2011年4月24日日曜日

説教集A年:2008年3月23日復活の主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節
 
① 本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいたローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族や友人たちに話した説教からの引用です。その周辺事情を少しだけ説明しますと、ユダヤの外港カイザリアにヘロデ大王が建設した宮殿に駐留して、ユダヤを支配下に置いていたローマ総督は、毎年無数のユダヤ人巡礼者がエルサレム神殿に詣でる過越祭の前後には、不測の事態の発生を回避するため、カイザリアのローマ軍を連れてエルサレムのアントニア城に滞在していました。それで、主イエスが受難死を遂げられた時は、百人隊長コルネリオもエルサレムに滞在していたと思われます。その後一週間続くユダヤ教の過越祭が終わってから、彼は再びカイザリアに戻りましたが、聖書によると、ある日の午後3時頃に神の天使が幻の中で彼に現れ、「あなたの祈りと施しは、神の御前にのぼり、覚えられています。さあ、ヨッパに人を遣わして、ペトロと呼ばれているシモンを招きなさい。その人は海辺の皮なめしシモンの家に泊まっています」と告げました。それで私は、このコルネリオが主の受難死やその直後の地震などを見て非常に恐れ、「真にこの人は神の子であった」と言った、百人隊長だったのではないか、と考えています。おそらく彼はこの恐れの内に、神に熱心に祈ったり、貧しい人たちに施しをしたりしていたのだと思います。天使が去ると、コルネリオは二人の僕と一人の信心深い兵卒を呼んで事の次第を語り、彼ら三人をヨッパに派遣しました。

② その翌日のお昼頃、使徒ペトロが屋上で昼の祈りを捧げていると、脱魂状態の内に天から四隅を吊るされて下ろされて来た大きなテント布の上に、地上の穢れた動物や鳥たちが乗せられている幻を三回も見ました。そして毎回「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない」という声を聞きました。その直後に、コルネリオから派遣された三人が到着し、ペトロは百人隊長の招きに応じてカイザリアに行き、主イエスについて自分の目撃したことや主から命じられていることなどを話すのが神の御旨であると考え、数人の信徒たちを連れて、彼らに従って行ったのだと思います。

③ ペトロが、生前に各地を巡り歩きながら神の力によって人々を助け、病人たちを全て癒しておられた主が、十字架刑で殺された三日後に、神によって復活させられ、自分たちと一緒に食事をしたことなどを証しし、「この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが与えられる」と語ると、コルネリオらその話を聞いていた全ての人の上に聖霊が降り、彼らは異言を語ったり、神を讃えたりしました。それでペトロは、自分たちと同じように聖霊の恵みを受けたその人たちに、洗礼の秘跡を授けたのでした。ローマ軍は、ユダヤ教の代表者たちに欺かれて、神の御子を殺害する罪に加担したのではないか、と悩んでいたと思われるコルネリオは、ペトロの話を聞き、ペトロから洗礼の恵みを受けることによって、将来に明るい大きな希望を見出すに至ったのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「古いパン種をきれいに取り除きなさい」「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と呼びかけています。パン種はパンを膨らませて美味しくするものですが、腐敗を早めるというマイナス面もあります。マタイ福音書16章によると、主は一度弟子たちに「ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々のパン種に注意し、警戒しなさい」という言葉で、救う神の働きを記した聖書も律法も、私たちに対する神の大きな愛や呼びかけの立場からではなく、民衆に対する自分たちの社会的優位を固守しようとするような、この世の理知的精神に警戒するよう話しておられます。使徒パウロがここで「古いパン種や悪意と邪悪のパン種」と表現しているパン種も、人間理性中心の利己的精神を指していると思われます。主イエス復活の真実を正しく受け止め、主がわたしたちの心に与えようとしておられる大きな希望と喜びの恵みを豊かにいただくには、私たちもこの世の理知的精神という古いパン種を捨て、幼子のように素直で純粋な信仰心で、神の新しい働きや啓示を受け入れる必要があると思います。まだ信仰の恵みに浴していない人たちのためにもその恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年4月23日土曜日

説教集A年:2008年3月22日聖土曜日(三ケ日) 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節

① 今宵の復活徹夜祭の第一部は「光の祭儀」と言って、輝かしく復活したキリストの光を讃美し、感謝の心でその光に照らされ導かれて生きる恵みを願う儀式でした。そこでは復活の蝋燭に点された火が、中心的役割を演じていました。それに続く第二部は「言葉の典礼」と言って、正式には旧約聖書から七つの朗読箇所が奉読されて、それぞれそれに伴う答唱詩篇が歌われたり、祈願がなされたりする儀式ですが、あまり長過ぎないよう、ここではそのうち四つだけ選んで致しました。この第二部の典礼の一つの特徴は、水、すなわち洗礼の水に対する讃美と称してもよいと思います。今宵はこのすぐ後の第三部に洗礼式が挙行され、その後で第四部の「感謝の祭儀」が行われますので、洗礼の水について少しだけご一緒に考えてみましょう。

② 水は、新しい命の生まれる基盤であり、また絶えずその命を養い育てるものでもあります。40数億年前に生まれたこの地球上に、最初の小さな単細胞の命が発生したのは、水の中と考えられています。5億数千年前にカンブリア紀が始まると、その命は様々な生き物に発展し始めますが、まだ水の中を動き回っていました。そして次のシルル紀に、一部の生き物が植物の増え始めた陸地に上陸し、その後、動植物は目覚ましく発展し始めました。しかし、動植物の細胞は水なしには生きられませんので、水は命の源と言ってもよいと思います。私たち各人の命も、母のお腹の羊水の中で生まれ、誕生してからも体の大半は水で構成されていると聞きます。水は、全ての細胞に含まれているからでもあると思います。私たちの体は水に生かされており、水なしには死んでしまう存在なのです。

③ ところで、聖書によりますと、神は私たちにもう一つ、永遠に死ぬことのない命を約束しておられます。それは、神の御子キリストがあの世から持参なされた超自然の神の命であります。主キリストは、その命のことも「水」あるいは「生ける水」と表現しておられます。ヨハネ福音書によりますと、主はその水についてサマリアの女に、「私が与える水を飲む人は、永遠に渇くことがない。私の与える水は、その人の中に湧き出て、永遠の命に至る水の泉となるであろう」と話しておられます。主がお定めになった洗礼の秘跡は、その命の水を私たちの心の奥底に与え、私たちの霊魂が神の命によって奥底から生かされ、死後も内的に主キリストのお体の細胞のようになって、神と共に永遠に幸福に生きるようにしてくれるお恵みであります。

④ しかし、不純なものを焼き尽くして銀や金などを純粋なものにする火のように、水にも汚れたものを洗い流して、事物を清いものにするという働きがあります。洗礼の秘跡によって心の奥底に与えられた神の命の水にも、そのような働きがあります。私たちが日々の祈りと、神の御旨に対する従順や委託などによってその働きに協力しますと、心が次第に利己心や全ての欲情から清められて、一切の不安から解放された安らぎを覚えるようになります。

⑤ 聖なる神はあらゆる穢れを厳しく排除なさる方ですから、利己的な穢れから完全に清められない限り、天国の永遠の幸福には入れていただけないと思われますが、この世に生きている間に心が完全に清くならなくても、心配いりません。古代教会の教父たちやその後の聖人たちの教えによりますと、死後にも「清めの火」によって霊魂を清めていただくことができるようですから。とにかく洗礼の秘跡によって心の奥底に与えられた神の命の水を大切にしながら、大きな明るい希望と喜びのうちに、神への忠実に励むよう心がけましょう。

2011年4月22日金曜日

説教集A年:2008年3月21日聖金曜日(三ケ日) 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節

① 本日の儀式の第一部「言葉の典礼」の最初に朗読された、バビロン捕囚時代のイザヤの預言は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第四のもので一番長いものですが、預言者はここで、その数百年後に実現したメシアの御受難を、あたかも今目前に見ているかのように長々と詳しく描いています。察するに、その時神から示された幻示も、一時間以上にも及ぶ程の詳細なもので、預言者はそれを深い苦しみの内に、しっかりと見届けていたのかも知れません。そうでないと、これほど細かくまた感動的に描写することはできなかったでしょう。
② そしてゴルゴタの丘へと引かれ行く主に伴って行き、3時間近くも主の十字架の下で立ち続けておられた聖母マリアも、かねてから度々黙想しておられたと思われるこの「僕の歌」をあらためて御心に思い起こし、深い御悲しみの内に、その全ての苦しみを主のおん苦しみと合わせて、人類の救いのために神に献げておられたことでしょう。歌にもあるように、メシアは私たち人類の背きや咎のために神の手にかかり、打たれて苦しんでおられるのであり、彼の受けた傷によって人類は癒され、屠り場に引かれ行く小羊のように、メシアが黙々と従って自らを「償いの献げ物」となして死ぬことにより、人類の救いは成し遂げられるのですから。私たちも、主の受難死を間近で目撃しておられた聖母マリアのご心情を偲びつつ、聖母と共に主の御苦しみを心に深く刻み、主に対する感謝の心を新たに致しましょう。
③ 第二朗読のヘブライ書には、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いを捧げ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました。云々」という言葉が読まれます。私たちが子供の頃から聞いているこの世の偉人や人格者たちの多くは、日頃から自分の心をしっかりと統御し押さえつけているために、どんなに恐ろしい誤解や苦難に遭遇しても従容としてそれらに対処し、叫んだり泣いたりしなかったようです。そのように心がけた方が、自分の苦しみを少し軽くし、忍耐し易くできるのだそうですが、主イエスはその人たちとはかなり違って、ご自身の清い御心を押さえつけるようなことはせずに、与えられた苦しみを全てそのままに、情熱的なご自身の清い人間性で受け止め、天の御父に御眼を向けながら、あるがままに耐え忍んでおられたのではないでしょうか。それが時として叫びとなったり涙となったりして、外に溢れ出たのだと思います。
④ 十字架上の主イエスも、最後まで天の御父に御心の御眼を向けながら、徹底的従順の御精神で全てのお苦しみを、私たち人類の救いのためにお献げになったと思われます。その救いの恵みに生かされている私たちも、聖母マリアと共に主の受難死に感謝の心を新たにしつつ、主の御模範に倣って自分に与えられる全ての苦しみを、神の愛の御眼差しに心の眼を向けながら、人類の救いのため喜んで神にお献げ致しましょう。

2011年4月21日木曜日

説教集A年:2008年3月20日聖木曜日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節
 
① 主の最後の晩餐を記念する今宵のミサ聖祭の第一朗読は、今から3千3百年ほど前に、主なる神がエジプトでモーセとアーロンにお語りになったお言葉であります。それは、太陰暦の国メソポタミアで生まれ育った太祖アブラハム以来の伝統を保持し、月の暦に従って生活していたと思われるイスラエルの民が春の最初の新月を迎えた日であったようです。神はまず彼らに、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と命じ、それからこの正月の十日以降になすべきことについて、次々と細かくお命じになりました。昼の時間が、最も長くなった夜の時間に勝って長く成り始める時を、新しい年の初めとしていた太陽暦の国エジプトで、春の太陰暦最初の月を正月とする新しい暦のリズムを導入させたのは、異教の神々の祭日や行事を忘れて神の御言葉中心の新しい生き方へと、イスラエル民族の心を根底から一新させるためであったと思われます。

② 続いて神は、民がエジプトから脱出する直前に起こる出来事や過越の食事の仕方などについて、細かい指示をお与えになりましたが、イスラエルの民はその指示通りに行動して、無事大国エジプトの支配から解放され、自由になることができました。それ以来ユダヤ人たちは、この出来事を記念する年毎の過越祭を最大の祭として、今日もなお敬虔に守り行っています。その祭式は、ある意味でユダヤ民族の宗教的な建国記念ですが、しかし神の御前では、その記念行事は同時にメシアによる人類救済の御業を象徴的に予告し提示しており、その意味でユダヤ人たちは今も過越祭を祝う度に、神の御子メシアによる救いの恵みを受けていると信じます。

③ 2千年前の主イエスは、ご自身を過越の小羊となして受難死を遂げ、この苦しみの世から神の国の自由へと過ぎ越す恵みを、全人類のために神から呼び下すに当たって、ユダヤ人のこの過越祭を利用し、そこに幾つかの新しい要素や変革を導入して、弟子たちと共に最後の晩餐を祝われました。そしてアブラハムの精神を受け継いで神信仰に生きる新しい神の民のため、ミサ聖祭の儀式を制定なさいました。時間空間の制約を超えて、救いの恵みを全人類の上に豊かに呼び下すためであると思います。今宵のミサ聖祭は、主イエスのなされたその救いの御業と限りない御愛に、また新しい契約の血に基づくミサ聖祭のご制定に感謝して、お献げ致しましょう。

④ 今宵の儀式の第二朗読の中で使徒パウロは、「パンを裂く式」と呼ばれていた初代教会のミサ聖祭の中心部分について、ごく簡単に述べていますが、その中にある「私を記念してこのように行いなさい」という主のお言葉は、大切だと思います。今日でも全てのミサ聖祭の中心部で、主のこのお言葉が唱えられますが、パウロもこの朗読箇所の始めに、「私があなた方に伝えたことは、私自身主から受けたものです」と述べているように、この儀式は、救われるべき人間が主導権を取って神に感謝を捧げるために制定したものではなく、救い主ご自身が主導権をとって、時間空間の制約を超え、およそ救われる人類のいるあらゆる時代・あらゆる国で、受難死により過越の小羊として屠り去られたご自身を天の御父に献げ、救いの恵みを豊かに呼び下すために制定なさったのです。

⑤ ですから使徒パウロも書いているように、司式する司祭は、「これは、あなた方のために渡される私の体です」、「これは、私の血の杯、云々」と、主イエスから言うようにと命じられたお言葉を、そのままに唱えるのです。人間主導の単なる記念行事ではなく、救い主が目には見えなくても今ここに現存して、天の御父にご自身を生贄としてお献げする記念行事だからです。キリスト現存のこの信仰を忘れないため、古代教会のミサ奉献文は、聖変化直後の祈りの中に「今ここで」という言葉を入れていました。公会議後の新しいミサ典礼にも、第二と第四奉献文の中に「私たちは今ここに」という祈りが残っていますが、第一と第三奉献文の中では、「ここに」が約されて「今」だけになっています。しかし、主キリストが霊的に今この祭壇に現存して、ご自身を屠られた過越の小羊として天の御父に献げ、私たちの上に救いの恵みを豊かに呼び下して下さるのであることを、堅く信じてこのミサ聖祭をお献げ致しましょう。

⑥ 今宵の福音は、最後の晩餐の直前に主が上着を脱ぎ、大きな手拭いを腰にまとった奴隷のお姿になって、弟子たちの足を洗われた話を伝えています。主は、世にいる弟子たちを極みまで愛され、その徹底的奉仕の愛を彼ら各人の心に行いを介して伝えるために、奴隷の姿で各人の前に跪きその足を洗うという行為をなさったのだと思います。同じ主は晩餐の最中には、ご自身を食物・飲み物となして弟子たちに与え、それを食べること、飲むことをお命じになりました。これも、彼ら各人の体の中にまで入って、内側から一人一人を生かそうとする極みまでの奉仕的愛の表現であると思います。神のみがお出来になる、偉大な奇跡だと思います。主はこのミサ聖祭の中でも、同じ大きな愛をもって現存しておられます。この神秘を堅く信じつつ、今宵の感謝の祭儀を献げましょう。

2011年4月17日日曜日

説教集A年:2008年3月16日受難の主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
音朗読 マタイによる福音書 26章14節~27章66節

① 「枝の主日」とも言われる本日の祭式の始めには、枝を持つ会衆を祝福する祈りがあり、続いて主の受難死の数日前に主が弟子たちを連れてエルサレムに入城なさった時の福音が朗読されました。大勢の群衆が木の枝や自分の服を道に敷いて主キリストの入城を歓迎し、「ダビデの子にホサナ」と熱狂的に叫び続けた時の情景を偲びながら、私たちも枝を手に賛歌を歌いながら、行列して聖堂に入堂したのです。「ホサナ」という言葉は、「今救い給え」という意味だと聞いています。それは、「神を称えよ」という意味の、勝利の喜びに溢れたハレルヤとは異なり、神から派遣された偉大な王メシアに対する、歓迎と願いの叫びであったと思われます。

② ミサ聖祭の第一朗読は、第二イザヤの預言書に記されている四つの「主の僕の歌」の、第三の歌からの引用であります。そこでは「主の僕」すなわちメシアが主なる神のお弟子として、人々からどれ程苦難や辱めを受けても、神の御旨に徹底的に聞き従うお姿が描かれています。「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けて下さるから、私はそれを嘲りとは思わない」などの預言者の言葉は、主イエスがご受難の時に、実際に体験し、実現させた予言だったのではないでしょうか。

③ としますと、主は激しい虐待と痛みの最中にあっても、内的には少しもひるまず、神から派遣された宇宙万物あらゆるものの王としての権威を堅持しながら、威厳に満ちた静かな御眼差しで、全ての恥と苦しみを耐え忍んでおられたと思います。何物にも屈しない威厳に満ちたその静かな御眼やお姿に触れて、悪霊たちも悪の勢力に与する人々も、ますますいきり立ち、主の威厳を損なうあらゆる悪口を浴びせたり、そのお体の苦痛をいや増すようなことをしたりしたのかも知れません。本日の福音であるマタイ受難記によりますと、ローマ総督の一部の兵士たちは、主を激しく鞭打って傷つけた後に、再び主の衣服をはぎ取って赤い外套を着せ、「王だ」と宣言なされた主の御頭に茨の冠をかぶせたり、右手に葦の棒を持たせてお顔に唾を吐きかけ、その葦の棒で御頭をたたき続けたりしています。祭司長や律法学者、長老たちも主を侮辱しています。しかし、人間としてのまともな心をもっていた人たちは、それらの侮辱や責め苦に静かに耐えておられる主の御眼やお姿に、深い感銘を受けていたのではないでしょうか。本日の福音の最後に述べられているように、百人隊長や一緒に見張りをしていた人たちは、主が息を引き取られた時の地震や、それまでのいろいろな出来事を見て非常に恐れ、「本当に、この人は神の子であった」と話しています。

④ 使徒パウロは本日の第二朗読の中で、主イエスが神と等しい御方でありながら、ご自身を無となして人間となり、しかも十字架の死に至るまで天の御父に従順であったことを称揚しています。私たちも、神によって全てのものの主君・王と立てられている主イエスのこの御模範に倣い、自分の身に誤解や苦難がふりかかる時には、悪霊たちに神の王的権威を感じさせながら、潔く堂々とそれらの苦しみを耐え忍び、多くの人の救いのために神にお献げ致しましょう。そのため日頃から、ご聖体の主と一層深く一致するよう心がけましょう。

⑤ ご聖体の主と一致して生きようとすることは、霊的には真に喜ばしい生き方ですが、しかし、主は一度十字架の聖パウロに、「私を抱擁する者は、誰でも棘を抱擁するのだ」と話しておられます。主を愛し、主と一致して生きようとする者には、悪霊たちからの思わぬ攻撃にさらされ、主が多くの人の救いのため天の御父にお献げになったような無数の小さな棘の苦しみを耐え忍ばなければならないと思います。その決意を固めて本日のミサ聖祭を献げ、恵みを願い求めましょう。

2011年4月10日日曜日

説教集A年:2008年3月9日四旬節第5主日(藤沢の修道院で)

第1朗読 出エジプト記 17章3~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節
 
① 主のご受難ご復活を記念する日がいよいよ間近に近づいて来ました。本日の三つの朗読聖書は、いずれも私たち人間の体を新しい命に復活させる神の霊について語っています。第一朗読は、バビロン捕囚時代に預言者エゼキエルが見た幻の後に続いている話です。この話の前に、主の霊に連れ出された預言者は、ある谷の真ん中に下ろされて、その谷が一面に枯れた骨で覆われている幻を見ています。そして預言者が神から告げられた言葉通りにその骨たちに呼びかけると、神の霊がその骨たちの中に入り、骨たちは繋がって自分の足で立つ無数の人間の大集団になりました。神は、霊によって生き返ったその集団を「イスラエル」としてエゼキエルに紹介しています。このような幻を預言者に示した後に、神は囚われの状態で生きているイスラエルの民に対して、本日の朗読にあるように、「私はお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く」「私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」「その時お前たちは、主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる」などの話をなさったのです。

② 人祖の罪の穢れを受け継いでいて、死の恐怖の中に生きている私たち現代の人類も、ある意味で囚われの状態に生きているのではないでしょうか。あの世の神の御眼から見れば、この世の大きな暗い墓の中に眠る枯れた骨たちのように見えるかも知れません。しかし、将来に大きな明るい希望をもって、信仰に生きましょう。やがて神がその墓を開いて私たちを引き上げ、私たちを永遠に幸せに生きる地へと導いて下さる時が来ます。神が私たちの体の中に聖霊を吹き込むと、枯れた骨のようであった私たちの体は、もはや死ぬことなく、あの世で永遠に輝いて生きる神の子の体になるのです。それが、神が原初に「私たちに似せて創ろう」と話し合って創造なされた、人間という被造物の本当の姿だと思います。神に似せて創られた私たちの本当の人生も、この世の暗い墓の中にではなく、もはや死ぬことのないあの世の栄光の中で営まれるものなのです。

③ 使徒パウロはローマ書8章のはじめに、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命を齎す霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放してからです」と書いていますが、その同じ8章から引用されたのが、本日の第二朗読です。そこには、「キリストがあなた方の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。もしイエスを死者の中から復活させた方の霊があなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう」とあります。

④ 私たちが今生きているこの世の暗い不安な人生は、あの世の太陽の光を失っており、巨大で神秘な墓の暗闇の中にあるようなものだと思います。人々はそこで蝋燭の灯や電灯などを次々と発明し、身近な処から闇や不安を打ち消して、少しでも明るく楽しく生活しようとしていますが、しかし、人間理性の発明した灯りと神がお創りになった太陽の光とでは、大きく違っています。太陽の光を失って夜の闇に包まれているような処では、遠くの山々や大空の美しさを観賞することも、月や星の美しさを仰ぎ見ることもできません。私たちの心は、内的にはそのような神秘な闇に包まれて、刻々と足早に過ぎ行くこの世の儚い人生を営んでいるのです。意識していなくとも、死の恐怖は絶えず私たちの体に付きまとっています。しかし、主キリストの霊を身の内に宿しているなら、体は罪によって死にまとわれていても、霊はすでにあの世の命に生かされているのであり、やがてキリストの霊が死ぬはずの体をも生かして下さる、というのが使徒パウロの教えだと思います。私たちもこの信仰の内に、希望をもって生き抜きましょう。

⑤ 本日の福音はヨハネ福音11章のほとんど全文で、非常に長いものです。一人の人物についてこれだけ長い記述がなされているのは、新約聖書の中ではラザロだけです。しかもその中で、ラザロは一言も話していませんし、ラザロがどんな人物で、どんな生涯を送った人であるかなどのことは、何も述べられていません。ただラザロが死んだことと、その死をめぐる人々の動き、並びに主イエスによって蘇らせられたことだけが、詳述されているのです。ヨハネがラザロの死と蘇りをこれ程詳しく述べているのは、そこに間近に迫っていた主イエスの受難死と復活に対する、主の基本姿勢の現れを垣間見ていたからなのではないでしょうか。話の中心はラザロにではなく、主イエスの御心にあるのです。

⑥ まず、マルタとマリアから愛する兄ラザロが危篤になっていることを知らされても、主は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神がそれによって栄光をお受けになるのだ」と話されて、主を殺そうと企んでいたユダヤ人たちを避けて退かれた、ヨルダン川の洗礼者ヨハネが最初に洗礼を授けていた処に、なおも二日間ゆっくりと滞在しておられました。後にラザロの墓を目前にして涙を流されたことから察しますと、人間としての主の御心は、深い悲しみを覚えておられたことでしょう。主は、病人や悩み苦しむ人に対しては、思いやりのある情熱的な人でしたから。しかし、人間をこの世の病苦や死から救い出すことよりも、この機会に、神は罪をお赦し下さるだけではなく、罪の結果である死の支配からも人間を解放し救う方であることを、多くの人たちに公然と立証し、神の栄光をより大きく輝かせることを何よりも重視しておられたのだと思われます。二日の後、主は「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃって、ラザロの家に向かわれます。弟子たちが「ユダヤ人たちがこの間もあなたを石殺しにしようとしていたのに」と、エルサレムのユダヤ人も多く出入りしているラザロの家に行くことの危険性を指摘しますが、少しもたじろぎません。察するに、主はご自身のお体の内に聖霊の働きとあの世の命を生き生きと感じておられ、この世の命を奪われても神によって護られ、奪われることのないもう一つの命に生き続けることを、人間としても確信しておられたからでしょう。そして主がメシアであることを信じていたラザロの中でも同じ聖霊が働いていることを信じつつ、ご自身の受難死の前に、神による死者の復活が実際にあることを公然と立証しよう、と望まれたのだと思います。

⑦ 主がラザロの墓の前で、「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。云々」と祈られたことから察しますと、主はラザロの家に行く間にも、罪と死に対する神の絶対的権能を多くの人の前に力強く立証するための御導きを、天の御父に願っておられたように思います。こうして罪と死による悪霊の支配を打ち砕く全能の王としての威厳を示しながら、ラザロの家に乗り込んで行かれたのではないでしょうか。マルタに対して、「私は復活であり、命である。私を信ずる者は死んでも生きる」「あなたはこのことを信じるか」と言われた時の主のお姿には、そのような王としての威厳が満ち溢れていたことでしょう。主はその直後、マルタの姉妹マリアとそのそばにいて二人を慰めていたユダヤ人たちが泣いているのをご覧になって、心に憤りを覚え、興奮して「どこに葬ったのか」とお尋ねになりました。この御憤りは、無数の人々を泣き悲しませて止まない、罪と死という悪霊の支配に対する憤りであったと思われます。

⑧ 墓に葬られて四日も経ち、すでに腐り始めていると思われていたラザロの遺体に、主が大声で「ラザロ、出て来なさい」と力強く命令し、蘇らせるという大きな奇跡を目撃したユダヤ人の多くが、主を信じたのを見て動揺した祭司長たちやファリサイ派の人々は、最高法院を招集して協議しています。このことから考えますと、主は宣教活動に失敗して捕らえられ、処刑されたのではなく、全人類の罪を背負って贖いの受難死を遂げることにより、人類が神の国へ昇るのを閉ざしていた死の門を打ち砕くために、王の威厳と権力を保持しつつ、自ら進んで悪の勢力に身を託されたように思われます。この世の観点からは受難死は敗北に見えるでしょうが、あの世の視点では悪の勢力を打ち破って死の門を取り払うのに必要な過程であり、悪霊たちの拠点への一種の進軍であったと思います。ここで「死の門」というのは、死後の人間が神の国に入るのを妨げていた門であって、この世に死ぬ時に霊魂が通るトンネルのことではありません。私たちは遅かれ早かれ皆この世を去らなければなりません。主キリストの贖いの功徳によって、死後には明るい美しい神の支配なさる世界が私たちを待ち受けているのです。大きな感謝の心で、主の受難死を記念する聖週間を迎えましょう。

2011年4月3日日曜日

説教集A年:2008年3月2日四旬節第4主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記上 16章1b、6~7、10~13a節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章8~14節
福音朗読 ヨハネによる福音書 9章1~41節

① 朝晩はまだ少し寒いですが、よく晴れた日の自然界はすでに春のやわらかな光に包まれて輝いています。本日のミサ聖祭の入祭唱は「神の民よ、喜べ」という言葉で始まり、途中にも「悲しみに沈んでいた者よ、喜べ。云々」という言葉が読まれます。昔ラテン語でミサが唱えられたり歌われたりしていた時には、本日のミサは「Laetareのミサ」、すなわち「喜べのミサ」と言われていました。既に四旬節も半ばを過ぎ、周辺の自然界には日毎に明るい春の色が増して来る時節なので、この日曜日のミサ聖祭は、人々の心に春の喜びと将来に対する明るい希望とを与えるものとされていました。それで教会は本日の三つの朗読聖書を、いずれもこれからの人生に明るい希望と新しい意欲を与えるような話の中から選んでいます。

② 第一の朗読聖書は、預言者サムエルによる少年ダビデの注油の話です。サムエルは神の言葉に従い、オリーブ油を満たした大きな角をもって、ベトレヘムのエッサイの家に行きました。神が「私はその息子たちの中に、王となるべき者を見出した」と言われたので、神のお示しになる息子に注油して、イスラエルの王とするためでした。エッサイは預言者サムエルの言葉に従い、預言者を歓待する食事の前に、自分の七人の息子たちを次々と呼び出して預言者の前を通らせました。その息子たちの中には、人間的に見て容姿も背丈も整っていて、王位に相応しい人ではないかと思われる者もいたようですが、主は密かにサムエルに、「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とおっしゃって、その七人の中からは誰をもお選びになりませんでした。

③ それでサムエルがエッサイに、「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねると、最後にその時羊の群れの番をしていた末の息子ダビデが呼び出されました。まだ羊の群れの番をしているだけのような子供で、とても王位に就くような風格や年齢に達していませんが、「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と聖書にあります。主はこの子供を、イスラエルの王としてお選びになりました。それでサムエルは、オリーブ油の入った角を取り出し、親兄弟の見ている前でダビデに注油したのでした。こうして預言者歓待のために用意された食事は、イスラエルの王ダビデの注油を祝う会食となりました。ダビデが実際に王位に就くのはまだ数年ないし十数年先のことですが、しかしその日以来、ダビデは、神の霊によって恐ろしい程の力を発揮する人間に成長し始めました。

④ 主イエスは弟子たちに、「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのだ」「あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残るために」とおっしゃいましたが、主は今、私たちにも同様に話しておられるのではないでしょうか。私たちは皆、主イエスによって選ばれ、洗礼の秘跡を受けた時も堅信の秘跡を受けた時も、頭に祝別されたオリーブ油を塗油してもらいました。私はそれを、主の再臨により世あらたまった後のあの世で、主と共に王位につき、神がお創りになったこの広大な宇宙の万物に呼びかけて神を讃えさせ、万物を指導・統治する使命を受けたことを意味していると信じています。ペトロ前書2:9には、主を信ずるキリスト者たちについて、「あなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と述べられており、黙示録1:6にも、「私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司として下さった方に、栄光と力が世々限りなくありますように」という祈りが、さらに黙示録5: 9~10には「あらゆる民族と国民の中から、ご自分の血で神のために人々を贖われ、彼らを私たちのために神に仕える王、また祭司となさった」という歌が記されているからです。

⑤ 第二バチカン公会議も、聖書の言葉に基づいて、全てのキリスト者は主キリストの普遍的祭司職に参与していると教えていますが、私は、主の祭司職だけではなく、あの世では主の王位にも参与すると考えています。私たちは、例えば毎日曜・大祝日の朝の祈りの中で、「造られたものは皆神を賛美し、代々に神をほめ称えよ」「天の全ての力は神を称えよ。太陽と月は神を賛美し、空の星は神を称えよ」などと祈っていますが、神に似せて創られた王としての使命を自覚しつつ、主キリストと一致して唱えるよう心がけましょう。そうすれば、少年ダビデの内に働いた神の霊は、私たちの中でも、私たちを通して宇宙万物のために働いて下さいます。

⑥ 使徒パウロは第二朗読の中で、「あなた方は以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい。云々」と、私たちにも呼びかけています。四旬節を機に何が主に喜ばれるかを改めて吟味し、実を結ばない利己的人間中心の暗闇の業からは離れて、いつも神の光に照らされ、神の光の子として、注油された少年ダビデのように、神への信頼と明るい希望の内に生きるよう努めましょう。

⑦ 本日の福音は、生まれつきの盲人が、主イエスに唾でこねた土を塗ってもらったその目を、主のお言葉に従って「遣わされた者」という意味のシロアムという池で洗ったら、目が見えるようになったという、奇跡的治癒についての話です。安息日の厳守を強調していたファリサイ派の一部の人たちは、安息日にそんな大きな癒しの業を為した者は「神から来た者ではない」と主張し、目を癒されたその人を自分たちの考えに従わせようとしました。しかし彼は、神よりの人でなければこんな奇跡は成し得ないと考え、「あの方は預言者です」という自分の素直な信仰にひたすら留まり続けて、遂にユダヤ教会から追放されてしまいました。でも、その純真な信仰の故にファリサイ派からの迫害には屈せず、遂に再び主イエスに巡り合い、主を信ずる新しい恵みに浴することができました。神の「光の子」として戴いている私たちも、日々神の働きや神よりの導きに心の眼を向けつつ、神への愛の忠実に生き抜くよう心がけましょう。ダビデのように、恵みから恵みへと高められるようになります。