2014年1月12日日曜日

説教集A2011年:2011年主の洗礼(三ケ日で)



第1朗読 イザヤ書 42章1~4、6~7節
第2朗読 使徒言行録 10章34~38節
福音朗読 マタイによる福音書 3章13~17節

   イザヤ書には「主の僕の歌」と言われるものが四つありますが、本日の第一朗読の1節から4節までが、その最初のものであります。キリスト教では、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時に天から聞こえた声、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」に基づいて、第二イザヤの書に読まれるこの「主の僕」は、主イエスを指していると信じています。洗礼によってその主イエスの命に内的に結ばれている私たちキリスト者からも、天の御父は「神の僕」として生活することを期待しておられ、私たちについても、預言者を通して同じ「主の僕の歌」を語っておられるのではないでしょうか。「神の僕」として生活することは弱い人間の力ではできないことですが、主イエスの御命に深く一致することにより、可能な限り御父神のご期待に応えるよう心掛けましょう。そうすれば神の救う力が、私たちの平凡な生活を通してもこの世に働き始め、私たちの人生は神の愛の道具となって、多くの人に神による救いの恵みを伝えるようになります。

   皆様は、神によるそのような働きを実感なさったことがありますでしょうか。察するに、幾度体験してもそれと気づかずに生活しており、そして時間と共に全てを忘れておられるかも知れません。しかし神は、皆さまのお心にそれと気づかれなくても、実際に皆様の何気ない言行や祈りや日常生活をご自身の愛の道具として、世の人々に密かに救いの恵みを注いでおられるのではないでしょうか。主イエスの御聖体を拝領して誠実に生きている無数の「神の僕・婢」たちに対する、神のその隠れた愛のお働きに、本日まとめて感謝申し上げましょう。毎週いろいろと家の外へ出歩くことの私は、御自身の僕に対する神の愛のそのような不思議な御配慮やお働きを実感させられることが、度々ございます。

   多忙のため長く伸びた髪の毛のままクリスマスとお正月のお祝いをした私は、先日も懇意の理髪店が14日から開業することは知っていましたが、たくさん頂戴した年賀状の返信に追われていて出かけるのが遅くなり、バス時間ぎりぎりに走ってバス通りに来ましたら、歩行者用の青信号が点滅していたので、そこも走って横切りバス停に着きましたら、ちょうど時間通りにバスが来てすぐに乗ることができました。もしあの時走って道路を横切らなかったら、そのバスに乗ることはできませんでした。「八事」という地下鉄駅前のバス停で下車したら、ちょうど地下鉄駅から地上に昇って来た人がエレベーターを降りた所でしたので、すぐそれに乗って降り、地下鉄のホームに立ちましたら、列車が到着する所でした。そこは7分置きに列車が通る駅ですので、1本遅れても構わないのですが、その列車に乗って目指す理髪店に行きましたら、二人いる理髪師の一人が空いていて、すぐに始めてもらうことができました。するとその5分後までの間に次々と三人もその店に来て順番を待ち始めましたから、ああ、あの時エレベーターに、また地下鉄に乗れなかったら、自分は一時間以上もこの店で待たされただろうに、と不思議な神の計らいに感謝しました。このような小さな幸運を、私は日頃数多く体験していますので、その体験から私の小さな子供心は、神は確かにおられる、そして私の全てをいつも見ておられると確信するに至り、私は神現存のその確信にミサの時も祈りの時も大いに助けられています。またそれによって、その時その時の神の働きや導きに対する心のセンスも、次第に磨かれて来るように感じています。神の現存を頭で考えるのではなく、小さな体験の積み重ねによって私たちの奥底の心が目覚めて、神の現存を実感するようになること。これが一番大切なことだと思います。

   本日の福音によりますと、洗礼者ヨハネは「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私の所に来られたのですか」と言って、主に受洗を思いとどまらせようとしたようですが、主はそれに対して、「正しいことを全て行うのは我々に相応しいことです」とお答えになって、ヨハネによる水の洗礼をお受けになりました。ここで「正しいこと」とあるのは、律法や道徳の順守のことではなく、天の御父のその時その時のお導きや御旨に従うことを指していると思います。天の御父は、メシアが救われるべき私たち罪人と全く同じ姿になり、か弱い乳飲み子となってこの世に生れ、ナザレの子供たちと遊びながら苛めや孤独も体験し、長じてヨゼフの仕事を手伝いながら汗水を流すことも、また民衆の一人となって社会の罪、多くの人の罪を背負って悔い改めの洗礼を受けることも、お望みになったのだと思います。洗礼者ヨハネはそのお言葉に従い、主を他の人たちと同様にヨルダン川の水の中に沈め、悔い改めの洗礼を授けました。主がその水の中から上がられると、それまで厚い雲に閉ざされていた天が主イエスに向かって開け、太陽の光が主を照らし出したようです。そして神の霊が鳩の姿で主の上に降り、天から「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という声が聞こえたのではないでしょうか。教会や修道会の規則の順守は私たちの信仰生活の基盤であって、神が私たちから何よりも求めておられるのは、主キリストと一致してその時その時の神の働きや導きに対する心のセンスを磨き、それに従って「神の僕、婢」として生きることなのではないでしょうか。そこに新約時代の信仰生活の特徴があると思います。私たちは主と共にそのような信仰生活を営んでいるでしょうか。

   神が今年一年、また私たちの人生の将来に何を予定しておられるかは何も知りませんが、復活の主キリストと共に、また聖母や洗礼者ヨハネたちのように、身の回りに起こる全ての出来事の中で、絶えず神の御旨をたずね求めていましょう。特に人目につかないような小さな事柄を無視しないよう、気を付けましょう。そして小さな奉仕、小さな節制などを大切にしましょう。すると不思議なほど、神の御導きに対する心のセンスが磨かれて行くのを覚えるようになります。神はそういう小さな平凡な事柄の中に隠れて私たちを観察し、私たちの心が神の方に来るのを待ちうけておられるのではないでしょうか。私たちの人生の本当の喜びや成功の秘訣は、その隠れておられる神を正しく発見し、その神と共に生きることの中に隠されているように思います。その恵みを絶えざる実践によって自分のものとなすことを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。