2010年1月31日日曜日

説教集C年: 2007年1月28日、第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 1: 4~5, 17~19. Ⅱ. コリント前 12: 31~ 13: 13.  Ⅲ. ルカ福音 4: 21~30.

① 本日の第一朗読は、紀元前7世紀の後半にエレミヤを預言者として召し出された時の、神のお言葉を伝えています。旧約の預言者の中には、エリヤ預言者のように積極性と豪胆さに溢れていたように見える人もいますが、祭司ヒルキアの子エレミヤは全くその逆の性格で、内気の人、引っ込み思案をし勝ちな人だったように見えます。当時の神の民は、先住民カナアンの持っていた民間信仰の影響を受けて先祖の神信仰を歪め、何でも自分たち中心、人間中心に考える一種の混合宗教に陥っていたようです。神に忌み嫌われる不純な信仰に生きるそんな王や政治家・祭司たちが団結して国を統治している所に、独りで出て行き、彼らを咎めて罰を宣告するような神のお言葉を語ることは、内気で若いエレミヤにとっては、考えるだけでも大きな恐れとおののきを覚えることだったと思われます。

② しかし神は、「彼らの前におののくな」「私があなたと共にいて救い出す」とおっしゃって、弱腰のそのエレミヤを「諸国民の預言者として」お立てになったのでした。エレミヤという名前は「神立てる」という意味の名前だそうですが、神は、エレミヤが生まれる前からこの子に御目をかけ、このような名前がつけられるようになさったのだと思います。どんなに弱い人間でも、その時その時に神から与えられるものに忠実に従うならば、苦しみながらでも驚くほど大きな仕事を成し遂げるに到ると思います。弱いエレミヤも、偉大な預言者としての実績を残すに到りました。私たち各人も、神からのその時その時の導きに心の眼を向け、それに忠実に従うよう心がけましょう。

③ 第二朗読は、「もっと大きな賜物を」という言葉で始まっています。この賜物 (カリスマ)は、その人の努力によって獲得される能力ではなく、神の霊によって無償で与えられる、本質的に神の霊の働きであります。紀元前2世紀の中頃にローマ軍によって徹底的に滅ぼされた港湾都市コリントには、その後当時の世界各地から様々の優れた能力を持つ人物がやって来て、新しい社会造りのために自分を売り込もうとしていたようで、町も若い活気に溢れていました。使徒パウロはその中にあって、キリストの愛に生かされ、その愛の能力に生きることが最高の道、最高の生き方であると説いたのです。

④ この世の人々の注目を引く天使たちの言葉 (異言)を語ることも、預言も深遠な知識も、あるいは山を動かす程の強い信仰も、全財産を貧しい人々のために使い果たしたり、人の身代わりに死刑を受けたりする程の善業も、神の愛に生かされてなすのでなければ、やがて永遠の完全な世界が到来した時に、この仮の世と共に全て永遠に過ぎ去ってしまうものなのです。ちょうど理解力も思考力もまだ幼稚であった時の幼児期の考えが、大人になって情報量も増し視野も広くなると、捨てられてしまうように。広大な永遠の世界についてまだほとんど知ることなく、人々の心の奥にある全てのものさえ正しく洞察できずにいる、視野の甚だ狭隘なこの誤謬や誤解のはびこる罪の世にあって、私たち人間の考えていたことも、真理の神が支配する永遠の世界が到来すると、皆捨て去られる不完全なもの、儚い夢のようなものでしかないと思います。古代の小さな青銅の鏡におぼろに映し出された映像のような、そんな知識に操られ過ぎないよう心がけ、何よりも神とその働きに対する信仰・希望・愛に生きるよう努めましょう。神に対する私たちの信仰も希望も、この世にいる時だけのものですが、それらは何れも、永遠に失われることのない神の愛の表明であり、いわば神の愛の両手のようなものだと思います。神において永続するこの愛の能力を磨いていましょう。

⑤ 「愛は忍耐強い。云々」というパウロの言葉を読むと、私はよくノートルダム清心のシスター渡辺和子さんが、30歳代の初めにアメリカの修練院で、130人程の姉妹たちと一緒に生活していた時の思い出話を、思い起こします。渡辺さんは夕食準備の仕事を命じられて、黙々と手早くお皿を並べていたら、その様子を背後から眺めていた修練長から「シスター、あなたは何を考えながらお皿を並べているんですか」と尋ねられ、「何も考えていません」と答えたら、「それでは時間を無駄にしています」と叱られ、お皿を並べる時は、夕食に座る人たち一人ひとりのために祈りながら皿を置くように、と教えられたそうです。それ以来渡辺さんは、一つ一つの皿を「お幸せに」と祈りながら並べるようになったそうです。外から見れば、同じ仕事を同じ位早くやっていても、その祈りの心は態度に表れていると思います。愛に生きるという時、この内的心構えが大切だと思います。

⑥ 私も、道を歩いている時、タバコの吸殻や空き缶などを拾っては、駅や学校などに設置されているゴミ箱に入れていますが、初めの頃はタバコの吸殻が道路に大量にばら撒かれていたりすると、みんなの道路をごみ捨て場のようにしている人に、時々は怒りを覚えたりもしていました。しかし、シスター渡辺さんのその思い出話を聞いてからは、その捨てた人のため「お幸せに」と祈りながら、嫌な顔をせずに拾うようになりました。「愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、云々」と言われています。神の愛はまた、全てを赦すものでもあります。使徒も、同様に実践していたかも知れません。私たちもその模範に倣って、平凡な日常生活を神の愛で聖化するよう努めましょう。

⑦ 本日の福音では、主の故郷ナザレの人々が、「皆イエスを褒めて、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるのに、その人々の「この人はヨゼフの子ではないか」という言葉も、それに対する主の対応も冷たい印象を与えるので、ちょっと戸惑いを覚えます。しかし、聖書学者雨宮神父によると、日本語で「褒める」と訳されているギリシャ語のマルテュレオーという動詞は、「証言をする」という意味で、有利な証言をする時にも不利な証言をする時にも使われる動詞だそうです。思うに、ナザレの人々は会堂で初めて聞く主の恵み深い言葉に驚き、あの貧しいヨゼフの息子で首都エルサレムで勉強したこともないのに、と自分たちの昔のイエス像について証言しながら、教えのことはどうでもよいから、カファルナウムで行ったと聞く奇跡よりももっと大きな奇跡を我々にも見せてくれ、ここはお前の故郷なのだからというような、少し利己的要求を突きつける態度で、主を眺めていたのではないでしょうか。それで主は、「預言者は自分の故郷では歓迎されない」というような話をなさったのだと思います。信仰と愛のない人々のためには、主も奇跡をなさいません。奇跡は人々を楽しませるための見世物ではなく、神の国、神の働きの臨在を証しして、人々の信仰を堅固にするためのものですから。まず神の臨在を信ずること、そして神への愛に生きようとすることが大切であり、奇跡の前提だと思います。

⑧ サレプタのやもめは、極度の貧困故に一心に神に祈り求め、祈りつつ飢え死にを迎えようとしていたのではないでしょうか。またシリア人ナアマンは、イスラエルの神による癒しに希望を繋ぎつつ、たくさんの贈り物をもって遠路はるばるやって来たのではないでしょうか。いずれも、神の働きに対する信仰と希望に生きていたと思われます。ナザレの人々の日常生活には、この信仰と希望が欠けていたようです。私たちはどうでしょうか。平凡な日常茶飯事の中で、人目につかないようにしながら、神に対する信仰と愛を実践的に表明するよう心がけましょう。そうすれば、隠れた所から隠れている所を特別に見ておられる神からの、人目に隠れた不思議な助けを期待してよいと思います。明るい希望と感謝のうちに、日々神と共に生活するよう心がけましょう。

2010年1月24日日曜日

説教集C年: 2007年1月21日、第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ネヘミヤ 8: 2~4a, 5~6, 8~10. Ⅱ. コリント前 12: 12~30. Ⅲ. ルカ福音 1: 1~4; 4: 14~21.

① 私たちは毎月一回、極東アジア諸国の平和共存のためにミサ聖祭を献げて、神の導きと助けの恵みを願い求めていますが、今年もこの慣習を続けたいと思います。このミサは日曜以外の週日に献げることが多いですが、今日の日曜日のミサは、この意向で献げたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第二朗読には、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分です」という言葉がありますが、この言葉を読むと、私はいつも人体に60億もあると言われている細胞のことを連想します。使徒パウロの時代にはまだ細胞のことは知られていませんでしたが、聖書の言葉を現代文化の中で現代風に読み替え、理解することも許されるのではないでしょうか。人体の各細胞にその人間全体の設計図と言ってよいヒトゲノムが内蔵されていることは、注目に値します。各細胞は、それぞれ増殖・代謝・情報授受などの機能を備えていて、主体的に働くことができますが、その働きをそれぞれ自分の置かれている位置や、自分の所属している器官の役割に応じ、体全体のバランスを大切にしながら為すよう、神から造られているのではないでしょうか。傷つき病的になったガン細胞のように、周囲全体とのバランスや、自分に神から与えられている役割を無視して、ただ自分と同じようなガン細胞を少しでも多く増やして行こうとするわが党主義者は、体全体にとって危険な困り者だと思います。

③ 人体には、目・耳・手足・心臓・肺・胃腸など相異なる様々な器官がありますが、一つの器官の中で生まれたばかりの細胞を、他の器官に移植しても、その移植先の細胞として成長し働き出すと聞くのも、興味深いことです。人間社会においても、貧しい農民の家に生まれ育った子供が、まだ新鮮な若さと意欲を保持している間なら、貴族社会の中に受け入れられても、周りの人々に立派に溶け込み貢献することができるのではないでしょうか。私たちも新鮮な若さと柔軟さを実践的に保持し続けるよう心がけましょう。そうすれば、社会がどのように変わろうとも、その変化に立派に適応して生活し、働き続けることができると思います。

④ ただ、各細胞はより大きな生命力に生かされている存在で、その生命力から離れるならば灰に帰してしまう儚いものであることをいつも心に銘記し、主キリストが身をもってお示しになったように、何よりも父なる神の働きや導きを鋭敏に感知し、それに従って生き且つ働くよう努めましょう。自然界の動植物の種類の多さからも分かるように、神は多様性の愛好者で、相異なる者が全体の生態系を乱さずに協力し合い、共に喜んで神の愛に生きることを望んでおられます。人間にも驚くほど多種多様の素質・考え・性格の人々がいますが、皆心を大きく開いて互いに相手を受け入れ、協力し合って全体の福祉発展に尽くすことを、神は望んでおられるのではないでしょうか。これが、本日の第二朗読の趣旨だと考えます。

⑤ 本日の福音は、ルカ福音の冒頭部分と主のナザレでの話とを結び合わせていますが、この後半部分の主題は、神が貧しい人や抑圧されている人にお与えになる自由と解放にあると思います。聖書のギリシャ語原文では、「自由」も「解放」もアフェシスという一つの言葉になっており、このアフェシスは、自由・解放・罪の赦しなど、多義的な意味を持つ言葉であると聞いています。

⑥ 旧約聖書のレビ記25章に述べられているヨベルの年は、50年毎に神の民にアフェシス、すなわち自由・解放を宣言し、全住民がそれぞれその時の一切の社会的経済的な束縛から解放されて、自分の先祖に与えられた生活基盤(すなわち土地と家族)を再び完全に自分のものとすることができるようにする、恵みの年を意味しています。神から与えられたこの規定が、旧約時代に果たして実施されたのか、また実施されたのなら何時まで続いたのかは、残念ながら確かめることができません。聖書から知られる限りでは、規定はあるものの、ほとんど実施されなかったのではないかと思われます。しかし、神からの啓示にこの規定がある以上、神の御旨では、社会的に貧しく不幸な状態に置かれている人々がいつまでもその苦しい立場に悩まされ続けることなく、半世紀に一度は神の民全員が外的にも対等の兄弟姉妹の立場に戻され解放されて、神の下での自由・解放の喜びを分かち合うように、こうして人間社会や社会体制の歪みを是正するように、というのが理想であったと思われます。ヨベルというのは雄羊の角のことで、恵みの年の初めにアフェシスを告げる大きな角笛を吹き鳴らすことから、その年が「ヨベルの年」と呼ばれるようになったようです。

⑦ 残念なことですが、旧約時代においてはこの理想が実現された形跡は見られません。しかし、本日の福音の最後に主が話された宣言から察しますと、主は新約の神の民においてこの理想が実現すると断言しておられるのであり、この理想が実現する度合いに応じて、その共同体の内に主が現存し働いておられる証しだと考えてよいと思います。少なくともこの罪の世が神の愛の火によって徹底的に裁かれ浄化される終末の日の後には、この理想は完全に実現するでしょうが、しかしそれまでの間にも、新約の神の民がこの理想の実現に努めることによって、人類に神の愛と、やがて与えられる大きな自由・解放とを、実践的に証しすることを、神は強く求めておられると信じます。

⑧ 私たちもそれぞれ自分の置かれている立場で、主が強調なされたこの理想の実現に協力するよう心がけましょう。考えや性格の違いを超えて誰に対しても大きく心を開き、特に何かの束縛の下に苦しんでいる人には、私たちの内に現存しておられる主に信仰の眼を向けながら、温かい援助の手を差し伸べるように努めましょう。主は「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、「捕われている人に解放を」もたらすために、神から遣わされて来られた救い主であり、私たちはそれぞれその主の体とされているのですから。

⑨ 本日の第二朗読の教えによりますと、もしその人が洗礼を受けているなら、主において既に私たちと一つの体になっているのであり、まだ洗礼を受けていなくても、私たちと一つの体になるよう主によって招かれ召されているのです。マザー・テレサは、病気の人や体の不自由な人は、自分のその苦しみを神に献げながら、私たちの働きに貢献しているのだと考え、そういう人を「もう一人の私」と呼んでいました。そして自分自身のようにして、その人の世話に配慮しておられました。このような連帯精神と神の愛が働く所に、神の祝福も恵みも豊かに与えられるのではないでしょうか。私たちもマザー・テレサの模範に見習い、温かい美しい心で、神の被造物全体のために生きるよう心がけましょう。

2010年1月17日日曜日

説教集C年: 2007年1月14日、第2主日(藤沢の聖心の布教姉妹会で)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 62: 1~5. Ⅱ. コリント1: 12: 4~11  Ⅲ. ヨハネ福音: 2: 1~11.

① 本日の第一朗読の出典であるイザヤ書の56章から最後の66章までは、バビロン捕囚から解放される希望や喜びについての預言である第二イザヤには出てこない、安息日や神殿についての記事が登場することから、神の民が既にエルサレムに戻り、破壊された神殿を再建していた頃に預言されたもので、「第三イザヤ」と言われています。当時のエルサレムには数々の大きな問題や困難が山積していたと思われますが、本日の朗読箇所ではエルサレムが擬人化されて、神から「あなた」と親しく呼びかけられ、神の特別な愛と保護が約束されています。このエルサレムを数多くの問題を抱えて苦悩している現代の教会のシンボルと観ることも許されると思います。司祭・修道者の老齢化や減少で、将来が絶望的と思われることもありますが、全能の神の愛にあくまでも信頼し続け、忍耐と希望の内にこの苦境を乗り切るよう心がけましょう。
② 本日の第二朗読には、神の賜物(ギリシャ語でカリスマ)についての使徒パウロの見解が述べられています。それによると、カリスマはその人の訓練・努力によって獲得され磨かれるような能力、現代流行の言葉で言えば個人的な「超能力」ではなく、神の霊によって無償で与えられる神の働きであり、その働きには様々な種類がありますが、それらの働きをなさるのは、全ての場合に神ご自身のようです。そして神は、共同体全体の利益のために、一人一人の内に相異なるそのような働きをなさるのだそうです。神の霊は、私たち一人一人の内にもそのように働いておられます。自分中心の人間的考えを慎み、聖霊の働きに徹底的に従う心が大切だと思います。
③ 紀元前2世紀の中ごろに、カルタゴと同様にローマ軍によっていったん完全に滅ぼされてしまった港湾都市コリントには、その後当時の世界各地から夢多い有能な若者たちが次々と数多く流れ込み、それぞれ出身地の古い伝統から完全に解放された自由な雰囲気の中で、新しい社会の建設に競って働いていました。地の利を得て経済的にも大きく発展しつつあったこの若さに溢れているコリントに、使徒パウロによって創始された教会内にも、聖霊は積極的に働いて、いろいろのカリスマに恵まれた信徒たちが活躍していたようですが、その恵みを自分個人の能力と誤解することのないよう、パウロはその書簡にこのような教えを書いたのだと思われます。古い伝統的組織がその統制力を失いつつある現代にも、各地で頻発する恐ろしい悪魔的事件や災害・不幸に抗して、神の霊は人目につかない様々な新しい形の働きを展開しておられるのではないでしょうか。キリスト者の中だけではなく、善意ある異教徒や無宗教者の中でも、教会の祈りや私たちの願いに応えて働いておられると思います。目には見えなくても、心を大きく開いて聖霊のそのような働きに感謝しつつ、世界の平和のため、また全ての人の贖いのため、今後も明るい希望の内に日々の祈りと捧げに励みましょう。
④ 本日の福音は、主がガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えて、結婚祝宴の最中にぶどう酒不足に困っていた家庭に、そっと大量のぶどう酒をお与えになった奇跡の話ですが、使徒ヨハネはこれを「しるし」と書いています。私たちが表面の力ある業・奇跡的出来事にだけ心を奪われ、神介入のしるしと、そこに込められている神のメッセージを見逃さないように、との配慮からだと思います。結婚式に招かれて出席した人が多すぎたのか、祝宴の最中に台所のぶどう酒がもう無くなっていることに気づかれた聖母マリアは、そのことをそっと主に知らせます。台所にまで心を配る女性特有の細やかな配慮からの行為であったと思われます。祝宴の席から台所の方へ行かれた主は、聖母に「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」と、冷たいような謎めいたお言葉をおっしゃいました。「母よ」といわれたのでない事から察しますと、主はここで、あのエルサレム神殿での12歳の時のように、この世の母子の人間的関係から離れて、天の御父との関係に入っていること、天の御父からの使命達成のために働こうとしておられることを知らせる言葉であったと思われます。
⑤ 神が提供される終末の日の祝宴について預言しているイザヤ書の25章6~8節では、ぶどう酒は、神が死を永久に滅ぼして神の民の恥を地上からぬぐい去り、全ての民にお与えになる救いのシンボルとされています。主は、この預言のことを考えておられたのかも知れません。主の受難死によって成就され提供されるに到るその救いの時はまだ来ていませんが、いま目前にぶどう酒不足で大恥をかくことになる新婚夫婦の差し迫った危機を前にして、神による終末の大祝宴の前兆をここで人々に味わわせるのが、天の御父の御旨であると、主は思われたのではないでしょうか。台所での主のその御態度から、主が天の御父から使命を受けて何かをして下さろうとしておられるのを感じ取った聖母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言いました。神が何かをして下さろうとしている時には、一切の人間的な判断を控えて、ただ従おうとすることが大切だからです。
⑥ そこには清めのための水がめが六つ置いてありましたが、いずれも2乃至3メトレテス入りとありますから、80リットルから120リットル位も入るような大きな水がめだと思います。そこに皆、水をいっぱいに満たさせ、それを無言のうちに最上等のぶどう酒に変えて、祝宴に集まっている人々に提供なされたとすると、これは真に驚嘆に値する奇跡であります。しかしそれは、神が終末の日に救われる全人類に提供しようとしておられる大祝宴の、まだほんの小さな小さな前兆でしかないのです。私たちに対する全能の父なる神の絶大な愛と、日々のご配慮に感謝しつつ、明るい大きな希望のうちに本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年1月10日日曜日

説教集C年: 2007年1月8日、主の洗礼(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 40: 1~5, 9~11. Ⅱ. テトス: 2: 11~14,
3: 4~7.  Ⅲ. ルカ福音: 3: 15~16, 21~22.



① 本日の福音には、当時のユダヤ人民衆が神から約束されていたメシアを待望していて、洗礼者ヨハネをメシアではないかと、皆心の中で考えていたとあります。当時のユダヤ人たちは、紀元15年にTiberius皇帝から帝国の臨時統治を命じられたユダヤ人嫌いのSejanusからの指令で、急に高圧的になったローマ総督によるユダヤ支配を、堪え難いものとして嫌悪していましたし、旧約の預言などから考えてもそろそろメシアが出現する時ではないかと予感していたと思われます。ヘロデ大王の晩年に来朝した東方の博士たちの言葉から推察しても、もしメシアが星に徴が現れたというその頃に生まれたとしたなら、すでに30歳代に達したであろうし、もう間もなく世に出現する頃であろう、と密かに待望熱を高めていたのではないでしょうか。


② そこで洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書1章と3章とに述べられているように、自分はメシアではないとはっきりと人々の考えを否定し、「私は水で洗礼を授けているが、私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる」などと、間もなく民衆の待望しているメシアの登場されることを告げています。マタイとマルコの福音には、「私の後から」という言葉が添えられており、ヨハネ福音には「あなた方の間にあなた方の知らない人がおられるが、その人が私の後から来られる方で」などと言われていますから、民衆はメシアの出現はもう本当に近いのだ、と感じていたと思います。


③ ところがそのメシアは、民衆が皆ヨハネの洗礼を受けにやって来ていた時、その民衆の群れに混じってヨハネの洗礼を受けに来たので、ヨハネは驚いたと思います。マタイ福音によると、ヨハネは恐縮して「この私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と申し上げて、受洗を思い止まらせようとしましたが、主は「今はそうさせてくれ。このように全ての義を満たすのは、私たちに相応しいことだから」と答えて、ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになりました。もしこれが事実なら、主は清めを必要としている罪人だったと誤解される恐れがあります。そこでマタイは、二人の間のこのような会話を福音に載せたのだと思います。誤解される恐れが大きいにも拘らず、四人の福音史家が揃って主の受洗について書いていることを考えると、主の受洗は、人類救済の上に大きな意味を持つ史実であったと思われます。それはどんな意味でしょうか。察するに、公生活を始める当たって、まず御自ら全人類の罪を背負い、罪深い民衆の中の一人となって、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるのが、天の御父の御旨だったのではないでしょうか。主のお言葉にある「義」は、神のこの御旨のことを指していると思います。
④ 主がヨルダン川の濁流に全く沈められ、そこからすぐに立ち上がって祈っておられると、その時天が開け、聖霊が鳩の姿で主の上に降って来ました。そして天から「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、聞こえて来ました。それは、詩篇2番とイザヤ42章に預言されていた通りの言葉ですが、同時に聖霊が主の上に降ることによって、この方が洗礼者ヨハネが預言したとおり、聖霊によって洗礼を授けるメシアであることを、神ご自身が証しなされたことを示していると思います。こう考えると、ヨルダン川での主の受洗は、救い主としての務めへの就任式といってもよいのではないでしょうか。そして聖霊の降下は、その任務を遂行する力の授与だったのではないでしょうか。救われるべき民衆と救い主とを結ぶ接点、それがメシアご自身もお受けになった、ヨハネの悔い改めの洗礼であると思います。


⑤ 私たちも、救い主による救いの恵みを受けて豊かな実を結ぶには、悔い改めの洗礼を受けて自分の魂の肌に深い傷をつける必要があるのではないでしょうか。さもないと、救い主による洗礼を受けても、その恵みは魂の奥にまでは入り込まず、魂の奥にはいつまでも原罪の名残である自我中心の精神が居残っていて、神の愛に生かされて生きることができないのではないでしょうか。新約時代の恵みは、旧約時代の準備を基礎にして与えられたものです。キリストによる洗礼を受けた者には、洗礼者ヨハネの説く悔い改めは必要ないなどと、短絡的に考えないようにしましょう。洗礼者ヨハネから受洗した主は、今の私たちにも「我に従え」とおっしゃっておられるのではないでしょうないでしょうか。


⑥ 本日の第二朗読には「私たちが行った義の業によってではなく」という言葉がありますが、私たちが救われるのは自分の努力や実績によるのではないのです。私たちは一旦自分に絶望し、自分に死んでひたすら神の憐れみに縋る必要があります。その生き方へと魂を立ち上がらせるヨハネの悔い改めの洗礼は、現代の私たちにとっても必要であると思います。主はそのことを教えるためにも、ヨハネの洗礼をお受けになったのではないでしょうか。主に見習って、私たちも日々悔い改めに励み、魂の奥底にまだ残っている自我の部厚い肌に深い傷をつけつつ、そこから神の無我な愛が、新約時代の洗礼の水が魂の奥にまでしみ込むように致しましょう。本日はそのための勇気と忍耐と導きの恵みを神に願い求めつつ、ミサ聖祭を献げましょう。

2010年1月3日日曜日

説教集C年: 2007年1月7日、主の公現(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
     Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.




① 本日の福音には、「ヘロデ王の時代に」という漠然とした時代設定の下に、東方のマゴイ (占星術の学者たち) がエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに」と訊ねたり、「私たちは東方でその方の星を見たので拝みに来ました」などと話したりし、これを聞いてヘロデ王もエルサレムの人々も皆不安になっただの、マゴイたちに星が先立って進み、幼子のいる所の上に止まっただの、マゴイたちが幼子を拝み、宝箱を開けて贈り物を捧げただのという、何かの御伽噺にしか出てこないような話や言い方が幾つも登場しています。「王としてお生まれになった方」などという表現も、普通には聞かれない現実離れした言い方だと思います。それで聖書の叙述の様式史的研究をしていたブルトマンという聖書学者が、聖書のこの箇所は新約聖書の中でも最も御伽噺的な要素を多く備えているので、これは歴史的な事実を伝えようとしたものではなく、マタイは旧約聖書に書かれている預言が成就したことを説くために、このような作り話を書き残したのではないか、と主張しました。


② この話はカトリック教会がプロテスタント諸派に大きく心を開いた第二ヴァチカン公会議直後の頃、すなわち1960年代後半から70年代初めにかけてカトリック教会内にも広まり、わが国でも新約聖書を非神話化しようとするブルトマンの思想が流行したことがありました。それで私は、「ブルトマンの新約聖書非神話化に対する史学的見地からの疑問点」と題する論文を、当時のカトリック神学会の機関誌『カトリック研究』第27号に発表し、歴史家の立場からブルトマンのこのような流行思想に強く反対したことがあります。幸い欧米でもブルトマンの思想に対する批判が強まり、1975年頃からはもう支持されなくなりましたが、本日の福音である東方の博士たちの来朝と礼拝について、マタイがユダヤに伝えられた史実をできるだけ誠実に書き残そうとしたのであると思われることは、以前に詳しく話しましたので、今日は少し違う観点からこの福音について考えてみましょう。


③ 日本語の訳文は「イエスは、云々」という言葉で本日の福音が始まっていますが、ギリシャ語原文では「そのイエスがヘロデ王の時代にユダヤのベトレヘムにお生まれになった時」となっています。冒頭に「その」という定冠詞が置かれているのは、そのすぐ前にヨゼフが夢で天使から知らせを受け、妻マリアを迎え入れて一緒になり、マリアの生んだ男の子を「イエス」と名づけた話があり、この子が人間を罪から救う、神から約束されたメシアなのだという信仰が、この福音の背景にあるからだと思います。


④ 本日の福音は、博士たちの来朝と質問、それに対するエルサレムでの反応、そして博士たちの礼拝という三つの部分に分けられますが、そのどの部分にも「星」という言葉と、「拝む」あるいは「ひれ伏して拝む」という意味の動詞が置かれていることは、注目に値します。神は人間の言葉だけでメシアの来臨を知らせたのではなく、文化の違う東方の異教徒たちには、自然界の星を利用しても知らせることのおできになる方であること、そしてその人たちは、聖書を通して啓示されている数々の掟や教えのことを詳しく知らなくても、神の民が受けているそれらの啓示を尊重し、神がお遣わしになった救い主を自分たちの伝統的仕方で尊び礼拝しようとするだけで、神から正しく導かれてその目的を達し、溢れるほど豊かに救いの恵みを受けるのであることを、本日の福音は示していると思います。


⑤ 聖書による言葉の啓示を豊かに受けている私たちも、神からのこの知識を持っていなければ救われないのだ、などという狭い立場に固執しないよう気をつけましょう。神を拝み神に従おうとする心で生きているなら、そして日々その信仰心を行動で実践的に表明しているなら、神の民に与えられている啓示の内容は何も知らなくても、神は必要な導きや救いの恵みを豊かに与えてくださるのですから。鎌倉時代初期の西行法師は、伊勢神宮を参詣して「何事のおはしますをば知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」と詠んでいますが、この歌について宗教学者の山折哲雄氏は、一神教では「神を信ずる」と言いますが、日本人の宗教心の特徴は「神を感ずる」ことにあるのではないか、と言ったことがあります。私はこの見解に賛成しています。東方の博士たちが星によって救いへと導かれたように、多くの日本人は、初日の出を拝んだり、満月に供え物を捧げたり、高い山の霊気に触れたりすることによって神の働きを崇め尊び、心が救いへと導かれているのではないでしょうか。これは、旧約聖書に述べられているような偶像礼拝ではないと思います。偶像礼拝は人間が自分の考えで作り上げたものを最高の存在として崇めることですが、太陽や月や星などは神から与えられた存在であり、それらを介して神が人間の心に呼びかけておられるような道具であり、また神の御子の受肉によって聖化され、ある意味で神の栄光を現しているような存在だと思います。


⑥ 聖書の啓示については、博士たちよりも遥かに多く知っていたエルサレムのユダヤ人たちは、メシアが予言されていた通りにベトレヘムに生まれたであろうことは知っても、ヘロデ王に対する恐れからか、そのメシアを自分で探し出そうとも礼拝しようともしませんでした。神に対する信仰と愛を自分の態度や行動で、日々積極的に表明しようとしないなら、神からの啓示についてどれ程多く知っていても、心は救いの恵みを受けず、既に受けた恵みもその実践的怠惰・軽視のゆえに次々と失って行くのではないでしょうか。後年、主が語られた多くの譬え話の中では、怠たり・軽視の罪に対する警告が克明に強調されています。


⑦ 神の御子は、この世に生まれた幼子の時から、ふさわしい心でご自身に出会うすべての人の心に、神の愛と救いの恵みを豊かに頒け与えようと待っておられたでしょうが、頭では神を信じていても、目前のこの世の生活の安泰や自分の都合などを優先して、隠れた所での神の救いの恵みを敢えてたずね求めようとしない人々、頭を下げて神を拝みに行こうとしない人々は、ベトレヘムの羊飼いたちや東方の博士たちが受けたような神の祝福、クリスマスの本当の内的恵みを受けることなく、その人たちの全ての営みは、やがてエルサレムに訪れようとしていた破滅によって、永遠に空しく葬り去られたのではないでしょうか。それに比べると、神の御子を拝んだベトレヘムの羊飼いたちや東方の博士たちは、たとい神の啓示についてはほとんど知らずにいても、その後も生涯慎ましく希望と喜びの内に神信仰に生き、今は天国で主の御許で仕合せに過ごしておられるのではないかと、私は想像しています。


⑧ 新しい年の初めにあたって、身近の小さな事物現象を通しても示される神のひそかな導きを軽視せず、万事において絶えず神の働き、神の導きに従おうとの決心を新たにしたいと思います。そして東方の博士たちのように、心から深く神を礼拝することにも心がけましょう。これが私たちの心に安らぎと喜びを豊かに与えるものであることを、私たちは実践によって知るに到ると思います。

2010年1月1日金曜日

説教集C年: 2007年1月1日、神の母聖マリアの祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
     Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.


① 元旦の本日は、カトリック教会で「世界平和の日」とされており、世界平和のために特別に祈る日ですので、このミサ聖祭は、ローマ教皇の意向に従い、全世界の教会と一致して世界平和のために神の照らしと導きの恵みを願い求めてお献げしたいと思います。ご一緒にお祈りください。現教皇ベネディクト16世は、この日に宛てた長いメッセージの中で、「神は私たちの助けなしに私たちを創造なさいましたが、私たちの助けなしに私たちを救うことはお望みになりませんでした」という聖アウグスティヌスの言葉を引用して、全ての人には神からの無償の賜物と共に、務め(任務)というものも与えられていることを自覚させ、「平和もまた、賜物である同時に務めでもあります」と書いておられます。そして各人が全ての人の基本的権利である自由平等を尊重し、互いに赦し合い助け合って、家庭においても社会においても国際的にも平和が実現し維持されるよう、祈りかつ尽力する義務のあることを強調しておられます。


② 私たち各人が神からのこの使命をしっかりと自覚して、この使命を忠実に果たす恵みも祈り求めましょう。ただ祈り求めるだけではなく、自分でも日常の人間関係の中で積極的に平和を愛し、譲ることのできることは、多少の苦しみが伴っても喜んで相手に譲り、平和に対する愛を実践的に磨くよう心がけましょう。聖アウグスティヌスは、「平和を愛することは既に平和を有することである」と言っていますが、私たちは自分の心の中に、また隣人との人間関係において、本当に平和を愛し平安を所有しているでしょうか。年のはじめ、「平和の日」に当たって、己を無にして小さく貧しくこの世にお生まれになった神の御子が示しておられる模範を観想しつつ、反省してみましょう。
③ 本日の福音には、天使が去った後のベトレヘムの羊飼いたちの反応が語られています。救い主のお出でを待ちわびていた彼らは、エルサレムの大祭司や律法学者たちとは違って、すぐに立って行動し始めたようです。クリスマスや新しい年の恵みを豊かに受けるには、神から与えられるものに対するこのような実践的受け入れ態度や積極性が大切なのではないでしょうか。私たちも神からの新しい年の恵みをただ感謝して受け取るだけではなく、その感謝を実践的行動や決意表明などで示すよう、今年も心がけましょう。


④ 本日の福音のテーマは、神から知らされた福音を早く知らせようとしたことにあると思います。そこには「知らせる」「告げる」「聞く」などの動詞が幾つも登場していますが、それらの中心的対象になっているのが、ギリシャ語でレーマと言われているものです。レーマは、「語る」という動詞から派生した名詞で、「語られた言葉」、または「出来事」を意味しています。羊飼いたちは、「主が知らせて下さったそのレーマ(出来事)を見よう」と互いに言い合って、急いで行き、マリアとヨゼフと生まれたばかりの乳飲み子とを探し当てたのです。当時のベトレヘムの人口は2千人程と推定されていますから、戸数はせいぜい400か500前後の、村と言ってよい程の小さな町だったでしょうから、そのうち家畜置き場を備えている大きな家だけを探すのは、それ程難しくなかったと思われます。今日の諸教会に設置されている「クリスマスの馬屋」と言われる大きな飾りには、羊飼いたちの像と一緒によく羊たちの像も飾られていますが、夜中の出来事でしたし走って行ったのですから、眠らせていた羊の群れを起こして連れて行くようなことはしなかったと思います。恐らく誰かが交代して羊の群れの番をし、残りの羊飼いたちが探しに行ったのでしょう。


⑤ 探し当てると、彼らはその光景に大きな喜びを覚え、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせたようですが、ここで人々といわれているのは、マリアとヨゼフだけではないと思われます。としますと、静かな真夜中のことですから、階段上の広間(カタリマ)で寝ていたヨゼフの一族の一部の人たちも、下の家畜置き場の物音に目を覚まし、何事が起きたのかと、見に来たのかも知れません。羊飼いたちの話を聞いた人々は皆、その夢のような話を不思議に思ったでしょうが、「マリアはこれらの語られた出来事を全て心に納めて思い巡らせていた」とあります。そこに神の働き、神の愛を洞察したからだと思います。


⑥ 私たちも、自分の身近に起こる出来事の中にいつも神の働き、神の愛を見るように心がけましょう。身近に起こる思わぬ出来事や出遭い等には、神からの何らかのメッセージが込められていることが多いからです。聖母のように、神からのそのメッセージを素直な心で受け止め、心に留めて思い巡らそうとする生き方が、この世にお出でになった救い主の恵みを豊かに受ける道だと思います。


⑦ 見聞きしたことが全て天使の話したとおりだったのを確認した羊飼いたちは、そこに自分たちに対する神の大きな愛を感じ、喜んだのでしょうか、神を崇め讃美しながら帰って行きました。私たちも神がお遣わしになった救い主の誕生、神の御独り子の現存に感謝して喜んで神を崇め、新たな希望のうちに新しい一年の生活を始めましょう。


⑧ 話は横道にそれますが、1988年だったでしょうか、京都に梅原猛氏を初代の長とする国際日本文化研究センターが創立されて間もない頃、私は数年間そこの共同研究員にされて、度々京都に出張していました。そして、そこで古事記・万葉時代の日本語研究の権威者中西進氏の講演を二度ほど聴くことができました。その中西氏によると、「いのち」という言葉の「い」は語源的に息を、「ち」は力を意味しているのだそうです。としますと、太古の日本人は「いのち」を「息の力」と表現して、外的には真に儚く見える息の中に、神秘な神の力を感じていたのではないでしょうか。この話は一年前のクリスマスにも話したかも知れませんが、私はクリスマス、正月の頃に「いのち」というものについて考える時は、いつも中西氏の話を懐かしく思い出します。旧約の神の民イスラエルも神の「霊」を「ルーアッハ」と呼んでいて、この「ルーアッハ」という言葉は本来「息」あるいは「風」という意味の言葉だそうですから、太古の日本人の生命観は、聖書の思想にもよく適合していると思います。


⑨ 現代の科学的合理化・国際化の巨大な潮流の中で、諸国諸民族の伝統的道徳も価値観も根底から突き崩されて、各個人の命、特に小さな者・弱い者の命は恐ろしいほど冷たく軽視され無視されているように覚えるこの頃ですが、2千年前のユダヤでも同様の小さな者・弱い者無視の冷たい人間観が広まっていたと思います。そういう社会の貧しい最下層に、神の御子がか弱い幼子の姿で生まれ、自分の手に抱かれているのを見た時、聖母マリアはどれ程深い感動を覚えたことでしょうか。私は、聖母が恐らく日々愛唱してルカにも伝えたと思われるMagnificatの讃歌を唱える時、これからは小さな者・弱い者を介して神の救いの力が働いて、奢り暮らす者を退け、見捨てられた人を高めて下さる新しい時代が始まったのだという、その聖母の感動を心に想起し追体験するよう心がけています。


⑩ 私たちが今年一年、平凡な日常茶飯事の中で出遭う小さな者や物事を軽視しないよう心がけましょう。神の救う力や恵みは、しばしばそのような小さなものを介して、私たちに提供されるように思います。花や鳥や四季の移り変わりに感動する詩人や画家たちのような、鋭敏な心のセンスが必要だと思います。神の働きを感知し、心を開いてその恵みを受け止める信仰も、一種の芸術的センスであると思いますので。私たちがそのような信仰に生き、今年も神の救いの恵みを豊かに受けることを願い求めて、本日の感謝の祭儀を献げましょう。