第1朗読 申命記 8章2~3、14b~16b節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 10章16~17節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節
① 本日の第一朗読は、これから神から約束された地に入ろうとしているイスラエルの民に、モーセが語った話のようですが、モーセは、これ迄の40年間彼らが主に導かれて過ごした荒れ野での体験、神から受けた信仰教育を忘れずに、これからの信仰生活のためにそこから一番大切なことをしっかりと学びとることを勧めているのだと思います。この朗読箇所には省かれていますが、この話の途中14節のbにある「心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしない」という言葉が、この話全体の核心部分と言ってよいと思います。
② 荒れ野での40年間に及ぶ神からの数々の実践的信仰教育からモーセが学んだことは、イスラエルの民に自己中的に心のおごりたかぶりを徹底的に捨てさせ、神がお与え下さるもの全てを幼子のように謙虚に受け止めて、何よりも神から与えられるものによって生かされよう、と努めさせることだったのではないでしょうか。神は民に飢え渇きの恐ろしい苦しみを体験させた後に、先祖も味わったことのないマナを食べさせたり、硬い岩からの豊かな水を飲ませたりする大きな奇跡を体験させて下さいましたが、全能の神によるこのような救いの御業に、幼子のように、また僕・はしためのように、我なしの精神で素直に徹底的に従って行くようにというのが、モーセが民の心に促している生き方であったと思います。
③ 心のおごりたかぶりの基盤は、この世の事物現象を正しく理解し利用するために神から与えられている理知的な理性を、あの世の神に対する信仰の次元にまで持ち込み、人間中心・この世中心に全てを判断し決めようとする利己的精神にあります。この精神は神よりの恵みを正しく識別するのを妨げ、神の怒りを招いて民に大きな不幸を招くことになる、とモーセはこれまでの数多くの体験から心配していたのではないでしょうか。子供の時からパソコンに慣れ、親をも社会をも全てを自分中心に利用しようとする自由主義精神に汚染され勝ちな現代人にとっても、これは忌々(ゆゆ)しい問題だと思います。
④ 本日の第二朗読には「キリストの血にあずかること」、「キリストの体にあずかること」という言葉が読まれます。こういう言葉に接すると、私は(これまでにも度々話して来たことですが)「各人はそれぞれキリストの体の細胞である」という考えを想起します。近年の研究によりますと、人体に60億もあると聞く細胞の各々にはヒトゲノムという各人独自の遺伝子、すなわちその人の基本的設計図が神から組み込まれていて、細胞はそれぞれ情報の授受機能や細胞の増殖機能などを備えて独自に生きています。全体を見渡す目は持っていませんが、より大きな命にバランスよく幸せに生きることはできます。しかし、より大きな生命から離脱すると死んで、灰に帰してしまいます。キリストの体に組み入れられている私たち各人も、その細胞のような存在なのではないでしょうか。キリストの体に結ばれている個々の細胞に必要な養分を届けたり、細胞から老廃物を取り除いたりする血液の働きをしているのが、主キリストからも発出されている神の聖霊と考えてよいと思います。聖霊は、主キリストがお定めになったご聖体の秘跡の中にも豊かに現存し、働いておられます。
⑤ 本日の福音は、主イエスが大麦のパン五つと魚二匹を分け与えて五千人以上の人たちを満腹させるという、大きな奇跡をなさった後に、その主をたずね求め、次の日にカファルナウムで見出したユダヤ人たちに話されたお言葉であります。彼らは皆アブラハムの神を信じていましたし、前日目撃した大きな奇跡故に、主がその神からの人であると考えていたと思います。主はそのユダヤ人たちの人間中心・この世中心の常識を根底から覆し、退けるような話を敢えて堂々と繰り返し、彼らから我なしの徹底的信仰と従順をお求めになります。「私は天から降って来たパンである。このパンを食べる人は、永遠に生きる。私の与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」「私の肉を食べ、私の血を飲む人は永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。云々」というような話であります。彼らユダヤ人たちだけではなく、パンの奇跡に続いて主が夜に海を歩いて渡られる奇跡を目撃し、その場にいた使徒たちもこのような話に驚き、どう理解したらよいものかと戸惑ったことでしょう。
⑥ 主は現代の私たちからも、パンの形での復活の主のあの世的現存と働きに対する、我なしの徹底的信仰と従順とを強く求めておられると思います。近代的自我中心の精神を捨てずに、ただ頭の中で主の現存を考え受け入れているだけの、外的信仰では足りません。そこには主に対する信仰と従順のお求めを謙虚に受け止め、それを目にも態度にも表明しながら、主に従って主と共に生きようとする、我なしの信仰心の熱意が欠けているからです。主は大きな愛をもって私たちにも呼びかけ、ご聖体の主に対する愛熱の籠った信仰を求めておられるのです。口先だけの冷たい外的信仰では主をお悲しめするだけ、いつまでも主をお待たせするだけなのではないでしょうか。そういう生き方に、今こそ終止符を打って新しく立ち上がることを、主は私たちから求めておられると思います。
⑦ 今年8月の北京オリンピックに向けて、世界各国の選手は今その調整に励んでいることでしょうが、選手にとって一番大切なことは心の調整だと思います。72年前の1936年の8月、日本女性初の金メダルを獲得した前畑秀子さんは、その著書『勇気、涙、そして愛』によると、女子二百米平泳ぎの決勝当日に、「負けたら生きて帰れない」などのすさまじい雑念に苦しめられたそうです。しかし、スタート台に上がると雑念は消え、「悔いのないレースをしよう」という静かな心境になったのだそうです。そして水の中に飛び込んでからは、大歓声の中を一人で全力で泳いでいる感じになり、遂にわずか0.6秒という僅差で優勝したのだそうです。「自分がもし称えられるとしたら、ライバルに競り勝ったからではなく、自分に勝ったからでしょう」と書いていますが、この言葉に私たちも学びましょう。この世の他の人たちには目もくれず、自己中心・この世中心になり勝ちな自分に打ち勝って、主の御眼中心に静かに生きようとする時、ご聖体の主が私たちの心の中にのびのびと働いて下さって、世のため社会のためにも良い成果をあげて下さるのではないでしょうか。
⑧ 本日の集会祈願文には、「主のお体を受け救いの力にあずかる私たちが、主の死を告げ知らせることができますように」とありますが、これは単に口先で主キリストの死を人々に告げることではありません。主と一致して自分中心・この世中心の生き方に死ぬことを、実践的に証しすることを意味していると思います。ご聖体の秘跡に養われつつ、そのような生き方をなすことができますよう、本日のミサ聖祭の中で主の恵みを願い求めましょう。
2011年6月26日日曜日
2011年6月19日日曜日
説教集A年:2008年5月18日三位一体の主日(三ケ日)
第1朗読 出エジプト記 34章4b~6、8~9節
第2朗読 コリントの信徒への手紙2 13章11~13節
福音朗読 ヨハネによる福音書 3章16~18節
① 私たちの信じている唯一神は、決してお独りだけの孤独な神ではなく、三位一体という共同体的愛の神あります。三方で唯一神であられるという現実は、この世の物質世界での事物現象を合理的に理解し利用するために神から与えられている人間理性には、理解することも説明することもできないあの世の現実で、深い神秘ですが、神は御自身に特別に似せてお創りになった人間たちに、その神秘なご自身を御子を介して啓示し、人間たちから信仰によって正しく知解され愛されることを望んでおられます。使徒ヨハネはその福音書の冒頭に、神の御ことばが人となって私たちの内に宿ったこと、そしてご自身を受け入れた者には神の子となる資格を与えたこと、こうして信仰により神から生まれた人たちが神の栄光を見たことを証言しています。したがって、人間理性にとっては全く近づき得ない大きな神秘ですが、神からの啓示や神の御子の働きを信仰と愛をもって受け入れる人の心の奥には、神の霊が働いて超自然の現実を悟る方へと心を導き、数々の体験を通してゆっくりとその大きな神秘に対する独特の愛のセンスが心の中に目覚めて来て、三位一体の神と共に生きることに感謝と喜びを見出すに至るのだと思います。使徒ヨハネのように、私たちの心も数多くの体験を介して、神の栄光を見るようになるのです。
② 本日の第一朗読には、神の御言葉に従ってシナイ山に登ったモーセは、手に二枚の石の板を携えていたとあります。この話の少し前にある出エジプト記の31章、32章を読みますと、神はシナイ山でモーセに、ご自身でお造りになった二枚の石の板を渡されましたが、その板の表にも裏にも神がご自身でお書きになった掟が彫り刻まれていたとあります。しかし、その板を携えて山を下りて来たモーセは、イスラエルの民が麓で金の子牛を鋳造し、偶像礼拝の罪を犯しているのを見て激しく怒り、その板二枚を投げつけて砕いてしまいました。民がモーセの言葉に従ってその罪を悔い改め、宿営から離れた所に神臨在の幕屋を建て、神と共に歩む心を堅めますと、神はその幕屋の入口に雲の柱で臨在なされて民の礼拝を受け入れ、モーセに、前と同じような石の板二枚を明日の朝までに造ってシナイ山に登って来るようにお命じになりました。神がその板に、前にお書きになったのと同じ掟を彫り刻むために。本日の朗読箇所は、このお言葉に従って山に登ったモーセについての話です。
③ シナイ山は石灰岩の山です。そこにはカルシウム分を多く含む石灰石も諸所にあったと思われます。そういう石灰石は、大昔は海の底になっていたと思われる我が国にも多く見られます。空気に触れている表面は固いですが、その表面の肌を打ち砕くと、内部は少し柔らかい石になっています。モーセは山麓でそのような石灰石を見つけて、石の板二枚を整え、山頂にお持ちしたのだと思います。朗読箇所の最後にモーセは神に、「かたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私たちをあなたの嗣業として受け入れて下さい」と願っています。この「嗣業」という言葉は、他の人に譲渡できない遺産を指していますから、モーセはイスラエルの民をいつまでも神の所有財産として下さるように、と願ったのだと思います。神の嗣業であるなら、民は法の上では神の御旨に反して行動する自由を持たないことになり、神の奴隷のような身分になりますが、これがモーセの望んでいた生き方であったと思われます。
④ 本日の第二朗読にはまず、「兄弟たちよ、喜びなさい。完全な者になりなさい」「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」などの勧めが読まれます。使徒パウロがここで考えていることは、当時のコリントが様々な国の出身者が住む国際的商業都市であったことを考慮しますと、人々が相互にどんなに心を開いて合理的に話し合ってみても実現し難い生き方を意味していたと思われます。現代の都市部の住民たちと同様に、人によって育ちも考えも好みも関心も大きく異なっていて、自然的にはまとめようがない程に多様化していた、と思われるからです。
⑤ 使徒パウロが意図していたのは、神中心に生きる主イエスにおいて喜ぶこと、完全な者になろうとすること、思いを一つにすること、そして平和を保とうとすることだと思います。彼はその言葉に続いて、「そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいて下さいます」と書いているからです。全てが極度に多様化しつつある現代のグローバル社会においても、もし皆が主イエスの精神と一致して生きようと心がけるなら、生まれも育ちも文化も大きく異なる人たち同志が、心を一つにして愛し合い、平和に暮らすことは難しくありません。主イエスを介して、共同体的な三位一体の神が大きく相異なる人々の心を一つの霊的共同体に纏めて下さるからです。ですからパウロも最後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」と祈っています。
⑥ 本日の福音の中で使徒ヨハネは、「神はその独り子をお与えになった程、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、神の御子主イエスがこの世に派遣されて人となった目的について説明しています。三位一体の神が、「我々にかたどり、我々に似せて」とおっしゃって、私たち人間を創造なされたのは、ほんの百年間ほどこの苦しみの世に生活させるためではありません。私たちは皆、神のように一つ共同体になって永遠に万物を支配し、永遠に幸せに生きるために創られたのです。私たちの本当の人生は、たちまち儚く過ぎ行くこの世にあるのではなく、永遠に続くあの世にあるのです。しかし、その本当の人生に辿り着くには、神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、「キリストの体」という一つ共同体の細胞のようにして戴かなければなりません。私たちは皆、三位一体の神に似せて愛の共同体的存在になるよう神から創られていることを心にしっかりと銘記し、国や民族、文化、宗教などの相違を超えて全ての人を、特に社会の中で無視され勝ちな小さな人たち、苦しんでいる人たちを愛するように努めましょう。そのための広い大きな愛の恵みを三位一体の愛の神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。
第2朗読 コリントの信徒への手紙2 13章11~13節
福音朗読 ヨハネによる福音書 3章16~18節
① 私たちの信じている唯一神は、決してお独りだけの孤独な神ではなく、三位一体という共同体的愛の神あります。三方で唯一神であられるという現実は、この世の物質世界での事物現象を合理的に理解し利用するために神から与えられている人間理性には、理解することも説明することもできないあの世の現実で、深い神秘ですが、神は御自身に特別に似せてお創りになった人間たちに、その神秘なご自身を御子を介して啓示し、人間たちから信仰によって正しく知解され愛されることを望んでおられます。使徒ヨハネはその福音書の冒頭に、神の御ことばが人となって私たちの内に宿ったこと、そしてご自身を受け入れた者には神の子となる資格を与えたこと、こうして信仰により神から生まれた人たちが神の栄光を見たことを証言しています。したがって、人間理性にとっては全く近づき得ない大きな神秘ですが、神からの啓示や神の御子の働きを信仰と愛をもって受け入れる人の心の奥には、神の霊が働いて超自然の現実を悟る方へと心を導き、数々の体験を通してゆっくりとその大きな神秘に対する独特の愛のセンスが心の中に目覚めて来て、三位一体の神と共に生きることに感謝と喜びを見出すに至るのだと思います。使徒ヨハネのように、私たちの心も数多くの体験を介して、神の栄光を見るようになるのです。
② 本日の第一朗読には、神の御言葉に従ってシナイ山に登ったモーセは、手に二枚の石の板を携えていたとあります。この話の少し前にある出エジプト記の31章、32章を読みますと、神はシナイ山でモーセに、ご自身でお造りになった二枚の石の板を渡されましたが、その板の表にも裏にも神がご自身でお書きになった掟が彫り刻まれていたとあります。しかし、その板を携えて山を下りて来たモーセは、イスラエルの民が麓で金の子牛を鋳造し、偶像礼拝の罪を犯しているのを見て激しく怒り、その板二枚を投げつけて砕いてしまいました。民がモーセの言葉に従ってその罪を悔い改め、宿営から離れた所に神臨在の幕屋を建て、神と共に歩む心を堅めますと、神はその幕屋の入口に雲の柱で臨在なされて民の礼拝を受け入れ、モーセに、前と同じような石の板二枚を明日の朝までに造ってシナイ山に登って来るようにお命じになりました。神がその板に、前にお書きになったのと同じ掟を彫り刻むために。本日の朗読箇所は、このお言葉に従って山に登ったモーセについての話です。
③ シナイ山は石灰岩の山です。そこにはカルシウム分を多く含む石灰石も諸所にあったと思われます。そういう石灰石は、大昔は海の底になっていたと思われる我が国にも多く見られます。空気に触れている表面は固いですが、その表面の肌を打ち砕くと、内部は少し柔らかい石になっています。モーセは山麓でそのような石灰石を見つけて、石の板二枚を整え、山頂にお持ちしたのだと思います。朗読箇所の最後にモーセは神に、「かたくなな民ですが、私たちの罪と過ちを赦し、私たちをあなたの嗣業として受け入れて下さい」と願っています。この「嗣業」という言葉は、他の人に譲渡できない遺産を指していますから、モーセはイスラエルの民をいつまでも神の所有財産として下さるように、と願ったのだと思います。神の嗣業であるなら、民は法の上では神の御旨に反して行動する自由を持たないことになり、神の奴隷のような身分になりますが、これがモーセの望んでいた生き方であったと思われます。
④ 本日の第二朗読にはまず、「兄弟たちよ、喜びなさい。完全な者になりなさい」「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」などの勧めが読まれます。使徒パウロがここで考えていることは、当時のコリントが様々な国の出身者が住む国際的商業都市であったことを考慮しますと、人々が相互にどんなに心を開いて合理的に話し合ってみても実現し難い生き方を意味していたと思われます。現代の都市部の住民たちと同様に、人によって育ちも考えも好みも関心も大きく異なっていて、自然的にはまとめようがない程に多様化していた、と思われるからです。
⑤ 使徒パウロが意図していたのは、神中心に生きる主イエスにおいて喜ぶこと、完全な者になろうとすること、思いを一つにすること、そして平和を保とうとすることだと思います。彼はその言葉に続いて、「そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいて下さいます」と書いているからです。全てが極度に多様化しつつある現代のグローバル社会においても、もし皆が主イエスの精神と一致して生きようと心がけるなら、生まれも育ちも文化も大きく異なる人たち同志が、心を一つにして愛し合い、平和に暮らすことは難しくありません。主イエスを介して、共同体的な三位一体の神が大きく相異なる人々の心を一つの霊的共同体に纏めて下さるからです。ですからパウロも最後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」と祈っています。
⑥ 本日の福音の中で使徒ヨハネは、「神はその独り子をお与えになった程、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、神の御子主イエスがこの世に派遣されて人となった目的について説明しています。三位一体の神が、「我々にかたどり、我々に似せて」とおっしゃって、私たち人間を創造なされたのは、ほんの百年間ほどこの苦しみの世に生活させるためではありません。私たちは皆、神のように一つ共同体になって永遠に万物を支配し、永遠に幸せに生きるために創られたのです。私たちの本当の人生は、たちまち儚く過ぎ行くこの世にあるのではなく、永遠に続くあの世にあるのです。しかし、その本当の人生に辿り着くには、神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、「キリストの体」という一つ共同体の細胞のようにして戴かなければなりません。私たちは皆、三位一体の神に似せて愛の共同体的存在になるよう神から創られていることを心にしっかりと銘記し、国や民族、文化、宗教などの相違を超えて全ての人を、特に社会の中で無視され勝ちな小さな人たち、苦しんでいる人たちを愛するように努めましょう。そのための広い大きな愛の恵みを三位一体の愛の神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。
2011年6月12日日曜日
説教集A年:2008年5月4日聖霊降臨の主日(三ケ日)
第1朗読 使徒言行録 2章1~11節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 12章3b~7、12~13節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~23節
① 本日の福音に述べられていますように、復活なされた主は既にその復活当日の晩、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えることと、弟子たちの派遣とを一つに結んで話しておられます。聖霊の霊的な力を魂に受けることは、神から一つの新しい使命を受けることを意味しているからでしょう。私たちが洗礼や堅信などの秘跡を通して神から頂戴した聖霊の恵みも、自分一人の救いのためとは思わずに、自分の周囲の人たちや全人類の救いのために、積極的にその恵みに生かされ導かれて祈りと奉仕に努める使命を神から頂戴したのだ、と考えましょう。
② 「生かされ導かれて」と申しましたのは、その恵みは人間が主導権をとって自分の思いのままに自由に利用する資金や能力のようなものではなく、生きておられるペルソナであられる聖霊が主導権をとって、私たち各人の内にお働きになる恵みだからです。私たち各人はその僕・はしためとなって、謙虚にまた従順に奉仕するよう求められていると思います。そのため各人は心の奥底に神から与えられている、あの世の霊の導きに対する心のセンスを目覚めさせ、磨く必要があります。それは、この世の事物現象を正しく理解するために与えられている頭の理知的能力とは違って、直観的に察知し洞察する芸術的な能力であり、主イエスや聖母マリアがその模範を示されたように、神の御旨に対する神の僕・はしためとしての従順の精神と深く結ばれています。
③ ところで主は、主の昇天のミサの第一朗読である使徒言行録1章に読まれるように、昇天なされる直前に弟子たちに向かって「エルサレムを離れずに、父の約束なさったものを待ちなさい。…. あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるから」とお命じになりました。それは、ご復活の日の晩に聖霊をお与えになった時とは違う、新たなもっと画期的な仕方で豊かに聖霊をお与えになることを意味していると思います。弟子たちがそのお言葉に従って、本日の第一朗読に読まれたように、恐らく主が最後の晩餐をなさった広間で、一同が一つになって集まっていると、「五旬祭の日が来て、…突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡りました」。それは、どんな風の音だったのでしょうか。私は聖書のこの箇所を読む時、いつも竜巻の音を考えます。それはすぐに過ぎ去る時間的には短い激しい暴風の音ですが、多くの人に驚きと恐怖の念を抱かせる大きな風音で、私は天からの叱責の声だと考えています。
④ その時実際にエルサレムで竜巻が起こったのかどうかは分かりませんが、ユダヤ教の三大祝日の一つである五旬祭のため、諸外国からも大勢集まって来て滞在していた信心深い巡礼者たちが、この物音に驚いて使徒たちのいた所にまでもやって来たことを思うと、単なる突風の音ではなく、諸所に被害を与えた程の竜巻の音だったのではなかったか、と思われます。主イエスの公生活の始めにも、ヨルダン川でのご受洗の時に聖霊が鳩のように主の上に降り、天から「あなたはわが愛する子、わが心にかなう者」という声が聞こえたという、平和な喜びに満ちた話の直後に、マルコ福音には「聖霊がイエスをすぐ荒れ野に追いやった」という、厳しい言葉が読まれます。聖霊は主イエスの体をすぐに荒れ野に追いやる程、厳しく鍛錬なさるお方なのです。同様に新しく生まれるキリストの教会共同体の始めにも、聖霊は激しい竜巻のような厳しい叱責の声をエルサレム中に響き渡らせて、使徒たちの上に降臨なされたのではないでしょうか。私たちの信奉している神は、叱ることを知らない優しさ一辺倒の柔和な神ではありません。私たちの心の奥に眠っているあの世的霊の能力を目覚めさせるために、時には厳しく叱責したり、思わぬ苦難や災害、病苦などを嘗めさせたりなさる強い神なのです。
⑤ 余談になりますが、六人兄弟の末っ子に生まれた私は、中学1年の頃から度々長兄の子供の子守をさせられて、その子が二歳、三歳頃に厳しく叱った経験を何度かしています。司祭になってからも、甥の子供が二歳の誕生日を迎えた時に、その両親の許可を得て叱って泣かせ、幼児に対する叱り方や褒め方などを教えたのを始めとして、信者や親しい知人の幼児を全部で少なくとも十数人、おそらく二十人以上も叱った体験をもっています。幸い私から叱られて泣いた子らは、その後皆立派な心に成長して親たちから喜ばれており、もう大人になっているその人達から、私は今でも尊敬されています。
⑥ 戦後のわが国には各人の自由を極度に尊重する思想が広まり、「子供は叱ってはいけない」という幼児教育も日教組などによって広められましたが、そういう教育を受けた人たちが大人になると、自分で自分の心を厳しく統御できずに様々の依存症やうつ病に悩んだり、自分の望み通りには動いてくれない学校や社会に対する不満・鬱憤に苦しんだり、子供の叱り方を知らないので、自分の子供の心の意志力を目覚めさせ伸ばしてあげることができずに、結局忍耐心に欠け悩むこと苦しむことの多いひ弱な子供や人間にしてしまっている例が、今の日本社会には数多く見受けられます。知識や技術を身に付けただけで、心の意志力を正しく鍛え上げることを怠って来た偏った戦後教育の犠牲者たちは、本当に可哀そうだと思います。理知的能力は十分に備えていても、家庭や社会や温かい交流関係の雰囲気を乱したり、息苦しいものにしたりして、自分で自分を苦しめ悩んでいるのですから。現代日本に多いそのような人たちの心の目覚めのためにも、神の霊に憐れみと照らしの恵みを祈り求めましょう。
⑦ 聖霊降臨の主日を迎えて、聖霊主導の生活を営もうと決意を新たにする人は、自分の自己認識についても反省する必要があります。多くの人は、無意識のうちに自分は他の人たちからどう思われているかを中心とする自己認識を、心に抱いています。それはこの世的な人間理性が心の中に自然に造り上げたもので、多くの人は無意識のうちに人間中心のそういう自己認識に囚われながら生活しています。そういう生き方ではなく、自分は神からどう思われ望まれているのだろうかと、絶えず愛と信仰をもってたずね求める自己認識を持つように心がけましょう。聖書によりますと、聖母は「主のはしため」、洗礼者ヨハネは「荒れ野に叫ぶ者の声」という自己認識を堅持しておられたようです。それ一つだけではなかったでしょうが、とにかく神の御前での自己認識を堅持して、他の人たちからどう思われているかなどの思いに囚われておられなかったことは、注目に値します。諸聖人たちも皆それぞれに、神の御前での自己認識を心に大切にしていました。それは、聖人たちが残された日記や著作の諸所にそれとなく表現されています。例えば小さき聖テレジアは、その自叙伝の中に自分を幼子イエス様の手鞠と称したことがあり、福者マザー・テレサも「私はただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません」と話されたことがあります。そういう自己認識は幾つあっても結構ですが、神中心の自己認識を大切にして、人間側の評価に囚われない心の中でのみ、聖霊はのびのびと働いて下さるように思います。聖霊の恵みに浴した私たちも、聖霊の生きた器となるよう決意を新たにして励みましょう。
⑧ 本日の第二朗読の出典であるコリント前書12章には、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分です」や「これら全てのことは同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままにそれを一人一人に分け与えて下さるのです」という言葉が読まれますが、私はこれらの言葉を読む時、私たち各人はそれぞれキリストの体の細胞であるという考えを新たにします。近年の研究によりますと、人体に60億もあるという細胞の各々にはヒトゲノムという各人独自の遺伝子、すなわちその人の基本的設計図が組み込まれていて、細胞はそれぞれ情報の授受機能や増殖機能等々を備えて独自に生きていますが、より大きな命から離脱すると死んで、灰に帰してしまいます。このことは、洗礼を受けた私たちの霊的現実のシンボルでもあると思います。私たちは皆、洗礼によってキリストという一つの体の細胞になっているのではないでしょうか。細胞は生きてはいますが、霊的現実全体を見る目はもっていません。ですから何事にも霊の導きに従う精神が特に大切だと思います。さもないとガン細胞のようになって、神中心でない病的毒素を他の細胞たちに広めたりもする危険性がありますから。これが、私の神中心的自己認識の一つとなっています。
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 12章3b~7、12~13節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~23節
① 本日の福音に述べられていますように、復活なされた主は既にその復活当日の晩、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えることと、弟子たちの派遣とを一つに結んで話しておられます。聖霊の霊的な力を魂に受けることは、神から一つの新しい使命を受けることを意味しているからでしょう。私たちが洗礼や堅信などの秘跡を通して神から頂戴した聖霊の恵みも、自分一人の救いのためとは思わずに、自分の周囲の人たちや全人類の救いのために、積極的にその恵みに生かされ導かれて祈りと奉仕に努める使命を神から頂戴したのだ、と考えましょう。
② 「生かされ導かれて」と申しましたのは、その恵みは人間が主導権をとって自分の思いのままに自由に利用する資金や能力のようなものではなく、生きておられるペルソナであられる聖霊が主導権をとって、私たち各人の内にお働きになる恵みだからです。私たち各人はその僕・はしためとなって、謙虚にまた従順に奉仕するよう求められていると思います。そのため各人は心の奥底に神から与えられている、あの世の霊の導きに対する心のセンスを目覚めさせ、磨く必要があります。それは、この世の事物現象を正しく理解するために与えられている頭の理知的能力とは違って、直観的に察知し洞察する芸術的な能力であり、主イエスや聖母マリアがその模範を示されたように、神の御旨に対する神の僕・はしためとしての従順の精神と深く結ばれています。
③ ところで主は、主の昇天のミサの第一朗読である使徒言行録1章に読まれるように、昇天なされる直前に弟子たちに向かって「エルサレムを離れずに、父の約束なさったものを待ちなさい。…. あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるから」とお命じになりました。それは、ご復活の日の晩に聖霊をお与えになった時とは違う、新たなもっと画期的な仕方で豊かに聖霊をお与えになることを意味していると思います。弟子たちがそのお言葉に従って、本日の第一朗読に読まれたように、恐らく主が最後の晩餐をなさった広間で、一同が一つになって集まっていると、「五旬祭の日が来て、…突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡りました」。それは、どんな風の音だったのでしょうか。私は聖書のこの箇所を読む時、いつも竜巻の音を考えます。それはすぐに過ぎ去る時間的には短い激しい暴風の音ですが、多くの人に驚きと恐怖の念を抱かせる大きな風音で、私は天からの叱責の声だと考えています。
④ その時実際にエルサレムで竜巻が起こったのかどうかは分かりませんが、ユダヤ教の三大祝日の一つである五旬祭のため、諸外国からも大勢集まって来て滞在していた信心深い巡礼者たちが、この物音に驚いて使徒たちのいた所にまでもやって来たことを思うと、単なる突風の音ではなく、諸所に被害を与えた程の竜巻の音だったのではなかったか、と思われます。主イエスの公生活の始めにも、ヨルダン川でのご受洗の時に聖霊が鳩のように主の上に降り、天から「あなたはわが愛する子、わが心にかなう者」という声が聞こえたという、平和な喜びに満ちた話の直後に、マルコ福音には「聖霊がイエスをすぐ荒れ野に追いやった」という、厳しい言葉が読まれます。聖霊は主イエスの体をすぐに荒れ野に追いやる程、厳しく鍛錬なさるお方なのです。同様に新しく生まれるキリストの教会共同体の始めにも、聖霊は激しい竜巻のような厳しい叱責の声をエルサレム中に響き渡らせて、使徒たちの上に降臨なされたのではないでしょうか。私たちの信奉している神は、叱ることを知らない優しさ一辺倒の柔和な神ではありません。私たちの心の奥に眠っているあの世的霊の能力を目覚めさせるために、時には厳しく叱責したり、思わぬ苦難や災害、病苦などを嘗めさせたりなさる強い神なのです。
⑤ 余談になりますが、六人兄弟の末っ子に生まれた私は、中学1年の頃から度々長兄の子供の子守をさせられて、その子が二歳、三歳頃に厳しく叱った経験を何度かしています。司祭になってからも、甥の子供が二歳の誕生日を迎えた時に、その両親の許可を得て叱って泣かせ、幼児に対する叱り方や褒め方などを教えたのを始めとして、信者や親しい知人の幼児を全部で少なくとも十数人、おそらく二十人以上も叱った体験をもっています。幸い私から叱られて泣いた子らは、その後皆立派な心に成長して親たちから喜ばれており、もう大人になっているその人達から、私は今でも尊敬されています。
⑥ 戦後のわが国には各人の自由を極度に尊重する思想が広まり、「子供は叱ってはいけない」という幼児教育も日教組などによって広められましたが、そういう教育を受けた人たちが大人になると、自分で自分の心を厳しく統御できずに様々の依存症やうつ病に悩んだり、自分の望み通りには動いてくれない学校や社会に対する不満・鬱憤に苦しんだり、子供の叱り方を知らないので、自分の子供の心の意志力を目覚めさせ伸ばしてあげることができずに、結局忍耐心に欠け悩むこと苦しむことの多いひ弱な子供や人間にしてしまっている例が、今の日本社会には数多く見受けられます。知識や技術を身に付けただけで、心の意志力を正しく鍛え上げることを怠って来た偏った戦後教育の犠牲者たちは、本当に可哀そうだと思います。理知的能力は十分に備えていても、家庭や社会や温かい交流関係の雰囲気を乱したり、息苦しいものにしたりして、自分で自分を苦しめ悩んでいるのですから。現代日本に多いそのような人たちの心の目覚めのためにも、神の霊に憐れみと照らしの恵みを祈り求めましょう。
⑦ 聖霊降臨の主日を迎えて、聖霊主導の生活を営もうと決意を新たにする人は、自分の自己認識についても反省する必要があります。多くの人は、無意識のうちに自分は他の人たちからどう思われているかを中心とする自己認識を、心に抱いています。それはこの世的な人間理性が心の中に自然に造り上げたもので、多くの人は無意識のうちに人間中心のそういう自己認識に囚われながら生活しています。そういう生き方ではなく、自分は神からどう思われ望まれているのだろうかと、絶えず愛と信仰をもってたずね求める自己認識を持つように心がけましょう。聖書によりますと、聖母は「主のはしため」、洗礼者ヨハネは「荒れ野に叫ぶ者の声」という自己認識を堅持しておられたようです。それ一つだけではなかったでしょうが、とにかく神の御前での自己認識を堅持して、他の人たちからどう思われているかなどの思いに囚われておられなかったことは、注目に値します。諸聖人たちも皆それぞれに、神の御前での自己認識を心に大切にしていました。それは、聖人たちが残された日記や著作の諸所にそれとなく表現されています。例えば小さき聖テレジアは、その自叙伝の中に自分を幼子イエス様の手鞠と称したことがあり、福者マザー・テレサも「私はただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません」と話されたことがあります。そういう自己認識は幾つあっても結構ですが、神中心の自己認識を大切にして、人間側の評価に囚われない心の中でのみ、聖霊はのびのびと働いて下さるように思います。聖霊の恵みに浴した私たちも、聖霊の生きた器となるよう決意を新たにして励みましょう。
⑧ 本日の第二朗読の出典であるコリント前書12章には、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分です」や「これら全てのことは同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままにそれを一人一人に分け与えて下さるのです」という言葉が読まれますが、私はこれらの言葉を読む時、私たち各人はそれぞれキリストの体の細胞であるという考えを新たにします。近年の研究によりますと、人体に60億もあるという細胞の各々にはヒトゲノムという各人独自の遺伝子、すなわちその人の基本的設計図が組み込まれていて、細胞はそれぞれ情報の授受機能や増殖機能等々を備えて独自に生きていますが、より大きな命から離脱すると死んで、灰に帰してしまいます。このことは、洗礼を受けた私たちの霊的現実のシンボルでもあると思います。私たちは皆、洗礼によってキリストという一つの体の細胞になっているのではないでしょうか。細胞は生きてはいますが、霊的現実全体を見る目はもっていません。ですから何事にも霊の導きに従う精神が特に大切だと思います。さもないとガン細胞のようになって、神中心でない病的毒素を他の細胞たちに広めたりもする危険性がありますから。これが、私の神中心的自己認識の一つとなっています。
2011年6月5日日曜日
説教集A年:2008年5月4日主の昇天(三ケ日)
第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章17~23節
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節
① 主の御昇天の日を偲ばせるにふさわしい好天に恵まれましたことを感謝したいと思います。本日の集会祈願には、「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています」という言葉がありますが、私たちの本当の人生はあの世の栄光の内にあると思います。神は私たち人間を、ほんの百年間ばかりこの不安と苦しみの世に住まわせるためにお創りになったのではなく、神と共に永遠に幸せに生きるため、愛をもって万物を支配させるために、ご自身に「似せてお創り」になったのです。明るい希望のうちにこの感謝の祭儀を捧げましょう。
② 第一朗読によりますと、復活なされた主イエスは40日にわたって度々弟子たちに出現なされたが、その最後頃の話でしょうか、彼らと一緒に食事をなさった時に、エルサレムを離れずに、主が前に話された、父から約束されたもの、すなわち聖霊の降臨を待つようにと、お命じになったとあります。「あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるから」というお言葉から察しますと、主は復活なされた日の晩に弟子たちにお現れになった時にも、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。云々」と彼らに聖霊をお与えになりましたが、それとは違う仕方で、すなわち彼らの存在を内面から高めるような、新しい画期的な形で聖霊をお与えになることを予告なされたのだと思われます。
③ 「洗礼」という言葉は、「沈める、浸す」という意味の動詞に由来していますから、「聖霊による洗礼」という主のお言葉は、弟子たちが聖霊の水・聖霊の力の中に沈められ覆われて、新しい「我」となって生き始めることを意味していると思います。「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして(中略) 地の果てに至るまで、私の証人となる」という主の御言葉も、この意味で理解しましょう。眼下にエルサレムの町を見下ろすオリーブ山の頂でこう話された主は、彼らの見ている前で、恐らく明るく光り輝きながら天にあげられ、雲に覆われて見えなくなりました。そして白い服を着た二人の天使が彼らの傍に立ち、「なぜ天を見上げて立っているのか。….. 天にあげられたイエスは、同じ有様でまたお出でになる」と告げました。天使たちのこの言葉を聞いて、使徒たちは慰めを覚えたと思います。復活なされた主は、神の御許で彼らのために執り成して下さるだけではなく、またいつか今見たのと同じお姿でこの世にお出で下さるというのですから。この時の彼らは、主のその再臨をそう遠くない将来のことと考えていたと思います。それでエルサレムの町に戻ると、宿泊していた家の高間に上がって、聖母マリアや婦人たちと共に心を合わせてひたすら神に祈り、聖霊による洗礼を待ち望んでいました。察するに、そこは主が弟子たちと一緒に最後の晩餐をなさった所でしょう。
④ 本日の第二朗読では、使徒パウロがエフェソの信徒団のため、天の御父が知恵と啓示の霊を与えて、神を深く知ることができるように、彼らの心の眼を開いて下さるように、と祈っています。パウロはこの言葉を、自分の過去の苦い体験を思い出しながら書いたのではないでしょうか。彼は若い時には有名なラビ・ガマリエルの弟子で、人並み優れた熱心な律法学者でした。神の啓示、旧約聖書のことは日々熱心に研究していたと思います。しかし、人間理性を中心にしたその聖書研究の結果、神秘な神の御旨と導きに従うことを第一にしていたキリストの教会を誤解し、迫害してしまいました。復活の主イエスによって大地に投げ倒され、心の眼を開いて戴いてからは、誤り易い自分の人間理性に従うよりは、何よりも神の聖霊の照らしと導きに従うことを第一にし、いわば主イエスの奴隷となって、教会に奉仕していたのだと思います。
⑤ パウロはこうして神の知恵と啓示の霊に導かれ教えられている内に、頭の理性とは違う、心の奥底に与えられている霊的な悟る能力が次第に大きく目覚めて見えるようになり、信仰に生き抜く聖なる者たちが将来主イエスから受け継ぐものが、どれ程豊かな栄光に輝いているかを、また私たち信仰に生きる者たちのために働いて下さる神の力が、どれ程大きなものであるかを悟るに至ったのだと思います。天にお昇りになった主イエスは、実に神からこの世とあの世との全ての勢力・権威・主権の上に立てられ、全てのものをその足元に従わせるに至る最高の支配者となり、私たちの属しているキリストの教会は、その栄光のキリストの体、全能の愛の神がお働きになる場とされているというのが、人間主導の生き方を改め、神の霊に導かれて祈りつつ考え実践するようになった使徒パウロが、確信するに至った考えだと思います。私たちもその模範に倣い、人間理性主導の理知的思想や文化を中心にして昇天なされた主のお姿を連想したり説明したりすることなく、まずは主の僕・はしためとなって人間主導の生き方に死に、祈りつつ自分に示された神のお望みに黙々と従う実践に励みましょう。その時、神の霊が私たちの心の奥底にも次第に生き生きと働き始め、信仰の真理を一層深く悟らせ確信させて下さることでしょう。
⑥ 本日の福音は、復活の主がガリラヤの山で弟子たちに話されたお言葉を伝えています。「私は天と地の一切の権能を授かっている」というお言葉は、使徒パウロが霊に導かれて確信したことの真実を立証していると思います。その主がご昇天なされ、あの世の霊的存在になられた後にも、世の終わりまで内的にはいつも私たちと共にいて下さるのです。主の霊的現存と聖霊によるお導きとを堅く信じつつ、主がお命じになった愛のおきてを守ることに努めましょう。
⑦ 主は「行って、全ての民を私の弟子にしなさい」と弟子たちにお命じになりました。「教えなさい」とおっしゃったのではありません。無学なガリラヤの漁夫たちには、当時のギリシャ・ローマ文化や東洋文化の伝統に生かされている国々の民に教えることは、どれ程努力してもできません。しかし、それらの国々の民が時代の大きな過渡期に直面して、それぞれ心の底に深い悩みや憧れなどを抱いていたことを考え合わせますと、信仰に生きる無学な使徒たちでも、自分の信仰体験からその人たちの心に語りかけ、諸国の民を主イエスの弟子にすることはできると思います。宗教的師弟関係は心の意志の関係であって、頭の理解の問題ではありませんから。このことは、現代のグローバル世界においても同様だと思います。主がお命じになった宣教とは、「私の弟子にしなさい」という主のお言葉に従い、信仰をもって主イエスに従う人たちの数を増やす活動であることを、私たちも心に銘記していましょう。
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章17~23節
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節
① 主の御昇天の日を偲ばせるにふさわしい好天に恵まれましたことを感謝したいと思います。本日の集会祈願には、「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています」という言葉がありますが、私たちの本当の人生はあの世の栄光の内にあると思います。神は私たち人間を、ほんの百年間ばかりこの不安と苦しみの世に住まわせるためにお創りになったのではなく、神と共に永遠に幸せに生きるため、愛をもって万物を支配させるために、ご自身に「似せてお創り」になったのです。明るい希望のうちにこの感謝の祭儀を捧げましょう。
② 第一朗読によりますと、復活なされた主イエスは40日にわたって度々弟子たちに出現なされたが、その最後頃の話でしょうか、彼らと一緒に食事をなさった時に、エルサレムを離れずに、主が前に話された、父から約束されたもの、すなわち聖霊の降臨を待つようにと、お命じになったとあります。「あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるから」というお言葉から察しますと、主は復活なされた日の晩に弟子たちにお現れになった時にも、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。云々」と彼らに聖霊をお与えになりましたが、それとは違う仕方で、すなわち彼らの存在を内面から高めるような、新しい画期的な形で聖霊をお与えになることを予告なされたのだと思われます。
③ 「洗礼」という言葉は、「沈める、浸す」という意味の動詞に由来していますから、「聖霊による洗礼」という主のお言葉は、弟子たちが聖霊の水・聖霊の力の中に沈められ覆われて、新しい「我」となって生き始めることを意味していると思います。「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして(中略) 地の果てに至るまで、私の証人となる」という主の御言葉も、この意味で理解しましょう。眼下にエルサレムの町を見下ろすオリーブ山の頂でこう話された主は、彼らの見ている前で、恐らく明るく光り輝きながら天にあげられ、雲に覆われて見えなくなりました。そして白い服を着た二人の天使が彼らの傍に立ち、「なぜ天を見上げて立っているのか。….. 天にあげられたイエスは、同じ有様でまたお出でになる」と告げました。天使たちのこの言葉を聞いて、使徒たちは慰めを覚えたと思います。復活なされた主は、神の御許で彼らのために執り成して下さるだけではなく、またいつか今見たのと同じお姿でこの世にお出で下さるというのですから。この時の彼らは、主のその再臨をそう遠くない将来のことと考えていたと思います。それでエルサレムの町に戻ると、宿泊していた家の高間に上がって、聖母マリアや婦人たちと共に心を合わせてひたすら神に祈り、聖霊による洗礼を待ち望んでいました。察するに、そこは主が弟子たちと一緒に最後の晩餐をなさった所でしょう。
④ 本日の第二朗読では、使徒パウロがエフェソの信徒団のため、天の御父が知恵と啓示の霊を与えて、神を深く知ることができるように、彼らの心の眼を開いて下さるように、と祈っています。パウロはこの言葉を、自分の過去の苦い体験を思い出しながら書いたのではないでしょうか。彼は若い時には有名なラビ・ガマリエルの弟子で、人並み優れた熱心な律法学者でした。神の啓示、旧約聖書のことは日々熱心に研究していたと思います。しかし、人間理性を中心にしたその聖書研究の結果、神秘な神の御旨と導きに従うことを第一にしていたキリストの教会を誤解し、迫害してしまいました。復活の主イエスによって大地に投げ倒され、心の眼を開いて戴いてからは、誤り易い自分の人間理性に従うよりは、何よりも神の聖霊の照らしと導きに従うことを第一にし、いわば主イエスの奴隷となって、教会に奉仕していたのだと思います。
⑤ パウロはこうして神の知恵と啓示の霊に導かれ教えられている内に、頭の理性とは違う、心の奥底に与えられている霊的な悟る能力が次第に大きく目覚めて見えるようになり、信仰に生き抜く聖なる者たちが将来主イエスから受け継ぐものが、どれ程豊かな栄光に輝いているかを、また私たち信仰に生きる者たちのために働いて下さる神の力が、どれ程大きなものであるかを悟るに至ったのだと思います。天にお昇りになった主イエスは、実に神からこの世とあの世との全ての勢力・権威・主権の上に立てられ、全てのものをその足元に従わせるに至る最高の支配者となり、私たちの属しているキリストの教会は、その栄光のキリストの体、全能の愛の神がお働きになる場とされているというのが、人間主導の生き方を改め、神の霊に導かれて祈りつつ考え実践するようになった使徒パウロが、確信するに至った考えだと思います。私たちもその模範に倣い、人間理性主導の理知的思想や文化を中心にして昇天なされた主のお姿を連想したり説明したりすることなく、まずは主の僕・はしためとなって人間主導の生き方に死に、祈りつつ自分に示された神のお望みに黙々と従う実践に励みましょう。その時、神の霊が私たちの心の奥底にも次第に生き生きと働き始め、信仰の真理を一層深く悟らせ確信させて下さることでしょう。
⑥ 本日の福音は、復活の主がガリラヤの山で弟子たちに話されたお言葉を伝えています。「私は天と地の一切の権能を授かっている」というお言葉は、使徒パウロが霊に導かれて確信したことの真実を立証していると思います。その主がご昇天なされ、あの世の霊的存在になられた後にも、世の終わりまで内的にはいつも私たちと共にいて下さるのです。主の霊的現存と聖霊によるお導きとを堅く信じつつ、主がお命じになった愛のおきてを守ることに努めましょう。
⑦ 主は「行って、全ての民を私の弟子にしなさい」と弟子たちにお命じになりました。「教えなさい」とおっしゃったのではありません。無学なガリラヤの漁夫たちには、当時のギリシャ・ローマ文化や東洋文化の伝統に生かされている国々の民に教えることは、どれ程努力してもできません。しかし、それらの国々の民が時代の大きな過渡期に直面して、それぞれ心の底に深い悩みや憧れなどを抱いていたことを考え合わせますと、信仰に生きる無学な使徒たちでも、自分の信仰体験からその人たちの心に語りかけ、諸国の民を主イエスの弟子にすることはできると思います。宗教的師弟関係は心の意志の関係であって、頭の理解の問題ではありませんから。このことは、現代のグローバル世界においても同様だと思います。主がお命じになった宣教とは、「私の弟子にしなさい」という主のお言葉に従い、信仰をもって主イエスに従う人たちの数を増やす活動であることを、私たちも心に銘記していましょう。
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