2013年2月17日日曜日

説教集C年:2010四旬節第1主日(三ケ日)



朗読聖書: . 申命記 26: 4~10.  . ローマ 10: 8~13.
     Ⅲ. ルカ福音 4: 1~13. 

    本日の第一朗読は、モーセがこれから約束の地に入るイスラエルの民が、その地で採れた最初の収穫を神にささげる時に唱えるようにと教えた一種の信仰告白であり、神への感謝の祈りでもあると思います。モーセは民がその祈りを唱えた後に、「あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを(すなわち自分の働きの実りを)供え、あなたの神、主の前にひれ伏しなさい」と勧めています。復活の主の現存に対する信仰を深め、復活の主がもたらしたお恵みに一層深く参与するための四旬節の修行を始めた私たちにとっても、この勧めは大切だと思います。イスラム教徒は金曜日を、ユダヤ人は土曜日を安息日としていますが、20数年前に東京で、その人たちの安息日の礼拝を参観させていただいた時の印象を申しますと、いずれの場合も敬虔に生活している多くの人たちが、神を自分の人生の主、絶対的中心として頭を深く垂れて礼拝していました。イスラム教の所では床に頭をつけて礼拝していました。復活の主キリストにおいて神から豊かな恵みを戴いている私たちキリスト者も、神を自分の人生の与え主、絶対的所有主として崇め感謝するその人たちの礼拝の熱心に、負けてはならないと思います。

    本日の第二朗読に読まれる、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という使徒パウロの言葉も、軽く外的に受け止めないよう気をつけましょう。信仰を頭で理解している、いわば「頭の信仰」に生きている人にとっては、その信仰を公に言い表すのは実に簡単で、易し過ぎると思われるかも知れません。しかしパウロは、いわば「心の信仰」の立場でこの言葉を書いているのではないでしょうか。心は無意識界に属していますが、私たちの意志・望み・態度・実践などの本拠であり、日頃心に抱いている望み・不安・信仰などは、無意識のうちにその人の言葉や態度や夢などに表われ出るものです。頭で意識して受け入れた信仰が、心の中に根を下ろし、不屈の決意と結ばれた「心の信仰」となるには、度重なる実践が必要であり、時間がかかります。

    「頭の信仰」に生きている人はよく、目に見える外的な寄付の金額や奉仕活動の量などで、その人や自分の信仰の熱心を計り勝ちのようですが、聖書に描かれている神の秤は、少し違う所にあるようです。2千年前のサドカイ派やファリサイ派の人たちは、熱心にたくさん祈れば、神の栄光のために熱心に何かの苦行や活動をなせば、神に喜ばれると考えていたかも知れません。宗教に熱心なのは結構ですが、問題はその熱心が何に基づき、どこから生じているかだと思います。もし神に対する私の熱心が神を動かすとか、神の栄光のため神をお喜ばせするために、私は毎週2回断食し、これこれの仕事をしているなどと誇らしげに考えているなら、その熱心は自分や自分の努力に重点を置いており、聖書の神からはあまり喜ばれないと思います。聖書の神は、神の声を正しく聞き分け、神の御旨中心に従順に生きる人、神の僕・神の婢として忠実に生きる心の人を捜し求め、祝福しておられるように見えるからです。心の底から神中心に生きようとする、「心の信仰」の人になる時、私たちはその信仰によって義とされるのではないでしょうか。そしてその信仰を口でも公然と表明することによって、救いの恵みに浴するのだと思います。神の愛の霊、聖霊がそのような心の内で、存分に生き生きと自由にお働きになるからです。

    本日の福音の始めには「イエスは聖霊に満ちて」という言葉があって、この福音箇所に続く次の段落の始めにも、「イエスは聖霊の力に満ちてガリラヤに帰った」という言葉が読まれます。この聖霊は救い主を敵の手から護り、その使命を全うさせるために与えられた神の力ですが、人祖の罪によって、この世の人間の心に対する大きな影響力・支配権を獲得している悪魔は、神と人間イエスとの間に割って入り、両者の絆を断ち切ろうとします。しかし、三度にわたる悪魔の試みは、いずれも申命記から引用された神の言葉により、断固として退けられました。聖書に載っている神の言葉には、威厳に満ちた神の力が篭もっているからだと思います。私たちも、主や聖母マリアの御模範に倣って、日々神の言葉や神の為された御業を心の中に保持し、思い巡らしていましょう。いざ悪魔の誘いと思われる局面に出遭った時、断固としてその誘惑を退けることができるように。

    主は、悪魔から「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と誘惑された時、「人はパンだけで生きるものではない」という申命記の言葉でその誘いを退けておられますが、この言葉と共に、ヨハネ福音の434節に読まれる「私の食べ物は、私をお遣わしになった方の御旨を行い、その業を成し遂げることである」というお言葉も、合わせて心の中に留めて置きましょう。神や主キリストを、どこか遠く離れた天上の聖なる所に鎮座しておられる全知全能者と考え勝ちな「頭の信仰」者たちは、「神の御旨」と聞いても、それを何か自分の頭では識別し難い神のお望みやご計画と受け止めることが多いようですが、そんな風に理知的な頭の中で静的に考えていたら、神の力は私たちの内に働かず、「神の御旨」は私たちの日々の糧にはなり得ません。主は天の御父の御旨をそんな風には考えず、今出遭っている目前の出来事の中でその御旨を神の霊によって鋭敏に察知し、その時その時のその具体的呼びかけに応えて、御旨の実行に努めておられたのだと思われます。

    マザー・テレサのお言葉の中に、「遠い所にイエス様を探すのはお止めなさい。イエス様はあなたの側に、あなたと共におられるのです。常にあなたの灯火を灯し、いつでもイエス様を見るようにするだけです。その灯火を絶えず小さな愛のしずくで燃え続けさせましょう」というのがありますが、ここで「灯火」とあるのは、主の現存に対する心の信仰と愛の灯火だと思います。人間イエスも、目に見えない天の御父の身近な現存に対する信仰と愛の灯火を絶えず心に灯しながら、その時その時の天の御父の具体的御旨を発見しておられたのだと思います。主イエスにとって、「神の御旨」とはそういう身近で具体的な招きや呼びかけのようなものであったと思われます。それは、罪によって弱められ暗くされている私たち人間の自然的理性の光では見出せないでしょうが、心が聖霊の光に照らされ導かれるなら、次第に発見できるようになります。

    難しい理屈などは捨てて、幼子のように単純で素直な心になり、目前の事物現象の内に隠れて伴っておられる神に対する、信仰と愛の灯火を心に灯して下さるよう、まず聖霊に願いましょう。日々己を無にして、この単純な願いを謙虚に続けていますと、心に次第に新しいセンスが生まれ育って来て、働き出すようになります。そして小さくてもその時その時の神の御旨と思われるものを実践することに努め、その実践を積み重ねるにつれて、次第に自分に対する神の深い愛と導きとを実感し、心に喜びと感謝の念が湧き出るのを覚えるようになります。人間イエスも聖母マリアも、このようにして「神の御旨」を心の糧として生きておられたのではないでしょうか。それは、実際に私たちの心を内面から養い強めて下さる霊的糧であり、弱い私たちにも摂取できる食べ物なのです。マザー・テレサも、その他の無数の聖人たちも、皆そのようにして深い喜びの内に心が養われ、逞しく生活できるようになったのではないでしょうか。四旬節の始めに当たり、私たちも決心を新たにして、主が歩まれたその聖なる信仰と愛の道を、聖霊の力によって歩み始めましょう。

説教集C年:2010年間第6主日(三ケ日)



朗読聖書: . エレミヤ 17: 5~8.  . コリント前 15: 12, 16~20.
     Ⅲ. ルカ福音 6: 17, 20~26.  

    本日の第一朗読には、「呪われよ、人間に信頼し、….その心が主を離れ去っている人は」という恐ろしい呪いの言葉が読まれますが、エレミヤ預言者が神のこの言葉を受けた時は、ユダ王国の民は神からの呼びかけに従わずに、エジプトと手を結んでバビロニアの軍事力に抵抗しようとしていました。神の声に従おうとしていないその罪に対して、神は「呪われよ」という厳しい言葉で警告しているのです。

    私たち人間は、とかく物事を今見える目前の現象からだけ考察し判断し勝ちですが、しかし、私たちが実際に生きているのは目前の事物に囲まれてだけではなく、もっと遥かに高さ深さのある大きな立方の世界で、絶えず太陽から光や熱のエネルギーを受けたり、土の中深くにある流動的なマグマに支えられたりしながら生活を営んでいるのです。今目前には危険の兆候が全くなくても、人間の予測を遥かに超える大災害が、上の世界からも下の世界からも私たちの生活を破局に陥れる可能性は排除できません。この不安な現実世界全体を創造し支配しておられるのは、目に見えない神であります。私たちが今日あるのは、ひとえにその神のお蔭であり、神が私たちを愛し、護り、私たちのために全てのことを配慮して下さっているお蔭であることを忘れてはなりません。

    何よりもその神の導きに心の眼や耳を向け、それに信頼し従って生きる人々には、第一朗読の後半に「祝福されよ」という言葉で始まる神による保護と豊かな実りの恵みが、神ご自身によって約束されています。エレミヤは、神による呪いと祝福とを対比させて、人々から神の言葉に対する信頼と従順を求めているのです。未だかつてなかったような危険や困難の多い現代においても、私たちの一番心がけるべきことは、その神に感謝し、日々神と内的に深く結ばれて生きることであることを、改めて心にしっかりと言い聞かせながら、生活するよう心がけましょう。

    本日の福音はマタイ5章の山上の説教の始めによく似ていますが、両者の間には大きな相違もあります。マタイの「幸いなるかな」は三人称で語られていて、何か私たちの生き方や心構えの規範のようなものを並べて提示しているという印象を与えますが、ここでは二人称で語られていて、今現にそこに何かを求めに来ている夥しい民衆に、じかに強く呼びかけているという印象を与えています。それで聖書学者たちは、ルカのこの記事のほうが、主キリストが多くの民衆に話された時の状況に近いものであり、マタイはその話を後で自分なりに少し手を加えて整理し、総括的に提示したのではないかと考えています。

    またマタイは幸いな人々の方だけを並べ立てていますが、ルカでは今飢え、今泣いている貧しい人々の仕合せを説いた話の後で、今満腹し、今笑っている富んでいる不幸な人々についての話も続いています。しかし、「富んでいるあなた方は、不幸である」などという、今目前にいる人たちを非難するような主の言い方は、無数の貧しい人々に混じって、そこに満腹し笑っている金持ちたちも来ていることを示しているのではなく、そこにはいなくても実社会の中にそのように生活している富める人たちを指している言葉であるか、あるいはここで言われている「貧しい人」「富める人」は、いずれも理念的に捉えられた対照的に異なる二種類の人間像を指している言葉である、と考えられます。いずれにしても、ルカはマタイとは違って、生き方や心構えの規範についてではなく、今現に生きている人間の姿について語っているのだと思われます。

    それで私は少し勝手ながら、同一の人間の中に、幸いな貧者の生き方をする傾向と不幸な富者の生き方をする傾向とが共存しており、主は目前に集まっている大群衆の各人の心の中に混在して生きているこの二つの傾向に対して、それぞれ別々に呼びかけられたのだと考えます。貧しさそれ自体は、人を幸いにしませんが、貧しさ故に心が神を一心に求め、神にすがることを体得するに到るなら、その人は幸いだと思います。献身的な愛と僕・婢としての神への徹底的従順を尊ぶ神の国は、そのような人々のものなのですし、そのような人々はやがて神によって心が豊かに満たされるのを体験するに至るでしょうから。

    しかし、外的には貧しくとも神を求めず、神に頼ろうともせず、ただ社会を批判し、嘆き、嘲笑するだけの自分中心の心に立て篭もっているなら、そのような人々は心では、社会を利己的に利用しようとしている「富んでいる人々」、「今笑っている人々」のグループに属しているのではないでしょうか。そのような人々は、神の声に聴き従おうとしない罪に穢れた私たちのこの世を、永遠に続く聖なる新しい愛の世界に変えるため、神が徹底的に滅ぼし浄化される終末の時、不安と恐ろしさで、悲しみ泣き続ける不幸な人間になるのではないでしょうか。

    なお主がここで、「神の国はあなた方のものである」、「人々に憎まれ、人の子のために追い出される時、….あなた方は幸いである」などと、現在形で話しておられることも、注目に値します。神の国は、既に主イエスの聖心の内に実現している現実であり、この世に来臨なされた主においてあなた方のすぐ傍にまで来ていること、望むならすぐに自分の心に受け入れることのできる現在形の現実であると思います。また主が、「もし万一人々に憎まれるなら」という一つの発生可能な事態について話されたのではなく、「人々に憎まれる時」と表現しておられることも、注目に値します。人の子のためにこの世の支配者サタンから、また神を拒否する世俗の人々から憎まれ排斥されるということは、表立ってはいなくても、今既に事ある毎に私たちを悩ます隠れた現実、現在形の現実であると思います。神の国は、既に日々聖体拝領をしている私たちのものとなっていること、また心にお迎えした主と共に生活している私たちは、今日もサタンから憎まれ狙われていることを心に銘記しながら、主と共に主に縋って生きる覚悟を新たにして、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

2013年2月10日日曜日

説教集C年:2010年間第5主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. イザヤ 6: 1~2a, 3~8.
                Ⅱ. コリント前 15: 1~11.
           Ⅲ. ルカ福音 5: 1~11.

    先週の日曜日には、内気な性格のエレミヤ預言者の召命についての話がありましたが、本日の第一朗読は、積極的性格のイザヤ預言者の召命についての話であります。「ウジヤ王が死んだ年のこと」とありますが、それは紀元前735年頃のことだったようです。国威を内外に宣揚したウジヤ王を失って、国民の間ではこれからの時代や社会などについて、不安が囁かれていたかも知れません。イザヤはそういう国情の時に、神から預言者になるよう召されたのだと思います。彼はエルサレム神殿で、天高くにある御座に座しておられる神なる主と、その衣のすそが神殿いっぱいに広がっている、壮大な情景の幻を見ました。上空には大天使セラフィムたちが互いに呼び交わして、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌っていました。その荘厳盛大な讃歌で、神殿は揺れ動き、煙に満たされるに至りました。

    罪ある人間が神を見たら死ぬ、と信じられていた時代でしたので、イザヤは「災いだ。私は滅ぼされる」と叫びました。するとセラフィム天使のひとりが飛んで来て、祭壇から火ばさみで取った炭火をイザヤの口に触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言いました。イザヤは自分の罪を赦し取り除いて下さる神に出会ったのです。その時、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という神の御声が響き渡ったので、罪の赦しを体験したイザヤはすぐに、「私がここにいます。私を遣わして下さい」と答え、自分を浄めて下さった神の預言者として生き始めたのでした。自分の聖書研究や自分の力に基づいてではなく、神から示された幻・啓示に基づき、神から派遣されて働こうとしていることも大切です。

    ここでイザヤの見聞きした天使たちの讃歌、「聖なる、聖なる、聖なる」という言葉を連ねて神を讃える讃歌について、少し考えてみましょう。真・善・美などはこの世的価値観なので私たちに分かり易いですが、聖書に数多く使われている「聖」はあの世的価値観であります。この言葉を日々の祈りや讃歌を介して日常的に聞き慣れ、話し慣れていますと、私たちはその言葉をすっかり解っていると思うかも知れません。しかし、頭で理解しているその概念は、天使たちの讃歌を聴いて感動し畏敬の念に囚われたイザヤの心の悟りとは大きく異なるもの、人間理性が概念的に作り上げた形だけのもの、心の感動や畏敬の伴わないものではないでしょうか。聖書に登場する「聖」性は、広大な宇宙の創り主、所有主であられる神中心の精神で輝いている聖さ、深遠な愛と憐れみと威厳を感じさせる、この世を超絶した美しい聖さであると思います。

    主イエスは弟子たちから祈りを教えて下さいと願われた時、ルカ福音書によりますと、「父よ、御名が聖とされますように」という言葉で始まる祈りを教えて下さいました。この「聖とされる」という表現は、それまでどこの国の言葉にもなく、一般の人々には理解し難いので、以前には日本語で「御名が崇められますように」「御名が尊ばれますように」などと、人々に解り易いように言い換えて訳されたりしていましたが、神の僕・婢であるべき人間が主導権をとって神の御名を崇め尊ぶのは、主が教えて下さった祈りの精神ではないと思います。ラテン語でも他の多くの言語の訳でも、この個所は「聖とされる」という解りにくい表現をそのまま残しています。それで十数年前に、日本の聖公会とカトリック教会とが共同で「御名が聖とされますように」という改定訳を典礼に導入した時、私は嬉しく存じました。私はその時からこの祈りを唱える度毎に、天の御父中心主義の主のあの世的価値観、人生観、世界観が、私たちの心を聖め高めて下さるようにと、また天父の御旨中心の主の御精神がこの世に広まるようにと願っており、そしてこれが主の教えて下さった祈りの意味だと思っています。

    本日の福音では、ペトロとその漁師仲間たちの召し出しがテーマになっているようです。神の御言葉を聞こうとして押し寄せて来た群集に押されるようにして岸辺にまで来られた主は、そこに二そうの舟と数人の漁師たちとを御覧になり、舟から上がって網を洗っていたペトロの舟に乗せてもらい、岸から少し漕ぎ出すように頼んで、その舟の中から岸辺にいる群衆に教えを説きました。話し終えるとペトロに、沖の方に少し漕ぎ出して網を下ろすようお頼みになりました。夜通し漁をして疲れている漁の専門家ペトロは、昼の今時網を下ろしても何も取れず、無駄であるとは思っていましたが、漁師でない先生の「お言葉ですから」と、いわば先生に対する好意と尊敬の証しとして網を降ろしたのだと思われます。ギリシャ語原文では「私が網を降ろしましょう」となっていて、夜通し働き続けた「私たちが」ではありません。ペトロは、どうせ今日は魚がいないのだからと、仲間たちには協力を願わず、軽い気持ちで網を降ろしたのだと思われます。ところが夥しい魚がかかって網が破れそうになったので、岸辺にいたもう一艘の舟の仲間たちに合図して助けてもらい、二艘の舟は沈みそうになる程、魚でいっぱいになりました。

    この大漁に驚き恐縮したペトロは、少し前には「ラビ(先生)」とお呼びした主の足元にひれ伏し、「キリエ(主よ)」とお呼びして、自分の罪深さを告白しました。心が自分の罪深さを直感して畏れにおびえる程、自分の舟に乗っておられる主の内に、神の力、神の臨在を痛感したのだと思います。主はそれに答えて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話し、ペトロを新しい人生へとお召しになり、ペトロとその仲間たちは、全てを捨てて主に従いました。聖書学者の雨宮神父によると、ここで「人間をとる」と訳されている動詞は、形容詞「生きている」と動詞「捕る」との合成語で、捕まえて生かすという意味合いの言葉だそうです。それで、ある聖書学者は「人間を生け捕る」と邦訳したことがあるそうですが、「生け捕る」は捕虜にするという意味になりますので、この邦訳は適当でないと思います。しかしとにかく、ここでは食べるためや何かの利益を得るために捕らえるのではなく、その人々にもっと遥かに仕合わせな、新しい自由な生き方をさせるために捕らえることを意味していると思います。自分の考えやこの世の常識に従ってではなく、今の自分には理解し難い主のお言葉にも、素直に従って主に奉仕しようと努めたことにより、この新しい生きがいと神の大きな祝福とを見出すに到った使徒ペトロに倣って、私たちも、日常茶飯事の中に思わぬ形で出会うことの多い神の御旨やお導きに、すぐ素直に従うことを優先する神の僕・婢としての心構えを日ごろから磨き、大切にしていましょう。最高のものは、私たちの心を危険から守るために与えられている不動の法ではなく、私たちの心を内側から活かす神の神秘な働きや、動的御旨なのですから。

2013年2月3日日曜日

説教集C年:2010年間第4主日(三ケ日)

朗読聖書: . エレミヤ 1: 4~5, 17~19. 
         Ⅱ. コリント前 12: 31~ 13: 13. 
         Ⅲ. ルカ福音 4: 21~30.

    本日の第一朗読は、紀元前7世紀の後半にエレミヤを預言者として召し出された時の、神のお言葉を伝えています。旧約の預言者の中には、エリヤ預言者のように積極性と豪胆さに溢れていた強い人もいますが、祭司ヒルキアの子エレミヤは全くその逆の性格で、内気の人、引っ込み思案をし勝ちな人だったようです。当時の神の民イスラエルは、先住民の持っていた民間信仰の影響を受けて太祖以来の神信仰を歪め、何でも人間中心、この世の幸せ第一に考え、神をもそのために利用しようとするような宗教生活に陥っていたようです。神に忌み嫌われるこのような生き方を為す政治家や祭司たちを咎めて、罰を宣告するような神のお言葉を語らせられることは、内気で若いエレミヤにとっては、考えるだけでも大きな恐れとおののきを覚えることであったと思われます。

    しかし神は、「彼らの前におののくな」「私があなたと共にいて救い出す」とおっしゃって、弱気のそのエレミヤを「諸国民の預言者として」お立てになったのでした。エレミヤという名前は「神立てる」という意味の名前だそうですが、神は、エレミヤが生まれる前からこの子に御目をかけ、このような名前がつけられるようになさったのだと思います。どんなに弱い人間でも、その時その時に神から与えられるものに忠実に従うならば、苦しみながらでも驚くほど大きな仕事を成し遂げるに到ると思います。弱いエレミヤも、偉大な預言者としての実績を残すに到りました。キリスト者・修道者として神から召された私たち各人も、神の僕・婢となって神からのその時その時の導きに心の眼を向け、それに忠実に従うよう心がけましょう。そうすればエレミヤを守り導いた神の霊が私たちをも守り導いて、神がお望みになった目的を達成させて下さいます。

    本日の福音では、主の故郷ナザレの人々が、「皆イエスを褒めて、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるのに、その人々はその直後に「この人はヨゼフの子ではないか」と、ナザレでは高く評価されていなかったと思われる貧しいヨゼフの名を引き合いに出して驚いています。私は以前に、一見矛盾しているように見えるナザレの人々のこの態度をどう受け止めたら良いものか、と戸惑いを覚えていました。しかし、聖書学者雨宮神父が1991年にお出しになった本を読んでみたら、この疑問が解消してしまいました。日本語で「褒める」と訳されているギリシャ語のマルテュレオーという動詞には、「証言をする」という意味もあって、この動詞は有利な証言をする時にも不利な証言をする時にも使われるのだそうです。思うに、ナザレの人々は会堂で初めて聞く主の恵み深い言葉に驚き、あの貧しいヨゼフの息子で首都エルサレムで勉強したこともないのに、と自分たちが昔多少軽蔑しながら眺めていたイエスの人間像について証言しながら、まあ教えのことはどうでもよいから、カファルナウムで行ったと聞く奇跡よりももっと大きな奇跡を我々にも見せてくれ、ここはお前の故郷なのだからというような、少し利己的要求を突きつける態度で、主を眺めていたのではないでしょうか。それで主は、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」というような話をなさったのだと思います。

    信仰と愛のない人々のためには、主も奇跡をなさいません。神の力によって為す奇跡は人々を楽しませるための見世物ではなく、神の国、神の働きの臨在を証しして、人々の信仰を堅固にするためのものですから。まず神の現存を信ずること、そして神への愛に生きようとすることが大切であり、神による奇跡の前提だと思います。サレプタのやもめは、極度の貧困故に一心に神に祈り求め、祈りつつ飢え死にを迎えようとしていたのではないでしょうか。またシリア人ナアマンは、イスラエルの神による癒しに希望を繋ぎつつ、たくさんの贈り物をもって遠路はるばるやって来たのではないでしょうか。いずれも、その心は神の働きに対する信仰や希望に生きていたと思われます。ナザレの人々の日常生活には、この信仰と希望が欠けていたようです。私たちはどうでしょうか。平凡な日常茶飯事の中で、人目につかないようにしながら、神に対する信仰と愛を実践的に表明するよう心がけましょう。そうすれば、隠れた所から隠れている所を特別に見ておられる神からの、人目に隠れた不思議な助けを期待してよいと思います。明るい希望と感謝のうちに。