2012年4月7日土曜日

説教集B年:2009年聖土曜日(三ケ日)


朗読聖書: 第二部の「ことばの典礼」では旧約聖書から七つの朗読があるが、その記述は省き、「感謝の典礼」の朗読だけにする。
. ローマ 6: 3~11.   Ⅱ. マルコ福音 16: 1~8.
今宵の復活徹夜祭の典礼では、光と水が大きな意味を持っており、第一部の「光の祭儀」では、火の祝別・蝋燭の祝別に続いて、罪と死の闇を打ち払う復活したキリストの新しい命の光を象徴する、新しい大きな祝別された蝋燭の火を掲げ、「キリストの光」「神に感謝」と交互に三度歌いながら入堂し、その復活蝋燭から各人の持つ小さな蝋燭に次々と点された光が、聖堂内を次第に明るく照らして行きました。そして、キリストの復活により、罪と死の闇に打ち勝つ新しい命の光が全人類に与えられたことに感謝しつつ、大きな明るい希望の内に、神に向かって荘厳に「復活讃歌」を歌いました。
続く第二部の「ことばの典礼」では、最初の創世記からの朗読を別にしますと水が主題となっていて、旧約聖書の中から水によって救われ助けられた出来事や、水によって恵みを受けることなどが幾つも朗読され、その度ごとに神を讃え神に感謝する典礼聖歌が歌われたり、神に祈願文を捧げたりしました。この第二部に登場する水は、いずれも罪と死の汚れや苦しみから救い出す、洗礼の水の象徴だと思います。続いて朗読されたローマ書6章の中で、使徒パウロは「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。云々」と、洗礼の秘跡の意味について教えています。復活徹夜祭の第三部は「洗礼と堅信」の儀式で、多くの教会では今宵も洗礼と堅信の秘跡を受ける人が少なくありません。すでに受洗している私たちも、皆で洗礼の約束を更新する儀式を致します。そこで、洗礼の秘跡について、また水という洗礼のシンボルについて、少しだけ考えてみましょう。
洗礼はただ今も申しましたように、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる秘跡ですが、いったい何に死んで何に生きるのでしょうか。ローマ書6章によると、私たちの古いこの世の自分の命に死んで、キリストの新しい命、もはや死ぬことのないあの世の神の命に復活するのです。と申しましても、それは霊魂の奥底で進行する生命現象で、命そのものは目に見えませんから外的には何も分かりません。譬えてみれば、鶏の卵は受精していてもいなくても、外的には少しも違いません。しかし、受精卵は内に孕んでいる新しい命がだんだん成長して来ると、卵の外殻は同じであっても、何かが少し違って来るようで、それを識別する専門家には受精しているか否かが分かるそうです。同じように、キリストの新しい命を霊魂の奥に戴いて信仰に生きている人も、その新しい命がゆっくりと成長して来ると、内的現実の変化が外にもそれとなく現れるようになり、注意深く反省してみるならば、本人も次第に目に見えない自分の心の内的成長を自覚するようになるのではないでしょうか。このようにして年月をかけてゆっくりとですが、新しいキリストの精神、キリストの命に生きるために、この世に生まれた時から引きずっている罪の穢れや、自分中心の古いアダムの精神や命から内的に解放され抜け出ることを、パウロは「キリストと共に死ぬ」と表現しているのだと思います。それは肉体的な死ではなく、魂の中での内的変化なのです。
もちろん、洗礼は受けても、この世の古い命の外殻が残っている間は、まだ自己中心の古いアダムの命も残っていますから、「第二のアダム」キリストの新しい命 (神の命) は、その古い命と戦いながら成長しなければなりません。ですから、私たち既に受洗しているキリスト者たちも、毎年聖土曜日のミサ中に洗礼の約束を更新したりして、洗礼を受けた時の初心を新たにし、日常生活においても神の御前に信仰と愛のうちに生きるよう心がけています。しかし、こうして神から戴いたキリストの命を保持し続けていますと、やがてこの世の古い命の外殻が死によって壊れても、それによって解放された新しい永遠の命 (キリストの復活の命) に生き始めることができます。死は、この世の命に生きる者にとっては苦しみに満ちた終末ですが、霊魂がキリストの復活の命に生きている限りでは、神から約束された地への過越しであり、喜びの新世界への門出であります。今宵、神が世の初めから美しく整えて私たちを待っておられるその理想郷への憧れを新たにしながら、皆で洗礼の約束を力強く更新しましょう。「復活」という言葉はギリシャ語で「アナスタジア」と言いますが、それは勢いよく、力強く「立ち上がる」という意味合いの言葉です。今宵、私たちも主キリストと共に、古いアダムの命の中から勢いよく立ち上がって、神の命に生きる決意を新たに神にお献げしましょう。

2012年4月6日金曜日

説教集B年:2009年聖金曜日(三ケ日)


朗読聖書:
. イザヤ 52:13 ~ 53:12.
. ヘブライ 4:14~16, 5:7~9.
. ヨハネ福音 18: 1~19, 42.
毎年聖週間を迎える頃になると、懐かしく思い出すことがあります。それは、19世紀後半に北ドイツのミュンスター教区に属していたカタリナ・エンメリッヒという敬虔な視幻者が、主イエスと聖母マリアのご生涯について詳細に見せてもらった幻のことであります。この幻は、確かクレメンス・ブレンターノという詩人が、本人に細かく語ってもらいながら書き集め、その断片的物語を後で整理してかなり分厚い2冊のドイツ語本にまとめ、出版しています。当時のヨーロッパでは理知的な聖書学が盛んで、その学説や見解に真っ向から対立するこのような著作は厳しく批判され、相手にされなかったようですが、神言会の創立者がミュンスター教区の出身者であったためか、一部の神言会員の間ではこの著作は愛読されていたようです。支那事変の初期に召集されて中国に渡った東京本所教会信徒の坂井兵吉という医師が、現地で親しくなった神言会のドイツ人宣教師リタース神父からドイツ語のこの著書をもらい、そのうち主の受難死の部分を戦争中に邦訳し、『吾が主の御受難』と題して戦後に出版した本があります。
私はその訳書を神学生時代に読んだだけですが、そのさまざまな場面は今でも印象深く覚えています。福音書に書かれていない裏話のような話が多いので、ローマに留学していた時に、一緒に生活していたドイツ人の聖書学者にカタリナ・エンメリッヒの見た幻示に基づくその著書について質問してみましたら、今の聖書学の立場からは、その受難物語のどこにもはっきり誤りとして退けることのできる話は一つもないとのことでした。それで帰国後にその本を入手したいと思いましたが、絶版で入手できませんでした。しかし、私の読んだその本によると、主イエスは最後の晩餐の後には一睡もしておらず、ゲッセマネで悪霊に苦しめられただけではなく、ユダヤ人たちに捕らえられ、大祭司カイヤファの家に連行される途中でも、ケドロンの谷川に投げ落とされたりするなどの酷い虐待に苦しめられておられます。一晩中そのように虐待され続けた後に、ローマ兵によって激しく鞭打たれたり、茨の冠を被せられたりしたのですから、丈夫なお体の主がどんなに頑張っても、生木の重い十字架を担って刑場まで運ぶ途中で何度もお倒れになったのは、当然であったと思われます。カタリナ・エンメリッヒの見た幻示によると、三度ではなく七度も倒れておられます。そしてその度ごとに虐待されています。十字架に釘付けにされた後に、他の二人の盗賊たちよりも早く息を引き取られたのも、主のお受けになった虐待の酷さのためであると思われます。主は実際、私たちの想像を絶する恐ろしい苦しみを耐え忍びつつ、その御命を生贄として天の御父に献げ、人類の罪の赦しと人類救済の恵みを天から呼び下されたのではないでしょうか。同時にこの世の苦しみを聖化して、神による救いの恵みを私たちの魂に呼び下す器として下さったのではないでしょうか。そのために極度の苦しみを耐え忍ばれた主に対して、深い感謝の心を新たに致しましょう。そして私たちも、日々自分に与えられる苦しみを主と内的に一致して耐え忍び、神に献げることにより、世の人々の上に神から恵みを呼び下すように努めましょう。
苦しみそのものには少しも価値がない、などと言う人もいますが、苦しみを単に受けるだけ我慢するだけで、外的社会的には何も産み出さないものとしてこの世的・理知的に考えるなら、そうかも知れません。しかし、少なくとも神の御独り子がこの世に来臨して多くの苦しみを進んで耐え忍び、それにより人間救済の業を成就なさった後には、苦しみは、主イエスと内的に一致して生きようとする私たちキリスト者にとって人間救済の手段として祝別され、神の恵みの器としての高い価値を持つに至ったように思われます。苦しみは、固く凝り固まっている私たちの心の土を打ち砕いて掘り起こし、そこに神の恵みの種が深く根を張って、豊かに実を結ぶことができるようにしてくれるからです。病気、誤解、失敗、その他の突然の思わぬ苦しみを受けたような時、目前のその出来事だけに目を向けずに、救い主キリストにも信仰と感謝の眼を向けて、主と一致してその苦しみを受け止め、多くの人の救いのため、私たちの忍耐を快く神にお献げするよう努めましょう。その時、主ご自身が私たちの内に共に苦しんで下さり、その苦しみを浄化して、私たちの魂を一層強く豊かにして下さるのを実感するようになると思います。恐れずに、受けた苦しみを愛し、苦しみを耐えることによって主との一致を深めるように心がけましょう。

2012年4月5日木曜日

説教集B年:2009年聖木曜日(三ケ日)


朗読聖書:
. 出エジプト 12: 1~8, 11~14.
. コリント前 11: 23~26.
. ヨハネ福音 13: 1~15.
主の最後の晩餐の記念である今宵のミサ聖祭では、三つの奥義が特別に記念されます。それは、主が晩餐の前に弟子たちの足を洗われたことと、ご聖体の秘跡の制定と、「私の記念としてこれを行え」というお言葉による、聖体祭儀ならびに司祭職の制定であります。
出エジプトの記念行事である過越の食事を始めるにあたって、主はなぜ伝統的慣例に反して弟子たちの足を洗うという行為、奴隷たちの中でも一番下の奴隷がなしていた行為をなさったのでしょうか。出エジプトの歴史的出来事は、神の民イスラエルに対する神の全く特別な愛の行為、その民がそれまでに犯した一切の忘恩・不忠実の罪を赦し、神の愛の許に新しく自由独立の国民として発足させようとなさった、神の愛の働きでありました。神はシナイ山で、「私はあなたを奴隷の家エジプトから導き出した主なる神である。私の他に何者をも神としてはならない」とおっしゃって、改めて神の民イスラエルと愛の契約を結びましたが、主イエスは、出エジプトの時のこの救う神の愛、無償で全ての罪を赦し、新しく神の民として歩ませようとしておられた、神の奉仕的な愛を体現し、その愛に弟子たちを参与させるために、彼らを極みまで愛し、彼らの足を洗うことによって、その愛を目に見える形で具体的にお示しになったのだと思います。
旧約時代の神の民の歴史を吟味してみますと、民は人間的理性的に考えて、自分たちのこの世の生活に神がどうしても必要であると考えたから、神を信じるようになったのではありません。神が自分たちのためにどれ程大きなことを為して下さったか、また神が恩知らずの自分たちを赦し、深く愛して下さるのを数々の体験を介して、感謝のうちに弁え知るに至ったところから、彼らの神信仰が始まったのです。新約時代に神が私たちから切に求めておられる信仰も、同様だと思います。自分の夢、自分の憧れに駆られて一生懸命神に祈り、自力で強い神信仰に生きようと努力しても、それは人間が作り出した信仰であって、そこにどれ程大きな善意があっても、神が私たちから求めておられる信仰ではないと思います。聖ペトロをはじめ初期の弟子たちは皆、競ってそのような信仰の熱心に励んでいたようですが、度々主イエスからその信仰の弱さや不足面を指摘され、叱責されていました。そうではなく、自分の日々の生活や体験を介して、自分がどれ程神から赦され愛されているかを感謝の心で深く弁え知ること、ごく平凡な小さな出逢いや出来事などを通して与えられる神からの呼びかけに対する心のセンスを磨き、神への従順に生きること、そして我なしの僕・婢の謙虚な精神で神と人々への奉仕に努めること。ここに、太祖アブラハム以来のキリスト教的神信仰の基盤があると思います。
主イエスは、これまで少しでも他の人に先んじて手柄を立てようと、互いに競い合い勝ちであった使徒たちの心を、このキリスト教的神信仰の基盤・中核に目覚めさせるために、皆に仕える一番下の奴隷のようなお姿で弟子たち一人一人の足を洗われた後、彼らに、あなた方も互いに足を洗わなければならないとお命じになったのではないでしょうか。自分を人々や社会の上に置いて、全てを何か不動の法規や理屈で割り切って考えたり裁いたりする、ファリサイ派のパン種に警戒しましょう。主キリストの模範に従って生きようとする私たち新しい神の民にとって、最高のものは神とその働き、無償で全ての罪を赦して下さる神の愛とその実践であります。私たちが主イエスのその愛に参与し、それを日々体現する時に、神も私たちの中で、私たちを通して特別に働いて下さり、神による救いの恵みが私たちの間に豊かに溢れ、私たちを通して社会にも広がるのです。
ところで、主が弟子たちの足を洗われたのは、単に己を無にして下から仕えるという模範をお示しになっただけではありません。もしそれだけのことであったら、主がペトロに話された「私が洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」、「既に体 (即ち足) を洗った者は全身清い」などのお言葉は、不可解になります。主が弟子たちの足を洗われたという行為には、もっと深い象徴的意味が隠されているのではないでしょうか。それは、主がその人の罪を全て受け取り、ご自身の受難死によって償おう、こうしてその人の霊魂の汚れをちょうど洗礼のようにして洗い流し、その人を神の所有物、神の子にするという、主の贖いの死の恵みに参与させようとすることも、意味していたと思われます。洗礼の時には頭に水が流れただけでも、その人の魂は神によって浄化され神の子とされますが、同様に主がその人の足を洗っただけでも、その人の魂の罪は救い主に引き取られ、清くされるのだと思われます。主は弟子たちにも、このようにして互いに相手の負い目を赦し、その罪を自分で背負って清めよう、己を犠牲にして相手に神の子の命を伝えようと奉仕し合うよう、お命じになったのではないでしょうか。主のお考えでは、人を赦す、人を愛するとは、このようにして赦し、愛することを意味していたのだと思われます。
私たちが、主のこの無償の献身的愛に参与して生きることができるように、主はご聖体の秘跡を制定し、そこにそれまでご自身が生きて来られた奉仕的、自己犠牲的な神の愛を込め、私たちの魂を養い力づけるための食物・飲み物となさいました。それは真に不思議な生きている食物・飲み物で、それを相応しい愛の心で拝領する人の中では、その魂と主との内的一致を深め、その心を守り助け力づけて下さいます。しかし、他人も社会も宗教も神も、すべてを自分の考えで利用しようとしている人間の中では、主のお体を汚すその不信の罪故に、その心を裏切り者ユダの心のように暗くし、自分の身に悪魔を招き入れることにもなり兼ねません。ですから、使徒パウロもコリント前書11: 21に警告しているように、拝領する前に自分の心をよく吟味し、自分中心の利己的精神に死んで、主の献身的愛の命に生かされて生きる決意を新たにしながら、拝領するよう心がけましょう。
こうして主キリストと一致する全てのキリスト者は、同時に主の普遍的司祭職にも参与し、主と一致して人々のため、また社会のために神にとりなし、神から恵みを呼び下すこともできるようになります。いや、そういう働きを為す使命を身に帯びるに至るのです。今宵、私たち一人一人が、主において参与しているこの普遍的司祭職の使命を改めて自覚し、司教・司祭たちの働きを下から支え助けて、主キリストの司祭職が現代においても多くの人に神による救いの恵みをもたらすことができるよう、特に祈りと苦しみを捧げて協力する決意を新たにしつつ、この聖なる感謝の祭儀を献げましょう。

2012年4月1日日曜日

説教集B年:2009年受難の主日(三ケ日)


朗読聖書: 入城の福音: マルコ 11: 1~10. . イザヤ 50: 4~7.
    Ⅱ. フィリピ 2: 6~11. . マルコ福音 15: 1~39.
主はその受難死の数日前に、まだ誰も乗ったことのない子ロバに乗って堂々とエルサレムに入城なさいました。そのことは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書に共通して述べられていますから、弟子たちはその出来事を主の受難死と合わせて記憶に留め、記念していたのだと思われます。それで教会も、主の受難死を記念する聖週間の典礼の始めに、いつも主のエルサレム入城を盛大に記念しています。主が受難死を遂げる直前の頃、エルサレムには、主を死刑にしようと決めていたユダヤ教指導者たちの声に反対できず、それに従っていた人たちが大勢いましたが、他方、過越祭を祝うため各地から参集したユダヤ人たちの中には、主をメシアとして信じている人たちも大勢いました。主のエルサレム入城の時には、この第二のグループの人たちが主の入城行進に参加する使徒たちやベタニア方面からの弟子たちの賛歌を耳にして、非常に大勢「黄金の門」と言われていた神殿の真東にある城門から出て来て、メシアを讃美し歓迎するその行列に参加したようです。ヨハネ福音書によると、それを見たファリサイ派の人々は互いに、「もう何もかも駄目だ。見ろ、世はこぞってあの人についてしまった」と言ったようです。
本日のミサの開祭の前に、そのエルサレム入城を記念した儀式の中で朗読されたマタイ福音書の最後には、「前を行く者も後に従う者も『ホサンナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサンナ』と叫んだ」とありますが、この讃美の言葉は、その時メシア歓迎の行列に自由に参加した群衆が新たに作り出して讃美ではなく、彼らが毎年秋の仮庵祭の行列の時に枝を携えて歌え慣れていた詩篇118番からの言葉だと思います。私たちもこの聖堂で、日曜日に唱和する詩篇118番の25, 26節は、日本語で「神よ、救いを私たちに。神よ、幸せを私たちに。神の名によって集まる人たちに神の祝福。祝福は神の家からあなた方の上に」と翻訳されていますが、ユダヤ人たちの唱えていたヘブライ語の原文では少し意味が違っているようで、「救いを私たちに」の言葉はホサンナとなっており、ホサンナという叫びは、「救ってください」という意味も持つそうです。そして「神の名によって集まる人たちに神の祝福」とある詩編の言葉は、四福音書に共通して「主の名によって来られる方に祝福」という風に言い換えられています。これはメシアを目前にしての歓迎の喜びで感激していた人たちが敢えて言い換え、主メシアを讃美・祝福する言葉にしたのだと思われます。
本日の福音の場面は、メシア歓迎のその場面とは正反対で、主を死刑にしてもらおうとしていた祭司長たちや、長老・律法学者たちが主導権を取って、ユダヤ人群衆を扇動したり、ローマ総督ピラトの心を動かそうとしています。その人たちの話や罪状書きに、「ユダヤ人の王」という言葉が5回も登場していますが、その称号自体は正しいとしても、ピラトとローマ兵たちは政治的観点から、ユダヤ人たちは宗教的観点から、囚人の姿にされている主を王ではない、メシアではないと考えており、主のその称号を、皮肉を込めた軽蔑的意味で使っていたと思われます。そこには、数日前に主をメシアとして歓迎し讃美した敬虔な人たちの一部も、事の成り行きを見るため心配しながら出席していたと思われますが、折角捕縛することのできた主イエスを、是が非でも死刑にしてしまいたいと意気込んでいるユダヤ教代表者たちの険悪な雰囲気に圧倒されて、黙しているだけであったことでしょう。
神の子メシアの福音に謙虚に耳を傾けようとしない、そんな人々が大勢群がりいきり立っている前に、囚人のようにして連れ出された主が、裁判席に着いた総督ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問されても、相手は主の返答を正しく受け止める宗教心を持たず、また持とうともしていないのですから、主はあいまいな返事をし、それ以上には何もお答えになりませんでした。「それは、あなたが言っていることです」という言い方は、「その通りです」という肯定的意味の返事であることも、逆に否定的意味の返事である場合もあったようです。主は、わざとこのあいまいな言い方を利用なされたのだと思います。メシアは確かにユダヤ人の王ですが、ビラトがその言葉で考えるようなこの世の王ではなく、もっと遥かに偉大で超越しておられる神のようなあの世の王なのですから。主を処刑させようとして騒ぐその場のユダヤ人たちから何と言われても、それらの言葉を毅然として受け止め、少しもたじろがすに沈黙しておられる主の威厳に満ちたお姿も、主が偉大な王であられることを示していたと思われます。総督ピラトも少しはそのことを感じていたでしょうが、しかし、目前に騒ぎ立てているユダヤ教指導者たちや群衆の心をなだめることを優先し、結局彼らの要求通りに、主に十字架刑を言い渡してしまいました。
可哀そうな総督ピラトのために一言弁明するなら、経済的に発展していた当時のローマ帝国は、法の順守を強調し、何かの非合理的情念にかられて社会秩序を乱す者に対しては驚く程厳しく弾圧していましたから、ユダヤ教代表者たちがこぞって、ローマ法に基づいて話し合うことのできない、そのような非合理的宗教的な情念に駆られて、大勢の群衆と共に主イエスの死刑を要求する姿に呆れるとともに、もしここで彼らの要求を退けるなら、国を挙げての大暴動も起こりかねないと思ったのかも知れません。その場合、宗教心と結ばれたその暴動の鎮圧には、非常に多くの犠牲が伴うばかりでなく、ローマ皇帝から自分の対応が悪かったとされて、厳しく責任を問われることになるであろう。そんな事態を避けるには、彼らの要求通りに今囚人として連れて来られたこの一人の男に死んでもらうのが得策と考えたかも知れません。そこに、ピラトの大きな罪があると思います。もし落ち着いていたなら、彼には逃げ道がなかったわけではありません。ローマ法で裁くことのできないこういう裁判は、自分で裁こうとせずに、その男イエスを留置してローマ皇帝に送り、ローマで裁判してもらえば良かったと思います。しかし、神の御摂理は、イスカリオテのユダにも総督ピラトにも罪を犯させることによって、人類救済の業をこの時エルサレムで達成させてくださったのだと思います。
主が十字架上で死ぬ少し前に大声で叫ばれた、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というお言葉は、絶望の叫びではありません。父なる神に希望をかけて、ひたすらに助けと救いを求める祈りの叫びだと思います。主が全人類の罪を背負って絶望的孤独に耐えておられたこと、そして絶望の淵に立たされている罪人たちの救いのためにも祈っておられたことを示す叫びでもあると思います。この言葉自体は詩篇22番の最初の言葉であり、この詩の後半には、私たちが度々『教会の祈り』の中で唱えているように、「神よ、私から遠く離れず、力強く急いで助けに来て下さい」、「神は弱り果てた人々を思いやり、顔をそむけることなく、その願いを聞き入れられた」、「遠く地の果てまで、すべての者が神に立ち帰り、諸国の民は神の前にひざをかがめる」などの言葉が多く続いていて、神の救いに対する希望と感謝と讃美に溢れています。主は、無数の罪人たちに対する神の救いの業を強く促し、神の助けを早めるために、大声でこのように叫び、息を引き取られたのではないでしょうか。
するとその時、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと、共観福音書は三つとも一致して伝えています。これはそれまでの古い神殿礼拝の時代が終わり、主がかつてサマリアの女に話された「霊と真理のうちに」捧げる新しい普遍的礼拝の時代が始まったことを示しているのだと思います。主の受難死の一部始終を間近で目撃していたローマ軍の百人隊長は、主のご死去直後に、「まことに、この人は神の子であった」と、おそらく深い感動の心で話したようですが、この時から世界各国の異教徒も続々と主イエスを神の子として信奉し、至る所で神を礼拝する新しい時代が始まった、と言うことができます。人類救済のためになされた主の祈りと受難死に感謝しながら、本日の集会祈願にもありますように、私たちも主と共に苦しみに耐えることによって、復活の喜びを共にすることができるよう、神の導きと恵みを願い求めましょう。
ご存じのように、本日「枝の主日」は、カトリック教会で「世界青年の日」とされています。3年前からアルゼンチン北東部のミシオネス州で司牧宣教に活躍している、静岡県出身の神言会員暮林神父が数週間の休みをもらって帰国したので、南米の教会について一時間半ほど講演してもらいましたら、その中でこの「世界青年の日」についても話があり、若い意欲的精神が盛んな中南米の教会ではこの日がかなり重視されているようで、若い信徒たちは数日の準備期間まで設けて自主的積極的にこの日をお祝いしているようです。その熱心に比べると、豊かな先進国の若い信徒たちの信仰精神には、若々しい盛り上がりや力強さが欠けているように見受けられます。本日のミサ聖祭の中で、現代世界の若者たちが神の導きと助けにより、人類社会の内的向上のため実り豊かな生き方を営むことができるよう、全世界の教会と心を合わせて、神の祝福を願い求めたいと思います。どうぞ、ご一緒にお祈り下さい。

2012年3月25日日曜日

説教集B年:2009年四旬節第5主日(三ケ日)


朗読聖書: . エレミヤ 31: 31~34. . ヘブライ 5: 7~9.
   . ヨハネ福音 12: 20~33.
本日の第二朗読には、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方 (すなわち天におられる父なる神) に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」という言葉が読まれます。全能の神の御子であられる主は、この世にお生まれになった時、実際にそこまでこの苦しみの世に生きる私たち人間の肉の弱さを背負い、苦しみながら泣きながら弱い人、苦しむ人に伴って生活し、父なる神に助けを願い求めつつ生きておられたのだと思います。全能の神の御子は、罪と闇に苦しむこの世の貧しい人たち、苦悩する人たちの間に生活し、数々のその苦しみを分かち合うことによって、この現し世の苦しみを聖化し、神の超自然的恵みの器・手段に高めて下さったと申してもよいのではないでしょうか。「傷める貝にのみ真珠は宿る」と申しますが、体内に入った異物に苦しめば苦しむ程、アコヤ貝はそれを核にして大きな美しい真珠・光輝く真珠を育て上げるのではないでしょうか。ある聖人は、主キリストと一致して耐え忍ぶ苦しみが多くの恵みをもたらすことに感嘆し、苦しみを「第八の秘跡」と呼んだそうです。
私たちの生活しているこの現し世には、病気・災難・誤解・不安・貪欲・詐欺・失敗などから齎される試練や苦しみが数限りなく存在し、時々私たちの心を襲って苦しめ悩ましますが、その時この世に受肉し、私たちの人間性をしっかりと受け止めて聖化なされた救い主が、私たちの魂の中に深く隠れてその苦しみを一緒に耐え忍び、私たちの内に人間救済の超自然の恵み、超自然の真珠を産み出しておられることに心を向け、主の生贄に合わせて、自分の不安や苦しみを神にお献げするよう心がけましょう。経験豊かな聖人たちも、皆そのように心がけています。
本日の第二朗読からは、二つのことを学びたいと思います。その一つは、「その畏れ敬う態度のゆえに聞きいれられた」という言葉からであります。主イエスは、神の御独り子であっても、また激しい叫び声をあげ、どれほど涙を流して祈っても、その出自やその祈り声だけでは、人間としてのその願いはまだ天の御父に聞きいれられず、神を畏れ敬い、神の御旨中心に生きる心を、「日ごろの態度」にもはっきりと表明し体現なさったので、その実践的態度の中に、御心の表われを御覧になった神にその願いが聞きいれられた、という意味でその説明を受け止めたいと思います。ヨハネ5章の中ほどに、主はユダヤ人たちに、「私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御旨を行おうとしているからである」と話しておられますが、何が正しいかという正義の問題になると、私たち人間は、とかく何かの法や何かの理論に基づいて権利や義務などについて考え勝ちです。しかしそれは、この世の人間社会には通用しても神には通用しません。神の上に法や人間の理論を置くことになるからです。私たちの信仰生活においては、神の御旨だけが正義の基準であり、それを実践的に畏れ尊ぶ生き方だけが、神の御前に義とされ、神に願いが聞き届けられる道であると信じます。主は、その模範を身を持って示しておられたのではないでしょうか。
第二朗読から学びたいもう一つのことは、「多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたので」全ての人の「永遠の救いの源となった」という理由付けであります。神の子という肩書きや、修道者・司祭というような肩書きが幾つあっても、それだけではたとえどれ程多くの祈りを神に捧げても、人々の上に救いの恵みを豊かに呼び降すことはできないと思います。私たちの心の奥底には、人祖から受け継いだ自分中心の罪の根、不従順の罪の力がまだ根強く残っていて、神の働きを妨げて止まないでしょうから。その隠れている罪の力を、多くの苦しみに耐えることによって根絶し、神への徹底的従順を体得してこそ、そして神の愛の恵みが心の底にまで完全に行き届く人間になってこそ、神の御独り子と内的に深く結ばれた神の子・修道者・司祭となり、全ての人に救いの恵みを伝える神の器に高められて行くのではないでしょうか。人となられた神の子イエスを、人間としても初めから全てを知っておられて、何も学ぶ必要のなかった方と考えないように気をつけましょう。主は人間としては多くの苦しみによって神への従順を学び、最後まで内的に成長し続けられた方であったと思います。神は私たちも同じ様に内的に成長し続け、人類救済の業に参与するよう望んでおられるのではないでしょうか。主において私たちにも与えられているこの使命を、私たちもできるだけ忠実に果たすことができるよう、主の実践に学びましょう。
主のご受難が間近に迫って来た頃の話である本日の福音には、まずユダヤ人の過越祭の時に礼拝するため、エルサレムに上って来た数人のギリシャ人たちが、ギリシャ系の名前を持つフィリッポとアンドレアスを介して、主に御目にかかりたいと願い出たことが語られています。彼らからの願い出を聞くと、主はすぐにギリシャ語原文によると、「時が来た。人の子が栄光を受ける時が」と、話し始められたのです。その言葉には、一種の感動のようなものが感じられます。主は以前に「善い牧者」について語られた時、「私にはこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらをも導かなければならない。…. こうして一つの群れ、一人の牧者となる。…. 私は命を捨てることができ、また再びそれを得ることができる。私は、この命令を父から受けた」などと話されましたが、異邦人の到来は、何かこの話と関係しているのではないでしょうか。主はギリシャ人たちの来訪の中に、何か御父からの徴を御覧になり、この時にあらためて全人類の罪を背負われたのではないでしょうか。とにかく主は、ギリシャ人たちの来訪を知らされると、突然ご自身の死について語られ、「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名に栄光を現して下さい」などと祈りましたが、その時天から「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が響き渡ったようです。側にいた群衆はそれを、雷が鳴っただの、天使が語ったなどと思ったようですが、その声が、雷鳴のような威厳に満ちていたからであったと思われます。
ところで、主が「栄光を受ける時」あるいは「御名に栄光を現す時」と表現しておられるその「時」は、主がその御命を捨てる受難死の時を指しています。主はその時について、「一粒の麦が地に落ちて、…. 死ねば多くの実を結ぶ」と説明し、更に弟子たちのためにも、「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所にいることになり、…. 父はその人を大切にして下さる」などと教えておられます。私たちも主と一致して神に敵対する人類の罪までも背負い、その罪に汚れた自分の命をいけにえとなして神に捧げるなら、そして地に葬られてその殻が破られるなら、その時、私たちのこの世の命の殻の中に孕まれていた神の子の永遠の命も輝き出て、多くの人を救いに導き、豊かな実を結ぶに至るのではないでしょうか。私たち各人がこのようにしてそれぞれの死を神に捧げる時、本日の福音にあるように、神の栄光が私たち各人の上にも現れて、この世の支配者、悪霊たちを追放して下さるのではないでしょうか。それは、生身の弱さを背負う人間となられた主ご自身も、「私の魂は騒いでいる。何と言おうか。父よ、私をこの時から救って下さい」と御父に祈られた程、恐ろしい苦しみの「時」でしょうが、しかし、その魂がこの世の殻を破って輝かしい栄光の命に生まれ出る時でもあります。ちょうど昆虫が羽化して成虫になる飛躍の時のように。
主の受難死と復活を記念する聖週間の典礼を間近にして、本日の福音にある主のお言葉を心に銘記しながら、私たちも主と共に全てを全能の神に委ねつつ、大きな信頼のうちに自分の死を先取りし、内的に主の死を追体験するよう心がけましょう。主は「私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所に私に仕える者もいることになる」「父はその人を大切にして下さる」と語っておられるのですから。恐れずに、主と共に勇気をもって死に向かって進んで行きましょう。多くの人の救いのため、自分の命を主のいけにえに合わせて天の御父にお献げするために。

2012年3月18日日曜日

説教集B年:2009年四旬節第4主日(三ケ日)


朗読聖書: . 歴代誌下 36: 14~16, 19~23. . エフェソ 2: 4~10.
   . ヨハネ福音 3: 14~21.
本日の福音は、ある夜ひそかに主イエスの許に訪ねて来たファリサイ派の議員ニコデモの質問に答えて、主がお語りになった話からの引用ですが、ここではこの話についてだけ少し考えてみましょう。主はまずニコデモに、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」などと、神の霊による全く新しい誕生についてお語りになり、神から民に啓示された神の言葉、神の掟について、それまで専門的に研究しその順守に努めていたファリサイ派のニコデモを驚かせています。ファリサイ派は、神から与えられた掟を忠実に守ることによって神の恵みを受け、死んでも永遠の命に入ることができると信じ、またそのように民衆に教えていたからです。主はここでニコデモに、旧約時代にはなかった水と聖霊による全く新しい洗礼の秘跡について啓示なされ、その洗礼によって霊的に新しく生まれなければ、誰でも神の国に入ることはできない、と話されたのです。
そして更に、「はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししている」、「天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者は誰もいない」と、ご自身の啓示しているこの新しい救いの道が確実に神よりの疑い得ないものであることを断言なさった後に、話の後半には神による救いの道を可能にするもっと大きな出来事、すなわちご自身のお受けになる受難死などについても啓示しておられます。この後半の啓示が、本日朗読された福音であります。ニコデモが主をお訪ねしたのは、主が最初の弟子たちを呼び集め、ガリラヤのカナで水を葡萄酒に変えるという、「最初の徴」と言われている大きな奇跡をなさった後でエルサレムに来られてからの出来事のようですから、主の公生活前半のことで、この段階では、主は弟子たちにもまだご自身の受難死について語っておられなかったと思われます。それを初対面のニコデモにお語りになったということは、ニコデモにはすでに、「神よりの人」からのそういう啓示を素直に受け止め、心の中で深く思い巡らす信仰の地盤が備わっていたからだと思われます。
本日の福音の始めに主は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。云々」と、神の民がエジプトを脱出して荒れ野を旅していた時の出来事を援用して、神による救いの道を教えておられます。旧約時代に神の民が見聞きしたことは、これからの時代に神がお示しになる新しい救いの道の前兆としての価値を保持しています。主はこういう観点から旧約聖書を見直しつつ、これから為さる神の働きの意味を考え、それを素直に受け止めるようニコデモに教えられたのだと思います。人間の力では荒れ野の毒蛇に打ち勝てず、神の言葉に従って作られた蛇の像を木の上に釘付けにしたものを、神への信仰と希望の心で仰ぎ見る人たちが皆、神の力によって救われたように、これからの時代にも、世の人々の罪を背負い十字架に上げられて死ぬ神の御独り子を信仰をもって仰ぎ見る者、その信仰に生きる者は、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」に至るのだ、というのが主の啓示だと思います。
しかし、主がその後で「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と話しておられる言葉は、注目に値します。光の本源であられる神の御子が大きな愛をもってこの世に来られたのに、悪を好み悪行をなす者たちは、その行いが明るみに出されるのを恐れて光を憎み、光の方に来ようとしません。それが、主の言われる「信じない」ということのようです。としますと、その人たちは自分で神の光を避け、その光を憎むという生き方を選び取っていることになります。従って、それは自分で神の働き、神の光を裁き退けていることになり、神の側からみれば、それが「既に裁かれている」ことになるのだと思います。私たち人間の心には、自分で神による救いの道を頑固に排除し、それに心を閉ざしてしまうという、真に痛ましい危険な自由の可能性も残されています。そのような石地のように固い心には、せっかく神の命の種が蒔かれても、根を下ろして実を結ぶことはできません。神の呼びかけや神からの光に背を向け、神の恵みの種をもらっても自分の中には根を下ろさせない、そういう石地のように固い自分中心主義の不毛の心になってしまうことが、神によって「既に裁かれている」と述べられていることから考えますと、信じない人たちは神によって公然と裁かれ退けられる前に、すでにこの世において、自分で自分の魂を神によって裁かれ退けられた状態に陥れてしまうのだと思います。これは、恐ろしいことだと思います。
自分中心・この世の考え中心の石地のような心ではなく、自分の心を細かく砕き耕すことに心がけ、神の命の種が根を張り実を結び易くするような肥沃な畑地の心にするよう努めましょう。聖母は神の御子受肉のお告げを受けた時、「私は主の婢です。お言葉通りにこの身になりますように」とお答えになりましたが、私たちも徹底的従順に生きる純朴な僕・婢の精神で、自分の怠りや欠点などを容赦なく明るみに出す神の光や働きなどを恐れずに受け入れ、それに従うよう努めましょう。それが真理を行う者の生き方であり、神の霊に導かれ支えられて心を浄化し、主キリストと深く一致する永遠の命へと高められて行く、救いの道なのですから。
私たちは数年前から、三ヶ月に1回、浜松市から豊橋市にいたるまでの地元住民のためにミサ聖祭を献げて、神の豊かな祝福とご保護を特別に願い求めていますが、本日のミサ聖祭はこの意向でお献げ致します。ご一緒に心を合わせてお祈り下さい。

2012年3月11日日曜日

教集B年:2006年四旬節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: . 出エジプト 20: 1~17.  Ⅱ. コリント前 1: 22~25.

   . マルコ福音 9: 2~10.

本日の第一朗読は、モーセを通して与えられたいわゆる「十戒」でありますが、ここでは第二朗読と福音についてだけ、話すに留めたいと思います。本日の第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、信仰と従順の闇の中で神への奉仕愛に生きようとしていないからではないでしょうか。また自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人々に神による救いの恵みをもたらすため、十字架の死を甘受なされたキリストの献身的愛の生き方を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの現し世の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。

使徒パウロがユダヤ人やギリシャ人について書いているこれらの言葉は、2千年前のユダヤ人・ギリシャ人にだけ該当する指摘ではなく、自分中心・この世の生活中心に生きている全ての人に、時代や場所の違いを超えて通用する指摘であると思います。極度の豊かさと便利さの中に生れ育ち、民主主義・自由主義の時代思想を自分中心の立場で都合よく理解しながら生活している、現代の多くの人たちにもそのまま該当すると思います。現代には若者や中年の大人たちの間で、家族や人間社会に対しても、自分の人生についても心に一種の根深い不信感ないし絶望感を抱いている人が増えて来ているように思われます。わが国で11年前から毎年3万人以上の人が自殺しているのも、各人の自我が自分で作った内的殻の中に自分の心を閉じ込め、大きく開いた明るい奉仕的精神で、家族や社会と共に生きる若さを持てずにいる証拠だと思います。私たちの生活を支えておられる神の存在を知らず認めずに、ただ人間の力だけに頼って生きることしか知らないなら、次々と際限なく様々の格差や相互対立を産み出して止まない現代の歪んだグローバル社会に、不安と絶望を痛感するのは当然だと思います。神に対する信仰・信頼・委ねの心という、人生にとって大切な霊的土台が欠如しているからです。

将来に明るい希望を持てずにいる、そういう人たちが増えつつあることを思うと、神信仰に生きる恵みに浴している私たちには、神の愛・聖霊の神殿としての生き方を実践的に深めることにより、神の恵みと憐れみを世の人々の心に呼び下す使命を、神から与えられ期待されていると思います。神は一人でも多くの人を救おうと、真剣になっておられる親心の持ち主ですから。神は私たちの奥底の心を目覚めさせるため、時として思わぬ失敗・病苦・災害などの試練をお遣わしになりますが、その時はすぐに神に心の眼を向け、神の僕・婢としてそれらの苦しみを、今神よりの照らし・助けの恵みを必要としている人たちのため、喜んで神にお献げ致しましょう。そしていつも神中心に神のため、無料奉仕の精神で生きるよう努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと目覚めて立ち上がり、私たちの自我がいつの間にか無意識のうちに築いていた、心の殻や壁を打ち壊して、新たな奉仕の意欲で自由にのびのびと生き始めるようになります。心の中に神の霊の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づいて、本日の朗読聖書の中で神の力、神の知恵を私たちにも説いているのではないでしょうか。

本日の福音に読まれる、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という主のお言葉は、主が常日頃ご自身の体を神の神殿、神の霊の生きている神殿と考えておられたことを示していると思います。使徒パウロもコリント前書3章や6章に、洗礼の秘跡を受けた私たちの体が、聖霊の宿って下さる神殿になっていることを説いています。主イエスの御模範に倣って、私たちもこの信仰を大切に致しましょう。私たちの体は自分個人のものではなく、洗礼の秘跡によって聖化され、神に献げられた神殿になっているのです。私たちは修道誓願によっても、この献げを更に堅めています。四旬節に当たってこの初心を新たにし、日々主イエスと深く一致しながら、聖霊の生きる神殿として生活するよう心がけましょう。そうすれば私たちのごく平凡な言行も、ちょうどあどけない幼子の言行が母親の愛を促すように、父なる神の愛と憐れみを促して、社会の人々の上に神による照らしと助けの恵みを豊かに呼び下すと信じます。

神殿は、神と人間社会とを結ぶ祈りの場であり、神が恵みを施すパイプのような器であると思います。神殿はまた、太祖ヤコブが夢に見た天と地を結ぶ梯子のようなもの、あるいはモーセたちが荒れ野を旅した時に神臨在の幕屋の上に留まっていた雲の柱のようなものでもあると思います。私たち各人の体と天の神とを結ぶ、目に見えないそのような霊的梯子や雲の柱の存在を信じ、自分の体を物質的動物的にだけ見ないよう心がけましょう。神殿は、神と人々への献身的奉仕にその存在価値を持つものであることも、忘れてはなりません。主イエスは「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃいましたが、私たちも同じ精神で日々神と人とに仕えるよう心がけましょう。