2009年10月25日日曜日

説教集B年: 2006年10月29日、年間第30主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 31: 7~9.   Ⅱ. ヘブライ 5: 1~6.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 46~52.


① 本日の第一朗読は、旧約の神の民の数々の罪を暴き、嘆きながら神よりの警告を語ることの多かったエレミヤ預言者の言葉からの引用ですが、この預言書の31章は神との新しい契約について予告していて、エレミヤ書の中でも、将来に対する大きな希望を与えている最も喜ばしい箇所だと思います。紀元前10世紀に南北二つの王国に分裂した神の民のうち、北イスラエル王国は紀元前720年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまい、そこに住んでいた住民はアッシリアに強制連行されて、各地に分散させられてしまいました。残酷なアッシリア人によるこの征服と連行の過程で、命を失った者や異教徒になってしまった者たちは多かったと思われますが、しかし、この時アッシリアに連行された人々が皆信仰を失ってしまったのではないようです。
② それから100年余りを経て神の言葉を受けたエレミヤは、ここで信仰を失わずにいるその人々のことを「イスラエルの残りの者たち」と呼んで、その人々を救ってくれるように祈ることを、神から命じられており、そして神は、「見よ、私は彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める」という、嬉しい約束の言葉を話しておられます。「北の国」とあるのは、アッシリアの支配地だと思います。神は更に、「私はイスラエルの父となり、エフライムは私の長子となる」と約束しておられますが、ここで「エフライム」とあるのは、エジプトで宰相となったヨゼフの子の名前で、その子孫である北王国の中心的部族の名でもあり、総じてアッシリアに連行されたイスラエル人たちを指していると思います。彼らも新たに神の子らとされて、メシアによる福音の恵みに浴することを、神が予告しておられるのではないでしょうか。
③ 本日の第二朗読は、神の御独り子がこの世の人間の弱さを身にまとって受肉なされたこと、そして全ての人間の中から選ばれ、民のためにもご自身のためにも、その弱さ故に苦しみつつ罪の贖いの供え物を献げるよう、神から任命されたのであることを教えています。人々のために神に仕えるこの光栄ある大祭司の職務は、自分で獲得するものではなく、神から召されて受けるものであることも説かれています。祭司の職務に限らず、英語では職業のことをヴォケーションと呼んだり、コーリングと呼んだりしていますが、いずれもラテン語あるいは英語の「呼ぶ」という動詞から派生した名詞で、その背後には、神からこの仕事に呼ばれているのだ、という敬虔なカルヴィン派の思想があると思います。昔の日本人も自分のなしている仕事を、天から授けられた使命と考えて「天職」と呼んでいましたが、近年汚職事件が多発しているのを見聞きしますと、現代社会にこのような宗教的職業観を広める必要性を痛感致します。人々の上にそのための照らしの恵みを神に祈るだけではなく、私たち自身も平凡な日常生活の中で、日々そういう職業観や天から見守られているという仕事思想を実践的に体現し、証しするよう心がけましょう。神はそのようにして信仰に生きる人を求めておられ、その人を介して豊かな恵みを現代の人々に注ごうとしておられると信じます。
④ 本日の福音は、主がバルティマイという盲人の目を癒された一つの奇跡物語ですが、マルコは主によるその癒しの奇跡よりも、その前後のバルティマイの言行の方に読者の関心を向けようとしているように見えます。というのは、原文のギリシャ語ではここに二度登場している「道」という言葉に、わざわざ冠詞をつけて「その道」と書いているからです。乞食の盲人はまず「その道の傍らに座っていたのです」。ここで「その道」とあるのは、その少し前の文脈を読んでみますと、先週の日曜日にも申しましたように、主がエルサレム目指して進んで行かれる道であり、その途上でエルサレムでの受難死を三度目に予告なされた、いわば十字架への道であります。その道の傍らにいる盲人に、主はご自身から言葉をかけるようなことはなさいませんでした。しかし、一行の通り過ぎる物音から、それがナザレのイエスのお通りと聞いて、盲人が「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び始めたのです。多くの人が彼を叱りつけ、黙らせようとしますと、彼はますます「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び続けました。
⑤ それで主は立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。人々が盲人を呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」というと、盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスの御許に来ました。上着を捨てたことは、自分のそれまでの持ち物を捨て、無一物になって主の御許に来たことを意味していると思います。マルコがここで、叫び続けたバルティマイに対する主の方からのお呼びにも、フォーネオーというギリシャ語の動詞を三度も使って、「呼んで来なさい」「呼んで言った」「お呼びだ」などと書いていることも、注目に値します。それは少し力を込めて呼ぶという意味合いの動詞のようですから、マルコによると、主も弟子たちも、少し離れ去った所から大きな声で、バルティマイをお呼びになったのではないでしょうか。躍り上がって御許に来た盲人に、主が「何をして欲しいのか」とお尋ねになると、「ラビ、目が見えるように」と答えたので、主はすぐに癒し、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われました。ギリシャ語原文によりますと、その人は「その道を彼 (すなわち主) に従った」と続いていて、マルコはここでも冠詞をつけ「その道」と書いています。エルサレムを間近にした最後の旅の途中でなされた盲人の癒しというこの奇跡を、主が、ご自身の受難死に対する弟子たちの心の盲目の癒しのため、という願いを込めてなされたかのように。
⑥ 余談になりますが、私は先週の月曜日に三ケ日から帰った後、午後に西日本の老人修道女ばかりのようなある修道院で、皆の生活を統括する世話をしている私よりも年上の修道女から、名古屋駅でゆっくりとその苦労話を聴き、その相談に乗る機会に恵まれました。その人の話によると、それまで何十年間も人並みに大過なく修道生活を続けて来た人なのに、年老いてから急に妬み深くなり、修友たちを困らすようなことを言ったりしたりする人もいるのだそうです。それはそれ程驚くほどのことではありません。人間は面白いもので、どんな人にも「善悪二つの心」「二つの顔」などと言われるものがあります。人の心の中には、男性的と女性的との二つの要素がちょうど夫婦のように連れ立って存在しているのではないでしょうか。両者が互いに助け合い補い合って平和に協調している心は仕合せだと思いますが、片方だけが長年上に立ってワンマン的に振舞い、外の人に善い顔を見せようと一生懸命になっていると、その陰にあるもう一つの心が抑圧され続けて、気晴らしする機会にも恵まれず、心の奥底に深く根を伸ばし、欲求不満で反抗に傾き、強くなっていることがあり得ます。こうして二つの心の間に適度の交流がないまま、一つの理念だけで生きていますと、年老いたり、あるいは何かのことで落胆したりしてこれまで上に立っていた心の抑圧が弱まった時、抑圧され続けて来たもう一つの心が表面に躍り出て、憂さ晴らしのようなことを始めるのではないでしょうか。それで私はその修道女に、そういう言動を示す人には、まともに付き合わずに、少し距離を置いてでも良いですから、心配せずにあくまでも温かく親切にしていて下さい、そしてその人の心の奥には、もう一つの善い心が潜んでいて、自分のわがままな言行について詫びたり、悔い改めてもっと強くなろうとしたりしていることを信じ、その善い心の方に眼をかけていて下さい、と勧めました。
⑦ このような二つの心の葛藤は、聖人たちであっても多かれ少なかれ体験していると思います。使徒パウロも、ローマ書7章の後半に、自分の心の中でのそのような葛藤体験について述懐しています。「私は内なる人に従って神の律法を喜んでいますが、しかし、私の五体の中には別のノモス (原理) もあって、…それが私をとりこにしていることが分ります」などと書いていますから。私たちも、自分の内にある二つの心、二つの顔というものに常々配慮し、心のこの裏表二つの側面が相互によく話し合いながら、バランスよく生きるように、そしてやがては二つの顔がどちらも、それぞれ主キリストにおいて互いによく似た美しい顔になるよう心がけましょう。聖人たちは皆その内的平和協調に努めていたので、やがてはいつどの角度から見られても、いつも同じ一つの優しい顔に見えていたように思います。これが、心の奥にいつまでもストレスを蓄積することのない、最も仕合せな生き方だと信じます。私たち各人の上にその恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年10月18日日曜日

説教集B年: 2006年10月22日、年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 53: 10~11.   Ⅱ. ヘブライ 4: 14~16.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 35~45.


① 今日の日曜日は「世界宣教の日」とされていますので、現教皇のこの日に宛てたメッセージにもありますように、世界中の宣教師たちが人々の心を神の愛で「燃え上がらせる」よう、聖霊の恵みを願い求める意向で、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。ごいっしょにお祈り下さい。
② 本日の第一朗読であるイザヤ書53章は、「主の僕の歌」または「苦難の僕の歌」と言われており、その僕が誰を指しているかについて、ユダヤ教ではバビロン捕囚のイスラエルの民を指すと解釈しています。その子孫であるユダヤ人も、エルサレム滅亡後の2千年近い歴史を振り返ると、世界の各地で繰り返しひどい差別扱いや迫害を受けていて、まさに「苦難の僕」のような歴史を営んで来ているように思います。しかし、キリスト教ではその僕を主イエスご自身と受け止めており、イザヤ預言者は、主の受難死を数百年も前にはっきりと予見し、見たままに予言したのだと思います。実際、この53章に描かれている苦難は、四福音書の主の受難記と照合すると、よく適合しているように思われるからです。本日の朗読箇所にあるように、主イエスは「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を背負った」のであり、神のお望みに従って打ち砕かれ、「自らを償いの献げ物とした」のです。
③ 本日の第二朗読であるヘブライ書は、かつて律法学者でもあった使徒パウロが、ユダヤ人宛てに書いたものと考えられていた時代もありました。3世紀のアレクサンドリアの聖クレメンスがそのように考え、パウロが自分の名をつけなかったのは、自分に対して強い反感を抱いているユダヤ人がいたからであろう、と推察しているからです。しかし、聖書の研究が進むにつれ、ヘブライ書はパウロの作ではないと考えられるようになりました。すでに16世紀のルッターが、旧約聖書に基づく論証のやり方や力強い筆致などからの推察でしょうか、『使徒の宣教』やコリント前書に登場するアポロの作と考えたそうですが、近年の聖書学者たちは、パウロたちの没後、エルサレム神殿も破壊されて無く、絶対的権威であった旧約聖書をどう理解したらよいかに迷って、心を大きく動揺させていたユダヤ人キリスト者たちに宛てた、1世紀末葉の誰かの作と考えています。本書が「神殿」という言葉を避け、祭司たちが神を礼拝した場を一貫して「幕屋」と記していることも、注目に値します。エルサレム神殿が無くなって動揺している人々の心を鎮めるために書かれたからではないでしょうか。
④ 旧約聖書の多くの話がメシアの到来を約束しており、その約束通りにナザレのイエスが生活なされたことを説明した後の、一つの結びである本日の朗読箇所では、偉大な大祭司、神の子イエスによって神の憐れみと恵みを受ける道が開かれたのですから、「大胆に恵みの座に近づこう」という呼びかけがなされています。この大祭司は私たちの弱さを共に苦しむことのできない方ではなく、罪を別にすれば、全てについて私たちと同様に試練に遭われた方なのです。しかし、自分中心に考える自然理性に従って大胆に神の恵みの座に近づこうとしても、失敗し挫折すると思います。それは、先週の日曜日にも話した、この世の文明文化を大きく発展させたギリシャ人の智恵ではありますが、神に近づくのには、それだけでは足りません。心に神から授かった信仰を基盤として考えるという、もう一つのもっと大切な智恵が絶対に必要なのです。ですから本日の朗読箇所にも、「私たちが公に表明している信仰をしっかりと保とうではありませんか」という呼びかけが、先になされているのです。私は大学でキリスト教思想を教えていた時、理知的な自然理性だけで考えるのを「頭で考える」、心に授かった信仰に基づいて考えるのを「心で考える」と表現していましたが、聖母マリアも主イエスも、現実生活に対処して、いつも神に心の眼を向けながら心で考え、心を込めて祈っておられたのではないか、とお察し申し上げています。それが、『智恵の書』が力説している、神よりの智恵に生きる道だと思います。私たちもその道を通って、大胆に神の恵みの座に近づくよう心がけましょう。
⑤ 本日の福音のすぐ前のパラグラフには、イエスが先頭に立ってエルサレムへと進まれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れを抱いた、とあります。エルサレムではユダヤ人指導層がイエスを捕らえて殺そうとしていたからです。そこで主は12使徒たちをそばに呼び寄せて、第三番目の受難予告をなさいました。弟子たちはその話をまだよく理解できなかったようですが、でもいよいよ主の身の上に何か決定的な出来事が迫って来ているようだ、しかし、主が最後にいつも、「三日の後に復活する」という予言を添えておられることから察すると、ユダヤ人指導層との戦いで、主は死んでも間もなく復活して最後の勝利を獲得し、ユダヤは力強いメシアが支配する王国になるのかも知れないなどと、一部の使徒たちは、主の予言の言葉をそのように受け止めたのかも知れません。そこで、本日の福音にあるゼベダイの子ヤコブとヨハネは、他の弟子たちに先駆けて主に近づき、「あなたが栄光を得られた時」一人は右に、一人は左に座らせて下さいという、大胆な願いを申し上げたのだと思います。マタイ福音書には、二人は一行に伴って来ていた母と一緒に主に近づいてひれ伏し、母の願いという形で、主に願い出たように記されています。手柄を競い合っていたと思われる他の弟子たちに配慮して、そのようにしたのかも知れません。
⑥ 主はその二人に、「あなた方は自分が何を願っているか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」と、お尋ねになります。これまで目撃した数々の奇跡から主の勝利を確信していたと思われる二人は、すぐに「できます」と答えましたが、主は「確かに、あなた方は私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになるが、しかし、私の右や左に誰が座るかは、私の決めることではない」とお答えになって、彼らの願いを退けられます。この場面を傍らで見ていた他の10人の使徒たちが、後で二人に立腹したことは、想像するに難くありません。そこで主は、彼らを呼び集めて、次のように諭されました。「あなたたちも知っているように、異邦人の支配者と見做されている者たちは民を(上から)支配し、尊大な者たちは権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は皆の奴隷になりなさい。なぜなら、人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また自分の命を多くの人の身代金として献げるために来たのだから。」
⑦ 将来の教会の中核を構成するために選出された使徒たちへのこのお言葉から考えますと、神によって呼び集められ、主キリストを頭とする一つ共同体となる教会は、一般社会の政治組織や営利団体などとは異質の、いわば家族的奉仕的な愛の共同体であり、一つの有機的からだなのです。その中核をなす使徒とその後継者たちは、教会の頭であられる主キリストを体現し、キリストのように自分を多くの人の罪を背負う「神の僕」となし、自分を人々の罪を償う献げ物としなさいというのが、主の教えであるように思われます。ちょうど病気の子供たちを何人も抱えた親たちが、一家の将来を担うその子らに対する愛ゆえに、身を粉にして働いたり世話したりするように、神の愛の大きな家族的共同体の指導者たちも、神から自分に委ねられた人たちの世話に挺身しなければならないのだと思います。イザヤ書53章に「自らを償いの献げ物とした」とある言葉を、主はここで「自分の命を多くの人の身代金として献げる」と言い替えて話されたのだと思われますが、身代金は、当時は戦争の捕虜や奴隷などを釈放させるために支払われた金を指していました。教会の聖役者たちも、皆に仕えるために神から召された存在であり、主に倣って自分の命を人々の身代金となす覚悟も持っていなければならない、と主は今も私たちに説いておられるように思われます。主が創立なされた教会は、ギリシャ的智恵が主導権を持つこの世の国家や市民団体、あるいは会社などの営利団体とは本質的に異なる、神の愛の共同体であることを、しっかりと心に銘記しながら本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年10月11日日曜日

説教集B年: 2006年10月15日、年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵の書 7: 7~11.   Ⅱ. ヘブライ 4: 12~13.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 17~30.


① 本日の第一朗読である知恵の書は、旧約時代の末期にエジプトで書かれたと考えられます。アレクサンドロス大王の将軍の一人プトレマイオスは、大王の死後エジプトでギリシャ系の王朝を開きますが、圧倒的に多数のエジプト人に対する支配権を確立するためユダヤ人を招いて歓迎し、数多くのユダヤ人をアレクサンドリアやその他の軍事的要所に住まわせました。それで、エジプトのユダヤ人はギリシャ語を話すようになり、紀元前3世紀後半以降には、エジプト生まれのユダヤ人のため、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。これが、Septuaginta (七十人訳) と言われるギリシャ語旧約聖書であります。古代のギリシャ人は智恵を、処世術としても人生観としても大切にしていましたが、紀元前6世紀の頃から、科学が台頭し諸技術が発達する傍ら、知者の思索はより思弁的な方向にも向かうようになり、各種の哲学を産み出すようになりました。智恵がギリシャ人の生活を豊かで安全なものに高め、その文化を美しく幸せなものに発展させたのです。そういうギリシャ文化の中で教養を積んだアレクサンドリアのユダヤ人は、信仰に生きる預言者やダビデ、ソロモンたちの心に授けられた神よりの智恵と、人間の体験と思索に基づくギリシャ的知恵との違いを、次第にはっきりと意識するようになったと思います。そういう問題意識の中で神よりの智恵を讃え教えるために執筆されたのが、この智恵の書だと思います。
② 「私は祈った。すると悟りが与えられ、云々」とあるように、神よりの智恵は、人間の体験や思索に基づくものではなく、神から直接に授けられるものであり、この世の金銀・宝石も、またどんな富も、この神よりの智恵に比べれば「無に等しい」と思われるほど貴重なものであります。しかし、「願うと智恵の霊が訪れた」、「智恵と共にすべての善が、私を訪れた。智恵の手の中には量り難い富がある」などの表現から察しますと、神よりの智恵は、すでに人格化されて描かれています。この書の8章や9章には、「智恵は神と親密に交わっており、…万物の主に愛されている」だの、「(神の) 玉座の傍らに座している」などの表現も読まれます。知恵の書のこういう言葉を読みますと、コリント前書1章後半に使徒パウロが書いている「召された者にとっては、キリストは神の力、神の智恵である」という信仰の地盤は、ギリシャ人の智恵との出会いを契機として、すでに旧約末期からユダヤ人信仰者の間に築かれ始めていたように思われます。
③ 主イエスも、ギリシャ文化が広まりつつあったユダヤで、「天地の主である父よ、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを智恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(マタイ11:25~26) と祈ったり、弟子たちに「どんな反対者も対抗できず、反駁もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束なさったりして、理知的なこの世の知者・賢者に対する批判的なお言葉を幾つも残しておられます。聖書のこの教えに従って、人間のこの世的経験や思索を最高のものとして、神よりの啓示までも人間理性で批判するようなおこがましい態度は固く慎み、聖母マリアの模範に見習って、幼子のように素直に神の智恵、主イエスの命の種を心の畑に受け入れ、その成長をゆっくりと見守りつつ、神の智恵の内に成長するよう心がけましょう。私たちの心は、神より注がれるこの智恵に生かされる信仰実践を積み重ねることによって、神が私たちに伝えようとしておられる信仰の奥義を悟るのであって、その奥義は、人間理性でどれ程細かくキリスト教を研究してその外殻を明らかにしてみても、知り得ないものだと思います。
④ 本日の第二朗読であるヘブライ書では、ちょうど第一朗読の「智恵」のように、「神の言葉」が人格化されています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、…心の思いや考えを見分けることができます」などと述べられていますから。この「神の言葉」も、主イエスを指していると思います。その主は、私たちが日々献げているミサ聖祭の聖体拝領の時、特別に私たち各人の内にお出で下さいます。深い愛と憐れみの御心でお出で下さるのです。主は私たちの心の思いや悩みや望みなどを全て見通しておられる方ですので、くどくどと多く申し上げる必要はありません。全てを主に委ねて、ただ主に対する幼子のように素直な信頼と愛と従順の心を申し上げましょう。主の御言葉の種が、その心にしっかりと根を下ろし、豊かな実を結ぶに到りますように。
⑤ 本日の福音を読むと、いつも懐かしく思い出すエピソードがございます。まだ神学生になって間もない大学一年生の時でしたが、同級の神学生が「なぜ私を善いと言うのか。神お独りの他に善い者はない」という主のお言葉に躓き、これでは自分を善いと言ってはならない、神ではないから、という意味になるのではないか、と言いました。私はそれに答えることができませんでしたが、少し離れた所で私たちの会話を聞いていた指導司祭のトナイク神父がすぐ、「それは、今あなたの前にいるこの私は神ですよ」と、その人に深く考えさせようとなさった主のお言葉なんです、と説明して下さいました。なるほど、こういう謎めいたお言葉の解釈には慎重でなければならないと感心した、今でも忘れ難い思い出の一つです。
⑥ その人は「走り寄り、ひざまずいて尋ねた」のですから、かなり真剣に「永遠の命を受け継ぐ」ための道を求めていたのだと思います。主はそれに対して、「殺すな、姦淫するな、盗むな、奪い取るな、父母を敬え」という、当時のユダヤ人が耳にタコができるほど聞き慣れている、ごく在り来たりの掟を並べて、その道を表現なさいました。それらはいずれも、隣人愛に集約できる掟です。その人は、「先生、そういうことは皆、子供の時から守って来ました」と答え、自分の心はもっと確かな、手ごたえの感じられる道を求めている、という意志表示をしたようです。当時のオリエント地方はある意味で現代によく似た大きな過渡期を迎えていて、それまでの伝統も価値観も根底から揺らぎ崩れつつありましたから、その人の心は自分の受け継いだ財産などにも不安を覚え、何か心を実際に安心させてくれるものを求めていたのかも知れません。そこで主は、その人をしっかりと見つめ、慈しんで、その人の心がまさに手ごたえの感じられるような、一つの新しい道を具体的に教えられました。「行って、持っている物を売って貧しい人たちに与えなさい。あなたは宝を天に持つことになるでしょう。それから来て、私に従いなさい」という道です。
⑦ それは、人間の側では捨て身の大きな決断を必要とする道でしょうが、それだけに、神の大きな祝福をその身に招き、過ぎ去るこの世の富とは比較にならない程の大きな富を天に蓄える道であり、同時に心の欲が産み出して止まない一切の煩わしさから解放されて、心が大きな自由と解放の喜びの内に、身軽に生きるようになる道でもあります。察するに、その人の心はこの世の人生の儚さに悩み、永遠の命に対する憧れを強めていたのだと思います。それで主は、その人の心をその悩みから完全に解放し、喜びをもって自由にのびのびと生きる道をお示しになったのだと思われます。しかし、その人はこの言葉を聞くと忽ち気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいました。「たくさんの財産を持っていたからである」と聖書は説明しています。
⑧ その人が去った後、主は弟子たちを見回しておっしゃいました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。…金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。驚いた弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」と互いに言い合うと、主は彼らを見つめて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とおっしゃいました。日々ラジオやテレビのニュースを聞いていますと、富や金ほど人の心を束縛するものはないという印象を受けますが、実際富には、人の心を束縛する悪魔の力が密かに隠されているのではないでしょうか。その魔力に心が引き込まれることのないよう、清貧の誓願を宣立している私たちも気をつけましょう。自力に頼らず、神に眼を向け神に頼ってこそ、私たちはその魔力に勝つことができるのです。全てを神に献げて身軽になり、神のお導きのままに清貧に生きようとしていることは、心に自由の喜びと神に対する信頼の安らぎを与えてくれる大きな恵みだと思います。この恵みを失うことのないよう、富や金にはくれぐれも警戒していましょう。清貧の誓願を立てても、金銭や電気などの節約を軽視し、贅沢に支出していた修道者が、後年ひどい病気に何年間も苦しめられて死んでいった例や、召命の恵みを失って寂しく暮らすようになった例を、私は幾つも見聞きしていますから。
⑨ ペトロは主のお言葉を聞くと、「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。主は、その言葉を喜ばれたのか、ご自身のためまた福音のために全てを捨てて従う者は誰でも、今のこの世で迫害も受けるが、しかし百倍の報いを受け、後の世では永遠の命を受ける、と確約なさいました。主はこのお言葉を、現代の私たちのためにもおっしゃったのだと信じます。事実、私たち修道者はすでにその百倍の報いを受けつつあるように思いますが、いかがでしょうか。この世で受ける迫害についても覚悟していましょう。私たちには、全能の主ご自身から永遠の命も確約されているのですから、恐れることはありません。全てを捨てて喜んで従う、この大胆な心の若さを失わずいるなら、神が導き働いて下さいます。

2009年10月4日日曜日

説教集B年: 2006年10月8日、年間第27主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 2: 18~24.   Ⅱ. ヘブライ 2: 9~11.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 2~16.


① 私たちは昨年春に小泉首相の靖国神社参拝によって日中・日韓の外交関係が悪化した時から、極東アジア諸国の平和共存のため毎月一回ミサを献げて神の導きと恵みを願い求めています。土曜日に献げることが多いのですが、本日から二日間、安倍晋三新首相が中国と韓国を訪問して外交関係改善のために尽力しますので、本日の日曜ミサは、極東アジア諸国の平和共存のために献げることに致します。ご一緒にお祈り下さい。
② 本日の第一朗読は、神が創造なされた人間の特性について教えています。これは歴史的事実を語った話ではなく、神から示された幻示を描写した一種の神話ですが、そこには神の意図しておられる人間像が示されています。それまでの無数の生き物とは違って、神が「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。そして…全てを支配させよう」とおっしゃってお創りになった人間は、いわば万物の霊長として創造されたのだと思います。ですから神は、それまでの動物たちの場合とは違って、人間の場合には特別に、「その鼻に命の息を吹き入れ」て、「生きる魂」(原文の直訳)となさったのだと思います。
③ 続いて神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を創ろう」とおっしゃいました。このお言葉から察しますと、人間は独りではまだ未完成で、神の御前に立つことも万物を支配することも許されていない、と思われます。神はまず獣や鳥などを次々とその人の前に連れて来て、人が「それをどう呼ぶか見ておられた」とありますが、「呼ぶ」ことは名をつけることで、名づけたものの主人になることを意味していました。こうして人はすべての生き物の主人として振舞うようになりました。しかし、それらの生き物の中には、まだ自分と対等に助け合い愛し合うことのできる者は見つけられませんでした。思うに、神はこのようにしてその人に、対等の話し相手、愛し合う相手がいない時の孤独感を味わわせたのだと思います。
④ それから神は、その人を深い眠りに落として、いわば死の状態にしてから、そのあばら骨の一つで女を創り上げ、眠りから覚めたその人の所へ連れて来ました。すると、その人は「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉」といって喜び、「女と呼ぼう。男から取られたものだから」と言ったとあります。ヘブライ語で女はイシャー、男はイシュと言うそうですから、ヘブライ語の言葉遊びのようにも思いますが、察するにその人には、神が深い眠りの状態にある自分のあばら骨の一つで女を創り上げるのを、幻示で知らされたのではないでしょうか。とにかく神の意図された人間の創造は、こうして男と女が対等に一つの体、一つの共同体となって愛の内に生き始めることによって、一応完成したのだと思います。人間は男も女もそれぞれ孤独の状態で父母から生まれますが、しかし、成長して男と女が愛によって結ばれ、二人が一つの共同体になって初めて、神が初めに意図された人間の状態になるのだと思います。
⑤ では、私たち独身の修道者については、どう考えたらよいのでしょうか。私は、全ての人はキリストの神秘体という、もう一つのもっと大きくてもっと崇高な来世的共同体のメンバーになるようにも召されていて、まだ目には見えませんが、すでにそのメンバーになっている私たち修道者は、全ての人がキリストの愛の内に皆一つの体になって生きる、そういう永遠に続く共同体に召されていることと、過ぎ行くこの世の結婚生活はそのための一つの準備であり、配偶者の不在や死別などで結婚生活ができなくても、信仰と神の愛の生活に励むことにより、神の意図しておられる永遠に続く愛の共同体に入れてもらえることとを、世の人々に証しするために、修道生活を営んでいるのだと考えます。全ての人は、究極においては過ぎ行くこの世の儚い結婚生活のためにではなく、永遠に続くその大きな愛の共同体の中で仕合せに生きるために神から創造されたのであり、これが、神が本来意図しておられる人間像だと思います。この世の結婚者も独身者も、皆その共同体に入るよう召されています。しかし、そのためには各人が神の愛を磨く必要があります。聖ベルナルドが説いた婚約神秘主義は、そのためであったと思います。
⑥ 本日の第二朗読は、多くの人をその来世的愛の共同体の「栄光へと導くために」死んで下さった主イエスについて教えていますが、神が「彼らの救いの導き手 (ギリシャ語原文)」であられるイエスを、「数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、…ふさわしいことであった」とある言葉は、注目に値します。心の奥に生来自分中心の強い傾きをもっている人の多いこの世で、神中心の来世的愛に忠実に生き抜こうとする人は、多くの人の罪を背負って苦しめられることを教えているのではないでしょうか。しかし、その苦しみを通して心は鍛えられて、あの世の栄光の共同体に受け入れられるにふさわしい、完全なものに磨き上げられるのだと思います。私たちの心も、その主イエスと同様に苦しみによって鍛えられることにより、キリストの神秘体の一員として留まり続け、死の苦しみの後に、主と共に栄光の冠を受けるのだと信じます。神のお与えになる苦難を、逃げることのないよう心がけましょう。
⑦ 幼い時から豊かさと便利さの中で育ち、知識と技術を習得して、何でも巧みに利用しながら生きるという習性を身に付けている現代人の間では、50年前100年前に比べて、離婚の数が驚くほど激増していますが、主は本日の福音の中で、創世記の言葉に基づいて夫婦が一体であることと、神が結び合わせて下さったものを人が分離してはならないこととを、強調しておられます。では、すでに離婚してしまい、もう元に戻すことができない状態になっている夫婦は、どうしたら良いのでしょうか。すでに申しましたように、過ぎ行くこの世の人生、この世の結婚生活は究極のものではありませんので、自分のなしてしまった失敗や罪に謙虚に学びつつ、またその重荷を背負いつつ、新たにあの世での仕合せのため希望をもって生きるべきだと思います。神は、この世で失敗を体験したそのような人たちにも、恵み深い方だと信じます。
⑧ 本日の福音の後半には、多忙な主イエスに手を触れて戴くため、幼子たちを連れて来た人々を叱った弟子たちに、主が憤っておられます。そして「神の国はこのような者たちのものである。…子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と教え、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福なさいました。神の国は、人間の功績に対する報酬ではなく、幼子のように素直に受け入れて従う貧しい人や無力な人たちに、無償で与えられる愛と憐れみの恵みであることを、主はこれらの言葉で弟子たちに強調なさったのだと思います。私たちも、神の恵みの器となられた聖母マリアのように、何よりも私たち各人の中での神の働きに信仰と愛と従順の眼差しを向けながら、神の働きに幼子のように素直に従うよう努めましょう。

2009年9月27日日曜日

説教集B年: 2006年10月1日、年間第26主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 11: 25~29.   Ⅱ. ヤコブ 5: 1~6.  
  Ⅲ. マルコ福音 9: 38~43, 45, 47~48.


① 本日の第一朗読の中で、モーセはヨシュアに「私は、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している」という、珍しい話をしています。神の民にして戴いている者たちが皆、預言者のように神の霊によって内面から生かされ、ただ神中心に神のために生きる人、語る人になることを切望しているという意味だと思います。いったいなぜこんな話をしたのかと思い、本日の朗読箇所の少し前の文脈を読んでみますと、同じ11章の前半にモーセは、イスラエルの民が「ああ、肉が食べたい。エジプトではただで魚を食べていた。きゅうりやメロン、ねぎや玉ねぎやにんにくも忘れられない。今では、我々の唾(つば)は干上がり、どこを見回しても、マンナの他には何もない」などと、どこの家族でも泣き言を話し合っているのを聞き、また主なる神が人々のそのつぶやきの声に憤られたので、モーセは主に、「私一人ではこの民すべてを背負うことはできません。私には重過ぎます」と嘆きました。
② それで主は、民の中から長老と認められる者たち70人を神の臨在する幕屋に集めさせ、モーセに授けている霊の一部をその長老たちにも授けて、彼らもモーセと共に民の重荷を背負うことができるようになさいました。モーセと共に神の幕屋の周りに集まった長老たちは、神の霊を受けて一時的ながら預言状態になりましたが、宿営に留まっていた二人の長老もそこで預言状態になったので、モーセの従者ヨシュアがそのことをモーセに知らせて、「止めさせて下さい」と願ったのに対して、モーセが答えた言葉が最初に引用した話です。モーセがどれ程切望しても、神の民の全員が神の霊を受け、預言者的精神で生きることは、実際上期待できないでしょうが、せめて一部の信仰厚い人たちを神の霊による預言者精神で生活させることにより、神はモーセの苦悩を緩和させようとなさったのだと思われます。新約時代の神の民は堅信の秘跡によって神の霊を授かっており、その霊はその秘跡を受けた人々の心の奥底に泉のようになって現存しているのですが、日々その泉の水で生かされ預言者精神で生活している人は少ないようです。神からの召し出しに応じて自分の一生を神に献げて生きることを誓った私たち修道者に、神は「せめてあなた方だけでも」と、主キリストと内的に深く結ばれた預言者精神で生活するよう切望しておられるのではないでしょうか。お告げを受けた時の聖母の「フィアト (成れかし)」の精神を日々自分の内に新たにしながら、聖母マリアと共にできる限り神のご期待に沿うよう努めましょう。
③ 本日の第二朗読は、教会内にもいる利己的蓄財に没頭する信徒たちを厳しく糾弾する使徒ヤコブの書簡からの引用です。一般社会の不信仰者たちに対する非難ではありません。全ての人の救いに奉仕するキリストの愛の実践に励んでいないと、教会内にも貧しい者、弱い者を除け者にする悪習がはびこり得るのです。「あなた方は、この終りの時のために宝を蓄えたのでした」という言葉から察しますと、その金持ちたちは、伝統的な各種団体が統率力を失って内面から瓦解しつつあった、当時の過渡的激動社会を巧みにくぐり抜けて儲けをあげ、不安な終末の時のため備えていたのかも知れません。これまでの社会倫理の基盤が打ち続く激震で液状化現象を起こしているように見える現代世界にも、そのようにして巧みに大儲けをしている成金業者が少なくないことでしょう。しかし、この世の富、この世の生活の安全を第一にして、そのためには他の人たちを搾取することも厭わないその精神や生き方に、ヤコブは非常に厳しいです。万軍の主なる神は、何よりも助けを必要としている小さな者や弱い者たちの嘆きや叫び声に耳を傾けておられ、その人たちの願いに応じて裁きを行おうとしておられるからです。私たちも気をつけましょう。富める人たちや能力ある人たちを優遇して、いつも特別扱いにするような生き方は慎み、何よりも小さな者や弱い者たちの願いを優先しておられる神の御心を、身をもって世に証しするよう心がけましょう。
④ 本日の福音は、前半と後半の二つの話から構成されています。前半は、主が第二の受難予告に続いて弟子たちに話された教えで、弟子たちは自分たちの団体や組織に属していない者たちを敵視したり、除外視したりせずに、主の御名を使って悪霊を追い出したり奇跡をなしたりしているなら「私たちの味方」なのだから、その活動を止めさせたりしないようにと命じておられます。教会内も教会外の世界も極度に多様化しつつある現代においては、この教えは大切だと思います。神の驚くほど多様な働きを原理主義的に一つの体系、一つの組織だけに閉じ込め、独占することのないよう気をつけましょう。私たちはカトリック教会の伝統的慣習や生き方を大切にし、それを将来にも残し伝えようと努めていますが、しかし、全人類の救いを望んでおられる神は、私たちの所だけではなく、キリスト教の伝統を全く知らずに、新しい道で救いをたずね求めている多くの人たちにも、キリストによる救いの恵みを分け与えることがおできになります。事実、その人たちを通して奇跡をなさることもあります。心を大きく開いて、何よりもそういう神の働きにも信仰の眼を向け、その人たちの活動を敵視したり悪く言ったりしないよう気をつけましょう。理知的な人たちは、自分の信ずる理論に対する合理的整合性を重視するあまり、そのようなどっちつかずの生き方を嫌うようですが、しかし、私たちは人間の理論や組織などを遥かに越えておられる、神秘な神の御旨と神の働きに従うよう召されているのですから、原理主義者たちの固い冷たい「石の心」は退け、神の愛の霊によって生かされている柔軟で温かい「肉の心」を持つように心がけたいものです。
⑤ 本日の福音の後半は、主を信じている小さな者の一人をも躓かせないようにという教えですが、主は同時に、そのような小さな者を躓かせてしまう心は私たち各人の中にもあることを明言し、この世中心・人間中心に生きようとするその心を、切り捨ててしまうようお命じになります。私たちには素晴らしい永遠の幸福が約束されているのです。あの世のその幸福への献身的愛の道を妨げるものは容赦なく切り捨てて進む、来世的人間の美しい潔さと勇気とを今の世の人たちに示しつつ、明るい希望のうちに生きるよう努めましょう。神はそのように生きる人たちに時々、挨拶しても見向きもしてくれない冷たい態度の人を派遣なさいます。そのような時、心で自分の言行を弁明したり、その人の心を詮索したり非難したりせずに、すぐに神の現存に心の眼を向けましょう。自分の心を悩ますその人は、神から派遣された恵みの使者なのです。その人を介して私のすぐ近くに来ておられる神に対する畏れの心を新たに致しましょう。まだ神中心に生きようとしていない自分の心の片手、片足、片目を切り捨てさせ、そこに新しい愛の片手、片足、片目を産み出させるために、神は時折愛する子らにそのような試練をお与えになるのです。くよくよ心配せずに、潔く神に全てを献げて古い自分に死に、新しい心に生まれ変わりましょう。そうすれば、自分の心の中に復活の主の力が働いて、失った手も足も目も立派に新しいものに生まれ変わり、その試練が自分にとって大きな恵みであったことも、冷たい態度をとった人がその恵みによって温かい心に変わって行くことも見ることでしょう。

2009年9月20日日曜日

説教集B年: 2006年9月24日、年間第25主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 2: 12, 17~20.   Ⅱ. ヤコブ 3: 16~ 4: 3.  
  Ⅲ. マルコ福音 9: 30~37.


① 本日の第一朗読には、神に逆らう者の言葉として、「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。(中略) 彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう」などとありますが、これらの言葉の背後には、この世的成功や幸せだけを念頭に置いて、自分たちの成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおうとする、この世の人生だけに囚われている視野の狭い人生観があります。神に従う者は、我々のなすことを神の律法に背くこと、神の教えに反することとして非難するが、これまでのところ神は少しも干渉せず、神の子と称する者は神に助けてもらうことなく、貧しく生活しているではないか。彼が本当に神の子なら、神から助けてもらえる筈だが、現実はどうやら違うようだ。暴力と責め苦で彼を苦しめ、試してみようなどと、神に逆らう者たちは、この世の成功や幸せだけを最高の判断基準にして、善悪・真偽を判断しようとしているように見えます。
② 神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、各人は神中心に全ての人、全ての存在が永遠に仕合わせに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いてその人たちの所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時が来るかも知れません。今から覚悟していましょう。
③ 神の啓示に基づいて考えますと、私たちの人生は死によって終わるものではなく、この世は仮の世で、私たちの本当の人生はあの世にあり、人間は本来あの世で永遠に生きるため、神の愛の内に生かされ、神のように自由で仕合せな神の子となって、神によって創られた全てのものを主キリストにおいて統治するために創られているようです。原罪によって誤謬と死の闇が支配するようになったこの苦しみの世に呻吟しながらでも、人間には、その闇と苦しみに鍛えられつつ、神の子の心を目覚めさせて鍛え上げ、あの世の本当の人生に備える恵みが与えられています。あの世中心のこのような人生観・価値観を、私たちの生き方を通して今の世の人々に証しするよう努めましょう。
④ 第二朗読の中でヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、…間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのも、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まず徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。
⑤ パウロがコリント前書15章の後半に書いていることからも明らかなように、私たちのこの世の人生は死によって一旦完全に終わり、あの世の人生はまたゼロから始まるのではありません。ちょうど母の胎内で育った胎児が生れ出るように、あの世の人生はこの世の人生の延長線上にある輝かしい発展であり、死はその新しい人生への門出のトンネルのようなものだと思います。この世の人は死ぬことを「永眠する」などと言いますが、この世にいる時から神の恵みのうちに駆け出していた魂は、死の門を潜り抜けた時から大きく飛躍し、自由に生き始めるのだと思います。アルスの聖司祭ヴィアンネーは、そのような言葉を口にしています。神から啓示されているこの明るい未来像を、いつも心に堅持していましょう。
⑥ 本日の福音は、先週の日曜日の福音であるフィリッポ・カイザリア地方での第一の受難予告に続く、第二の受難予告ですが、ユダヤ人も住んでいてファリサイ派の監視の目が光っているガリラヤを通っていた時になされた話なので、「イエスは人に気づかれるのを好まなかった」という言葉も添え書きされています。外的にはこの世の人生の悲惨な失敗を意味する受難死は、メシアに対する多くの人の期待や希望を根底から覆す出来事であり、主の弟子たちをも絶望のどん底に落としかねない事柄ですので、主はせめて弟子たちの心がその大きな試練の時、一時の絶望的心理状態から立ち直って、あの世中心の新しい人生観・価値観のうちに大きな希望をもって生き始めるようにと願いつつ、予め小刻みに謎のような受難予告を繰り返し、彼らの心に立ち直りのための恵みの種を蒔いておられたのだと思います。主の御後に従って来るよう召されている私たちも、自分の死が差し迫って来た時の苦悩を先取りし、今から自分の心に小刻みにあの世の人生中心の人生観・価値観の種を蒔き、心を準備して置きましょう。死は、多くの人の救いのため、主と一致して神に自分をいけにえとして献げ尽くす、私たちがこの世で為すことのできる最高の業だと思います。逃げ腰にではなく、主の模範に倣って前向きにその価値高い業を成し遂げることができるよう、心を準備していましょう。
⑦ 「人々の手に引き渡される」という受難予告には、パラディドーミという意味の広いギリシャ語の動詞が使われていますが、この動詞は「伝える」「委ねる」「引き渡す」「裏切る」など、様々に邦訳されています。使徒パウロはローマ書8:23に、「その御子をさえ死に渡された」天の御父の愛について語っていますが、その時もこの動詞パラディドーミを使っています。主もこの受難予告の時、天の御父から人々の手に引き渡されるという意味でおっしゃったのかも知れません。私たちも主と一致して、日々自分に与えられる苦しみ、誤解、冷たい無関心や拒絶などの背後に、欠点多いこの世の人の心を見るよりも、私たちに強い愛と期待などの御眼を注いでおられる天の御父の御手を観るように、今から自分の心を訓練していましょう。
⑧ 本日の福音の後半には、「すべての人の後になり、すべての人に仕えなさい」というお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神からこの世に派遣された主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉を心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰も大切に致しましょう。神とのそのような出遭いは、私たちにとって大きな恵みの時でもありますから。

2009年9月18日金曜日

説教集B年: 2006年9月18日、マリア会総会のミサ(東海市で)

朗読聖書: Ⅰ. ローマ 12: 1~2.   Ⅱ. ルカ福音 1: 26~38.  

① ご存じのように、科学技術の急速な発達によって、百年前には考えられなかった程便利で豊かになった現代社会は、その反面、内的地盤の液状化現象による深刻な不安に悩まされつつあります。社会の外的発展に伴うはずの心の教育・心の修練が、大きく立ち遅れているからです。神に導かれ神と共に生きようとしないこれまでの社会の地盤に潜んでいた諸々の悪や弱点が、今や続々と表面に現われ出て、心に対する抑止力を失って来ている無数の人々を介して、テロや殺人、詐欺や飲酒運転、絶望や自殺等々の過激な行動を頻発させているのです。今の社会を恨み、生き甲斐が感じられない程に悩んでいる心を、どれほど理論で説得しようとしても無駄だと思います。心は頭と違って、何よりも現実の体験に注目しているからです。一切のこの世的伝統が液状化現象により内面から弱体化し崩壊しつつある現状では、そのような悩む心に新しい希望を見出させるには、神の愛・神の助けを実際に体験させる必要があります。そこで本日は、アンジェラスの鐘の音で唱えていたカトリックの伝統的「お告げの祈り」について、ご一緒に少し考えてみましょう。
② 終戦直後の昭和23年春に、私が多治見の修道院に入った頃は、修道院の鐘の音が一キロ離れた所でもはっきりと美しく聴き取れるほど、町も静か自然界も美しかったので、私は毎日朝昼晩に鳴らされるこの鐘の音に、懐かしい思い出を幾つも持っています。近年はアンジェラスの鐘の音を聴くことがほとんど無くなりましたが、幸い私が毎週三日間滞在する三ケ日の海の星修道院では、京都の妙心寺にあるキリシタン時代の教会の鐘のような小さな鐘ですが、それでも朝昼晩に鳴らして「お告げの祈り」を唱えています。
③ 皆様お持ちの祈祷書やカトリック手帳などにも載っていますので、皆ご存じの短い祈りですが、前半は三つの部分から成っていて、その第一はマリアが天使のお告げで神の御子懐妊の恵みに浴したことを宣言しています。私はこの最初の祈りを唱える時、それ程大きな恵みについてではなくても、神は今も日々私たちの心に、直接間接に度々呼びかけ、語りかけておられることを思い起こし、目に見えず耳に聞こえないその呼びかけを、心で正しく発見し識別する恵みを、聖母を通して願います。そしてマリアが「私は主の婢です」と答えて承諾する第二の祈りを唱える時には、私も神の御旨中心主義の「僕」の精神で、心が発見した神の呼びかけを全面的に受け入れ、それに従って行動し生活する恵みを、聖母を通して願います。また神の御子の受肉を宣言する第三の祈りを唱える時には、神の御言葉中心に生きようとしている私の心の畑に蒔かれて、既に根を下ろしている御言葉の種に心の眼を向け、いつも心の中での神の現存、神の働きを忘れずに、神に導かれ神と共に生きる恵みを、聖母を通して願います。
④ 日々この祈りを心を込めて唱えていますと、いつの間にか私たちの心は変化して来て、以前には何事にも自分の望み、自分の都合を第一にして判断したり行動したりしていた心が、聖母のように神の僕・婢として、神の御旨を第一にして考え行動するようになって来ます。そして次第に神からの小さな呼びかけを、鋭敏に感知し発見するようになります。これは大きなお恵みだと思います。神はそのような心に、一層しばしば語りかけ、ご自身の小さな器や道具のようにして、護り導き働いて下さるからです。10年ほど前に、自分に対する神の具体的御旨を頭で詮索している信徒から質問されたことがありますが、神の御旨は人間の頭でどれほど考えても、全ての規則や倫理学の本を研究しても判りません。主キリストも聖母も、そんなことはなさいませんでした。日々出会う事物や小さな物事などを介して、何気なくそっと提示される神の導きを鋭敏に感知する心のセンスを磨けば、判るようになるのです。私は30年ほど前から、私に対する神の不思議な導きやご保護を小さな体験を通して知るようになり、日々感謝と喜びのうちに生きるようになりました。そして今も小さな不思議を数多く体験しています。心の信仰は、実生活の中での神の現存・神の助けに関するこういう体験を、小さくても数多く積み重ねることによって、次第に何者をも恐れない逞しいものに成長して来ます。
⑤ 先程の第一朗読の中に、「あなた方はこの世に倣ってはなりません」という使徒パウロの言葉がありましたが、いくら社会的に実績をあげている人であっても、豊かなこの世の人たちの常識に同調して、適度の節制や節電などを軽視して怠り、思う存分豊かに明るく生活していると、いつの間にか健康を害して薬に頼って生活する体になったり、あるいは思わぬ不幸に見舞われたりした人を、私は数多く見聞きして来ました。神はその人たちにも小刻みにいろいろと呼びかけておられるのに、その呼びかけに対する心のセンスに欠けているからだと思います。極度の多様化・流動化の国際的広がりと人々の心の汚染拡大のため、これからの世界には社会組織も宗教組織もこれまで以上に弱まり、社会不安がいや増すかも知れません。社会と共に歩みながらも、社会の流れに身を任せず、各人が自主的に神の導きに根ざして謙虚に清貧に生きるのが、賢明な生き方だと信じます。30年ほど前から東海地震のおそれが叫ばれているのに、まだ自分でできる範囲での災害対策を準備していない人が少なくないと聞きます。「目覚めてあれ、用意してあれ、あなた方はその日その時を知らないのだから」と主も度々話しておられるのに、全てを人任せ社会任せにして自分でできる備えを怠っている人には、神も災害時に厳しいと思います。心にこの恐れと危機感をしっかりと刻み、聖母マリアに倣って神に根ざして生きるよう努めましょう。そのための照らし・導き・助けを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。