2016年9月18日日曜日

説教集C2013年:2013年間第25主日(三ケ日で)

C年 年間第25主日
第1朗読 アモス書 8章4~7節
第2朗読 テモテへの手紙一 2章1~8節
福音朗読 ルカによる福音書 16章1~13節

   本日の第一朗読は、紀元前8世紀に北イスラエル王国で活躍したアモス預言者の語った言葉ですが、預言者はここで貧者や苦しむ農民を抑圧し搾取して止まない、支配者や金持ちたちの不正を厳しく非難し、「私は彼らが行った全てのことをいつまでも忘れない」という、主なる神が誓って話された厳しいお言葉を伝えています。主は貧しい人、苦しむ人の味方で、そのような人たちの中に現存して私たちに近づかれる神であります。アモス預言者の言葉を聞いても、それまでの生き方を改めようとしなかった北イスラエル王国の支配者や富める人たちは、その後間もなく残酷なアッシリアの大軍によって征服され、国外に連行されて悲惨な状態に落とされています。神の呼びかけに謙虚に従い、悔い改めなかった天罰であると思います。

   現代の一見豊かに見える日本社会にも、人目に隠れていますが、日々の生活に窮している家族は少なくありません。派遣切りで失業したり就職難で就業できずにいる人たちやホームレスの人たち、あるいは1998年以降毎年3万人以上にもなったりした自殺者たちの貧しい遺族、細々と貧困に耐えている家族などが年々増え続けています。能力があっても貧しさのため進学できず、適当な働き場を見出せずにいる若者たちも少なくありません。1960年代から市民生活の豊かさの陰に急速に広まった生活の都市化、核家族化は、自由主義・個人主義の普及によってそれまでの地域共同体や血縁共同体を、内面から崩壊させたり無力化させたりしてしまいました。それで共同体の絆や支えを失った貧者たちの苦しみは、生き甲斐を失わせるほど深刻なものになって来ています。近年そのような人たちの生活を援助する慈善家の数も増え、慈善事業の数も増えつつありますが、まだまだ不十分の状態です。神は、ご自身がこの世に送り出されたそのような人たちの中に特別に現存して、現代の社会や私たちに憐れみと愛を求めておられるのではないでしょうか。そういう人たちの中に神よりの人キリストや聖母マリアを見出して奉仕する模範を残された福者マザー・テレサは、真に現代的な聖人であったと思います。大きなことは何一つできない私たちですが、せめて貧しく孤独に悩んでいる人たちの上に神の憐れみと導き・助けの恵みを祈り求めることにより、個人主義化した現代世界の中に、神の愛による新たな絆・新たな組織が産み出され広まるのを、日々内的にまた積極的に支援するよう努めましょう。

   本日の第二朗読は、使徒パウロがその愛弟子テモテに宛てた手紙からの引用ですが、この手紙はネロ皇帝の下でのパウロの殉教の少し前頃に書かれた手紙のようです。使徒言行録28章の最後に記されているように、パウロは紀元60年頃に初めてローマに来た時は、ローマ軍の囚人ではありましたが、まる2年間は自費で借りた家に留まっていて、来訪する人たちに憚ることなく神の国や主キリストについて宣教することができました。コロサイ書とフィレモン書の冒頭にパウロが書いているように、30歳代半ばと思われるテモテはその時、ローマでパウロと一緒にいました。紀元96年頃に第四代教皇クレメンス1世が書いた第一書簡によりますと、使徒パウロはその後暫くは今のスペインにまでも旅行したようですから、テモテとテトスに小アジアとクレタ島で使徒に代わって教会を指導する権限を与えたのも、この多少自由に行動できた時のことだと思われます。しかし、64年にネロ皇帝が、古い伝統から解放されたもっと新しいローマの町造りを意図したのでしょうか、密かに放火させてローマの町の大半を焼き払わせ、30キロ程離れた海辺の宮殿アンツィオでその火事を眺めて喜んでいたことが、後でローマ市民に知られると、放火の責任をユダヤ人に転嫁して、以前にもあったローマでのユダヤ人迫害を再燃させました。すると逮捕されたユダヤ人たちが、放火したのはキリスト者たちだと嘘の証言をしたので、ネロ皇帝によるローマ市内でのキリスト者迫害が始まり、67年に使徒ペトロもパウロも殉教するに至りました。その厳しい迫害下か、あるいはその迫害が始まる少し前頃に認められたのが、テモテへの手紙ではないか、と私は受け止めています。使徒がそこで、「願いと祈りと執り成しと感謝とを全ての人々のために捧げなさい。王たちや全ての高級官吏たちのためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」と書いていることは大切です。主イエスも、「迫害する者のために祈れ」と命じておられます。現代の私たちも、将来神を信じない人たちからの思わぬ誤解や迫害に苦しめられることがあるかも知れません。そのような時、主キリストは全ての人の救いのためにその苦しみを神にお捧げになったことを思い、迫害する人たちの救いのため自分の受ける誤解や苦しみを、主の御受難にあわせて神にお捧げする覚悟を今から固めていましょう。

   本日の福音は、先週の日曜日の福音であった見失った羊やなくした銀貨など三つの譬え話のすぐ後に続く譬え話ですが、なぜか聖書では「その時イエスは弟子たちに言われた」という導入の言葉で始まっています。しかし、先週の日曜福音の譬え話はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られた話とされていますし、本日の福音のすぐ後の14節には、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」とありますから、本日の福音の譬え話はファリサイ派の人々にも語られたのだと思われます。それで25年前に出版された新共同訳の日本語聖書では「弟子たちに言われた」と訳しかえています。キリスト時代のユダヤ社会では、律法上では金や物品を貸してもその利息を取ることが禁じられていましたが、しかし実際上は様々なこじつけ理由で利息が取られていたと考えられています。儲け本位の理知的貨幣経済が流行していた時代でしたから。本日の譬え話に登場する不正な管理人は、事によると日ごろから主人からの借りを借用人から返却してもらう段階で、その量をごまかして差額を着服したり、借り主に与えて友人を作ったりしていたのかも知れません。現代でも管理人任せにしてチェック体制が確立していない所では、密かに似たような詐欺や着服が横行しているようです。2千年前のオリエント世界よりも大きな過渡期に直面している今の世界では、心の教育の不備に起因する「誤魔化し人間」が少なくありませんから。主がこの話を直接ファリサイ派に向けて話されず、むしろ弟子たちに向けて話されたのは、その危険性が新約時代の神の民の中にもあることを、弟子たちによく理解させるためであったのかも知れません。

   ところでこの譬え話の末尾に、主人が不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふるまっている」というアイロニーを話しておられることは、注目に値します。私は勝手ながら、主はこの「光の子ら」という言葉で、暗にその場にいたファリサイ派の人々を指しておられたのではないか、と考えます。彼らは競って律法を忠実に守ることにより、この世においてもあの世に行っても神の恵みを豊かに得ようと努めており、自分の生活を光の中で眺めていて、律法を知らず忠実に守ろうと努めていない「この世の子ら」を、闇の中にいる者たち、神に呪われた罪人たちとして批判し断罪していました。彼らは、その罪人たちに背負わせている重荷を少しでも軽くしてあげよう、助けてあげようとして指一本も貸そうとせず、罪人たちの心の穢れに感染しないよう距離を保ちながら、ただ批判し軽蔑するだけだったようです。それで、彼らから遠ざけられ軽蔑されていた「この世の子ら」は、年老いて今携わっている仕事や生活から離れる時のため、せめて自分の仲間たちに対しては親切と奉仕に努めて、孤立無援の状態に陥った時に助けてもらおうなどと考えていたのではないでしょうか。


   主はこの譬え話で、たとえ律法上では不正にまみれた富であっても、神の摂理によって自分に委託されたその富を人助けに積極的に使って友達を作るなら、その愛の実践を何よりも評価なされる神はその努力を嘉し、その人たちを永遠の住まいに迎え入れて下さると教えておられるように思います。私たちも、神から日々非常にたくさんのお恵みを頂戴しています。この世の命も健康も、日光も空気も水も、日々の食物も聖書の教えも洗礼も、全ては直接間接に神よりのお恵みであり委託物であります。私たちはそれらを人助けに積極的に利用しているでしょうか。自分を光の中において眺め、この罪の世の社会やその中で苦悩している人々のためには、別に何もしなくても天国に入れてもらえる「神の子」の身分なのだ、などというファリサイ的考えを持たないように気をつけましょう。私たちに委託されている数々の内的外的富や神の導き・啓示などを利用しながら、この世の社会や人々のためにも、せめて祈りによって積極的に奉仕するよう励みましょう。そのように心がける人たちが、神に忠実に生きようとしている「神の子ら」であり、そうでない人たちは、神よりもこの世の富(マンモン) に仕えようとしている、と神から見做されるのではないでしょうか。ここで「富」とあるのは、物質的富だけでなく、ファリサイ派が大切にしていたこの世での自分の地位、名誉、幸せなどをも指していると思います。それらを神の奉仕的愛よりも大切にしている人たちは、神から一種の偶像礼拝者と見做されると思います。私たちも神の御前で謙虚に反省し、神よりの委託物を、貧しい人や苦しむ人たちのためにも利用するよう心がけましょう。

2016年9月11日日曜日

説教集C2013年:2013年間第24主日(三ケ日で)

C年 年間第24主日
第1朗読 出エジプト記 32章7~11、13~14節
第2朗読 テモテへの手紙一 1章12~17節
福音朗読 ルカによる福音書 15章1~32節

   本日の第二朗読には、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉が読まれますが、この言葉が本日のミサの三つの朗読を集約している、と考えてよいかも知れません。第一朗読は、モーセが四十日四十夜シナイ山に留まって神の言葉を聞いていた間に、その山の麓では神の民イスラエルが、金の子牛を造って自分たちの神とし、それを礼拝するという恐ろしい偶像礼拝の罪を犯したことに、神が激しくお怒りになったこと、そしてその民を滅ぼしてモーセからまた新たな民を起こそうと、話されたことを記していますが、神のそのお言葉を聞いて驚いたモーセは、神がアブラハムらの太祖たちに「その子孫を天の星のように増やし、云々」と誓って話されたことを神に思い起こさせ、強い御手を振るってエジプトから導き出して下さったこの民を、その罪から救って下さるよう願っています。それで、神は民に下すと告げられた災いを思い直されましたが、これは、主キリストが罪人を救うためにこの世に来られることの、一つの前兆と受け止めてよいのではないでしょうか。神は、ご自身がなさった数々の奇跡によって奴隷状態から救い出された民の犯した、偶像礼拝という恐ろしい反逆の罪をも赦して下さる程の大きな愛をもって、全人類の犯した無数の罪を償わせ、救いを求める全ての人を救う為に、この世にメシアを派遣なされたのです。

   第二朗読では使徒パウロが、自分が以前神を冒涜する者、神の教会を迫害する者、暴力を振るう者、「罪人の中で最たる者」であったことを告白し、「しかし、信じていない時に知らずに行ったことなので」憐れみを受け、私たちの主の恵みを溢れるほど豊かに受けたことを告げています。そしてその体験に基づいて「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値しますと語り、「私が憐れみを受けたのは、」私がキリスト・イエスを「信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」などと話しています。これまでの人生で、どれ程多くの恐ろしい罪を犯したとしても構いません。使徒パウロのように、今後は神の御旨・神の導きのみに従って生きようとするならば、全ての罪は神の限りない憐れみによって赦され、自分の上にも周辺の人々の上にも、神からの豊かな恵みを呼び下すようになります。

   本日の福音は、主が徴税人や罪人たちの前で、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というファリサイ派や律法学者たちの非難に応えて話された、「見失った羊」と「なくした銀貨」の譬え話ですが、ここで「見失った」、「なくした」などと邦訳されているギリシャ語の動詞アポッリューミは、聖書学者によると、本来あるべき所から離れて力を発揮できずに滅びへと向かうことを意味しているそうです。したがって、例えば「羊がいなくなった」という場合は、単に姿が見えなくなったというだけではなく、滅びに向かう転落をも意味しているのだそうです。ルカ福音の15章には、本日の福音の後に続く放蕩息子の譬え話も合わせますと、「いなくなっていた」だの「死のう」などと訳し替えられている、このギリシャ語の動詞アポッリューミが合計8回も登場していますが、そこにはいつも滅びへと向かうという転落の意味も込められていると思います。主は滅びへと向かっている私たち罪人を見出し救うために、この世にお出でになったという意味も込めて、これらの譬え話を語られたのではないでしょうか。

   余談になりますが、日本人が一般的に一日に三食するようになったのは、江戸時代に入って平和が続き、町人も農民も多少豊かになってからのようで、それ以前の戦国時代や室町時代には、一日二食が普通だったようです。16世紀後半の信長・秀吉時代に来日し、日本人司祭養成のため神学校を創設した巡察師ヴァリニヤーノ神父が作成した、神学生の日課によりますと、一日二食になっていてその時刻は明記していませんが、起床後の祈りや少しの仕事・勉強などを考慮しますと、朝食は10時頃になされていたようです。そして夕食は、これも分かりませんが、察するに午後の4時か5時頃だったのではないでしょうか。同じ頃のヨーロッパの修道院でも、一日二食の日課が伝統的に順守されていたようです。先日ふと聖ベネディクトの会則を読んでいましたら、四旬節には一日一回の夕食だけですが、「聖なる復活祭から聖霊降臨祭まで、修友は第六時に一日の主な食事をとり、夕方に夕食をとる」となっていますから、やはり普通は一日二食だったのではないでしょうか。しかし、「聖霊降臨以降の夏期の期間中は、畑仕事がなく夏の酷暑に悩まされることがない限り、修道士は水曜日と金曜日は第九時まで断食します。その他の日には第六時に食事をとる」とありますから、畑仕事があり夏の酷暑が続く時には一日二食ですが、そうでない時には修道院長の裁量で、聖霊降臨後にも水曜日と金曜日には一日一食だったようです。しかし、「913日から四旬節の初めまでは、常に第九時に食事をとるものとす」とありますから、当時の修道院では日曜日や大祝日を別にして、913日から四旬節の初めまでの期間にも、一日一食の大斎を守っていたのではないでしょうか。なぜ「913日から」なのか、と思って調べてみますと、昨日914日にお祝いした十字架称賛の祝日は、エルサレムでは既に5世紀から始まっていましたが、7世紀にローマ典礼に導入されましたので、8世紀の聖ベネディクトは、この十字架称賛の祝日を特別に大切にし、この日から四旬節までも大斎を守る期間としたのではないでしょうか。


   今年は明日が敬老の日とされていますが、年齢が進んで高齢の知人たちが多くなりますと、その人たちが間近にしている死の苦しみをどう受け止めたらよいのか、という心の問題や不安などにも出会います。死生学を専門とするイエズス会のデーケン神父は、『老いについて』という著書の中で、「老齢期の苦しみは、ゲッセマネの園と十字架上でのキリストの苦悩にあわせてささげることによって意味を持つようになる」と書いています。受難死を目前にして天の御父神に眼を向けながら、全ての不安や苦悩を人類の罪の償いとして神にお捧げしておられた救い主の献身的愛のお心、その心を心として生きようとする時に、神の愛聖霊が私たちの心の内に注がれ、か弱い私たちの心を内側から支え強めて、主キリストと一致して恐ろしい死の闇を潜り抜け、あの世に産まれ出る力と導きを与えて下さると信じます。老齢の私たちも十字架称賛の祝日を大切にし、聖ベネディクトの精神を体して、この祝日から四旬節までをも主と一致して日々の苦しみや煩わしさを、人類の罪の償いとして喜んで神にお捧げするように努めましょう。そうすれば、使徒パウロがコリント後書4章に書いているように、「たとえ私たちの外なる人は衰え行くとしても、内なる人は日々新たにされて行きます」という喜ばしい体験を、実感するようになると信じます。

2016年9月4日日曜日

説教集C2013年:2013年間第23主日(三ケ日で)

第1朗読 知恵の書 9章13~18節
第2朗読 フィレモンへの手紙 9b~10、12~17節
福音朗読 ルカによる福音書 14章25~33節

   紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王のペルシア遠征が成功し、ギリシャ系の支配者たちがエジプトやシリアなどオリエント諸地方を支配するようになりますと、ギリシャ文明がオリエント全域に広まり始め、エジプトでは紀元前3世紀から2世紀にかけて、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたりしました。それは、人口の多い大国エジプトをプトレマイオス王朝の配下にある少数のギリシャ人だけで支配することはできないので、ギリシャ人たちは契約や規則を忠実に守るユダヤ人たちのエジプト移住を優遇し、新しく建設した港町で首都のアレキサンドリアは五つの地区に分けられていましたが、その内の二つはユダヤ人街とされていました。多くのユダヤ人がギリシャ人によるエジプト支配に協力し、首都アレキサンドリアやその他の地方で比較的裕福な生活を営むようになりましたら、エジプトで生まれたその子供たちや孫たちはギリシャ語しか話さなくなったようで、彼らにユダヤ民族の伝統を伝えるため、為政者側からの積極的支持もあって、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。これが「七十人訳」と言われた旧約聖書であります。当時のエジプトにはパピルスと言われた植物の葉を利用した紙が豊富にありましたので、この「七十人訳」のギリシャ語聖書は、異邦人の間でも広く愛読されるようになり、これが使徒時代にキリストの福音がギリシャ・ローマ世界に早く広まるのを助けた地盤になりました。

   ところでギリシャ人が大きな港町アレキサンドリアを介して地中海諸地方と、現代世界の雛形と思われるほど盛んな国際交流を続け、世界各地の古書や資料を筆写して世界最初の大きなアレキサンドリア図書館を建設した首都に住むユダヤ人知識人たちの間では、同じく国際交流を積極的に推進した優れた知識人ソロモン王の智恵に見習おうとするような知恵文学が盛んになり、処世術や人生論などに対する人々の関心が高まっていたようです。本日の第一朗読である「知恵の書」は、そのような流れの中で、ソロモン王の時代に神の民の知識層に始まった様々の人生教訓や俚諺・格言などを集めて収録したと思われる聖書で、人間の知恵の源泉であられる真の神の知恵について教えています。この神の知恵に導かれた聖母マリアのように、人間中心のこの世の知恵には従わずに、神の僕・神の婢として神の御旨中心に生きようとするその信仰精神は、国際交流が盛んで各種の思想が全世界的に行き交う中で生活する現代人にとっても、大切なのではないでしょうか。理知的なこの世の知恵や知識が万事に優先され、何事にも合理的な理由付けを求める考え方が、社会の各層に広まっている現代社会には、そういうこの世の理知的知恵やその論議に振り回され、心の奥底に悩みやストレスを蓄積している人が少なくないように見受けられるからです。人間理性がこの世の学識や経験に基づいて産み出す知恵や知識だけではなく、それらに神信仰や神からの啓示に基づいて産み出される知恵や知識を合わせて複眼的に洞察する生き方が、極度の多様性に悩む現代人の心に本当の安らぎと確信を与えると信じます。

   本日の第一朗読は、ソロモン王の祈りという形で記されている長い祈りの一部分ですが、そこには「あなたが知恵をお与えにならなかったら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、誰が御旨を知ることができたでしょうか」という言葉が読まれ、続いてその神の知恵、神の聖霊によって「地に住む人間の道はまっすぐにされ」、人は神の御旨を学び知って救われることが説かれています。悩む現代人の心を救うものも、この世の智者の研究や知恵ではなく、何よりも神の霊、神から与えられる知恵だと思います。使徒パウロはコリント前書1章の中で、「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする」というイザヤ29章の言葉を引用しながら、この世の知恵に従おうとするのではなく、神の知恵、神の力に従うよう力説しています。使徒のこの言葉も、様々な意見や学説が飛び交って混沌としている現代世界に生きる私たちにとって、大切だと思います。神は、私たち現代人が己を無にして神に心を向け、神よりの知恵、神の霊に従おうするのを、切に待っておられるのではないでしょうか。

   本日の第二朗読は、獄中にある使徒パウロが、コロサイの裕福なキリスト信者フィレモンに宛てた手紙からの引用ですが、それは、そのフィレモンの許から逃れ、獄中のパウロに出会ってキリスト者となった逃亡奴隷のオネシモを、その主人フィレモンの許に送り返すに当たって持たせてやった手紙のようです。「私を仲間と見做してくれるのでしたら、オネシモを私と思って迎え入れてください」という最後の言葉を読みますと、受洗した逃亡奴隷に対するパウロの愛に涙を覚えます。しかし、パウロが神の前での人間の平等を強調して、キリスト者となった奴隷の身分であるオネシモを自由の身分にするよう求めていないことは、注目に値します。当時の古代社会は奴隷制度を地盤としていますので、もしその社会制度を非難して改革しようとするなら、それは巨大な政治経済改革を始めることになり、安定していたローマ帝政国家の基盤を揺るがし兼ねません。パウロは、神の前での人間の平等は説きますが、この世の社会や国家における人間の政治経済的不平等を改革しようとはしていません。ただ、その不平等による弱い人・助けを必要としている個々人の苦しみを少しでも緩和し、あの世の神の国・愛の国に対する明るい希望をもって生活するようにしてあげようと努めていたのではないでしょうか。これが、主キリストを始め、多くの聖人たちが実践していたキリスト教的愛の生き方だと思います。例えば800年前頃のアシジの聖フランシスコは、「我が教会を建て直せ」という神の声を聞いても、大きな貧富の格差で内側から分裂し崩壊しかけていた当時のカトリック教会を建て直すために、何かの理論を掲げて改革しようとしたのではありません。貧しさと苦しみを特別に愛した主キリストの福音的生き方を実践する信仰者たちの群れを増やすことによって崩れかけていた教会を建て直し、逞しい力に溢れた教会に変革したのです。現代の福者マザー・テレサも、絶望の淵に置かれて苦しむ貧者や弱者に対する温かい愛の実践によって、現代社会を建て直そうとしていた偉大な改革者だと思います。そしてフランシスコの名を戴く今の教皇も、その同じキリストの愛の道を推奨しておられるのではないでしょうか。

   本日の福音の中で読まれる「(父母や妻、兄弟姉妹たちを) 憎まないなら、私の弟子ではあり得ない」という主のお言葉は誤解され易いので、少し説明させて頂きます。ヘブライ語や当時パレスチナ・ユダヤ地方で一般民衆の話していたアラマイ語には比較級がないので、たとえば「より少なく愛する」、「二の次にする」というような場合には、「憎む」と言うのだそうです。従って、主が受難死の地エルサレムへと向かっておられた最後の旅の多少緊張感の漂う場面で、付いて来た群衆の方に振り向いておっしゃったこのお言葉は、私に付いて来ても、私を父母兄弟や自分の命以上に愛する人でなければ、また自分の十字架を背負って付いて来るほど捨て身になって私を愛する人でなければ、誰であっても私の弟子であることはできない、という意味に受け止めるべきだと思います。察するに、そこにいた群集の多くは、農閑期の暇を利用し、多少の好奇心もあって、主の一行にぞろぞろ付いて来ていたのだと思います。そこで主は、付いて来たいなら、各人腰を据えてよく考え、捨て身の覚悟で付いて来るようにと、各人パーソナルな決意を促されたのではないでしょうか。


   「自分の持ち物を一切捨てなければ、誰一人私の弟子ではあり得ない」というお言葉も大切です。主は受難死を間近にして、全ての人の贖いのために、ご自身の命までも捧げ尽くそうと決意を新たにしておられたと思いますが、主の弟子たる者も、主と同じ心で多くの人の救いのために生きることを求めておられるのだと思います。主の御跡に従う決意で誓願を宣立した私たち修道者も、主のこれらのお言葉を心に銘記しながら、主に従う修道者としての初心を新たに堅めましょう。

2016年8月28日日曜日

説教集C2013年:2013年間第22主日(三ケ日で)

第1朗読 シラ書 3章17~18、20、28~29節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章18~19、22~24a
福音朗読 ルカによる福音書 14章1、7~14節

2013年間第22主日(三ケ日)
本日の第一朗読であるシラ書には、旧約のユダヤ人たちの間で愛用されていた格言や教訓が多く集められていますが、本日の朗読個所ではその内の「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる」「主は、遜る人によって崇められる」などの勧めが読まれます。とかくこの世の人間関係にだけ注目し他人からよく思われようと努め勝ちな人たちは、これらの勧めを聞くと、人前での出しゃばった言行を慎み、謙虚に振る舞うようにという意味で受け止め勝ちですが、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前での外的遜りではなく、全てを自分中心・人間中心に考えて行動する「古いアダム」の生き方を改め、何よりも神の僕・神の婢として、ひたすら神の御旨に従って生きようとする内的精神を指していると思います。それは主イエスが御自ら実際に生きて見せた生き方ですが、神はそのような実践に励む人によって崇められ、その遜りの精神と生活を通して救いの恵みをこの世の人々に豊かにお注ぎ下さるのだと思います。

カトリックの教理では、人間は霊魂と肉体とから成る存在で、霊魂は純粋の霊である天使と同様に、霊界に所属する存在とされています。それで私は、まだ頭脳の働きが十全でない胎児であっても、その霊魂の働きで自分に対する母の愛情を感知したり、それに反応したりすることができるのではなかろうか、と考えています。産まれ出た途端に、赤ちゃんが助けを求めて大きな泣き声をあげるのは、既に霊魂の心情が目覚めている証拠だと思います。自分がまだ真にか弱く、親の世話を必要としていることを自覚している頃の赤ちゃんは、その愛情に包まれている時には、感謝の表現なのか真に清い綺麗な眼をしています。しかし、次第に頭脳も成長してこの世に生きるための知能も働き始めますと、肉体に「古いアダム」の命を受け継いでいるために自分中心に考えたり、全てを自分中心に利用したりする精神も心の中に目覚めて来ます。それは肉体の頭脳の発達を促進しますので、ある程度容認し大切にしなければなりません。しかし昔の家庭では、生後二歳から五歳前後にかけての頃、その利己的な傾向が露骨に現れた時には厳しく叱ったり体罰を体験させたりして、両親や周辺社会の愛情を感知し、それに感謝と従順と愛情をもって応えようとする霊魂本来の素直な働き、奥底の良心の働きを目覚めさせようとしていました。戦前の子供時代にそういう躾や教育を受けた私は、司祭になってからも、身内や親しい家庭の子供をそのように叱って、その母親たちに幼子に対する上手な叱り方などを教え、立派に成長したその子供たちからも、後年厚く感謝されています。

ところが、1970年代から日本経済が急速に発展して社会が豊かになり、自由を求める人々の価値観も極度に多様化し始めますと、古い価値観を堅持する親たちから独立して、都会のマンションなどに住む息子夫婦の家族が激増し、神や祖先や社会に対する感謝と奉仕を第一にする、各人の霊魂の心情や良心を根幹とする伝統的倫理や道義、親から実践的に仕込まれた自分の心の道義に背くことを恥として深く恐れ慎む精神などが、幼子たちの心に伝達されなくなってしまいました。若い親たち自身も、なお一層の外的自由と豊かさを追い求めて、祖先から受け継いで来た霊魂の伝統的道義心や価値観を時代遅れの束縛と見做すようになり、それらを忘れ去っているようになりました。その状態が数十年も続いた最近の社会を見ていますと、各人の霊魂に根を下ろしている筈のその人独自のプライドや道義心というものを完全に抑圧して、ただ人間の造った社会の法規に背かないなら何をしても善いと考え、この世の損得勘定にだけ没頭している人が多くなっているように思われます。人間社会が今日ほど多様化し国際化しますと、法の規制も監視もその変化について行けず、法の網を潜ってぼろ儲けをする詐欺や悪徳業者も横行するようになりました。これでは、神に似せて創られた人間存在としては、感謝と無料奉仕の精神に欠ける全くの出来損ないであり、遠からず大きな神罰を招きかねないと恐れます。人間の霊魂教育も鍛錬もできずにいる、そのような役立たずの家庭や社会を、神はいつ迄もそのままにはして置かれないと思われるからです。マルコ福音の10章やルカ福音の18章には、「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」という主の断言が記されていますが、私たち各人の霊魂の奥底に神から植え込まれている、神に対する幼子のように素直な感謝と奉仕の愛と自己抑制の精神に成長しなければ、その存在は神の国を乱す者として退けられ、滅びの穴に追い落とされてしまうと思います。


本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主 イエスが、一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」(譬え)という言葉は、二つの相異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時などによく使われる、広い意味の言葉であると聞きます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会生活にも適用して、「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」というのは、主のお考えではないと思います。主は神より遣わされた使者として、人々の救いのために奉仕する内的心構えについてだけ語っておられるのですから。相手からの報いを期待せずに、(ただ神の僕・婢として)この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。この世的上下関係や損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けつつ、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちも、小さいながらそのような生き方を実践的に身につけるよう努めましょう。

2016年8月21日日曜日

説教集C2013年:2013年間第21主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 66章18~21節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章5~7、11~13節
福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節

   本日の第一朗読は、長いイザヤ預言書の最後の章の最後の部分から引用されています。神はここで新約時代の神の国、いや世の終わりの少し前頃の神の国について話しておられるようです。19節には「彼らの間に一つのしるしをおき」というお言葉が読まれますが、イザヤ7; 14に神がお与えになった「見よ、乙女が身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というしるしを指していると思います。そして神は新約時代のこの福音を知らせる使者たちを、まだ神の名を聞いたこともなく、神の栄光を見たこともない遠い国々にまで派遣なさるようです。タルシシュという国は、現在のスペイン南部のジブラルタル海峡付近にあった国で、フェニキア人たちがそこの鉱山から獲れる産物を運んで大きな利益を上げていましたが、旧約時代にはその国が地の果てという印象を与えていました。神の国はそういう遠い国々、島々にまで述べ伝えられて、そこに住む人々も、イスラエルの子らと同様に神への献げ物を清い器に入れてなす。主は「彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる」などと、神は予告しておられるのです。そして本日の朗読のすぐ後に、神は「私の創る新しい天と新しい地が、私の前に永く続くように。云々」とこの世の終わりの後の、新しい神の国についても話しておられます。いろいろと終末期の異常現象を体験しつつある現代の私たちも、神の国の栄光に満ちた明るい未来に対する希望を堅持しながら、日々忍耐強く逞しく生き続けましょう。

   第二朗読は、一週間前の主日にも話したように、使徒ペトロやパウロらが殉教した後の教会について、少し不安になり心が動揺していた信徒団に向けて書かれたと思われる『ヘブライ人への手紙』からの引用であります。「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」という、神がキリスト者を「神の子供」として受け入れ、鍛えて下さる由の言葉が読まれます。これらの言葉は、第二次世界大戦後に科学技術や商工業が急速に発展普及し、便利で豊かな生活を営むようになった私たちにとっても、新たな意味で大切なのではないでしょうか。現代においては多くの老人が、祖先から受け継いだ古い家屋に孤独に生活するか老人ホームに入居させられており、夫婦は共働き、子供は学校や塾での能力主義教育で相互に競わされています。昔の家族のように、三世代の家族が皆で共に汗水流して、苦労を分かち合うという姿が無くなっています。家族・学校・職場・地域社会などでは、どの分野でも個人主義が広まり、各人が日々互いに助け合わなければ生きて行けない、という心配はありません。現代人は社会に溢れる物資や情報を自由自在に利用しながら生きて行けるし、心を楽しませる娯楽にも溢れる程恵まれているからです。それで伝統的共同体の持つ相互扶助のつながりは、個人の自由を束縛するものとして邪魔者視されているのだと思います。

   しかし、こうして各種共同体の結束が乱され無力化しますと、助けを必要としている老人や子供たちの世話が後回しにされて、孤独に苦しむ老人や、様々の新しい心の問題を抱えている子供たちが世界的に増えて来ているように思われます。神なる主は、このような全地球的に広まりつつある伝統的共同体の崩壊という事態を憂慮なされ、せめて神から特別に愛されている私たちには、全ての苦しみを父なる神からの鍛錬として受け止め、自分中心の個人主義的な「古いアダム」の生き方を改めて、神の御旨中心の「新しいアダム」主キリストの生き方を実践的に体得し、今の世の人々に証しするよう、改めて呼びかけておられるのではないでしょうか。本日の第二朗読の言葉を、信仰に生きる私たちへの神のお言葉として受け止め、日々私たちの出遭う様々の不都合・誤解・失敗・煩わしさ等々を、神からの愛の鞭打ち・愛の鍛錬として主キリストと一致して受け止め、その苦しみややり直しなどを喜んでお捧げするよう心掛けましょう。自分の出遭う苦しみを、恐れないように心掛けましょう。そうすれば、私たちの上ばかりでなく、周辺の社会の人々の上にも、また特に今孤独や病気などに苦しんでいる人たちの上に、神の恵みの力と助けとを豊かに呼び下し、神の平和に満ちた実を数多く結ばせるに至ると思います。

   本日の福音の始めには、「イエスは、……エルサレムに向かって進んでおられた」という言葉が読まれますが、ルカは既に951節に「イエスは天に上げられる時が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書いており、それ以降19章後半のエルサレム入城までの出来事を、受難死目指して歩まれた主の最後の旅行中のこととして描いていますので、ルカ13章に読まれる本日の福音も、死を覚悟であくまでも主に従って行くか否かの緊張した雰囲気が、弟子たちの間に広がり始めていた状況での話であると思われます。ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねられた主は、そこにいた弟子たちと民衆一同に向かって、「狭い戸口から入るように努めなさい。云々」とおっしゃいました。その最後に話されたお言葉から察すると、東西南北から大勢の人が来て「神の国で宴会の席に着く」のですから、救われる人は多いと考えてよいでしょう。ただ、救い主のすぐ身近に生活し、外的には主と一緒に食べたり飲んだり、主の教えに耳を傾けたりしていても、内的にはいつまでも自分の考えや自分の望み中心に生活する心を改めようとしない人は、神の国に入ることを拒まれることになる、という警告も添えてのお答えだと思います。としますと、主が最初に話された「狭い戸口」というのは、主を処刑しようとしていたサドカイ派やファリサイ派が民衆に求めていた伝統的規則の遵守ではなく、当時荒れ野で貧しい隠遁生活を営んでいたエッセネ派が実践し、民衆の間にも広めていた神の内的呼びかけや導きに従うことを中心に生きようとする、謙虚な預言者的精神や信仰生活を指していると思います。伝統の外的規則を厳しく順守し定められた祈りを唱えているだけでは、2千年前のファリサイ派のように、この世の人たちからはその努力が高く評価されても、神からはあまり評価されないのではないでしょうか。自分中心・この世の楽しみ中心の「古いアダム」の心に死んで、神の子キリストの自己犠牲的愛に生きようとする精神を実践的に体得しない限り、神は愛する私たちを厳しく鞭打たれる恐るべき方であると思われます。


   このことは、現代の私たちにとっても大切だと思います。外的に何十年間修道生活を営み、数え切れない程たくさんの祈りを神に捧げていても、内的に自分のエゴ、「古いアダム」の精神に死んで、神の御子イエスの精神に生かされようと努めていなければ、それはこの世の多くの人が歩んでいる広い道を通って天国に入ろうとしていた、2千年前のファリサイ派の信仰生活と同様、神から拒まれるのではないでしょうか。聖書にもあるように、神が私たちから求めておられるのは、外的いけにえや祈りなどの実績ではなく、何よりも神の愛中心に生きようとする、謙虚な打ち砕かれた心、我なしの悔い改めた心なのですから。天啓の教えについては殆ど知らなくても、非常に多くの人たち、異教徒たちが、心のこの「狭い戸口」を通って天国に導き入れられるのだと思います。もはや一つの川の流れのようにではなく、全てが大洋の大きな海流のようになって来ている現代のグローバル社会に、「古いアダム」の精神や個人主義が普及しますと、これまでの伝統的宗教や各種共同体の繋がりは次々と寸断されて、人類社会には捉えようがない程の漠然とした混乱と無秩序が支配するかも知れません。そのような時にこそ、主が説かれたこの「狭い戸口」の勧めが大切だと思います。しっかりと心に銘記し、将来に備えていましょう。

2016年8月14日日曜日

説教集C2013年:2013年間第20主日(三ケ日で)

第1朗読 エレミヤ書 38章4~6、8~10節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章1~4節
福音朗読 ルカによる福音書 12章49~53節


   本日の第一朗読は、紀元前6世紀初頭にエレミヤが、ユダ王国の最後の王ゼデキヤの支配下で受けた迫害について述べています。このゼデキヤ王は、その数年前にバビロニアのネブカドネザル王が二度目に首都エルサレムを攻略して、国王を始め多くの官吏や有能な技術者たちを捕囚としてバビロンに連行した時に、後に残った人々を支配するようにと、バビロン王によって任命された国王ですが、バビロンの大軍が去った後に各地に隠れていた家臣たちが首都に集まって来ると、政治はその家臣団に支配されるようになりました。新しい役人や祭司たちは、神がダビデ王に約束された言葉などに従って、エルサレムは一時的に敵に占領されることがあっても滅びることはないと信じており、強力なエジプト軍との提携を強めて、バビロンの支配から解放される道を模索し始めました。それで、神からの言葉に従って、不信な神の民を罰する「神の怒りの鞭」と立てられているバビロン王には抵抗しないように、と預言し続けているエレミヤを死刑にするため、ゼデキヤ王に圧力をかけ、エレミヤは水ための泥の中に綱でつり下ろされました。そこで苦しんで飢え死にさせるために。それを見た国王の傍に仕えるエチオピア人の宦官メレクの取り成しで、エレミヤは救い出され、誰も入ることの許されない国王の閉ざされた内庭に匿われましたが、神の言葉に従う人に、神は時としてこのような迫害や苦難をお許しになる、恐ろしい方だと思います。その苦しみはメシアの受難死と結ばれて世の罪を償い、この世の多くの人に神による救いの恵みを呼び下すパイプになるのだと思います。神は現代に生きる私たちにも、場合によりそのような苦難を捧げる使命をお与えになるかも知れません。神に対する愛と信頼の内に、恐れずに覚悟していましょう。

   第二朗読の出典であるヘブライ人への書簡は、最後の挨拶の中に使徒パウロの愛弟子テモテ釈放の知らせを伝えていることから察しますと、使徒パウロと共に異邦人伝道に活躍していた宣教師の書いたものだと思います。テモテについての言及があることから、古代末期にはこの書簡が使徒パウロの書簡と誤解されて新約聖書に入れられましたが、その文体も表現方法もパウロのものとは大きく違っていますので、パウロの書簡ではなく、恐らくは使徒たちの殉教した後に、これからの異邦人教会の進むべき道や、周辺の異教人社会からの迫害の可能性などで不安になっている信徒団を、旧約時代からの神の啓示に基づいて新たに啓発し激励するために認められた書簡であると思います。題名にある「ヘブライ人への」という言葉は、新約聖書の聖典に採用されてから書き加えられたもので、この書簡は既に国を失って流浪の民となったユダヤ人宛てに書かれたものではありません。旧約聖書の教えが頻繁に引用されていますが、使徒パウロの説教を聴いて入信した異邦人の多くは、紀元前3世紀にエジプトでギリシャ語に翻訳発行されて地中海沿岸諸国で広く読まれていた、いわゆる七十人訳の旧約聖書をよく知っていましたので、このギリシャ語の書簡はそういう異邦人キリスト者宛てのもので、ユダヤ人宛てのものではないと思います。
   この書簡の2章、3章、6章、10章、12章の諸所に読まれる言葉から察しますと、使徒ペトロとパウロが殉教した直後頃のキリスト教会には、この世での成功発展を重視するギリシャ・ローマ文化の影響や価値観のためか、まだ主キリストの受難死の神の御前での高い価値を理解できず、使徒たち没後の教会は果たしてローマ帝国内に教勢を伸ばすことができるのか、強大な異教勢力に迫害されて潰されてしまうのではないか、一時は間もなく来ると信じられていたこの世の終わりと主キリストの再臨は、まだまだ遅れて遠い将来のことになるのではないか、等々の疑問が広まって、不安になっている人たちが多かったようです。それでこの書簡の著者は、聖書に読まれるこれまでの神の啓示を総合的に手際よく解説しながら、神から召されて自分に定められている道を最後まで忍耐強く走り続け、神が主キリストを通して提供しておられる救いと栄光に到達するように、と励ましています。本日の朗読箇所でも、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」進むこと、このイエスは目前の喜びを捨てて、十字架の死を耐え忍び、栄光の神の玉座の右に上げられたこと、気力を失って疲れ果ててしまわないように、罪人たちの反抗を忍耐されたこの主イエスの模範をよく考えること、などを説いています。そして最後に、「あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と、彼らの信仰生活が、主イエスの歩まれた、罪と戦う生き方とは違っていることを指摘しています。主も本日の福音の中で、ご自身が地上に神の愛の火を投ずるために来たこと、そのためには死と苦しみの洗礼を受けなければならないこと、またこの地上には神に従う者と従わない者との対立分裂が生ずること、などを話しておられます。


   先日も申したように、この世の終末期に入って来ていると思われる現代世界には、これからますます悪霊たちの働きが盛んになって、これまでには無かった恐ろしい犯罪や災害などが多発するかも知れません。私たちもその時に気力を失って疲れ果てることのないように、主が身を持って示された模範をしっかりと心に刻みつつ、神から与えられる苦難を喜んで忍耐強く耐え忍ぶよう、今から覚悟を固めて神の助けを願い求めていましょう。苦難は、神から恵みを豊かに呼び下します。

2016年8月7日日曜日

説教集C2013年:2013年間第19主日(三ケ日で)

第1朗読 知恵の書 18章6~9節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 11章1~2、8~19節
福音朗読 ルカによる福音書 12章32~48節

   日本のカトリック教会は、ローマ教皇が1981年に広島でなされた「平和アピール」に応え、その翌年より毎年の86日から終戦記念の15日までを「平和旬間」と定めて、世界平和のためのさまざまな共同的祈りと催しを致しています。今日はその平和旬間中の日曜日であります。それで本日は世界平和のために、このミサ聖祭を献げます。ご一緒にお祈り下さい。
   本日の三つの朗読聖書は、いずれも小さな弱い者たちのグループが、神に信仰と信頼の眼を向けながら待っている姿を描いていると思います。そのグループの生きていた時代はそれぞれ大きく違っていて、第二朗読はアブラハムとその家族の生き方を、第一朗読は大きな不安の中でエジプトを夜に脱出し、心を合わせて荒れ野の旅を続けたイスラエルの民のことを、また福音は、まだ呼び集められて間もない主の弟子たちの小さな群れと、その弟子たちに主が話された励ましと警告の説教を扱っています。本日ここに集まっている私たちも、真に小さな弱いグループです。お互いに年齢も進んでおり、健康の上でもいろいろと不安を抱えている人たちの群れだと思います。しかし、アブラハムとその家族のように、あるいはモーセに率いられてエジプト軍の圧力や追跡をかわしながら荒れ野の道を進んだイスラエルの民のように、神の導き・働きに全てを委ね、不安の内にも一日一日を神に対する希望と愛の心で生き続けているなら、神は必ず私たちを護り導いて下さると信じます。この世の弱い自然的人間の力にだけ眼を向けることなく、何よりも全能の神の力に大胆な信仰と信頼の眼を向けながら、生活し続けましょう。

   主は本日の福音の中で、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸いだ」などと弟子たちに教えておられますが、これらの言葉を皆信仰の立場から内的な意味で受け止め、日々神に対する希望と愛の精神を新たに目覚めさせながら、神による救いの時を忍耐強く忠実に待ち続けましょう。私は十数年前からここで皆様と共に神に土・日のミサを捧げつつ、神は私たちのこの小さな群れに特別に御眼を注いで下さっているように感じています。東海大地震や風水害などの自然災害からも護られて、神に感謝の祭儀を捧げて居れるのですから。
   ご存知のように、今年の春頃からは世界の至る所で異常気象が多発しています。風水害の犠牲者や、熱中症などで病院に運び込まれる人たちが例年よりも多いようです。人為的ミスなどで発生する交通事故や、新しい詐欺事件や犯罪も増えているのではないでしょうか。新たな政治不安や外交不安に悩まれている国々もあると思います。水不足や燃料不足や電力不足、その他様々の不安要素が増えて来て、これからの世の中には物騒な事が多発するかも知れませんが、ひたすら神の導きや助けに信仰と信頼の眼を向けながら全ての乱れに対応し、希望をもって世界平和のため、神に御保護とお導きを願い求めましょう。


   今年の110日の毎日新聞に、今年の3月末にパンスターズ彗星が、11月末にアイソン彗星がやって来ること、いずれもこれまで来たことのない、一昨年と昨年に発見された彗星で、特にアイソン彗星は「史上最も明るい大彗星になる可能性がある」ことを読んだ時、私はすぐこれらが、かねて聖母マリアからも予告されていたあの警告の彗星ではないかと思いました。戦後、特に1970年代、80年代に世界各地でかなり多くの人たちにご出現になったり、メッセージをお与えになったり、血や涙をお流しになったりなさった聖母マリアは、24, 5年前から全くご出現もメッセージも与えずに与えずに沈黙しておられるようですが、それはオーストラリア人のある人に予めお話しになった通りで、私はそれを「嵐の前の静けさ」として受け止めていました。今年現れる二つの彗星はわが国のマスコミではその珍しさと明るさの故に歓迎されていますが、私はそれらを世の終わり前の大災害を予告する警告の彗星と思っています。春先のパンスターズ彗星は、まだ小さくて肉眼ではあまり観測できませんでしたが、しかしこの彗星が到来した頃から世界の気象は異常を記録し始め、人類は西でも東でも嘗て経験しなかった程の異常気象に悩まされているのではないでしょうか。「信仰年」が終わる今年の11月末以降には、アイソン彗星の到来でもっと異常な出来事や詐欺犯罪などが多発するかも知れません。ヨハネ第一書簡にも読まれる通り、世の終わりの時代には、反キリスト即ち悪霊が数多く活躍するようですから。しかし、そのような不安を感じたら、聖母マリアに助けを願い求めて下さい。聖母は、そのような悩みに陥っている人を助ける、特別の使命を神から与えられているようですから。マタイ24章前半には、畑に二人の男がいれば一人は連れて行かれ、一人は残される、二人の女が臼をひいていれば一人は連れて行かれ、一人は残される、という世の終りについての主のお言葉がありますが、私はこの「連れて行かれる人を」を、いつまでも滅び行くこの世の中に取り残されずに、聖母により早くあの世の雲に救い上げられる人たちと受け止めています。悪霊たちの働きで異常事象が多発しても、聖母に助けを祈り求めましよう。きっと救って頂けます。