2010年9月26日日曜日

説教集C年: 2007年9月30日 (日)、2007年間第26主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 6: 1a, 4~7. Ⅱ. テモテ前 6: 11~16.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 19~31.


① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の中頃に多くの貧民を犠牲にして獲得した富で、贅沢三昧に生活していた神の民、北イスラエル王国の支配者たちに対する、アモス預言者を介して語られた神の警告であります。はじめに「災いだ。シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者たちは」とありますから、神はシオン、すなわちエルサレムにいるユダヤの支配者たちにも、サマリアにいる北王国の支配者たちと同様に厳しい警告の言葉を発せられたのだと思います。これらの警告の20数年後の頃でしょうか、残忍さで著名なアッシリアの襲来で、サマリアの支配者たちは徹底的に滅ぼされ、この時は難を逃れたエルサレムの支配者たちも、その後に興隆したバビロニアの襲来で亡国の憂き目を見るに到りました。過度の豊かさ・便利さ・快楽などは、人間本来の健全な心の感覚を麻痺させ眠らせて、神の指導や警告などを無視させ、怠惰な人間にしてしまう危険があります。人類が未だ嘗て経験したことがない程の大きな豊かさと便利さの中で生活している現代の私たちも、健全な心のセンスを眠らせ麻痺させないよう気をつけましょう。

② 本日の第二朗読は、「神の人よ、あなたは正義、信心、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」という言葉で始まっていますが、このすぐ前の箇所には、宗教を利得の道と考える者たちに対する厳しい非難の言葉が続いていますから、この第二朗読も、金銭欲に負けないために心がけるべきこととして読むこともできます。例えば本日の朗読箇所のすぐ前の9節と10節には、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭欲は、全ての悪の根です。云々」とあります。富と豊かさの礼賛は、心の中に悪霊を招き入れる一種の危険な偶像礼拝だと思います。豊かさの中に生活している私たちも、このことを心に銘記し警戒していましょう。

③ 本日の福音は、先週の日曜日の福音である不正な管理人の譬え話に続いて、主がファリサイ派の人々に語った譬え話ですが、当時のファリサイ派の間では次のような民話が流布していました。ほぼ同じ頃に死んだ貧しい律法学者と金持ちの取税人についての話です。貧しい律法学者は会葬者もなく寂しく葬られたが、金持ちの取税人の葬式は、町全体が仕事を休んで参列するほど盛大であった。しかし、学者の同僚が死後の二人について見た夢によると、学者は泉の水が流れる楽園にいるのに、取税人は川岸に立ちながらも、その水を飲めずに苦しんでいたという話です。察するに、主はよく知られていたこの民話を念頭に置き、そこに新しい意味を付加し、それを新しい形に展開させながら、本日の譬え話を語られたのだと思います。主は以前に、ルカ福音書6章にあるように、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである」、「富んでいるあなた方は不幸である。あなた方はもう慰めを受けている」と話されたことがありますが、この逆転の思想が本日の譬え話の中でも強調されています。

④ しかし、この世で貧しかった者はあの世で豊かになり、この世で豊かに楽しく生活していた者はあの世で貧困で苦しむようになるなどと、あまりにも短絡的にその逆転の思想を受け止めないよう気をつけましょう。この世で貧しく生活していても、その貧しさ故に金銭に対する執着が強くなり、恨み・妬み・万引き・盗み・浪費などでいつも心がいっぱいになっている人や、貧しい人々に対する温かい心に欠けている人もいます。他方、この世の富に豊かであっても、事細かに省エネに心がけ、無駄遣いや過度の贅沢を懸命に避けながら、努めて清貧に生活している人、生活に困っている人たちに対する応分の援助支援に惜しみなく心がけている人もいます。これらのことを総合的に考え合わせますと、本日の譬え話の主眼は、自分の楽しみ、名誉、幸せなどを最高目標にして、そのためにはこの世の物的富ばかりでなく、親も隣人も社会も神も、全てを自分中心に利用しようとする精神で生きているのか、それとも神の愛に生かされて生きること、その御旨に従うことを最高目標にして、そのためには自分の能力も持ち物も全てを惜しみなく提供しようとする精神で生きているのか、と考えさせ反省させる点にあるのではないでしょうか。

⑤ 譬え話に登場している金持ちは、門前の乞食ラザロを見ても自分にとって利用価値のない人間と見下し、時には邪魔者扱いにしていたかも知れません。それが、死んであの世に移り、そのラザロがアブラハムの側にいるのを見ると、自分の苦しみを少しでも和らげるために、また自分の兄弟たちのために、そのラザロを使者として利用しようとしました。死んでもこのような利己主義、あるいは集団的利己主義の精神に執着している限りは、神の国の喜び・仕合せに入れてもらうことはできません。自分中心の精神に死んで、ひたすら他者のために生きようとする神の奉仕的愛の精神に生かされている者だけが入れてもらえる所だからです。察するに乞食のラザロは、死を待つ以外自分では何一つできない絶望的状態に置かれていても、この世の人々の利己的精神の醜さを嫌という程見せ付けられ体験しているだけに、そういう利己主義に対する嫌悪と反発から、ひたすら神の憐れみを祈り求めつつ、自分の苦悩を世の人々のために献げていたのではないでしょうか。苦しむ以外何一つできない状態にあっても、神と人に心を開いているこの精神で日々を過ごしている人には、やがて神の憐れみによって救われ、あの世の永遠に続く仕合わせに入れてもらえるという大きな明るい希望があります。福者マザー・テレサは、そういうラザロのような人たちに神の愛を伝えようと、励んでおられたのだと思います。

⑥ 一番大切なことは、この世の人生行路を歩んでいる間に、自分の魂にまだ残っている利己的精神に打ち勝って、あの世の神の博愛精神を実践的に体得することだと思います。戦後の能力主義一辺倒の教育を受けて、心の教育や宗教教育を受ける機会に恵まれなかった現代日本人の中には、歳が進むにつれて、この世の幸せ中心の従来の能力主義的「追いつけ、追い越せ」教育に疑問を抱き、もっと大らかな心の余裕をもって、相異なる多くの人と共に開いた心で助け合って生きる、新しい道を模索している人たちも少なくないようです。二、三日前のある新聞によると、名古屋市の職員の中で「心の病」を理由にして長期間休養する例が、最近非常に多くなっているそうです。仕事をするための情報技術の能力は優れていても、その地盤をなす心がその根を大きく広げて、必要な力を供給してくれないと、現代の効率主義社会の中では心にストレスが蓄積して、耐えられなくなる人が多くなるのではないでしょうか。私たちの周辺にもいるそういう人たちのため、本当に幸せに生きるための照らしと導きを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年9月19日日曜日

説教集C年: 2007年9月23日 (日)、2007年間第25主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 8: 4~7. Ⅱ. テモテ前 2: 1~8.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 1~13.


① 本日の第二朗読の始めにある勧めは、異教徒たちに大きく心を開いていたパウロの国際的精神の証しであり、現代の私たちにとっても大切だと思います。彼は、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを、全ての人のために捧げなさい。王たちや全ての行政官たちのためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。云々」と書いていますが、キリスト者の中には、自分たちと信仰や考えの異なる異教徒には心を閉ざし、その人たちやその人たちの社会のために祈ることを怠っている人がいるのは、残念なことだと思います。

② 今から70年、80年ほど前の昭和初期に、日本のカトリック信徒たちは、日本社会のためまた天皇陛下のために熱心に祈っていました。歴史の研究をして来た私は、その頃の信徒たちの話をたくさん聞き集めていますし、またその頃のカトリック新聞やその他の定期刊行物にも目を通していますので、このことについて証言したいと思います。70年前の7月に中国との戦争が始まると、カトリック信徒の間には「日本の聖母マリア」と題する、富士山の上に聖母子の姿を配した綺麗な絵を縮小した小さな御絵が普及して、多くの信徒は軍部に牛耳られている日本国の将来のため、特に聖母マリアの取次ぎを熱心に祈っていました。そうしましたら、日中戦争は米英諸国との太平洋戦争にまで進展し、その戦争に負けて、天皇陛下はじめ日本国民は当時の軍部の過激派から解放され、新しい平和日本への道を歩むことができるようになりました。戦時中の学徒動員で、軍需工場に働いていて終戦を迎えた私は、少し後では、あの絶望的な戦争に負けて本当に良かったと思うようになりました。

③ ところで今から50数年前、私がまだ南山大学の学生であった頃、一部の古いカトリック信徒たちの間で、この太平洋戦争は聖母マリア様の特別の執り成しによって導かれ、日本の国を新しく生まれ変わらせるための、ある意味では神からのお恵みだったのではなかろうか、などとささやかれていました。というのは、日本国にとっては、いずれも聖母マリアの大きな祝日である12月8日に始まり、8月15日に終わって、1951年の9月8日にサンフランシスコで講和条約が調印されたからでした。その後の日本社会の動きを見ても、戦後の日本は、戦前とは比較できない程の大きな自由と経済的豊かさを享受していると思います。それを思うと、数多くの犠牲を出した太平洋戦争でしたが、今の日本の繁栄はその犠牲の上に築かれた神よりの恵みであると、感謝のうちに受け止めることもできると思います。

④ 現代の人類世界は手段選ばずのテロ攻撃に脅かされていますが、これも、単に怒りと嘆きのうちに消極的に成り行きを見守るのではなく、70年前ごろの日本のカトリック信徒たちのように、今こそ聖母マリアの執り成しを願うべき時と考え、神の働きに対する信頼と希望をもって祈り続けているなら、数々の犠牲の上に神の働きによってこれまで以上の平和で自由な人類社会が新たに生まれることを、期待してよいのではないでしょうか。自分個人の救いと幸せのためばかりでなく、広く人類社会全体のため、すべての人のため、また特に政治家・指導者たちのために、聖母マリアと共に希望をもって、神の御憐れみを願い求め続けましょう。

⑤ 本日の福音は、先週の日曜日の福音であったなくした銀貨や放蕩息子の譬え話のすぐ後に続く譬え話ですが、なぜか「その時イエスは弟子たちに言われた」という導入の言葉で始まっています。しかし、先週の日曜福音の譬え話はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られた話とされていますし、本日の福音のすぐ後の14節には、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」とありますから、本日の福音の譬え話はファリサイ派の人々にも語られたのだと思われます。キリスト時代のユダヤ社会では、律法上では金や物品を貸してもその利息を取ることが禁じられていましたが、実際には様々なこじつけ理由で利息が取られていたと考えられています。本日の譬え話に登場する不正な管理人は、事によると日ごろから主人からの借りを返却してもらう段階で、その量をごまかして差額を着服したり、借り主に与えて友人を作ったりしていたのかも知れません。現代でも管理人任せにしてチェック体制を確立していない所では、密かに似たようなごまかしや着服が横行しているかも知れません。2千年前のオリエント世界よりも大きな過渡期に直面している今の世界でも、心の教育が不十分なための「誤魔化し人間」が少なくありませんから。主がこの話を直接ファリサイ派に向けて話されず、むしろ弟子たちに向けて話されたのは、その危険性が新約の神の民にもあることを、弟子たちによく理解させるためであったと思われます。

⑥ この譬え話の末尾に、主人が不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふるまっている」と話していることは、注目に値します。私は勝手ながら、主キリストはこの「光の子ら」という言葉で、暗にその場にいたファリサイ派の人々を指しておられたのではないか、と考えます。彼らは競って律法を忠実に守ることにより、この世においてもあの世に行っても神の恵みを豊かに得ようと努めており、自分の生活を光の中で眺めていて、律法を知らず忠実に守ろうと努めていないこの世の子らを、闇の中にいる者たちとして批判し、神に呪われた罪人たちとして断罪していました。彼らは、その罪人たちに背負わせている重荷を少しでも軽くしてあげよう、助けてあげようとして指一本も貸そうとせず、罪人たちの心の穢れに感染しないよう距離を保ちながら、ただ批判し軽蔑するだけだったようです。それで、彼らから遠ざけられ軽蔑されていたこの世の子らは、年老いて今携わっている仕事や生活から離れる時のため、せめて自分の仲間たちに対しては親切と奉仕に努めて、孤立無援の状態に陥った時に助けてもらおうなどと考えていたのではないでしょうか。

⑦ 主はこの譬え話で、たとえ律法上では不正にまみれた富であっても、神から委託されているその富を人助けに積極的に使って友達を作るなら、愛の実践を何よりも評価なされる神はその実践的努力を嘉し、その人たちを永遠の住まいに迎え入れて下さると教えておられるように思います。本日の第一朗読の中で、アモス預言者は、「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」という呼びかけに続いて、貧しい農民に対する支配階級の搾取を列挙し、最後に、「私は、彼らが行った全てのことをいつまでも忘れない」という、神の厳しいお言葉を伝えています。神の摂理によって豊かな富に恵まれている者たちは、それだけ多く貧しい人たちへの奉仕に配慮しなければならないと存じます。

⑧ 実は私たちも、神から日々非常にたくさんのお恵みを頂戴しています。この世の命も健康も、日光も空気も水も、日々の食物も聖書の教えも洗礼も、全ては直接間接に神よりのお恵みであり、委託物であります。私たちはそれらを人助けに積極的に利用しているでしょうか。自分を光の中において眺め、この罪の世の社会やその中で苦悩している人々のためには別に何もしなくても、天国に入れてもらえる「神の子」の身分なのだなどと、慢心を起こさないよう気をつけましょう。私たちに委託されている数々の内的外的富や、神の導き・啓示などを最大限に利用しながら、この世の社会や人々のためにも、せめて祈りによって積極的に奉仕するよう励みましょう。そのように心がける人たちだけが、神に忠実に生きようとしている「神の子ら」であり、そうでない人たちは、神よりも富(マンモン) に仕えようとしているのではないでしょうか。ここで「富」というのは、物質的富だけでなく、ファリサイ派が大切にしていたこの世での自分の地位、名誉などをも指していると思います。それらを神よりも崇めている人たちは、神から一種の偶像礼拝者と見做されると思います。私たちも神の御前で謙虚に反省し、神よりの委託物をより忠実に利用するよう、決心を新たに致しましょう。

2010年9月12日日曜日

説教集C年: 2007年9月16日 (日)、2007年間第24主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 32: 7~11, 13~14. Ⅱ. テモテ前 1: 12~17. Ⅲ. ルカ福音書 15: 1~32.

① 本日の第一朗読の話を読んで、ふと2世紀の古代教父聖エイレナイオスの「人祖はその幼児性の故に罪に落ちた」という言葉を思い出しました。聖人の言う「幼児性(子供っぽさ)」は、心の幼児性を指しています。外的に体も理知的な頭の働きも一人前の大人であっても、内的には自分の身の回りにあるこの世のこと、今目前にあることにしか関心がなく、何事も自分中心に「今の自分にとって」という立場から価値評価してしまう、そして自分の欲求をコントロールすることのできない人が、今の時代にも少なくありません。それが、エイレナイオスの言う「幼児性」だと思います。

② 私たちは時々、生まれてから一歳半くらいまでの幼子の目の美しさや従う態度の素直さに感心することがありますが、人間は皆、心の奥底にそういう美しい素直な命を神からいただいているのではないでしょうか。それが、神が本来意図してお創りになった人間の心だと思います。しかし、人祖が神の掟に背く罪を犯した時からその心にもう一つ、何でも自分中心に評価し、自分の欲のままに利用しようとする根強い利己的毒麦の種が芽を出すようになりました。この毒麦が私たちの心の美しさや素直さを台無しにして、事ある毎に自分の心の中でも、神や人との関係においても、無意識の内に対立や争いを造り出して、私たちのこの世の人生を複雑で悩ましいものにしています。

③ 私の観察した所では、人間の心には一歳半頃から利己的幼児性の雑草がそっと芽を出し始めるようです。そこで私は30数年前から20年前頃にかけて、親族や知人の二歳、三歳ぐらいの幼児がそのような雑草の芽を露骨に現した時、その親たちの了解を得てその子の手の甲をパチンと叩いて叱り、泣かせることによりその子のもう一つの善い心の働きを目覚めさせたことが数回あります。それからその子の善い心を愛撫し励ますようにしますと、不思議なほど子供の態度は良くなります。このような幼心の教育、躾の訓練を怠り、ただ可愛がるだけ、理知的な頭の能力を伸ばしてやろうと努めているだけに努めていますと、利己主義の根強い毒麦に勝てずにいる子供の心は、心の欲求を統御する力に不足して苦しむことが多くなり、長じて自分の心の中の矛盾・対立にも苦しみ始めるようになります。そして育ての親の権威や愛に対する心の感覚が失われて、親に対しても冷たく逆らったりします。心の教育には、冬の厳しさと春の温かさとの両方が必要で、この二つがバランスよく提供される時に、心は数々の美しい花の芽を伸ばし始めるのではないでしょうか。まだ柔らかくて素直な二歳、三歳頃の心が、そういう躾を一番必要としている時だと思います。

④ 心の幼児性・心の毒麦性は現代に始まった問題ではなく、何時の時代にもあった問題であり、特に出エジプトの時代や2千年前のキリスト時代など、社会や民族の大きな過渡期には激しく表面化して多くの人を苦しめた問題でした。第一朗読からも明らかなように、神はそのような「大人の心の幼児性」に厳しいです。厳しく対処して、せめてまだ残っている健全な心を目覚めさせようとなさるのだと思います。モーセは、一方ではその神のお怒りをなだめ、他方では自分が神に代って裏切りの罪を犯した民に厳しい態度をとり、神に忠実に従わせようとしました。これが、言わば私たちの心の中での良心の働きだと思います。主イエスの「毒麦の譬え話」の中で、主人が毒麦の根を全部抜き取ることに反対したのは、毒麦と共存してその働きと絶えず戦うことによって、良い麦が一層豊かな実を結ぶようになるからではないでしょうか。

⑤ 本日の第二朗読には、若い時にファリサイ派の律法学者になり、不動の律法に対する原理主義的忠実心に駆られてキリスト者たちを迫害したことのある使徒パウロの言葉が読まれます。「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」という彼の言葉から察すると、復活なされた主イエスは、現代人の心の幼児性や偏った原理主義の熱心さなどに対しても、限りない忍耐をもって、その人たちの改心を待っておられるのではないでしょうか。私たちもその主の限りない憐れみと忍耐の聖心に眼を向けつつ、あくまでも忍耐強く、心の幼児性に振り回され勝ちな現代の悩む人たちに伴い続けましょう。

⑥ 本日の福音に登場するファリサイ派の人々や律法学者たちは、この世の理知的知恵を駆使してユダヤ教内に社会的地位を築いている人たちで、自分たちの律法解釈や価値観に従おうとしない人々を罪人として軽視し抑圧していました。主はしかし、人間中心のそういう利己的律法解釈で自分を義人と思っている人々の中にこそ、神が最も忌み嫌われる「大人の幼児性」を見抜いておられたようです。そして彼らから罪人として社会的に軽蔑され抑圧されている人たちの心の中にこそ、社会的孤独の苦しみによって漸く人間本来の真心に目覚め始め、これまでの生き方を悔い改めて救いを求めようとしているもがきを洞察なされて、その人たちの所に、神による救いの恵みを届けようとなさったのだと思います。主が語られた本日の福音の譬え話は、そのような悔い改めを神がどれ程待ち望んでおられ、また喜ばれるかを示しています。福音の後半はいわゆる「放蕩息子の譬え話」ですが、時間の都合上ここでは「なくした銀貨の譬え話」についてだけ、考えてみましょう。

⑦ 当時の貧しい人々の間では価値の高いドラクメ銀貨は、現代にすれば大工さんや技術者の一日の日当に相当する程の銀貨ですが、もしもその銀貨に心があるとすれば、夜に転げ落ちて家具の後ろの暗いゴミの中にまぎれ込んでいた時は、自分がどれ程価値の高いものであるかを知らず、自分の存在に生きがいも感ぜられずに、ただ諦めて何もせずに淋しくしているだけだったでしょう。しかし、ともし火をつけて発見され、人々の手に取り上げられて大いに喜ばれた時には、どれ程嬉しかったか知りません。ゴミを吹き払われて温かい手にもまれた自分の体も、光を受けて銀色に美しく輝くのに驚いたことでしょう。この罪の世の穢れにどれほど汚れた罪人であっても、悔い改めて神の恵みの手に拾い上げられた時には、同様の大きな喜びに満たされ、新たな輝かしい生きがいを見つけるのではないでしょうか。福者マザー・テレサは、一人でも多くの孤独な人たちにそのような喜びを味わわせたいと活躍しておられました。世知辛いわが国の社会生活に失敗し、深い挫折感のうちにホームレスになっている人々の中にも、そのような「なくした銀貨」が少なからずいるように思いますが、いかがなものでしょう。そういう人たちに対して温かい眼を注ぎ、大きなことはできなくても、福者マザー・テレサの御精神に心を合わせてその人たちの幸せのため、せめて祈ることを忘れないよう、心がけましょう。

2010年9月5日日曜日

説教集C年: 2007年9月9日 (日)、2007年間第23主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. 智恵 9: 13~18. Ⅱ. フィレモン 9b~10, 12~17.
     Ⅲ. ルカ福音書 14: 25~35.


① 古代ギリシャでは紀元前6世紀頃から、生活に余裕のある知者たちが世界や人間や人生などについて、思弁的に深く考究するようになり、優れた哲学者や思想家たちが輩出するようになりました。紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王のペルシア遠征が成功し、ギリシャ系の支配者たちがエジプトやシリアなどオリエント諸地方を支配するようになると、ギリシャ文明もオリエント全域に広まり始め、エジプトでは紀元前3世紀に、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたりしましたが、ユダヤ人たちはまだ信仰の伝統を堅持していて、紀元前2世紀の半ばにシリアのセレウコス王朝が支配下のユダヤにギリシャの宗教を広めようとした時には、多くの殉教者を出してまでも強い抵抗を示し、遂にセレウコス王朝も諦めて、ユダヤ人抵抗勢力に政治的自由を容認するに到りました。

② しかし、現代世界の雛形と思われるほど国際交流が盛んで、特にユダヤ人たちが優遇されていたエジプトでは、国際交流を積極的に推進したソロモン王時代の智恵に見習おうとするような知恵文学が新たに盛んになり、処世術や人生論などに対する人々の関心が高まっていたようです。本日の第一朗読である「知恵の書」は、そのような流れの中で執筆された聖書で、人間の知恵の源泉である真の神の知恵について教えています。この神の知恵に導かれ、聖母マリアのように、自分の考えや人間の知恵中心の生き方に死んで、神の婢として神の御旨中心に生きようとする信仰精神の賢明さは、国際交流が盛んで各種の思想が行き交う中で生活する現代人にとっても、大切なのではないでしょうか。理知的なこの世の知恵が万事に優先され、何事にも合理的な理由付けを求める考え方が、社会の各層に広まっている現代社会には、そういうこの世の理知的知恵やその論議に振り回され、心の奥底にストレスを蓄積している人が少なくないように見受けられます。

③ 長年岡山のノートルダム清心女子大学の学長を務め、学生指導に大きな成果を挙げて、近年各地から講演に招聘されることの多いシスター渡辺和子さんも、一時は鬱病に苦しまれたそうで、次のように書いています。「私は50歳のとき心に風邪をひきました。はっきり言えば、鬱病にかかりました。」「人様とお話していても、….. 笑顔ができない自分。そんな私をまわりの人たちが心配して、入院させてくれました。たった一人で個室に置かれ、自殺さえ考えました。何とも言えない胸苦しさ。何を見ても何の興味も湧かない。そして朝の二時ごろ目が覚めて眠ることができない。その苦しさは、自分のことしか考えられない苦しさと言っていいかも知れません。それまでの私は、学生のため、人様のため、神様のため、という生活で、幸せだったと思います。それが、自分にとらわれて自分の痛みしか考えられない。それほどつらいことはない、と私はこの病気で習いました。さらに私を苦しめたのは、修道者のくせに、自殺を考えるという事実でございます。云々」というような、恐ろしく苦しい体験談です。

④ しかし、私の知っている例から察しますと、役職者や大学教授などで鬱病を体験した人は、祈りつつそこから立ち直った暁には、精神指導の面で大きな働きをするように思います。神はその方に一層大きな実を結ばせるために、数年間の苦しい試練をお与えになって、その方の奥底の心に宿る一番美しい精神を目覚めさせようとなさるのではないでしょうか。シスター渡辺さんもその試練によって鍛えられた後、今では驚くほど大きな活躍をしておられます。それで私は、鬱病で精神医にかかっている親しい知人には、「神様のため、人様のため、自分が主導権をとって何かをしよう、仕事の実績を挙げようなどとは考えないで下さい。神がお望みなのは、あなたがその試練を契機に、この世の仕事や人間関係などに対する過度の執着から心を引き離し、これまでとかく後回しにし勝ちであったご自分の奥底の心に眼を向け、そこにおられる神とのパーソナルな感謝と愛と信頼の対話に時間を割くことだと思います。そうすれば、もうあなたが主導権をとって働くのではなく、神が主導権をとり、あなたを僕・婢のようにしながら、あなたの中で働いて下さいます」などと話したり書いたりしています。これが、主が本日の福音の中で求めておられる生き方であり、この世の知恵ではなく、神の知恵によって救われる者の辿る道だと思います。

⑤ 本日の福音の中で読まれる「(父母や妻、兄弟姉妹たちを) 憎まないなら、私の弟子ではあり得ない」という主のお言葉は誤解され易いので、少し説明させて頂きます。ヘブライ語や当時パレスチナ・ユダヤ地方で一般民衆の話していたアラマイ語には比較級がないので、たとえば「より少なく愛する」、「二の次にする」というような場合には、「憎む」と言うのだそうです。従って、主が受難死の地エルサレムへと向かっておられた最後の旅の多少緊張感の漂う場面で、付いて来た群衆の方に振り向いておっしゃったことは、私に付いて来ても、私を父母兄弟や自分の命以上に愛する人でなければ、また自分の十字架を背負って付いてくる程捨て身になって私を愛する人でなければ、誰であっても私の弟子であることはできない、ということだと思います。察するに、そこにいた群集の多くは、農閑期の暇を利用し、単に大衆ムードのまま多少の好奇心もあって、主の一行にぞろぞろ付いて来ていたのだと思います。そこで主は、付いて来たいなら、各人腰を据えてよく考え、捨て身の覚悟で付いて来るようにと、各人ひとりひとりのパーソナルな決意を促されたのではないでしょうか。

⑥ 主が最後に「自分の持ち物を一切捨てなければ、誰一人私の弟子ではあり得ない」とおっしゃっておられることは、大切です。主は受難死を間近にして、全ての人の贖いのために、ご自身の命までも捧げ尽くそうと決意を新たにしておられたと思いますが、主の弟子たる者も、ご自身と同じ心で多くの人の救いのために生きることを求めておられるのだと思います。主の御跡に従う決意で誓願を宣立した私たち修道者は、その初心を今も堅持しているでしょうか。主のこれらのお言葉を心に銘記しながら反省してみましょう。ルカ福音書は、本日の話のすぐ後で「塩は良いものだが、塩気を失えば、外に捨てられる」という主の厳しいお言葉を入れていますが、メシアの存在が全く他の多くの人の救いのための存在であったように、私たち修道者の存在も、ちょうど塩のように全く他の人々のためにある存在、他の人々の心に味付けをし、その腐敗を防止するための存在だと思います。私たちは、自分が神から召されたこの素晴らしい「他者のための祈りの生き方」「他者に自分を全く与え尽くす生き方」の意義を、しっかりと自覚しているでしょうか。本日の福音に読まれる主のお言葉を心に刻みながらあらためて反省し、初心を新たに堅めましょう。

2010年8月29日日曜日

説教集C年: 2007年9月2日 (日)、2007年間第22主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 3: 17~18, 20, 28~29. Ⅱ. ヘブライ 12: 18~19, 22~24a. Ⅲ. ルカ福音書 14: 1, 7~14.

① 本日の聖書朗読のテーマは、神は遜る者を高められると言ってもよいと思います。第一朗読であるシラ書(「集会の書」とも言う) には、旧約のユダヤ人たちの間に伝えられ愛用されていた多くの格言や教訓が集められていますが、本日の朗読箇所には「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる。」「主は、遜る人によって崇められる。」などの言葉が読まれます。「遜る」と聞くと、多くの人は人前で出しゃばった言行を慎み、謙虚に振舞うというような意味で理解し勝ちですが、聖書に言われている遜り、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前の外的遜りとは大きく違っています。それは、神に背を向け神の愛を裏切った人間の罪を自覚し、それを背負って神の御前に遜る姿、心を大きく開いて全てを神から受けながらも、神の無益な僕として我なしに生きようとする内的姿勢を指しています。それは、主イエスが御自ら生きてみせた生き方であり、聖母マリアも神の婢として実践していた生き方ですが、神はそのように遜る者を通して、救いの恵みを人類に豊かにお与え下さったのです。

② 主は一度、この世の成功や快楽だけを追い求めている町々の不信を厳しくお咎めになった後に、「天地の主なる父よ、私はあなたを褒め讃えます。あなたはこれらのことを知恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。云々」と祈っておられます。神の御前に神にあくまでも従順で忍耐深い「小さな者」として生きるのが、聖書の教えている「遜り」であると思います。ヘブライ語の「アニィ」という言葉には、「小さな」という意味と共に「遜る」という意味もあると聞いています。アウグスチヌスはこのような遜りを「メシアの徴」としていますが、神はこの遜りを実生活の中で実践している人を通して、この世で働き、救いの恵みを豊かにお与え下さるのです。そのことを幾度も体験し確信するに到ったからでしょうか、聖母はその讃歌の中で「神はその力を現し、思い上がる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座から下ろし、見捨てられた人を高められる。云々」と歌っています。運命の神が、遜った神の子ら「小さな者たち」を通して、救う働きをして下さる新しい時代が始まったのです。私たちも、聖書の教えているこの内的遜りの生き方を体得し実践するように努めましょう。本日の第二朗読は、そのような遜る生き方をする者たちの行く着く先について教えています。神の子らのこのような内的遜りを体得している人は、外的言動においても、慎みや謙遜の態度をごく自然に体現するでしょうが、それらの振る舞いを単に外的に真似るだけでは、ファリサイ派の教師たちのように心の内容が伴っていない「偽善者」と非難され、神から救いの恵みを人々の上に呼び下すことはできないと思います。幼子のように謙虚で素直な心、いつも神の御前で生きていようとする心が、何よりも大切だと思います。

③ 本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主イエスが、一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」という言葉は、日本語の「譬え」よりはずーっと広い意味であり、二つの全く異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時にも、よく使われます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会にも適用して、この世の社会生活においても「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」などと考えてはなりません。それは、主のお考えではないと思われますから。主は神より遣わされた使者、神の僕として、人々の救いのために奉仕する場合の内的心構えについてだけ語っておられるのです。相手からの報いを全く期待せずに、この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に、あなた方は神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。

④ この世的損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けながら、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちが、小さいながらもそのような生き方を身につけることができるよう、恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

⑤ 福者マザー・テレサは、「誰からも必要とされない病気」という言葉を話されたことがあります。病気にはそれぞれ医薬品や治療法がありますが、心を極度の内的孤独感で蝕むこの病気は、「喜んで差し伸べられる奉仕の手と、愛の心があるところでない限り、癒されることがない」というのが、福者マザー・テレサのお考えだそうです。来日なさった時に話された、「日本は豊かな国ですが、内的には貧しい国です」というというお言葉は、必要なものは何でもあり余る程所有している外的豊かさの故に、非常に多くの人たちの間に心と心との献身的愛の交流が育たず、外的豊かさの中にあって「誰からも必要とされていない」という病気に苦しんでいる人が少なくないことを見抜いて、話されたのではないでしょうか。自由主義・個人主義・能力主義などは皆それぞれに個人や社会を発展させる長所を持つ善ですが、ただその対極にある共同体精神や連帯精神などと共にバランスよく心の中に育てないと、個人をも社会をも内面から病的にする危険なものでもあります。近年外的豊かさの中でメタボリック症候群の病人が急増したら、適度の運動の必要性や食生活のバランスなどが強調されるようになりましたが、同様のバランスの必要性は精神面についても強調されないと、多くの日本人も日本社会も、いずれ恐ろしい内的病魔に苛まれることになるでしょう。一人でも多くの人が早くその危険性を察知するよう、神からの照らしと導きの恵みも祈り求めましょう。

2010年8月22日日曜日

説教集C年: 2007年8月25日 (日)、2007年間第21主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 66: 18~21. Ⅱ. ヘブライ 12: 5~7, 11~13.
     Ⅱ. ルカ福音書 13: 22~30.


① 本日の第二朗読には「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」という、私たちキリスト者を「神の子供」と考えているような勧めの言葉が読まれます。

② 戦後暫く経ってから「めだかの学校」という歌が流行り、戦前の「雀の学校」とは対照的に違うその歌詞の故に話題になりましたが、しかし、各個人の自由だけを謳歌するその「めだかの学校」を愛唱しながら育ち、頭の能力や理知的技術能力を早く開発して競わせる教育を受けた人たちの中には、心を鍛える厳しい教育に不足し勝ちであったため、大人になっても心の本当の底力が眠ったままで、心に宿る欲情をバランスよく統御することができない人や、酒・タバコ・ギャンブル・麻薬・万引き等々に対する様々な依存症や、登校拒否・家出・うつ病などに悩む人たちが少なくないようです。70年前の日本にもそのような人たちは少しはいたようですが、現代はそれとは全く比較できない程激増しています。各人の知的能力の発達に比べると、奥底の心の力、すなわち無意識界の底力があまりにも脆弱で、見えない内に疲れやストレスを心の中に溜めている所に、その根本的原因があると私は考えています。

③ この世の能力主義一辺倒に傾いている現代の育児教育に反対して来た私は、40年ほど前から、親しくなった若い夫婦たちに「愛をもって叱る」という心の教育も部分的に必要であることを説き、二歳、三歳位の幼児を20人ほども厳しく叱って泣かせたことがありますが、私に叱られて大きくなった子供たちは、後年私が会って知っている限りでは、比較的素直に育って、親にも先生にもほとんど心配をかけない人間になっているように思います。父なる神も、主キリストにおいて神の子とされた信仰者たちを愛すればこそ、そのような心の底から生きる積極的愛の人、すなわち心の底に宿る神の愛に生かされて生きる人にしようと厳しく鍛え、主キリストが実践なされた神に対する従順と忍耐を身につけさせようとなされるのではないでしょうか。神によるその鍛錬を嫌がらず、どれほど苦しめられ鍛えられても落胆しないよう努めましょう。オリンピックに活躍している選手たちは、私たちの想像を絶するほどの厳しい訓練や指導に耐えて、心の底力を磨いています。その努力を積み上げて高度の技を発揮するようになったからこそ、多くの人の中から選ばれるに到ったのではないでしょうか。神ご自身によって、もっと遥かに大きな永遠の栄誉を受けるよう召されている私たちも、その人たちの努力に負けてはならないと思います。

④ 2千年前に主イエスが、また聖母マリアが歩まれた、心の奥底に宿る神の愛・神の聖霊に生かされて生きる信仰生活と、同じ頃のファリサイ派ユダヤ人たちの信仰生活との違いも心得ていましょう。善意からではありますが、当時のファリサイ派ユダヤ人たちは、自分たちの頭に宿るこの世の人間理性を中心にしてあの世の神の言葉(聖書) を解釈し、その解釈に基づいて生活していました。彼らは自分の力によってこの世からあの世の神に近づこうと、競うようにして熱心に努力していたと思われます。500年前、450年前頃のプロテスタント宗教改革者たちも、一心に神の助けを祈り求めながら、近代人的な頭の理性、人間社会の力に頼って、基本的にはほぼ同様の人間主導の精神で、あの世の神のためこの世の教会を改革しようと励んでいました。彼らはいずれもその努力によってそれなりの成果を残してはいますが、しかしそれは、奥底の心に宿る神の霊に従い、神の僕・神の婢として自分というものに死し、あの世の神の御旨だけを中心にして生きておられた主イエスや聖母マリアの生き方ではないと思います。

⑤ 本日の福音の始めには、「イエスは、……エルサレムに向かって進んでおられた」という言葉が読まれますが、ルカは既に9章51節に「イエスは天に上げられる時が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書いており、それ以降19章後半のエルサレム入城までの出来事を、受難死目指して歩まれた主の最後の旅行中のこととして描いていますので、ルカ13章に読まれる本日の福音も、死を覚悟であくまでも主に従って行くか否かの、緊張した雰囲気が弟子たちの間に広がり始めていた状況での話であると思われます。ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねられた主は、そこにいた弟子たちと民衆一同に向かって、「狭い戸口から入るように努めなさい。云々」とおっしゃいました。その最後に話されたお言葉から察すると、東西南北から大勢の人が来て「神の国で宴会の席に着く」のですから、救われる人は多いと考えてよいでしょう。ただ、救い主のすぐ身近に生活し、外的には主と一緒に食べたり飲んだり、主の教えに耳を傾けたりしていても、内的にはいつまでも自分の考えや自分の望み中心に生活する心を改めようとしない人は、神の国に入ることを拒まれることになる、という警告も添えてのお答えだと思います。

⑥ としますと、主が最初に話された「狭い戸口」というのは、エルサレムで主を処刑しようとしていたサドカイ派やファリサイ派が民衆に求めていた伝統的規則の遵守ではなく、当時荒れ野で貧しい隠遁生活を営んでいたエッセネ派が実践し、民衆の間にも広めていた神の内的呼びかけや導きに従うことを中心に生きようとする、謙虚な預言者的精神や信仰生活を指していると思います。伝統の外的規則を厳しく順守し定められた祈りを唱えているだけでは、この世の人たちからは高く評価されても、神からはあまり評価されないのではないでしょうか。自分中心・この世中心の心に死んで、神の子キリストのパーソナルな愛に生かされて生きようとする精神を、その生活実践に込めていない限り。このことは、現代の私たち修道者にとっても大切だと思います。外的に何十年間修道生活を営み、数え切れない程たくさんの祈りを神に捧げていても、内的に自分のエゴに死んで、神の子イエスの精神に生かされようと努めていなければ、それはこの世の誰もが歩んでいる広い道を通って天国に入ろうとする、2千年前のファリサイ派の信仰生活と同様、神から拒まれるのではないでしょうか。聖書にもあるように、神が私たちから求めておられるのは山程の外的いけにえや祈りなどの実績ではなく、何よりも神の愛中心に生きようとする、謙虚な打ち砕かれた心、我なしの悔い改めた心なのですから。天啓の教理についてはほとんど知らなくても、非常に多くの人たちが、心のこの「狭い戸口」を通って天国に導き入れられるのだと思います。

⑦ 3年前のお盆休みに、名古屋で夕食を共にした横浜の知人から、十数年前から「うつ病」に悩まされており、医師にかかってもなかなか治れずにいることを打ち明けられて、少し驚いたことがありました。現代の日本社会には、非常に有能な人たちの中にも職場の複雑な人間関係の中で生じる問題を自分独りで背負い、合理的に解決しようとして「うつ病」になり、夜も眠れなくなる人、時には自殺したいなどと思ったりする人が増えているようです。私もそのような人を他にも数人知っており、その一人は十数年前に自殺しています。相談を受ける精神医たちは、その人を取り巻く周囲の人たちの協力で、温かい人間関係やくつろげる環境を造ることにより、その病気が数年かけてゆっくりと治るのを待つという療法を取っているようです。多くの人はそれで結構癒され、立ち直っているようですが、しかし中には、内的周辺環境がほとんど変わらないためなのか、十数年経っても治れずにいる人たちもいます。そういう人たちは、どうしたら良いのでしょう。

⑧ そこで私が3年前にその知人に話したことを、少し補足して紹介してみましょう。今の日本には、これからも「うつ病」に苦しむ人が続出するでしょうし、皆様もそのような人に会うことがあるかも知れませんから。私は、ストレスが心の中に蓄積して奥底の心が成熟できず、底力を発揮できずにいる所に、「うつ病」の一番の原因があると考えています。もしそうであるなら、奥底の心を目覚めさせて成熟させれば、治るのではないでしょうか。その道は、聖書に示されていると思います。まずペトロ前書5章7節の「全ての思い煩いを神に委ねなさい」という勧めに従って、人間主導の考えで生きようとはせずに、神の御旨・神のお導き中心に生かされて生きようと立ち上がり、主イエスや聖母マリアのように、神の僕・神の婢として生活することです。それは単純なことですが、実際上これまで長年続けて来た人間主導、この世中心の生き方から、あの世の神中心の生き方へと心を脱皮させることは、簡単でありません。

⑨ まず、聖人たちの模範に習って自分の奥底の心に愛の眼を向け、時には厳しく時には優しく、日に幾度も話しかけるように致しましょう。シトー会に入会した聖ベルナルドは、しばしば「ベルナルドよ、何のためにここに来たのか」と話しかけていたそうですが、聖フィリッポ・ネリやその他の聖人たちも、皆それぞれに自分の心に話しかけています。古来わが国には「言霊(ことだま) 信仰」というものがあり、心を込めて話した言葉には、不思議にいのちや霊がこもると信じられていました。主キリストも「私があなた方に話した言葉は、霊であり命である」(ヨハネ6:63)と話しておられます。現代世界に氾濫している単なる「頭の言葉」ではなく、心の深い愛のこもった言葉には、不思議な力が宿るからだと思います。若い動植物の命にも、そういうパーソナルな愛の言葉をかけていると、育ちが違うと聞いています。私たちの奥底の心も、いつまでも幼子のように若々しい命なのです。ですから主も、「ひるがえって幼子のようにならなければ、天の国には入れない」(マタイ18:3) などとおっしゃったのだと思います。

⑩ その幼子のように素直な奥底の心に、日に幾度もねぎらいの短い言葉やシュプレヒ・コールのような励ましの言葉をかけたり、その奥底の心に立ち返って神に射祷を捧げたりしていると、その心の中に神の霊が働くようになるようで、ゆっくりとですが、不思議に心の底力が育って来ます。そして次第に、この世のさまざまな困難や失敗などには挫けないようになります。これは私が年来実践していることで、相談を受けた「うつ病」を患っていると思われる別の人にも勧めたら、数ヶ月して将来に希望を持てるようになったそうです。頭の思想などとは違って心は生き物であり、その命は急には流れを変えることができませんが、幾度も話しかけ呼びかけているうちに、だんだんと神中心の新しい流れに変わって行くもののようです。神ご自身も、私たちが自分の権利や言い分などを一切神の御前に放棄して、素直な幼子のように神から与えられるものに満足し、神の僕・婢として神の導き、神の働きに聴き従い、日々喜んで生きていようとするのを待っておられると思います。そのため、自分に必要と思われる導きや力を願ってみて下さい。きっと与えられます。希望と忍耐をもって励みましょう。

2010年8月15日日曜日

説教集C年: 2007年8月19日 (日)、2007年間第20主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 38: 4~6, 8~10. Ⅱ. ヘブライ 12: 1~4.  Ⅲ. ルカ福音書 12: 49~53.

① 本日の第一朗読に登場するゼデキヤ王はユダ王国最後の王で、在位は紀元前597年から587年とされています。エルサレムが598年から翌年にかけ、強力な新バビロニア王ネブカドネザルに侵略されて、国王はじめ一群の貴族・祭司たちが第一次バビロン強制移住でいなくなり、後に残されたユダ王国を新バビロニアの属国として統治するために立てられた国王でした。戦争に負けたのですから、王国の再建は容易でなかったと思われます。側近たちは国王を動かしてエジプトと提携させ、新バビロニアに反抗させたようです。それで既に有名になっていたエレミヤ預言者は、カルデア軍とエジプト軍との両大軍の間にあって揺れ動く国王とその役人たちに、いろいろと神からの言葉を伝えて活躍しましたが、それが国王を囲む役人たちに理解されずに、監禁されたり迫害されたりしました。第一朗読は、その迫害の一端を伝えています。

② 時代の大きな過渡期にこの世の人々の見解が相互に激しく対立したり、この世の諸勢力が相争ったりするような時、エレミヤ預言者のように神中心に生きようとすること、神よりの啓示を世の人たちに伝えようとすることは、この世中心の立場で生きている人たちから誤解されたり迫害されたりする危険があって、決して容易なことではありません。主キリストも、2千年前のユダヤ人たちが政治的にも宗教的にも意見が分かれて一致できずにいた過渡期に、神中心に生きる模範を実証しつつ、神よりの新しい啓示を世に伝えようとして、誤解されたり迫害されたりした人であります。

③ 本日の第二朗読であるヘブライ書の著者は、恐らくは紀元1世紀の末葉に、使徒たちがほとんどいなくなりエルサレムも紀元70年に滅亡して、産まれてまだ間もない初代教会の結束が内面から大きく動揺していた時代に、キリスト教に転向したユダヤ人たちに向けてこの書簡をしたため、彼らの信仰を堅めようとしたのだと思います。本日の朗読箇所12章の始めに読まれる、「このように夥しい証人の群れに囲まれている以上」という言葉は、11章に読まれる、アベルを始めとして、アブラハム、モーセなど旧約時代の数多くの信仰の証人たちを指しており、ユダヤ人たちの誇りであるそれら信仰の偉人たちの模範に倣って、時代の大きな過渡期に増大する「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、(神から) 自分に定められている競争(のコース) を忍耐強く走り抜こう」と励ましているのだと思います。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉も、大切だと思います。

④ 「グローバル時代」と言われる現代に生きる私たちも、一つの大きな過渡期に生きています。人類史上にいまだ嘗てなかった程の、規模の大きな過渡期と称してもよいと思います。現代文明、特に交通・通信機器の目覚しい発達で、これまで各種の壁で分断されていた人類全体が一つの群れとなり、大小無数の伝統的文化も宗教も慣習も皆一つの巨大な海の渦の中で相互に出会い、切磋琢磨させられるような激動の過渡期に、私たちは既に入って来ているのだ、と言ってもよいでしょう。この大きな渦の中で、私たちの受け継いでいるキリスト教信仰も、日本文化や理知的な西洋文明も、他の多くの文明文化との接触・軋轢・抗争・協働などによって、徹底的に試され、磨かれ、鍛えられることになるかも知れません。この渦の中で、自力ではどうしても耐えられなくなって苦しみ滅んで行く人たちもいるでしょうが、しかし、その渦の背後に、私たちの魂を磨き高めようとしておられる神の御摂理、神の導きや働きを感知し受け入れている人たちは、主キリストのようによくその苦しみに耐え、神の力に基づく本当の平和と祝福を全人類の上に豊かに呼び下すことでしょう。

⑤ 本日の福音の中で、主が「私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう」と話しておられることから察しますと、この話は既に主を殺そうとしている大祭司たちの勢力がいるエルサレムへの、最後の旅の途中で弟子たちに語られた言葉であると思われます。「洗礼」は、自分のこの世の命に死ぬことと、神の新しい不滅の命に生きることとの両面の恵みを与える秘跡ですが、ここでは主キリストの受難死と復活の二つを指していると思います。この地上の人々の心に神への信仰と愛の火を点し、燃え広がらせようと3年間ひたすら尽力して来たのに、生活を共にしている弟子たちの心にさえ、まだその火を大きく燃え上がらせることができずにいる程なのに、既に御父の御摂理によってご自身をいけにえとして神に献げる時が間近に迫って来たのを切実に感じ取りつつ、人間としての主の御心は、いろいろと深く苦しんでおられたのではないでしょうか。迫り来る死苦を目前にした時に覚えるその苦しみや孤独感なども、主は人類救済のため天の御父にいけにえとして献げておられたのだと思います。

⑥ 福音の後半には、「私が地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂である」というお言葉がありますが、ここで言う平和は、単に外的争いのない平穏無事の状態を指していると思います。主はこの世の支配階級中心、既にある社会的価値観中心に、全ての不備や労苦やしわ寄せを超越し我慢させようと説く、そんな消極的我慢の生き方を広めるためにこの世に来られたのではありません。人類の生活の営み全体を、宇宙の創造主・所有主であられる神の御旨中心のものへと積極的に変革し高めるために、そしてあの世的神の国を広めるために、来られたのだと思います。それは、一つの大きな内的改革を各人の心の中に導入することを意味しています。そのため、その神の国を受け入れるか拒むかで、同じ家族に属していても、人の心と心とが互いに対立し分れるということは大いに起こり得ます。

⑦ そのような場合、神に従わないこの世の一切は、神ご自身によってやがて徹底的に滅ぼされてしまうこと、ならびに私たちの永遠に続く本当の人生は、神中心に生きる者たちだけの住むあの世にあることを思って、神のみに頼って生きる一念発起の決意を新たにし、あくまでも主キリストの御後に従って行きましょう。過ぎ行くこの世の命を日々いけにえとして神に献げつつ、その命の奥に宿る神よりの博愛の命に生き抜くこと、それが主がこの世で歩まれた道であり、主はその道を歩むための力を私たちにも、「洗礼」の秘跡を通して豊かに提供しておられます。そして世の終りまで、私たちのそば近くに内的に伴っていて下さいます。「信仰の創始者また完成者」であられる主イエスを見つめながらという聖書の勧めを心に銘記しつつ、今の世のこの大きな過渡期の流れを乗り切りましょう。