生きるには、心の中まで世俗化するこの世中心の精神や価値観などを、主キリストの価値観で絶えず浄化する戦いが必要です。主キリストと一致しその力によってこの戦いに勝ち抜いた人が、あの世で神から勝利の栄冠を受けるのであり、そこに私たちの受けた命の本当の意義も喜びもあるのです。信仰年の終わりを間近にして、このことを改めて心で深く悟り、確信するよう神に恵みを願いましょう。使徒パウロも本日の朗読の中で、「どうか主が、あなた方に神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせて下さるように」と祈っています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音は、私たち人間が神から受けた命の賜物についても教えていると思います。ルカ福音書にサドカイ派が登場するのはこの個所だけですが、ユダヤ教の大祭司を中心とするこの一派は、ヘロデ大王によってエルサレム神殿が大理石で大きく美しく増改築されたり、ローマ帝国の支配下で平和が国際的に長く継続し、商工業も国際的に大きく発展したりすると、世界各地から大勢の巡礼者や国際貿易商たちが神殿に来て祈り、多額の寄付をするようになったので、神殿のその上がりを殆ど独占して豊かになっていました。それでキリスト時代には、富裕な貴族たちのような生活を営んでいたと思われます。武力を殆ど持たない彼らは、その豊かな収入と生活を継続するため、強大な武力と国際的なローマ法で社会を平和にまた豊かに発展させてくれているローマの権力との繋がりを重視していましたが、この豊かさと世俗との関わりの中で、彼らの心は次第に神から離れ、急速に世俗化して行ったのではないでしょうか。モーセ五書だけを聖書の正典としてそれ以外のものを聖書と認めていないサドカイ派は、神も宗教も全てをこの世での生活中心に考え、本日の福音にもあるように、旧約聖書の預言書や文学書などにそれとなく語られている人間の復活、あの世での復活はないと信じていました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">彼らが、復活はあると主張するファリサイ派の学者たちを困らせるために持ち出していたのが、本日の福音に登場するモーセの定めた「レビラト婚」の規定でした。これは申命記</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">25</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章に述べられている規則で、先祖の家名をメシア時代にまで存続させ、土地財産が人手に渡るのを防ぐ目的で定められたようです。しかし、この世のこの規定をあの世で復活した人たちにまで広げると、この世で数人の男たちの妻となった女は復活の時誰の妻になるのか、という不合理が生じて来ます。あの世に行ったことのないファリサイ派の律法学士たちは、サドカイ派の持ち出すこの不合理に答えることができずにいました。それで主イエスにもこの問題を突き付けて困らせようと思ったようで、サドカイ派の数人が近づいて来て、主を「ラビ」と呼んで尋ねました。あの世からお出でになった主はそれに対してすぐに、この世の子らは結婚するが、あの世に復活する人たちは結婚せず、死ぬこともない。皆天使たちのようになる。神の子とされるのだからとお答えになり、ついでに、サドカイ派が聖書として大切にしている出エジプト記のモーセの話の中にも、この世の死者があの世に復活することが暗示されていること示すために、モーセが主を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいる、と聖書の言葉を引用なさいました。私はローマにいた時、このように呼んでいることがどうして復活の証しになるのか、と知人の聖書学者に質問したことがありましたが、ヘブライ語ではこのような場合、「アブラハムの神である主」という風に、現在形の「である」という動詞が省かれていると理解され、遠の昔に死んだ太祖たちが、あの世では今も主を神として生きているという意味になるのだそうです。主のこのお言葉は、そこにいた人々皆にそのように理解されたようで、本日の朗読では省かれていますが、ルカ福音書ではすぐに続けて、「律法学者のある者たちが口を開いて、『先生、立派なお答えです』と言った。彼らはもはや、あえて何も尋ねようとはしなかった」とあります。主がサドカイ派の人たちに最後におっしゃった「神は死んだ者の神ではなく、全ての人は神によって生きている」というお言葉も、忘れてならないと思います。私たちはあの世に移ってからだけではなく、この世においても自分の力によってではなく、根本的に絶えず神の力によって存在し、神の力によって生かされている存在だと思います。この真理をしっかりと心に銘記し、神から自分に与えられた命を大切にしながら、感謝と愛の精神で、神の御期待に少しでもよく応えるように心掛けましょう</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-73196339344614215402016-10-30T00:00:00.000+09:002016-11-05T20:59:22.072+09:00説教集C2013年:2013年間第31主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 知恵の書 11章22~12章2節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 1章11~2章2節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 19章1~10節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><u><br /></u></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の第一朗読には、全宇宙の創り主であられる神に対して「あなたは全ての人を憐れみ、改心させようとして人々の罪を見過ごされる」という言葉が読まれ、続いて「あなたは存在するもの全てを愛し、お創りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるなら、創られなかったはずだ」だの、「命を愛される主よ、全てはあなたのもの、あなたは全てをいとおしまれる。あなたの不滅の霊が全てのものの中にある」だの、更に「主よ、あなたは罪に陥る者を少しづつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨てて、あなたを信じるようになるために」などの言葉が読まれます。いずれも万物を創造なされた全能の神の、存在する全ての被造物、全ての人に対する限度なしの大きな愛を、目的論の立場から断言している、貴重な聖書の言葉だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">今年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">20</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">日「世界宣教の日」の教皇フランシスコのメッセージの日本語訳全文が、先週のカトリック新聞に載っていましたので、皆様も既にご存知のことですが、その中で教皇が、「神は私たちの命をもっと意味深く、良く、美しくするために、自らの命を分け与えることを望んでおられます。神は私たちを愛しておられるのです」「一人ひとりがそれに応え、私たち自身を神に委ねる勇気が必要です。信仰はわずかな人々のためではなく、惜しみなく与えられている贈り物なのです。全ての人が、神に愛されるという喜び、救いの喜びを経験できるはずです。それは決して独り占めすねものではなく、ともに分かち合うものなのです。云々」と、全ての人を愛し、全ての人にご自身の命を分け与え、強く、美しく、幸せになってもらおうと切望しておられる神の強い強い愛の観点から、私たちキリスト者の宣教活動の必要性を説き起こしておられることは、注目に値します。宣教は「キリスト者の生活において二次的なものではなく、本質的なものなのです。即ち私たちは皆、兄弟姉妹と世の道を歩み、キリストに対する私たちの信仰を証しし、宣言し、キリストの福音の使者となるよう招かれているのです。云々」と全てのキリスト者に、自分の置かれている生活の場で福音の使者となって働く使命があることが強調されていることも、大切だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">同じ思想は、私がローマに留学していた時に、第二ヴァチカン公会議の議場でも強調されていました。しかし、ここで言われている「宣教活動」を、口や文筆で福音の真理を述べ伝えることなどと、短絡的に受け止めないよう気をつけましょう。そのようなチャンスは神の摂理によってごく少数の人に、しかも限られた機会に与えられているだけで、特に観想修道会の修道女たちには神のお望みにならない宣教活動であると思います。私は頻繁に外出して福音を知らない無数の人たちに出遭いますが、誰彼と区別無く福音を語ろうとはしていません。これまでに臨終洗礼を含めると百人以上の人に洗礼を授けていますが、日頃出遭う人たちには黙々と祈りの宣教を為しているだけで、口を使っての宣教は殆どしていません。どこの家に入っても、どのバスや電車に乗っても、主がお弟子たちを宣教に派遣なされた時のお言葉に従って、そこに「平和があるように」と祈っています。すると恵みの時に聖霊が働いて、まだ外的成果は少ないですが、その地方に神に従う人たちが増えつつあるように感じています。神は私たちから、まずはこのような祈りの宣教をお求めなのできはないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の第二朗読の終りには「主の日が既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい」という言葉が読まれます。使徒パウロがこのすぐ後に書いている話によると、まず初めに神への反逆が起こり、神の掟に逆らう「滅びの子」が現れて、自分を神として神の聖所に座を占めるに至るそうです。神の掟に逆らうその力は既に活動していますが、その活動を引き止めている者が退く時に表に現れ、サタンの力によって様々の徴や不思議な現象を為し、多くの人を悪へと誘い込むようです。主キリストが再臨なさる世の終わり前のそのような出来事は、遠からず発生するかも知れませんが、動揺しないように気をつけましょう。多くの預言を的確に実現させていた聖ヨハネ・ボスコは、世の終わり前にローマ教皇がヴァチカン宮殿を去る予言的幻を見ています。現代世界経済の動きの中では、そのような事態が実際に近い将来に発生するかも知れません。驚いてはいけません。神の愛と憐れみに信頼して生き抜くように努めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 36.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、雇い主のローマ総督側から既定の税金に少し輪をかけて住民から徴収し、こうして蓄積した税収の中から不作や天災の年にも、毎年既定額の税金をローマ側に納入するよう決められていたので、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働くユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな桑葉無花果の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。ギリシャ語を直訳しますと、「私は今日あなたの家に泊まらなければならない」とおっしったようです。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を自宅に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。聖書のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。本日の第一朗読に述べられているように、全能の神はお創りになった全ての人を愛し憐れみ、その罪を見過ごして回心させようと心掛けておられる方なのですから。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-59049166685153141242016-10-23T00:00:00.000+09:002016-10-23T00:00:28.086+09:00説教集C2013年:2013年間第30主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 シラ書 35章15b~17節、20~22a</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 18章9~14節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><u><br /></u></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は、紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀頃に書かれたシラ書からの引用ですが、そこでは神を畏れることに始まる生き方が勧められています。自分がどれ程弱い貧しい人間であっても、また自分の歩んで来た人生がどれ程怠りと失敗の連続であったように見えても、主に信頼し、主に助けを願い求める心があるならば、心配しないよう心がけましょう。第一朗読にもあるように、全てをお裁きになる主は誰に対しても<u>えこひいき</u>を為さらず、貧しい者、虐げられている者、孤児、寡婦たちの願いに特別に御心を留めて下さる方ですから。神の御旨に従って主に仕えている、そういう弱い人や謙虚な人の祈りは、「雲を突き抜けて主の御許に届く」とまで述べられています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">察するにこれらの言葉は、神を身近な存在と信じてその働きを実感している著者の、数多くの体験に基づいて語られているのではないでしょうか。実は、私の過去数十年間の体験を振り返ってみましても、また私がこれまでに見聞きした多くの実例を思い出してみましても、やはり同様に断言してよいように思います。日々小さな事で度々神に対する忠実に背く、信仰心も意志力も弱い子供のような私ですが、長年にわたる自分の人生体験を回顧しますと、神は実際に私の全ての言動を見ておられ、遅かれ早かれその全てにそれぞれ裁きや報いを与えておられると確信しています。目に見えなくてもいつも私たちに伴っておられるその父なる神の御前では、私たちは幼子のように素直に神の愛に甘えながら、神と共に生活していて良いと思います。これは、私が洗礼を受けて間もない小神学生の頃に小さき聖テレジアの自叙伝から学んだ生き方ですが、年老いても少しも変えておらず、このまま幼子の心で、最後まで神の御旨に従おうと努めつつ生きようと思っています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">余談になりますが、今年一月の毎日新聞で、三月末頃にパンスターズ彗星が、十一月末頃にアイソン彗星が観測されるが、いずれもこれまでに来たことのない、一昨年と昨年に発見された彗星であり、特にアイソン彗星は史上最も明るい大彗星になる可能性が取りざたされている、という情報を知った時、私はすぐに、この二つの彗星が大災害の接近を予告する神からの使者ではないかと思いました。それは二十数年前頃に出現なされた聖母マリアからメッセージを受けた人たちの一部が、そのような星の出現を予告していたからです。果たして今年の春頃からは、世界各地でこれまでにない程頻繁に大災害が発生し、アメリカやオーストラリアでは幾度も大規模な森林火災が発生したり、その他竜巻や風水害、異常気象や熱中症、中国における空気の汚染などが数多く報じられています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">IC</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">機器に侵入する新しい犯罪や老人を狙った詐欺事件なども、相変わらず多発しているようです。信仰年の終り頃にアイソン彗星が出現した後には、人類世界を脅かす災害や犯罪は、もっと酷くなるのではないでしょうか。地球温暖化の影響も深刻になることでしょう。しかし恐れずに、幼子の心で神と共に生きる信仰にしっかりと掴まっていましょう。全能の神が私たちを助け導いて下さいます。そして弱い私たちの信仰心はますます深く神に根ざして成長するようになります。神は私たちの信仰心を苦しみによって逞しく成長させるために、災害や各種の苦難をお許しになるのだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読は、「私自身は既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」という言葉で始まっていますが、最後に「私は獅子の口から救われました。主は私を全ての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い上げて下さいます」とある言葉から察しますと、使徒パウロのこの最後の手紙は、ネロ皇帝によってローマ市内にいたキリスト者たちが次々と投獄され鎖に繋がれた時に、その獄中で認められたのではないかと思われます。使徒パウロはこの手紙の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章に、「私はこの福音のために、犯罪者のように鎖に繋がれて苦しみを受けています。しかし、神の言葉は繋がれていません」と書いていますが、紀元</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">64</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年のローマ放火の責任をキリスト者に転嫁したネロ皇帝による三年間に及ぶ迫害は、ローマ大火の時にローマ市内にいたキリスト者たちだけになされた迫害で、ローマ市外ではなされていません。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">それでその迫害の初期、ローマ司教であった使徒ペトロは、側近の信者たちからの強い勧めに促されて、一時的に市外に難を避け、迫害の終わるのを待とうとしたことがありました。しかし、城門を出てアッピア街道を二百メートル程進んだ所で、主キリストが十字架を背負ってローマ市に行くお姿の幻を見、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">Quo vadis Domine ?(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">主よ、どこに行かれるのですか</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">と尋ねたら、「お前が去るなら、私が行く」というお言葉を聞いて、ペトロはローマに戻り、後で殉教しました。しかし、その獄中の生活は長引き、鎖には繋がれていても訪問者とは自由に接触できましたので、ペトロもそこでネロ皇帝がギリシャを訪れる直前頃に、東方各地の諸教会に当ててその第一書簡を書いています。その書簡の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">4</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章や</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">5</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章にも「火のような試練を」「キリストの名のために」受けるという言葉や、「悪魔が吼えたける獅子のように、誰かを探し回っている」など、ネロ皇帝の迫害と深く関係している表現が読まれます。ペトロの第一書簡は、パウロの書簡とは違って一つの教会、一つの信徒共同体向けに書かれたものではなく、その冒頭の挨拶にあるように、ポントス、ガラティア、カパドキア、アジア、ヒチニアなど、現代のトルコ半島全域の数多くの教会に宛てて書かれた書簡です。当時既にこれらの地方ではキリスト教に改宗する人が多くなり、彼らが神々の像が飾られた広場での異教徒たちとの住民集会などに出席しないので、これが社会問題になりつつある地域もあり、事によるとネロ皇帝がこれらの地方でのキリスト者迫害を命令するかも知れない、と迫害下のローマの信徒たちは恐れ、使徒ペトロが書簡を送ったのではないでしょうか。ギリシャのオリンピックを観覧して大歓迎を受けたネロ皇帝は、四頭馬車の競技に優勝させてもらって月桂冠を受けたからか、上機嫌でローマに戻り、危惧されていたキリスト者迫害などは起こりませんでした。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ネロ皇帝は獄に繋いだ数百人のキリスト者をすぐに全員処刑するのではなく、自分の造ったヴァチカン競技場で遊びが行われる度毎に、その一部の人たちを高い柱の上に縛り付けて火をつけたり、ライオンの餌食にしたりして残酷な遊びの道具にしていました。使徒パウロが獅子の餌食にされなかったのは、ローマ市民権を持っていたからだと思われます。しかし、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">67</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年頃にローマ市外で斬首され、ペトロも同じ頃逆さ磔で殉教して、ネロの迫害は終わっています。現代世界には、もうそのような迫害は起こらないと思いますが、しかし、人類文明によって痛めつけられた大自然界からの大規模な恐ろしい反抗と復讐は、覚悟していなければならないかも知れません。人間の力ではそれに対抗できません。ひたすら幼子のようになって神の力に縋り、神によって救われるように努めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-46196787616649741542016-10-16T00:00:00.000+09:002016-10-16T00:00:11.416+09:00説教集C2013年:2013年間第29主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 出エジプト記 17章8~13節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 テモテへの手紙二 3章14~4章2節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 18章1~8節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><u><br /></u></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読には、「アーロンとフルがモーセの両側に立って、彼の手を支えた」という言葉が読まれますが、これは旧約時代の神の民が神に祈る時、両手を斜め上に高く挙げる姿勢で祈っていたからだと思います。初代のキリスト教会でもそのような姿勢で祈っており、その名残は今でもミサの司式司祭が祈願文を唱える時などに残っています。キリスト教会に両手を合わせて祈る慣習が広まったのは、シルクロード貿易で盛んになった東西文化の交流で、両手を合わせて祈るインドやシャム辺りの慎ましい慣習が導入された、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2, 3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀頃からだと思われます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">モーセが手を挙げて祈るとイスラエル人が勝ち、疲れて手を下ろし祈りを止めるとアマレク人が勝ったという言葉を、外的短絡的に理解しないよう気をつけましょう。神は祈りを止めると、すぐ援助を止めてしまわれるような方ではありません。モーセが初めに指揮者ヨシュアに「私は神の杖を手に持って、丘の上に立つ」と告げたことを見落としてはなりません。神の杖、これはモーセが数々の偉大な神の業を遂行するために、シナイ山麓で神から与えられた神の力の篭もる道具であり、神が共にいて下さる徴でもありました。この杖を差し上げてエジプト軍を海の底に沈めたモーセは、今はイスラエル人たちを滅ぼし尽くそうとしてやって来た強大なアマレク軍を目前にし、民族存亡の危機を痛感しながらも、この杖を持って丘の上に立ったのです。まともに戦ったら少人数のイスラエル軍に勝ち目はありません。しかしモーセは、全能の神に対する不動の信頼心の内に、丘の上から両軍を見下ろしながら神に祈ったのです。神は、エジプト軍の追跡を受けた時のようにすぐには大きく働いて下さいませんでしたが、しかし日没前には、ヨシュアに決定的勝利を与えて下さいました。神の杖に対するモーセの信仰と信頼、そこに注目しそこから学ぶようにしましょう。実は私たちも、目に見えないながらそのような神の杖を、洗礼によって神から頂戴しているのです。しかしその杖は私たちの心の奥底、霊魂に刻まれていますので、それを取り出して全能の神に働いて戴くには、モーセのように真剣に祈ることや、神現存の信仰に生きることが必要だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">現代文明は極度の便利さと多様化・個人主義化などによって全ての伝統的共同体を弱体化し、内側から崩壊させつつあるようですが、現代社会のそのような流れの中で生まれ育ち、自由主義教育・能力主義教育を受けて大人になった日本人の中には、全てが極度に多様化しつつある現代のグローバル社会のどこにも、自分の個性や自由を生かす地盤を見出すことができずに、孤独と不安に苦しんでいる人たちが少なくないようです。学校では良い成績を取得していた人であっても、自分の個性を自由に生かして働く場が見出せないと、夜に眠れなくなったり薬物に手を染めたりして深刻に苦悩し、自分の個性を捨てきれずに自死を考える人たちもいるようです。このような精神的マイナス面が露わになっている日本社会に福音を広めるには、宣教者自身が<u>日々感謝と喜びの内に生きている</u>という姿を示す必要があると思います。心に苦悩や絶望を抱えている人の心は、頭に福音の真理を解説する話よりも、実際に神に支えられ神と共に生き生きと生活している人の生活実践を見てみたい、と望んでいるからです。それには、どうしたら良いでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">以前に南山大学でも講演してくれた聖心会の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">Sr.</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">鈴木秀子さんは、最近「幸せ癖をつけましょう」と題する京都での講演の中で、旅先で列車に乗り遅れても、その他どんな不運や失敗に出遭っても、それを新しい生き方をしてみせるチャンスと受け止め、マイナスの言葉を口にしないよう勧めています。「日本では言霊と言って言葉には力があるとされています」。従って不安の言葉や脅しの言葉などを口にしていると、「言葉には力がありますから」心は幸せになれません。「幸せは自分の心の中に育てるものです」。命があるという、ごく当たり前のことにも神に感謝し、喧嘩している人と仲直りしたい、家族の人たちに心から感謝したい、「家族がいる、歩ける、食べられる、自分一人でお手洗いに行ける、目がある、手がある」などと、いつも<u>幸せ言葉</u>を口にしていましょう。するとその言葉が神の御心を動かして幸せへの新しい道が開かれて来ます、と私はその講演の趣旨を受け止めました。毎日神様に向かって笑顔で、「有難うございます」「感謝しています」「希望しています」などと個人的に申し上げるのも、一つの<u>幸せ癖</u>だと思います。私は、孤独や不安などに苛まれている現代人の心に神からの希望の光が注がれるよう願いつつ、マイナス言葉を避けて、日に幾度も父なる神にそのように申し上げ、感謝と希望の精神で神と共に喜んで生きるよう心がけています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の中で、主は「気を落とさずに絶えず祈り」続けることを教えるため、一つの譬え話を語っておられます。出エジプト記</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">22</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章には、「寡婦や孤児を全て、苦しめてはならない。もしあなたが彼を苦しめ、彼が私に叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞き入れる」という、神の厳しい警告の言葉が読まれます。本日の福音に登場する不正な裁判官は神の裁きを恐れず、人を人とも思わないような人だったので、聖書のその言葉は知っていても、寡婦の訴えなどは取り上げようとしなかったのだと思います。察するに、その訴えは古代にも多かった遺産問題のトラブルだったでしょう。遺産を横取りされて貧困に苦しむ寡婦が訴え続け、叫び続けていたのだと思います。初めはそんな複雑な遺産問題などは取り合おうとしなかった裁判官も、遂にその寡婦の執念に負けて、裁判に立ち上がったようですが、神信仰に生きる人も、心の執念と言うこともできる不屈の真剣な信仰の叫びを持ち続けて欲しい、そうすれば神は、夜昼叫び求めて止まない信者の願いをいつまでもほうふっておかれることは無い、というのがこの譬え話の趣旨だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">必要なものを一言で、あるいはワンタッチで入手できる豊かさと便利さに慣れている現代人には、祈りの中で二、三度申し上げても神に聞き入れられなかった願い事を、いつまでも根気強く願い続けるということは難しいかも知れません。しかし神は、私たちの口先だけの祈り言葉ではなく、もっと苦しんで奥底の心を目覚めさせ、心の底から真剣になって祈るのを待っておられるのではないでしょうか。日々真剣に根気強く祈る人の祈りは、必ず神に聞き入れられます。それが、主がこの譬え話を通して教えておられる真理だと思います。忍耐して根気強く祈り続けても、神は少しも変わらず沈黙しておられるかも知れません。しかし、苦しみながらのその祈りによって、私たちの心はゆっくりと変わり始め、神が待っておられる心の底の霊的土壌の中に根を下ろし始めるのです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑦<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">大正</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">13</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に栃木県の足利市に生まれ、平成</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">67</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">歳で亡くなられた優れた書家で詩人の、相田みつをさんの「いのちの根」という詩をご存知でしょうか。「なみだをこらえて</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">かなしみにたえるとき</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ぐちをいわずに</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">くるしみにたえるとき</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">いいわけをしないで</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">だまって批判にたえるとき</span><span style="font-size: 14.0pt;">
</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">いかりをおさえて</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">じっと屈辱にたえるとき</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">あなたの眼のいろが</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ふかくなり</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">いのちの根が</span><span style="font-size: 14.0pt;"> </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ふかくなる」という詩であります。私たちがマイナス言葉を口にせず、苦しみや悲しみに耐えて神に眼を向ける時、私たちの心は黙々と深く深く根をおろし、その根が神が待っておられる地下の水脈にまで達すると、全能の神の神秘な力が、私たちの内に働き出すのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑧<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">しかし主は本日の福音の最後に、人の子が再臨する時、この地上にそのような信仰者を見出すであろうか、というような疑問のお言葉を残しておられます。一年前に始まった信仰年は今年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">11</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月下旬で終わりますが、私たちが神から頂戴した信仰が、神が待っておられる心の底の水脈にまでその根を伸ばしているかどうかを反省し、これからも神の御旨によって与えられる日々の労苦や病苦、思わぬ失敗・誤解・やり直しなどを快く受け止め、苦しみによって心の根を神がおられる心の奥底の水脈にまで伸ばすように心がけましょう。ある聖人は、「苦しみは、神が私たちに恵みを与える第八の秘跡である」と言ったそうですが、この言葉も心に銘記して、日々与えられる数々の苦しみ・失敗等々を積極的に受け止め、喜んで耐え忍び、神にお捧げするよう心がけましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-18277982175518914282016-10-09T00:00:00.000+09:002016-10-09T00:00:18.956+09:00説教集C2013年:2013年間第28主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 列王記下 5章14~17節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 テモテへの手紙二 2章8~13節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 17章11~19節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">私たちのフランシスコ教皇は、信仰年行事の一つとして、今年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">12</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">土</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">から</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">13</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日にかけての夜、即ち昨夜から今朝にかけてローマ教区で徹夜礼拝を開催し、聖母マリアと共に神に特別に祈りミサ聖祭を捧げることにしています。日本とは</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">時間の時間差がありますから、今この時間にもローマではその徹夜礼拝が続けられていると思います。教皇庁はこの行事を地球規模で行うために、世界に数ある聖母巡礼地の中から特別に十箇所を厳選し、それらの巡礼地でもこの土曜日から日曜日にかけて、聖母マリアと共に全人類のため同様の徹夜礼拝をなすよう依頼しました。アジアでは涙の聖母像で世界的に有名になり、海外からも数多くの巡礼者が来日した秋田の聖体奉仕会の修道院聖堂が教皇庁から指定され、神言会員の新潟教区長菊地司教が聖座の要請を受諾して、教区民宛の公文書でこの出来事の準備を進め、他教区の聖職者・信徒たちにも参加を呼びかけています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">13</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日は聖母がファチマで最後に出現なされ、あの壮大な太陽の奇跡を集会に参加していた数多くの人々に体験させた日ですので、ローマをはじめ各巡礼所では、この行事の時にファチマの聖母像も飾られることになっています。イタリアのテレビ局が世界の十大聖母巡礼地を結んでのライブ中継を予定していると聞きましたので、秋田での祈りも世界各地に放映されたかも知れません。秋田ではローマより少し早く昨夜</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">11</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">時に聖体を顕示して、日本語・ベトナム語・韓国語・タガログ語・英語の順でロザリオやその他規定の祈りなどが唱えられ、今朝</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">5</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">時頃に挙行される菊地司教司式のインターナショナル・ミサで締めくられる予定と聞いています。従って日本では既に徹夜礼拝は終わっていますが、ローマをはじめ欧米諸国の聖母巡礼地での祈りに心を合わせて、私たちもこの御ミサの祈りを聖母マリアと共に神に捧げ、数多くの問題を抱えて苦しむ全人類の上に、神の特別の憐れみと助けの恵みを祈り求めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">公会議後のこれまでの日本教会では、第二ヴァチカン公会議をカトリック教会の伝統を現代世界に適合したものに改革するものと捉え、「典礼改革」をはじめ、事ある毎に「改革」という言葉が持て囃され、プロテスタントの新しい聖書学が宣伝されたりして、聖母崇敬の伝統が著しく軽視された時代がありました。公会議の公文書には「改革」という言葉は一度も使われていません。公会議は古い伝統を新しい時代に生かして刷新することを目指していたからです。これについては公会議を身近に見聞きして来た私が既に多くの所で話したり執筆したりしましたので、ここでは省きます。秋田市添川湯沢台の聖母像が数々のメッセージを修道女笹川カツ子さんに与え、掌の傷から血を流したり、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">101</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">回にわたって眼から涙を流したりする奇跡をなし、多くの人がその奇跡を目撃し、その血や涙が人間のものであることが大学の医学博士たちによって立証されても、更に当時の新潟教区の伊藤司教がその出来事が聖母マリアからのものであることを公言して聖母崇敬を奨励しても、既に聖母崇敬に批判的になっていたわが国の多くのカトリック者はそれを無視して、「秋田の聖母崇敬はローマに認められていない」等と話し合っていました。この度聖座は、秋田の涙の聖母像が韓国や米国など多くの他国人たちからも崇敬されていることを評価し、他の九聖母巡礼所と共にローマの徹夜礼拝と合わせて聖母崇敬の行事を為すよう特別に依頼することにより、聖座が秋田を聖母巡礼所として公認したことは、喜ばしいことであると存じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた二つ目の手紙からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、紀元</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">62</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年頃にローマで番兵一人を付けられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた時の手紙ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">67</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年頃に投獄されて殉教を目前にしていた時に書かれた手紙であると思います。従って、この手紙は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちや獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。ローマ市民に世俗の壮大な遊びと贅沢を提供するため、国家の資金を大規模に投入して止まないネロ皇帝の政治に愛想をつかし、使徒の説くあの世の幸福に耳を傾ける人も少なくなかったと思います。「私たちは、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にしてその牢獄で説いた福音の要約でもあると思われます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音は、主キリストによるハンセン描写たちの癒しについて語っていますが、ナアマンを癒して預言者エリシャと同様、主もここで遠く離れた所から命令を与え、病者がその命令に従って祭司たちの所へ行くという行動をなした時に、癒しておられます。しかし、自分の体が癒されたのを見て、大声を神を賛美しながらまず主の許に戻って、主の足元にひれ伏して感謝したのは、サマリア人一人だけでした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人はユダヤ人だったのでしょうか。としますと、神をこの世から遠く離れた天におられる聖なる存在と考え、その神がモーセに啓示なされた律法の厳守を何よりも重視していたファリサイ派の宗教教育を子供の時から受けていたので、まずは癒された自分の体を祭司に見せて、律法に従う嬉しい社会復帰を成し遂げることだけを考え、恩人の主イエスや神に感謝することは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。この世の社会的規則や慣例だけを重視して、それらよりも私たちの身近に現存しておられる神の働きに対する感謝を軽視しないよう、今日の私たちも気をつけましょう。規則や慣例よりも、神からの具体的呼びかけや導き・働きなどが大切なのですから。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 18.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 18.0pt; text-indent: -18.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">主は感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、律法を知らないその人は、ただ身近な現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けて生きようとしていたのではないでしょうか。主のお言葉にある「あなたの信仰」とは、その生き方のことを指していると思います。本日の福音には、「自分の癒されたのを知って」と邦訳されていますが、ギリシャ語の原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に肉眼で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味のエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で感知したりする時に聖書で用いられるこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも神の現存や働きに対する心の眼、心のセンスを磨くように心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などに囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日常生活の中にあって、何よりも隣人の小さな必要、小さな願いなどを通してそれとなく示される神からの愛の求め、あるいは私に対する神からの小さな保護や助け・導きなどに、信仰と愛と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から求めておられる信仰であると思います。何よりもその信仰を大切にして生きるところに、神の祝福が隠されていると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-16387622848956451642016-10-02T00:00:00.000+09:002016-10-02T13:53:57.927+09:00説教集C2013年:2013年間第27主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 ハバクク書 1章2~3、2章2~4節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 テモテへの手紙二 1章6~8、13~14節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 17章5~10節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><u><br /></u></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読の前半は、紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">600</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年頃にユダ王国がバビロニア軍に滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの祈りですが、当時のユダ王国の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求め、叫ぶようにして声高く祈っていましたが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってこれまでの王国の贅沢な社会に迫りつつある様々の災いを、幻の中で預言者に見せておられたようです。それが第一朗読の前半ですが、預言者のその嘆きの祈りに続いて、神が「見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略について詳しく啓示なされた長い話は省略され、後半部分はハバクク第</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章の始めからの引用になっています。ユダ王国滅亡の啓示を受けた預言者は、第</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章の終りに、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">….</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に激しく嘆きます。それに対する神の答えが、この後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神が少しも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">よ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ぎります。それは、本当に苦しい試練の時です。神は私たちの信仰を一層深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を私たちに体験させるのです。現代文明の大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">その時に人間中心・自分中心の立場から抜け出て、神の御旨中心主義の主キリストの立場に立ち、神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけていましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかも神のその支配が、私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いかけましたが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、黙々とそれに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が、働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する幼子のような徹底的「信頼」を意味していると思います。頭で神の存在とその啓示の真理を信じているだけでは足りません。そんな信仰は、地獄の悪魔も数々の嫌な体験から確信していると思います。頭の理知的な信仰ではなく、神の僕・婢として神の御旨にひたすら従順に従おう、全てを神に委ねて愛と信頼の内に清貧に生きようとする信仰心の成長強化を求めて、神は私たちに度々厳しい試練をお与えになるのだと信じます。その苦しい試練を嫌がらずに、幾度倒れても新たに立ち上がり、神の御旨に従い続けましょう。それが信仰年にあたって私たちが身に付けるべき生き方だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">最近知ったのですが、今のフランシスコ教皇は、歴代教皇が居宅としておられた使徒宮殿には移住なさらず、そのことを尋ねられた時に、「私は宮殿に住まず、高級車に乗らず、金も宝石も持たないことを決意した」「ただ単に貧富の問題ではなく、私自身の人格に係わる問題だから」「私には人々の間に生きることが必要なのだ」「使徒宮殿内にある居住空間が取り立てて豪華としいうわけではないが、そこに一人で起居することはできない」などと話されて、相変わらずヴァチカン敷地内の質素な居住空間内に生活しておられるそうです。前の教皇ベネディクト</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世も、その退位の直前に現在の教皇職の深刻な孤立を痛感し、小さな「聖マルタの家」での朝のミサに、ヴァチカンの聖職者たちや滞在中の枢機卿たちにそのことを説明なされたそうですが、今の教皇はそれを受けて、アシジの聖フランシスコのように清貧を実践的に愛することにより、豊かさを追い求めて止まない罪に穢れた現代人類の上に、神の憐れみと恵みを呼び下そうとしておられるのかも知れません。信仰年の終末を迎えるに当たって、私たちも神に誓った清貧の誓願を想起し、日々の日常生活の中でも実践的に清貧を愛しつつ、神の御旨に従う決心を新たに致しましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">アシジの聖フランシスコの時代には、教皇庁も各地の司教たちも豊かな生活を営んでいたら、フランス・ドイツ・イタリアなどの各地で、そのような信仰生活は主キリストの福音的生活に背く生き方だ、とする過激な教会批判が信徒たちの間に広まり、宗教的権威を失墜した教会は崩壊の危機に直面していました。その時アシジのフランシスコが生家の豊かな生活を捨てて、福音的清貧の生活を実践的に証しする生活を始めたら、神の聖霊が働いたのでしょうか、無数の若手信徒たちが男も女もその新しい福音的生活に積極的に参加し、教会は分裂の危機を回避して立派に立ち直り、新しく発展し始めるに到りました。現代のカトリック教会も、多くの聖職者たちのセクハラや福音的清貧精神に欠ける生き方によって、特に欧米諸国では宗教的権威を失墜し、マスコミから厳しく批判されています。今の教皇はこの危機を乗り越えるために、アシジの聖人の模範に倣って福音的清貧の実践に心がけ、神による救いの恵みを呼び下そうとしておられるのではないでしょうか。清貧誓願を宣立している私たち修道者も、それに協力して日々の生活の中で、小さな清貧の実践を神に捧げるように心がけましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音には、弟子たちが「私たちの信仰を増して下さい」と願ったら、主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになったとあります。芥子種は落としたらピンセットで掴むこともできない程小さな黒い粒ですから、主のお言葉から察しますと、誰が偉いかどちらが上かなどの争い事もしていた当時の弟子たちの内には、神がお求めになっておられる本当の信仰は、芥子種一粒ほどもないという意味でも、このように話されたのだと思います。では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的従順と信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。全能の神は、我なしのそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の所有する能力で、神の助けを祈り求めつつ何かの奇跡的成功を獲得するのではありません。神が御自身が、その人の内に働いて下さるのです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal; line-height: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の後半も、私たちの持つべきその真の信仰について教えています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食をお望みなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家のお嫁さんたちは、皆このようにして家族皆に奉仕していました。我なしの家族愛の奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。今の社会では、何事も金銭的儲けで評価する価値観が広まっていますが、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場であります。家庭的無料奉仕の愛をパイプラインとして、神がその恵みを私たちの上に、また社会の上に豊かに注いで下さるのです。私たちが今後も永く、こういう信仰と愛の奉仕に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000039.2528996000000028 96.23548660000003 60.2969686 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-28779788184814298602016-09-25T00:00:00.000+09:002016-09-25T00:00:03.160+09:00説教集C2013年:2013年間第26主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">C年 年間第26主日</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 アモス書 6章1a、4~7節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 テモテへの手紙一 6章11~16節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;"><span lang="EN-US" style="font-size: 18.6667px;"></span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 16章19~31節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<u><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><br /></span></u></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は、紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀の中頃に多くの貧民を犠牲にして獲得した富で、贅沢三昧に生活していた神の民、北イスラエル王国の支配者たちに対する、アモス預言者を介して語られた神の警告であります。この警告の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">20</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">数年後、残忍さで知られたアッシリア軍の襲来で、サマリアは徹底的に滅ぼされました。そしてこの時は難を逃れたエルサレムの支配者たちも、その後に興隆したバビロニア軍の襲来で、亡国の憂き目を見るに到りました。過度の豊かさ・便利さ・快楽などは、人間本来の健全な心の感覚を麻痺させ眠らせて、神の指導や警告などを無視させてしまう危険があります。現代の私たちも気を付け、清貧に生きるよう心がけましょう。現代の全世界で生産される食料の三分の一は、日本や欧米諸国で捨てられていると聞きます。今の世界には十億人も飢えで苦しんでいますが、日本と欧米の食料廃棄物はその人たちを三回救える程の量に達しているそうです。貧しい国々への食料援助は世界全体で年間四百万トン程だそうですが、その二倍近い食べ物が、日本では毎年捨てられているのだそうです。貧民の救済に本腰をあげようとしていない現代世界は、古代のサマリアやエルサレムのように、あるいは古代ローマ・ギリシャ世界のように、神のお怒りを招いて遠からず徹底的に滅ぼされるのではないでしょうか。先週の土曜日から東京や名古屋などではドキュメンタリー映画「もったいない</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">!</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">」が上映されているそうですが、一人でも多くの人が神と大自然に対する感謝の心で食料や物資を大切にし、清貧愛と隣人愛に生きるよう、心の目覚めを祈り求めましょう。長年の私の体験や見聞を振り返りますと、神の恵みに対する感謝と清貧・節約の生活実践に心がけている人に、神はいつも恵み深いように感じています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読は、先週の日曜日にここで説明しましたように、使徒パウロが使徒ペトロと共に殉教することになる、ネロ皇帝によるキリスト者迫害が始まる少し前頃に認められた、使徒パウロの遺言のような手紙からの引用であります。パウロはその中で、愛弟子テモテを「神の人よ」と呼び、「あなたは正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」「万物に命をお与えになる神の御前で」「キリスト・イエスの御前であなたに命じます」などと書いています。これは、自分の生活の豊かさ、楽しみだけを優先して貧困に苦しむ人たちに対する配慮を後回しにし勝ちな、現代の私たちに対する神からの警告でもあると思いますが、如何でしょうか。私たちもテモテ司教と同様に、神から召され証人たちの前で主キリストに従って信仰と愛に生きることを表明した信徒・修道者であります。その初心を忘れずに、終末的様相が強まり全てが極度に多様化しつつある今の世にあって、使徒たちを介して主キリストから受け継いだ信仰と愛の生き方を、命がけで立派に証しするよう努めましょう。ご存知でしょうか、冬の星空に輝くあの正三角形の一角で、赤く光っているベテルギウスという星は、美しい三ツ星を中心とするオリオン星座の左上の一角ですが、太陽の一千倍もの直径を持つその巨大な星が今揺れ動いており、遠からずすさまじい超新星爆発を起こして死んで行くと天文学者たちに予測されています。ベテルギウスが爆発したなら、その明るさは満月の百倍にもなって、三ヶ月間も煌々と輝き続け、昼間でも肉眼で見ることが出来るであろう、と学者たちが予告していますが、新聞でその話を読んで、私は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">20</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年程前に聖母マリアが何方かに予告なされた話を思い出しました。人々が赤い星の現れるのを見たら、それが世の終わり直前の恐ろしい災害の始まる徴のようです。その時は、身近に迫っているのではないでしょうか。神に対する信仰と信頼を堅めて、覚悟していましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音は、先週の日曜日の福音である不正な管理人の譬え話に続いて、主がファリサイ派の人々に語った譬え話ですが、当時のファリサイ派の間では次のような民話が流布していました。ほぼ同じ頃に死んだ貧しい律法学者と金持ちの取税人についての話です。貧しい律法学者は会葬者もなく寂しく葬られたが、金持ちの取税人の葬式は、町全体が仕事を休んで参列するほど盛大であった。しかし、学者の同僚が死後の二人について見た夢によると、死んだ律法学者は泉の水が流れる楽園にいるのに、取税人は川岸に立ちながらも、その水を飲めずに苦しんでいたという話であります。察するに、主はよく知られていたこの民話を念頭に置き、そこに新しい意味を付加して新しく展開させながら、本日の譬え話を語られたのだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">しかし、この世で貧しかった者はあの世で豊かになり、この世で豊かに楽しく生活していた者は、あの世では貧困に苦しむようになるなどと、あまりにも短絡的にその話を受け止めないよう気をつけましょう。この世で貧しく生活していても、その貧しさ故に金銭に対する執着が強くなり、恨み・妬み・万引き・盗み・浪費などで心がいっぱいになっている人や、貧しい人々に対する温かい心に欠けている人もいます。他方、この世の富に豊かであっても、事細かに省エネに心がけ、無駄遣いや過度の贅沢を懸命に避けながら清貧に生活している人、生活に困っている人たちに対する応分の援助支援に心がけている人もいます。これらのことを考え合わせますと、本日の譬え話の主眼は、自分の楽しみ、名誉、幸せなどを最高目標にして、そのためにはこの世の物的富ばかりでなく、親も隣人も社会も神も、全てを自分中心に利用しようとする精神で生きているのか、それとも神の愛に生かされて生きることと、神の御旨に従うことを最高目標にして、そのために自分の能力も持ち物も全てを惜しみなく提供しようとする精神で生きているのか、と各自に考えさせ反省させる点にあるのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">譬え話に登場する金持ちは、門前の乞食ラザロを見ても自分にとって利用価値のない人間と見下し、時には邪魔者扱いにしていたかも知れません。それが、死んであの世に移り、そのラザロがアブラハムの側にいるのを見ると、自分の苦しみを少しでも和らげるために、また自分の兄弟たちのために、そのラザロを使者として利用しようとしました。死んでもこのような利己主義、あるいは集団的利己主義の精神に執着している限りは、神の国の喜び・仕合せに入れてもらうことはできません。神の国は、自分中心の精神に死んでひたすら他者のために生きようとする、神の愛の精神に生かされている者だけが入れてもらえる所だからです。察するに譬え話の中の乞食のラザロは、死を待つ以外自分では何一つできない絶望的状態に置かれていても、この世の人々の利己的精神の醜さを嫌という程見せ付けられ体験しているだけに、そういう利己主義を嫌悪する心から、ひたすら神の憐れみを祈り求めつつ、自分の苦悩を世の人々のために献げていたのではないでしょうか。苦しむこと以外何一つできない状態にあっても、神と人に心を開いているこの精神で日々を過ごしている人は、やがて神の憐れみによって救われ、あの世の永遠に続く仕合わせに入れてもらえると思います。福者マザー・テレサは、そういうラザロのような人たちに神の愛を伝えようと、励んでおられたのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">一番大切なことは、この世の人生行路を歩んでいる間に、自分の魂にまだ残っている利己的精神に打ち勝って、あの世の神の博愛精神を実践的に体得することだと思います。戦後の能力主義一辺倒の教育を受けて育ち、心の教育を受ける機会に恵まれなかった現代日本人の中には、歳が進むにつれて、自分の受けた教育に疑問を抱き、もっと大らかな開いた心で、相異なる多くの人と共に助け合って生きる、新しい道を模索している人たちも少なくないと思います。私たちの周辺にもいるそういう人たちのため、本当に幸せに生きるための照らしと導きを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-42806241648460967572016-09-18T00:00:00.000+09:002016-09-18T00:00:11.155+09:00説教集C2013年:2013年間第25主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-bottom: .0001pt; margin-bottom: 0mm; margin-left: -5.25pt; margin-right: -.65pt; margin-top: 0mm; mso-char-indent-count: .43; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-bottom: .0001pt; mso-para-margin-bottom: 0mm; mso-para-margin-left: -.5gd; mso-para-margin-right: -.06gd; mso-para-margin-top: 0mm; text-indent: 6.0pt;">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">C年 年間第25主日</span></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-bottom: .0001pt; margin-bottom: 0mm; margin-left: -5.25pt; margin-right: -.65pt; margin-top: 0mm; mso-char-indent-count: .43; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-bottom: .0001pt; mso-para-margin-bottom: 0mm; mso-para-margin-left: -.5gd; mso-para-margin-right: -.06gd; mso-para-margin-top: 0mm; text-indent: 6.0pt;">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 アモス書 8章4~7節</span></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-bottom: .0001pt; margin-bottom: 0mm; margin-left: -5.25pt; margin-right: -.65pt; margin-top: 0mm; mso-char-indent-count: .43; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-bottom: .0001pt; mso-para-margin-bottom: 0mm; mso-para-margin-left: -.5gd; mso-para-margin-right: -.06gd; mso-para-margin-top: 0mm; text-indent: 6.0pt;">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 テモテへの手紙一 2章1~8節</span></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-bottom: .0001pt; margin-bottom: 0mm; margin-left: -5.25pt; margin-right: -.65pt; margin-top: 0mm; mso-char-indent-count: .43; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-bottom: .0001pt; mso-para-margin-bottom: 0mm; mso-para-margin-left: -.5gd; mso-para-margin-right: -.06gd; mso-para-margin-top: 0mm; text-indent: 6.0pt;">
<span style="color: red;"><span lang="EN-US" style="font-size: 18.6667px;"></span></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-bottom: .0001pt; margin-bottom: 0mm; margin-left: -5.25pt; margin-right: -.65pt; margin-top: 0mm; mso-char-indent-count: .43; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-bottom: .0001pt; mso-para-margin-bottom: 0mm; mso-para-margin-left: -.5gd; mso-para-margin-right: -.06gd; mso-para-margin-top: 0mm; text-indent: 6.0pt;">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 16章1~13節</span></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-bottom: .0001pt; margin-bottom: 0mm; margin-left: -5.25pt; margin-right: -.65pt; margin-top: 0mm; mso-char-indent-count: .43; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-bottom: .0001pt; mso-para-margin-bottom: 0mm; mso-para-margin-left: -.5gd; mso-para-margin-right: -.06gd; mso-para-margin-top: 0mm; text-indent: 6.0pt;">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の第一朗読は、紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">世紀に北イスラエル王国で活躍したアモス預言者の語った言葉ですが、預言者はここで貧者や苦しむ農民を抑圧し搾取して止まない、支配者や金持ちたちの不正を厳しく非難し、「私は彼らが行った全てのことをいつまでも忘れない」という、主なる神が誓って話された厳しいお言葉を伝えています。主は貧しい人、苦しむ人の味方で、そのような人たちの中に現存して私たちに近づかれる神であります。アモス預言者の言葉を聞いても、それまでの生き方を改めようとしなかった北イスラエル王国の支配者や富める人たちは、その後間もなく残酷なアッシリアの大軍によって征服され、国外に連行されて悲惨な状態に落とされています。神の呼びかけに謙虚に従い、悔い改めなかった天罰であると思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">現代の一見豊かに見える日本社会にも、人目に隠れていますが、日々の生活に窮している家族は少なくありません。派遣切りで失業したり就職難で就業できずにいる人たちやホームレスの人たち、あるいは</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1998</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年以降毎年</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">万人以上にもなったりした自殺者たちの貧しい遺族、細々と貧困に耐えている家族などが年々増え続けています。能力があっても貧しさのため進学できず、適当な働き場を見出せずにいる若者たちも少なくありません。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1960</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年代から市民生活の豊かさの陰に急速に広まった生活の都市化、核家族化は、自由主義・個人主義の普及によってそれまでの地域共同体や血縁共同体を、内面から崩壊させたり無力化させたりしてしまいました。それで共同体の絆や支えを失った貧者たちの苦しみは、生き甲斐を失わせるほど深刻なものになって来ています。近年そのような人たちの生活を援助する慈善家の数も増え、慈善事業の数も増えつつありますが、まだまだ不十分の状態です。神は、ご自身がこの世に送り出されたそのような人たちの中に特別に現存して、現代の社会や私たちに憐れみと愛を求めておられるのではないでしょうか。そういう人たちの中に神よりの人キリストや聖母マリアを見出して奉仕する模範を残された福者マザー・テレサは、真に現代的な聖人であったと思います。大きなことは何一つできない私たちですが、せめて貧しく孤独に悩んでいる人たちの上に神の憐れみと導き・助けの恵みを祈り求めることにより、個人主義化した現代世界の中に、神の愛による新たな絆・新たな組織が産み出され広まるのを、日々内的にまた積極的に支援するよう努めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の第二朗読は、使徒パウロがその愛弟子テモテに宛てた手紙からの引用ですが、この手紙はネロ皇帝の下でのパウロの殉教の少し前頃に書かれた手紙のようです。使徒言行録</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">28</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">章の最後に記されているように、パウロは紀元</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">60</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年頃に初めてローマに来た時は、ローマ軍の囚人ではありましたが、まる</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年間は自費で借りた家に留まっていて、来訪する人たちに憚ることなく神の国や主キリストについて宣教することができました。コロサイ書とフィレモン書の冒頭にパウロが書いているように、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">30</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">歳代半ばと思われるテモテはその時、ローマでパウロと一緒にいました。紀元</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">96</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年頃に第四代教皇クレメンス1世が書いた第一書簡によりますと、使徒パウロはその後暫くは今のスペインにまでも旅行したようですから、テモテとテトスに小アジアとクレタ島で使徒に代わって教会を指導する権限を与えたのも、この多少自由に行動できた時のことだと思われます。しかし、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">64</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年にネロ皇帝が、古い伝統から解放されたもっと新しいローマの町造りを意図したのでしょうか、密かに放火させてローマの町の大半を焼き払わせ、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">30</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">キロ程離れた海辺の宮殿アンツィオでその火事を眺めて喜んでいたことが、後でローマ市民に知られると、放火の責任をユダヤ人に転嫁して、以前にもあったローマでのユダヤ人迫害を再燃させました。すると逮捕されたユダヤ人たちが、放火したのはキリスト者たちだと嘘の証言をしたので、ネロ皇帝によるローマ市内でのキリスト者迫害が始まり、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">67</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年に使徒ペトロもパウロも殉教するに至りました。その厳しい迫害下か、あるいはその迫害が始まる少し前頃に認められたのが、テモテへの手紙ではないか、と私は受け止めています。使徒がそこで、「願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のために捧げなさい。王たちや全ての高級官吏たちのためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」と書いていることは大切です。主イエスも、「迫害する者のために祈れ」と命じておられます。現代の私たちも、将来神を信じない人たちからの思わぬ誤解や迫害に苦しめられることがあるかも知れません。そのような時、主キリストは全ての人の救いのためにその苦しみを神にお捧げになったことを思い、迫害する人たちの救いのため自分の受ける誤解や苦しみを、主の御受難にあわせて神にお捧げする覚悟を今から固めていましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の福音は、先週の日曜日の福音であった見失った羊やなくした銀貨など三つの譬え話のすぐ後に続く譬え話ですが、なぜか聖書では「その時イエスは弟子たちに言われた」という導入の言葉で始まっています。しかし、先週の日曜福音の譬え話はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られた話とされていますし、本日の福音のすぐ後の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">14</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">節には、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」とありますから、本日の福音の譬え話はファリサイ派の人々にも語られたのだと思われます。それで</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">25</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年前に出版された新共同訳の日本語聖書では「弟子たちに<u>も</u>言われた」と訳しかえています。キリスト時代のユダヤ社会では、律法上では金や物品を貸してもその利息を取ることが禁じられていましたが、しかし実際上は様々なこじつけ理由で利息が取られていたと考えられています。儲け本位の理知的貨幣経済が流行していた時代でしたから。本日の譬え話に登場する不正な管理人は、事によると日ごろから主人からの借りを借用人から返却してもらう段階で、その量をごまかして差額を着服したり、借り主に与えて友人を作ったりしていたのかも知れません。現代でも管理人任せにしてチェック体制が確立していない所では、密かに似たような詐欺や着服が横行しているようです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">千年前のオリエント世界よりも大きな過渡期に直面している今の世界では、心の教育の不備に起因する「誤魔化し人間」が少なくありませんから。主がこの話を直接ファリサイ派に向けて話されず、むしろ弟子たちに向けて話されたのは、その危険性が新約時代の神の民の中にもあることを、弟子たちによく理解させるためであったのかも知れません。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">ところでこの譬え話の末尾に、主人が不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふるまっている」というアイロニーを話しておられることは、注目に値します。私は勝手ながら、主はこの「光の子ら」という言葉で、暗にその場にいたファリサイ派の人々を指しておられたのではないか、と考えます。彼らは競って律法を忠実に守ることにより、この世においてもあの世に行っても神の恵みを豊かに得ようと努めており、自分の生活を光の中で眺めていて、律法を知らず忠実に守ろうと努めていない「この世の子ら」を、闇の中にいる者たち、神に呪われた罪人たちとして批判し断罪していました。彼らは、その罪人たちに背負わせている重荷を少しでも軽くしてあげよう、助けてあげようとして指一本も貸そうとせず、罪人たちの心の穢れに感染しないよう距離を保ちながら、ただ批判し軽蔑するだけだったようです。それで、彼らから遠ざけられ軽蔑されていた「この世の子ら」は、年老いて今携わっている仕事や生活から離れる時のため、せめて自分の仲間たちに対しては親切と奉仕に努めて、孤立無援の状態に陥った時に助けてもらおうなどと考えていたのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">主はこの譬え話で、たとえ律法上では不正にまみれた富であっても、神の摂理によって自分に委託されたその富を人助けに積極的に使って友達を作るなら、その愛の実践を何よりも評価なされる神はその努力を嘉し、その人たちを永遠の住まいに迎え入れて下さると教えておられるように思います。私たちも、神から日々非常にたくさんのお恵みを頂戴しています。この世の命も健康も、日光も空気も水も、日々の食物も聖書の教えも洗礼も、全ては直接間接に神よりのお恵みであり委託物であります。私たちはそれらを人助けに積極的に利用しているでしょうか。自分を光の中において眺め、この罪の世の社会やその中で苦悩している人々のためには、別に何もしなくても天国に入れてもらえる「神の子」の身分なのだ、などというファリサイ的考えを持たないように気をつけましょう。私たちに委託されている数々の内的外的富や神の導き・啓示などを利用しながら、この世の社会や人々のためにも、せめて祈りによって積極的に奉仕するよう励みましょう。そのように心がける人たちが、神に忠実に生きようとしている「神の子ら」であり、そうでない人たちは、神よりもこの世の富</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">マンモン</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">) </span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">に仕えようとしている、と神から見做されるのではないでしょうか。ここで「富」とあるのは、物質的富だけでなく、ファリサイ派が大切にしていたこの世での自分の地位、名誉、幸せなどをも指していると思います。それらを神の奉仕的愛よりも大切にしている人たちは、神から一種の偶像礼拝者と見做されると思います。私たちも神の御前で謙虚に反省し、神よりの委託物を、貧しい人や苦しむ人たちのためにも利用するよう心がけましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-86185030513930034152016-09-11T00:00:00.000+09:002016-09-11T00:00:00.165+09:00説教集C2013年:2013年間第24主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red; font-size: 18.6667px;">C年 年間第24主日</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;"><span style="font-size: 18.6667px;">第1朗読 出エジプト記 32章7~11、13~14節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;"><span style="font-size: 18.6667px;">第2朗読 テモテへの手紙一 1章12~17節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
</div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;"><span style="font-size: 18.6667px;">福音朗読 ルカによる福音書 15章1~32節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読には、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉が読まれますが、この言葉が本日のミサの三つの朗読を集約している、と考えてよいかも知れません。第一朗読は、モーセが四十日四十夜シナイ山に留まって神の言葉を聞いていた間に、その山の麓では神の民イスラエルが、金の子牛を造って自分たちの神とし、それを礼拝するという恐ろしい偶像礼拝の罪を犯したことに、神が激しくお怒りになったこと、そしてその民を滅ぼしてモーセからまた新たな民を起こそうと、話されたことを記していますが、神のそのお言葉を聞いて驚いたモーセは、神がアブラハムらの太祖たちに「その子孫を天の星のように増やし、云々」と誓って話されたことを神に思い起こさせ、強い御手を振るってエジプトから導き出して下さったこの民を、その罪から救って下さるよう願っています。それで、神は民に下すと告げられた災いを思い直されましたが、これは、主キリストが罪人を救うためにこの世に来られることの、一つの前兆と受け止めてよいのではないでしょうか。神は、ご自身がなさった数々の奇跡によって奴隷状態から救い出された民の犯した、偶像礼拝という恐ろしい反逆の罪をも赦して下さる程の大きな愛をもって、全人類の犯した無数の罪を償わせ、救いを求める全ての人を救う為に、この世にメシアを派遣なされたのです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">第二朗読では使徒パウロが、自分が以前神を冒涜する者、神の教会を迫害する者、暴力を振るう者、「罪人の中で最たる者」であったことを告白し、「しかし、信じていない時に知らずに行ったことなので」憐れみを受け、私たちの主の恵みを溢れるほど豊かに受けたことを告げています。そしてその体験に基づいて「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値しますと語り、「私が憐れみを受けたのは、」私がキリスト・イエスを「信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」などと話しています。これまでの人生で、どれ程多くの恐ろしい罪を犯したとしても構いません。使徒パウロのように、今後は神の御旨・神の導きのみに従って生きようとするならば、全ての罪は神の限りない憐れみによって赦され、自分の上にも周辺の人々の上にも、神からの豊かな恵みを呼び下すようになります。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音は、主が徴税人や罪人たちの前で、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というファリサイ派や律法学者たちの非難に応えて話された、「見失った羊」と「なくした銀貨」の譬え話ですが、ここで「見失った」、「なくした」などと邦訳されているギリシャ語の動詞アポッリューミは、聖書学者によると、本来あるべき所から離れて力を発揮できずに滅びへと向かうことを意味しているそうです。したがって、例えば「羊がいなくなった」という場合は、単に姿が見えなくなったというだけではなく、滅びに向かう転落をも意味しているのだそうです。ルカ福音の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">15</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章には、本日の福音の後に続く放蕩息子の譬え話も合わせますと、「いなくなっていた」だの「死のう」などと訳し替えられている、このギリシャ語の動詞アポッリューミが合計</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">回も登場していますが、そこにはいつも滅びへと向かうという転落の意味も込められていると思います。主は滅びへと向かっている私たち罪人を見出し救うために、この世にお出でになったという意味も込めて、これらの譬え話を語られたのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">余談になりますが、日本人が一般的に一日に三食するようになったのは、江戸時代に入って平和が続き、町人も農民も多少豊かになってからのようで、それ以前の戦国時代や室町時代には、一日二食が普通だったようです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀後半の信長・秀吉時代に来日し、日本人司祭養成のため神学校を創設した巡察師ヴァリニヤーノ神父が作成した、神学生の日課によりますと、一日二食になっていてその時刻は明記していませんが、起床後の祈りや少しの仕事・勉強などを考慮しますと、朝食は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">時頃になされていたようです。そして夕食は、これも分かりませんが、察するに午後の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">4</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">時か</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">5</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">時頃だったのではないでしょうか。同じ頃のヨーロッパの修道院でも、一日二食の日課が伝統的に順守されていたようです。先日ふと聖ベネディクトの会則を読んでいましたら、四旬節には一日一回の夕食だけですが、「聖なる復活祭から聖霊降臨祭まで、修友は第六時に一日の主な食事をとり、夕方に夕食をとる」となっていますから、やはり普通は一日二食だったのではないでしょうか。しかし、「聖霊降臨以降の夏期の期間中は、畑仕事がなく夏の酷暑に悩まされることがない限り、修道士は水曜日と金曜日は第九時まで断食します。その他の日には第六時に食事をとる」とありますから、畑仕事があり夏の酷暑が続く時には一日二食ですが、そうでない時には修道院長の裁量で、聖霊降臨後にも水曜日と金曜日には一日一食だったようです。しかし、「</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">9</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">13</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日から四旬節の初めまでは、常に第九時に食事をとるものとす」とありますから、当時の修道院では日曜日や大祝日を別にして、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">9</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">13</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日から四旬節の初めまでの期間にも、一日一食の大斎を守っていたのではないでしょうか。なぜ「</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">9</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">13</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日から」なのか、と思って調べてみますと、昨日</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">9</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">14</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日にお祝いした十字架称賛の祝日は、エルサレムでは既に</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">5</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀から始まっていましたが、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">7</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀にローマ典礼に導入されましたので、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀の聖ベネディクトは、この十字架称賛の祝日を特別に大切にし、この日から四旬節までも大斎を守る期間としたのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">今年は明日が<u>敬老の日</u>とされていますが、年齢が進んで高齢の知人たちが多くなりますと、その人たちが間近にしている死の苦しみをどう受け止めたらよいのか、という心の問題や不安などにも出会います。死生学を専門とするイエズス会のデーケン神父は、『老いについて』という著書の中で、「老齢期の苦しみは、ゲッセマネの園と十字架上でのキリストの苦悩にあわせてささげることによって意味を持つようになる」と書いています。受難死を目前にして天の御父神に眼を向けながら、全ての不安や苦悩を人類の罪の償いとして神にお捧げしておられた救い主の献身的愛のお心、その心を心として生きようとする時に、神の愛聖霊が私たちの心の内に注がれ、か弱い私たちの心を内側から支え強めて、主キリストと一致して恐ろしい死の闇を潜り抜け、あの世に産まれ出る力と導きを与えて下さると信じます。老齢の私たちも十字架称賛の祝日を大切にし、聖ベネディクトの精神を体して、この祝日から四旬節までをも主と一致して日々の苦しみや煩わしさを、人類の罪の償いとして喜んで神にお捧げするように努めましょう。そうすれば、使徒パウロがコリント後書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">4</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章に書いているように、「たとえ私たちの外なる人は衰え行くとしても、内なる人は日々新たにされて行きます」という喜ばしい体験を、実感するようになると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-73030841652759436192016-09-04T00:00:00.000+09:002016-09-04T00:00:01.288+09:00説教集C2013年:2013年間第23主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 知恵の書 9章13~18節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 フィレモンへの手紙 9b~10、12~17節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<a href="https://www.blogger.com/null" name="OLE_LINK1"><span style="color: red;"><span lang="EN-US" style="font-size: 18.6667px;"></span></span></a></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">4</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">世紀の後半にアレクサンドロス大王のペルシア遠征が成功し、ギリシャ系の支配者たちがエジプトやシリアなどオリエント諸地方を支配するようになりますと、ギリシャ文明がオリエント全域に広まり始め、エジプトでは紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">世紀から</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">世紀にかけて、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたりしました。それは、人口の多い大国エジプトをプトレマイオス王朝の配下にある少数のギリシャ人だけで支配することはできないので、ギリシャ人たちは契約や規則を忠実に守るユダヤ人たちのエジプト移住を優遇し、新しく建設した港町で首都のアレキサンドリアは五つの地区に分けられていましたが、その内の二つはユダヤ人街とされていました。多くのユダヤ人がギリシャ人によるエジプト支配に協力し、首都アレキサンドリアやその他の地方で比較的裕福な生活を営むようになりましたら、エジプトで生まれたその子供たちや孫たちはギリシャ語しか話さなくなったようで、彼らにユダヤ民族の伝統を伝えるため、為政者側からの積極的支持もあって、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。これが「七十人訳」と言われた旧約聖書であります。当時のエジプトにはパピルスと言われた植物の葉を利用した紙が豊富にありましたので、この「七十人訳」のギリシャ語聖書は、異邦人の間でも広く愛読されるようになり、これが使徒時代にキリストの福音がギリシャ・ローマ世界に早く広まるのを助けた地盤になりました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">ところでギリシャ人が大きな港町アレキサンドリアを介して地中海諸地方と、現代世界の雛形と思われるほど盛んな国際交流を続け、世界各地の古書や資料を筆写して世界最初の大きなアレキサンドリア図書館を建設した首都に住むユダヤ人知識人たちの間では、同じく国際交流を積極的に推進した優れた知識人ソロモン王の智恵に見習おうとするような知恵文学が盛んになり、処世術や人生論などに対する人々の関心が高まっていたようです。本日の第一朗読である「知恵の書」は、そのような流れの中で、ソロモン王の時代に神の民の知識層に始まった様々の人生教訓や俚諺・格言などを集めて収録したと思われる聖書で、人間の知恵の源泉であられる真の神の知恵について教えています。この神の知恵に導かれた聖母マリアのように、人間中心のこの世の知恵には従わずに、神の僕・神の婢として神の御旨中心に生きようとするその信仰精神は、国際交流が盛んで各種の思想が全世界的に行き交う中で生活する現代人にとっても、大切なのではないでしょうか。理知的なこの世の知恵や知識が万事に優先され、何事にも合理的な理由付けを求める考え方が、社会の各層に広まっている現代社会には、そういうこの世の理知的知恵やその論議に振り回され、心の奥底に悩みやストレスを蓄積している人が少なくないように見受けられるからです。人間理性がこの世の学識や経験に基づいて産み出す知恵や知識だけではなく、それらに神信仰や神からの啓示に基づいて産み出される知恵や知識を合わせて複眼的に洞察する生き方が、極度の多様性に悩む現代人の心に本当の安らぎと確信を与えると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の第一朗読は、ソロモン王の祈りという形で記されている長い祈りの一部分ですが、そこには「あなたが知恵をお与えにならなかったら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、誰が御旨を知ることができたでしょうか」という言葉が読まれ、続いてその神の知恵、神の聖霊によって「地に住む人間の道はまっすぐにされ」、人は神の御旨を学び知って救われることが説かれています。悩む現代人の心を救うものも、この世の智者の研究や知恵ではなく、何よりも神の霊、神から与えられる知恵だと思います。使徒パウロはコリント前書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">章の中で、「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする」というイザヤ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">29</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">章の言葉を引用しながら、この世の知恵に従おうとするのではなく、神の知恵、神の力に従うよう力説しています。使徒のこの言葉も、様々な意見や学説が飛び交って混沌としている現代世界に生きる私たちにとって、大切だと思います。神は、私たち現代人が己を無にして神に心を向け、神よりの知恵、神の霊に従おうするのを、切に待っておられるのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の第二朗読は、獄中にある使徒パウロが、コロサイの裕福なキリスト信者フィレモンに宛てた手紙からの引用ですが、それは、そのフィレモンの許から逃れ、獄中のパウロに出会ってキリスト者となった逃亡奴隷のオネシモを、その主人フィレモンの許に送り返すに当たって持たせてやった手紙のようです。「私を仲間と見做してくれるのでしたら、オネシモを私と思って迎え入れてください」という最後の言葉を読みますと、受洗した逃亡奴隷に対するパウロの愛に涙を覚えます。しかし、パウロが神の前での人間の平等を強調して、キリスト者となった奴隷の身分であるオネシモを自由の身分にするよう求めていないことは、注目に値します。当時の古代社会は奴隷制度を地盤としていますので、もしその社会制度を非難して改革しようとするなら、それは巨大な政治経済改革を始めることになり、安定していたローマ帝政国家の基盤を揺るがし兼ねません。パウロは、神の前での人間の平等は説きますが、この世の社会や国家における人間の政治経済的不平等を改革しようとはしていません。ただ、その不平等による弱い人・助けを必要としている個々人の苦しみを少しでも緩和し、あの世の神の国・愛の国に対する明るい希望をもって生活するようにしてあげようと努めていたのではないでしょうか。これが、主キリストを始め、多くの聖人たちが実践していたキリスト教的愛の生き方だと思います。例えば</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">800</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">年前頃のアシジの聖フランシスコは、「我が教会を建て直せ」という神の声を聞いても、大きな貧富の格差で内側から分裂し崩壊しかけていた当時のカトリック教会を建て直すために、何かの理論を掲げて改革しようとしたのではありません。貧しさと苦しみを特別に愛した主キリストの福音的生き方を実践する信仰者たちの群れを増やすことによって崩れかけていた教会を建て直し、逞しい力に溢れた教会に変革したのです。現代の福者マザー・テレサも、絶望の淵に置かれて苦しむ貧者や弱者に対する温かい愛の実践によって、現代社会を建て直そうとしていた偉大な改革者だと思います。そしてフランシスコの名を戴く今の教皇も、その同じキリストの愛の道を推奨しておられるのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の福音の中で読まれる「</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">父母や妻、兄弟姉妹たちを</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">) </span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">憎まないなら、私の弟子ではあり得ない」という主のお言葉は誤解され易いので、少し説明させて頂きます。ヘブライ語や当時パレスチナ・ユダヤ地方で一般民衆の話していたアラマイ語には比較級がないので、たとえば「より少なく愛する」、「二の次にする」というような場合には、「憎む」と言うのだそうです。従って、主が受難死の地エルサレムへと向かっておられた最後の旅の多少緊張感の漂う場面で、付いて来た群衆の方に振り向いておっしゃったこのお言葉は、私に付いて来ても、私を父母兄弟や自分の命以上に愛する人でなければ、また自分の十字架を背負って付いて来るほど捨て身になって私を愛する人でなければ、誰であっても私の弟子であることはできない、という意味に受け止めるべきだと思います。察するに、そこにいた群集の多くは、農閑期の暇を利用し、多少の好奇心もあって、主の一行にぞろぞろ付いて来ていたのだと思います。そこで主は、付いて来たいなら、各人腰を据えてよく考え、捨て身の覚悟で付いて来るようにと、各人パーソナルな決意を促されたのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">「自分の持ち物を一切捨てなければ、誰一人私の弟子ではあり得ない」というお言葉も大切です。主は受難死を間近にして、全ての人の贖いのために、ご自身の命までも捧げ尽くそうと決意を新たにしておられたと思いますが、主の弟子たる者も、主と同じ心で多くの人の救いのために生きることを求めておられるのだと思います。主の御跡に従う決意で誓願を宣立した私たち修道者も、主のこれらのお言葉を心に銘記しながら、主に従う修道者としての初心を新たに堅めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-80821527321987321292016-08-28T00:00:00.000+09:002016-08-28T00:00:32.201+09:00説教集C2013年:2013年間第22主日(三ケ日で)第1朗読 シラ書 3章17~18、20、28~29節<br />
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章18~19、22~24a<br />
福音朗読 ルカによる福音書 14章1、7~14節<br />
<br />
<div class="MsoNormal">
<u><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2013</span></u><u><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年間第</span></u><u><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">22</span></u><u><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">主日</span></u><u><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span></u><u><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">三ケ日</span></u><u><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)<o:p></o:p></span></u></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: "MS 明朝";">①</span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読であるシラ書には、旧約のユダヤ人たちの間で愛用されていた格言や教訓が多く集められていますが、本日の朗読個所ではその内の「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる」「主は、遜る人によって崇められる」などの勧めが読まれます。とかくこの世の人間関係にだけ注目し他人からよく思われようと努め勝ちな人たちは、これらの勧めを聞くと、人前での出しゃばった言行を慎み、謙虚に振る舞うようにという意味で受け止め勝ちですが、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前での外的遜りではなく、全てを自分中心・人間中心に考えて行動する「古いアダム」の生き方を改め、何よりも神の僕・神の婢として、ひたすら神の御旨に従って生きようとする内的精神を指していると思います。それは主イエスが御自ら実際に生きて見せた生き方ですが、神はそのような実践に励む人によって崇められ、その遜りの精神と生活を通して救いの恵みをこの世の人々に豊かにお注ぎ下さるのだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: "MS 明朝";">②</span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">カトリックの教理では、人間は霊魂と肉体とから成る存在で、霊魂は純粋の霊である天使と同様に、霊界に所属する存在とされています。それで私は、まだ頭脳の働きが十全でない胎児であっても、その霊魂の働きで自分に対する母の愛情を感知したり、それに反応したりすることができるのではなかろうか、と考えています。産まれ出た途端に、赤ちゃんが助けを求めて大きな泣き声をあげるのは、既に霊魂の心情が目覚めている証拠だと思います。自分がまだ真にか弱く、親の世話を必要としていることを自覚している頃の赤ちゃんは、その愛情に包まれている時には、感謝の表現なのか真に清い綺麗な眼をしています。しかし、次第に頭脳も成長してこの世に生きるための知能も働き始めますと、肉体に「古いアダム」の命を受け継いでいるために自分中心に考えたり、全てを自分中心に利用したりする精神も心の中に目覚めて来ます。それは肉体の頭脳の発達を促進しますので、ある程度容認し大切にしなければなりません。しかし昔の家庭では、生後二歳から五歳前後にかけての頃、その利己的な傾向が露骨に現れた時には厳しく叱ったり体罰を体験させたりして、両親や周辺社会の愛情を感知し、それに感謝と従順と愛情をもって応えようとする霊魂本来の素直な働き、奥底の良心の働きを目覚めさせようとしていました。戦前の子供時代にそういう躾や教育を受けた私は、司祭になってからも、身内や親しい家庭の子供をそのように叱って、その母親たちに幼子に対する上手な叱り方などを教え、立派に成長したその子供たちからも、後年厚く感謝されています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: "MS 明朝";">③</span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ところが、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1970</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年代から日本経済が急速に発展して社会が豊かになり、自由を求める人々の価値観も極度に多様化し始めますと、古い価値観を堅持する親たちから独立して、都会のマンションなどに住む息子夫婦の家族が激増し、神や祖先や社会に対する感謝と奉仕を第一にする、各人の霊魂の心情や良心を根幹とする伝統的倫理や道義、親から実践的に仕込まれた自分の心の道義に背くことを恥として深く恐れ慎む精神などが、幼子たちの心に伝達されなくなってしまいました。若い親たち自身も、なお一層の外的自由と豊かさを追い求めて、祖先から受け継いで来た霊魂の伝統的道義心や価値観を時代遅れの束縛と見做すようになり、それらを忘れ去っているようになりました。その状態が数十年も続いた最近の社会を見ていますと、各人の霊魂に根を下ろしている筈のその人独自のプライドや道義心というものを完全に抑圧して、ただ人間の造った社会の法規に背かないなら何をしても善いと考え、この世の損得勘定にだけ没頭している人が多くなっているように思われます。人間社会が今日ほど多様化し国際化しますと、法の規制も監視もその変化について行けず、法の網を潜ってぼろ儲けをする詐欺や悪徳業者も横行するようになりました。これでは、神に似せて創られた人間存在としては、感謝と無料奉仕の精神に欠ける全くの出来損ないであり、遠からず大きな神罰を招きかねないと恐れます。人間の霊魂教育も鍛錬もできずにいる、そのような役立たずの家庭や社会を、神はいつ迄もそのままにはして置かれないと思われるからです。マルコ福音の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章やルカ福音の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">18</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章には、「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」という主の断言が記されていますが、私たち各人の霊魂の奥底に神から植え込まれている、神に対する幼子のように素直な感謝と奉仕の愛と自己抑制の精神に成長しなければ、その存在は神の国を乱す者として退けられ、滅びの穴に追い落とされてしまうと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 0mm; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; text-indent: 0mm;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: "MS 明朝";">④</span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主 イエスが、一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">譬え</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">という言葉は、二つの相異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時などによく使われる、広い意味の言葉であると聞きます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会生活にも適用して、「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」というのは、主のお考えではないと思います。主は神より遣わされた使者として、人々の救いのために奉仕する内的心構えについてだけ語っておられるのですから。相手からの報いを期待せずに、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ただ神の僕・婢として</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。この世的上下関係や損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けつつ、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちも、小さいながらそのような生き方を実践的に身につけるよう努めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-89865737612943814522016-08-21T00:00:00.000+09:002016-08-21T00:00:29.576+09:00説教集C2013年:2013年間第21主日(三ケ日で)<span style="color: red;">第1朗読 イザヤ書 66章18~21節</span><br />
<span style="color: red;">第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章5~7、11~13節</span><br />
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節</span><br />
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は、長いイザヤ預言書の最後の章の最後の部分から引用されています。神はここで新約時代の神の国、いや世の終わりの少し前頃の神の国について話しておられるようです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">19</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">節には「彼らの間に一つの<u>しるし</u>をおき」というお言葉が読まれますが、イザヤ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">7; 14</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">に神がお与えになった「見よ、乙女が身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という<u>しるし</u>を指していると思います。そして神は新約時代のこの福音を知らせる使者たちを、まだ神の名を聞いたこともなく、神の栄光を見たこともない遠い国々にまで派遣なさるようです。タルシシュという国は、現在のスペイン南部のジブラルタル海峡付近にあった国で、フェニキア人たちがそこの鉱山から獲れる産物を運んで大きな利益を上げていましたが、旧約時代にはその国が地の果てという印象を与えていました。神の国はそういう遠い国々、島々にまで述べ伝えられて、そこに住む人々も、イスラエルの子らと同様に神への献げ物を清い器に入れてなす。主は「彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる」などと、神は予告しておられるのです。そして本日の朗読のすぐ後に、神は「私の創る新しい天と新しい地が、私の前に永く続くように。云々」とこの世の終わりの後の、新しい神の国についても話しておられます。いろいろと終末期の異常現象を体験しつつある現代の私たちも、神の国の栄光に満ちた明るい未来に対する希望を堅持しながら、日々忍耐強く逞しく生き続けましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">第二朗読は、一週間前の主日にも話したように、使徒ペトロやパウロらが殉教した後の教会について、少し不安になり心が動揺していた信徒団に向けて書かれたと思われる『ヘブライ人への手紙』からの引用であります。「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」という、神がキリスト者を「神の子供」として受け入れ、鍛えて下さる由の言葉が読まれます。これらの言葉は、第二次世界大戦後に科学技術や商工業が急速に発展普及し、便利で豊かな生活を営むようになった私たちにとっても、新たな意味で大切なのではないでしょうか。現代においては多くの老人が、祖先から受け継いだ古い家屋に孤独に生活するか老人ホームに入居させられており、夫婦は共働き、子供は学校や塾での能力主義教育で相互に競わされています。昔の家族のように、三世代の家族が皆で共に汗水流して、苦労を分かち合うという姿が無くなっています。家族・学校・職場・地域社会などでは、どの分野でも個人主義が広まり、各人が日々互いに助け合わなければ生きて行けない、という心配はありません。現代人は社会に溢れる物資や情報を自由自在に利用しながら生きて行けるし、心を楽しませる娯楽にも溢れる程恵まれているからです。それで伝統的共同体の持つ相互扶助のつながりは、個人の自由を束縛するものとして邪魔者視されているのだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">しかし、こうして各種共同体の結束が乱され無力化しますと、助けを必要としている老人や子供たちの世話が後回しにされて、孤独に苦しむ老人や、様々の新しい心の問題を抱えている子供たちが世界的に増えて来ているように思われます。神なる主は、このような全地球的に広まりつつある伝統的共同体の崩壊という事態を憂慮なされ、せめて神から特別に愛されている私たちには、全ての苦しみを父なる神からの鍛錬として受け止め、自分中心の個人主義的な「古いアダム」の生き方を改めて、神の御旨中心の「新しいアダム」主キリストの生き方を実践的に体得し、今の世の人々に証しするよう、改めて呼びかけておられるのではないでしょうか。本日の第二朗読の言葉を、信仰に生きる私たちへの神のお言葉として受け止め、日々私たちの出遭う様々の不都合・誤解・失敗・煩わしさ等々を、神からの愛の鞭打ち・愛の鍛錬として主キリストと一致して受け止め、その苦しみややり直しなどを喜んでお捧げするよう心掛けましょう。自分の出遭う苦しみを、恐れないように心掛けましょう。そうすれば、私たちの上ばかりでなく、周辺の社会の人々の上にも、また特に今孤独や病気などに苦しんでいる人たちの上に、神の恵みの力と助けとを豊かに呼び下し、神の平和に満ちた実を数多く結ばせるに至ると思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の始めには、「イエスは、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">……</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">エルサレムに向かって進んでおられた」という言葉が読まれますが、ルカは既に</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">9</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">51</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">節に「イエスは天に上げられる時が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書いており、それ以降</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">19</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章後半のエルサレム入城までの出来事を、受難死目指して歩まれた主の最後の旅行中のこととして描いていますので、ルカ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">13</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章に読まれる本日の福音も、死を覚悟であくまでも主に従って行くか否かの緊張した雰囲気が、弟子たちの間に広がり始めていた状況での話であると思われます。ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねられた主は、そこにいた弟子たちと民衆一同に向かって、「狭い戸口から入るように努めなさい。云々」とおっしゃいました。その最後に話されたお言葉から察すると、東西南北から大勢の人が来て「神の国で宴会の席に着く」のですから、救われる人は多いと考えてよいでしょう。ただ、救い主のすぐ身近に生活し、外的には主と一緒に食べたり飲んだり、主の教えに耳を傾けたりしていても、内的にはいつまでも自分の考えや自分の望み中心に生活する心を改めようとしない人は、神の国に入ることを拒まれることになる、という警告も添えてのお答えだと思います。としますと、主が最初に話された「狭い戸口」というのは、主を処刑しようとしていたサドカイ派やファリサイ派が民衆に求めていた伝統的規則の遵守ではなく、当時荒れ野で貧しい隠遁生活を営んでいたエッセネ派が実践し、民衆の間にも広めていた神の内的呼びかけや導きに従うことを中心に生きようとする、謙虚な預言者的精神や信仰生活を指していると思います。伝統の外的規則を厳しく順守し定められた祈りを唱えているだけでは、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">千年前のファリサイ派のように、この世の人たちからはその努力が高く評価されても、神からはあまり評価されないのではないでしょうか。自分中心・この世の楽しみ中心の「古いアダム」の心に死んで、神の子キリストの自己犠牲的愛に生きようとする精神を実践的に体得しない限り、神は愛する私たちを厳しく鞭打たれる恐るべき方であると思われます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">このことは、現代の私たちにとっても大切だと思います。外的に何十年間修道生活を営み、数え切れない程たくさんの祈りを神に捧げていても、内的に自分のエゴ、「古いアダム」の精神に死んで、神の御子イエスの精神に生かされようと努めていなければ、それはこの世の多くの人が歩んでいる広い道を通って天国に入ろうとしていた、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">千年前のファリサイ派の信仰生活と同様、神から拒まれるのではないでしょうか。聖書にもあるように、神が私たちから求めておられるのは、外的いけにえや祈りなどの実績ではなく、何よりも神の愛中心に生きようとする、謙虚な打ち砕かれた心、我なしの悔い改めた心なのですから。天啓の教えについては殆ど知らなくても、非常に多くの人たち、異教徒たちが、心のこの「狭い戸口」を通って天国に導き入れられるのだと思います。もはや一つの川の流れのようにではなく、全てが大洋の大きな海流のようになって来ている現代のグローバル社会に、「古いアダム」の精神や個人主義が普及しますと、これまでの伝統的宗教や各種共同体の繋がりは次々と寸断されて、人類社会には捉えようがない程の漠然とした混乱と無秩序が支配するかも知れません。そのような時にこそ、主が説かれたこの「狭い戸口」の勧めが大切だと思います。しっかりと心に銘記し、将来に備えていましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000039.2528996000000028 96.23548660000003 60.2969686 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-86650622084097944702016-08-14T00:00:00.000+09:002016-08-14T00:00:36.125+09:00説教集C2013年:2013年間第20主日(三ケ日で)<span style="color: red;">第1朗読 エレミヤ書 38章4~6、8~10節</span><br />
<span style="color: red;">第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章1~4節</span><br />
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 12章49~53節</span><br />
<br />
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は、紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">6</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀初頭にエレミヤが、ユダ王国の最後の王ゼデキヤの支配下で受けた迫害について述べています。このゼデキヤ王は、その数年前にバビロニアのネブカドネザル王が二度目に首都エルサレムを攻略して、国王を始め多くの官吏や有能な技術者たちを捕囚としてバビロンに連行した時に、後に残った人々を支配するようにと、バビロン王によって任命された国王ですが、バビロンの大軍が去った後に各地に隠れていた家臣たちが首都に集まって来ると、政治はその家臣団に支配されるようになりました。新しい役人や祭司たちは、神がダビデ王に約束された言葉などに従って、エルサレムは一時的に敵に占領されることがあっても滅びることはないと信じており、強力なエジプト軍との提携を強めて、バビロンの支配から解放される道を模索し始めました。それで、神からの言葉に従って、不信な神の民を罰する「神の怒りの鞭」と立てられているバビロン王には抵抗しないように、と預言し続けているエレミヤを死刑にするため、ゼデキヤ王に圧力をかけ、エレミヤは水ための泥の中に綱でつり下ろされました。そこで苦しんで飢え死にさせるために。それを見た国王の傍に仕えるエチオピア人の宦官メレクの取り成しで、エレミヤは救い出され、誰も入ることの許されない国王の閉ざされた内庭に匿われましたが、神の言葉に従う人に、神は時としてこのような迫害や苦難をお許しになる、恐ろしい方だと思います。その苦しみはメシアの受難死と結ばれて世の罪を償い、この世の多くの人に神による救いの恵みを呼び下すパイプになるのだと思います。神は現代に生きる私たちにも、場合によりそのような苦難を捧げる使命をお与えになるかも知れません。神に対する愛と信頼の内に、恐れずに覚悟していましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">第二朗読の出典であるヘブライ人への書簡は、最後の挨拶の中に使徒パウロの愛弟子テモテ釈放の知らせを伝えていることから察しますと、使徒パウロと共に異邦人伝道に活躍していた宣教師の書いたものだと思います。テモテについての言及があることから、古代末期にはこの書簡が使徒パウロの書簡と誤解されて新約聖書に入れられましたが、その文体も表現方法もパウロのものとは大きく違っていますので、パウロの書簡ではなく、恐らくは使徒たちの殉教した後に、これからの異邦人教会の進むべき道や、周辺の異教人社会からの迫害の可能性などで不安になっている信徒団を、旧約時代からの神の啓示に基づいて新たに啓発し激励するために認められた書簡であると思います。題名にある「ヘブライ人への」という言葉は、新約聖書の聖典に採用されてから書き加えられたもので、この書簡は既に国を失って流浪の民となったユダヤ人宛てに書かれたものではありません。旧約聖書の教えが頻繁に引用されていますが、使徒パウロの説教を聴いて入信した異邦人の多くは、紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀にエジプトでギリシャ語に翻訳発行されて地中海沿岸諸国で広く読まれていた、いわゆる七十人訳の旧約聖書をよく知っていましたので、このギリシャ語の書簡はそういう異邦人キリスト者宛てのもので、ユダヤ人宛てのものではないと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">この書簡の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">6</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">12</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章の諸所に読まれる言葉から察しますと、使徒ペトロとパウロが殉教した直後頃のキリスト教会には、この世での成功発展を重視するギリシャ・ローマ文化の影響や価値観のためか、まだ主キリストの受難死の神の御前での高い価値を理解できず、使徒たち没後の教会は果たしてローマ帝国内に教勢を伸ばすことができるのか、強大な異教勢力に迫害されて潰されてしまうのではないか、一時は間もなく来ると信じられていたこの世の終わりと主キリストの再臨は、まだまだ遅れて遠い将来のことになるのではないか、等々の疑問が広まって、不安になっている人たちが多かったようです。それでこの書簡の著者は、聖書に読まれるこれまでの神の啓示を総合的に手際よく解説しながら、神から召されて自分に定められている道を最後まで忍耐強く走り続け、神が主キリストを通して提供しておられる救いと栄光に到達するように、と励ましています。本日の朗読箇所でも、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」進むこと、このイエスは目前の喜びを捨てて、十字架の死を耐え忍び、栄光の神の玉座の右に上げられたこと、気力を失って疲れ果ててしまわないように、罪人たちの反抗を忍耐されたこの主イエスの模範をよく考えること、などを説いています。そして最後に、「あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と、彼らの信仰生活が、主イエスの歩まれた、罪と戦う生き方とは違っていることを指摘しています。主も本日の福音の中で、ご自身が地上に神の愛の火を投ずるために来たこと、そのためには死と苦しみの洗礼を受けなければならないこと、またこの地上には神に従う者と従わない者との対立分裂が生ずること、などを話しておられます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">先日も申したように、この世の終末期に入って来ていると思われる現代世界には、これからますます悪霊たちの働きが盛んになって、これまでには無かった恐ろしい犯罪や災害などが多発するかも知れません。私たちもその時に気力を失って疲れ果てることのないように、主が身を持って示された模範をしっかりと心に刻みつつ、神から与えられる苦難を喜んで忍耐強く耐え忍ぶよう、今から覚悟を固めて神の助けを願い求めていましょう。苦難は、神から恵みを豊かに呼び下します。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5892766000000016 96.23548660000003 60.9605916 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-92028714905369181362016-08-07T00:00:00.000+09:002016-08-07T20:13:40.817+09:00説教集C2013年:2013年間第19主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第1朗読 知恵の書 18章6~9節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">第2朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~2、8~19節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 12章32~48節</span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-size: 18.6667px;"><u><br /></u></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日本のカトリック教会は、ローマ教皇が</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1981</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に広島でなされた「平和アピール」に応え、その翌年より毎年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">6</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日から終戦記念の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">15</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日までを「平和旬間」と定めて、世界平和のためのさまざまな共同的祈りと催しを致しています。今日はその平和旬間中の日曜日であります。それで本日は世界平和のために、このミサ聖祭を献げます。ご一緒にお祈り下さい。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の三つの朗読聖書は、いずれも小さな弱い者たちのグループが、神に信仰と信頼の眼を向けながら待っている姿を描いていると思います。そのグループの生きていた時代はそれぞれ大きく違っていて、第二朗読はアブラハムとその家族の生き方を、第一朗読は大きな不安の中でエジプトを夜に脱出し、心を合わせて荒れ野の旅を続けたイスラエルの民のことを、また福音は、まだ呼び集められて間もない主の弟子たちの小さな群れと、その弟子たちに主が話された励ましと警告の説教を扱っています。本日ここに集まっている私たちも、真に小さな弱いグループです。お互いに年齢も進んでおり、健康の上でもいろいろと不安を抱えている人たちの群れだと思います。しかし、アブラハムとその家族のように、あるいはモーセに率いられてエジプト軍の圧力や追跡をかわしながら荒れ野の道を進んだイスラエルの民のように、神の導き・働きに全てを委ね、不安の内にも一日一日を神に対する希望と愛の心で生き続けているなら、神は必ず私たちを護り導いて下さると信じます。この世の弱い自然的人間の力にだけ眼を向けることなく、何よりも全能の神の力に大胆な信仰と信頼の眼を向けながら、生活し続けましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">主は本日の福音の中で、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸いだ」などと弟子たちに教えておられますが、これらの言葉を皆信仰の立場から内的な意味で受け止め、日々神に対する希望と愛の精神を新たに目覚めさせながら、神による救いの時を忍耐強く忠実に待ち続けましょう。私は十数年前からここで皆様と共に神に土・日のミサを捧げつつ、神は私たちのこの小さな群れに特別に御眼を注いで下さっているように感じています。東海大地震や風水害などの自然災害からも護られて、神に感謝の祭儀を捧げて居れるのですから。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ご存知のように、今年の春頃からは世界の至る所で異常気象が多発しています。風水害の犠牲者や、熱中症などで病院に運び込まれる人たちが例年よりも多いようです。人為的ミスなどで発生する交通事故や、新しい詐欺事件や犯罪も増えているのではないでしょうか。新たな政治不安や外交不安に悩まれている国々もあると思います。水不足や燃料不足や電力不足、その他様々の不安要素が増えて来て、これからの世の中には物騒な事が多発するかも知れませんが、ひたすら神の導きや助けに信仰と信頼の眼を向けながら全ての乱れに対応し、希望をもって世界平和のため、神に御保護とお導きを願い求めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "Times New Roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal; font-variant-numeric: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">今年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">日の毎日新聞に、今年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月末にパンスターズ彗星が、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">11</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月末にアイソン彗星がやって来ること、いずれもこれまで来たことのない、一昨年と昨年に発見された彗星で、特にアイソン彗星は「史上最も明るい大彗星になる可能性がある」ことを読んだ時、私はすぐこれらが、かねて聖母マリアからも予告されていたあの警告の彗星ではないかと思いました。戦後、特に</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1970</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年代、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">80</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年代に世界各地でかなり多くの人たちにご出現になったり、メッセージをお与えになったり、血や涙をお流しになったりなさった聖母マリアは、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">24, 5</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年前から全くご出現もメッセージも与えずに与えずに沈黙しておられるようですが、それはオーストラリア人のある人に予めお話しになった通りで、私はそれを「嵐の前の静けさ」として受け止めていました。今年現れる二つの彗星はわが国のマスコミではその珍しさと明るさの故に歓迎されていますが、私はそれらを世の終わり前の大災害を予告する警告の彗星と思っています。春先のパンスターズ彗星は、まだ小さくて肉眼ではあまり観測できませんでしたが、しかしこの彗星が到来した頃から世界の気象は異常を記録し始め、人類は西でも東でも嘗て経験しなかった程の異常気象に悩まされているのではないでしょうか。「信仰年」が終わる今年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">11</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月末以降には、アイソン彗星の到来でもっと異常な出来事や詐欺犯罪などが多発するかも知れません。ヨハネ第一書簡にも読まれる通り、世の終わりの時代には、反キリスト即ち悪霊が数多く活躍するようですから。しかし、そのような不安を感じたら、聖母マリアに助けを願い求めて下さい。聖母は、そのような悩みに陥っている人を助ける、特別の使命を神から与えられているようですから。マタイ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">24</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章前半には、畑に二人の男がいれば一人は連れて行かれ、一人は残される、二人の女が臼をひいていれば一人は連れて行かれ、一人は残される、という世の終りについての主のお言葉がありますが、私はこの「連れて行かれる人を」を、いつまでも滅び行くこの世の中に取り残されずに、聖母により早くあの世の雲に救い上げられる人たちと受け止めています。悪霊たちの働きで異常事象が多発しても、聖母に助けを祈り求めましよう。きっと救って頂けます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000039.2528996000000028 96.23548660000003 60.2969686 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-57885355141734552502016-07-31T00:00:00.000+09:002016-07-31T00:00:00.159+09:00説教集C2013年:2013年間第18主日(三ケ日で)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 コヘレトの言葉 1章2節、2章21~23節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~5、9~11節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 12章13~21節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読の出典である『コヘレトの言葉』は、旧約時代の末期に書かれた「知恵文学」の一つで、この「知恵文学」には『ヨブ記』や『シン言』も属しており、旧約聖書外典の『知恵の書』や『シラ書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">集会書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">』なども属しています。神の民のこの「知恵文学」の類型は、諸外国との文化的交流を盛んにしたソロモン王の時代から始まりました。すなわち、エジプトやメソポタミア諸国の宮廷人や知識人の知恵文学の影響を受けて、イスラエル人の祭司・賢者・預言者たちの間では、人間生活に関する教訓詩、常套句、俚諺や警告、あるいは動植物から学んだ教訓的寓話などが流行し始めたのでした。そこにはイスラエル人の伝統的世界観や人生観を基にして、現実を肯定しつつ賢明に生きる道を求める建設的で楽観的な思想のものと共に、現実の人生に遭遇する不公平や各種の危険などを重視する懐疑的思想のものも見られました。『シン言』は、その流れの中の人生教訓や建設的な言葉を多く収録していますが、『コヘレトの言葉』は、それよりもむしろ人生の現実に対する批判的懐疑的な言葉を多く収録している、と申してよいと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は「コヘレトは言う」という言葉で始まっていますが、コヘレトは特定の人物の名ではありません。それは、作者が「集める」という意味の動詞カーハルの分詞から勝手に作った号名で、エジプトの古い教訓詩の様式に倣って、その書の始めに「私コヘレトはイスラエルの王で、エルサレムにいた」などと書き、あたかも数百年前にいた賢明な国王の言葉であるかのような印象を与えようとしていますが、そんな国王は実際には存在せず、それまでのイスラエル知識階級の内に語り伝えられていた、現実の人生に否定的懐疑的な言葉を多く収録した著作のようです。紀元</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">70</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に首都エルサレムがローマ軍によって滅ぼされ廃墟とされた後、世界中に分散して行く流浪の民となったユダヤ人の律法学者たちは、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">90</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年にユダヤのヤムニヤで会合して、旧約末期の紀元前</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀頃にエジプトでギリシャ語に翻訳され、既にオリエント・地中海沿岸諸国に広く普及しているいわゆる七十人訳聖書の内、どれをユダヤ教の聖書とするかについて協議しました。そして旧約末期にそれまでの伝えを収録した『トビト記』『ユディト記』『知恵の書』『シラ記』など、旧約聖書のかなりの部分が外典とされて、ユダヤ教の聖書から外されてしまいました。その時、『コヘレトの言葉』が聖書から外されなかったのは、旧約末期のユダヤ教でこの書が秋の収穫記念の仮庵祭に、かつての貧しかったイスラエルの民の遊牧生活を偲びながら朗読されていたからだと思われます。エジプトでの豊かさを離れて、荒れ野で</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">40</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年間も生活したイスラエルの民の流浪時代を回顧するのに相応しい言葉が、この『コヘレトの言葉』には多く読まれます。豊かさに慣れ親しんでいる現代の私たちも、刻々と過ぎ行くこの世の人生の本質的儚さを見失うことのないよう、時々はこの書の言葉を愛読していましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読の出典であるコロサイ書は、聖書学者たちの研究によりますと、使徒パウロの書簡ではなく、おそらくその近くにいた協力者が書いた書簡のようですが、作者は「あなた方はキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」などと説いています。私たちは皆遠からず死んで、上にあるあの世の世界に移るようにと神から予定されているのですから、その死の時を先取りして、日々あの世のものに心を留め、過ぎ行くこの世のものに心を引かれて道を誤り、時間や物資を無駄遣いしないようにとの勧めだと思います。しかし、この書簡の作者がその勧めに加えて、あなた方はキリストと共に死んで復活させられたのですだの、あなた方の命はキリストと共に神の内に隠されているのです、などと神秘な言葉を添えていることは注目に値します。恐らくそれは、あの世の神の側から見た現実であって、この世にいる私たちにはまだ見ることも理解することもできず、ただ聞いて信ずることしかできない真理だと思います。しかし、喜んで信じましょう。すると私たちの心のその信仰を介して神よりの恵みの力が心の中に注ぎ入れられ、私たちの心は、その恵みによって新しい確信と希望と意欲の内にあの世中心に生きるようになり、暗い死のトンネルを恐れずに、希望と愛の心で神目指して進んで行くことができるようになると思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">書簡の作者は本日の朗読の後半に、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に付け、日々新たにされて真の知識に達するのです」と述べていますが、ここで「古い人」とあるのは、自分中心の精神で神に背き、神による超自然的賜物を全て失って、この世の万物に死と苦しみを齎した古いアダムを指しており、「新しい人」とあるのは、全世界に広まっているその古いアダムの罪の穢れを、ご自身の受難死によって償い浄化した主キリストを指しています。私たちは皆、あの世の神に心の眼を向け神中心に生きようと努めるなら、その神から注がれる新しい恵みの力で、生来の古いアダムの命の衣を脱ぎ捨て、新しいキリストの命の衣を身に付けて、日々キリストの命に心の底から生かされつつ、その体験に基づいて真の知識に達するのではないでしょうか。私たち各人の善い牧者であられる主キリストの導きを正しく聴き取り、それに忠実に従って無事あの世の神の御許に辿り着く恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">「死の時を先取りして」と申したついでに、少し私たち自身の死の時のことを考えて見ましょう。心拍停止で頭が働かなくなりますと、夢も見ることが出来ませんが、しかし、そんな時にこそ霊魂が目覚めていろいろな経験をすることがあります。死後にその人の霊魂が見て来て生き返った人の実例は、立花隆氏や片桐すみ子さんの著作に沢山紹介されていますが、先日もある中堅企業の社長の実例を聞きました。その社長が心不全で心拍停止になった時、救急救命士が必死に心臓マッサージを続けたら、社長は息を吹き返したそうですが、その間に社長の霊魂は林の道を抜けて、綺麗なお花畑を通り過ぎ、川のほとりに出たそうです。対岸も見えていてこの川を渡ればあの世だと思ったそうですが、その時「あなたは自分の人生をどのくらい楽しんできましたか」という声が聞こえたそうです。社長はこの世で業績は沢山あげて来たそうですが、その問いには返事ができずにいましたら、「あなたの人生は失敗です。もう一度やり直して来なさい」という声がして、この世に戻され、その瞬間に息を吹き返したのだそうです。そして人生を楽しく生きるということは、業績を上げることではなく、マザー・テレサのように、周りの人たちから喜ばれ感謝される生き方をすることではないかと思い直し、それからは人生を新しい心で生き始めたそうです。私たちも自分の死を先取りして、あの世に行った時に快く歓迎していただけるように、日々温かい隣人愛に活きるよう心がけていましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-6729925943144851142016-07-24T00:00:00.000+09:002016-07-24T00:00:13.873+09:00説教集C2013年:2013年間第17主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 創世記 18章20~32節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 コロサイの信徒への手紙 2章12~14節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 11章1~13節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読の始めには、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」という神のお言葉があって、罪悪を忌み嫌われる神がそれらの町々を滅ぼそうとしておられる御決意が、朗読箇所全体の雰囲気を圧しているように感じられます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">4</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">千年近い、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">千数百年前の出来事についての伝えですが、神は現代世界に対しても同様の憂慮と決意を抱いておられるのではないでしょうか。ソドムとゴモラの罪をはるかに凌ぐ罪悪が日々横行し、万物の創造主であられる神を無視し悲しませるような、自然界の汚染が急速に、しかも大規模に進行しているからです。人類の人口は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2030</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">80</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">億、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2050</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">90</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">億などと予測されていますが、産業革命と共に始まった地球の温暖化が、節度を厳しく守ろうとしない人間の欲望によってますます進行し、異常気象による農作物の減少や農地の砂漠化、氷河の溶解などの現象が深刻になりつつあります。国連の「気象変動に関する政府間パネル</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"> (IPCC)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">」の報告では、このままの状態が続くと、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2050</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年には世界の飢餓人口が</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">千万人、水不足に悩む人が</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">億人に増え、その後はもっと恐ろしい事態が発生するであろう、などと警告されています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">今から</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">9</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">百年ほど前のアイルランドには、古都アーマーの大司教であったマラキという預言者が住んでいました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1139</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に初めてローマを訪れた時、その往復の途次クレルボー修道院に滞在して聖ベルナルド修道院長と親交を結んでいましたが、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1148</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に再度ローマ教皇に会うため旅行をした時に、クレルボーで激しい熱病を病み、ベルナルド院長に看取られて亡くなりました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">54</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">歳でした。マラキ大司教がこの時ローマ教皇に手渡そうとしていた一枚の紙には、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1143</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に教皇になったチエレスティーヌス2世から世の終わりまでの全ての教皇の特性が、ラテン語でごく短く数語で表記されており、聖ベルナルドからその預言書を受け取ったローマ教皇庁は、それを門外不出の極秘文書として保管していました。しかし、印刷術が発明されて普及した</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀の終り頃に出版された『生命の木』と題するラテン語の著書の末尾に、その予言の全文が公刊されてしまいました。それを読んだ歴史家たちは、驚いたと思います。それまでの数十人の教皇たちの特性が皆、ある意味でよく表現されていたからです。私がこの預言書を知ったのは、終戦後間もない神学生時代でしたが、次の教皇即ちヨハネ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">23</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">Pator et nauta(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">牧者と船乗り</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">) </span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">となっていて、この教皇の時代に教会はヨーロッパの司牧中心主義から脱皮して、海外の諸宗教にも大きく心を開いた全人類の宗教になるのではなかろうか、などと推測されていました。公会議開催の動きが報道された時、私はなる程と思いました。ヨハネ・パウロ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世については、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">de labore
Solis(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">太陽の働きで</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">と予言されていたので、私が神学生であった頃には、この教皇の下でカトリック教会が全世界に広まるのではなかろうか、などと噂されていました。しかし事実は少し違って、この教皇が韓国や日本にまでも旅行なされたことを意味していたようです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">その次のベネディクト</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世については、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">Gloria olivae(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">オリーブの栄光</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">と予言されていて、私たちはオリーブは殉教者と関係が深いので、この教皇は殉教するのではなかろうか、などと噂していました。この教皇は栄光の座にあって、優れた神学者として立派な働きをなさいましたが、しかし、登位なされて間もなくに世界各国での聖職者たちのセクハラが次々と露見し、保守的な教皇に対するマスコミの攻撃も激しさを増して、高齢のためにも教皇としての激務を続けられなくなり、遂に引退なされました。その次の現教皇については</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">Petrus Romanus(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ローマ人ペトロ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">と記されており、初代のローマ司教ペトロのように、ヨーロッパ大陸からは遠く離れた他の大陸の庶民層出身の人が教皇になりましたが、マラキの預言によりますとこの人が最後のローマ教皇で、多くの苦難の中で司牧しますが、この教皇の時に七つの丘の町</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">(</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">即ちローマの町</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">)</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">は崩壊し、最後の審判が始まるとされています。と申しますと、この預言に従うなら今の私たちは既に世の終わり直前の時代に生きており、神が人間中心主義の罪で穢れたこの世の全てに恐ろしい苦難を与えてその全ての罪を償わせ、復活した主キリストの栄光に参与して輝く新しい世界に産まれ変わらせる時は、既に間近に来ており、今私たちの祝っている「信仰年」は、その苦難の時に備えて信仰・希望・愛に生きる心を整えて置くようにと、神の摂理が私たちにお与えになった特別の修練期間なのかも知れません。目覚しく発展しつつある今の世界の豊かさを謳歌する人たちの多くは、まだ世の終わりには成りそうでないと思うと思いますが、終末は全く突然に訪れる死のようなもので、豊かに発展しつつあった二千年前のエルサレムの町が、突然ローマの大軍に包囲されて人が住めない程の徹底的廃墟と化したように到来するようです。「その日その時は誰も予測できない」という主のお言葉もあります。その日に聖母マリアや主の導き・助けを受けることができるよう、今から心を備えて置きましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の中で弟子の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい」と願うと、主は「祈る時にはこう言いなさい」とおっしゃって、「父よ、あなたの御名が聖とされますように」という言葉で始まる祈りを教えて下さいました。これが、主が教えて下さった本来の「主の祈り」であると思います。マタイが主のお言葉を総合的に手際よくまとめた山上の説教の中では、「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように」という言葉で「主の祈り」が始まっていますが、これは、初代教会が主から教わった祈りを集会の儀式用に多少補い変更させた祈りであろうと言われています。しかし、どちらの祈りでも、「御名が聖とされますように」という言葉が真っ先に置かれていることは大切だと思います。「聖とされる」という言葉は日本人には解り難いという理由で、プロテスタント諸派でもカトリックでも、この言葉は明治時代から「崇められますように」や「尊まれますように」などと訳し変えられ、宗教儀式でもそのように唱えられていましたが、これは主が唱えるようにとお命じになった祈りの言葉を、人間の考えによって別の意味の言葉に変えて唱えることになり、主のお望みに反することになると恐れます。主は「祈る時には、こう言いなさい」とお命じになったのですから。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">私は司祭叙階後にヨーロッパに留学しましたら、西欧諸国の言語にこの言葉がどこの国でも、「聖とされる」と翻訳されて使われているのを体験し、日本語訳が原文と違っているのが気になってなりませんでした。幸い十数年前から日本の聖公会とカトリック教会とが共同で、儀式の時に唱える「主の祈り」に「御名が聖とされますように」という邦訳を導入してくれましたので、今は感謝し喜んでいます。この祈りは主が教えて下さったという意味だけではなく、主ご自身が私たちと一緒に唱えて下さるという意味でも「主の祈り」であり、その言葉を私たち人間の考えや分り易さを中心にして変更することは、父なる神の聖さがこの世においても讃えられるようにと切に願っておられる、主のお望みに反するのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">「聖」という価値観は、真・善・美などのこの世の人間社会でも通用する価値観とは違って、本来神中心主義の美しさに輝いているようなあの世的聖さの価値観であり、この世の人間には解り難い価値観であります。主がそれを御承知の上で、あえて「御名が聖とされますように」という祈りを真っ先に唱えるようにとお命じになったのは、主と一致して度々そのように唱えている内に、私たちの心があの世的価値観に慣れ親しみ、聖霊の働きによってその価値観を正しく解るようになるからではないでしょうか。またこの言葉に続く幾つかの祈りは、全てこの最初の祈り一つに集約されるからでもあると思います。自分の考えを中心に据えて生きる人の多い「古いアダム」の罪がはびこっているこの穢れた被造物界に、父なる神中心に徹底的従順に生きる新しい神の愛の聖さを聖霊の働きによって根付かせ広めて行こうというのが、人間イエスの一番大きな願いであり、神の御国の広まりも日毎の糧の恵みも、他の全ては皆そのための手段に過ぎないように思われます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑦<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">私たちの人間理性はこの世の事物を理解する能力ですので、神中心主義の愛の美しさに輝くその聖さを理解することも、自分の力で獲得することもできません。いや、宇宙万物の創造主を「父」とお呼びする大胆な愛を身につけることもできないと思います。しかし、主のお言葉に従い主と一致してそのように祈っていますと、主も私たちの心の中で一緒に祈って下さり、聖霊がその心の中で働いて、私たちに神の聖さを解らせて下さるのではないでしょうか。私たちの霊魂は、まだ心の奥に残っている、全てを自分中心に考える古いアダムの穢れた精神を、少なくとも死後あの世の浄めの火で徹底的に焼き尽くし、己を無にして神の御旨中心に生きる存在に変革されて、神中心の超自然的聖さに輝き始めない限り、諸聖人たちのいる天国には入れてもらえないと思います。私たちも諸聖人たちの模範に倣って、この世に生活する時から主の提供しておられるあの世的聖さを体得し、皆聖人になるよう努めましょう。察するに、日々御ミサの度毎にこの祭壇にお出で下さる御復活の主イエスは、今も毎日「父よ、御名が聖とされますように」と天の父なる神に祈っておられ、私たちがその祈りを唱える時、主も私たちの内で一緒に唱え、父なる神に捧げておられるのではないでしょうか。主の現存を信じつつ、主と御一緒に「主の祈り」を唱えるよう心掛けましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-4436665237491517692016-07-17T00:00:00.000+09:002016-07-17T00:00:06.274+09:00説教集C2013年:2013年間第16主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 創世記 18章1~10a節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章24~28節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 10章38~42節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">主が弟子たちを連れてやって来た村は本日の福音では「ある村」となっていますが、エルサレムに近いベタニヤという村でした。そこにはラザロという、多分富裕な貿易商と思われる人が大きな家屋敷を構えていて、いつも主の一行を快く泊めてくれていました。主のご受難の少し前に、このラザロが死んで屋敷内の墓に葬られていたのを、主が蘇らせた話がヨハネ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">11</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">章に書かれていますが、そこにもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカ福音書には、七つの悪魔を追い出してもらったマグダラのマリアと呼ばれる女の話もあって、この女が特にヨハネ福音書では、主の受難死と復活の時に主に忠実に留まり続けて活躍したように描かれていますが、同じ古代末期の崩れ行く社会の中に生まれ育ち、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">4</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">世紀後半に長年エルサレムに滞在して新約聖書をラテン語に翻訳したり、聖書の注解書を著したりした聖ヒエロニモは、このマグダラのマリアとラザロの妹マリアとを同一人物としています。しかし、社会体制も社会道徳も比較的安定していた時代しか知らないある聖書学者が、この二人が同一人物であるとは考えられないという仮説を唱えたことがありました。確かに、首都圏の立派な資産家の家に生まれ育った女が、貧しい家の出身者が多いマグダラの遊女たちの間で生活する程に身を持ち崩し、社会からも「罪の女」として後ろ指を指されるに到ったなどということは、通常では考えられないと思います。でも、社会全体が根底から文化的液状化現象で揺らぎ、社会道徳も心の教育も、基盤とする権威を失って崩壊しつつあるような時代には、現代においてもそのような異変が起こり得るのではないでしょうか。伝統的な堅苦しい束縛を嫌い、自分の思いのままに生きようとする人間は今の時代にも多いようです。良家の娘が家出をしたりした話は、現代にもたくさんありますから。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">本日の福音に戻りますと、罪の女の生活から足を洗って元の家に戻っている、そのマリアがいる家に主が弟子たちを連れてやって来ると、妹と違って伝統的良風を堅持し、家事を任せられていたと思われるマルタは、突然の客たちの夕食の準備で大忙しであったと思われます。マルタという名前は、当時シリア、パレスチナ地方に住んでいた庶民が、異教徒もユダヤ人もごく一般的に話していたアラム語では「女主人」という意味だそうですが、マルタは名実共に女主人として、本日の福音にあるように、「いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いていた」のだと思います。ルカ福音書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">章の始めには、主と</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">12</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">使徒たちの旅行には以前に悪霊や病気から癒された数人の婦人たちも同行していたとありますから、マルタは、他所から来たその婦人たちにも、いろいろと指示を与えながら、主の一行の食事の準備などに追われて、心が少し散り散りになっていたかも知れません。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">ところが、自分の家のことをよく知る妹のマリアはマルタに手伝おうとはせず、広間で主の弟子たちと一緒に主の足元に座して、主の話に聞き入っていました。当時の伝統的慣習では、女性は公的なシナゴガだけではなく個人宅の広間などでも、男性客の間に入り混じって話を聞いたり教えを尋ねたりすることは許されず、女の慎みに欠ける行為とされていました。当時の律法学者たちが、律法の教えを学ぶのは男性の務めであって、女性にはふさわしくないと教えていたからでもあると思います。伝統的慎みの慣習を重視していたと思われるマルタは、折角自宅に戻って来た妹のそのような慎みを欠く行為を見て、できれば一言すぐに注意したかったでしょうが、主のすぐ真ん前ですし、主が何もおっしゃらないので暫くは見て見ぬふりをしていたのかも知れません。しかし、遂に我慢できなくなったのだと思います。主のお側に近寄って「主よ、妹が私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい」と申しました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">主はそれに対して「マルタ、マルタ」と名前を二度も重ねて呼んでいますが、これはマルタへの親しみの情の表現だと思います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」とおっしゃいました。私たちも客人のもてなす時には、その人から良く思われるよう種々配慮しますし、その配慮は必要ですが、しかし、そのことで心を乱し、客人に対する接待を喜びの心のこもらないものにしてはならないというのが、主の教えではないでしょうか。外的慎みの配慮やもてなしの価値は、それらの配慮や奉仕に込める、神や客人への心の愛にあると思います。人と人の考えや好みや価値観などが大きく多様化している時代には、もてなしの心の本質を念頭において、ひたすら神の方に眼を向けつつ喜んで奉仕するように、というのが主のお勧めなのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">最後に、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というお言葉も、大切だと思います。ここで「良い方」とある言葉は、何を指しているのでしょうか。いろいろと意見があるでしょうが、私はこれを、昔ある人たちが考えたような観想生活のことではなく、自分に対する主の御言葉、神からの呼びかけなどを指していると思います。罪から立ち上がる恵みを得たマリアは、ひたすら神よりの呼びかけにのみ心を向けて生きようとしていた、進歩的女性だったのではないでしょうか。女性を家事や子育てだけに閉じ込めて来た旧来の伝統に反対し、いわば自分も主の女弟子になって男たちと共に主のお言葉を聴聞し、その証し人になることを望んでいたのかも知れません。主はその大胆な新しい試みを快く容認なされ、そのことを「良い方」と表現なされたのだと思われます。女性は律法研究などの男性の務めには立ち入らず、食事や育児などの家事の世話に専念すべきだとしていた律法学者たちの伝統的思想を退け、女性であっても神を愛し神に従おうとしているならその心を是とし、律法の理知的理解よりもメシアの新しい教えや神の霊の導きを信仰をもって受け入れる心、それに従おうとする自主的心の愛を重視しておられたからだと思われます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">ガラテヤ書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">章の中で、ユダヤ教の律法をキリストがお出でになるまでの「養育係」と説いている使徒パウロは、すぐその後で、「私たちはもう養育係の下にはおりません。あなた方は皆、信仰によってキリスト・イエスと一致し、神の子なのです」「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人も、男も女もありません」などと書いています。時代遅れになっていたユダヤ教の律法に反発するあまり、罪の女にまで成り下がって社会的対面をつぶし、ゼロにまで成ったマリアは、主キリストに出会って神に対するその罪を全て赦して戴くと、その主に対する信仰と愛と感謝の心で、律法中心の旧約の生き方から完全に脱皮し、メシア中心・神中心の新約時代の信仰一つに転向し、主の女弟子のようになって生き始めたのではないでしょうか。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という主のお言葉は、この立場で受け止めたいと思います。主のご受難の六日前、非常に高価なナルドの香油を</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1</span><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">リトラも主の御足に注いで自分の髪の毛で拭いたマリアは、その心の愛にかけては、当時の主の弟子たちよりも熱心だったのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑦<span style="font-family: "times new roman"; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "ms 明朝" , serif; font-size: 14.0pt;">それが、人の心も神の霊の働きもそれぞれ極度に多様化する大きな過渡期に、主が多種多様な個性的人々を救うためにお示しになった生き方であると思います。「グローバル時代」と言われる現代は外的にも内的にも、未だかつて無かった程大きな過渡期であると言ってよいでしょう。私たちも、男女を問わず一人でも多くの人が、崩れ行く伝統的枠組みに拘泥せずに、善き牧者であられる主キリストの御声や神の霊の導きに従うことを何よりも大切にして、激変する終末的な今の世の荒波を乗り切る力と助けを神から受けるに至るよう、神の憐れみと恵みを祈り求めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-12177040187635707622016-07-10T00:00:00.000+09:002016-07-10T00:00:02.375+09:00説教集C2013年:2013年間第15主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 申命記 30章10~14節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章15~20節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 10章25~37節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰りなさい」と言った後に、「この戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」などと話しています。長年待望して来た約束の地を目前にしてモーセは、私たちの信じている神をどこか遠い海の彼方や、天高くに離れておられる方と考えないように、神はいつも私たちのごく近くにおられて、私たちの話す言葉や私たちの心の思いの中でまでも働いて下さる方なのだ、と愛する神の民の心にしっかりと刻み込んで置きたかったのではないでしょうか。察するに、モーセは自分の口や心の中での神のそのような神秘な働きを実際に幾度も体験し、神の身近な現存を確信していたのだと思われます。モーセがここで「律法の戒めと掟」と話している掟の内容も、後の時代の律法とは異なり、神の十戒を中心とするごく基本的な戒めや心構えだけであったと思います。私たちも神のこの身近な臨在に対する信仰を新たにしながら、各人に対するその神のひそかな御声に心の耳を傾け、神の働きに導かれて生活するよう心がけましょう。それが、温かい共同体精神が無力化して孤独と不安の中に生活している人の多い今の世に、私たちが心の本当の内的喜びと仕合わせに到達する道であると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の中で主は、一人の律法学者から「では、私の隣人とは誰ですか」という質問に答えて、「善きサマリア人の譬え」を話されました。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く、石と岩ばかりが累々と</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">数キロも続く長い淋しい荒れ野の坂道で、追いはぎに襲われて衣服まで奪い取られ、半殺しにされてしまいました。そこに一人の祭司が、エルサレムでの一週間の務めを終えて帰る途中なのか、通りかかりました。しかし、その人を見ると、道の反対側を通って行ってしまいました。聖なるエルサレム神殿での勤めにだけ奉仕していて、穢れたものや血の穢れのあるものには関わりたくない、という心が強かったのかも知れません。同じように、神殿に奉仕しているまだ若いレビ人も通りかかりましたが、その人を見ると、道の反対側を通って過ぎ去って行きました。日頃綺麗な仕事にだけたずさわっていることの多い私たち修道者も、神の導きで全く思いがけずに助けを必要としている人に出遭ったら、その人を避けて過ぎ去ることのないよう、日頃から自分の心に言い聞かせていましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">譬え話では、最後にサマリア人の旅人、おそらく商用で旅行している人が来て、その傷ついた人を見ると憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せます。そして宿屋に連れて行って介抱します。ここでルカが書いている「見て、憐れに思い、近寄る」という三つの動詞の連続は、主がナインの寡婦の一人息子を蘇らせた奇跡の時にも登場しており、ルカが好んで使う一種の決まり文句のように見えます。なお、「憐れに思う」という動詞は、新約聖書に</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">12</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">回使われていますが、主の譬え話の中で放蕩息子の父親や、僕に対する主人の行為として、また本日の福音に読まれる半殺しにされた人に対するサマリア人の行為として</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">回使われている以外は、新約聖書では全て主イエズスの行為、または神の行為としてのみ使われています。従って、譬え話にある放蕩息子の父親も僕の主人も、共に神を示しているように、この善いサマリア人の譬え話においても、サマリア人の中に愛の神が働いておられる、と考えてよいと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">主はこの譬え話をなされた後で律法の専門家に、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。そして律法学者が「その人に憐れみの業をなした人です」と答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。ここで、律法の専門家の「私にとって隣人は誰ですか」という質問に戻ってみましょう。主が「あなたにとって隣人はこの人です」と具体的に隣人を示して下さっても、その人に対する愛が生ずるとは限りません。この人を愛するように神から義務づけられていると思うと、人間の心は弱いもので、その人に対する愛よりも嫌気が生じて来たりします。ですから主は、律法にあるように法的理知的にその人の隣人を決めようとはなさいません。実は、私たち各人の心の精神が自分の隣人を産み出すのです。しかもその場合、相手が自分に対して隣人になるのではなく、その人の内に私たちに対する神からの導きや招きの声を感知して、その人を愛する自分が、相手に対して隣人になるのです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">こうして自分の隣人を主体的に産み出し、隣人愛を実践することが、律法学者が始めに尋ねた「永遠の命をいただく」道なのではないでしょうか。同じことは、夫婦の相互愛についても言うことができると思います。そのようにして隣人愛や夫婦愛に生きる人の中で、苦しんでいる人や助けを必要としている人を見て憐れに思い、近寄って助けて下さる神が働くのであり、その人は、自分の内に働くこの神の愛を、数々の体験によってますます深く実感し、自分の心が奥底から清められ高められて、日々豊かに強くなって行くのを見るようになるのです。私たちがそのような幸せな神の愛の生き方を実践的に会得できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-71223690865275264222016-07-03T00:00:00.000+09:002016-07-03T00:00:10.154+09:00説教集C2013年:2013年間第14主日(三ケ日)<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.6pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .1gd; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -13.55pt;">
<span style="color: red; font-family: MS 明朝, serif;">第1朗読 イザヤ書 66章10~14c節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.6pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .1gd; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -13.55pt;">
<span style="color: red; font-family: MS 明朝, serif;">第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.6pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .1gd; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -13.55pt;">
</div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.6pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .1gd; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -13.55pt;">
<span style="color: red; font-family: MS 明朝, serif;">福音朗読 ルカによる福音書 10章1~12、17~20節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.6pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .1gd; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -13.55pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.6pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .1gd; tab-stops: 22.5pt; text-indent: -13.55pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">①本日の第二朗読の中で、使徒パウロは、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」、「大切なのは、新しく創造されることです」などと述べていますが、続いて「私は、イエスの焼印を身に受けているのです」とある言葉は、焼印を押されて主人の持ち物とされ、主人の考え通りに働く古代の奴隷たちを連想させます。使徒パウロは、それ程に全身全霊をあげて神の子イエスの内的奴隷となり、神中心に生きる「神の子」という新しい被造物に創造されることに、心を打ち込んでいたのだと思われます。古代の奴隷や奴隷女は、いつも自分の所有者である主人の考えや言葉に心を向け、その考えに従って行動し働こうとしている存在であって、自分の考えや自分の解釈、あるいは自分の望みのままに行動する自由は持っていませんでした。外的には自由のない可哀そうな存在と思われるかも知れませんが、しかし、その主人が愛深い牧者のような人である場合は、我なしのその従順によって主人から実に多くのことを実践的に学び取り、能力も磨かれ鍛えられて幸せに生きることができました。使徒パウロは、そういう主人・主キリストの奴隷として生きることに、大きな喜びと感謝を見出していたのだと思います。私たちも、その模範に倣うよう心がけましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.55pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: -.04gd; text-indent: -15.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">②戦後数十年間も自由主義と個人主義の教育が続きましたら、日頃他者と一緒に助け合い励まし合って、不便を忍び困難に打ち克って生きるという体験をしたことがなく、極度の便利さの中で自分独りで全てを利用しながら生きているために、自分のその気ままと個人主義が無視され否定されたと思うような言行に出会うと、途端に自分が否定されたと受け止めて怒り出す、いわゆる「キレる」人間が多くなって来たように思われます。その人たちは、孤独な過敏さと被害者感覚が心の奥に蓄積されていて、考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、心が個人主義一つに立て篭もっているために落ち着きがなく、自分の思い通りにならない現実に直面すると、心の衝動をコントロールすることが出来なくて、極度に苦しむのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.6pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: -.32gd; text-indent: -18.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">③こういう人たちは社会にとって真に迷惑な困った存在ですが、本人たち自身も自分の心を持て余し、半分捨て鉢になって苦しんでいるのかも知れません。私は現代のキレる人たちをその心から救う道は、神を信奉すること以外にないと考えます。現代は国家も社会も家族も極度に多様化しつつあり、内面から分裂し分散する動きを示していて、個人主義の極限で苦しむ人の心を癒したり、その苦悩から救い上げたりすることは期待できないからです。美空ひばりが「川の流れのように」を歌った昭和最晩年の頃からは、島国日本の社会にも、地球規模のグロバール社会の色彩がそれまでよりも遥かに濃くなって来て、日本社会はもう一本の川の流れのように動いているのではなく、地球規模の様々な海流に揉まれながら動いているように見えます。外的にはまだ日本人が主導権を握っていますが、しかし社会の流れはもう川ではなく、様々な汚れや塩分や毒物を巻き込んでいる海水の流れになっています。海ではあらゆる分野で世界各国の異変の影響を大きく受けますし、これまで経験して来なかった深みに潜む深層水の流れにも配慮しなければならない、という不安もあると思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.55pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .1gd; text-indent: -13.5pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">④捉えようがない程のこの不安に、人々の心が目覚め始めたからなのでしょうか、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;">21</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀の初め頃からは各個人の心の安定のため、オーム真理教のサリン事件などで宗教に背を向けていた若者たちの間でも、再び神信仰に対する関心が目覚めて来たようです。でも、その関心は宗教教団に対する関心ではなく、神信仰に基づく各個人の心の内観や、自己決定や自己責任などを重視する、自分の心の内的刷新に対する関心のようです。宗教集団には様々の古い法規や組織が居座っていて、そんな堅苦しいものに束縛されることを嫌っているのかも知れません。形は個人的であっても、真の神を信奉することが孤独と不安に悩む現代人を、新たな形で主キリストによる救いヘと導いてくれると信じます。主からのその恵みと、聖霊の御導きとを、孤独に苦しむ多くの現代人の上に祈り求めたいと思います。出身地も教育も大きく異なる人たちが、深刻な不安の内に自分中心に生きようとする心を改め、謙虚に神を信奉し神の新たな導きに従う心で、相互に結ばれ助け合うことを、神も現代社会に生きる人たちから望んでおられるのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.65pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .53gd; text-indent: -9.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">⑤本日の福音には、「どこかの家に入ったら、まずこの家に平和があるようにと言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人の上に留まる。もしいなければ、その平和はあなた方に戻って来る」という主のお言葉があります。各人の思想も関心も極度に多様化しつつある現代のグローバル社会においては、このお言葉は大切だと思います。ここで「平和」と邦訳されている言葉シャロームは、「平安」と理解してもよいと思います。私の今いる神言神学院にはアジア・アフリカ・ヨーロッパ・アメリカの</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ケ国人が一緒に生活していますが、年齢差もあって日本人同志であっても、お互いに話し相手のことはある限られた範囲までしか分りません。でも、互いに相手のことを詳しく知らなくても、仲良く一緒に祈り一緒に食事をし一緒に働くことはできます。お互いに主の平安が相手の心にあるようにと祈っていれば、主ご自身が私たちの中で働いて下さいます。主が唱えるようにとお命じになったこの祈りは、少しも無駄になりません。相手の心がその平安を受け入れなければ、その平安は自分の心に返し与えられるのですから。主は、本日の福音にあるように七十二人の弟子たちを派遣なされた時だけではなく、マタイ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章では十二使徒を選んで派遣なされた時にも、全く同じようにお命じになっておられます。それで私は、使徒や弟子たちが主から命じられたこの言葉を唱える時、その瞬間に神なる主がそこに現存して彼らは霊的に主の器・道具となり、主ご自身が彼らを通してそこにお働き下さり、人々に恵みを与えて下さるのだ、と受け止めています。聖書によりますと、主から派遣された彼らは、外的には主から遠く離れていても、病人を癒したり悪霊を追い出したりしていますが、それは主のお言葉に従って実践した彼らを介して、主が霊的に現存し働いて下さったからだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 14.65pt; mso-layout-grid-align: none; mso-para-margin-left: .53gd; text-indent: -9.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 12.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">⑥その同じ主は、死ぬことのないあの世の命に復活なされて、今は私たちと共におられます。私たちも主のお言葉を信じて同じように実行してみましょう。主は私たちを通してもお働き下さいます。主はまた別の時に弟子たちに、あなた方はこのように祈りなさいとお命じになって、「主の祈り」を教えて下さいました。私は、主のご命令に従ってこの祈りを唱える時も、主がその瞬間に私たちの中に霊的に現存されて、私たちと共に天の御父に祈って下さるのだと信じています。私たちはミサの中でも、ロザリオの祈りの時にも、この祈りを唱えますが、その時主が私たちと一緒に祈っておられるのだ、という信仰に生きるよう心がけましょう。すると主が実際に私たちの内にも、また周囲の人たちのためにも善い働きを為して下さいます。これは、現代のような終末の世の不安に揉まれて生活する時代には、非常に大切な「人生の秘訣」であると思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 12.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-15768660896668082072016-06-26T00:00:00.000+09:002016-06-26T00:00:13.035+09:00説教集C2013年:2013年間第13主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 列王記上 19章16b、19~21節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章1、13~18節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 9章51~62節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の三つの朗読聖書は、主に従う者が身につけるべき特性について教えていると思います。第一朗読は、エリヤがエリシャを預言者として召し出す独特の仕方について伝えています。言葉で呼びかけて従わせたのではありません。何も言わずに、働いているエリシャのそばを通り、自分の外套を彼の上に投げかけただけなのです。この出来事の前に、神からエリシャに何かの話があったのかも知れませんが、この思いがけない突然の出来事に出遭った時、エリシャはすぐにエリヤの後を追い、父母に別れの接吻をさせてくれるよう願って、「それからあなたに従います」と話しています。エリヤのなした風変わりな行為を神よりのものとして受け止め、早速対応する預言者的信仰のセンスが、エリシャの心に成熟していたしるしだと思います。エリヤもそれを認めて願いを許可しましたが、その時「私があなたに何をしたのか」という言葉を口にします。よく判りませんが、これは、私があなたに為した行為を忘れず、思いがけない小さな出来事の背後にも、神からの呼びかけを感知する心のセンスを大切にしているように、というような意味ではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">第二朗読には、「キリストが私たちを自由の身にして下さったのです」「自由を得させるために」という言葉が読まれます。ここで言われている「自由」とは、何からの自由を指しているのでしょうか。本日の朗読個所では説明が省かれていますが、すぐその言葉に続くガラテヤ書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">5</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2~12</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">節を読んでみますと、律法からの自由、すなわち律法の細かい規定を厳守することによって宗教的救いを得ようとする、ある意味では人間主導・自分中心のファリサイ的生き方からの自由を指していると思います。それは、自分で何かを獲得しよう、利用しよう、所有しようとする欲求や生き方からの自由ではないでしょうか。したがって、第二朗読に読まれる「奴隷のクビキに二度と繋がれてはなりません」という言葉は、そういう自分中心の生き方や「肉の欲望」に負けてはならないという意味だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">戦後の自由主義・能力主義教育の普及と核家族の激増とにより、皆で力を合わせて生きようとしていた、それまでの地域共同体や家族共同体の結束が急速に弱まった上に、現代技術文明の発達で日常生活が極度に便利になりますと、現代の日本には自分の思いのままに一人で生きて行こうとする人間が多くなり、各人の価値観も好みも違うため、家庭においても家族と皆で楽しく話し合うことが少なくなり、テレビやインターネットや携帯電話の頻繁な利用で、話し相手の顔が見えない半分バーチャルな夢世界で生きている人々や子供たちが多くなりました。夢を見ている時、人は内的には孤独で遊ぶようにして世渡りをしていますが、しかし時には不安感や恐怖感、あるいは人々からの見捨てられ感などに襲われます。「キレる」という言葉は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1998</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年から辞書に登場しますから、その少し前の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">90</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年代中ごろから、日本の各地でそのような症状を示す、感性的に未熟な子供や若者たちが多くなったと思われます。昔にも「堪忍袋の緒が切れる」という表現がありますが、これは、まず忍耐を続けた後の怒りであるのに比べますと、現代の「キレる」人は、耐え忍ぶ心が働かずに、始めから突発的に怒りが爆発するようです。日頃他者と一緒に助け合い励まし合って生きることなく、自分独りで孤独と不安の中で生きているため、その気ままと個人主義が無視されたと感ずるような言行に出会うと、途端に見捨てられたと受け止めて怒り出す、過敏さと被害者感覚とが心の中に共存しているのかも知れません。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、自分の思い通りにならない現実社会を蔑視する傲慢さもあって、心の奥に落ち着きがなく、心の衝動をコントロールすることが苦手なのでないでしょうか。こういう人たちは社会にとって迷惑千万の困った存在ですが、本人たち自身も自分を持てあまし、苦しんでいるのかも知れません。私は「キレる」人たちをその心から救い得るものは、神信仰以外にないと考えます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1995</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年にオウム真理教事件が発生すると、一時的に若者たちの宗教に対する関心が低落し、伝統宗教に対する教団離れが一層進んだばかりでなく、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">80</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年代以降に急成長していた新新宗教に対する関心も薄れたようですが、伝統的な共同体精神が次々と崩壊し、各人の思想も価値観も極度に多様化しつつある現代の終末的社会にあっては、この社会的現象は驚くほど多くの人の心を深刻な内的孤独と絶望の淵へと落ち込ませるのではないかと恐れます。現代世界は外的には各人に、富も便利さも情報も技術も楽しみも山ほど提供していますが、多くの人の心はそれらに満足できずに深い孤独と絶望に悩み始めるのです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">こういう人たちの心の救いのためには、その人たちを既成の宗教集団の社会的組織の中に連れ戻そうとするのではなく、むしろその心を全く個人的な宗教の原点に立ち返らせ、そこで万物の創造主で全ての恵みの与え主であられる神と、自分の人生との関係について目覚めさせる必要があるのではないでしょうか。仏教の創始者釈尊は、遺言として「自灯明法灯明」、すなわち自分の今の現実体験からの光と、「法」即ち神からの光という二つの光だけを頼りとして生活することを勧めています。時代の大きな変わり目には社会的組織それ自体が大きな分裂の悩みを抱えていて、私たちの心の頼りにはならないからだと思います。主キリストも善き牧者の譬えを通して、羊たちが各々善い牧者の声を聴き分けそれに従うことを、教えておられると思います。主の創立なされたカトリック教会も、極度に多様化しつつある現代世界の流れの中で大きな悩みを抱えています。このような時代には各人がそれぞれ自分の日々の生活の中に現存し働いて下さる主キリストの御声を聴き分け、それに従う実践信仰に心がけるべきなのではないでしょうか。各人の具体的生活の場が多様化しているように、その中での主のお導きも外的には人によって大きく違うと思います。それらを人間の考えで合理的にまとめようとはせずに、唯ひたすらその時その時の自分に対する神の導きに黙々と従う実践信仰に励みましょう。それが、ますます混沌の度合いを深めつつあるこれからの時代にあって、神によって護られ救い出される生き方、そして神の道具となって隣人たちを助け、豊かな愛の実を結ぶ生き方であると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「霊の導きに従って歩みなさい」と強調しています。その愛の霊は既に私たちの心の奥底には与えられていますが、自分のこれまでの孤独な生き方や自力の限界を痛感し、神よりの助けを新たな形で祈り求めている現代の若者たちの心にも、神の憐れみによって与えられるよう祈りましょう。彼らが心の奥底に現存しておられる神の霊に信仰と信頼の眼を向け、自分中心であった古いエゴを捨てて、神中心に神の愛の霊に導かれて生きよう、この不信の闇の世に神の愛の灯を点そうと心掛けるなら、神はその恵みを下さると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑦<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の始めにある「天に上げられる時期」という言葉は、主のご受難ご復活の時を指しています。主は既にそのことを弟子たちに予告して、エルサレムに向かう決意を固め、ガリラヤを後にされたのです。いわば死出の旅に出発し、その旅の途中に横たわるサマリア人の村で泊めてもらおうとしたのです。しかし、エルサレムのユダヤ人たちと敵対関係にあったサマリア人たちは、主の一行がエルサレムへ行こうとしているのを知って宿泊を拒みました。使徒のヤコブとヨハネはそれを見て怒りましたが、主は二人を戒めて、一行は別の村へと向かいました。主は殺されるために、エルサレムへ向かっておられるのです。何か緊迫した雰囲気が一行の上に漂っているような、そんな状況での出来事だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑧<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">しばらく行くと、次々と三人の人が登場しますが、ルカがここで登場させている人たちは、マタイ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">8</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章の平行記事では「弟子」と明記されていますので、エルサレムへと進んでおられた主に話しかけたのは、いずれも一行の後を追って来た主の弟子であったと思われます。数多くの大きな奇跡をなされた主イエスが、その主を殺害しようとしているユダヤ教指導者たちの本拠エルサレムに向かっておられると聞いて、メシアの支配する新しい時代が始まるのだと考え、この機会にメシアのために手柄を立てて、出世したいと望んで駆けつけたのかも知れません。最初の人は「どこへでも従って参ります」と申し上げていますが、主は、メシアに敵対する悪霊たちが策動する大きな過渡期には、どんな貧困や苦労をも厭わぬ覚悟や、日々清貧愛の精神で生活することが必要であることを諭すためなのか、「人の子には枕する所もない」などと話されました。その後に来た弟子たちにも、それぞれ自分の考えや夢を捨てて、ひたすら黙々と主に従って来ることを要求なさいました。神信仰に基づいて孤独に悩む自己の生きる道を見出そうとしている現代人に対しても、主は各人がそれぞれ自分を捨てて、ひたすら神の御旨に従順に従うことをお求めになると思います。その人たちが、主のこの厳しいお求めに従って、キリストの内にこれまでよりも遥かに大きな自由と生きる喜びとを見出すに至るよう、神よりの照らしと助けを願い求めましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-60620156778653186782016-06-19T00:00:00.000+09:002016-06-19T00:00:06.929+09:00説教集C2013年:2013年間第12主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 ゼカリヤ書 12章10~11、13章1節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 3章26~29節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 9章18~24節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読はゼカリヤ書からの引用ですが、ゼカリヤ書は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書のすぐ前に置かれている預言書で、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">14</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章から成る幾分長い預言書です。その前半には</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">6</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章を費やして、ユダヤ人に好意的であったペルシャのダレイオス皇帝の初期に神から示された、八つの黙示録的幻が語られています。そして第</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">7</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章以降の後半部分には、エルサレム復興の約束や、諸国民に対する神の裁きとイスラエルの救いなどが語られています。本日の第一朗読はそのイスラエルの救いについての神の御言葉からの引用です。「私は憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」とあるのは、メシアの受難死を幻の内に示しながら語られた神のお言葉ではないでしょうか。神は続いて、「その日ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と穢れを洗い清める一つの泉が開かれる」と予告しておられます。これは、メシアの受難死によって無数の人の罪の穢れを洗い清める、霊的には真に豊かな恵みの水を溢れ流す泉が一つ、メシアの苦しめ苛まれた御心臓の内に、この世の人々に開かれることを約束なされたお言葉であると思います。そのメシアの十字架上での御死去を、聖母と共にすぐ近くで目撃した使徒ヨハネは、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た」と証言し、「これは目撃者の証しであり、その証しは真実である。その人は自分が真実を語っていることを知っている」と、少しくどい程に、死去したメシアのわき腹から実際に血と水が流れ出たことを証言しています。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">死んでもまだ心臓に残っていた血が、槍に刺された時に流れ出たことは理解できるが、その血と一緒にある程度まとまった量の水が流れ出たという話は、信じられないという異論を退けるための証言であると思います。一体このようなことがあり得るのでしょうか。私が神学生時代に読んだ西欧の医師たちの証言によりますと、何かの事情で医師の世話を受けることも鎮痛剤を飲むこともなく、しかも極度の苦しみが長時間続いた後に死去した人の体を解剖しますと、心臓の周囲に水がたまっていることがあるのだそうです。前日から一睡もせずに苛酷な責め苦を受け続けた主イエスの心臓の周辺にも、水が多くたまったのではないでしょうか。としますと、主がその恐ろしい苦しみに耐えて、十字架上でも最後まで適切な言葉を話すことがおできになったのは、自然の人間の力を凌ぐ神の霊の特別な助け・支えによるのだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ご存じのように、フィリピ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章には「キリストは神の身分でありながら、神としてのあり方に固執しようとなさらず」「ご自身を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、謙って死に至るまで従順でした」と述べられています。私は聖書のこの言葉を読む時に、神の全能に驚き入っています。人類救済のために天の御父から派遣なされた神の御言葉は、ご自身の神の身分を全く無となして、百%人間になられたのです。しかも、人間社会の最下層に感受性の鋭敏な肉体をもって生まれ、大きな過渡期に直面していた人間社会の全ての罪科を受け止めて、苦悩のうちに神の内的僕の身分に成長なされたのではないでしょうか。そして最後には、ご自身の人間としての体力の最後の一滴までも苦しみ抜き、天の御父に捧げ尽くして全人類の罪を償い、私たち罪人にあの世の救いに至る道を開き、その道を歩む霊的力も提供なされたのではないでしょうか。無数の人の罪の穢れを洗い清める救い主の泉は、このようにして掘り起こされ、あの世からこの世へと豊かな恵みの水を流してくれているのだと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">しかし、私たちがその恵みの水を霊魂の内に取り入れ、その恵みに内面から生かされるためには、悔い改めによって人間中心主義の古いアダムの精神を心の中から取り除き、主キリストと共に自分の心を無にして神の僕となること、そして神から与えられる苦しみを人類の罪の償いとして耐え忍び、神にお捧げすることが必要であると思います。神から与えられる苦しみは、大小を問わず全て私たちの心に恵みを注ぐ手段や器でもあると信じます。思わぬ失敗や不運、病苦や生活の煩わしさなどを、信仰と愛をもって神の御手から受け取り、厭わぬように心掛けましょう。いくら待ってもなかなか来ないバスを待つ苦しみ、あるいは人身事故が発生して遅れている列車を待つ苦しみなども、嫌な顔を見せずに神よりの試練として祈りつつ快く耐え忍んでいますと、後で不思議に神が便宜を図って下さるのを、私はこれまでに幾度も体験しました。神は実際に、私たちの捧げる小さな奉仕や苦しみを、愛をもってご覧になっておられるようです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第二朗読には「あなた方は皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」「キリストを着ているからです」「皆キリスト・イエスにおいて一つになっており」「アブラハムの子孫です」などという言葉が読まれます。神の御眼から見れば、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、私たち全人類は主キリストにおいて一つの共同体、一つの存在「神の子」となるよう召されているのではないでしょうか。神はかつてアブラムをお召しになった時、「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」とおっしゃいましたが、イサクが生まれる前年には、「もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。私はあなたを多くの国民の父とするからである」と話しておられます。それで教皇ピオ</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">11</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世はある時、「私たちも皆アブラハムの子孫です」と、ヴァチカンで公然とお話しになったことがあります。現代の技術文明が世界的にここまで普及し、アジア人も白人も黒人も一緒に助け合って生活するようになってみますと、聖書に読まれる神のこれらのお言葉が、新たに実感されて来ます。神は私たち全人類が主キリストにおいて一つの共同体、一つの大きな群れになるよう、現代においても新たに呼びかけ働いておられるのではないでしょうか。日々心を大きく開いて、小さいながらも全人類のため、全ての人のために祈り、奉仕するよう心掛けましょう。これまでの宗派の違いや民族・慣習の違いなどに囚われてはなりません。福者マザー・テレサのように、助けを必要としている全ての人に奉仕するよう努めましょう。それが、終末時代の様相を強めている現代世界の中に生きるキリスト者の生き方、第二ヴァチカン公会議の精神に適う生き方だと信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の中ほどには、「イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じた」という言葉が読まれます。それは、そのすぐ前にペトロが主に話した、「あなたは神からのメシアです」という信仰宣言のことではありません。ギリシャ語の原文では、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">21</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">節と主のご受難を予告している</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">22</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">節とはひと続きの文になっていて、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">22</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">節の冒頭にある分詞「と言って」で結ばれていますから、メシアの受難死と復活についての主の予言を、誰にも言わないようにという戒めだと思います。ルカ福音書の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章には、聖母は「これらのことを心に納めて考え合わせていた」という言葉が二度読まれますが、神から受けた新しい教えや心に共鳴した聖書の言葉、あるいは私たちが個人的体験から新しく学んだ悟りなどもすぐには口外せずに、心に納めて考え合わせていることは、そこに込められている真理を、心の奥深くに根付かせる秘訣であると思います。神はそのような心の人に、もっと多くのことを次々と教え、優しく導いて下さるようです。聖母マリアもこのようにして、次々と非常に多くのことを、神の御子と共に歩んだ人生体験から学んでおられたことでしょう。私たちも、同じその主イエスに伴われて今の人生を営んでいる身であることを、忘れないよう気を付けましょう。主は私たちにも、「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい」と呼びかけておられます。その復活の主に信仰の眼を注ぎながら、日々与えられる小さな十字架の苦しみを嫌がらないよう、心掛けましょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-9088967823993192402016-06-12T00:00:00.000+09:002016-06-12T00:00:26.785+09:00説教集C2013年:2013年間第11主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 サムエル記下 12章7~10、13節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 2章16、19~21節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 7章36~8章3節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は紀元前千年頃の話で、カナンの地の先住民ヘト人、すなわちヒッタイト人の出身者である家臣ウリヤの妻を奪って子を身ごもらせたダビデ王が、その姦通罪の発覚を恐れてウリヤを戦場で死なせたという、もっと酷い二重の罪を犯したことを、預言者ナタンが主の名によって厳しく咎めた話であります。預言者はこの叱責に続いて、ダビデ王の家族の中から反逆者が出てもっと恐ろしい罪を公然と犯すという、耐え難い程の天罰も王に予告しています。しかし、王がナタンに「私は主に罪を犯した」と告白し、悔悟の心を表明すると、本日の朗読箇所にもあるように、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、神からの赦しと慰めの言葉を告げます。現代の私たちにとっても、神からのこのような赦しと励ましの言葉は大切だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">御存じのように、数年前からカトリック司祭による子どもたちや若い女性たちへの性的虐待事件が、欧米の先進諸国でマスコミにより次々と明るみに出され、カトリック教会は大きく揺さぶられています。少なからぬ司祭たちが数カ月、数年もそんな犯罪を極秘に続けていたそうですから。一般社会の裁判所に訴えられ、被害者たちへの莫大な賠償金の支払いや多額の裁判費用などのため、赤字財政に悩んでいる教区もあると聞きます。神より聖なる司祭職に召されても、現代世界を深く汚染し続けている古いアダムの人間中心主義や利己的欲情に対しては、節制と清貧に励みつつ日々弛まず戦い続けないと、知らない裡に心の奥底まで汚染されて行きます。罪に陥った司祭たちは、自分に対するこの「心の戦い」をゆるがせにしていたのだと思います。そのような司祭が問題を起こしたような時は、上長はすぐに厳しい態度で問題の解決に努めなければならないと思います。大阪の池長大司教は、数年前に配下の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">70</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">歳代前半の司祭がセクハラ事件を起こした時、すぐに厳しい態度を公然と表明して犠牲者に対する償いにも務め、裁判騒ぎになるのを阻止しました。この厳しい態度ですぐに悪と戦う姿勢は、現代のような時代には大切だと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">私たちの人間性を歪めている、自己中心の利己的傾きは心の奥に深く隠れていて、自分の持って生まれた自然の力ではなかなか勝てません。しかしたとい倒れても、ダビデ王のように神の憐れみの御心にひたすら縋りつつ、罪を赦して下さる神の愛と力に生かされて生きようと努めるなら、晩年のダビデ王のように、憐れんで救う神の新たな働きを生き生きと体験するのではないでしょうか。「罪が増す所には、恵みがなお一層満ち溢れる」と聖書にあります。近年大きな罪を犯して教会の名誉を傷つけた元司祭たちが、神の憐れみに縋って改心と償いに励み、いつかはダビデ王のように幸せな老後を迎えるに至るよう、神の憐れみと恵みを願い求めましょう。あわせて、司祭たちのセクハラの犠牲になった人たちの上にも、神の恵みと助けを祈り求めたいと思います。私は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">30</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年ほど前にそのような事件を起こしてしまった日本人の司祭と、その相手の女性の更生のために深く係わったことがありますが、二人は結婚して二児の親となり、その子供たちが東京の下町で立派な小学生になっているのに会ったのを最後に、もうその家族と交際していません。しかし今頃は子供たちも皆それぞれ大きくなり、カトリック者として信仰の内に生活していると信じます。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と書いていますが、ここで「信仰」とあるのは、ハバクク書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">2</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章やローマ書</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章その他に「義人は信仰によって生きる」とある言葉なども総合して考えますと、ルッターが考えたように心でひたすら信奉することや、自力で神に縋ることではなく、もっと広く、神の新しい働きに従う実践的従順の信仰と考えてよいと思います。パウロはそれと対比して、「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」と述べていますが、この言葉の背後には、彼が若い時にキリストの教会を迫害したという、苦い体験があると思います。改心前の彼は、誰にも負けない程熱心に律法の全ての規定を、自力で自主的に順守しようとしていた律法学者だったと思います。しかし、復活なされた主キリスト御出現の恵みに出会い、その主から厳しく叱責された時、神と社会のためと思ってなしていた律法の厳守は、神の新しい救いの御業を妨げるものであったことを痛感させられました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">彼はその時から、人間が自力で研究し順守する律法中心の立場や、自力で神の掟を守り神を崇めようとする熱心などは捨てて、ひたすら神の新しい働きや新しい導き中心の立場に転向し、その働きや導きに対する信仰と従順の感覚を鋭敏に磨き、復活なされた主キリストの御命に心の奥底から生かされる、新しい信仰実践に励むようになりました。本日の第二朗読に読まれる、「キリストが私の内に生きておられるのです。云々」の言葉は、この新しい信仰体験に根ざした述懐であると思います。私たちも使徒パウロの模範に見習い、他人に負けまいとして頑張る自力主義には死んで、まず心を空っぽの器となし、そこに主キリストの御命と聖霊を受け入れ、主キリストが新約の神の民から求めておられる、神の御旨に僕・婢としてひたすら従って行こうとする信仰実践を、しっかりと体得するよう心がけましょう。その過程で、弱さから幾度倒れても構いません。すぐに立ち上がって自力主義を捨て、神の御旨中心の愛の信仰実践に努めましょう。復活の主ご自身も本日の福音にあるように、幾度も「あなたの罪は赦された」とおっしゃって喜んで下さることでしょう。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">今年の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">11</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">月末までを「信仰年」として、神から自分に与えられた信仰を実践的に深め実りあるものとすることに励んでいる私たちは、各人の自力ではなく、そういう神の救いの新しい働きかけを感知し、それに対する協力と従順を中心とした生き方を身に付けるよう心がけましょう。これからの終末的時代には、人間が自主的に産み出し造り上げようとする人間中心主義の業績は、神ご自身によって次々と崩され葬り去られるように思われるからです。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000038.5842941000000046 96.23548660000003 60.9655741 178.85267460000003tag:blogger.com,1999:blog-2479310154178148054.post-45622756264635658452016-06-05T00:00:00.000+09:002016-06-05T00:00:33.687+09:00説教集C2013年:2013年間第10主日(三ケ日)<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第1朗読 列王記上 17章17~24節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 1章11~19節</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="color: red;">福音朗読 ルカによる福音書 7章11~17節</span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">①<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の第一朗読は、紀元前9世紀の預言者エリヤについての話です。エリヤがイスラエルの王アハブに、これから数年間雨が降らず露も下りない、という神の言葉を伝えると、イスラエル全土とその周辺地方に大旱魃が発生し、エリヤも神の言葉に従って、暫くヨルダン川東のケリト川のほとりで、数羽のカラスが毎朝晩運んでくるパンと肉に養われながら過ごしていましたが、その川の水も涸れ始めると、再び神の言葉に従ってシドンのサレプタに移り、そこにいた寡婦の食糧事情を奇跡的に助けてあげたら、暫くそこで生活することができました。第一朗読は、その奇跡の話に続く、寡婦の息子を蘇らせた奇跡の話であります。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">②<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">私たち人間の平凡な日常生活の中で働く、神のこういう導きや働きについて読んだり聞いたりしますと、私は時々自分の人生や平凡な日常生活の中でも、目に見えないながら同じ神が、私を導き働いて下さっておられることを思い起こします。本日は、そのことを少しだけお知らせ致しましょう。太平洋戦争直後頃に受洗した私は、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1948</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年の春に多治見修道院に入って小神学生になりましたが、当時の修道院敷地の庭園は大きくて桜並木や美しい庭木などが沢山ありましたので、小さな丘一つ越えた東隣の有名な虎渓山永保寺の庭園と共に、「多治見公園」と呼ばれていました。それで町のすぐ近くにある修道院の庭園には散歩に訪れる人が多く、午後4時過ぎにその庭園を一巡してゴミ拾いをするのが、神学生の日課の一つになっていました。私は神言神学院が名古屋に創立されてからも、また司祭になってローマに留学してからも、小神学生時代に身に付けたこの習慣を捨てきれずに、一般道路の歩道を歩く時には時々道端に落ちているゴミや空き缶などを拾い集めて、ゴミ箱まで運んでいました。年老いた今も、日々その習慣を続けています。社会や生活空間の大きさを考えますと、そんな事をしてもしなくても、社会の汚れは殆ど変わらないと申してよいと思います。それでそんなゴミ拾いを、時間のむだ使いとして蔑視している人も多いと思います。しかし、私がその本当に小さな行いを神に捧げる心で為していますと、神はその小さな捧げに特別の関心を持っておられるようで、そのようなゴミ拾いに心がけている私には、神が他の人たちに比べて何倍も多くの幸運や不思議な巡り合わせや助けを、数多く与えて下さるように感じております。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">③<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">中学高校の教員資格を取得して司祭に叙階された私は、これからは南山の中学高校で教えるのだと準備していましたら、3月末に突然に神言会総本部から、南山大学で歴史を教える資格を取得するためローマに留学するように、という思いがけない任命を頂戴しました。初めは語学のことなどで心配しましたが、いざ留学してみましたら、これは神からの特別の恵みであり幸運であると思いました。そして歴史の論文を作成した時には、それは社会からも多くの人たちからも捨てられ忘れられている出来事や資料を拾い集めて研究する、どこかゴミ拾いにも似ている作業だ、と思い始めましたが、南山大学に就職して</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1970</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に名古屋キリシタン文化研究会を立ち上げてからは、キリシタン史の研究はゴミ拾いに似ている、と度々実感するようになりました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">④<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">72</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年春に沖縄が日本に復帰すると、新発田で私と一緒に公教要理を学んで信者になった植物学者の相馬研吾氏が、文部省から研究助成金をもらって西表島の植物の研究をしましたが、その相馬氏が石垣教会で主日のミサに参加したら、石垣島で火刑に処せられた石垣永将について史実を明らかにしてくれる学者を捜してほしいとの依頼を受け、友人である私がその研究を為すことになりました。するとその年の秋に、上智大学で毎年開催されているキリシタン文化研究会に、四国の今治教会主任のドミニコ会員ホセ・デルガード神父が初めて出席し、私と親しくなったので、デルガード神父の協力を得てマニラの聖ドミニコ大学から、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1623</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年にマニラから石垣島に渡ったドミニコ会員ファン・デ・ルエダ神父に関する関連史料を、ゼロクス・コピーで取り寄せることが出来ました。この全ては、神が計らって下さった不思議な巡り合わせであったと思います。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">300</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年ほど前の</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">17</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀後半に聖ドミニコ大学で編纂された、ドミニコ会ロザリオ管区百年史の中に、初めに十数年間日本で布教したルエダ神父が、フィリピンに暫く滞在した後に琉球に行ったことが書かれていることを、他の書籍を介して知っていましたので、その原典史料が現存していたらコピーして送って欲しい、と願ったのでした。するとルエダ神父の3年後にマニラから石垣島に渡った日本人のトマス西神父が、ルエダ神父が石垣島を統治していた官吏石垣永将に受け入れられて教えを説き、洗礼を授けたことや、後で薩摩藩の支配下に置かれていた琉球王国の役人たちが来て、神父も永将も捕縛され、別々に処刑された次第を地元の人たちから詳細に聴いて、それを長崎に到着してからマニラに書き送ったスペイン語の手紙のコピーが送られて来ました。私は西神父のその手紙を利用して、石垣島で講演したり、学会で論文を発表したり、文庫本を書いたりしました。私のこの研究は石垣島でも沖縄でも歓迎され、私は五回も旅費をもらって沖縄に渡り、あちこちで講演する栄誉に浴しました。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑤<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">ところで、私からの依頼の手紙を受けて、三百年前の管区史の基礎資料として保管されていた大きな紙包みを開けて見た、マニラの聖ドミニコ大学のドミニコ会員たちも驚いたそうです。私も後でその大学を訪れた時に、その包みが置かれていたと聞く古い物置部屋の棚を見せてもらいましたが、全く誰も注目しない所に保管されていた紙包みの中には、</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">17</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">世紀前半に日本で殉教したトマス西神父ら、ドニニコ会関係者</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">人の日本における殉教の殉教証言集とその関連史料だったのです。ドミニコ会のコリャード神父が日本で収集し、日本二百五福者の殉教証言集と共にローマに提出する筈の貴重な書類でしたが、ドミニコ会の管区史作成中だったので、その基礎資料として一時的にマニラに留め置かれ、それが管区史発行後の会員たちには受け継がれずに忘れ去られて、埋もれてしまっていたようなのです。しかし、私の依頼が契機となって明るみに出ますと、日本二百五福者よりも先に、ドミニコ会関係の殉教者たち</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">人が列聖されてしまいました。その中にはフィリピン生まれの人も一人いましたので、マニラのシン大司教はその列福式が</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">1981</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">年に行われることを知って、マニラの司教座四百年記念も兼ね、教皇によるその列福式がマニラで挙行されることを強くローマに願い出ました。すると時の教皇ヨハネ・パウロ二世も、これを機に、マニラだけではなくその人たちが殉教した日本にも行きたいと強く希望なされたので、事はローマ教皇の来日にまで進展しました。私はこれら全ての出来事の背後に、世に埋もれている小さな私を通しても働いて下さる、神の不思議な導きや働きを感じていました。他にも数々の小さな神の導きや助けを体験していますが、これからも人目につかない日々の小さなゴミ拾いを、神に対する感謝と希望の心で続けて行く所存です。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<br />
<div class="MsoNormal" style="layout-grid-mode: char; margin-left: 21.0pt; mso-layout-grid-align: none; mso-list: l0 level1 lfo1; tab-stops: list 21.0pt; text-indent: -21.0pt;">
<!--[if !supportLists]--><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt; mso-bidi-font-family: Century; mso-fareast-font-family: Century;">⑥<span style="font-family: 'Times New Roman'; font-size: 7pt; font-stretch: normal;">
</span></span><!--[endif]--><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">本日の福音の中では、一人息子の御棺に付き添っていた母親をご覧になって、憐れに思われた主が、その御棺に手を触れて埋葬の歩みを留め、その息子を蘇らせて母親に返し与えるという、驚くべき奇跡をなさった話が語られています。受難死によって人類の罪を償い、あの世の不死の命に復活して今も生きておられる主は、哀れみの心情の深い人間であり、私たちの日常生活にも伴っておられて、私たちの苦しみも悲しみも、全てをご覧になっておられると信じます。思いやり深い人間であられる主イエスの現存信仰のうちに、日々主と共に生活するよう心がけましょう。しかし、その主の助けを受けるには、その信仰を頭の中だけ、祈りの時だけのものとせずに、日々の実践生活の場でも、人知れず伴っておられるその主に自分の労苦や病苦、小さな愛の奉仕などをお見せし、助けを願う信仰心が大切だと思います。マタイ福音</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章によりますと、主は</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">12</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">使徒を派遣なされた時、「家に入ったら平安を祈りなさい。もしその家が相応しいなら、あなた達の祈る平安はその家に留まり、相応しくなければ、平安はあなた達に帰って来るであろう」とおっしゃいましたが、ルカ福音</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">10</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">章の始めに</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;">72</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; font-size: 14.0pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">人の弟子を派遣なされた時にも、「家に入ったら、まずこの家に平安と言いなさい。云々」と全く同様にお命じになりました。私は、これはその使徒や弟子に霊的に伴っておられる主ご自身が、派遣された人の口を介してなされる祈りであり祝福であると受け止めています。そして復活なされた主は、今も私たちの口を介してその祝福を人々に与えることを望んでおられる、と信じています。それで私は、どこかの家や修道院を訪れる時にも、「この家に平安あれ」と唱えています。私のその言葉を介して、主が実際にその家に恵みを与えて下さると信じるからです。それどころか、近年はバスに乗る時も列車に乗る時も、主に心の眼を向けながら、この言葉を唱えています。するといつも主の恵みに伴われて、旅行が大過なく順調に行くように感じています。よろしければ、皆様も試してみて下さい。終末的様相が深まりつつあるこれからの社会に生き抜くには、私たちの信仰をこのような小さな実践と結んで表明することが、ますます大切になるのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US" style="font-size: 14.0pt;"><o:p></o:p></span></div>
青山 玄(あおやま・げん)神父http://www.blogger.com/profile/16810414068813444245noreply@blogger.com日本, 〒431-1424 静岡県浜松市北区三ヶ日町下尾奈224534.7749341 137.544080600000039.2528996000000028 96.23548660000003 60.2969686 178.85267460000003