2009年9月27日日曜日

説教集B年: 2006年10月1日、年間第26主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 11: 25~29.   Ⅱ. ヤコブ 5: 1~6.  
  Ⅲ. マルコ福音 9: 38~43, 45, 47~48.


① 本日の第一朗読の中で、モーセはヨシュアに「私は、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」という、珍しい話をしています。神の民にして戴いている者たちが皆、預言者のように神の霊によって内面から生かされ、ただ神中心に神のために生きる人、語る人になることを切望しているという意味だと思います。いったいなぜこんな話をしたのかと思い、本日の朗読箇所の少し前の文脈を読んでみますと、同じ11章の前半にモーセは、イスラエルの民が「ああ、肉が食べたい。エジプトではただで魚を食べていた。きゅうりやメロン、ねぎや玉ねぎやにんにくも忘れられない。今では、我々の唾(つば)は干上がり、どこを見回しても、マンナの他には何もない」などと、どこの家族でも泣き言を話し合っているのを聞き、また主なる神が人々のそのつぶやきの声に憤られたので、モーセは主に、「私一人ではこの民すべてを背負うことはできません。私には重過ぎます」と嘆きました。
② それで主は、民の中から長老と認められる者たち70人を神の臨在する幕屋に集めさせ、モーセに授けている霊の一部をその長老たちにも授けて、彼らもモーセと共に民の重荷を背負うことができるようになさいました。モーセと共に神の幕屋の周りに集まった長老たちは、神の霊を受けて一時的ながら預言状態になりましたが、宿営に留まっていた二人の長老もそこで預言状態になったので、モーセの従者ヨシュアがそのことをモーセに知らせて、「止めさせて下さい」と願ったのに対して、モーセが答えた言葉が最初に引用した話です。モーセがどれ程切望しても、神の民の全員が神の霊を受け、預言者的精神で生きることは、実際上期待できないでしょうが、せめて一部の信仰厚い人たちを神の霊による預言者精神で生活させることにより、神はモーセの苦悩を緩和させようとなさったのだと思われます。新約時代の神の民は堅信の秘跡によって神の霊を授かっており、その霊はその秘跡を受けた人々の心の奥底に泉のようになって現存しているのですが、日々その泉の水で生かされ預言者精神で生活している人は少ないようです。神からの召し出しに応じて自分の一生を神に献げて生きることを誓った私たち修道者に、神は「せめてあなた方だけでも」と、主キリストと内的に深く結ばれた預言者精神で生活するよう切望しておられるのではないでしょうか。お告げを受けた時の聖母の「フィアト (成れかし)」の精神を日々自分の内に新たにしながら、聖母マリアと共にできる限り神のご期待に沿うよう努めましょう。
③ 本日の第二朗読は、教会内にもいる利己的蓄財に没頭する信徒たちを厳しく糾弾する使徒ヤコブの書簡からの引用です。一般社会の不信仰者たちに対する非難ではありません。全ての人の救いに奉仕するキリストの愛の実践に励んでいないと、教会内にも貧しい者、弱い者を除け者にする悪習がはびこり得るのです。「あなた方は、この終りの時のために宝を蓄えたのでした」という言葉から察しますと、その金持ちたちは、伝統的な各種団体が統率力を失って内面から瓦解しつつあった、当時の過渡的激動社会を巧みにくぐり抜けて儲けをあげ、不安な終末の時のため備えていたのかも知れません。これまでの社会倫理の基盤が打ち続く激震で液状化現象を起こしているように見える現代世界にも、そのようにして巧みに大儲けをしている成金業者が少なくないことでしょう。しかし、この世の富、この世の生活の安全を第一にして、そのためには他の人たちを搾取することも厭わないその精神や生き方に、ヤコブは非常に厳しいです。万軍の主なる神は、何よりも助けを必要としている小さな者や弱い者たちの嘆きや叫び声に耳を傾けておられ、その人たちの願いに応じて裁きを行おうとしておられるからです。私たちも気をつけましょう。富める人たちや能力ある人たちを優遇して、いつも特別扱いにするような生き方は慎み、何よりも小さな者や弱い者たちの願いを優先しておられる神の御心を、身をもって世に証しするよう心がけましょう。
④ 本日の福音は、前半と後半の二つの話から構成されています。前半は、主が第二の受難予告に続いて弟子たちに話された教えで、弟子たちは自分たちの団体や組織に属していない者たちを敵視したり、除外視したりせずに、主の御名を使って悪霊を追い出したり奇跡をなしたりしているなら「私たちの味方」なのだから、その活動を止めさせたりしないようにと命じておられます。教会内も教会外の世界も極度に多様化しつつある現代においては、この教えは大切だと思います。神の驚くほど多様な働きを原理主義的に一つの体系、一つの組織だけに閉じ込め、独占することのないよう気をつけましょう。私たちはカトリック教会の伝統的慣習や生き方を大切にし、それを将来にも残し伝えようと努めていますが、しかし、全人類の救いを望んでおられる神は、私たちの所だけではなく、キリスト教の伝統を全く知らずに、新しい道で救いをたずね求めている多くの人たちにも、キリストによる救いの恵みを分け与えることがおできになります。事実、その人たちを通して奇跡をなさることもあります。心を大きく開いて、何よりもそういう神の働きにも信仰の眼を向け、その人たちの活動を敵視したり悪く言ったりしないよう気をつけましょう。理知的な人たちは、自分の信ずる理論に対する合理的整合性を重視するあまり、そのようなどっちつかずの生き方を嫌うようですが、しかし、私たちは人間の理論や組織などを遥かに越えておられる、神秘な神の御旨と神の働きに従うよう召されているのですから、原理主義者たちの固い冷たい「石の心」は退け、神の愛の霊によって生かされている柔軟で温かい「肉の心」を持つように心がけたいものです。
⑤ 本日の福音の後半は、主を信じている小さな者の一人をも躓かせないようにという教えですが、主は同時に、そのような小さな者を躓かせてしまう心は私たち各人の中にもあることを明言し、この世中心・人間中心に生きようとするその心を、切り捨ててしまうようお命じになります。私たちには素晴らしい永遠の幸福が約束されているのです。あの世のその幸福への献身的愛の道を妨げるものは容赦なく切り捨てて進む、来世的人間の美しい潔さと勇気とを今の世の人たちに示しつつ、明るい希望のうちに生きるよう努めましょう。神はそのように生きる人たちに時々、挨拶しても見向きもしてくれない冷たい態度の人を派遣なさいます。そのような時、心で自分の言行を弁明したり、その人の心を詮索したり非難したりせずに、すぐに神の現存に心の眼を向けましょう。自分の心を悩ますその人は、神から派遣された恵みの使者なのです。その人を介して私のすぐ近くに来ておられる神に対する畏れの心を新たに致しましょう。まだ神中心に生きようとしていない自分の心の片手、片足、片目を切り捨てさせ、そこに新しい愛の片手、片足、片目を産み出させるために、神は時折愛する子らにそのような試練をお与えになるのです。くよくよ心配せずに、潔く神に全てを献げて古い自分に死に、新しい心に生まれ変わりましょう。そうすれば、自分の心の中に復活の主の力が働いて、失った手も足も目も立派に新しいものに生まれ変わり、その試練が自分にとって大きな恵みであったことも、冷たい態度をとった人がその恵みによって温かい心に変わって行くことも見ることでしょう。

2009年9月20日日曜日

説教集B年: 2006年9月24日、年間第25主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 2: 12, 17~20.   Ⅱ. ヤコブ 3: 16~ 4: 3.  
  Ⅲ. マルコ福音 9: 30~37.


① 本日の第一朗読には、神に逆らう者の言葉として、「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。(中略) 彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう」などとありますが、これらの言葉の背後には、この世的成功や幸せだけを念頭に置いて、自分たちの成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおうとする、この世の人生だけに囚われている視野の狭い人生観があります。神に従う者は、我々のなすことを神の律法に背くこと、神の教えに反することとして非難するが、これまでのところ神は少しも干渉せず、神の子と称する者は神に助けてもらうことなく、貧しく生活しているではないか。彼が本当に神の子なら、神から助けてもらえる筈だが、現実はどうやら違うようだ。暴力と責め苦で彼を苦しめ、試してみようなどと、神に逆らう者たちは、この世の成功や幸せだけを最高の判断基準にして、善悪・真偽を判断しようとしているように見えます。
② 神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、各人は神中心に全ての人、全ての存在が永遠に仕合わせに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いてその人たちの所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時が来るかも知れません。今から覚悟していましょう。
③ 神の啓示に基づいて考えますと、私たちの人生は死によって終わるものではなく、この世は仮の世で、私たちの本当の人生はあの世にあり、人間は本来あの世で永遠に生きるため、神の愛の内に生かされ、神のように自由で仕合せな神の子となって、神によって創られた全てのものを主キリストにおいて統治するために創られているようです。原罪によって誤謬と死の闇が支配するようになったこの苦しみの世に呻吟しながらでも、人間には、その闇と苦しみに鍛えられつつ、神の子の心を目覚めさせて鍛え上げ、あの世の本当の人生に備える恵みが与えられています。あの世中心のこのような人生観・価値観を、私たちの生き方を通して今の世の人々に証しするよう努めましょう。
④ 第二朗読の中でヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、…間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのも、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まず徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。
⑤ パウロがコリント前書15章の後半に書いていることからも明らかなように、私たちのこの世の人生は死によって一旦完全に終わり、あの世の人生はまたゼロから始まるのではありません。ちょうど母の胎内で育った胎児が生れ出るように、あの世の人生はこの世の人生の延長線上にある輝かしい発展であり、死はその新しい人生への門出のトンネルのようなものだと思います。この世の人は死ぬことを「永眠する」などと言いますが、この世にいる時から神の恵みのうちに駆け出していた魂は、死の門を潜り抜けた時から大きく飛躍し、自由に生き始めるのだと思います。アルスの聖司祭ヴィアンネーは、そのような言葉を口にしています。神から啓示されているこの明るい未来像を、いつも心に堅持していましょう。
⑥ 本日の福音は、先週の日曜日の福音であるフィリッポ・カイザリア地方での第一の受難予告に続く、第二の受難予告ですが、ユダヤ人も住んでいてファリサイ派の監視の目が光っているガリラヤを通っていた時になされた話なので、「イエスは人に気づかれるのを好まなかった」という言葉も添え書きされています。外的にはこの世の人生の悲惨な失敗を意味する受難死は、メシアに対する多くの人の期待や希望を根底から覆す出来事であり、主の弟子たちをも絶望のどん底に落としかねない事柄ですので、主はせめて弟子たちの心がその大きな試練の時、一時の絶望的心理状態から立ち直って、あの世中心の新しい人生観・価値観のうちに大きな希望をもって生き始めるようにと願いつつ、予め小刻みに謎のような受難予告を繰り返し、彼らの心に立ち直りのための恵みの種を蒔いておられたのだと思います。主の御後に従って来るよう召されている私たちも、自分の死が差し迫って来た時の苦悩を先取りし、今から自分の心に小刻みにあの世の人生中心の人生観・価値観の種を蒔き、心を準備して置きましょう。死は、多くの人の救いのため、主と一致して神に自分をいけにえとして献げ尽くす、私たちがこの世で為すことのできる最高の業だと思います。逃げ腰にではなく、主の模範に倣って前向きにその価値高い業を成し遂げることができるよう、心を準備していましょう。
⑦ 「人々の手に引き渡される」という受難予告には、パラディドーミという意味の広いギリシャ語の動詞が使われていますが、この動詞は「伝える」「委ねる」「引き渡す」「裏切る」など、様々に邦訳されています。使徒パウロはローマ書8:23に、「その御子をさえ死に渡された」天の御父の愛について語っていますが、その時もこの動詞パラディドーミを使っています。主もこの受難予告の時、天の御父から人々の手に引き渡されるという意味でおっしゃったのかも知れません。私たちも主と一致して、日々自分に与えられる苦しみ、誤解、冷たい無関心や拒絶などの背後に、欠点多いこの世の人の心を見るよりも、私たちに強い愛と期待などの御眼を注いでおられる天の御父の御手を観るように、今から自分の心を訓練していましょう。
⑧ 本日の福音の後半には、「すべての人の後になり、すべての人に仕えなさい」というお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神からこの世に派遣された主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉を心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰も大切に致しましょう。神とのそのような出遭いは、私たちにとって大きな恵みの時でもありますから。

2009年9月18日金曜日

説教集B年: 2006年9月18日、マリア会総会のミサ(東海市で)

朗読聖書: Ⅰ. ローマ 12: 1~2.   Ⅱ. ルカ福音 1: 26~38.  

① ご存じのように、科学技術の急速な発達によって、百年前には考えられなかった程便利で豊かになった現代社会は、その反面、内的地盤の液状化現象による深刻な不安に悩まされつつあります。社会の外的発展に伴うはずの心の教育・心の修練が、大きく立ち遅れているからです。神に導かれ神と共に生きようとしないこれまでの社会の地盤に潜んでいた諸々の悪や弱点が、今や続々と表面に現われ出て、心に対する抑止力を失って来ている無数の人々を介して、テロや殺人、詐欺や飲酒運転、絶望や自殺等々の過激な行動を頻発させているのです。今の社会を恨み、生き甲斐が感じられない程に悩んでいる心を、どれほど理論で説得しようとしても無駄だと思います。心は頭と違って、何よりも現実の体験に注目しているからです。一切のこの世的伝統が液状化現象により内面から弱体化し崩壊しつつある現状では、そのような悩む心に新しい希望を見出させるには、神の愛・神の助けを実際に体験させる必要があります。そこで本日は、アンジェラスの鐘の音で唱えていたカトリックの伝統的「お告げの祈り」について、ご一緒に少し考えてみましょう。
② 終戦直後の昭和23年春に、私が多治見の修道院に入った頃は、修道院の鐘の音が一キロ離れた所でもはっきりと美しく聴き取れるほど、町も静か自然界も美しかったので、私は毎日朝昼晩に鳴らされるこの鐘の音に、懐かしい思い出を幾つも持っています。近年はアンジェラスの鐘の音を聴くことがほとんど無くなりましたが、幸い私が毎週三日間滞在する三ケ日の海の星修道院では、京都の妙心寺にあるキリシタン時代の教会の鐘のような小さな鐘ですが、それでも朝昼晩に鳴らして「お告げの祈り」を唱えています。
③ 皆様お持ちの祈祷書やカトリック手帳などにも載っていますので、皆ご存じの短い祈りですが、前半は三つの部分から成っていて、その第一はマリアが天使のお告げで神の御子懐妊の恵みに浴したことを宣言しています。私はこの最初の祈りを唱える時、それ程大きな恵みについてではなくても、神は今も日々私たちの心に、直接間接に度々呼びかけ、語りかけておられることを思い起こし、目に見えず耳に聞こえないその呼びかけを、心で正しく発見し識別する恵みを、聖母を通して願います。そしてマリアが「私は主の婢です」と答えて承諾する第二の祈りを唱える時には、私も神の御旨中心主義の「僕」の精神で、心が発見した神の呼びかけを全面的に受け入れ、それに従って行動し生活する恵みを、聖母を通して願います。また神の御子の受肉を宣言する第三の祈りを唱える時には、神の御言葉中心に生きようとしている私の心の畑に蒔かれて、既に根を下ろしている御言葉の種に心の眼を向け、いつも心の中での神の現存、神の働きを忘れずに、神に導かれ神と共に生きる恵みを、聖母を通して願います。
④ 日々この祈りを心を込めて唱えていますと、いつの間にか私たちの心は変化して来て、以前には何事にも自分の望み、自分の都合を第一にして判断したり行動したりしていた心が、聖母のように神の僕・婢として、神の御旨を第一にして考え行動するようになって来ます。そして次第に神からの小さな呼びかけを、鋭敏に感知し発見するようになります。これは大きなお恵みだと思います。神はそのような心に、一層しばしば語りかけ、ご自身の小さな器や道具のようにして、護り導き働いて下さるからです。10年ほど前に、自分に対する神の具体的御旨を頭で詮索している信徒から質問されたことがありますが、神の御旨は人間の頭でどれほど考えても、全ての規則や倫理学の本を研究しても判りません。主キリストも聖母も、そんなことはなさいませんでした。日々出会う事物や小さな物事などを介して、何気なくそっと提示される神の導きを鋭敏に感知する心のセンスを磨けば、判るようになるのです。私は30年ほど前から、私に対する神の不思議な導きやご保護を小さな体験を通して知るようになり、日々感謝と喜びのうちに生きるようになりました。そして今も小さな不思議を数多く体験しています。心の信仰は、実生活の中での神の現存・神の助けに関するこういう体験を、小さくても数多く積み重ねることによって、次第に何者をも恐れない逞しいものに成長して来ます。
⑤ 先程の第一朗読の中に、「あなた方はこの世に倣ってはなりません」という使徒パウロの言葉がありましたが、いくら社会的に実績をあげている人であっても、豊かなこの世の人たちの常識に同調して、適度の節制や節電などを軽視して怠り、思う存分豊かに明るく生活していると、いつの間にか健康を害して薬に頼って生活する体になったり、あるいは思わぬ不幸に見舞われたりした人を、私は数多く見聞きして来ました。神はその人たちにも小刻みにいろいろと呼びかけておられるのに、その呼びかけに対する心のセンスに欠けているからだと思います。極度の多様化・流動化の国際的広がりと人々の心の汚染拡大のため、これからの世界には社会組織も宗教組織もこれまで以上に弱まり、社会不安がいや増すかも知れません。社会と共に歩みながらも、社会の流れに身を任せず、各人が自主的に神の導きに根ざして謙虚に清貧に生きるのが、賢明な生き方だと信じます。30年ほど前から東海地震のおそれが叫ばれているのに、まだ自分でできる範囲での災害対策を準備していない人が少なくないと聞きます。「目覚めてあれ、用意してあれ、あなた方はその日その時を知らないのだから」と主も度々話しておられるのに、全てを人任せ社会任せにして自分でできる備えを怠っている人には、神も災害時に厳しいと思います。心にこの恐れと危機感をしっかりと刻み、聖母マリアに倣って神に根ざして生きるよう努めましょう。そのための照らし・導き・助けを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。

2009年9月13日日曜日

説教集B年: 2006年9月17日、年間第24主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 50: 5~9a.   Ⅱ. ヤコブ 2: 14~18.  
  Ⅲ. マルコ福音 8: 27~35.


① 本日の第一朗読はイザヤ書からの引用ですが、ご存じのようにイザヤ書は、最初から39節までが紀元前8世紀後半の預言書で第一イザヤ、40章から55章までがバビロン捕囚とその直後頃の預言書で第二イザヤ、56章から最後の66章までが、安息日や神殿などの記事があることから、エルサレム神殿が再建された頃の預言書で第三イザヤと、三つに分けて受け止められています。本日の朗読箇所は、その第二イザヤの中でも、バビロンからの喜ばしい解放についての預言である48章までの前半部分からではなく、エルサレムに帰還した神の民の使命などについての後半部分からの引用で、この後半部分には神の「僕」についての話が中心になっています。従って、本日の朗読もその神の「僕」についての話ですが、カトリック教会はユダヤ教とは異なって、古来この神の「僕」を救い主イエス・キリストと受け止めています。
② 「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、云々」と続く長い独り言は、預言者個人の体験談かも知れませんが、同時に、いや何よりも救い主イエスのご受難についての預言であると思います。私たち人類を恐ろしい罪の穢れと滅びの道から贖い出すため、耐え忍んで下さった主のご苦難についての預言であります。感謝の心で主のお言葉に耳を傾けると共に、本日の朗読箇所に二度登場する「主なる神が助けて下さる」というお言葉を、心に銘記して置きましょう。私たちはそのような耐え難い苦難に直面すると、自分の弱さや自分の力の限界にだけ目を向け、もうダメだと思い勝ちですが、主はそのような絶望的苦難の時には、何よりも全能の神の現存と助けに心の眼を向け、「私の正しさを認めて下さる方は近くにいます」と心に言い聞かせて、神のその時その時の助けに支えられつつ、受ける苦しみを一つ一つ耐え忍んでおられたのではないでしょうか。この信仰のある心に神の力が働いて、人間の力では不可能のことも可能にしてくれます。いつの日か私たちも死の苦しみを迎える時、主イエスのこの模範に倣い、主と一致してその苦しみを多くの人の救いのために献げるように致しましょう。
③ 本日の第二朗読であるヤコブ書は、様々の具体例をあげて神に対する信仰と愛に基づく行いの重要性を教えていますが、本日の朗読箇所では、その信仰と行いとの関係を手短にまとめていると思います。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は大切です。ただ聖書を研究して神を信じているだけ、あるいは聖堂で敬虔に神に祈るだけに留まっていてはなりません。それによって神から戴いた御言葉の種や神と人に仕える愛の火を、心の奥にしまいこんで蓋をしてしまうと、その貴重な命も火も消えてしまいます。神よりの命は、実生活に生かしてこそ心に根を張り、大きく成長して実を結ぶのであり、愛の火も、日々の実践を積み重ねることによって、次第に輝き始めるのです。
④ しかし、ここで一つ気をつけなければならないのは、その実践は神の御旨に従う心、神の導きに従う心でなされる必要があることです。この世の社会や政治に対する自分の不満や改革熱から、神の言葉や信仰を旗印にして戦っても、人間の考え中心のそんな実践では神の御言葉の命は成長せず、信仰も神が求めておられる愛の実を結ぶことができません。神の言葉を盾にして、自分やこの世のものを愛しているに過ぎないのですから。現代世界の各地には無数の人を犠牲にして止まないテロ活動と、それを圧倒的に勝る武力で一方的に押さえ込もうとする戦争が続いていて、際限なく続く両者の対立抗争から民衆の生活も生命も犠牲にされています。耐え難いこの社会不安に憤慨して、性急な政治批判に走る人たちの気持ちもよく解りますが、しかし、現代世界の秩序を乱している悪の元凶は、何かの合理的政治理論などでは解決できない、もっと遥かに深い心の世界に幅広く根を張りめぐらせているように思われます。人間の考える理論ではなく、神の御旨中心に神の僕・婢として生きようとしている私たちは、平和問題については短絡的にならないよう、慎重でありましょう。平和は、家庭においても社会においても、根本的に心と心との関係の問題であり、各人が自分のこれまでの理念や生き方を相対化して、これほど豊かで多様な世界を創造なされた神に感謝しつつ、それとは違う理念や生き方の人々にも温かく心を開き、共に助け合って生きようする心になる時、神からの恵みとして産まれ出る生き物だと信じます。
⑤ 全ての人の救いを望み、善人にも悪人にも恵みの雨を降らせておられる神は、テロリストの心にもそれに協力させられている人々の心にも、またテロ弾圧に努めている人たちや政治家たちの心にも、世界平和のためにいろいろと形を変えて語りかけておられると信じます。その人たちが皆もっと大きく心を開き、武力ではなく友好的話し合いによって平和への道を見出すよう、神による照らしと導きの恵みを祈りましょう。私たちは毎月一度、極東アジア諸国の平和共存のためにミサを献げて祈っていますが、本日はそのミサの意向を少し広げ、世界平和のため神の特別な導きと助けの恵みを願って、献げることにしたいと思います。この目的でご一緒に祈りましょう。
⑥ 本日の福音に読まれる「あなた方は私を何者だと言うのか」という問いは、主が現代の私たち各人にも投げかけておられる大きな問いだと思います。それは知的な探究だけで答えるべき問いではなく、何よりも私たちの心の信仰や生き方を問題にしている問いではないでしょうか。ペトロは「あなたはメシアです」と正しく答えて、一応是認されましたが、主はすぐに、ご自分のことを誰にも話さないよう戒めておられます。ということは、この返答は形さえ正しく整っておればよい理知的な真理ではなく、各人の心の畑に根を下ろして黙々と成長し、神と魂との絆を太く密なものにして行くべき生きている真理、心の真理であることを示していると思います。主は、私たちも一生かけて私たちなりに自分の心の中にこの生きている真理を育て、神のため人々のために豊かに実を結ぶことを望んでおられるのではないでしょうか。正しい信仰宣言の直後に、主が話されたご自身の受難死と復活についての話に躓き、主から厳しい叱責を頂戴したペトロの前轍を踏むことのないよう、あくまでも謙虚にまた従順に、主の僕・婢として心の真理を育て、勇気をもって自分を捨てつつ、自分に与えられる十字架を背負って主に従うことにより、主のご期待に応えるよう励みましょう。

2009年9月6日日曜日

説教集B年: 2006年9月10日、年間第23主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 35: 4~7a.   Ⅱ. ヤコブ 2: 1~5.  
  Ⅲ. マルコ福音 7: 31~37.


① 本日の第一朗読はイザヤ書35章からの引用ですが、この35章の前後には、紀元前8世紀後半のアッシリア襲来に脅かされている不安な政情下での話が多いのに、なぜかこの35章だけは、神によって敵の支配から解放され、喜びに溢れてエルサレムに戻って来る神の民についての話になっています。その最後の10節に、「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く」とある言葉を読むと、これは前8世紀後半の第一イザヤが、バビロン捕囚から大きな希望と喜びのうちにエルサレムに帰還する、その百数十年後の神の民の喜びを予見して語ったものではないかと思われます。この世の事物現象は全て、神から創造された時間という枠内に置かれていますが、その時間を超越したあの世の神の世界では、この世での遠い将来や遠い過去の出来事も、今目前に行われているかのように観測できるのではないでしょうか。イザヤ預言者の魂は、そういうあの世の神の世界に迎え入れられて、アッシリアの恐怖からも救うことのできる力強い神の働きについての示しや幻を、見聞きしたのだと思われます。
② 急速に発達した現代文明について行けずに、心の教育が大きく立ち遅れているため、現代世界には未だかつてなかった程の規模で犯罪が多発したり、それが国際的に普及したりしているようですが、今は無き保守的ドイツ人宣教師たちの感化を受けて育った私は、その背後には無数の悪魔が勢力を結集して策動しているのではないかと考えています。恐ろしい犯罪や各種の悲惨なテロ事件は、これからもますます多く発生するかも知れません。現代世界の長引く内的地震にもまれて、これまでの社会の地盤が液状化現象を起こし、神を無視する社会の地盤に潜んでいたものが続々と表面に現れ出て来るからです。それに地球温暖化によって、今の私たちには想像できない程の深刻な災害が、多くの人を絶望的状態に追い込む事態も生ずるかも知れません。その時私たちも、本日の第一朗読に読まれる、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」という、神から布告するよう命じられた預言者の言葉を、忘れないように致しましょう。この世の社会も生活も不安で危険になればなる程、私たちはますます真剣に神に縋り、神に信頼と希望をもって祈るよう努めましょう。神はその信仰と希望を堅持している人を介して、働いて下さるからです。
③ 死を間近にした釈尊が、クシナガラ郊外の林の中で説かれた最後の教えの中には、「身を正し、心を正して悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない」という言葉があるそうですが、人類社会の数千年来の伝統的価値観が根底から鳴動し崩れ去ると思われるような時には、この世のものへの執着を一切断ち切って、日頃から身も心も厳しく統御している平常心が大きな力を発揮すると思います。スポーツの選手は、何かに構えた心のない、普段通りのフリーな心でプレーすると良い成績をあげることを体験していますので、試合が近づくと「平常心」という言葉をよく口にします。それとは多少違うかも知れませんが、禅僧たちもよく「平常心是れ道なり」と言いつつ、日々一切のものから解放された自由な心の平安を保つことに努めています。それがそのまま悟りの道だと思います。私たちが神から召された道も、内的にはそれに非常に近い特性をもっています。一心にあの世の神の働きに縋り、それに導かれて生きようと励んでいる人は、ごく自然にこの世の過ぎ行く事物への執着から解放され、心の自由と平安を得るようになるからです。私たちはお互いに既に社会的定年というものを体験し、この世の社会のための人生からは解放された身ですから、これからはひたすら神の導きや働きに心の眼を注ぎつつ、そのような心の自由と平安を一層深く体得するよう心がけましょう。
④ 幕末の名古屋に生まれ、東京大学哲学科を卒業した後に、東京で真宗大学 (京都の大谷大学の前身) を創立した清沢満之という優れた仏僧がいますが、先日ある新聞に、その清沢満之が「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を換えて、「天命に安んじて人事を尽くす」と書いているのを読み、私たちキリスト者にはこの言葉の方がぴったりだと思いました。阿弥陀仏崇敬の浄土宗門系仏教者たちはある意味で一神教的で、その言葉や生き方には私たちキリスト者にとって学ぶべきことが少なくありません。これからも心を大きく開いて、他宗教の信仰生活から学びたいと思います。
⑤ 本日の第二朗読はヤコブ書からの引用ですが、ヤコブ書の1章22節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけの人になってはなりません」という言葉があり、これがヤコブ書全体のテーマになっている、と言うことができます。本日の朗読箇所も一つの具体例をあげて、人をその外的服装などから差別扱いをしないよう、厳しく警告しています。神が私たちから求めておられるのは、福音の御言葉を受け入れて心に保つだけではなく、その御言葉に従って生きる実践であります。種蒔きの譬え話から明らかなように、主の御言葉は種であります。その種が心の畑に根を張って、豊かな実を結ぶようにする実践が何よりも大切だと思います。しかし、ここで気をつけたいことがあります。それは、私たちが主導権を取ってその種に実を結ばせようとしてはならない、ということです。使徒パウロはコリント前書3章に、「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」と書いています。神がなさる救いの御業に仕える姿勢を堅持しながら、実践に励みましょう。「神はあえて世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさった」という第二朗読の言葉も忘れてはなりません。神の御言葉は貧しい人や病人の心にも、この世の社会では全く無能に見える人の心にも、根を下ろし実を結ぼうとしているのです。その御言葉に奉仕する温かい心を持つように致しましょう。
⑥ 本日の福音に読まれる治癒の奇跡を考察する前に、まずマルコ福音書でのこの奇跡の位置や意味づけについて考察してみましょう。聖書学者たちによると、マルコ福音の6:30 から7章の終りまでは一つのまとまりをなしており、それは人里離れた所でのパンの奇跡に始まって、主が夜に湖上を歩いて弟子たちの舟に来られた話や、ゲネサレトやフェニキアなどの異教徒の所でも、多くの人を奇跡的に癒した話が続き、これら一連の奇跡を目撃体験させた後の一つの纏めとして、ガリラヤ湖東方のデカポリス地方でなされた、特別の仕方による治癒の奇跡が報じられており、それが本日の福音となっています。なお、これら数多くの奇跡を弟子たちに目撃させる話の途中、7章の前半にはたぶんガリラヤで、食事の前に手を洗わない弟子たちに対するファリサイ派からの非難が挿入され、先週の日曜日の福音に述べられているように、主はその非難に対して、「人から出て来るものが人を穢すのである」と弟子たちを弁護しておられます。そしてその後も、ファリサイ派からは宗教的に穢れた人々の地と考えられているフェニキアや、本日の福音にあるデカポリス地方で、なおも弟子たちに奇跡を目撃させています。
⑦ 本日の福音に続くマルコ福音の8章を調べてみますと、ここでも人里離れた所での第二のパンの奇跡に始まって、舟に乗ってそこを去ってから、「天からのしるし」を求めるファリサイ派と主との議論があり、その後主は舟の中で、ファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけるよう弟子たちに警告しておられます。そしてこの第二の一連の話の最後にも、ガリラヤのべトサイダで、人々が連れて来た盲人を村の外に連れ出し、両方の目にご自分のつばをつけて癒すという、特別の仕方による治癒の奇跡が語られています。そしてこれら二つの相似た一連の話の後で、主はファリサイ派のいない異教徒たちの地フィリッポ・カイザリア地方で、「人々は私を何者だと言っているか」と弟子たちにお尋ねになり、ペトロの信仰告白や、最初の受難予告などが続いています。マルコ福音書のこのような構成から察しますと、二つの相似た一連の話の最後に、舌のもつれた人や目の見えない人を、いずれも人々から少し離れた所へ特別に連れて行き、ご自分のつばをつけて癒された奇跡は、弟子たちにはまだとても受け入れられないと思われるメシア受難の神秘を、何とか受け入れるよう、内的にご自分のつばをつけてでも、彼らの奥底の心を大きく開かせ、目覚めさせようという深い思いを込めてなされた、奇跡的癒しだったのではないでしょうか。
⑧ 本日の福音によると、主はつばをつけた指でその人の舌に触れられた後、天を仰いで深く息をついたとあります。「深く息をつく」と邦訳されているステナゾーというギリシャ語は、聖書の他の箇所では「うめく」と訳されています。例えばローマ書8章の後半には、空しさに服従させられている被造物が皆、神の子らの栄光の現れを待ち侘びて産みの苦しみに共に呻き、神の子らとされている私たちも体の贖いを待ち焦がれて呻いており、聖霊も言葉に表せない呻きを通して私たちのために取り成して下さっている、などと述べられています。耐え難い程の深刻な苦しみからのぼって来るこのような呻きが、天の御父の御心を最も強く動かす祈りなのではないでしょうか。主も本日の福音の中で、天を仰いでそのような呻きを発してから、察するにかなり大きなお声で「エッファタ (開け) !」と叫び、その人を根深い悪の束縛から完全に解放なされたのだと思います。それは、内的には人間存在全体を一番奥底の悪の力から解放した、特別の奇跡的癒しであったと思われます。
⑨ 現代の日本にも、そのような癒しを必要としている人、際限なく深まる不安と孤独のうちに、自分で自分の魂を出口のない心の奥底に押し込めて、苦しんでいる孤独な人やうつ病などで悩んでいる人が少なくないのではないでしょうか。主は現代のそのような魂たちを絶望的孤独から救い出すためにも、「エッファタ !」と大声で叫ばれたのだと思います。私たちも、現代のそのような精神的心理的病人たちのために、主が天の御父に向かってあげられた呻きと叫びを献げて、神による救いの恵み、心の病からの解放の恵みを祈り求めましょう。本日のミサ聖祭はこの意向で、現代世界の中で特に孤独に苦しんでいる全ての人のために、救いの恵みを願ってお献げしたいと思います。ご一緒にお祈りください。

2009年8月30日日曜日

説教集B年: 2006年9月3日、年間第22主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 4: 1~2, 6~8. Ⅱ. ヤコブ 1: 17~18, 21b~22, 27.  
  Ⅲ. マルコ福音 7: 1~8, 14~15, 21~23.


① 本日の第一朗読には、モーセが神の民に「イスラエルよ、今私が教える掟と法を忠実に行いなさい。云々」と、神から授けられた掟と法の順守を命じていますが、その中で「あなたたちは私が命じる言葉に、何一つ加えることも減らすこともしてはならない。私が命じる通りにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」と命じていることは、注目に値します。神はモーセを通して語られたこの言葉で、私たち新約の神の民からも、神の言葉に対する徹底的従順を求めておられるのではないでしょうか。神のために何か善業をしようという心で、何かの事業に大きな寄付をしたり、人々にもしきりに寄付を呼びかけたりしている人を見ることがありますが、その熱心には敬意を表しても、それが果たして神の御旨なのかどうかについては、少し距離を置いて慎重に吟味してみる必要があります。いくら善意からであっても、神の掟や神の言葉に、人間のこの世的考えや望みから何かを加えることは、神のお望みに反することになり兼ねないからです。まずは多くの聖人たちの模範に倣って、祈りの内に神の霊の働きに対する心の感覚を磨き深めることに努めましょう。そうすれば、個々の具体的な事柄について、神の霊が私たちの判断を照らし導いて下さいます。時にはすぐに判断できず、長く待たされることがあるとしても。
② 本日の第二朗読に読まれる、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなた方の魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい」という、義人ヤコブの言葉も大切です。ヤコブはここで、聖書を介して神から与えられた人間の言葉も、ゆっくりと年月をかけて成長させて行くべき命の種のように考えているようです。私たちの心の中には、この世的な思いや欲望も雑草のように芽を出し成長して来ますが、それらの雑草が神の御言葉の命を覆いふさぐことのないよう、日々自分の心に注目し、心の草取りに努めていますと、心に植え付けられた神の御言葉は、やがて奥底の心にまでゆっくりと根を伸ばして、次々と美しい愛の花を咲かせるようになり、多くのことを教えてくれます。その生きている神の御言葉に聞き従いつつ美しい人生を営んだのが、聖人たちの歩いた道であり、ヤコブの「御言葉を行う人」という言葉は、そういう人たちのことを指していると思います。この世の人間理性が心の畑に種を蒔いて育てた、雑草のような見解や欲望に従って生きている人が多い中で、「光の源」であられる天の御父は、神の愛の御言葉に従って献身的愛の実を結ぶ人たちを探しておられ、そういう人たちを「造られたものの初穂」となさろうしておられるのではないでしょうか。私たちも、神が求めておられるそういう初穂の群れに入れて戴けるよう、何よりも生きている神の御言葉中心に生活することに心がけましょう。
③ 本日の福音の中で、ファリサイ派の人々がその言い伝えを固く守っていると述べられている「昔の人」という言葉は、presbyteroi (長老) というギリシャ語の邦訳で、ユダヤ社会の指導層を形成していた長老たちを指していると思います。ファリサイ派はその長老たちの間で代々言い伝えられている様々の細かい社会的規定も、モーセの掟と同様に順守し尊重して、それを人々にも守らせていたようです。彼らの言う「汚れた手で」という邦訳の「汚れた (koinais)」というギリシャ語は、「公の」「共通の」などを意味する言葉ですが、宗教的清さを重視していたユダヤ社会では、「世俗的な」「穢れている」という意味のターメーというヘブライ語の訳語として使われていたようです。従って彼らは、ギリシャ・ローマ文化の影響下にある一般社会の空気を吸って来た後には、外的に手が汚れていなくても、まず念入りにその手の宗教的穢れを洗い流してから、食事をしていました。食事の前に手を洗うという行為それ自体は決して悪いものではなく、主も「手を洗うな」とおっしゃっておられるのではありません。私は26年前の1980年9月に、東京のユダヤ教シナゴーグで三日間の研修を受けましたが、その時古い伝統を厳守していると言われる一人のラビ一家が、金曜日の日没時間に食卓上の蝋燭に点火して祈る姿や、食事の前に手際よく手を洗う姿などを見せて戴き、こうして平凡な日常生活の全体をいわば神の御前での祈りのようにしているのに、深い感銘を受けました。平凡な日常行為の中にも心の信仰を美しく表明しようとしていたように見えるその慣習は、私たちの信仰心を育てる真に結構な手段であると思います。
④ 主はその手段そのものを断罪なさったのではないと思います。ただ長老たちの作ったそのような外的手段を絶対視して、もっと大切な神の愛の掟を守ろうとしていない本末転倒を、厳しく退けておられるのだと思います。他宗教とは違う外的手段の厳守には、神の民ユダヤ人だけを特別に神聖視して、他の異教社会を蔑視させるもの、社会と社会、人と人との間に壁を設けるものになる虞があり、全人類の創り主であられる神からのものではありません。ですから主は本日の福音の中で、彼らの心をその本末転倒に目覚めさせるため、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と、ことさら厳しく非難なされたのだと思います。ところで、現代の私たちの信仰生活の中にも、無意識のうちに文化と文化、人と人との間に壁を設ける、そのような神よりのものでないものが隠れてはいないでしょうか。主は私たちにも、そのような心の壁から自由になって、全ての人に対する神の奉仕的精神、神の愛の掟を生活の中心にして生きるよう、望んでおられるのではないでしょうか。他宗教の人たちや信仰のない人たちに対しても大きく開いた温かい心で、神の愛の証しを実践的に示すよう心がけましょう。
⑤ 主は最後に、「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい」とおっしゃって、人を宗教的に穢すものは外からその人の中に入るものではなく、その人の心の中から出て来るものであることを強調し、人の心の中から出て来る12の悪を数え立てておられます。そのうち始めの六つは複数形で表現されていて、外的にも人に損害を与えてしまう悪い行為を指しているようですが、残りの六つは単数形で表現されていますから、これらは少し違って、まだ心の中に隠れている悪い思いを指しているのかも知れません。どちらも人の「心の中から出て来るもの」で、神の御前に私たちの魂を穢す忌まわしい悪だと思います。私たちも自分の心に気をつけましょう。心は神の命の御言葉を宿し育てる苗床であり、畑であると思います。この世にいる間はまだ原罪の根強い毒麦などと戦わなければならない私たちの心の中には、さまざまの雑草も芽を出し、生い茂ろうとするでしょうが、それらを神の御言葉の愛の火によって絶えず駆除し、心を内的に浄化するよう心がけましょう。主は心を穢す悪を数え上げることによって、私たちにも心の浄化を勧めておられるのだと思います。

2009年8月23日日曜日

説教集B年: 2006年8月27日、年間第21主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヨシュア 24: 1~2a, 15~17, 18b. Ⅱ. エフェソ 5: 21~32.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 6: 60~69.


① 本日の第一朗読には、モーセの後を継いで神の民を約束の地に導き入れたヨシュアが、イスラエルの全部族をその約束の地の中心部にあるシケムに集めて、自分たちをエジプトから導き出して下さった神のみに、これからも徹底して仕えるという決断を、彼らから求めています。この決断は、自分の心で自由に決めたものでなければなりません。ですからヨシュアは、「もし主に仕えたくないならば」、「仕えたいと思うものを、今日自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます」と告げています。幸いこの時の民は、「私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です」と答えてヨシュアを安心させ、神の言葉に従って苦労を共にしながら約束の地に入った民が、ここで分裂して神の民の共同体が解消してしまうことはありませんでした。
② ここに「他の神々に仕える」とある言葉は、天地万物の創り主で私たち人間の考えを遥かに超えておられる、神秘で偉大な愛の神に従うことを止め、人間が自分の心の憧れに基づいて産み出した宗教や世界観を、自分の人生の最高基準となすことを意味しています。人類がその幾世代にもわたる無数の失敗・成功体験に基づいて、下から産み出した宗教や世界観が全て根本から間違っていると考えることはできません。人間は誤り易い存在ではありますが、それでも神からの真理を発見し、正しく理解する能力を与えられています。聖書によると、神がその御言葉を発しながらお創りになった天地万物も、ある意味で神の言葉の現われ・啓示であって、声なき声で私たちの心に非常に多くのことを教えています。しかし、世界各地に住み着く程に数多くなった人間が、それぞれ自分の狭い経験や理性に従って自主的に造り出した宗教や世界観を保持するようになりますと、相互に大きく異なる経験や思考に基づいて産み出された宗教や世界観の対立から、社会に様々の誤解や対立・抑圧などが生ずるようになることでしょう。
③ そこで神は、この段階にまで各種の文明文化を発展させて来た人類に、神の霊によって全被造物を一層深く洞察し、神の言葉に従って全てを愛と平和の内に正しく統治させるため、こうして万物の霊長としての人間本来の使命を達成させるため、まず一つの小さな神の民を起こし、やがて神の御言葉が受肉して、神を信ずる全ての人を、神の愛に生きる一つ共同体に発展させるための内的地盤を準備なさいました。この神の民にとって最も大切なことは、自分中心に自分の考えに従って何かをしようとし勝ちであったこれまでの生き方を脱ぎ捨て、神のお考えに従って神に仕えようとする、神の民としての新しい生き方を身につけることだと思います。それでヨシュアは、約束の地に落ち着いた時点で、民にその決意を強く求めたのだと思います。
④ 本日の第二朗読は夫婦の愛について教えていますが、同時に、キリストとその教会、すなわち救い主と新しい神の民との愛の関係についても教えています。キリストは神の民という教会共同体の頭であり、教会を愛し、教会のためにご自身の全てをお与えになったのです。それは「教会を清めて聖なるものとし」、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。「そのように、夫も妻を自分の体のように愛さなくてはなりません」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」のです。「この神秘は偉大です」というのが、夫婦というものについてのその教えの根幹ですが、そこには、「キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭です。教会がキリストに仕えるように、妻も全ての面で夫に仕えるべきです」という教えも記されています。全ての人間の平等、男女の平等という現代社会の通念で生活している人たちにとり、聖書のこのような思想は、女性に不当のしわ寄せをしていた前近代の見苦しい社会的遺物に過ぎず、速やかに排斥して平等な男女関係に改革すべきものと映ずるかも知れません。しかし私は、多くの現代人を躓かせる神よりのこの啓示の中に、夫婦を内的に深く一致させ仕合わせにする神の祝福が、そっと隠されているのではないかと考えます。
⑤ 私は結婚生活というものを体験していませんが、しかし、司祭に叙階されてローマで7年間留学していた時、満2年経った後に教皇庁からイタリア語で聴罪する免許書をもらい、その後の5年間は、ローマに滞在している間中ほとんど毎日曜・祝日に、神言会本部修道院の近くにある大きなサン・べネデット教会で、2時間ないし3時間も小さな告解場に腰掛けて、多くのイタリア人の告白を聴いていました。御受難会の司祭たちに依頼されて一緒にワゴン車に乗せられ、老人ホームや精神病院で聴罪したことも、一度は四旬節に軍隊で兵隊たちの聴罪をしたこともあります。第二ヴァチカン公会議前後頃のイタリアでは、まだ告解者が非常に多かったので、このようにして数多くの人の告白を聴いている内に、現代の家庭に秘められている様々の問題、夫婦や親子や若い男女の心の悩みについても、あるいは老人ホームに入居している人たちの悩みなどについても、新しく学ぶことが少なくありませんでした。そういう心の指導体験からも、保守的傾きの強い私は、下から家庭を、また社会を内的に支え一致させて行くところに、女性は優れた能力や使命を神から戴いていると確信しています。神の御前では男も女も人間として平等ですが、女性は下から家庭を、また社会や教会を産み出し育てるという、特別の使命を神から授かっているのではないでしょうか。聖母マリアは、その模範を見事に体現しておられると存じます。ある人はヴァイオリンを持つ左手を女性に、弦を持つ右手を男性に譬えていますが、美しい音楽を奏でるためには、上にある右手ばかりでなく、下にある左手も大きな働きをしているのです。ただし、男性がその機能を十分に果たせないような異常事態になった時には、女性が男性に代ってその機能を立派に果たすことも起こり得ます。未曾有の異変が頻発する現代世界は、あるいは半分そのような異常事態に突入しているのかも知れません。しかし、それは神が初めに意図された本来あるべき正常の状態ではないと考えます。
⑥ 私がヨーロッパ留学から帰国して20年以上も経った1990年前後頃に、昨年他界したすぐ上の兄の家に宿泊すると、兄嫁から度々兄に対する心の不満を聴かされました。家族が全員カトリックで、その生活には何も問題がないのですが、60歳代の女性の心には、男性の心を独占し支配しようとする欲求が強まる時期があるようで、夫の結婚前の他の女性との関係が赦せずに悩んでいました。私は兄嫁の不満を温かく聴いてあげるだけで、兄を弁護するようなことは何一つ言わずにいましたが、2, 3年後に再び訪れた時には、兄嫁が兄を心から赦す気になっており、また兄に心から深く感謝していて、それからの二人の老後は本当に仕合わせそうでした。私たちは皆欠点多い人間ですが、相手のマイナス面を詮索したり責めたりせずに、真実は謎に包まれたままであっても、そのマイナスを自分も黙々と背負って相手を心から寛大に赦す、春の太陽のような神の愛に生きること、それが家庭や社会に神の祝福を齎すのではないでしょうか。相手の覆いを剥ぎ取ろうとする、冬の北風のような冷たい理屈や原理主義が心の中で暴れないよう、気をつけましょう。どんな恨みごとも寛大に赦し、感謝する心、それが私たちの人生に神の祝福を招くのです。私は兄嫁の心の変化から、そのようなことを学びました。
⑦ 本日の福音は、パンの奇跡を目撃したユダヤ人たちに対する主の話の最後の部分ですが、冒頭に述べられているように、主の話を聞いていた多くの人たちは、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」とつぶやいています。それは、主に対して初めから否定的批判的であったユダヤ人たちのつぶやきではなく、むしろ主を信じ、主に従って行こうとしていた人々のつぶやきであったと思われます。いったい彼らは、主の話のどこに躓いたのでしょうか。「実にひどい話だ」というつぶやきの直前に、主は「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物、云々」と話しておられますから、この話に躓いたのではないでしょうか。主はそれに対して、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、命である。云々」と、なおも彼らの心を、深い神秘へと導き入れようとするようなお言葉を話されました。今の自分には理解できなくても、神よりの言葉には徹底的に従おうとする、素直な僕・婢のような信仰の心をお求めになったのだと思います。「肉」と表現されているのは、物質的な肉のことではなく、旧約聖書にもよく登場する、人間存在や人間の全体を意味する時の「肉」だと思いますが、ここでは更に、罪に汚れた人間の理知的で自己中心の考えや心をも意味していると思われます。罪によって天上からの霊的照らしを失い、半分霧に閉ざされているような心で、天から降って来られた神の子の言葉を解釈しようとしても、それはいたずらに自分の誤解や謎を勝手に深めるだけで、何の役にも立たない。自己中心のそんな心から脱皮して、まず幼子のように素直に主のお言葉を受け入れ、それを保持し尊重しようとするならば、その言葉に込められている神の霊や命が心の中に根を張り芽を出して、あなた方の心に天上の真理を悟らせ、数多くの体験を通して確信させてくれるであろうというのが、それらのお言葉に込められた主の御心だと思います。
⑧ 私は主のこういうお言葉に接すると、聖ベルナルドの世にあまり知られていない小冊子『恩寵と意志の自由』の中に読まれる「二つの自由」についての話を思い出します。その一つは、全ての知性的存在が本性的に保持している選択の自由、自己中心に考えて選び取る自由で、この自由は地獄に落ちた悪魔や霊魂たちも永遠に失わず、全く自由に神と人間を憎み、一切の和解を拒み続けていると考えられています。もう一つは、全被造物の中のごく小さな一部分でしかない自分を中心にした生き方、考え方から脱皮して、相手に自分を与え、自分を委ねて共に生きようとする愛の自由です。これは、放蕩息子の譬え話にも描かれているような神の愛の自由であり、互いに愛し合っている親子や男女の間でも見られますが、私たちもこのような神の愛の自由を体得しない限り、天の国には入れてもらえないと思います。
⑨ ここでもう一つ、「信仰」ということについても考えてみましょう。私たちはよく、自分の経験や理性に基づいて、これは信じられる、それは信じられないなどと言いますが、それは自分の理解を中心にして「本当だと思う」というだけの、いわば「頭の信仰」、あるいは「肉」の信仰でしかなく、神が私たちから求めておられる愛の信仰ではありません。そういう「頭の信仰」は、地獄に落ちた悪魔や霊魂たちも持っています。この世の私たちの想像を絶するほど苦しめられているでしょうから、神の存在も全能も確信していることでしょう。聖書の原語であるギリシャ語の pistis (信仰) は、信頼という意味の言葉で、これは知性的な理解の能力ではなく、実践によってだんだんと磨き上げるべき意志的な心の能力、愛の能力を指しています。例えば、水に身を任せて泳ぐ能力や、自転車に身を任せて乗り回す能力などは、いずれも心の能力だと思います。自分の頭ではよく判らなくても、心で神の導きや働きを痛感し、神の霊に信頼して生きるのがキリスト者の信仰であります。教会はそれをラテン語では、単に神を信ずる (credo Deum) ではなく、credo in Deum (英語ではI believe in God) と、in という前置詞を補って表現しています。ペトロは、つぶやくユダヤ人たちに対する主の神秘な話を、まだ頭では理解できなかったでしょうが、日頃主と生活を共にしていて神の不思議な働きを幾度も体験し、自分の心の中に育って来た意志的信頼心から、本日の福音にありますように、「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じまた知っています」と宣言し、主の御許に留まり続けました。私たちも、このような心の意志的信頼を実践的に養い育て上げつつ、あくまでも神信仰に留まり続け、日々神と共に生きるよう努めましょう。