2014年5月25日日曜日

説教集A2011年:2011年復活節第6主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 8章5~8、14~17節
第2朗読 ペトロの手紙1 3章15~18節
福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~21節

  カトリック教会は1967年以来復活節第6主日を「世界広報の日」として、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ等のマスメディアが、人々に必要な真実を正しく伝えて人類の平和と福祉に一層良く貢献するように祈る日としています。現代には人の心を汚染するマスコミの力が大きくなっていますので、それが偏狭な危険な思想や権力などにゆがめられることのないように、神による導きと助けが望まれています。それで、本日のミサ聖祭はこの目的のため、神からの真理と豊かな恵みと祝福とを願い求めて、お献げ致します。ご一緒にお祈り下さい。

  本日の第一朗読は、使徒たちからステファノたちと一緒に使徒的奉仕職に叙階されたフィリッポの、サマリア布教について伝えています。サマリア人たちはフィリッポがなす数々の奇跡的癒しを見聞きして、その説教にも耳を傾けるようになり、受洗してキリスト信者になったようです。主イエスもなさったように、病人を癒す奇跡など神の現存と愛を証しする慈善活動は、宣教のために大切であります。しかし、それは神の現存と愛を証しするためであることを忘れてはならないと思います。主イエスは、単なるこの世的人助けの社会事業として癒しの奇跡をなさったのではありません。人助けの社会活動は、神を信じない人たちもやっています。主は、何よりも人々が御自身の内におられる神の現存と愛を信じて、神からの新しい呼びかけに心の耳を傾け、神の声に聴き従いつつ生活することを切望しつつ、数多くの癒しの奇跡をなさったのだと思います。

  現代でも、人間の科学では説明できない癒しの奇跡が世界の各地で、しかもキリスト者でない異教徒たちの間でも、熱心に神の助けを祈り求める人たちの間で実際に起こっているようです。私は個人的に、その背後には死ぬことのないあの世の命に復活なされた主キリストが、実際に働いておられるのだと感謝の内に信じています。そして私たちが日々捧げているミサ聖祭のいけにえが主のその御働きの基盤であり、父なる神の御憐れみをこの世の人々の上に呼び下すパイプになっていると信じ、洗礼によりキリストの普遍的祭司職に参与している私たちキリスト者は、多くの病者や苦しむ人たちの救済のためにも、私たちの日々の祈りや働きをミサのいけにえに合わせ、心を込めて神に御献げすべきだと考えています。

  本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「心の中でキリストを主と崇めなさい。云々」と述べていますが、この勧めは、生き方の個人主義が普及しつつある現代社会の流れに生きる私たちにとって大切だと思います。国家も会社も家庭も古来の温かい家族的共同体精神を失って、内的に崩壊しつつあるように見えるからです。こういう時代には、もはや死ぬことのない霊的な命に復活し、目に見えないながらも世の終わりまで私たちの中に現存して働いて下さる主イエスを、各人がそれぞれ自分の心の主と崇め、主と内的にしっかりと結ばれて生活することが、現代流行の個人主義の孤独感やあらゆる困難・不安に耐えて安らかに生きる道だと信じます。現代人は日常的に危険と隣り合わせの生活を営んでいます。交通事故・通り魔事件・詐欺強盗殺人等々、それらの危険から護られるためには、各人の心の目覚めと、善き牧者キリストの御声の聴き分けが特に大切だと思います。今年の東日本大震災を機に、「もし全能の憐れみ深い神が実存するなら、なぜこんな無残な悲劇を回避してくれないのか」などという声も聞かれたようですが、人間が本来虚無であること、このように生活しておれるのは偏に神のお蔭であることを自覚し、神への感謝の心で生きていない自我中心・わが党中心の人たちの言葉だと思います。先日中央大学名誉教授の眞田芳憲(さなだよしのり)氏の長年の研究を短く纏めた『胎児の尊厳と生命倫理』という著書を読んで驚いたのですが、戦後の一時期「堕胎王国」と言われたわが国では、その後も非常に多くの人工妊娠中絶が毎年数十万と続けられており、昭和24年から一昨年までの60年間に実に3779万人以上の胎児が殺されています。これでは神がお怒りになり、阪神大震災・中越大震災・東日本大震災などとさまざまな災害で、現代日本人の目覚めと改心をお求めになるのは当然と思います。もっと恐ろしい災害が、近い内にわが国に襲い掛かるかも知れません。私たちも、人間中心主義者たちの目覚めと変革のため、真剣に尽力しましょう。

  本日の福音に読まれる主のお言葉は、心の拠り所を失って悩み苦しむ人の多い現代の精神的危機の下に生活する、私たちに対する御言葉でもあると思います。主はおっしゃいます。「私の掟を受け入れ、それを守る人は私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す」と。主がお定めになった「私が愛したように互いに愛し合いなさい」という無償の献身的愛の掟一つを忠実に守り抜くなら、外の世界がどのように変わろうとも心配いりません。私たちは主イエスに愛されて、逞しく生き抜くことができます。主は「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を派遣して、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は、真理の霊である」ともおっしゃいます。主を愛しその掟を守る魂の中には、神の愛の霊・聖霊も天の御父から派遣されて永遠に住んで下さり、各人の魂を「聖霊の神殿」として下さるのです。主のこのお言葉を堅く信じて、大きな希望と喜びの内に生活するよう心がけましょう。

2014年5月18日日曜日

説教集A2011年:2011年復活節第5主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 6章1~7節
第2朗読 ペトロの手紙1 2章4~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 14章1~12節

  第一朗読にギリシャ語を話すユダヤ人たちの苦情がありますので、始めに少し説明しましょう。紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王がペルシャ軍を撃退して、オリエント諸国をギリシャ人の支配する国となし、高度に発達したギリシャ文明を各国に広めると、ギリシャ語は国際語となって定着し、紀元前1世紀の後半にローマの将軍アントニウスがオリエント諸国を征服してローマの支配下に置いても、ローマ人のラテン語ではなく、すでに国際語として定着していたギリシャ語が、シリア、エジプトなどの各国で話されており、ローマ帝国の下で国際貿易が盛んになり商人や労務者の人口移動が激増すると、ローマをはじめ当時のイタリア諸都市でもギリシャ語が話されるようになりました。それで紀元前3世紀頃から大勢のユダヤ人がユダヤから移住して、エジプトやその他の地中海沿岸諸国で活躍するようになると、故国ユダヤ以外の土地で生まれ育ったユダヤ人の中にはヘブライ語を知らない人たちが増えたので、旧約聖書のギリシャ語訳が紀元前3世紀の中頃からエジプトで作られました。「七十人訳」と呼ばれるこのギリシャ語聖書は、ローマ帝国の支配下で異邦人たちにも広く読まれるようになりました。そういう異邦人でユダヤ教の会堂礼拝に参加していた人たちは、使徒言行録の中で「神を畏れる人たち」で呼ばれています。初代教会の異邦人伝道が目覚ましい発展を遂げたのは、既にこのような文化的地盤が築かれていたからです。新約聖書の原文も、全てギリシャ語で書かれています。ローマの信徒団に宛てた使徒パウロの書簡も、ラテン語ではなくギリシャ語で書かれています。使徒たちはギリシャ語を話すだけで、どこの国でも宣教することができたのです。

  ところで、そのギリシャ語圏出身のユダヤ人キリスト者たちがエルサレムで滞在した時、日々の食料の分配などで差別扱いを受け、苦情が出たというのは何故でしょうか。察するに、エルサレムの信徒たちが全財産を共有にして生活していた所に、外地に夫々自分の私有財産を持つ信徒たちが来て、エルサレムの信徒たちと食事を共にしようとしたからなのではないでしょうか。外地の出身者たちは、それぞれ自分たち独自の組織を結成して生活した方が良いというのが、エルサレムの信徒たちの考えであったと思います。そこでペトロは、他の使徒たちと外地出身の信徒たちの代表者たちを呼び集め、「私たちが神の言葉を蔑ろにして、食事の世話をするのは好ましくない。云々」という話をし、外地出身者たちの中からステファノたち七人を選ばせたのだと思います。使徒たちは祈ってこの七人の上に按手し、彼らにギリシャ語圏出身の信徒たちを組織し指導する、使徒的権限を譲渡しました。食事の世話をする務めだけに任命したのではありません。ステファノやフィリッポたちのその後の活動を見ますと、説教したり宣教したり秘跡を授けたりしていますから。按手によって叙階の秘跡を受けた七人を中核として、ギリシャ語圏出身者の信徒団が結成されのだと思われます。

  「私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」という、使徒ペトロの言葉にも注目しましょう。公生活中の主イエスは政治活動などは一切なさらずに、ひたすら祈りと神の御言葉を宣べ伝えることとに専念しておられ、ご自身が神から派遣されて来たという証しに、病人や悪魔つきの奇跡的癒しや、死者の蘇りなどの奇跡をなしておられました。ペトロはこの御模範から学んで、食物の分配などという一種の社会的政治的活動などには手をつけず、それらを一般の信徒たちに委ねて、主の聖なる司祭職に叙階された者たちは、何よりも主イエスのように祈りと神の御言葉の奉仕に専念すべきである、と考えたのだと思われます。主が話された「葡萄の木」の譬えからも学んで、葡萄の蔓として主の恵み・主の働きを人々に伝えることだけに、全身を打ち込んでいようと思ったのかも知れません。第二ヴァチカン公会議後に中南米の一部の聖職者たちが「解放の神学」を唱えて、カトリック教会内に政治活動を盛んにしようと努めたことがありましたが、教皇がその人たちの人間的善意は認めながらも、それは聖職者の政治活動を許していない、「現代世界憲章」第76項の公会議決議に反することとして退けました。主によって選出されこの世に派遣されている聖職者たちは、何よりも主の模範にならって神をこの世に現存させ、神の御旨に従って神の働きの道具であろうと心がけるべきなのだと思います。その時聖職者の内に内在しておられる主が、周辺の社会や人々のために働いて下さるのではないでしょうか。

  本日の福音の中で、主は「私は道であり」「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」「父が私の内におられることを信じないのか」などと話しておられます。これらの御言葉は、主がご自身を天の御父の寵愛と恵みをこの世の人々に届けるための道、そして人々を天の御父へと導くための道と考えておられたこと、また天の御父がご自身の内に実際に現存して語ったり働いたりしておられることを、生き生きと実感しておられたことを示していると思います。その主が受難死の後に復活し、多くの人の見守る中で天にお昇りになると、主はもうこの世から遠く離れたあの世に行ってしまわれたのだ、主の創立なされた教会は弟子たちとその後継者たちにお任せして、などと考える人がいるかも知れません。それは主がかつて警戒するようにと警告なされた、「ファリサイ派のパン種」だと思います。ファリサイ派は神を敬虔に信奉しながらも、その神をこの世から遠く離れた所におられる存在と考え、目前にいる主イエスがどれ程ご自身が神の子であることを明言し証ししても、それを信じようとはせずに、主を「神を冒涜する者」と受け止めていました。私たちも気をつけましょう。あの世は神のように遍在で霊的に小さなこの世を覆い包んでいますので、復活なされた主は霊的にこの世の至る所に現存し、目には見えなくてもいつも私たちの目前に臨在しておられます。叙階の秘跡で聖別された聖職者たちだけではなく、洗礼の秘跡によって主の普遍的祭司職に参与している信徒や修道者たちも、それぞれ分に応じて主のこのような現存に参与しているのです。本日の第二朗読の中でペトロは、「あなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言っていますが、私たちもそれぞれ、自分の内での主イエスの現存を信じ、その生き方を体現するよう努めましょう。その時、神が私たちを豊かに祝福して下さいます。

2014年5月11日日曜日

説教集A2011年:2011年復活節第4主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 2章14a、36~41節
第2朗読 ペトロの手紙1 2章20b~25節
福音朗読 ヨハネによる福音書 10章1~10節 

  本日の第一朗読と第二朗読は、一週間前の日曜日と同様、聖霊降臨直後の聖ペトロの説教からの引用と、ペトロ前書からの引用であります。第一朗読の中でペトロは、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神が主としメシアとなさった」ことを、「はっきりと知らなくてはなりません」と説いていますが、ここで述べられている「あなた方が」は、神を信じている人たちをも含め、全人類と考えてよいと思います。神を信じながらも、心の奥底に潜む自己中心主義に克てずに犯してしまう弱さの罪、神の愛に背くそういう罪を償うためにも、主キリストは十字架刑の苦しみと死を神から受けて下さったのです。心の片隅にそういう罪が少しでも残っている限り、霊魂はいつまでも神中心の聖さと純粋さに輝いている天国に、入れてもらうことができないのですから。私たちは、まずこのことをはっきりと自覚しなければならないというのが、使徒ペトロを介して話された聖霊の教えなのではないでしょうか。私たちも、この事を心に銘記していましょう。
  この話を聞いた人々は「大いに心を打たれ」、「私たちはどうしたら良いのですか」と尋ねたとあります。ペトロはそれに対して、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と話しています。ここで言われている「悔い改めなさい」(原文でmetanoesate)という言葉は、単に心を神の方に向けるというだけの意味の「回心しなさい」ではありません。しっかりと目覚めて、心の奥底から自分の考えや生き方を根本的に変更しなさい、という強い意味の言葉であります。自分の幸せのためには神をも利用しようとするような心で目を神の方に向けても、救いの恵みは頂けません。「キリストの名によって」と邦訳されている言葉は、直訳するなら「キリストの名の内に」、すなわちキリストの新しい生命の内に入ってという意味で、「洗礼」は以前にも申しましたように、自分中心のこれまでの考えや生き方に死んで、キリストの命に生かされ、神中心の新しい生き方を始めることを指しています。そうすれば、キリストの御功徳によって心の奥底に宿る古いアダムの罪を赦して頂けるのです。そして我なしのその心の中に、神の愛・聖霊が宿り、働いて下さるのです。
  ペトロは、この他にもいろいろの話をして、「邪悪な(今の)この時代から救われなさい」と勧めたようですが、この言葉は、現代に生きる私たちにとっても、忘れてならない勧めであると思います。個人主義・自由主義・自己中心主義の繁茂する現代世界は、恐ろしい自己破滅への道に落ち込みつつあるようですから。余談になりますが、先日ある新聞に、紀元前1世紀に『史記』という歴史書を著した司馬遷が、前漢の景帝に仕えた李広という人の人柄を讃えて、「桃李言わざれど、下おのずから道を成す」と表現しているのを知り、感心しました。「桃李」すなわち桃や李(すもも)は、今美しく咲いているから見に来なさい、などと自己宣伝はしません。ただ黙々とみずからの勤めとして精一杯に花を咲かせ、あるいは実を実らせているだけですが、その素直な美しさや豊かさに惹かれて人々が訪れるので、下にはおのずと小道ができる、という意味だと思います。
  この三ケ日から遠くない奥山辺りにも、人が誰も来ないような奥まった所で、大きく枝を広げて咲いている山桜に出会って深い感動を覚えたことがあります。それは人に見せるため褒めてもらうためではなく、ただ自分に命を与えて下さった創り主・神のために、無心に多くの花を咲かせていたのだと思います。日本社会の片隅に慎ましく暮らしている私たちも、神目指してそのような素朴な美しさの花を咲かせ、たくさんの小さな実をお献げ致しましょう。世の人には知られず、誰にも注目されなくて良いのです。この美しい三ケ日周辺の山々には、誰にも注目されずにただ黙々と美しく咲いている数多くの草や木の花を見かけます。それらの花々とも心を合わせて、私たちも神のために美しい花を咲かせましょう。自然界の無数の花々に心を向けていましたら、ふと祭壇の蝋燭や祭壇を飾る花々にも心を向けるようになりました。何んにも言いませんが、彼らもある意味で心を持っており、日々ミサ聖祭が捧げられる祭壇を飾っていることに、喜びを覚えているのではないでしょうか。私が生まれた昭和5年に26歳で死んだ童謡詩人金子みの詩が、8年前に10巻の朗読CDとなってNHKから発売されましたので、すぐにそれを購入して聴き親しんでいるうちに、祭壇の蝋燭や花々についても、そのように思うようになりました。そのような詩人の眼で私たちの身近にある事物を眺める時、この修道院には世の人々のまだ知らない喜びがたくさん潜んでいるように思います。隠れている小さな事物や物事をことの外お喜びになる神様も、それらの喜びに特別に眼をかけておられると存じます。私たちもその神と共に生きるように、心掛けましょう。
  本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」ことが神の御心に適うことであり、あなた方はそのために召されたのであり、魂の牧者キリストも苦しみを受け、私たちがその後に続くようにと模範を残されたのだ、と説いています。野獣に餌食として狙われ勝ちな羊は、自分独りでは愚かで弱い存在ですが、自己中心に生きるのではなく、神よりの魂の牧者に従って生きるなら安全であり、たとい病気や誤解や苦難に苛まれることがあったとしても、その試練によく耐えて一層価値の高い存在に高められることができます。あくまでも主の模範に従って苦しみを恐れず、主の導きにつき従って、清く美しく生き抜きましょう。
  本日の福音は、「良い牧者のたとえ」と言われる話です。「門を通らずに、他の所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」という主のお言葉は、主の教会という囲いの中に入っていても、神中心の主イエスの信仰精神に生きていない指導者が、次々と遠慮なく侵入して来るという、悲しい現実が起こり得ることについて警告していると思います。現代の私たちも気をつけ、何よりも主キリストの御声を正しく聞き分けつつ、主の御声に従って歩むよう心掛けましょう。復活節の第四主日は以前から「良い牧者の主日」と呼ばれていて、良い牧者・主キリストのお声を聞き分け、それに従う決意を新たにする日とされていますが、最近は同時にその良い牧者の器となって人々を神に導く、司祭・修道者の召命のために祈る「世界召命祈願の日」ともされています。このミサ聖祭の中で、司祭・修道者の召命のためにも心を合わせて主に祈りましょう。