第1朗読 イザヤ書 49章3、5~6節
第2朗読 コリントの信徒への手紙 1 1章1~3節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章29~34節
①
本日の第一朗読は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の二番目の歌の一部です。本日の朗読箇所の少し前の1節には、「主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」とあって、主の僕は母の胎内にいた時から、神からの選び・召し出しを受けていたことを示しています。3節にはただ今朗読されたように神が、「あなたは私の僕イスラエル、あなたによって私の輝きは現れる」と話しておられますが、この「イスラエル」は、救いの恵みを受ける神の民イスラエルを代表している個人、主イエスを指していると考えてよいと思います。「主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力」という言葉は、そのイエスの言葉と理解してよいでしょう。神の僕イエスは、神が「ヤコブ(の諸部族)を御許に立ち帰らせ、イスラエル(の民)を集めるために、母の胎にあった私を御自分の僕として形づくられた」ことをはっきりと自覚しています。そして神の僕の使命についても、神から告げられたお言葉を伝えています。「私はあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらす者とする」というお言葉です。
②
この神のお言葉に読まれる「イスラエルの残りの者」という言葉は、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書など旧約聖書の預言書に、「シオンの残りの者」「ヤコブの残りの者」などと多少形を変えながら30回以上も登場していますが、いずれも神の民が神と交わした契約を忘れ、神の御旨中心の敬虔な信仰精神から離れて、この世の人間中心、自分の望みや考え中心の精神で生活した罪のために大きな天罰を受けた時、神の助けを願い求めつつその厳しい試練に耐えて神中心主義の信仰精神に復帰し、生き残った人たちを指しているようです。神は御自身を信奉する民に対しても、もしその民が自分の望みや考え中心の「古いアダム」の罪によって神に反旗を翻すなら、その民の心を目覚めさせ悔い改めさせるために恐ろしい程悲惨な天罰をお与えになる、真に怖ろしいお方であり、厳しい教育者なのです。その試練を受けても心が目覚めず悔い改めない者たちは滅びるでしょうが、奥底の信仰と愛の心が目覚めて神中心の精神に立ち帰る人たちは、神の恵みを受けて以前より遥かに熱心に神の御旨中心に生きるようになるのです。
③
神の僕・主イエスは、神よりの厳しい試練に耐えて生き残る、神の民イスラエルの「残りの者を連れ帰らせる」という神よりの使命と、同じく第二イザヤ書に読まれる「私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらす者とする」という神のお言葉の実現のため、罪人たちの群れに伍して洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、公生活をお始めになったのではないでしょうか。その御業はメシアの受難死によっても挫折せず、むしろその受難死と復活によって、あの世の永遠界と一層密接に結ばれた新しい段階、新しい次元へと大きく発展し、全世界の全ての民族に救いの恵みを豊かにもたらす御業となり、今も続いているのです。主イエスがお与えになる超自然的救いの恵みを、全人類の中の一部の人間集団でしかない、カトリック教会内だけにあるものと考えてはなりません。第二ヴァチカン公会議はカトリック教会を、神による救いの恵みを全人類に伝える普遍的な原秘跡としています。主イエスが創立なされて主の御教えを広めさせ、ミサ聖祭やその他の秘跡を行わせておられるキリストの教会は確かに豊かに救いの恵みを受けていますが、しかし主は、その教会の働きや祈りを介して、全人類にも救いの恵みを注いでおられるのです。神による救いの恵みをカトリック教会内だけに限定して考えよう説明しようとする視野の狭い人間理性を退け、果てしなく神秘で慈しみ深い神の愛の御旨に従うことを中心にする立場で考え、神の僕・婢として、今はまだ自分でよく理解できずにいる神の愛の御旨にも、神への愛と信頼の精神で従うように努めましょう。復活なされた主キリストは、確かに世界中の「国々の光」となり、神の救いを「地の果てまでもたらす者」となっておられると信じます。
④
本日の福音は、ヨルダン川で主イエスに悔い改めの洗礼を授けて天からの証しを目撃した洗礼者ヨハネが、そのイエスについて人々に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」という言葉で始まる証しをなした話であります。しかしその洗礼者ヨハネは、本日の福音の中で二度も、「私はこの方を知らなかった」と話しています。この言葉は、どう受け止めたらよいでしょうか。ルカ福音書によると、ヨハネは母の胎内にいた時から聖霊に満たされた人間ですし、この世に生まれ出た時には、聖母マリアのように「古いアダム」の罪の穢れを持たない人であったと思われます。そして聖母を介して血縁関係にあるナザレのイエスについても、イエスが天使から「神の御子」、「ダビデの王座に就き、ヤコブの家をとこしえに治める」と啓示された人であることなどは知っていたと思われます。そのイエスが民衆に伍して洗礼の受けに来た時、「私こそあなたから洗礼を受けるべき身なのに、云々」と言ったのですから。ではヨハネはなぜ、「私はこの方を知らなかった」と話したのでしょうか。私はこの言葉から、御自身を「主の婢」と称した聖母と同様、ヨハネもひたすら「主の僕」として神秘な神の御旨中心に、測り知れないその御旨の実現のため生きようとしていたと考えます。聖母マリアは神の御子の母となった後にも、その御子がどのようにして人類救済の御業を成し遂げるのか、またそのため御自身が将来どれ程苦しまなければならないか、などのことについては全く知らずに、ただその時その時に示される神の御旨に「神の婢」として忠実に従っておられたのではないでしょうか。同様に洗礼者ヨハネも主イエスや自分の将来については全く何も知らずに、その時その時の神の御旨に神の僕として従っていたのだと思います。「霊が降って留まるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける」という神の啓示通りの事実を目撃した後に初めて、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言するようになったのも、神の御旨への従順第一に生きていたからだと思います。私たちも、同様に生活しましょう。