2016年10月30日日曜日

説教集C2013年:2013年間第31主日(三ケ日で)

第1朗読 知恵の書 11章22~12章2節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 1章11~2章2節
福音朗読 ルカによる福音書 19章1~10節

  本日の第一朗読には、全宇宙の創り主であられる神に対して「あなたは全ての人を憐れみ、改心させようとして人々の罪を見過ごされる」という言葉が読まれ、続いて「あなたは存在するもの全てを愛し、お創りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるなら、創られなかったはずだ」だの、「命を愛される主よ、全てはあなたのもの、あなたは全てをいとおしまれる。あなたの不滅の霊が全てのものの中にある」だの、更に「主よ、あなたは罪に陥る者を少しづつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨てて、あなたを信じるようになるために」などの言葉が読まれます。いずれも万物を創造なされた全能の神の、存在する全ての被造物、全ての人に対する限度なしの大きな愛を、目的論の立場から断言している、貴重な聖書の言葉だと思います。

  今年の1020日「世界宣教の日」の教皇フランシスコのメッセージの日本語訳全文が、先週のカトリック新聞に載っていましたので、皆様も既にご存知のことですが、その中で教皇が、「神は私たちの命をもっと意味深く、良く、美しくするために、自らの命を分け与えることを望んでおられます。神は私たちを愛しておられるのです」「一人ひとりがそれに応え、私たち自身を神に委ねる勇気が必要です。信仰はわずかな人々のためではなく、惜しみなく与えられている贈り物なのです。全ての人が、神に愛されるという喜び、救いの喜びを経験できるはずです。それは決して独り占めすねものではなく、ともに分かち合うものなのです。云々」と、全ての人を愛し、全ての人にご自身の命を分け与え、強く、美しく、幸せになってもらおうと切望しておられる神の強い強い愛の観点から、私たちキリスト者の宣教活動の必要性を説き起こしておられることは、注目に値します。宣教は「キリスト者の生活において二次的なものではなく、本質的なものなのです。即ち私たちは皆、兄弟姉妹と世の道を歩み、キリストに対する私たちの信仰を証しし、宣言し、キリストの福音の使者となるよう招かれているのです。云々」と全てのキリスト者に、自分の置かれている生活の場で福音の使者となって働く使命があることが強調されていることも、大切だと思います。

  同じ思想は、私がローマに留学していた時に、第二ヴァチカン公会議の議場でも強調されていました。しかし、ここで言われている「宣教活動」を、口や文筆で福音の真理を述べ伝えることなどと、短絡的に受け止めないよう気をつけましょう。そのようなチャンスは神の摂理によってごく少数の人に、しかも限られた機会に与えられているだけで、特に観想修道会の修道女たちには神のお望みにならない宣教活動であると思います。私は頻繁に外出して福音を知らない無数の人たちに出遭いますが、誰彼と区別無く福音を語ろうとはしていません。これまでに臨終洗礼を含めると百人以上の人に洗礼を授けていますが、日頃出遭う人たちには黙々と祈りの宣教を為しているだけで、口を使っての宣教は殆どしていません。どこの家に入っても、どのバスや電車に乗っても、主がお弟子たちを宣教に派遣なされた時のお言葉に従って、そこに「平和があるように」と祈っています。すると恵みの時に聖霊が働いて、まだ外的成果は少ないですが、その地方に神に従う人たちが増えつつあるように感じています。神は私たちから、まずはこのような祈りの宣教をお求めなのできはないでしょうか。

  本日の第二朗読の終りには「主の日が既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい」という言葉が読まれます。使徒パウロがこのすぐ後に書いている話によると、まず初めに神への反逆が起こり、神の掟に逆らう「滅びの子」が現れて、自分を神として神の聖所に座を占めるに至るそうです。神の掟に逆らうその力は既に活動していますが、その活動を引き止めている者が退く時に表に現れ、サタンの力によって様々の徴や不思議な現象を為し、多くの人を悪へと誘い込むようです。主キリストが再臨なさる世の終わり前のそのような出来事は、遠からず発生するかも知れませんが、動揺しないように気をつけましょう。多くの預言を的確に実現させていた聖ヨハネ・ボスコは、世の終わり前にローマ教皇がヴァチカン宮殿を去る予言的幻を見ています。現代世界経済の動きの中では、そのような事態が実際に近い将来に発生するかも知れません。驚いてはいけません。神の愛と憐れみに信頼して生き抜くように努めましょう。


  本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、雇い主のローマ総督側から既定の税金に少し輪をかけて住民から徴収し、こうして蓄積した税収の中から不作や天災の年にも、毎年既定額の税金をローマ側に納入するよう決められていたので、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働くユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな桑葉無花果の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。ギリシャ語を直訳しますと、「私は今日あなたの家に泊まらなければならない」とおっしったようです。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を自宅に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。聖書のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。本日の第一朗読に述べられているように、全能の神はお創りになった全ての人を愛し憐れみ、その罪を見過ごして回心させようと心掛けておられる方なのですから。

2016年10月23日日曜日

説教集C2013年:2013年間第30主日(三ケ日で)

第1朗読 シラ書 35章15b~17節、20~22a
第2朗読 テモテへの手紙二 4章6~8、16~18節
福音朗読 ルカによる福音書 18章9~14節

  本日の第一朗読は、紀元前2世紀頃に書かれたシラ書からの引用ですが、そこでは神を畏れることに始まる生き方が勧められています。自分がどれ程弱い貧しい人間であっても、また自分の歩んで来た人生がどれ程怠りと失敗の連続であったように見えても、主に信頼し、主に助けを願い求める心があるならば、心配しないよう心がけましょう。第一朗読にもあるように、全てをお裁きになる主は誰に対してもえこひいきを為さらず、貧しい者、虐げられている者、孤児、寡婦たちの願いに特別に御心を留めて下さる方ですから。神の御旨に従って主に仕えている、そういう弱い人や謙虚な人の祈りは、「雲を突き抜けて主の御許に届く」とまで述べられています。

  察するにこれらの言葉は、神を身近な存在と信じてその働きを実感している著者の、数多くの体験に基づいて語られているのではないでしょうか。実は、私の過去数十年間の体験を振り返ってみましても、また私がこれまでに見聞きした多くの実例を思い出してみましても、やはり同様に断言してよいように思います。日々小さな事で度々神に対する忠実に背く、信仰心も意志力も弱い子供のような私ですが、長年にわたる自分の人生体験を回顧しますと、神は実際に私の全ての言動を見ておられ、遅かれ早かれその全てにそれぞれ裁きや報いを与えておられると確信しています。目に見えなくてもいつも私たちに伴っておられるその父なる神の御前では、私たちは幼子のように素直に神の愛に甘えながら、神と共に生活していて良いと思います。これは、私が洗礼を受けて間もない小神学生の頃に小さき聖テレジアの自叙伝から学んだ生き方ですが、年老いても少しも変えておらず、このまま幼子の心で、最後まで神の御旨に従おうと努めつつ生きようと思っています。

  余談になりますが、今年一月の毎日新聞で、三月末頃にパンスターズ彗星が、十一月末頃にアイソン彗星が観測されるが、いずれもこれまでに来たことのない、一昨年と昨年に発見された彗星であり、特にアイソン彗星は史上最も明るい大彗星になる可能性が取りざたされている、という情報を知った時、私はすぐに、この二つの彗星が大災害の接近を予告する神からの使者ではないかと思いました。それは二十数年前頃に出現なされた聖母マリアからメッセージを受けた人たちの一部が、そのような星の出現を予告していたからです。果たして今年の春頃からは、世界各地でこれまでにない程頻繁に大災害が発生し、アメリカやオーストラリアでは幾度も大規模な森林火災が発生したり、その他竜巻や風水害、異常気象や熱中症、中国における空気の汚染などが数多く報じられています。IC機器に侵入する新しい犯罪や老人を狙った詐欺事件なども、相変わらず多発しているようです。信仰年の終り頃にアイソン彗星が出現した後には、人類世界を脅かす災害や犯罪は、もっと酷くなるのではないでしょうか。地球温暖化の影響も深刻になることでしょう。しかし恐れずに、幼子の心で神と共に生きる信仰にしっかりと掴まっていましょう。全能の神が私たちを助け導いて下さいます。そして弱い私たちの信仰心はますます深く神に根ざして成長するようになります。神は私たちの信仰心を苦しみによって逞しく成長させるために、災害や各種の苦難をお許しになるのだと思います。

  本日の第二朗読は、「私自身は既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」という言葉で始まっていますが、最後に「私は獅子の口から救われました。主は私を全ての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い上げて下さいます」とある言葉から察しますと、使徒パウロのこの最後の手紙は、ネロ皇帝によってローマ市内にいたキリスト者たちが次々と投獄され鎖に繋がれた時に、その獄中で認められたのではないかと思われます。使徒パウロはこの手紙の2章に、「私はこの福音のために、犯罪者のように鎖に繋がれて苦しみを受けています。しかし、神の言葉は繋がれていません」と書いていますが、紀元64年のローマ放火の責任をキリスト者に転嫁したネロ皇帝による三年間に及ぶ迫害は、ローマ大火の時にローマ市内にいたキリスト者たちだけになされた迫害で、ローマ市外ではなされていません。

  それでその迫害の初期、ローマ司教であった使徒ペトロは、側近の信者たちからの強い勧めに促されて、一時的に市外に難を避け、迫害の終わるのを待とうとしたことがありました。しかし、城門を出てアッピア街道を二百メートル程進んだ所で、主キリストが十字架を背負ってローマ市に行くお姿の幻を見、Quo vadis Domine ?(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねたら、「お前が去るなら、私が行く」というお言葉を聞いて、ペトロはローマに戻り、後で殉教しました。しかし、その獄中の生活は長引き、鎖には繋がれていても訪問者とは自由に接触できましたので、ペトロもそこでネロ皇帝がギリシャを訪れる直前頃に、東方各地の諸教会に当ててその第一書簡を書いています。その書簡の4章や5章にも「火のような試練を」「キリストの名のために」受けるという言葉や、「悪魔が吼えたける獅子のように、誰かを探し回っている」など、ネロ皇帝の迫害と深く関係している表現が読まれます。ペトロの第一書簡は、パウロの書簡とは違って一つの教会、一つの信徒共同体向けに書かれたものではなく、その冒頭の挨拶にあるように、ポントス、ガラティア、カパドキア、アジア、ヒチニアなど、現代のトルコ半島全域の数多くの教会に宛てて書かれた書簡です。当時既にこれらの地方ではキリスト教に改宗する人が多くなり、彼らが神々の像が飾られた広場での異教徒たちとの住民集会などに出席しないので、これが社会問題になりつつある地域もあり、事によるとネロ皇帝がこれらの地方でのキリスト者迫害を命令するかも知れない、と迫害下のローマの信徒たちは恐れ、使徒ペトロが書簡を送ったのではないでしょうか。ギリシャのオリンピックを観覧して大歓迎を受けたネロ皇帝は、四頭馬車の競技に優勝させてもらって月桂冠を受けたからか、上機嫌でローマに戻り、危惧されていたキリスト者迫害などは起こりませんでした。


  ネロ皇帝は獄に繋いだ数百人のキリスト者をすぐに全員処刑するのではなく、自分の造ったヴァチカン競技場で遊びが行われる度毎に、その一部の人たちを高い柱の上に縛り付けて火をつけたり、ライオンの餌食にしたりして残酷な遊びの道具にしていました。使徒パウロが獅子の餌食にされなかったのは、ローマ市民権を持っていたからだと思われます。しかし、67年頃にローマ市外で斬首され、ペトロも同じ頃逆さ磔で殉教して、ネロの迫害は終わっています。現代世界には、もうそのような迫害は起こらないと思いますが、しかし、人類文明によって痛めつけられた大自然界からの大規模な恐ろしい反抗と復讐は、覚悟していなければならないかも知れません。人間の力ではそれに対抗できません。ひたすら幼子のようになって神の力に縋り、神によって救われるように努めましょう。

2016年10月16日日曜日

説教集C2013年:2013年間第29主日(三ケ日で)

第1朗読 出エジプト記 17章8~13節
第2朗読 テモテへの手紙二 3章14~4章2節
福音朗読 ルカによる福音書 18章1~8節

  本日の第一朗読には、「アーロンとフルがモーセの両側に立って、彼の手を支えた」という言葉が読まれますが、これは旧約時代の神の民が神に祈る時、両手を斜め上に高く挙げる姿勢で祈っていたからだと思います。初代のキリスト教会でもそのような姿勢で祈っており、その名残は今でもミサの司式司祭が祈願文を唱える時などに残っています。キリスト教会に両手を合わせて祈る慣習が広まったのは、シルクロード貿易で盛んになった東西文化の交流で、両手を合わせて祈るインドやシャム辺りの慎ましい慣習が導入された、2, 3世紀頃からだと思われます。

  モーセが手を挙げて祈るとイスラエル人が勝ち、疲れて手を下ろし祈りを止めるとアマレク人が勝ったという言葉を、外的短絡的に理解しないよう気をつけましょう。神は祈りを止めると、すぐ援助を止めてしまわれるような方ではありません。モーセが初めに指揮者ヨシュアに「私は神の杖を手に持って、丘の上に立つ」と告げたことを見落としてはなりません。神の杖、これはモーセが数々の偉大な神の業を遂行するために、シナイ山麓で神から与えられた神の力の篭もる道具であり、神が共にいて下さる徴でもありました。この杖を差し上げてエジプト軍を海の底に沈めたモーセは、今はイスラエル人たちを滅ぼし尽くそうとしてやって来た強大なアマレク軍を目前にし、民族存亡の危機を痛感しながらも、この杖を持って丘の上に立ったのです。まともに戦ったら少人数のイスラエル軍に勝ち目はありません。しかしモーセは、全能の神に対する不動の信頼心の内に、丘の上から両軍を見下ろしながら神に祈ったのです。神は、エジプト軍の追跡を受けた時のようにすぐには大きく働いて下さいませんでしたが、しかし日没前には、ヨシュアに決定的勝利を与えて下さいました。神の杖に対するモーセの信仰と信頼、そこに注目しそこから学ぶようにしましょう。実は私たちも、目に見えないながらそのような神の杖を、洗礼によって神から頂戴しているのです。しかしその杖は私たちの心の奥底、霊魂に刻まれていますので、それを取り出して全能の神に働いて戴くには、モーセのように真剣に祈ることや、神現存の信仰に生きることが必要だと思います。

  現代文明は極度の便利さと多様化・個人主義化などによって全ての伝統的共同体を弱体化し、内側から崩壊させつつあるようですが、現代社会のそのような流れの中で生まれ育ち、自由主義教育・能力主義教育を受けて大人になった日本人の中には、全てが極度に多様化しつつある現代のグローバル社会のどこにも、自分の個性や自由を生かす地盤を見出すことができずに、孤独と不安に苦しんでいる人たちが少なくないようです。学校では良い成績を取得していた人であっても、自分の個性を自由に生かして働く場が見出せないと、夜に眠れなくなったり薬物に手を染めたりして深刻に苦悩し、自分の個性を捨てきれずに自死を考える人たちもいるようです。このような精神的マイナス面が露わになっている日本社会に福音を広めるには、宣教者自身が日々感謝と喜びの内に生きているという姿を示す必要があると思います。心に苦悩や絶望を抱えている人の心は、頭に福音の真理を解説する話よりも、実際に神に支えられ神と共に生き生きと生活している人の生活実践を見てみたい、と望んでいるからです。それには、どうしたら良いでしょうか。

  以前に南山大学でも講演してくれた聖心会のSr.鈴木秀子さんは、最近「幸せ癖をつけましょう」と題する京都での講演の中で、旅先で列車に乗り遅れても、その他どんな不運や失敗に出遭っても、それを新しい生き方をしてみせるチャンスと受け止め、マイナスの言葉を口にしないよう勧めています。「日本では言霊と言って言葉には力があるとされています」。従って不安の言葉や脅しの言葉などを口にしていると、「言葉には力がありますから」心は幸せになれません。「幸せは自分の心の中に育てるものです」。命があるという、ごく当たり前のことにも神に感謝し、喧嘩している人と仲直りしたい、家族の人たちに心から感謝したい、「家族がいる、歩ける、食べられる、自分一人でお手洗いに行ける、目がある、手がある」などと、いつも幸せ言葉を口にしていましょう。するとその言葉が神の御心を動かして幸せへの新しい道が開かれて来ます、と私はその講演の趣旨を受け止めました。毎日神様に向かって笑顔で、「有難うございます」「感謝しています」「希望しています」などと個人的に申し上げるのも、一つの幸せ癖だと思います。私は、孤独や不安などに苛まれている現代人の心に神からの希望の光が注がれるよう願いつつ、マイナス言葉を避けて、日に幾度も父なる神にそのように申し上げ、感謝と希望の精神で神と共に喜んで生きるよう心がけています。

  本日の福音の中で、主は「気を落とさずに絶えず祈り」続けることを教えるため、一つの譬え話を語っておられます。出エジプト記22章には、「寡婦や孤児を全て、苦しめてはならない。もしあなたが彼を苦しめ、彼が私に叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞き入れる」という、神の厳しい警告の言葉が読まれます。本日の福音に登場する不正な裁判官は神の裁きを恐れず、人を人とも思わないような人だったので、聖書のその言葉は知っていても、寡婦の訴えなどは取り上げようとしなかったのだと思います。察するに、その訴えは古代にも多かった遺産問題のトラブルだったでしょう。遺産を横取りされて貧困に苦しむ寡婦が訴え続け、叫び続けていたのだと思います。初めはそんな複雑な遺産問題などは取り合おうとしなかった裁判官も、遂にその寡婦の執念に負けて、裁判に立ち上がったようですが、神信仰に生きる人も、心の執念と言うこともできる不屈の真剣な信仰の叫びを持ち続けて欲しい、そうすれば神は、夜昼叫び求めて止まない信者の願いをいつまでもほうふっておかれることは無い、というのがこの譬え話の趣旨だと思います。

  必要なものを一言で、あるいはワンタッチで入手できる豊かさと便利さに慣れている現代人には、祈りの中で二、三度申し上げても神に聞き入れられなかった願い事を、いつまでも根気強く願い続けるということは難しいかも知れません。しかし神は、私たちの口先だけの祈り言葉ではなく、もっと苦しんで奥底の心を目覚めさせ、心の底から真剣になって祈るのを待っておられるのではないでしょうか。日々真剣に根気強く祈る人の祈りは、必ず神に聞き入れられます。それが、主がこの譬え話を通して教えておられる真理だと思います。忍耐して根気強く祈り続けても、神は少しも変わらず沈黙しておられるかも知れません。しかし、苦しみながらのその祈りによって、私たちの心はゆっくりと変わり始め、神が待っておられる心の底の霊的土壌の中に根を下ろし始めるのです。

  大正13年に栃木県の足利市に生まれ、平成3年に67歳で亡くなられた優れた書家で詩人の、相田みつをさんの「いのちの根」という詩をご存知でしょうか。「なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに くるしみにたえるとき  いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が ふかくなる」という詩であります。私たちがマイナス言葉を口にせず、苦しみや悲しみに耐えて神に眼を向ける時、私たちの心は黙々と深く深く根をおろし、その根が神が待っておられる地下の水脈にまで達すると、全能の神の神秘な力が、私たちの内に働き出すのではないでしょうか。


  しかし主は本日の福音の最後に、人の子が再臨する時、この地上にそのような信仰者を見出すであろうか、というような疑問のお言葉を残しておられます。一年前に始まった信仰年は今年の11月下旬で終わりますが、私たちが神から頂戴した信仰が、神が待っておられる心の底の水脈にまでその根を伸ばしているかどうかを反省し、これからも神の御旨によって与えられる日々の労苦や病苦、思わぬ失敗・誤解・やり直しなどを快く受け止め、苦しみによって心の根を神がおられる心の奥底の水脈にまで伸ばすように心がけましょう。ある聖人は、「苦しみは、神が私たちに恵みを与える第八の秘跡である」と言ったそうですが、この言葉も心に銘記して、日々与えられる数々の苦しみ・失敗等々を積極的に受け止め、喜んで耐え忍び、神にお捧げするよう心がけましょう。

2016年10月9日日曜日

説教集C2013年:2013年間第28主日(三ケ日で)

第1朗読 列王記下 5章14~17節
第2朗読 テモテへの手紙二 2章8~13節
福音朗読 ルカによる福音書 17章11~19節

  私たちのフランシスコ教皇は、信仰年行事の一つとして、今年の1012()から13日にかけての夜、即ち昨夜から今朝にかけてローマ教区で徹夜礼拝を開催し、聖母マリアと共に神に特別に祈りミサ聖祭を捧げることにしています。日本とは8時間の時間差がありますから、今この時間にもローマではその徹夜礼拝が続けられていると思います。教皇庁はこの行事を地球規模で行うために、世界に数ある聖母巡礼地の中から特別に十箇所を厳選し、それらの巡礼地でもこの土曜日から日曜日にかけて、聖母マリアと共に全人類のため同様の徹夜礼拝をなすよう依頼しました。アジアでは涙の聖母像で世界的に有名になり、海外からも数多くの巡礼者が来日した秋田の聖体奉仕会の修道院聖堂が教皇庁から指定され、神言会員の新潟教区長菊地司教が聖座の要請を受諾して、教区民宛の公文書でこの出来事の準備を進め、他教区の聖職者・信徒たちにも参加を呼びかけています。1013日は聖母がファチマで最後に出現なされ、あの壮大な太陽の奇跡を集会に参加していた数多くの人々に体験させた日ですので、ローマをはじめ各巡礼所では、この行事の時にファチマの聖母像も飾られることになっています。イタリアのテレビ局が世界の十大聖母巡礼地を結んでのライブ中継を予定していると聞きましたので、秋田での祈りも世界各地に放映されたかも知れません。秋田ではローマより少し早く昨夜11時に聖体を顕示して、日本語・ベトナム語・韓国語・タガログ語・英語の順でロザリオやその他規定の祈りなどが唱えられ、今朝5時頃に挙行される菊地司教司式のインターナショナル・ミサで締めくられる予定と聞いています。従って日本では既に徹夜礼拝は終わっていますが、ローマをはじめ欧米諸国の聖母巡礼地での祈りに心を合わせて、私たちもこの御ミサの祈りを聖母マリアと共に神に捧げ、数多くの問題を抱えて苦しむ全人類の上に、神の特別の憐れみと助けの恵みを祈り求めましょう。

  公会議後のこれまでの日本教会では、第二ヴァチカン公会議をカトリック教会の伝統を現代世界に適合したものに改革するものと捉え、「典礼改革」をはじめ、事ある毎に「改革」という言葉が持て囃され、プロテスタントの新しい聖書学が宣伝されたりして、聖母崇敬の伝統が著しく軽視された時代がありました。公会議の公文書には「改革」という言葉は一度も使われていません。公会議は古い伝統を新しい時代に生かして刷新することを目指していたからです。これについては公会議を身近に見聞きして来た私が既に多くの所で話したり執筆したりしましたので、ここでは省きます。秋田市添川湯沢台の聖母像が数々のメッセージを修道女笹川カツ子さんに与え、掌の傷から血を流したり、101回にわたって眼から涙を流したりする奇跡をなし、多くの人がその奇跡を目撃し、その血や涙が人間のものであることが大学の医学博士たちによって立証されても、更に当時の新潟教区の伊藤司教がその出来事が聖母マリアからのものであることを公言して聖母崇敬を奨励しても、既に聖母崇敬に批判的になっていたわが国の多くのカトリック者はそれを無視して、「秋田の聖母崇敬はローマに認められていない」等と話し合っていました。この度聖座は、秋田の涙の聖母像が韓国や米国など多くの他国人たちからも崇敬されていることを評価し、他の九聖母巡礼所と共にローマの徹夜礼拝と合わせて聖母崇敬の行事を為すよう特別に依頼することにより、聖座が秋田を聖母巡礼所として公認したことは、喜ばしいことであると存じます。

  本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた二つ目の手紙からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、紀元62年頃にローマで番兵一人を付けられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた時の手紙ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて殉教を目前にしていた時に書かれた手紙であると思います。従って、この手紙は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちや獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。ローマ市民に世俗の壮大な遊びと贅沢を提供するため、国家の資金を大規模に投入して止まないネロ皇帝の政治に愛想をつかし、使徒の説くあの世の幸福に耳を傾ける人も少なくなかったと思います。「私たちは、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にしてその牢獄で説いた福音の要約でもあると思われます。

  本日の福音は、主キリストによるハンセン描写たちの癒しについて語っていますが、ナアマンを癒して預言者エリシャと同様、主もここで遠く離れた所から命令を与え、病者がその命令に従って祭司たちの所へ行くという行動をなした時に、癒しておられます。しかし、自分の体が癒されたのを見て、大声を神を賛美しながらまず主の許に戻って、主の足元にひれ伏して感謝したのは、サマリア人一人だけでした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人はユダヤ人だったのでしょうか。としますと、神をこの世から遠く離れた天におられる聖なる存在と考え、その神がモーセに啓示なされた律法の厳守を何よりも重視していたファリサイ派の宗教教育を子供の時から受けていたので、まずは癒された自分の体を祭司に見せて、律法に従う嬉しい社会復帰を成し遂げることだけを考え、恩人の主イエスや神に感謝することは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。この世の社会的規則や慣例だけを重視して、それらよりも私たちの身近に現存しておられる神の働きに対する感謝を軽視しないよう、今日の私たちも気をつけましょう。規則や慣例よりも、神からの具体的呼びかけや導き・働きなどが大切なのですから。


  主は感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、律法を知らないその人は、ただ身近な現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けて生きようとしていたのではないでしょうか。主のお言葉にある「あなたの信仰」とは、その生き方のことを指していると思います。本日の福音には、「自分の癒されたのを知って」と邦訳されていますが、ギリシャ語の原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に肉眼で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味のエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で感知したりする時に聖書で用いられるこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも神の現存や働きに対する心の眼、心のセンスを磨くように心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などに囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日常生活の中にあって、何よりも隣人の小さな必要、小さな願いなどを通してそれとなく示される神からの愛の求め、あるいは私に対する神からの小さな保護や助け・導きなどに、信仰と愛と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から求めておられる信仰であると思います。何よりもその信仰を大切にして生きるところに、神の祝福が隠されていると信じます。

2016年10月2日日曜日

説教集C2013年:2013年間第27主日(三ケ日)

第1朗読 ハバクク書 1章2~3、2章2~4節
第2朗読 テモテへの手紙二 1章6~8、13~14節
福音朗読 ルカによる福音書 17章5~10節

   本日の第一朗読の前半は、紀元前600年頃にユダ王国がバビロニア軍に滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの祈りですが、当時のユダ王国の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求め、叫ぶようにして声高く祈っていましたが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってこれまでの王国の贅沢な社会に迫りつつある様々の災いを、幻の中で預言者に見せておられたようです。それが第一朗読の前半ですが、預言者のその嘆きの祈りに続いて、神が「見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略について詳しく啓示なされた長い話は省略され、後半部分はハバクク第2章の始めからの引用になっています。ユダ王国滅亡の啓示を受けた預言者は、第1章の終りに、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に激しく嘆きます。それに対する神の答えが、この後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神が少しも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過()ぎります。それは、本当に苦しい試練の時です。神は私たちの信仰を一層深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を私たちに体験させるのです。現代文明の大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

   その時に人間中心・自分中心の立場から抜け出て、神の御旨中心主義の主キリストの立場に立ち、神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけていましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかも神のその支配が、私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いかけましたが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、黙々とそれに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が、働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する幼子のような徹底的「信頼」を意味していると思います。頭で神の存在とその啓示の真理を信じているだけでは足りません。そんな信仰は、地獄の悪魔も数々の嫌な体験から確信していると思います。頭の理知的な信仰ではなく、神の僕・婢として神の御旨にひたすら従順に従おう、全てを神に委ねて愛と信頼の内に清貧に生きようとする信仰心の成長強化を求めて、神は私たちに度々厳しい試練をお与えになるのだと信じます。その苦しい試練を嫌がらずに、幾度倒れても新たに立ち上がり、神の御旨に従い続けましょう。それが信仰年にあたって私たちが身に付けるべき生き方だと思います。

   最近知ったのですが、今のフランシスコ教皇は、歴代教皇が居宅としておられた使徒宮殿には移住なさらず、そのことを尋ねられた時に、「私は宮殿に住まず、高級車に乗らず、金も宝石も持たないことを決意した」「ただ単に貧富の問題ではなく、私自身の人格に係わる問題だから」「私には人々の間に生きることが必要なのだ」「使徒宮殿内にある居住空間が取り立てて豪華としいうわけではないが、そこに一人で起居することはできない」などと話されて、相変わらずヴァチカン敷地内の質素な居住空間内に生活しておられるそうです。前の教皇ベネディクト16世も、その退位の直前に現在の教皇職の深刻な孤立を痛感し、小さな「聖マルタの家」での朝のミサに、ヴァチカンの聖職者たちや滞在中の枢機卿たちにそのことを説明なされたそうですが、今の教皇はそれを受けて、アシジの聖フランシスコのように清貧を実践的に愛することにより、豊かさを追い求めて止まない罪に穢れた現代人類の上に、神の憐れみと恵みを呼び下そうとしておられるのかも知れません。信仰年の終末を迎えるに当たって、私たちも神に誓った清貧の誓願を想起し、日々の日常生活の中でも実践的に清貧を愛しつつ、神の御旨に従う決心を新たに致しましょう。

   アシジの聖フランシスコの時代には、教皇庁も各地の司教たちも豊かな生活を営んでいたら、フランス・ドイツ・イタリアなどの各地で、そのような信仰生活は主キリストの福音的生活に背く生き方だ、とする過激な教会批判が信徒たちの間に広まり、宗教的権威を失墜した教会は崩壊の危機に直面していました。その時アシジのフランシスコが生家の豊かな生活を捨てて、福音的清貧の生活を実践的に証しする生活を始めたら、神の聖霊が働いたのでしょうか、無数の若手信徒たちが男も女もその新しい福音的生活に積極的に参加し、教会は分裂の危機を回避して立派に立ち直り、新しく発展し始めるに到りました。現代のカトリック教会も、多くの聖職者たちのセクハラや福音的清貧精神に欠ける生き方によって、特に欧米諸国では宗教的権威を失墜し、マスコミから厳しく批判されています。今の教皇はこの危機を乗り越えるために、アシジの聖人の模範に倣って福音的清貧の実践に心がけ、神による救いの恵みを呼び下そうとしておられるのではないでしょうか。清貧誓願を宣立している私たち修道者も、それに協力して日々の生活の中で、小さな清貧の実践を神に捧げるように心がけましょう。

   本日の福音には、弟子たちが「私たちの信仰を増して下さい」と願ったら、主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになったとあります。芥子種は落としたらピンセットで掴むこともできない程小さな黒い粒ですから、主のお言葉から察しますと、誰が偉いかどちらが上かなどの争い事もしていた当時の弟子たちの内には、神がお求めになっておられる本当の信仰は、芥子種一粒ほどもないという意味でも、このように話されたのだと思います。では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的従順と信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。全能の神は、我なしのそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の所有する能力で、神の助けを祈り求めつつ何かの奇跡的成功を獲得するのではありません。神が御自身が、その人の内に働いて下さるのです。


   本日の福音の後半も、私たちの持つべきその真の信仰について教えています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食をお望みなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家のお嫁さんたちは、皆このようにして家族皆に奉仕していました。我なしの家族愛の奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。今の社会では、何事も金銭的儲けで評価する価値観が広まっていますが、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場であります。家庭的無料奉仕の愛をパイプラインとして、神がその恵みを私たちの上に、また社会の上に豊かに注いで下さるのです。私たちが今後も永く、こういう信仰と愛の奉仕に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。