2012年5月27日日曜日

説教集B年:2009年聖霊降臨の主日(函館のトラピスティン修道院で)



朗読聖書: . 使徒 2: 1~11.
      . ガラテヤ 5: 16~25.  
   . ヨハネ福音 15: 26~27; 16: 12~15.
   聖霊降臨の大祝日と聞くと、聖霊の祝日と思う人もいるでしょうが、本日のミサの集会祈願も奉納祈願も拝領祈願も、聖霊よりは天の御父と主イエスに対する願いとなっており、「聖霊を世界にあまねく注いで下さい」と御父に願ったり、「御子が約束された通り聖霊を注ぎ、信じる民を照らして下さい」などと主イエスに願ったりしていますから、教会はこの祝日を伝統的に聖霊だけの祝日としてではなく、三位一体による新しい神の民誕生の祝日としていたように思われます。もはや死ぬことのない永遠の生命に復活なされた主イエスは、その復活の日の晩に弟子たちに出現なされた時にも、ヨハネ福音書によりますと、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。云々」と話しておられますから、主は五十日祭の前にも弟子たちに聖霊を注いでおられますが、復活後最初の五十日祭の時には天の御父も御子も、主の復活を信じ主の御言葉に従って祈っていた、聖母マリアを始め使徒たちや信者たちの上に特別豊かにまた劇的に聖霊を注ぎ、その直後の弟子たちの活発な活動や、大勢の人たちの受洗などを考慮しますと、この聖霊降臨によって新約の神の民が世に産まれ出たのだと思います。としますと、それ以前の聖霊の注ぎは、いわば産まれ出る前の胎児のような教会の体を育てるためのものであった、と考えてもよいかと思います。

   使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことはないでしょう」と述べて、肉の業と神の霊の結ぶ実とについて列挙していますが、神の愛の霊を受けて主キリストの神秘体の細胞にして戴いても、この世に生きている限りはまだ古いアダムの肉をまとっているのですから、主イエスや聖母マリアのように、何よりも神の僕・婢の精神でしっかりとその肉の欲を統御し、十字架につけ、神の愛の霊の器・道具となって生きるよう心がけなければなりません。その時神の霊は私たちの内にのびのびと自由に働き始め、私たちはその霊の導きと自由に参与して、豊かに霊の実を結ぶに至るのではないでしょうか。「霊の導きに従って歩みなさい」という聖書の言葉を重く受け止め、いつも私たちの心の中に留まっていて下さる「聖霊の神殿」となって、生活するよう心がけましょう。

   主は山上の説教の中で、「隠れたことをご覧になるあなたの父は報いて下さる」だの、「隠れた所にお出でになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いて下さる」などと、「隠れた」という言葉を繰り返しながら天の御父について話しておられますが、思うに、これは人間として主の常日頃の実践から、ごく自然にお口から出た表現ではないでしょうか。私は父なる神も、復活の主ご自身も、聖霊も、いつも私たちの日常茶飯事に伴っておられ、人目に隠れたごく小さな行いを、隠れた所からご覧になっておられるように感じています。と申しますのは、私が何気なく自由に為した些細な奉仕や親切などが、後になってみると、不思議に神によって報いられているように覚える小さな成功や巡り合わせなどの喜びを、数多く体験しているからです。人間的社会的には義務でも何でもない、社会と自然界に対する小さな愛の奉仕や親切を、あの世の神に心の眼を向けながら実践してみましょう。神は人目に隠れたそういう小さな実践を特別の関心をもって見ておられ、事ある毎にその自由な愛の行為に報いて下さるように思います。そしてこういう体験の蓄積によって、あの世の神の現存に対する信仰も地についたものとなり、祈りにも熱がこもるようになります。

   新約の神の民が各人のこのような実践的信仰体験に根ざして、神の存在や働き、あるいは復活なされた主の現存や働きについて証し人となるようにと、豊かに聖霊をお注ぎになったのではないでしょうか。2千年前のユダヤには、神に喜ばれ受け入れられるため競うように神の掟を忠実に守り、神のため伝統的ユダヤ人の宗教のために何かをしよう、週に2回も断食しようなどと励んでいたファリサイ派の宗教者たちが活躍していました。人間的には、その人たちは日々神のための宗教的善意と熱意に生きていたと思います。しかし主は、その人たちのそのような生き方を「ファリサイ派のパン種」と呼んで、それに警戒するよう弟子たちに警告なさいました。新約時代に主キリストの体のメンバーと召された人たちは、下からの各人の人間的熱意中心のそんな生き方に死ぬこと、そして主キリストの霊に徹底的に従う生き方に転向することが求められているのだと思います。昨年の6月28日から今年の6月29日までは「パウロ年」とされて、カトリック教会は使徒パウロの精神をしっかりと身につけるよう勧めていますが、使徒パウロは、何かの社会的悪行から回心したのではありません。一般的には「パウロの回心」などと言われていますが、パウロ自身は「回心」や「悔い改め」などという言葉は使っていません。パウロは神に対する人間中心のファリサイ的熱心から、主キリストの霊に従う熱心へと転向したのです。「パウロ年」に当たって私たちも、何よりもこの事に心がけべきだと思います。

   本日の福音は、最後の晩餐の席上で語られた主の遺言のような話からの引用ですが、主はその中でも、弟子たちが神の霊の器・道具のようになって生きること、証しすることを勧めておられるように見えます。「言っておきたい事はまだたくさんあるが、今あなた方には理解できない」というお言葉は、数年間主と生活を共にした弟子たちに主についての証しをさせようとしても、彼ら自身の能力では主による救いの業について正しく理解し、正しく証しすることができないことを示していると思われます。しかし、主がお遣わしになる「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。云々」というお言葉は、聖霊の内的導きに従おうと努めているなら、証し人としての使命を立派に果たすことができることを、保証しているのではないでしょうか。世の終りまで共にいると約束なされた主イエスは、現代の私たちにも聖霊を注いで、各人の信仰体験から証し人としての使命を果たさせようとしておられると思います。しかし、聖霊の器・道具となって霊の導きを正しく受け止め、それに従って行くには、ただ今も申しましたように、まず自分の中の古いアダムの心に死ぬように努め、自分中心のわがままな主体性や欲望をしっかりと統御しなければならないと思います。

   個人重視の教育を受けた現代人の中には、自分の考えや自分の企画中心のファリサイ的熱心から、神のため教会や社会のために何かをしようと思っている人が少なくないと思います。その善意はよく分かりますし、夫々その人なりに実績をあげていると思いますが、しかし、主イエスや使徒パウロの精神で働くなら、もっと豊かに神からの恵みを受け、もっと恒久的な実りを結ぶのではないでしょうか。.......