2012年5月27日日曜日

説教集B年:2009年聖霊降臨の主日(函館のトラピスティン修道院で)



朗読聖書: . 使徒 2: 1~11.
      . ガラテヤ 5: 16~25.  
   . ヨハネ福音 15: 26~27; 16: 12~15.
   聖霊降臨の大祝日と聞くと、聖霊の祝日と思う人もいるでしょうが、本日のミサの集会祈願も奉納祈願も拝領祈願も、聖霊よりは天の御父と主イエスに対する願いとなっており、「聖霊を世界にあまねく注いで下さい」と御父に願ったり、「御子が約束された通り聖霊を注ぎ、信じる民を照らして下さい」などと主イエスに願ったりしていますから、教会はこの祝日を伝統的に聖霊だけの祝日としてではなく、三位一体による新しい神の民誕生の祝日としていたように思われます。もはや死ぬことのない永遠の生命に復活なされた主イエスは、その復活の日の晩に弟子たちに出現なされた時にも、ヨハネ福音書によりますと、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。云々」と話しておられますから、主は五十日祭の前にも弟子たちに聖霊を注いでおられますが、復活後最初の五十日祭の時には天の御父も御子も、主の復活を信じ主の御言葉に従って祈っていた、聖母マリアを始め使徒たちや信者たちの上に特別豊かにまた劇的に聖霊を注ぎ、その直後の弟子たちの活発な活動や、大勢の人たちの受洗などを考慮しますと、この聖霊降臨によって新約の神の民が世に産まれ出たのだと思います。としますと、それ以前の聖霊の注ぎは、いわば産まれ出る前の胎児のような教会の体を育てるためのものであった、と考えてもよいかと思います。

   使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことはないでしょう」と述べて、肉の業と神の霊の結ぶ実とについて列挙していますが、神の愛の霊を受けて主キリストの神秘体の細胞にして戴いても、この世に生きている限りはまだ古いアダムの肉をまとっているのですから、主イエスや聖母マリアのように、何よりも神の僕・婢の精神でしっかりとその肉の欲を統御し、十字架につけ、神の愛の霊の器・道具となって生きるよう心がけなければなりません。その時神の霊は私たちの内にのびのびと自由に働き始め、私たちはその霊の導きと自由に参与して、豊かに霊の実を結ぶに至るのではないでしょうか。「霊の導きに従って歩みなさい」という聖書の言葉を重く受け止め、いつも私たちの心の中に留まっていて下さる「聖霊の神殿」となって、生活するよう心がけましょう。

   主は山上の説教の中で、「隠れたことをご覧になるあなたの父は報いて下さる」だの、「隠れた所にお出でになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いて下さる」などと、「隠れた」という言葉を繰り返しながら天の御父について話しておられますが、思うに、これは人間として主の常日頃の実践から、ごく自然にお口から出た表現ではないでしょうか。私は父なる神も、復活の主ご自身も、聖霊も、いつも私たちの日常茶飯事に伴っておられ、人目に隠れたごく小さな行いを、隠れた所からご覧になっておられるように感じています。と申しますのは、私が何気なく自由に為した些細な奉仕や親切などが、後になってみると、不思議に神によって報いられているように覚える小さな成功や巡り合わせなどの喜びを、数多く体験しているからです。人間的社会的には義務でも何でもない、社会と自然界に対する小さな愛の奉仕や親切を、あの世の神に心の眼を向けながら実践してみましょう。神は人目に隠れたそういう小さな実践を特別の関心をもって見ておられ、事ある毎にその自由な愛の行為に報いて下さるように思います。そしてこういう体験の蓄積によって、あの世の神の現存に対する信仰も地についたものとなり、祈りにも熱がこもるようになります。

   新約の神の民が各人のこのような実践的信仰体験に根ざして、神の存在や働き、あるいは復活なされた主の現存や働きについて証し人となるようにと、豊かに聖霊をお注ぎになったのではないでしょうか。2千年前のユダヤには、神に喜ばれ受け入れられるため競うように神の掟を忠実に守り、神のため伝統的ユダヤ人の宗教のために何かをしよう、週に2回も断食しようなどと励んでいたファリサイ派の宗教者たちが活躍していました。人間的には、その人たちは日々神のための宗教的善意と熱意に生きていたと思います。しかし主は、その人たちのそのような生き方を「ファリサイ派のパン種」と呼んで、それに警戒するよう弟子たちに警告なさいました。新約時代に主キリストの体のメンバーと召された人たちは、下からの各人の人間的熱意中心のそんな生き方に死ぬこと、そして主キリストの霊に徹底的に従う生き方に転向することが求められているのだと思います。昨年の6月28日から今年の6月29日までは「パウロ年」とされて、カトリック教会は使徒パウロの精神をしっかりと身につけるよう勧めていますが、使徒パウロは、何かの社会的悪行から回心したのではありません。一般的には「パウロの回心」などと言われていますが、パウロ自身は「回心」や「悔い改め」などという言葉は使っていません。パウロは神に対する人間中心のファリサイ的熱心から、主キリストの霊に従う熱心へと転向したのです。「パウロ年」に当たって私たちも、何よりもこの事に心がけべきだと思います。

   本日の福音は、最後の晩餐の席上で語られた主の遺言のような話からの引用ですが、主はその中でも、弟子たちが神の霊の器・道具のようになって生きること、証しすることを勧めておられるように見えます。「言っておきたい事はまだたくさんあるが、今あなた方には理解できない」というお言葉は、数年間主と生活を共にした弟子たちに主についての証しをさせようとしても、彼ら自身の能力では主による救いの業について正しく理解し、正しく証しすることができないことを示していると思われます。しかし、主がお遣わしになる「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。云々」というお言葉は、聖霊の内的導きに従おうと努めているなら、証し人としての使命を立派に果たすことができることを、保証しているのではないでしょうか。世の終りまで共にいると約束なされた主イエスは、現代の私たちにも聖霊を注いで、各人の信仰体験から証し人としての使命を果たさせようとしておられると思います。しかし、聖霊の器・道具となって霊の導きを正しく受け止め、それに従って行くには、ただ今も申しましたように、まず自分の中の古いアダムの心に死ぬように努め、自分中心のわがままな主体性や欲望をしっかりと統御しなければならないと思います。

   個人重視の教育を受けた現代人の中には、自分の考えや自分の企画中心のファリサイ的熱心から、神のため教会や社会のために何かをしようと思っている人が少なくないと思います。その善意はよく分かりますし、夫々その人なりに実績をあげていると思いますが、しかし、主イエスや使徒パウロの精神で働くなら、もっと豊かに神からの恵みを受け、もっと恒久的な実りを結ぶのではないでしょうか。.......

2012年5月20日日曜日

説教集B年:2009年主の昇天(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 1: 1~11.  
       . エフェソ 4: 1~13.  
   . マルコ福音 16: 15~20.
   本日の第一朗読には、もはや死ぬことのない永遠の命に復活なされた主イエスは、40日間にわたって度々使徒たちに出現し、神の国についてお語りになったばかりでなく、彼らと一緒に食事をしたりして数多くの証拠を示しながら、実際に神出鬼没のあの世の命があること、そして主がその命に今も生きておられることを証しました。それは、本日の朗読にもあるように、彼らが「地の果てに至るまで」主の証人となり、大きな確信と希望をもって神の国の命に生きて見せ、その生き方を世界の人々に広めるためであったと思います。その40日間の最後頃、主は彼らと一緒に食事をしておられた時、エルサレムを離れないで、あなた方が私から聞いた父の約束を待っているように、とお命じになりました。「間もなく聖霊によって洗礼を授けられるから」と。

   主のこのお言葉で将来に明るい希望を抱くに至った彼らは、その後おそらくオリーブ山の上に集められた時、「主よ、イスラエルのために王国を復興なさるのは、この時ですか」と、まだ古い現世的メシア像に囚われているような質問をしました。しかし主は、「父が御自らの権威をもってお定めになった時期は、あなた方の知るところではない」とその質問を退け、「聖霊があなた方に降る時、あなた方は力を受けるであろう。云々」と、彼らがこれからは主の証人としての使命に生きるべきことを告げ、話し終えると、彼らの見ている前で天に上げられて行き、雲に隠れてしまいました。

   このご昇天の時の主のお姿は、思うにそれまでとは多少違って、天上の威光と喜びに輝いているように見えたのではないでしょうか。それで弟子たちは、主のそのお姿を追い求めて、いつまでも天を見詰めていたのだと思います。するとそこに、白衣の人の姿で二位の天使が彼らの側に現れ、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなた方から離れて天にあげられたイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様で、また来るであろう」と告げました。天使たちのこの言葉は、今の世に生きる私たちにとっても忘れてならない言葉だと思います。すでに過ぎ去った過去の主のお姿だけを慕い求めるのではなく、激動する今の世の悩んでいる人類社会の中にも密かに受肉し、隠れて現存しておられる主の新しいお姿に対する心のセンスを磨きつつ、また主の栄光の再臨を待望しつつ、大きな明るい希望の内に神の国の証し人として生きるよう、私たちも神から求められているのではないでしょうか。復活なされた主は、私たちの過去におられるよりも、むしろいつも私たちの前に、私たちの未来に私たちを待っておられるのだと信じます。主に対する愛と信仰を新たにしながら、その主の現存や働きについて証しする人になるよう、主は私たちをも招いておられるように思います

   主は山上の説教の中で、「隠れたことをご覧になるあなたの父は報いて下さる」だの、「隠れた所にお出でになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いて下さる」などと、「隠れた」という言葉を繰り返しながら天の御父について話しておられますが、思うにこれは、人間としての主の常日頃の実践から、ごく自然にお口から出た表現ではないでしょうか。私は父なる神も、復活の主ご自身も、聖霊も、いつも私たちの日常茶飯事に伴っておられ、人目に隠れたごく小さな行いを、隠れた所からご覧になっておられるように感じています。と申しますのは、私が何気なく自由になした些細な奉仕や親切などが、後になって見ると不思議に神に喜ばれ、神によって報いられているように覚える、小さな成功や巡り合わせなどの喜びを、数多く体験しているからです。人間的社会的には義務でも何でもない、社会と自然界に対する小さな自由な奉仕や親切を、あの世の神に心の眼を向けながら実践してみましょう。復活の主も、人目に隠れたそういう小さな実践を特別の関心をもって見ておられ、事ある毎にその自由な実践に報いて下さるように思います。そしてこういう体験の蓄積によって、あの世の神に対する信仰も地に着いたものとなり、祈りにも熱がこもるようになります。主は私たちの心が、復活なされた主の現存や働きについてのこのような体験に基づく証し人になることを、お望みなのではないでしょうか。私たちも現代人に対して、主イエスの復活の証し人になることができます。

   本日の第二朗読で使徒パウロは、「愛をもって互いに忍耐し、平和の絆に結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」などと勧め、最後に「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです」と述べています。その背後には、使徒が本日の朗読箇所でも書いているように、私たちは皆一つの「キリストの体を造り上げて行く」のだ、という思想があると思います。以前にも申したことですが、一つのキリストの体になるということは、現代風に表現するなら、各人が「キリストの体の細胞」になること、そして頭である主キリストからの指令に従い、主の愛の生命力に内面から生かされ導かれて生活しよう、と努めることを意味していると思います。2千年前のユダヤには、神に喜ばれ受け入れられるため、競うようにして神の掟を守り、神のため宗教のために何かをしよう、週に2回も断食しようなどと励んでいた、ファリサイ派の宗教者たちが活躍していました。人間的には、その人たちは日々神のための宗教的善意と熱心に生きていたと思います。しかし、主はその人たちのその生き方を「ファリサイ派のパンだね」と呼んで、それに警戒するよう弟子たちに警告なさいました。キリストの体のメンバーには、各人の人間的熱意中心のそんな生き方に死ぬこと、そしてキリストの精神に生きること、キリストの霊に徹底的に従う生き方に転向することが求められているのだと思います。この観点から使徒パウロの教えを理解し、心に銘記致しましょう。今年は特に、「パウロ年」でもありますから。

   私たちがそのようにして主キリストの精神に生きる時、主が実際に私たちの中で働いて下さるのを、日々小刻みに体験するようになると信じます。本日の福音にあるような、「毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」などの大きな奇跡は体験しないとしても。悪魔の働きが益々活発になって来ているように思われる今の社会で、不安におびえる人々に復活の主の力と働きを、自分の体験に基づいて効果的に証しすることはできると思います。....

2012年5月13日日曜日

説教集B年:2009年復活節第6主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 10: 25~26, 34~35, 44~48.     . ヨハネ第一 4: 7~10.  
   . ヨハネ福音 15: 9~17.

   本日の第一朗読には、「ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者でペトロと一緒に来た人たちは皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て大いに驚いた。異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペトロは、」「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた」という言葉が読まれます。聖書のこの箇所を読む時、私はいつもマタイ福音書に読まれる洗礼者ヨハネの言葉、「私は水によって悔い改めの洗礼を授けるが、私の後においでになる方は」「聖霊と火によってあなた方に洗礼をお授けになる」という言葉を思い出します。マルコ福音書にもルカ福音書にも、同様に述べられています。カトリック教会で授けられる秘跡としての水の洗礼だけを重視して、その洗礼を受けないものは皆救われない、聖霊はその洗礼を受けた霊魂の中でのみお働きになる、などと考えてはなりません。仏教からの改宗者である私の体験を振り返ってみても、神は私が受洗する前にも私の心の中に働いて下さった、とはっきりと言うことができますし、そのように確信しています。そして私が多治見修道院に入ってからも、中世の聖トマスや聖ボナベントゥーラの教えに基づいて、受洗者の心は水の洗礼を受ける前に、まず聖霊の洗礼を受ける、とドイツ人宣教師たちから教わりました。

   ところで、30数年前に私から受洗したある信者を先日訪問したら、数年前から原始福音の信仰証しの月間誌『生命之光』を愛読していて、自分もその人たちの幕屋集会に出席してみようか、と迷ったことがあったという話を耳にしました。この月刊誌『生命之光』は、終戦直後頃の熊本県で神の霊の働きを生き生きと体験なさった手島郁郎氏が、1948101日に創刊した小冊子であります。カトリック・プロテスタントを問わず現実のキリスト教があまりにも外的人間的形に執着して、聖霊の自由な働きを阻害していることを嘆く手島氏が、無教会主義の立場に立って主キリストの原始福音を再興しようとしていることに私は大いに賛同し、私も十数年前から、私の許へ無償で送られて来るその月刊誌『生命之光』を愛読しています。そして10年ほど前からは、手島郁郎氏の二男で、日本人初のヘブライ大学博士号を取得なされた鎌倉在住の手島佑郎氏と親しくしています。私は1973年に帰天なされた手島郁郎氏の中に、またその信奉者たちの中に神の聖霊、主キリストの霊が確かに働いて数多くの様々な奇跡的御業や治癒をなさったこと、そして今もなさるということを、事実として確信しています。教会堂を持たないその人たちの個人宅を拠点とする、いわゆる「幕屋礼拝」は今や全国的に広まり、浜松にも豊橋にも拠点を持っており、アメリカにも九つの拠点を持って広まっています。ブラジル・メキシコ・パラグアイ・台湾・インドネシアや、ヨーロッパ・イスラエルなどにも拠点を設けて、神の霊の奇跡的働きに憧れる現代人たちの間に広まっています。
   しかし私が、そして私たちカトリック者が、その人たちの集会に参加して神の霊の奇跡的働きを祈り求めるのは、神の御旨ではないように思います。神は私たちにもっと大事な使命、すなわち主キリストが残された愛の福音を体現しつつ全人類のためにミサ聖祭をささげること、そして主キリストの御命・霊的体を秘跡によってこの世にしっかりと現存させること、という使命を託しておられるからです。幕屋礼拝に出席している人たちの中での聖霊の働きの基盤は、主キリストが私たちの間でお献げになるミサ聖祭の秘跡であると信じます。ですから私たちは、直接その人たちの集会に出席しなくても、ミサ聖祭のいけにえや祈りに深く参与することにより、その人たちの中での聖霊の働きに寄与しているのです。同じことは、他宗教の敬虔な信仰者たちの生活についても、この世の政治や福祉事業・医療活動・救済活動などについても言うことができると思います。救いや助けを必要としている無数の人たちの声に耳を傾けつつも、真っ先にミサ聖祭と祈りに励むことにより、聖霊の働きに協力するのが、神から受けた私たち修道者の使命だと信じます。

   本日の第二朗読は、主の新しい愛の掟の実践を力説する、使徒ヨハネの第一書簡の中心部分と称してもよいと思います。この書簡がしたためられた背景には、全てを人間理性によって理知的に解釈しようとした、当時の知識人たちの動きがあったと思われます。ヨハネはそれに対して、この書簡の第4章の始めに、そういうこの世の思想的立場に立って主イエスの受肉を軽視する人々を「偽預言者」、「反キリスト」、「世から出た者たち」として退け、神から出たものでない「迷いの霊」を見分けることを説いてます。そして私たち「神から出た者たちは、既に彼らに打ち勝っている」のだという信仰に堅く立って、只今ここで朗読されたように、第47節から「愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。云々」と、美しい愛の讃歌を綴っているのです。神は愛であり、神の愛は、神がその御独り子を世に遣わして私たちを贖い、私たちが彼によって生きるようにして下さったことによって明らかにされたもので、その愛は私たちこの世の人間からのものではないとするこの讃歌を、ゆっくりと味わってみましょう。私たちの存在が徹頭徹尾温かい神の愛に包まれ、抱かれているように感じられて来ることでしょう。私たち修道者は、カトリック教会の豊かな伝統の中に保たれている神のこのような働きをしっかりと身につけ、現代世界の中でも暗躍して止まない「偽預言者」、「反キリスト」、「迷いの霊」などを正しく見分けて、退ける使命も持っていると思います。そういうカトリック教会2千年の伝統を知らない、善意ある無数の幕屋礼拝参加者たちのためにも、復活の主キリストの光を高く掲げて、世の闇を退けるよう努めましょう。

   復活節第6主日の本日は、毎年カトリック教会で「世界広報の日」としてされています。現代世界で大きな影響力を行使しているマスコミ関係者たちのためにも、神に照らしと導きの恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。善意あるマスコミ関係者は大勢いますが、現代世界は極度に多様化していて、何が善、何が悪かをその時その時の具体的局面で正しく識別することは非常に難しくなっていると思います。神の霊がその人たちの心をも内面から照らし導いて下さるよう、ミサ聖祭を捧げて祈りましょう。

2012年5月6日日曜日

説教集B年:2009年復活節第5主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 9: 26~31.   Ⅱ. ヨハネ第一 3: 18~24.  
  . ヨハネ福音 15: 1~8.
本日の第一朗読は、ダマスコ途上で復活の主に出会って改心したサウロについての話ですが、そのサウロがダマスコの諸会堂でユダヤ人たちに、ナザレのイエスがメシアであることを力強く論証していましたら、驚いた一部のユダヤ人たちがサウロを殺そうと陰謀を企んだので、サウロはキリスト者たちの助けを得て夜に窓から吊り下ろされて逃れ、エルサレムに舞い戻ったのでした。そして本日の朗読箇所にあるように、主の弟子たちの仲間に加わろうとしましたが、数週間前にステファノをはじめ多くの信者を迫害したサウロを、エルサレムの信徒団は主の弟子と認めようとはしなかったようです。著名なラビ・ガマリエルの下で学んだ律法学士のサウロは、巧みな弁舌で人々を欺く恐れのある人間と思われたでしょう。事実、彼はエルサレムで大祭司たちを動かしてキリスト者迫害を盛んにした張本人でもあったのですから。無学な庶民層出身の弟子たちがサウロを警戒したのも、人間的にはよく理解できます。しかし、そういう人間的心情を中心にして、神のなさった救いの御業を受け止めたり批判したりしていますと、教会の中での神の働きや超自然の恵みを阻害し、教会内に若々しい広い温かい愛と希望の精神を失わせて、下手をすると、教会を冷たいファリサイ的精神の温床にして行く恐れがあります。
エルサレム信徒団のそんな雰囲気に抗して、キプロス島出身でギリシャ語に堪能な教養人バルナバは、聖書にも「持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足元に置いた」「立派な人物で、聖霊と信仰に満ちていた」と述べられていますが、人の心を正しく見抜く能力にも恵まれていたようで、サウロを使徒たちの所に連れて来て、彼が実際に復活の主に出会って改心し、ダマスコで主イエスの名によって大胆に宣教したことなどを説明しました。それで、サウロはエルサレムにいる使徒たちと自由に交際し、主の名によってギリシャ語を話すユダヤ人たちに宣教したり、彼らと議論したりし始めたようです。自分が知らずに犯した大きな過失を、償おうとしていたのだと思います。しかし、ギリシャ語を話すユダヤ人たちの中にはそのサウロを殺害しようとする動きも起こり、それを知ったギリシャ語を話すキリスト者たちは、彼を匿まって密かに港町カイサリアに降り、サウロをそこからその生まれ故郷である、今のトルコ半島西部の都市タルソスへ船出させました。
こうして、ギリシャ語を話すディアスポラ出身のユダヤ人改宗者、ステファノやサウロたちをめぐる出来事で、一時は大きな揺さぶりをかけられたエルサレム教会は、その後は平穏にユダヤ・ガリラヤ・サマリアの全地方でゆっくりと発展し、信徒数を増やしていったようです。しかし、この時期になるとエルサレム教会内には主の復活直後頃の大胆な証し人の精神が急速に弱まり、使徒ペトロもヨハネも、もうユダヤ教指導者たちをメシア殺しの罪で糾弾しなくなり、むしろユダヤ教との対立を緩和するため、ファリサイ派が重視する律法遵守をできる限りで尊重しながら、主イエスに対する愛と信仰を静かに広めていたように思われます。ユダヤ教の大法院も、ラビ・ガマリエルの言葉に従って、彼らがそのように努めている限りは、敢えて新しいキリスト教者を迫害しようとしなかったのだと思います。しかし、やがてバルナバもエルサレムを去り、タルソスからサウロ、すなわち後の使徒パウロを導き出して、一緒に伝道旅行を始めた頃からは、律法尊重のエルサレム教会の中にファリサイ派から改宗した人たちが何人も入って来て、キリスト教会をユダヤ教に引き戻そうとし始めたようで、この人たちが後年全てのキリスト者に割礼を受けさせようとして、使徒パウロを悩ましています。
本日の第二朗読には、「神の掟を守る人は神の内にいつも留まり、神もその人の内に留まって下さいます」という言葉が読まれますが、ここに言われている「神の掟」は、律法のことではありません。主が最後の晩餐の時お与えになった新しい掟、すなわち「私が愛したように互いに愛し合いなさい」という愛の掟を指しています。使徒ヨハネは本日の箇所で、「言葉や口先ではなく、行いをもって誠実に愛し合いましょう」と呼びかけ、そうすれば「神の御前で安心できます」「神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でも叶えられます」などと説いています。これは、長年にわたるご自身の体験からの述懐であると思います。多くの聖人たちも同様の言葉を残していますし、「神の愛の聖者」聖ベルナルドも、同様の述懐をなしています。私たちも聖人たちの模範に倣って、日々小さな事柄に至るまで、神の愛に生きる実践に心がけましょう。
特に日常茶飯事の中で出会う小さな物事の背後に、いつも信仰の眼で主キリストや神の現存を眺め、神のお望みに対する忠実と従順に努めましょう。そうしていますと、不思議に神はいつも私に伴っておられ、この小さな事柄もちゃんとご覧になっておられる、そして必要な時にはいつも間に合って助けて下さる、という体験を数多く重ねるようになります。そして神現存の信仰が心に深く根を下ろし、祈りにも心の熱がこもるようになります。400年前頃の日本のキリシタン殉教者たちが、聖書についてもキリスト教の教理についても、現代の私たちより遥かに少ししか知らなかったのに、どんな恐ろしい迫害にもたじろがずに雄々しく立ち向かうことができたのは、日々このような神信仰・神体験に心が生かされ支えられていたためであると思われます。私たちも、キリシタンたちの日頃の生き方に見習うよう心がけましょう。
本日の福音の中で、主が「私は幹であって、あなた方は枝である」とおっしゃったのでないことは、注目に値します。主はご自身を、根も幹も枝も実も含む「ぶどうの木」と表現しておられるのです。枝の外にある幹ではなく、枝の中にもその命が流れている植物全体を「ぶどうの木」と表現しておられるのです。「人が私に繋がっており私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」というお言葉から察しますと、ここで「繋がっている」(原文では「留まる」) という言葉は、単に外的に繋がっていることではなく、もっと内的に主との命の交わりに参与していること、主の御精神に結ばれ生かされていることを意味していると思います。ですから本日の福音の中で主は、「私に繋がっていなさい」と願うように話しておられ、私に繋がっていないなら、(たとい外的には繋がっていても) 御父によって取り除かれ、外に捨てられて枯れる、そして火に投げ入れられて焼かれてしまう、などと警告しておられます。そして「私に繋がっており、私の言葉があなた方の内に留まっているならば、望むものを何でも願いなさい」と勧めてもおられます。主のご説明によると、その人は願うことが全て叶えられて豊かに実を結ぶ主の弟子となり、天の御父もそれによって栄光をお受けになるのです。しかし、そのためには枝は枝、幹は幹と分けずに、枝も幹も皆主キリストの一つの体と考え、何事においても主のお導きに従い、主の従順心や霊的力に生かされつつ、枝としての働きを為すよう努める必要があると思います。
今年の1月に司祭叙階50周年の記念祝賀をしたのを契機に、私のこれまでの人生や修道生活、司祭生活を振り返ってみますと、この道に召し出されて本当に良かった、幸せだったと神に感謝することが山ほどあり、回り灯篭のように様々の懐かしい思い出が次々と心に去来します。しかし、それらの思い出に交じって、神からこんなに素晴らしい道へと召されたのに、そこから次々と脱落して行った同僚や後輩たちのことも思い出され、心を痛めます。なぜ去って行ったのだろうと私なりに振り返ってみますと、その外的具体的理由は各人各様でよく知りませんが、しかし、多くの人には一つ共通して見られる原因があったように見えます。それは、各人の個性や自由を重視する戦後教育のマイナス面の影響を受けて、自分中心に「自分にとって」という立場で自分の修道生活や司祭生活を見ており、また生きていたように思われることです。主キリストは幹、自分は枝と分けて考え、その幹から必要な養分を貰いながら、神のために自分で実を結ぼうとしていたように思われる言動が多かったように見えます。ですから外的人間的には十分恵まれた修道生活をしていても、自分は不当に束縛されている、上長や同僚たちに十分に評価されていない、自分とは見解の違う人が多い、それとなく監視されているなどという、自然的人間的次元での不満が少なく無かったのではないかと思いやられます。人間の心は皆「夢」を必要としていますが、自分中心の立場で現実の修道生活・司祭生活を眺める時、不満を感じてストレスを蓄積することが多かったのかも知れません。自分中心の立場に引きこもって、そんな苦しみを味わった人たちには同情もしますが、しかし、真に残念でなりません。
それに比べると、戦争中に小学校で我なしの軍国主義教育を受けた私は、戦後間もなくカトリック教会で受洗して多治見修道院に入り、自分に与えられる苦楽を「神よりのもの」と受け止め、いつも我なしの精神で神に心の眼を向けながら、素直にそれに従っていました。この生き方が神のお気に召して、私は度々弱さからの罪や小さな規則違反を重ねながらも、不思議に神の恵みと力に支えられつつ、ここまで本当に仕合わせに召命の道を歩むことができたのだと思います。召命の道を歩ませるものは、神の御旨中心主義の従順精神だと、あらためて痛感しています。主キリストも聖書によると、己を捨て、父なる神の御旨に死に至るまで従われたとあります。主キリストのこの精神で生きることが、葡萄の木であられる主と内的に堅く結ばれて豊かな実を結び、修道的召命の道を喜びと大きな仕合わせの内に最後まで忠実に生き抜く秘訣だと思います。私は自分の来し方を振り返る時、そのような思いを深くしていますが、いかがなものでしょうか。