2011年3月27日日曜日

説教集A年:2008年2月24日四旬節第3主日(三ケ日で) 

第1朗読 出エジプト記 17章3~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節

① 本日のミサ聖祭には、集会祈願にも拝領祈願にも、また第一朗読にも福音にも、「渇く」という動詞が登場しています。第一朗読によると、神の言葉でエジプトを脱出したイスラエルの民が、水の少ないシナイ半島を通る時に喉の渇きに苦しみ、モーセに不平を並べ立てたようです。「なぜ我々をエジプトから導き出したのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」などと。モーセが神に、「彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています」と叫んでいることから察すると、飢え渇いた民の苦しみは耐えがたい程のものであったと思われます。神はモーセに、神がある岩の上にお立ちになるから、以前にモーセが神から戴いた奇跡の杖でその岩を打つようお命じなり、モーセがイスラエルの長老たちの目の前でその通りにすると、その岩から大量の水が流れ出て、民はその奇跡の水によって喝を癒すことができました。

② ところで、神はいったいなぜ、大勢のイスラエル民族を水の少ないシナイ半島を通らせて、死ぬかと思われる程の苦しみをお与えになったのでしょうか。自分の欲望や自分の考え中心の古い生き方に死んで、もっと神のお望みや神の御旨中心の新しい生き方へと、移行させるためであったと思われます。神からの幻示に基づいて記されたと思われる創造神話によると、人祖は神のご命令に背いて「善悪を知る木」の実を取って食べ、神のようになろう、自分が主導権を取って生きようとしたために、神の恩寵を失ってこの世に罪と死の苦しみを招き入れてしまいました。それで、神の導きに従って神の恩寵の内に生きるようになるためには、自分の望みや考え中心のこれまでの生き方に死ぬことと、死の苦しみを耐え忍ぶこととが、神から求められるのではないでしょうか。

③ イスラエルの民だけではなく、全ての民に神の国に入る救いの恵みを提供するため、天の御父からこの罪の世に派遣されて人類の一員になられた主イエスも、死の苦しみを経て神の永遠の命に復活するという新しい生き方の模範を、身をもってお示しになりました。そして主が私たちに神の恩寵を与えるためにお定めになった洗礼の秘跡も、自分に死んで神の御旨中心に生きるという、いわば「死」と「生」という二つの側面を持つ秘跡であります。永瀬清子という詩人は、『短章集』という著書の中で、「好都合と好運とはちがう、云々」と書いて、この世的好都合や便利さなどからの過ぎ行く幸せと、本当の幸せとを区別し、「本当の幸と不幸は、もっと深く運命に根ざしたもの」と述べ、「島がよいのボートには、太平洋を渡れないのと同じだ」と結んでいます。この詩人は、「運命」という言葉で、人間の能力や努力ではどうにもならない神の御旨や働きを考えているようですが、島通いの小さな舟は乗り捨てて、その神の御旨や働きに深く根ざして生きるところに、私たちの本当の幸福があるという見解には、私も大賛成です。今あの世で幸せに暮らしている聖人たちや、私たちの先輩知人たちは、皆そのような生き方をしているのではないでしょうか。四旬節にあたり、私たちも自分に与えられる寒さや、失敗・誤解等々の苦しみを喜んで耐え忍ぶよう心がけ、主イエスと内的に一致するように努めましょう。

④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と、主キリストに従って信仰に生きる者の、将来に対する明るい大きな希望を表明しています。主キリストの霊で神の愛である聖霊は、洗礼の秘跡を受けた私たち各人にも与えられています。私たちもこの聖霊の力、愛の命に魂の内面から支えられ生かされて、激動する今の世がどれ程荒れ狂おうとも、明るい大きな希望をもって苦しみを厭わずに清く生き抜きましょう。渦巻いて濁らない滝壺の水のように。

⑤ 本日の福音によると、旅に疲れて井戸のそばに座っておられた主イエスは、水を汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませて下さい」と願っておられます。しかし、この願いはその女の心への呼びかけでもあって、主はこの後、礼拝すべき場所はこの山かエルサレムかという、この女の宗教的質問に答えて、新しい真理を啓示なさいます。「真の礼拝者たちが、霊と真理の内に(神なる)父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるから。云々」というお言葉です。

⑥ 宇宙万物をお創りになった同じ唯一神を信奉していても、どこでどのようにしてその神を拝むのかという問題については、現代でも人類社会に根を下ろしている各種宗教組織の間で大きく異なっています。一部の地方では宗教間のその相違や対立が、平和を乱す深刻な問題にもなっています。主イエスは、サマリアの女に話されたそのお言葉で、現代の宗教対立を解消するための道も示唆しておられるのではないでしょうか。主にとっては、全人類に一つの宗教しか存在していないと思います。外的人間的な宗教組織や宗教形態というものに囚われずに、神中心にもっと内的にまた柔軟に神に仕える道を模索するのが、神から私たち現代人に与えられている一つの課題だと思います。

⑦ 今はまだ溢れる豊かさの中で生活している私たち現代人が、遠からず恐ろしい飢えと渇きに苦しめられる時代が到来するかも知れません。水の惑星と言われる地球の水の約97%は海水で、残り3%の淡水のうち70%は北極や南極などでの氷ですから、私たちの利用できる水資源は、雲・川・湖・地下水などに限られていますが、過去百年の間に世界の水の使用量は9倍に増加し、安全な飲み水に不足している人たちは、人類64億人中10億人に達しています。それで、2000年に開催された世界水会議は、2025年には世界の人口の40%が、深刻な水不足に直面すると警告しています。世界各地の水不足が深刻になれば、食料の多くを輸入に頼っている日本も、大きな影響を受けると思います。高度に発達した文明の恩恵に浴している現代の若者たちの将来には、数々の思わぬ貧困が待ち受けているかも知れません。一人でも多くの人の心が、私たちの置かれているこの事態に早く目覚め、モーセよりも遥かに大きな奇跡的助けを神から呼び下すことのおできになる主キリストにしっかりと結ばれて、その苦難を乗り越えることができますように、神の憐れみと導きを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年3月20日日曜日

説教集A年:2008年2月17日四旬節第2主日(宝塚の売布で)

第1朗読 創世記 12章1~4a節
第2朗読 テモテへの手紙2 1章8b~10節
福音朗読 マタイによる福音書 17章1~9節

① 本日の第一朗読は、後にアブラハムと改名したアブハムの、ある意味で召し出しの話と称してもよいと思います。先週の水曜日に名古屋の南山教会で、カトリック者たちのあるグループでアブラハムの話をしましたら、後で「アブラハムはその声を天から聞いたのでしょうか」という思わぬ質問を受けました。実は皆様も私の著書『一杯の水』からご存知のように、私も昭和22年の夏に受洗して、翌年3月始めの早朝、暗い橋の上で見送る母と別れて多治見修道院へと行く時、はっきりと同じような神よりの声を聞いたことがあります。その声は自分の外からではなく、自分の胸の方から聞こえました。それで私の推察ですが、アブハムも、恐らく自分の胸の方から神の声を聞いたのではないでしょうか。

② 勿論、主イエスのヨルダン川でのご受洗やご変容の時のように、神の声が外から聞こえることもあるでしょうが、私は、アブラハムはいつもはっきりと心臓の方から聞こえるその声を神の声と識別し、その声に従おうとしておられたのではないかと想像しています。私は南山大学で「キリスト教思想史」について教えた時、いつも理知的な頭の考えと心に思い浮かぶ考えや勧めなどとを識別して、賢明に対処するよう話していました。お名前を失念しましたが、ある作曲家は戦争中に小学生として都会から父の出身地である新潟県に疎開させられた時から、美しい大自然に触れる度毎にメロディーが次々と心に浮かび、もしそれらをすぐ記録していたら、数千の作曲に成っただろうと語っているのを聞いたことがあります。作曲家に多いこのような現象の時も、それらのメロディーは察するに頭にではなく、心に浮かぶのではないかと思われます。恐らく天才モーツァルトも、4歳の時から自分の心に浮かぶそのようなメロディーを書き下ろすことによって、数多くの美しい音楽を作曲したのではないでしょうか。ベートーベンは、こうして書き下ろしたメロディーを後で頭を使って幾度も磨き上げたようですが、作曲の段階で心が大きな役割を演じていたことは変わりないと思います。

③ 私たちの心は、真に神がお創りになった霊界の道具でもあると思います。そこには、悪魔も巧みに囁きかけることがあるかも知れません。それで、悪霊からの呼びかけには毅然として拒否しつつ、神からの呼びかけを正しく識別し、アブラハムのように、その声に従うよう心がけましょう。それが、私たちの接する多くの人々の上に、神の祝福を呼び下す道であると信じます。本日の朗読の中で、神はアブラハムに「あなたにしよって地上の全ての民族は祝福を受ける」と約束しておられます。ご聖体の秘跡を身に受ける私たちも、主キリストと一致して祈りと愛の業に励むなら、この世の多くの人の上に神の祝福を呼び下すのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読には、使徒パウロが愛弟子テモテに、「神の力に支えられて、福音のため私と共に苦しみを忍んで下さい」と願っています。これは、自分が苦しみを献げれば、それによって主キリストの救いの恵みが他の人たちの所で豊かな実りをもたらすという、度重なる体験に基づく言葉であると思います。主イエスの受難死の功徳による救いの恵みは、主と一致して苦しみを献げる実践を介して、多くの人の心に実りをもたらすのではないでしょうか。朗読の最後に読まれる「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」という使徒の言葉も、自分の苦しみや死を、今病気や死に直面して苦しんでいる人々の救いのため、喜んで献げようとする心で受け止めるように致しましょう。

⑤ 本日の福音によると、高い山の上での主イエスの光輝くご変容に見とれていた三人の弟子たちを、突然光輝く雲が覆い、その雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という、恐らく威厳に満ちた声が聞こえたので、弟子たちはひれ伏し、非常に恐れたとあります。神が使徒たちから、また私たちから求めておられることは、この世に貧しい人間の姿で、あるいは御聖体のパンの姿で出現なされた主イエスを、神の御独り子として堅く信じることと、そのお言葉に聞き従うことなのではないでしょうか。

⑥ 大勢いるキリスト者の中には、聖書の言葉に従って教会を改革しようとする人や、主の福音を多くの人に伝えるために、自分の全てを捧げて献身的に働こうとしている人もいますが、自分で考え自分の力で神のために何かしようとする、その善意には敬服します。しかし、それが果たして神の望んでおられることなのかとなると、首をかしげたくなります。神が望んでおられるのは、何よりもアブラハムのように、神の声、神のご計画に実践的に聞き従う信仰の人であることなのではないでしょうか。主の御変容を目撃した使徒たちも、主のご復活の後は自分中心の夢や考えに死んで、ひたすら神のお考え中心・神の働き中心に生きようと努めています。四旬節にあたり、とかく自分中心に、あるいは規則中心に考え勝ちな私たちも、神の御旨中心に生きる生き方を新たに見出すよう、神の照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年3月13日日曜日

説教集A年:2008年2月10日四旬節第1主日(三ケ日で) 

第1朗読 創世記 2章7~9節、3章1~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~19節
福音朗読 マタイによる福音書 4章1~11節
 
① 四旬節の日曜日の第一朗読は、いつも旧約時代の罪と救いの話から引用されますが、本日の第一朗読はその一番初めの、創世記2章と3章に読まれる人祖の創造と罪の話から引用されています。まず「主なる神は、土の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と述べられています。これは、私たちの心にある宗教的真理を教えるために神から啓示された夢幻のような神話ですから、実際の現実世界に最初の人間が出現した時の状況とは大きく違っていると思います。しかし、この話によって神は私たち人間に、忘れてならない大切な真理を教えておられるのではないでしょうか。まず、人間は多種多様の物質世界の躍動の中で偶然に産まれ出たのではなく、神が直接にその全能の力を働かせて土の塵から形造られ、大きな愛をもってその鼻に命の息を吹き入れることにより生きる者になったということです。

② こうして優れた知的能力と自由とを持つ存在、万物の霊長として創られた人間が、もしその自由を悪用して神の御言葉に従わず、神に反抗する存在に堕落するなら、神の御心を深く傷つけ、土の塵に戻されることも覚悟しなければならないことを、この神話は教えているのではないでしょうか。第一朗読にはない続きの話を読みますと、幸い神は人間に苦しみを与えるだけで、その苦しみに耐えて生きつつ、将来神が派遣なさる一人の子孫によって救われる道を、この神話の中で啓示なさいました。神のこの大きな憐れみに信頼しましょう。

③ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、全人類の罪を背負ってご自身を十字架上のいけにえとして神にお献げになった主イエスの御功徳、その御恵みは、人祖アダムが神に対して犯した罪よりも遥かに大きなものであり、アダムの罪の穢れが全ての被造物に及び、死が全ての人を支配するようになったのなら、主イエスの功徳による罪の赦しや新しい命の恵みも、その罪の支配を打ち砕いて、全ての人の上に豊かに与えられることを示そうとしています。

④ 人祖アダムは、いわばこの世の土から造られた人間で、そこに神が天からの命の息、すなわち超自然の命の力と潤いを吹き入れることによって生きる者となった存在でしたが、アダムが神に背く罪によってその命の力と潤いを失ってしまうと、この世は荒れ野の大地のように乾き切って、労苦と死の世界になってしまった、と使徒パウロは考えていたのかも知れません。もちろん荒れ野といっても、本来豊かな実りをもたらす可能性を備えている土地として造られているですから、天からの雨に豊かに恵まれることがなくても、生きるための厳しい労苦から体験的に学ぶ人間の知恵の蓄積で、何とか生き抜く道は神の憐れみによって残されていたと思います。そこに万物の創造主、命の息の本源であられる全能の神の御子ご自身が人間となって出現し、人類の全ての罪科を背負って痛ましい受難死を遂げられた後、あらかじめ予告しておられた通りに三日目に、もはや死ぬことのない神の永遠の栄光の命に復活なされ、天から恵みの雨を豊かに降り注がせる道が開かれたのです。

⑤ 使徒パウロがここで、「一人の罪によりその一人を通して死が(この世に入り、)支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人(主イエス)」「一人の正しい行為によって、全ての人が義とされて命を得ることになったのです」と確信したのは、当然であると思われます。「一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」という使徒の言葉を素直に受け止め、私たちも主イエスと内的に深く一致して多くの人の罪科を背負い、日々ご自分の身にふりかかる労苦を快く耐え忍びつつ、天の父に祈っておられた主の献身的愛の精神で生きるよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の始めには、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」という言葉が読まれます。毎年四旬節の第一主日に読まれるこの「四十日間」が、教会が古来「主の復活祭」前に伝統的に順守している四旬節の原型であります。四旬節は単に断食する、あるいは節食する、あるいは貧しい人たちに応分の寄付をするという、教会側から年毎に推奨される外的実践に努めるだけの期間ではなく、何よりも主イエスと一致して、自分の心の中にも働く悪魔の誘いに戦う心を、実践的に鍛錬する期間なのではないでしょうか。節制によって自分の心を統御するのも、その手段の一つだと思います。教会から勧められている小斉や大斉も、その手段の一つです。外的手段の実行にだけ注目して、四旬節の内的目的を見失わないよう気をつけましょう。

⑦ 明日の2月11日は、1858年2月11日に聖母マリアがフランスのルルドにご出現になった150周年記念に当たります。ルルドで奇跡の泉を湧き出させて世界各国から来る無数の病人を癒したり、生きる希望を与えたりなさった聖母のその奇跡的お働きを記念して、2月11日はカトリック教会で「世界病者の日」とされていますが、現教皇は聖母ご出現の150周年を記念し、世界に向けてメッセージをお出しになりました。皆様も既にお読みになったでしょうが、教皇はその中で、今年の6月にカナダのケベックで開催される国際聖体大会にも言及し、聖母マリアの働きとキリストの聖体の秘跡とを関連させて解説しておられます。私たちもその教えに従い、聖体の秘跡の力に生かされ力づけられて、病者のための祈りや奉仕に努めるよう心がけましょう。

⑧ 現代のカトリック者の中には、病気の医学的側面についてしか考慮せず、そこにその人の宗教心も深く関与していることを認めていない人が多いようですが、これは主キリストがお示しになった実践や主の御言葉、そして使徒たちの模範や古い教会の伝統に反していると思います。主は積極的に非常に多くの病人を癒し、そして病人を癒す権能と使命とを与えてそのお弟子たちを派遣しておられます。病苦や死が始まったのは人間が神に背を向ける罪を犯したからで、神よりの招きやメッセージを受け入れ、それに従おうとするなら、神はその人の罪を赦し病気を癒す大きな愛の持ち主であることを実証し、多くの人を神の国へと招き入れるためであったと思われます。それで使徒ヤコブはその書簡に、「病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます」などと書いています。これは、多くの病人を世話したり癒したりした体験に基づく言葉であると思います。体の病気は、その人の信仰心とも深く関連しているのです。そこに、病人のための宗教者の使命もあります。聖母は150年前に、そのことを私たちに悟らせるためルルドにご出現になったのではないでしょうか。

⑨ 私は、1970年代から南山大学の信者の元教授や職員、あるいはその家族など、多くの重病人を見舞って次々とあの世に見送って来ましたが、度々病油の秘跡を授けていますと、病気を癒すことはできなくても、病状を好転させることがありましたし、少なくとも病苦を素直な信仰心で受け止め、主のご受難に内的に参与して忍耐強く耐え忍ぶ力を与えているように思うことが、幾度もございました。信徒であっても、信仰をもって病者のために祈るなら、医学では与えることのできない心の力を神から呼び下し、その病者を慰め力づけることができると信じます。私たちには、その使命もあるのではないでしょうか。

2011年1月30日日曜日

説教集A年:2008年2月3日年間第4主日(三ケ日で)

第1朗読 ゼファニヤ書 2章3、3章12~13節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 1章26~31節
福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節
 
① 本日の第一朗読のゼファニヤ預言者は、敬虔なヒゼキヤ王の血を引く貴族出身者であったようですが、紀元前7世紀のヨシア王の時代に「主の日」、すなわち恐ろしい主の怒りの日の到来について預言しています。その予言書1章の始めには、「私は地の面からすべてのものを一掃する」という主のお言葉があり、続いてさまざまな生き物や人々に対する容赦なしの恐ろしい天罰が、具体的に描かれています。近年キリスト教会内には、聖書に予言されているこういう恐ろしい「主の日」を古い時代の単なる思想として片付け、現代社会に適合した信仰倫理だけに注目する傾向が強いようですが、しかし、神による厳しい裁きと「主の日」の到来に対する信仰は、私たちの信仰生活の一つの大切な基盤であり、神に対する畏れや神から離れる危険性を軽視する人は、この世の罪深い流れに無意識のうちに巻き込まれて行くと思います。

② しかし、私たちの神は罪の穢れを忌み嫌って、穢れているものを全て滅ぼそうとしているだけの神ではありません。何よりも私たちを愛し、その穢れた流れから救い出そうとしておられる愛の神であります。ですから恐ろしい「主の日」について警告しているゼファニヤの預言の中には、本日の第一朗読にあるように、私たちに救いの希望を与えて、慰め励ます言葉も読まれます。使徒パウロは、テモテ前書の1章に自分の過去の罪について告白していますが、「しかし私は、これらの事を信仰がなかった時、無知のためになしたのだから、憐みをこうむった」「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さったのだ」などと述べています。私たちも使徒のこの模範に倣って、この世の罪故に神から自分に与えられる困難や苦しみを逃げようとせず、主キリストの助けに縋りつつ、静かにその苦しみに耐えるよう努めましょう。そうすれば恐れることはありません。ゼファニヤの預言にあるように、私たちは主の怒りの日に身を守られて、「イスラエルの残りの者」の群れに加えられ、神に養われて憩いを見出すことでしょう。

③ 本日の第二朗読の中で、使徒パウロは「神は知恵ある者に恥をかかせるために世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために世の無力な者を選ばれました」と述べています。この言葉を誤解しないよう気をつけましょう。神の選びを受けて人の何倍も逞しく働いていたパウロは、人間的には決して無学で無力な者ではありませんでした。しかし、自分の学識や強靭さなどを誇ったり人々に見せつけたりはせず、ひたすら自分の弱さや「無であること」に心の眼を向けつつ、その弱さの中にこそ現存して下さる復活なされた主キリストの全能の力に縋って、主キリストの救う働きを身をもって証しようと心がけていたのだと思います。それが彼のいう「無学な者」「無力な者」の生き方だと思います。私たちも神に愛され選ばれるために、自分の理知的な考えや力に頼ることなく、何よりも神の御摂理に心の眼を向け、主キリストの助けを願い求めつつ生きるように努めましょう。

④ 本日の福音は、「山上の垂訓」とも言われている話の冒頭に主が掲げた箇条書きの信条のような話ですが、十戒を基本にした旧約の神の民の倫理とは違う、「新しい神の民の憲法」と称してもよいと思います。世界中のどの民族の宗教にも、成文化されているいないに拘わらず、他の人に迷惑をかけないための一定の法規のようなものがありますが、主がここで話された神の民の倫理は、それらのどこにも見られない全く新しいものですから、この神の民になるためには、どの民族の出身者にも、倫理の考え方や心の根本的変革が神から求められていると思います。実は仏教にも、「山上の説法」と呼ばれているものがあります。釈尊が象頭山(ぞうずせん)上から村や町を見下ろしながら語られた話を、後世の人たちがそう称したのですが、これも何かの画一的法規のようなものについての話ではありません。釈尊は、「比丘(びく)たちよ、全ては燃えている。熾念(しねん)として燃えさかっている」という言葉で始って、この世の人々の耳も鼻も舌も、体も心も、貪りや怒りや愚痴などの炎で燃えていることを強調した後に、その煩悩の炎を消し尽した処に、涅槃(ねはん:ニルバーナ)の境地が実現することを説いています。自然の目には見えない心の現実についてのこの話も貴重ですが、しかし、主の山上の垂訓はそれとも大きく違って、何よりも神を起点として、自分の生き方を考え直すことを説いています。

⑤ 各人は、この世の社会や一緒に生活している人間にだけ焦点を合わせて、自分の生き方を考えるのではなく、何よりも宇宙の創り主であられる愛の神とその御旨に心の眼を向けて、その神の御前に貧しく柔和に、清く正しく忍耐強く生きようと心掛けるべきことが説かれているのです。また隣人に対しても、憐れみ深く、平和を実現する人であるよう求められていますが、これは、他の個所での主のお言葉を参照すると、どんなに欠点多い隣人の内にも隠れて現存しておられる神の人・主イエスに対する愛と信仰なしには、完全には実行し難いと思われます。

⑥ いずれも私たちがもって生まれた自然の力では、難し過ぎる生き方です。そこで主は、私たちがその生き方を、神の超自然の力に参与して実践することができるよう、洗礼や聖体などの秘跡をお定めになり、私たちにお与えになりました。私たちは皆それらの秘跡の恵みを受けていますが、果たして主がここで求めておられるような生き方をしているでしょうか。単に外的に秘跡を受けるだけでは足りません。先程も申しましたように、もっと神への畏れと神の現存に対する愛と信仰をもって謙虚に受ける必要があると思います。その時、神の超自然の恵みが私たちの内に深く根を下ろし、生き生きと働いて下さるのではないでしょうか。そのための照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年1月23日日曜日

説教集A年:2008年1月27日年間第3主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 8章23b~9章3
節第2朗読 コリントの信徒への手紙1 1章10~13、17節
福音朗読 マタイによる福音書 4章12~23節


① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀に第一イザヤが告げた預言ですが、そこに「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが」とある言葉は、ガリラヤ湖の北西地方に住んでいた二つのイスラエル部族が、ちょうどこの第一イザヤの時代にアッシリア軍に侵略され、ガリラヤ地方、サマリア地方に住んでいたイスラエルの他の諸部族と共に、アッシリア帝国の支配下に入れられたことを指していると思います。神から「イスラエル」の名をもらった太祖ヤコブには4人の妻がいて、ヤコブが一番愛した妻ラケルにはなかなか子供が生まれず、他の3人の妻たちに遅れて、一番最後に二人の男の子ヨゼフとベンヤミンを産んだのでした。

② 妻リアは、男の子6人を産みましたが、その6人目の子供がゼブルンです。妻ゼルファと妻バラは、それぞれ二人の男の子を産みましたが、妻バラが産んだ二人目の男の子がナフタリです。太祖ヤコブのこれら12人の男の子の名前は、それぞれその子孫12部族の部族名とされました。モーセに引率されてエジプトを脱出したイスラエル12部族は、ヨシュアに率いられて攻め取った約束の地カナアンで土地の分配にあずかり、ヤコブの妻リアの血を受けたユダ族は一番南の地方、今のエルサレム近辺に定住しましたが、同じリアの血を受けて最後に生まれたゼブルンの子孫とバラの血を受けて最後に生まれたナフタリの子孫とは、一番北の地方に定住したようです。

③ なお、リアの血を受けてユダよりも一つ先に生れたレビの子孫は、そのレビ族に所属するモーセの規定によって、土地の分配を受けずに宗教行事を担当し、他の諸部族からの神への献げ物によって生計を立てていました。ユダ族出身のダビデ王がエルサレムを攻略して神の民の都とし、そこに契約の櫃を迎えて彼らの宗教的中心にすると、レビ族もユダ族と深く結ばれて生活するようになりましたが、今年の主の公現祭にも申しましたように、ソロモン王の時代に実に豊かになったユダの地は、ガリラヤやサマリアと違って、残酷なアッシリアの侵略を免れることができました。イザヤ預言者はその時点で、ユダの地とは比較にならない程悲惨な状態に落されたゼブルンの地、ナフタリの地、異邦人の土地と化したガリラヤを慰めるかのように、それらの土地がいつか将来に、「栄光を受ける」日が来ることを預言したのだと思います。預言者はこの時、数百年後にメシアがまずこれらの土地の人たちを病気などから奇跡的に癒し、これらの土地の人たちに神の国の教えを説く輝かしいお姿を予見していたのでしょう。

④ 本日の福音の中で、マタイはイザヤ書にあるこの預言のことを思い出しています。主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞くとガリラヤに退かれましたが、ご自分の故郷ナザレではなく、「ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに」お住みになったからです。そしてその時から主は、洗礼者ヨハネの後を受けて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に力強く呼びかけ、神の国の宣教をお始めになりました。主がなされた数々の奇跡の話は、ガリラヤとユダの諸地方だけではなく、遠く離れたシリアの諸地方にまでも語り伝えられ、ユダヤ人も異教徒も、数えきれない程多くの人が神よりの人・主イエスを一目見よう、そして自分たちの病人も癒してもらおうと、その御許にやって来ました。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。云々」というイザヤの預言は、その喜びの情景を描いています。

⑤ 本日の福音の後半は、主イエスがそのカファルナウムに住む若い漁夫たち4人を、ご自分の弟子としてお召しになった話ですが、彼らがすぐに、網も舟も父親も残して主のお招きに従って行ったことは、注目に値します。聖書の教えているキリスト教信仰の特徴は、神よりの招きに従って行動することにある、と申してもよいのではないでしょうか。まず「聖書を読め。聖書を読め」と言って伝道する人たちもいますが、しかし、国家や社会や家庭が内側から崩壊する危機に直面している時ならいざ知らず、奥底の心がまだ半分眠っていて、表面の理知的な精神だけが活発な人たちに聖書を読ませても、疑問に思うことが次々と生じて来て、なかなか神信仰へと踏み切れないのではないでしょうか。それではいけません。聖書が教えているのは、自主的な真理探究の宗教ではなく、何よりも神よりの啓示や招きを素直に受け止め、それに従って行動する従順の信仰であり、その実践の積み重ねを介して神の啓示や真理に対する奥底の心のセンスや眼が次第に磨かれて来る宗教であります。

⑥ 主に召された無学なガリラヤの漁夫たちは、よく分からなくても主のお言葉に従順に従い続けることにより、ついには社会のどんな知識人たちにも負けずに宣教する偉大な使徒たちになったのではないでしょうか。主から修道生活へと召された私たちの歩む道も、同様だと思います。修道家族という共同体を造って生活するのですから、そこに様々の危険や対立を回避するための規則があるのは当然ですが、それはいわばガードレールのような手段で、それらの規則に背かないようにしているだけでは、主が私たち各人から期待しておられる薫り高い修道的愛の実を結ぶことはできません。平凡な日常茶飯事の中での、主の声なき声に対する心の感覚を磨くことに努めましょう。そして主の招きに対する従順と神の愛の実践に心がけましょう。これが私たちの信仰生活、修道生活にとって一番大切なことだと思います。私たちの心の仕合わせと喜びも、信仰の確証もそこから生まれ育って来ます。本日のミサ聖祭の中で、そのための照らしと導きの恵みも主に願い求めましょう。

2011年1月16日日曜日

説教集A年:2008年1月20日年間第2主日(三ケ日で) 

第1朗読 イザヤ書 49章3、5~6節
第2朗読 コリントの信徒への手紙 1 1章1~3節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章29~34節

① 本日の第一朗読は、先日話したイザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第二の歌の一部です。本日の朗読箇所の少し前の1節には、「主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」とあって、主の僕は母の胎内にいた時から、神からの選び・召し出しを受けていたことを示しています。3節にはただ今朗読されたように、「あなたは私の僕イスラエル、あなたによって私の輝きは現れる」と神が話しておられますが、この「イスラエル」は、救いの恵みを受ける神の民イスラエルを代表し、象徴的に示している個人、人間イエスを指していると考えてよいと思います。「主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力」という言葉は、そのイエスの言葉と理解してよいと思います。

② 神の僕イエスは、神が「ヤコブ(の諸部族)を御もとに立ち帰らせ、イスラエル(の民)を集めるために、母の胎にあった私を御自分の僕として形づくられた」ことをはっきりと自覚しています。そして神の僕の使命について、神から告げられた言葉を伝えています。「私はあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらす者とする」という言葉です。第二イザヤを介して語られたこの預言の数百年後に、この世にお生まれになった人間イエスは、天の御父より与えられたこの使命を片時も忘れずに、救い主・メシアとしてのその御業をお始めになったと思われます。

③ その御業は、メシアの受難死によって挫折したのではありません。むしろその受難死と復活によって、あの世の永遠界と一層密接に結ばれた新しい段階、新しい次元へと大きく発展し、全世界の全ての民族に救いの恵みを豊かにもたらすものとなり、今なお続いているのです。主イエスがお与えになる超自然的救いの恵みを、全人類の中の一部の人間集団でしかないカトリック教会内だけにあるもの、と考えてはなりません。主イエスが創立なされて主の御教えを広めさせ、ミサ聖祭やその他の秘跡を行わせておられるキリストの教会は確かに豊かに救いの恵みを受けていますが、しかし主は、その教会の働きや祈りを介して、全人類に救いの恵みを注いでおられるのです。全てを何か不動の原則に従って合理的に考えようとする人間理性を退け、慈しみ深い神の愛の御旨に従うことを中心にする立場で考えるように致しましょう。メシアは、確かに「国々の光」となり、神の救いを「地の果てまでもたらす者」となっておられる、と思います。

④ 本日のミサの答唱詩編には、「神よ、あなたの不思議な業は数えきれず、そのはからいは類なく、私がそれを告げ知らせても、全てを語り尽くすことはできない」という詩編40番の言葉がありましたが、実際神の創造の御業も救いの御業も数多くの神秘に満ちていると思います。その神秘を感謝と驚きのうちに素直に受け止め、そこに人間中心の理知的説明などを持ち込まないよう気をつけましょう。

⑤ 本日の第二朗読はコリント前書冒頭の挨拶文ですが、その中にある「至る所で私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」という言葉に注目致しましょう。使徒パウロはこの言葉で、コリントにいる信徒団だけではなく、同時に世界各地の至る所でキリストによる救いの恵みを受けているすべての人を思い浮かべていると思います。その上で「イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にありますように」と、その挨拶文を結んでいるのだと思います。

⑥ 教会がこの挨拶文を本日の朗読聖書として採用したのは、召されて聖なる者とされ、キリストの恵みにあずかっている全世界の全ての人は、主イエス・キリストにおいて皆一つの民、一つの体にされているという、規模の大きな喜ばしい聖書の教えに従い、神の民全体と内的に結ばれて生活させるためであると思います。忽ち過ぎ去る目前の小さな現実、自分個人の成功・失敗、あるいは喜び・苦しみだけではなく、神の御前ではそれらが主において他の人たちの救いや成功・失敗、あるいは喜び・苦しみとも内的に関連していることを、見逃さないように心がけましょう。キリスト教一致祈祷週間にあたって、全てのキリスト教各派が個々の教派の枠を超えて、広い大らかな心で相互の幸せのために祈り、苦しみを献げる精神を広まるためにも尽力しましょう。

⑦ 福者マザー・テレサは、こんな話をなさったことがあります。「病気の人や体の不自由な人は、……自分の苦しみを捧げながら、(私と)完全なつながりをもって貢献しているのです。二人はまるで一人となり、お互いをもう一人の私と呼び合います。この前に訪れた時、そのもう一人の私は私に言いました。『あなたはこれから歩き回り、働き、人々に語り、ますます大変な時を迎えようとしているのが分かります。私の背骨の痛みが、そのことを語っています』と。彼女はその時、17回目の手術の直前でした。私が何か特別なことを実行する時はいつも、彼女が私の影となり、そのことを成し遂げる力と勇気の全てを、私に与えてくれるのです」という話です。

⑧ 使徒パウロもコリント後書1章に、「キリストの苦しみが満ち溢れて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れています。私たちが悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになります。また私たちが慰められる時、それはあなた方の慰めになり、あなた方が私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるためです。云々」と書いています。こうして遠く離れている人同志でも、主キリストにおいて苦しみや慰めを分かち合い助け合いながら信仰に生きることが、私たちにとっても大切なのではないでしょうか。私は、私がお世話になったドイツ人宣教師たちの模範に従って、煉獄といわれる清めの状態に置かれているあの世の霊魂たちのために、毎日小さな祈りや苦しみを献げていますが、時々その清めの霊魂たちに教えられ助けられたのではないかと思うような、小さな気付きや導き・助けなどを体験しています。それで、あの世の人たちも主において私たちと一つに結ばれており、互いに助け合うことができるのだと確信しています。

⑨ 本日の福音は、ヨルダン川で主イエスに悔い改めの洗礼を授けて天からの証しを目撃した洗礼者ヨハネが、そのイエスについて人々に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」という言葉で始まる証しをなした話であります。しかし、これについては先週の日曜日にも話しましたので、ここでは省きましょう。全人類の罪科を背負ってその赦しを神に願いつつ生き抜き、受難死を遂げられた神の御子キリストにおいて、私たちは皆一つの聖なる体の細胞のようになって、相互に深く結ばれている存在であることを思い、愛と信頼と希望のうちに互いに助け合い補い合って生きるよう心がけましょう。

2011年1月9日日曜日

説教集A年:2008年1月13日主の洗礼(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 42章1~4、6~7節
第2朗読 使徒言行録 10章34~38節
福音朗読 マタイによる福音書 3章13~17節


① 本日の第一朗読は、第二イザヤがバビロン捕囚時代のイスラエルの民に、神による解放の希望を予告した話の一節であります。イザヤ書には「主の僕の歌」と言われるものが四つありますが、本日の第一朗読の1節から4節までが、その最初のものであります。ユダヤ教では、この「主の僕」は誰か特定の人、例えばイスラエルの民をバビロン捕囚から解放したクロス王か預言者の誰かを指しているのか、それともイスラエルの民全体を指しているのか、などと議論された時代がありましたが、キリスト教では本日の福音にもあるように、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時に天から聞こえた声、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」に基づいて、主イエスを指していると信じています。

② 主イエスが「神の僕」として実際に歩まれたその生き方を、洗礼によって主イエスの命に内的に結ばれている私たちキリスト者からも、天の御父神は期待しておられ、私たちについても同じ「主の僕の歌」を語っておられるのではないでしょうか。弱い人間の力ではできない生き方ですが、主イエスの御命に深く一致することにより、可能な限り御父神のご期待に応えるよう心掛けましょう。そして少しでも多く、神の愛の道具となって多くの人の救いのために尽力するよう努めましょう。

③ 本日の第二朗読は、ヨッパで昼の祈りを捧げていた時に3回も幻の中で神の声を聞いた使徒ペトロが、カイザリアからの百人隊長コルネリオの使者たちに伴って、その異邦人の家に行った時に語った話の一部です。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」という言葉は、ペトロがヨッパで幻のうちに聞いた神の声に基づいています。神はユダヤ人・異邦人の区別なく、どんな国の人であっても、全ての人の主と立てられたイエスによって清くし、救って下さるのです。神から聖霊と力によって油注がれた者とされた主は、方々を巡り歩いて、ユダヤ人・異邦人の区別なく多くの人を助け、病気や悪魔に苦しめられている人たちを全て癒されたことを、ペトロはここで改めて思い出し、「それは、神がご一緒だったからです」と話しています。神よりの恵みや洗礼の恵みを、教会というこの世での人間集団や組織の枠内だけに限定して考えないよう気をつけましょう。善人にも悪人にも恵みの雨を降らせて下さる神は、時には教会という人間集団の規定を超えて、他の集団に属する人たちにも超自然の恵みを与えることをお望みになるのです。何よりもその神の御心に心の眼を向けながら、主イエスにおいて神の子とされる救いの恵みを、多くの人に伝えるよう心がけましょう。

④ 本日の福音に読まれるヨルダン川での主イエスの受洗は、メシアとしての「神の国宣教活動への就任式」と申してもよいと思います。主はメシアを待望していた一般民衆の列に加わり、民衆の一人となって洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるために、ヨハネの前に現れます。ヨハネはすぐ主を識別し、悔い改めの受洗を思い留まらせようとして、「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私の所へ来られたのですか」と申します。しかし主は、「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになります。

⑤ ここで「正しいこと」という言葉は、天の御父の御旨を指していると思います。天の御父は、メシアが救われるべき私たち罪人と全く同じ姿になり、か弱い乳飲み子となってこの世に生れ、ナザレの子供たちと遊びながら苛めや孤独も体験し、長じてヨゼフの仕事を手伝いながら汗水を流すことも、また民衆の一人となって社会の罪、多くの人の罪を背負って悔い改めの洗礼を受けることも、お望みになったのだと思います。洗礼者ヨハネはそのお言葉に従い、主を他の人たちと同様にヨルダン川の水の中に沈め、悔い改めの洗礼を授けました。主がその水の中から上がられると、それまで厚い雲に閉ざされていた天が主イエスに向かって開け、太陽の光が主を照らし出したようです。そして神の霊が鳩の姿で主の上に降り、天から「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という声が聞こえたのではないでしょうか。

⑥ それを目撃した洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書によると、主が後で自分の方に来られるのを見て弟子たちに、「御覧なさい。世の罪を除く神の小羊を。『私の後に来られる方は、私より優れておられる。私より先に存在しておられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。」「しかし、水の洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『あなたは、霊がある人の上に留まるのを見る。その方こそ聖霊によって洗礼を授ける者である』と言われた。私はそれを見た。それで私は、この方こそ神の子である、と証ししたのである」と話しています。「世の罪を除く神の小羊」という表現から察しますと、洗礼者ヨハネは、罪がないのに悔い改めの洗礼をお受けになった主イエスが、この世の社会の罪、全人類の罪を背負って、いけにえの小羊のように殺される運命にあることを見抜いており、その先駆者として神から派遣された自分も、同様に殉教する使命を神から戴いているのだと覚悟していたのではないでしょうか。

⑦ この話の中にある「私はこの方を知らなかった」という言葉に躓く人もいるようですが、察するに、母の胎内にいた時から聖霊の恵みに浴していたヨハネは、自分の血縁者・身内である人間イエスが神の子であることは、子供の時からよく聞き知っていたと思います。しかし、そのイエスの上に神の御旨がどのように働くのか、イエスがメシアとしての使命をどのように果たされるのかなど、イエスの人生の将来については何も知らずにいた、という意味なのではないでしょうか。天使のお告げによってイエスが神の子であること、ダビデの王座に就き、その治世が永遠に続くことは信じていた聖母マリアも、その子イエスの人生の将来に何が待っているかなどについては、始めは何も知らずにいたのではないでしょうか。それでイエスの周辺に起こる出来事を全て心の内に留め、神の御旨をたずね求めつつ考え合わせておられたのではないでしょうか。「信仰に生きる」「信仰の道を歩む」ということは、このようにしてまだ明らかに知らされていない神の御旨に心の眼を向けながら、信頼と希望の内に生きることだと思います。おそらく人間イエスも、この世においてはそのようにして信仰の道を歩んでおられたことでしょう。

⑧ 神から水の洗礼を授けるようにと派遣された洗礼者ヨハネも、その神から「あなたは霊がある人の上に降って留まるのを見るが、その方が聖霊によって洗礼を授ける者である」という啓示を受けた段階では、それが何時どのような形で起こるのかは全く知らず、聖母マリアと同様に自分の身の回りに起こる出来事を慎重に心の中で考え合わせながら、予告されたその出来事を目撃する日を待っていたのではないでしょうか。「私はこの方を知らなかった」という洗礼者ヨハネの言葉は、この事を指していると思います。

⑨ 私たちも、神が自分の人生の将来に何を予定しておられるか何も知りませんが、聖母や洗礼者ヨハネたちのように、身の回りに起こる全ての出来事を心に留めて考え合わせつつ、絶えず神の御旨をたずね求めていましょう。神の御導きを正しく発見し、それに一層よく従うことができますように。