2011年11月27日日曜日

説教集B年:2008年待降節第1主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 63章16b~17、19b、64章2b~7節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章3~9節
福音朗読 マルコによる福音書 13章33~37節

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚から解放されて帰国し、廃墟と化していたエルサレムの都を見て落胆したイスラエルの民のため、第三イザヤ預言者が、神による救いを切に願い求める長い祈りの言葉であります。「私たちは皆枯れ葉のようになり、」「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたに縋ろうとする者もない」という言葉から察すると、この時のイスラエルの民は一時的に神に対する信仰・信頼までも失う程の、絶望状態に陥ってしまったのかも知れません。でも預言者は、神が御顔を隠して民の力を奪い、そのような深刻な心理状態に突き落とされたのは、民が全能の神の愛と力を自分たちのこの世的繁栄のために利用しようとするような、いわば本末転倒の利己的精神の夢に囚われていたためであることに気づき、その罪を深く反省していたようで、「あなたは私たちの悪の故に力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの御手の業」と申し上げて、人間主導に神を利用しようとするような精神をかなぐり捨て、創り主であられる神に徹底的に従う精神で神の憐れみを願い求めています。

② 父なる神に対するこの徹底的従順は、主キリストや聖母マリアが身をもって実践的に証ししている生き方であり、主の再臨前に起こると思われる数々の恐ろしい試練に耐え抜くためにも、私たちが日頃から実践的に身につけて置くべき生き方だと思います。最近、知識や技術の伝授だけを重視し、心の鍛錬や社会奉仕の精神を軽視した歪んだ戦後教育の不備のためか、物騒な事件が頻発しています。このような時代には、自分の中の「もう一人の自分」と言われる心の奥底の自己をしっかりと目覚めさせ、その自己にそっと伝えられる神からの導きに、主イエスのように従おうとするのが、私たちの人間的弱さから心が産み出して止まない不安に打ち克つ、一番有効な手段であると思います。その奥底の自己の目覚めには、私の個人的体験から申しますと、各人が戴いて命の恵みを神に深く感謝する祈りと奉仕の精神でその感謝を表明する実践とを、日々積み重ねることが大切だと思います。愛深い神は、幼子のように素直な従順心で生活している人の心の中で、特別に働いて下さると信じるからです。

③ 本日の第二朗読は、使徒パウロがコリント信徒団に宛てた最初の書簡の冒頭部分からの引用ですが、その中で使徒は、「主も最後まであなた方をしっかりと支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころがない者にして下さいます」と述べています。

2011年11月20日日曜日

説教集A年:2008年11月23日王であるキリストの祝日(三ケ日で)

第1朗読 エゼキエル書 34章11~12、15~17節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~26、28節
福音朗読 マタイによる福音書 25章31~46節

① 朝夕の寒気がひときわ深まって、行く秋の寂しさが身にしみる頃となりました。本日の第一朗読はエゼキエル預言書からの引用ですが、エゼキエルはアナトテの祭司の息子エレミヤと同じ時代、すなわちバビロン捕囚が始まる前後頃に祭司の息子として生きていた人であります。しかし、神からの強い呼びかけを受けて、ユダ王国の支配層に対する厳しい警告の言葉を語り続けたエレミヤとは異なり、滅びゆくユダ王国やエルサレムの末期的症状を静かに眺めながらも、やがて主なる神が廃墟と化したその土地に働き出し、「新しい心と新しい霊」とを授けて、新しい時代が始まるのを希望をもって予見していた預言者で、時々はその夢幻のような予見を黙示録風に語った預言者であります。

② 本日の朗読箇所で神はご自身を、羊の群れを自分の家族のようにして世話する「牧者」に譬えておられます。伝統的な古い国家体制や宗教組織が、心の教育の不備や内外の各種対立などで極度に多様化し、悪を制御する力も弱小者を温かく世話する力も失って根底から崩壊しても、全てが崩れ去って無数の人間たちが暗雲の下でバラバラに不安を耐え忍んでいると、主なる神が全能の力強い「牧者」となって働き始め、「失われた者を尋ね求め、追い出された者を連れ戻し、傷ついた者を癒し、弱った者を強くする」のを、エゼキエル預言者は予見したのではないでしょうか。それは2千5百年程前のイスラエル民族のバビロン捕囚の頃に一時的局部的に実現したでしょうが、預言者が予見した神のそのお姿が恒久的全世界的に実現するのは、世の終わりになってからだと思います。信仰と希望をもって、その日を待ち続けましょう。

③ 本日の第二朗読にも、使徒パウロに啓示された世の終わりが多少具体的に描かれいています。「世の終わり」と聞くと、多くの人は私たちの今見ているこの世界の様相が悉く崩壊するマイナス面ばかり想像するかも知れませんが、使徒は「キリストによってすべての人が (復活し) 生かされることになる」全く新しい時代の到来を教えています。それはこの世に居座り、全ての人に伴ってその心を不安にしている「死」が、永遠に滅ぼされてしまう喜ばしい時であり、全ての人も被造物も、神の御子キリストに服従する時、主キリストが内的にも外的にも王として全世界に君臨する輝かしい光の時であります。復活なされた主キリストは、内的には既に今も王として世界の奥底に君臨し、罪と死の闇に苦しむ全世界をしっかりと両手で受け止め、神の方へと静かに押し上げ導いておられるのですが、その日には外的にも力強い「牧者」としてのお姿をお示しになると思います。私たちの中でのその「王である主」の現存に対する信仰と感謝を新たにしつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

④ 本日の福音は、その王である主が生前弟子たちにお語りになった、世の終わりの審判についての話であります。そこでは主が創立なされた新約時代の教会に所属しているかどうかや、洗礼を受けているかどうかは問題にされていません。今私たちの所属しているカトリック教会は、その時は既に内部分裂などで崩壊し、無くなっているかも知れません。司祭がこんな話をすると、主キリストの現存しておられるカトリック教会は滅びることがない、と信じている人たちから迫害されるかも知れません。ちょうどエレミヤ預言者が、神のおられるエルサレム神殿は永遠と真面目に信じていた人たちから迫害されたように。しかし、主は「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の国の門もこれに勝つことはできない」と宣言なされても、カトリック教会の外的体制や信仰生活が滅びゆくこの世の流れに汚染されて崩れ去ることはない、と保障なされたのではありません。ルカ福音書18:8には、「人の子が来る時、果たして地上に信仰を見出すであろうか」という主の御言葉が読まれますが、19世紀以来世界各地に御出現になって、人類をまたカトリック教会を襲う恐ろしい苦難について警告し、ロザリオの祈りを唱えるよう勧めておられる聖母マリアの御言葉にも、教会内に発生する嘆かわしい分裂についての予告が読まれます。そのような事態に直面しても躓くことのないよう、今から塩味を失わない決意を固めていましょう。世の終わり前には、何が起こるか分からないのですから。

2011年11月13日日曜日

説教集A年:2008年11月16日年間第33主日(三ケ日で)

第1朗読 箴言 31章10~13、19~20、30~31節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章1~6節
福音朗読 マタイによる福音書 25章14~30節
 
① 本日の第一朗読の出典『箴言』はさまざまな格言を集めた書ですが、単なる人生訓ではなく、「主を畏れる知恵」(9:10)の観点から集めた人生訓で、本日の朗読箇所はその最後の31章に読まれる、マサの王レムエルが神信仰に生きたその母から受けた諭しの言葉からの引用であります。当時の女たちは社会的な制約もあって大きなことは何もできませんでしたが、しかしその女たちが神に目を向けてなす小さな業に神は特別に御眼を向けて、彼女たちの住む町に、神によるご加護の恵みを豊かにお与えになったのではないでしょうか。

② 第二朗読は、世の終わりの主の来臨に強い関心をもっていたテサロニケの信徒団への使徒パウロの書簡からの引用ですが、パウロはその中で、人々が「無事だ、安全だ」と言っているその矢先に、突然破滅が襲うのです、ちょうど妊婦の産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそこから逃れられない、などと述べています。典礼暦年の最後を間近にして、教会は世の終わりを間近にした時のための心構えを、教えようとしているのだと思います。毎年11月の平日のミサにも、各人の死や世の終わりと関係深い聖書の個所が朗読に選ばれています。本日の第二朗読の後半に述べられているように、神の恵みによって「光の子、昼の子」とされている人たちは、もし奥底の心の眼を覚まし、身を慎んで生活しているなら、「主の日が盗人のように突然あなた方を襲うことはない」とパウロは保証しています。この言葉をしっかりと心に刻んで置きましょう。

③ ところで、「身を慎む」とは、具体的にどういう生き方をすることでしょうか。現代のような豊かで便利な時代には、先進国に住む多くの人は自分の望みのままに何でも自由に利用しながら生活し勝ちですが、その時は、外的知識や技術を利用しながら自主的に働く私たちの自我が心の主導権を握っていて、神の憐れみに縋りながら貧しく清く神の博愛に生きようとする、心の奥底の自己は眠ってしまい勝ちです。しかし、60億を超える人類のうち少なくとも数億人の人たちは、今でも水不足・食料不足や病原菌の多い劣悪な自然環境の中で、あるいは故郷を奪われた避難民となって、互いに助け合い励まし合いながら生きるのがやっとの生活を続けています。生命の危機にさらされているその人たちとの連帯精神を新たにし、その人たちの労苦を少しでも和らげるための神の助けを願って、個人的にも日々祈りをささげたり、小さな節水・節電などに心がけたりしていると、その小さな実践の積み重ねによって神の献身的愛に生きようとする奥底の自己が目覚めて来ます。そして隠れた所から私たちに伴い、私たちの心の奥に呼びかけて下さる神のかすかな呼び声に対する心の感覚も磨かれて来ます。パウロの言う「光の子、昼の子」というのは、そういう生き方をしている人のことを指しているのではないでしょうか。東海大地震などの不安を将来に抱えている社会に生活する身として、私たちもそのような生き方をしっかりと身につけて置くよう努めましょう。

④ 本日の福音にある話は、天の国について主が語られた譬え話であります。恐ろしい程高額の基金や儲けのことが登場しますが、この世の商売についての話ではありません。1タラントンは6千デナリオンで、当時は一日の日当が1デナリオンでしたから、1タラントンは約20年分の賃金に相当することになります。しかし、この大金は神から天国で生活するために預けられたもので、この世の生活のための金ではありません。ルカ福音書19章で主が語られた譬え話では、各人に1ムナ、すなわち100ドラクマずつ与えられたことになっています。いずれにしろ私たち各人の心の奥にも、天国で幸せになるためのかなり大きな資本金が既に預けられています。そのお金はこの世の生活のためには「少しのもの」に見えるでしょうが、私たちはその資本金を祈りと愛の実践に励むことによって増やすことに努めているでしょうか。自分のこの世的生活にだけ没頭していると、神よりのその貴重な資本金を土の下に眠らせてしまい、やがて「役立たずの僕」として、天国に入れてもらえなくなります。主のこの警告も、しっかりと受け止めましょう。

2011年11月2日水曜日

説教集A年:2008年11月2日死者の日

第1朗読 知恵の書 3章1~6、9節または ローマの信徒への手紙 8章31b~35、37~39節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章37~40節

2011年10月16日日曜日

説教集A年:2008年10月19日年間第29主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 45章1、4~6節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章1~5b節
福音朗読 マタイによる福音書 22章15~21節
 
① 本日の第一朗読には、バビロンを征服してペルシャ帝国を築いた最初のペルシャ王キュロスの名前が登場しています。キュロスが紀元前539年に、大河ユーフラテス川と高い城壁に守られて難攻不落と言われていたバビロン城を、わずかの間に忽ち攻め落とすことができたのは、そこに神の特別な援助があったからだと思われます。神の霊が人々の心の中で働いたのでしょうか、ちょうどそのころバビロン王の支配に不満を持つ支配者たちが大国バビロニアの各地に急増し、キュロスの軍隊が来ると、次々とその味方に転向しましたが、バビロン城内にも国王を裏切って、キュロス軍に城門を開いた人たちがいたようです。第一朗読にある「扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」という神の言葉は、そのことを指していると思います。

② それに続いて聖書に、「私はあなたの名を呼び称号を与えたが、あなたは知らなかった。云々」という言葉にある「あなた」は、キュロスを指しています。神はイスラエル人だけの神、イスラエル人だけの主であると考えてはなりません。神はキュロスにも、「私は主、他にはいない。私をおいて神はない。云々」と話しておられるのですから。キュロス自身はその神をはっきりとは知らずにいたかも知れません。神は彼に「私はあなたの名を呼び称号を与えたが、あなたは知らなかった」「あなたに力を与えたが、あなたは知らなかった」とありますから。しかし、神の不思議な助けははっきりと自覚し、そういう神を崇める全ての民に寛大であろうとしたのだと思われます。神は既にメソポタミアの異教文化の中に生まれ育った太祖アブラハムにも、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」(創12:3)「世界の全ての国民はあなたによって祝福に入る」(創19:18)、「地上の諸国民は全て、あなたの子孫によって祝福を得る」(創23:18)などと話しておられて、異教文化の中に生まれ育つ無数の人々をも祝福し、その人たちの神・主であられることを示しておられます。

③ しかし、そのアブラハムの血を受け継いだイスラエルの民の多くが、太陽暦と多神教の大国エジプトで豊かな安定した生活を続けているうちに、アブラハム的信仰生活をしなくなったために、その心を新しく目覚めさせるために、神はまず彼らにエジプト人たちから厳しく酷使されるという苦しい奴隷労働を体験させ、それからモーセを介しての数多くの奇跡によりエジプトから脱出させ、シナイ山で十戒や祭式制度を与えて、彼らと新たな契約を結び、イスラエルの民が神信仰から離れ難くするために、一種の民族宗教を創設させたのです。それはイスラエルの民だけの宗教ですので、この宗教に入らなければ救われない、などと考えてはなりません。しかし、旧約聖書から明らかなように、神はこの宗教に所属する民に特別に多くお語りになり、神の御独り子を人類の救い主メシアとして迎える地盤造りをさせました。

④ 2千年ほど前にその地盤の上にお生まれになったメシアは、その民の民族宗教を内側から変革して、律法中心ではなく、広い神の愛中心の世界宗教に高めようとなさったのですが、ごく一部の人たちを除き、民は伝統的民族宗教に留まり続けました。しかし、メシアによって導入された世界宗教はキリスト教と呼ばれて、今や全世界のほとんど全ての国に宣べ伝えられています。それは異教文化と敵対するものではなく、ユダヤ教をも異教文化をも神の霊によって内的に一層豊かにし、神中心の生き方へと高めようとするものだと思います。ご存じのように、本日10月の第三日曜日はカトリック教会で「世界宣教の日」とされています。それで本日のミサ聖祭は、主イエスによって導入されたこのキリスト教信仰が、異教徒や不信仰者たちの間に正しく理解され受け入れられるよう、神の照らしと導きの恵みを祈り求めてお献げしたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

⑤ 本日の第二朗読はテサロニケ前書の冒頭からの引用ですが、新約聖書の中でこの書簡が最も早くに書かれた文書と考えられています。使徒パウロは、テサロニケの信徒たちがキリスト教信仰を受け入れ、その信仰を堅持していることを神に感謝した後、「私たちの福音があなた方に伝えられたのは、言葉だけによらずに、力と聖霊と強い確信によったからです」と書いています。この最後の言葉は、現代においても大切だと思います。神の子イエスの福音宣教は、何よりも各人の奥底の心を目覚めさせ、それまでの人間中心の生き方を根本的に悔い改めさせて、神中心に心から信じ祈り生活させる信仰生活に導くことでした。単に言葉だけで宣教したのでは、教えは相手の頭に正しく理解されたとしても、奥底の心を目覚めさせることはできないと思います。宣教する人の奥底の心が力と強い確信に満たされて語ってこそ、言葉が多少不完全であっても、相手の奥底の心に訴えて、その心を信仰へと導くのではないでしょうか。奥底の心が目覚めれば、そこに神の霊が働き始めます。悩む人、新しい道を模索している人の多い現代社会においても、そのような宣教活動が盛んになって、一人でも多くの人がキリスト教信仰に生かされるよう祈りましょう。

⑥ 本日の福音の最後に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの御言葉も、深い意味を秘めていると思います。私たちのキリスト教は、ユダヤ教のような民族宗教ではありません。私たちは、先祖から受け継いだ宗教文化をなるべくそのままに子孫に伝えて行こう、旧約の「律法に適っている」かどうかを問題にしているのではありません。「あなたたちは行って、全ての国の人を(私の)弟子にしなさい」「私は世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」という主の御言葉に従って、積極的に他の国々や他の宗教文化の人たちの所へ出て行き、その人たちの生き方や文化を内面から真の神中心のものに高めて行くよう、神から求められているのです。主イエスはこの世の皇帝に対しても御心を大きく開いておられるのです。としますと、単に自分が過去から受け継いだものだけではなく、キリスト教信仰を伝えて行くべき相手国の伝統や文化をも尊重しつつ新しく学び、そこに信仰の種を根付かせるよう努める必要があります。これが、1980年代から唱道されるようになったインカルチュレーションという働きだと思います。したがって福音宣教には、神から受け継いだものへの忠実とそれを伝えるべき世界への愛の配慮という、両方の努力がバランスよくなされる必要があります。本日の福音に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という主の御言葉は、そのことをもほのめかしているのではないでしょうか。それは簡単なようでいて、現実には意外と難しいと思います。神の霊の照らしと導きによって、現代世界への宣教活動が豊かな実を結びますよう、お祈り致しましょう。

2011年10月9日日曜日

説教集A年:2008年10月12日年間第28主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 25章6~10a節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章12~14、19~20節
福音朗読 マタイによる福音書 22章1~14節
 
① ご存じのように、イザヤ書の1章から39章までは、紀元前8世紀の末葉に第一イザヤ預言者が語った預言とされています。しかし、本日の第一朗読を含む24章から27章までは、「イザヤの黙示」と呼ばれていて、その百数十年後のバビロン捕囚からの解放を待ち望んでいる神の民への、神の言葉でもあるようです。そこには、エルサレムの都を破壊して荒廃させ、祭司も住民も捕虜が集められるようにして投獄される、恐ろしい神の裁きと、その後に都が再び神によって新しく建て直される様子が、具体的に描かれているからです。それで、紀元前6世紀半ばになってから書き入れられたのではないか、などと考える人もいるようです。しかし、神は遠い将来のことも預言者に啓示してお語りになることもできる方ですので、事実はどうであったは分かりません。

② 本日の第一朗読には、前半に「主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と、全ての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去って下さる」という言葉が読まれますが、これは単にバビロン捕囚後のエルサレムのことだけではなく、むしろもっと遥かに遠い将来の、世の終わり後の救われる人類についての預言ではないでしょうか。そして朗読の後半に読まれる、「その日に人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が、私たちを救って下さる。云々」の話も、世の終わりの大波乱後に神の働きによって救い出された人たちの口にする言葉なのではないでしょうか。私はイザヤ預言書に読まれるこれらの預言は、バビロン捕囚後のイスラエル民族についてのことより、むしろ世の終わりに直面した人類についての預言と考えています。

③ 本日の第二朗読は、フィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用ですが、使徒パウロはここで、ローマで囚われの身となっている自分に対するフィリッピの信徒たちの各種の援助に感謝しています。そして「私の神は」「キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものを全て満たして下さいます」という、フィリッピの信徒たちに対する感謝の信仰を表明しています。囚われの身である使徒自身は受けたご恩に何もお返しできなくても、自分の命をかけてお仕えしている神が彼らのその親切に十分に報いて下さるというこの信仰は、使徒のそれまでの数々の体験に基づく確信であると思いますが、現代の私たちにとっても大切だと思います。

④ しかし、単に頭でそう考えているだけの信仰では足りません。私たちもそれを使徒パウロのように、自分自身の数々の体験に基づく確信とするように心がけましょう。それには、祈りだけではなく実践が必要だと思います。私は、単に恩人・知人のために祈るだけではなく、日々小さな不自由、小さな貧困と苦しみ、水や電気などの小さな節約などを、難民や孤独な老人・病人たちの苦しみを緩和してもらうために、密かに神にお献げしています。それはあどけない小さな子供がなしているような献げで、外的金銭的には何の価値もない奉仕ですが、神は幼子のような心のそのような小さな清貧愛を殊のほかお喜び下さり、その心の祈りや願いを聞き入れて下さるということを、数多く体験しています。これは、全てを合理的に考える世の知者や賢者には神によって隠されている、人生の秘訣だと思います。幼子の心で清貧愛に励みましょう。アシジの聖フランシスコだけではなく、他の多くの聖人たちも、人目に隠れた小さな個人的清貧・節約が神の関心を引き、神から豊かな恵みを呼び下す道であることを体験しています。私たちも、人生のこの秘訣を大切に致しましょう。

⑤ 本日の福音は、主がユダヤ人の祭司長や民の長老たちに語られた譬え話ですが、このようなことはエルサレム滅亡の時点だけではなく、ある意味ではこの世の終わりの時にも実際に、しかも大規模に発生すると思います。私たちの奥底の心への神からの招きは、はっきりとした外的姿や言葉をとってなされる、と考えてはなりません。日常茶飯事の小さな出来事や出会いの形で、隠れた所におられて隠れた所を見ておられる神は、そっと私たち各人の奥底の心に呼びかけておられるのですから。この世の生活の外的幸せや外的損得にばかり目を向けていると、奥底の心に対するその招きを無視してしまう危険が大きくなります。気をつけましょう。

⑥ 主の譬え話の後半には、招かれた来客には入口で無料に提供される婚礼の礼服を、着用せずに婚宴の席、すなわち神の国に入って来た無礼者に対する、神の厳しい断罪が語られています。この礼服は何を指しているのでしょうか。私はそれを、先ほど話した幼子のような心の小さな清貧愛、貧しい人・苦しむ人たちの労苦を和らげるために献げられる小さな博愛の実践と考えています。いかがなものでしょうか。数多くの聖人たちの体験談や述懐などを読んでみますと、そこにこのような小さな清貧愛や小さなことに対する忠実が語られています。皆様の会の最大の保護者聖ベルナルドも、修道者の清貧については厳しい修道院長でした。私たちも、その精神を現代の豊かさの中で堅持し証しするよう心がけましょう。

2011年10月2日日曜日

説教集A年:2008年10月5日年間第27主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 5章1~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章6~9節
福音朗読 マタイによる福音書 21章33~43節

① ご存じのように、本日から188人の日本人キリシタン殉教者たちが11月24日に長崎で列福されるまでは、「列福をひかえ、ともに祈る七週間」とされています。それで日本全国のカトリック教会と心を合わせ、その殉教者たちの取り次ぎを願いつつ、日本の教会が神からの使命と自分の今歩むべき道とを正しく深く自覚する恵みを祈り求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読は、バビロン捕囚前頃の神の民イスラエルの乱れた信仰生活を嘆かれる主のお言葉を、預言者イザヤが語ったものです。神はその中で、神の民をぶどう園に譬えています。神は肥沃な丘にそのぶどう園を設け、よく耕して石を除き、良い葡萄の種を植えたのだそうです。そしてぶどう園の真ん中に見張り塔を建て、酒舟を掘り、良い葡萄の実るのを待っておられたのですが、実ったのは酸っぱい葡萄であった、といたく嘆いておられます。当時の神の民が、その後も預言者たちの声に聞き従おうとせずに神の罰を受け、バビロン捕囚という恐ろしい試練を体験させられたのは当然だと思います。神の御旨やお望み中心の立場に立って愛の奉仕に尽力しようとせずに、神を信じてはいてもいつもこの世の自分たちの生活中心の考えや生き方を続け、神の期待しておられる良い実を結ばない者たちに対しては、神は時としてそれ程厳しく愛の躾けをなさる、恐ろしいお方だと思います。

③ ところで、私たちの所属している現代日本の教会も、まだ神の期待しておられる程の良い実を結べずにいるのではないでしょうか。古い話ですが、30年ほど前に韓国から来日したカトリック信者たちの一人は、当時の韓国の教会が目覚ましく躍進している理由を尋ねられて、「私たちは数人ずつグループになって、人々に信仰をもって生きるよう積極的に勧めているからです」と答えていました。自分の信仰生活に誇りと喜びを感じ、他の信仰者たちと共にその喜びをまだ持っていない人たちに伝えようと努めることは、神の求めておられる実を結んでいる徴だと思います。それに比べると、自由主義・個人主義が蔓延している日本社会のカトリック者たちの多くは、そういう宣教グループを結成しようとせず、教会には来ていても積極的宣教活動は諦め、自分個人だけで救われようとしているのではないでしょうか。韓国教会が大きく発展したのにはもう一つ、軍事力強化に努める北朝鮮の恐怖に対抗して、国民が相互に堅く団結する必要性や神の御保護を祈り求める必要性などに迫られていた、という社会的事情もあったと思います。

④ しかし、キリシタン時代の日本の教会も、信徒たちの若々しい宣教意欲によって目覚ましい発展を遂げていました。11月に長崎で列福される118人の殉教者たちは、ごく少数の人たちを除いて皆一般信徒ですが、宣教活動で驚く程の実績をあげていました。ですから迫害者たちから真っ先に命を狙われたのかも知れませんが、しかし、神から特別に愛され守られて、立派に殉教の栄冠を受けたのだと思われます。私たちは、殉教の栄冠を欲しいためではなく、何よりもその人たちの若さに溢れた信仰精神に見習うために、その列福を慶賀するのです。キリシタン時代の宣教師の数は少数でした。1614年に徳川幕府による全国的迫害が始まる直前頃には、宣教師の数が一番多くなった時ですが、それでも信徒総数が45万人と、現代の日本のカトリック者数程にもなっていたのに、宣教師の総数は102人だけでした。しかし、信徒たちは迫害に備えてそれぞれ数多くの助け合いグループを結成し、神中心に命をかけて堅くまた美しく団結していました。彼らはその団結した信仰生活の内に大きな喜びと生きがいを見出していましたが、これが信仰を持たない人たちには魅力となっていました。列福式を目前にして、現代日本の教会もこのような魅力ある教会になるよう、神の照らしと助けの恵みを祈りましょう。

⑤ 本日の第二朗読は、使徒パウロがフィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用です。使徒はその中で、神への信仰と委ねに生きる人たちの内におられる、神の現存を強調しています。目前の不穏な出来事だけに眼を向け、人間の自力でそれに対応しようとすると思い煩いが多くなりますが、何事もまず神に打ち明け、神に感謝と願いを捧げていると、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを導き護って下さいます。これは、使徒パウロが数多くの体験から確信した教えだと思います。激動する現代の様々な不安の中で、私たちもこの勧めに従って生きるよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音は、主イエスが祭司長や民の長老たちに語られた譬え話と、それに続く警告ですが、当時の祭司長や長老たちは何事もこの世の生活の安泰を判断基準にして考え、生活していたように思われます。それで主は、彼らが神のぶどう園である神の民が神に納めるべき収穫を納めず、それを受け取るために神から派遣された僕たちを殺し、神の御子をもぶどう園の外にほうり出して殺してしまった、という譬え話を彼らに語って、収穫を納めない彼らから神のぶどう園が取り上げられ、「季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに」与えられるという形でその話をまとめ、彼らに、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と警告しておられます。現代の私たちの教会も、もし神の求めておられる実を結ばないなら、神から取り上げられる時が来るのではないでしょうか。主はこの福音を通して私たちにも、もっと神に対する畏れの心で神の御旨と導きに心の眼を向けるよう、警告しておられるように思います。