2008年11月30日日曜日

説教集B年: 2005年11月27日:年待降節第1主日 (三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. イザヤ 63:16b~17, 19b, 64: 2b~7. Ⅱ.コリント前 1: 3~9. Ⅲ. マルコ福音 13: 33~37.

① 本日の第一朗読の少し前にあるイザヤ63章の1~6節には、悪の勢力に対する神の報復について述べられいますが、「私はただ独りで酒舟を踏んだ」「私は怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた」などと、全能の神が降す終末の日の天罰には、この世のどんな勢力も無力であることが描かれています。しかし、そこでも「贖いの年が来たので」という言葉が読まれ、その恐るべき報復の日が同時に神による贖(あがな)いの日でもあることが示されています。本日の第一朗読は、神のそのお言葉を受けて、神による贖いに希望をかける人たちの祈りであります。
② 「主よ、あなたは私たちの父です。私たちの贖い主、これは永遠の昔からあなたの御名です。云々」の言葉で神に呼びかけている祈りの人たちは、「あなたは憤られました。私たちが罪を犯したからです」と、自分たちが神に背いて罪に穢(けが)れ、罪の奴隷のようになっていることを告白していますが、しかし、その無力な自分たちを罪から救い得るのは、ただ全能の神のみであることを宣言して、その神を私たちの父、贖い主、粘土である私たちの陶工などと呼んで、ひたすら神による救いに希望をかけているのです。聖書に度々読まれる「贖い」という言葉は、私たち日本人にはなじみの薄い言葉ですが、それは奴隷を買い戻すこと、あるいはそのために支払う代金のことを指しています。イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放された神は、私たちをも贖い主メシアの功徳によって罪の奴隷状態から解放して下さる愛の神であります。本日朗読された祈りには「私たちは皆、枯葉のようになり、云々」という言葉がありますが、今の時期に唱えるのに相応しい祈りだと思います。外的にはますます豊かで便利になりつつある現代社会には、これからも怠慢・不信・欲望・詐欺などに由来する犯罪が増え続け、やがて神による大規模な天罰や大災害が世界を襲う時が来るかも知れません。その時、本日の朗読に読まれる祈りを忘れず、希望をもって神に祈るよう努めましょう。
③ 本日の第二朗読は、使徒パウロが自分の創立したコリント教会に宛てた最初の書簡の冒頭からの引用であります。当時のコリント教会は様々な問題を抱えていましたが、それらの問題に踏み込む前に、パウロはまず神が私たちに与えて下さっている恵みの力に、信徒たちの眼を向けさせているのだと思います。現代の社会も教会も様々の深刻な問題を抱えていますが、それらを私たち人間の理知的な立場で批判したり改善策を模索したりする前に、まずは神から与えられている恵みと私たちの使命などに心の眼を向けましょう。本当の問題解決は、そこから生まれて来ると思います。
④ 本日の福音には、「目を覚ましていなさい」という命令が3回、「眼を覚ましているように」という言葉が1回登場しています。これは、世の終わりや終末的状況が迫って来た時に、主が私たちから一番求めておられる心構えではないでしょうか。では、目を覚ましているとはどのようにしていることでしょうか。私たちの体は、夜も眠らずに目を開けていることはできません。全く眠らずにいたら、弱り果てて病死してしまうでしょう。しかし、体は眠っていても、心臓や肺などは死ぬまで眠らずに働いています。ちょうどそのように、私たちの頭の働きや意識は眠っても、奥底の心すなわち無意識界は、死ぬまで眠らずに働くことができるのではないでしょうか。夢の世界に遊ぶというのも一つの働きでしょうし、寝ながらあの世の大気を静かに呼吸し、心の疲れやしこりを癒すというのも一つの働きでしょう。では、福音の中で主が強調しておられる「目を覚ましていなさい」の命令は、心のどのような働きを指しているのでしょうか。
⑤ 本日の福音は、主が弟子たちの質問に答えて、エルサレム神殿の滅亡とキリスト再臨の時の徴について語られた長い話の結びであります。2千年前のユダヤ人たちは、アレキサンダー大王やローマのポンペイウスが大軍を率いて攻めて来た時も、神殿は破壊されなかったのですから、全能の神に護られるエルサレム神殿は永遠に続くと信じていたようです。ですから、紀元70年にローマ軍に包囲された時にも、多くの大きな硬い大理石によって築かれていた神殿に立て篭もりました。大理石は、数ある石の中でも最も風化し難い石で、外からの強大な圧力や水の力などにもよく持ちこたえることのできる石であります。しかし、「水に強いものは火に弱い」という諸葛孔明の言葉通りに、炭素(カーボン) の含有量が多いため火には弱く、ローマ軍によって火をかけられると、一つの石も石の上に残らないほど徹底的に崩されてしまいました。主はエルサレム神殿のこのような崩壊を予見しながら、弟子たちにエルサレムの滅亡と世界の滅亡についての話をなされたのだと思います。思っても見なかったその恐ろしい話に弟子たちの心は動転し、今の時の大切さを忘れてしまい勝ちになっていたかも知れません。
⑥ そこで主は最後に、今の時を無為に過ごすことがないよう、「目を覚ましていなさい」と繰り返し強調なさったのだと思います。主が世の終りについてのその話の中でも語られたように、「その時人の子が天使たちを遣わして、選ばれた人々を地の果てから天の果てまで全部集める」(マルコ13:27) のです。世の終りは、信仰に生きる人々にとっては救いの時、解放の時なのです。ですから、「目を覚ましていない」というご命令は、明るい希望をもって神の働きに信頼しながらその時を待っていなさい、何事にも隠れて見ておられる神の現存、神の働きや導きに心の眼を向けていなさい、という意味なのではないでしょうか。
⑦ 本日の第二朗読にも、「あなた方は賜物に何一つ欠ける所がなく、私たちの主イエス・キリストの現われの時を待ち望んでいます。主も、最後まであなた方をしっかりと支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ち所がない者にして下さいます。云々」という使徒の言葉があり、第一朗読には「主よ、….どうか、天を裂いて降って下さい。…….あなたを待つ者たちに計らって下さる方は、神よ、あなたの他にはありません」などと、どれ程罪に汚れていても失望せずに、神の救う力の全能に対する信頼が表明されています。私たちも、世の終わりの大災害に直面するなら、この罪の世の諸々の穢れと苦しみから徹底的に解放して下さる全能の神に対する、明るい信頼と期待の心で目覚めていることができるよう、今の生活も仕事も喜んで主にお捧げしつつ、神と隣人に対する愛の火を心に燃やし続けていましょう。そして日々神の働きや導きに対する心のセンスを磨いていましょう。それが、「目を覚ましていなさい」というご命令で、主が私たちに求めておられることなのではないでしょうか。