2012年3月25日日曜日
説教集B年:2009年四旬節第5主日(三ケ日)
2012年3月18日日曜日
説教集B年:2009年四旬節第4主日(三ケ日)
2012年3月11日日曜日
教集B年:2006年四旬節第3主日(三ケ日)
朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 20: 1~17. Ⅱ. コリント前 1: 22~25.
Ⅲ. マルコ福音 9: 2~10.
① 本日の第一朗読は、モーセを通して与えられたいわゆる「十戒」でありますが、ここでは第二朗読と福音についてだけ、話すに留めたいと思います。本日の第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、信仰と従順の闇の中で神への奉仕愛に生きようとしていないからではないでしょうか。また自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人々に神による救いの恵みをもたらすため、十字架の死を甘受なされたキリストの献身的愛の生き方を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの現し世の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。
② 使徒パウロがユダヤ人やギリシャ人について書いているこれらの言葉は、2千年前のユダヤ人・ギリシャ人にだけ該当する指摘ではなく、自分中心・この世の生活中心に生きている全ての人に、時代や場所の違いを超えて通用する指摘であると思います。極度の豊かさと便利さの中に生れ育ち、民主主義・自由主義の時代思想を自分中心の立場で都合よく理解しながら生活している、現代の多くの人たちにもそのまま該当すると思います。現代には若者や中年の大人たちの間で、家族や人間社会に対しても、自分の人生についても心に一種の根深い不信感ないし絶望感を抱いている人が増えて来ているように思われます。わが国で11年前から毎年3万人以上の人が自殺しているのも、各人の自我が自分で作った内的殻の中に自分の心を閉じ込め、大きく開いた明るい奉仕的精神で、家族や社会と共に生きる若さを持てずにいる証拠だと思います。私たちの生活を支えておられる神の存在を知らず認めずに、ただ人間の力だけに頼って生きることしか知らないなら、次々と際限なく様々の格差や相互対立を産み出して止まない現代の歪んだグローバル社会に、不安と絶望を痛感するのは当然だと思います。神に対する信仰・信頼・委ねの心という、人生にとって大切な霊的土台が欠如しているからです。
③ 将来に明るい希望を持てずにいる、そういう人たちが増えつつあることを思うと、神信仰に生きる恵みに浴している私たちには、神の愛・聖霊の神殿としての生き方を実践的に深めることにより、神の恵みと憐れみを世の人々の心に呼び下す使命を、神から与えられ期待されていると思います。神は一人でも多くの人を救おうと、真剣になっておられる親心の持ち主ですから。神は私たちの奥底の心を目覚めさせるため、時として思わぬ失敗・病苦・災害などの試練をお遣わしになりますが、その時はすぐに神に心の眼を向け、神の僕・婢としてそれらの苦しみを、今神よりの照らし・助けの恵みを必要としている人たちのため、喜んで神にお献げ致しましょう。そしていつも神中心に神のため、無料奉仕の精神で生きるよう努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと目覚めて立ち上がり、私たちの自我がいつの間にか無意識のうちに築いていた、心の殻や壁を打ち壊して、新たな奉仕の意欲で自由にのびのびと生き始めるようになります。心の中に神の霊の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づいて、本日の朗読聖書の中で神の力、神の知恵を私たちにも説いているのではないでしょうか。
④ 本日の福音に読まれる、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という主のお言葉は、主が常日頃ご自身の体を神の神殿、神の霊の生きている神殿と考えておられたことを示していると思います。使徒パウロもコリント前書3章や6章に、洗礼の秘跡を受けた私たちの体が、聖霊の宿って下さる神殿になっていることを説いています。主イエスの御模範に倣って、私たちもこの信仰を大切に致しましょう。私たちの体は自分個人のものではなく、洗礼の秘跡によって聖化され、神に献げられた神殿になっているのです。私たちは修道誓願によっても、この献げを更に堅めています。四旬節に当たってこの初心を新たにし、日々主イエスと深く一致しながら、聖霊の生きる神殿として生活するよう心がけましょう。そうすれば私たちのごく平凡な言行も、ちょうどあどけない幼子の言行が母親の愛を促すように、父なる神の愛と憐れみを促して、社会の人々の上に神による照らしと助けの恵みを豊かに呼び下すと信じます。
⑤ 神殿は、神と人間社会とを結ぶ祈りの場であり、神が恵みを施すパイプのような器であると思います。神殿はまた、太祖ヤコブが夢に見た天と地を結ぶ梯子のようなもの、あるいはモーセたちが荒れ野を旅した時に神臨在の幕屋の上に留まっていた雲の柱のようなものでもあると思います。私たち各人の体と天の神とを結ぶ、目に見えないそのような霊的梯子や雲の柱の存在を信じ、自分の体を物質的動物的にだけ見ないよう心がけましょう。神殿は、神と人々への献身的奉仕にその存在価値を持つものであることも、忘れてはなりません。主イエスは「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃいましたが、私たちも同じ精神で日々神と人とに仕えるよう心がけましょう。
2012年3月4日日曜日
教集B年:2009年四旬節第2主日(三ケ日)
朗読聖書: Ⅰ. 創世記 22: 1~9, 9a, 10~13, 15~18.
Ⅱ. ローマ 8: 31b~34. Ⅲ. マルコ福音 9: 2~10.
① 本日の第一朗読はアブラハムが捧げた「イサクのいけにえ」についての話ですが、これについてはここで省き、本日の第二朗読と福音について、3年前の説教の中で話さなかったことを、補足したいと思います。第二朗読はローマ書第8章からの引用で、「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」という言葉に始まる、神に対する大胆な信頼と、どんな敵をも恐れない豪胆な意志表示だけの短い引用文であります。この意志表示に込められている使徒パウロの心を味わい知るには、使徒がその前後に述べているローマ書第8章の話全体を、一緒に考え合わせる必要があります。使徒はこの8章を「キリスト・イエスに結ばれている者には、もはや死の宣告はありません」「聖霊が罪と死の原理から解放してくれたからです」という言葉で書き始め、まずその御独り子を罪深い「肉」の姿でこの世にお遣わしになった神が、その御子を罪を償ういけにえと為して律法の要求する所を成就し、その御子に結ばれ、御子の「霊」に従って生きている私たち、すなわち御子の霊的な体の部分となって歩む私たちを、罪と死の支配から解放して下さったことを説いています。
② 従って、死者の中から復活なされた主イエスの霊を心に宿し、その霊に従って生きる私たちは、主イエスのように死んでも皆生きるようになるのです。「肉」に従って生きるなら死にますが、聖霊によって悪い行いを絶つなら生きるのです。聖霊に導かれる人は神の子とする霊を受けたのですから、皆神の子なのです。私たちはこの霊によって、神を「アバ、父よ」と呼んで祈ることができ、また主キリストと共同で神の国の相続人とされています。キリストと共に苦しむなら、キリストと共に栄光を受けるのです。使徒パウロはこう述べた後に、「現在の苦しみは、私たちに現わされる筈の栄光に比べると、取るに足りないと思います。云々」と書き、先日も話したように、虚しさに服従させられている被造物たちが、神の子らの現れるのを切なる思いで待ち焦がれていることや、私たちの将来に輝かしい希望があることなどを述べています。そして「聖霊も私たちの弱さを助けて下さいます。私たちはどのように祈るべきか知りませんが、聖霊ご自身が言葉に表せない呻きを通して私たちのために執り成して下さるのです。云々」と私たち各人の中での聖霊の祈りや働きについて述べており、それは、神が私たち召された者たちを「御子の生き写しになるようにと予めお定めになったからである」ことや、こうして「御子が大勢の兄弟たちの中で長子となるため」であること、また召された者たちを正しい者として、栄光をお与えになることなどについて述べています。
③ 神による新しい救いの御業についてのこれらの言葉に続いて、使徒パウロの書いているのが本日の第二朗読の言葉です。そこには「私たち全てのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜わらない筈がありましょうか。云々」という、神の絶大な愛に対する信頼が表明されています。この引用文のすぐ後にも、「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができましょう。災いか、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。云々」という大胆な信頼の言葉が続いています。そして第8章の終末には、「死も、生命も、天使も、支配者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にいるものも、深い所にいるものも、他のどんな被造物も、我らの主キリスト・イエスにおいて現れた神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」と書いています。四旬節に当たり、神の愛ゆえに被造物界のどんな存在や現象をも恐れなかった使徒パウロのこの模範に倣い、私たちも小さい者ながら、神のその大きな愛に対する理解と信頼を一層深めるように努めましょう。
④ 唯今ここで朗読された本日の福音の始めは鍵括弧で [その時] となっていますが、マルコ福音書には「六日の後」となっており、その前の個所を読んでみますと、そこにはガリラヤ湖の北東ヘルモン連山の麓にある、フィリポ・カイザリアの町とその周辺の村々をめぐっておられた主が、弟子たちに最初の受難予告をなさったことと、その後でペトロが主を諌めようとしたら、「サタン、退け。あなたの思いは神のものではなく、人間のものである」と厳しくお叱りになったことなどが述べられています。使徒として召された12人全員が集まっていた所で、「サタン」と呼ばれて厳しく叱責されたペトロのショックは大きかったと思います。そこで主は、移りゆく儚いこの世の体験に基づく人間の思いとは天地の差である、神秘なあの世の栄光に包まれておられる神の思いとはどのようなものかを垣間見せるために、使徒たちの中からペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、高い山にお登りになったのだと思います。
⑤ 中世の十字軍遠征時代からでしょうか、ガリラヤ中心部のイズレイル平原の北東端にある、海抜588mのお饅頭のような形のタボル山が、その時の主の御変容の山だという伝えが広められ、今日ではそこに建てられた聖堂に、聖地の巡礼団が多く連れて行かれるようですが、聖書をよく読むと、それは話が違うと思います。ルカ福音書によると、一行は山で一夜を過ごして翌日下山したのですから、タボル山よりももっと高い山であったと思われます。フィリポ・カイザリアの近くにある2千メートル級のヘルモン連山の一つに、登ったのではないでしょうか。ルカ福音書には、「ペトロと他の二人の弟子たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目を覚ますと、イエスの栄光と、云々」とありますから、光輝く主の御変容は、夕刻か夜の出来事であったかも知れません。
⑥ 聖書によると、主の一行はこの出来事の後でガリラヤに入り、そこで第二の受難予告がなされたようですから、御変容はガリラヤ中央部のタボル山での出来事ではないと思います。また主の御受難が間近に迫って来た冬の出来事でもなく、もっと前の夏の出来事であったと思われます。冬には2千メートル級のヘルモン連山には雪が積もって一夜を過ごすことはできませんが、夏ならそこは快い所だと思います。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。云々」というペトロの言葉もうなづけます。それに、5百メートル級の山では雲はそんなに速く動きませんが、2千メートル級の山では、雲はしばしば突然に現れて全員を覆い隠し、また急に去って行くという現象も珍しくありません。私は神学生時代の夏休みに、同僚たちと一緒に海抜2,542mの浅間山に二度登りましたが、二度目の時に山頂を一周した時には、一瞬のうちに全員が真っ白い雲に覆われ、足元と近くの人物が薄らと見えるだけでした。その雲の中をしばらく歩いていましたら、突然雲が消えて、すぐ眼の前に高さ4mほどの大岩が立っていたので、驚いたことがありました。2千メートル級の山の上では、このようなことは珍しくありません。私たちの教会暦では、毎年8月6日が主の御変容の祝日とされていますが、これは古代教会からの古い伝統に基づいていると思います。
⑦ この出来事は、やはりヘルモン山でのことだと思います。雲の中から聞こえた「これは私の愛する子」という威厳に満ちた神の御声は、ヨルダン川での主の御受洗の時にも天から聞こえましたが、ここでは「これに聞け」というお声も続いています。人間の思いのままに主イエスのため、神のために何かを為そうとするのではなく、何よりも主イエスの御後に従って、苦しみも死も甘受し、復活の栄光に到達するようにというのが、使徒たちだけではなく、私たち各人に対する神の強いお望みでもあると思います。四旬節に当たり、その神の思いに従う覚悟も新たに堅めましょう。