2014年5月11日日曜日

説教集A2011年:2011年復活節第4主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 2章14a、36~41節
第2朗読 ペトロの手紙1 2章20b~25節
福音朗読 ヨハネによる福音書 10章1~10節 

  本日の第一朗読と第二朗読は、一週間前の日曜日と同様、聖霊降臨直後の聖ペトロの説教からの引用と、ペトロ前書からの引用であります。第一朗読の中でペトロは、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神が主としメシアとなさった」ことを、「はっきりと知らなくてはなりません」と説いていますが、ここで述べられている「あなた方が」は、神を信じている人たちをも含め、全人類と考えてよいと思います。神を信じながらも、心の奥底に潜む自己中心主義に克てずに犯してしまう弱さの罪、神の愛に背くそういう罪を償うためにも、主キリストは十字架刑の苦しみと死を神から受けて下さったのです。心の片隅にそういう罪が少しでも残っている限り、霊魂はいつまでも神中心の聖さと純粋さに輝いている天国に、入れてもらうことができないのですから。私たちは、まずこのことをはっきりと自覚しなければならないというのが、使徒ペトロを介して話された聖霊の教えなのではないでしょうか。私たちも、この事を心に銘記していましょう。
  この話を聞いた人々は「大いに心を打たれ」、「私たちはどうしたら良いのですか」と尋ねたとあります。ペトロはそれに対して、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と話しています。ここで言われている「悔い改めなさい」(原文でmetanoesate)という言葉は、単に心を神の方に向けるというだけの意味の「回心しなさい」ではありません。しっかりと目覚めて、心の奥底から自分の考えや生き方を根本的に変更しなさい、という強い意味の言葉であります。自分の幸せのためには神をも利用しようとするような心で目を神の方に向けても、救いの恵みは頂けません。「キリストの名によって」と邦訳されている言葉は、直訳するなら「キリストの名の内に」、すなわちキリストの新しい生命の内に入ってという意味で、「洗礼」は以前にも申しましたように、自分中心のこれまでの考えや生き方に死んで、キリストの命に生かされ、神中心の新しい生き方を始めることを指しています。そうすれば、キリストの御功徳によって心の奥底に宿る古いアダムの罪を赦して頂けるのです。そして我なしのその心の中に、神の愛・聖霊が宿り、働いて下さるのです。
  ペトロは、この他にもいろいろの話をして、「邪悪な(今の)この時代から救われなさい」と勧めたようですが、この言葉は、現代に生きる私たちにとっても、忘れてならない勧めであると思います。個人主義・自由主義・自己中心主義の繁茂する現代世界は、恐ろしい自己破滅への道に落ち込みつつあるようですから。余談になりますが、先日ある新聞に、紀元前1世紀に『史記』という歴史書を著した司馬遷が、前漢の景帝に仕えた李広という人の人柄を讃えて、「桃李言わざれど、下おのずから道を成す」と表現しているのを知り、感心しました。「桃李」すなわち桃や李(すもも)は、今美しく咲いているから見に来なさい、などと自己宣伝はしません。ただ黙々とみずからの勤めとして精一杯に花を咲かせ、あるいは実を実らせているだけですが、その素直な美しさや豊かさに惹かれて人々が訪れるので、下にはおのずと小道ができる、という意味だと思います。
  この三ケ日から遠くない奥山辺りにも、人が誰も来ないような奥まった所で、大きく枝を広げて咲いている山桜に出会って深い感動を覚えたことがあります。それは人に見せるため褒めてもらうためではなく、ただ自分に命を与えて下さった創り主・神のために、無心に多くの花を咲かせていたのだと思います。日本社会の片隅に慎ましく暮らしている私たちも、神目指してそのような素朴な美しさの花を咲かせ、たくさんの小さな実をお献げ致しましょう。世の人には知られず、誰にも注目されなくて良いのです。この美しい三ケ日周辺の山々には、誰にも注目されずにただ黙々と美しく咲いている数多くの草や木の花を見かけます。それらの花々とも心を合わせて、私たちも神のために美しい花を咲かせましょう。自然界の無数の花々に心を向けていましたら、ふと祭壇の蝋燭や祭壇を飾る花々にも心を向けるようになりました。何んにも言いませんが、彼らもある意味で心を持っており、日々ミサ聖祭が捧げられる祭壇を飾っていることに、喜びを覚えているのではないでしょうか。私が生まれた昭和5年に26歳で死んだ童謡詩人金子みの詩が、8年前に10巻の朗読CDとなってNHKから発売されましたので、すぐにそれを購入して聴き親しんでいるうちに、祭壇の蝋燭や花々についても、そのように思うようになりました。そのような詩人の眼で私たちの身近にある事物を眺める時、この修道院には世の人々のまだ知らない喜びがたくさん潜んでいるように思います。隠れている小さな事物や物事をことの外お喜びになる神様も、それらの喜びに特別に眼をかけておられると存じます。私たちもその神と共に生きるように、心掛けましょう。
  本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」ことが神の御心に適うことであり、あなた方はそのために召されたのであり、魂の牧者キリストも苦しみを受け、私たちがその後に続くようにと模範を残されたのだ、と説いています。野獣に餌食として狙われ勝ちな羊は、自分独りでは愚かで弱い存在ですが、自己中心に生きるのではなく、神よりの魂の牧者に従って生きるなら安全であり、たとい病気や誤解や苦難に苛まれることがあったとしても、その試練によく耐えて一層価値の高い存在に高められることができます。あくまでも主の模範に従って苦しみを恐れず、主の導きにつき従って、清く美しく生き抜きましょう。
  本日の福音は、「良い牧者のたとえ」と言われる話です。「門を通らずに、他の所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」という主のお言葉は、主の教会という囲いの中に入っていても、神中心の主イエスの信仰精神に生きていない指導者が、次々と遠慮なく侵入して来るという、悲しい現実が起こり得ることについて警告していると思います。現代の私たちも気をつけ、何よりも主キリストの御声を正しく聞き分けつつ、主の御声に従って歩むよう心掛けましょう。復活節の第四主日は以前から「良い牧者の主日」と呼ばれていて、良い牧者・主キリストのお声を聞き分け、それに従う決意を新たにする日とされていますが、最近は同時にその良い牧者の器となって人々を神に導く、司祭・修道者の召命のために祈る「世界召命祈願の日」ともされています。このミサ聖祭の中で、司祭・修道者の召命のためにも心を合わせて主に祈りましょう。