2014年9月28日日曜日

説教集A2011年:第26主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願456 叙唱578~>
 第1朗読  エゼキエル書 18章25節~28節
 答唱詩編  137(1, 2, 3)(詩編 25・4+5a, 8+9, 10+14)
 第2朗読  フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節 △2・1-5
 アレルヤ唱 273(26A)(ヨハネ10・27)
 福音朗読  マタイによる福音書 21章28節~32節

  本日の第一朗読は、バビロン捕囚の状態で希望を持てずにいたイスラエルの民に、預言者エゼキエルが伝えた神の言葉であります。主は言われます。「お前たちは、主の道は正しくないと言うが、正しくないのは、お前たちの道ではないか」と。人祖アダムの罪を背負って生まれて来た私たち人間は、何事も自分の望みや自分の見聞きしている体験を中心にして判断する傾向を、生まれながら無意識の内にかなり強く保持していますが、神はまず、私たちが各人が皆心の奥底に受け継いでいる「古いアダムの命」に根ざしたような判断に疑問を抱くよう、問いかけておられるのではないでしょうか。バビロン捕囚、あるいは何かの大災害に苦悩する時、その苦しみに直面して人々の産み出す判断だけを中心にして考えていては、悲観的に見えることが多すぎて、近い将来に明るい希望を抱くことができなくなります。そのような時にはまず神のお考えを謙虚に尋ね求め、人間たちの産み出す考えよりも神のお考えに信仰をもって従おうと努めましょう。そして神がその道を教えて下さるよう祈り求めましょう。本日の第一朗読では、神の民が自分たちを中心にした生き方から離れて「悔い改め」、神のお考え中心の「正義と恵みの業を行う」なら、「自分の命を救うことができる」「必ず生きる。死ぬことはない」と、神がその民に救いに至る「主の道」を示し、新しい救いを保障して、希望を与えようとしておられるのだと思います。

  第二朗読では、ローマで捕囚状態にある使徒パウロがフィリッピの信徒たちに、自分と「心を合わせ、思いを一つにして」相互の愛と一致に励むよう勧めています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と具体的に書いている言葉から推察しますと、まだ若いフィリッピの信徒団の中には、少しでも他の人たちの上に抜け出よう、他の人たちに自分の能力や努力を認めてさせようとしている人たちが、少なくなかったのかも知れません。

  このような雰囲気は、若い人たちが多く集まっている神学校などでもごく普通に見られます。その若々しい意欲は結構なのですが、私が神学生時代にそういう雰囲気の中で体験したことを回顧しますと、常日頃少しでも同僚の上に立とう、先を行こうとしていた神学生の多くは、結局長続きせずに神学院を去ったり、病気で体調を崩し別の道に進まざるを得なかったりしたように思います。病気で神学院を去った人たちの中には、能力も祈りの熱心も同僚を凌いでいた人たちもいましたが、そういう挫折の実例を幾つも目撃しているうちに、私は、司祭への召命は神からの特別な愛の賜物で、自力でどれ程努力してもそこには留まり続けることは難しく、日々謙虚に神の助けを祈り求めつつ、ひたすら神に支えられて生きようと努めることによってのみ、その道に留まり続けることができるのではないかと思うようになりました。

  本日の福音は主イエスが祭司長や民の長老たちになされた話ですが、始めには「いやです」と父の望みに従うことを拒んだ兄が、後で考え直して出かけ、父の望みに従ってぶどう園で働いたことが、主によって評価されています。このことは、過去にはどれ程神に背き怠惰であっても構わないから、来臨なされた主を目前にしている今この時点で悔い改め、自分中心の生き方から離れて、日々まず自分に対する神の御望みを謙虚に尋ね求め、神の御旨中心に生きようとする生き方に転向するなら、神の憐れみによって救いに至ることを示していると思います。恵み深い主はそのような救いの時、悔い改めの時を、今私たちにも提供しておられるのではないでしょうか。自力主義に流され勝ちであったこれまでの自分の生き方を改め、小さな事柄についても神の御旨に従って生きようとする心、幼子のように神の力に頼って生きる心を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。


  本日は「世界難民移住移動者の日」とされています。世界には今なお悲惨な状態に置かれている難民や移住者たちが、非常に多くいるようです。特に20年程前からの内戦がまだ燻ぶっているソマリアを始め、そのソマリアからの難民を数多く抱えている東アフリカの諸国では、国連難民高等弁務官事務所によると、飢饉のため1200万人もの人たちが緊急の援助を必要としているそうです。わが国にも諸外国からの移住者が年々増加していますが、その人たちに対する国家や地域社会からの配慮と援助もまだまだ不足していると聞いています。現代世界のこのような悲惨な貧困を考慮しますと、神は私たち人類がこれまでのこの世的考えや生き方を改めて、労苦する全ての人に対する復活の主の愛に生きること、その愛を実証することを強く求めておられるのだと思います。世の終わりまで私たち人類と共にいて下さると約束なさった主イエスは、私たちが主と共に、苦しむ全ての人たちとの連帯精神や奉仕的愛に生きようと努める度合いに応じて、問題解決のために大きく働いて下さると信じます。大きなことはできない私たちですが、その復活の主と一致して一人でも多くの人の心が、この深刻な問題の解決に積極的に協力するよう、神からの照らしと助けの恵みをこのミサ聖祭の中で願い求めましょう。

2014年9月21日日曜日

説教集A2011年:第25主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願454 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 55章6節~9節
 答唱詩編  18(1, 4, 8)(詩編 145・1+3, 8+9, 17+18)
 第2朗読  フィリピの信徒への手紙 1章20節c~24節,27節a
 アレルヤ唱 270(25A)(使徒言行録16・14b参照)
 福音朗読  マタイによる福音書 20章1節~16節

   本日の第一朗読には、「私の道はあなたたちの道と異なる」「私の思いはあなたたちの思いを高く越えている」「天が地を高く越えているように」という神の御言葉が読まれます。私たち人間は、罪に穢れ煩雑に乱れているこの世の人間社会での体験を基準にして、自分の人生や社会などを考えますが、それは全宇宙を創造し、大きな愛をもって統括しておられる神のお考えとは、雲泥の差があると思われます。それで信仰生活・精神生活においては、人間たちがその日常体験に基づいて理知的思考で作りあげた「常識」や「社会的通念」という尺度にも気をつけましょう。私たちが自分の人生の中心・導き手として崇めている神のお考えは、しばしばこの世の人間たちの考えとは大きく異なっているからです。

   私がローマに留学していた1960年、すなわち第二バチカン公会議の直前頃に、ローマのグレゴリアナ大学布教学部の某教授はその講義の中で、現代の私たちは「諸宗教」という言葉を頻繁に耳にするようになったが、神のお考えでは「宗教」は一つしかなく、自分もその立場で考えているというような話をしていました。全ての宗教は神の御前で皆一つの宗教であり、いずれ皆そうなるよう神から求められているのだ、と考えるこのような思想は、ローマでは第二ヴァチカン公会議を介して次第に広まり、公会議の終り頃には、公会議でも活躍したドイツ人神学者カール・ラーナーが、家庭や社会のため真面目な奉仕的精神で生きている異教徒や未信仰者たちを、「無名のキリスト者」として考える新説を唱道しました。

   主キリストはヨハネ福音書の10章に善い羊飼いの譬え話を語られた時に、「私には、まだこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる」と話されましたが、現代文明の発達で人類が一つ家族のように成りつつある今日のグローバル時代は、善い羊飼いの声を聞き分ける無数の人たちが、国籍や文化や宗派の違いを超えて、主キリストの下に一つの群れとなる時なのではないでしょうか。マタイ23:8~10によりますと、主は弟子たちに向かって、あなた方の師はただ一人、メシアだけで、あなた方は皆兄弟である。父と呼ばれたり師と呼ばれたりしてはならない、とお話しになり、ヨハネ福音書に読まれる最後の晩餐直前の洗足の時にも、「主であり師である私があなた達の足を洗ったのだから、あなた達も互いに足を洗わなければならない」とお命じになりましたが、カトリック教会の司教も司祭も主のこのお言葉通りに、下から全ての兄弟や人類に奉仕するようになる時代が、神の新しい働きによって到来するのではないでしょうか。神の霊に導かれていた公会議はそのことを感知していたのか、教皇の権限を強化せずに、むしろ信徒使徒職活動とその強化発展を高く評価し推進していました。主であり師である善い羊飼いが、2千年という長い歴史を生きのびてこの世の人間的社会的しがらみに纏われているカトリック教会という宗教組織を介してよりも、むしろ直接に救いを求める無数の羊たちに個別に呼びかけ、その御声に聴き従う者たちを救いに導かれる終末の時代が近いからなのではないでしょうか。私は、公会議の動向をそのように受け止めていました。

   2千年前のユダヤ教のサドカイ派やファリサイ派が、ユダヤ教会の伝統的組織や価値観にこだわって、神から派遣されたメシアの全く新しい働きや呼びかけを退けたような、人間中心の生き方にならないよう気を付けましょう。今あるカトリック教会の伝統的組織や価値観も、主キリストは全く新しい、もっと来世的全人類的なものに発展させようとしておられるかも知れないのです。主はペトロの岩の上に建てた教会に陰府の国が勝つことがないと宣言なさいましたが、その「キリストの教会」を、後年ローマで人間的社会組織や価値観の内に大きく発展した現存のカトリック教会の形態と同じもので、この形態は世の終りまで続くなどと考えないよう気を付けましょう。今ある形のカトリック教会が崩れても、主キリストの教会もミサ聖祭も存続し続けると信じます。マスコミによって広められているこの世的価値観や思想よりも、各人の心の中に働く主の御声に聴き従って、神中心に生きようとする人の数が、これからは益々増えるのではないでしょうか。日本で1958年に生まれ今では国際的に広まりつつある、キリストの原始福音に従おうとしている幕屋運動の信仰者たちの、月刊誌『生命の光』所収の体験談を読んでいますと、主の聖霊がカトリック教会外のその人たちの間で活発に働き、多くの人に奇跡的癒しや救いの恵みを体験させて下さっているように思われます。

   預言者エレミヤ時代のユダヤ人祭司や知識人たちは、ダビデ王に与えられた神の言葉や申命記などに基づき、エルサレムの神殿は永遠で敵に占領されることはないと信じていたので、その神殿が北から来るバビロニアの大軍によって廃虚とされることを預言したエレミヤを迫害しました。神はその時のように、今の形のカトリック教会をも崩壊させて、新しい形のものへと発展させようとなさるかも知れません。人間が造り上げた古い固定化した観念ではなく、神からの新しい導きに希望をもって従うよう心がけましょう。これからの終末時代は、各人が復活の主キリストの新しい呼びかけに聴き従うべき大きな過渡期であると思います。

   先週の火曜日に新しい野田首相が、原発問題については科学者を交えた新しい検討組織を発足させると表明したのを聞いて、まだ不安は残るものの希望をもって祈っています。私は福島の原発事故は津波による天災だけではなく、人災でもあったと考えています。わが国の地震史についてはかなり詳しい研究がなされており、私も以前そのような著書を買って読んだことがありますが、東京電力会社が福島県に原発を造った時は、過去百年前頃までに発生した地震や津波を想定して、それに耐え得るように原発を建設したのだそうです。それで福島原発事故の発生が想定外の自然災害によると説明された時、海外からは遠い過去の災害を想定しなかったからではないか、という批判が寄せられたそうですが、それは全くその通りであると思います。オランダはその原発を建設する前に、過去1800年にまで遡って建設地の地盤や自然災害などを調査したそうですが、東電ではそこまで遡った慎重な調査と災害対策はしていなかったようです。平安前期の西暦896年の貞観(じょうがん)三陸地震にまで遡って研究し、高さ15mの津波にも耐え得るような基盤造りをしていたら事故は起こらなかったでしょうが、東電では経費削減を優先して、そのような大規模工事を怠っていたようです。

   友人の手島佑郎氏から貰って読んだ『福島第一原発事故、衝撃の事実』と題するこの本によりますと、IAEA(国際原子力機構)の原発重大事故管理ガイドでは、重大事故が発生した時には緊急時ディレクター、すなわちその発電所の所長か現場にいる技術専門者に大きな権限が付与されることになっているそうですが、国会が定めた日本の法律では、原発で事故が発生した時には(原発に対して素人である)内閣総理大臣が事故対策本部長になっているのだそうで、現場の専門家が電源が失われたのですぐにベント(すなわち原子炉の温度を下げるための排気)や海水の注入などを願っても、それがよく理解されずに拒否され、すぐに実施していれば事故は避け得たかと思われるのに、翌日すなわち12日の午後250分頃になってから漸く許可が下り、それが東電から通報されたのは、318分頃になってからだそうですから、遅れ遅れのこのような対応のために、336分に1号機建屋は水素爆発を起こしてしまいました。その後も全ては後手後手になって、原発事故は大きくなってしましたが、政府も東電のトップも、国際原子力機構の重大事故管理ガイドのことは念頭に置いておらず、無視していたようです。この本の著者は最後に、原発は火のようなもので、火は人間の生活に非常に有益ですが、払うべき注意を怠ると真に危険で多くの人を死に追いやる危険なものにもなり兼ねないと述べています。この警告は、注目に値します。火事は恐ろしいから、火は一切使わないようにしようと主張して、人間の生活を極度に貧しい不便なものにするよりも、火の正しい扱い方についてしっかりと学び、それを厳しく遵守しながら生活を豊かにするのが、神の御望みに適う生き方であると思います。


   原発を一切廃棄させようとする署名運動が広まっていることは心得ていますが、神は、従来よりも遥かに大きな電源を必要としている現代世界のために原発の発明とその必要性とを認め、それを支えておられるのではないでしょうか。原発は大量の二酸化炭素を放出する従来の火力発電よりも遥かに効率がよく、昔とは比較できない程大きな電力を消費している現代文明の世界には、不可欠の電源であると思います。もちろん巨大な電源である原発は、火の使用よりも遥かに危険で、入念な注意力と技術とを必要としていますが、現代の人類は既にその技術を身につけて来ていると思います。風や太陽光線を利用する発電は一番クリーンですが、原発程の電源を得るためには物凄く広い土地と施設が必要ですし、それはごく少数の国でしか望めないと思われます。石炭も石油も遠からず枯渇する資源であることを考え、経済発展の目覚ましい中国もインドも、莫大な電源の必要性を痛感して、原発を数多く建設し始めると思われます。わが国の指導層も種々の懸念や怖れを克服して、賢明な選択に導かれるよう神の助けを願い求めましょう。

2014年9月14日日曜日

説教集A2011年:第24主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願452 叙唱578~>
 第1朗読  シラ書 27章30節~28章7節
 答唱詩編  93(1, 3, 4)(詩編 103・3+4, 8+13, 11+12)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 14章7節~9節
 アレルヤ唱 273(24A)(ヨハネ13・34)
 福音朗読  マタイによる福音書 18章21節~35節

   本日の第一朗読は、紀元前2世紀にシラの子イエスによって書かれた律法の解説書、「シラ書」あるいは「集会書」と呼ばれている聖書からの引用であります。レビ記19章には、「復讐してはならない」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である」という言葉が読まれますが、第一朗読はレビ記のこの言葉を、具体的に例をあげて解説していると思います。ここではその中に読まれる「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求める時お前の罪は赦される」という言葉に焦点を合わせて、ご一緒に考えてみたいと思います。

   紀元前2世紀頃のエジプトやユダヤなどのオリエント諸国では、自由主義・能力主義的なギリシャ・ローマ文化が社会の各層に広まり、それまでの民族主義的伝統を弱体化させつつあった時でしたから、シラ書の著者はユダヤ人の将来に多少の危機感を抱き、伝統的律法の精神をしっかりと解説し、若者たちの信仰精神を神の教えによって真っ直ぐなものに鍛え上げようとしたのかも知れません。その時代に比べると、個人主義・自由主義が普及して各種の共同体精神が育ちにくく、内面から崩れつつある現代のグローバル社会には、各人の価値観も善悪判断の視点も極度に多様化しつつありますから、もう危機感どころか絶望感さえ痛感している人たちが少なくないかも知れません。毎年自死する人の数は、わが国では3万人を超え続けており、全世界でも数十万人、いや百万人近い数になっているようです。それは毎年の交通事故死や、局部的戦争や災害による死者の数よりも遥かに多い数値であります。しかし、社会の中にはこの内的に崩壊しつつある現代社会の危機に目覚め、それを根底から精神的に建て直そうとしている人たちも増えつつあるようですから、私たちもその人たちに希望をつなぎつつ、聖書から新たに学ぶよう心がけましょう。

   第一朗読には「自分と同じ人間に憐れみをかけずして、どうして自分の罪の赦しを(神に)願い得ようか」という言葉がありますが、同じ時代に書かれた知恵の書12:22にも同様の言葉があり、他人を裁く時には自分たちが受けて来た神の憐れみを模範とするよう教えています。本日の福音に読まれる主イエスのお言葉は、旧約聖書に読まれるこれらの教えを一層はっきりと明示し、完成するものだと思います。自分に罪悪を為した兄弟・同胞を赦すようにと命じている律法の掟にだけ注目したペトロは主に、「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」という現実的具体的質問をしました。主はそれに対して「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになりましたが、その時にはシラ書や知恵の書に読まれるような、遠い祖先の時以来人間の罪を幾度も赦し続けておられる、神の憐れみを模範にするようにという教えを思い浮かべておられたと思われます。それですぐに、1万タラントンの借金をしている家来を赦す王の譬え話をなさったのだと思います。1タラントンはおよそ6千デナリで、普通の労働者が16年半働き続けて受け取る賃金ですから、その一万倍もの莫大な借金を一人の家来が為すという話も、主君がそれを帳消しにしたという話も、この世の現実社会ではあり得ない話で、主はここで明らかに神の測り知れない憐れみを念頭に置いて、この譬え話をお話しになったと思います。神が憐れみによって幾度も私たちに赦して下さったように、私たちも神のその憐れみに感謝しながら、その寛大さに見習って兄弟姉妹を赦すように、というのが主のお考えなのではないでしょうか。

   マタイ福音書に読まれる山上の説教には、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる「天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者になりなさい」という主のお言葉がありますし、ルカ福音に読まれる、主が教えて下さったままと言われている「主の祈り」では、神を「父よ」呼んで祈る人は、「私たちの罪を赦して下さい」という祈りのすぐ後に、「私たちも負い目のある人を全て赦しますから」と唱えるようになっています。もし人を赦さないなら、神はあなた方をもお赦しにならないという主のお言葉は、どの福音書にも読まれます。そして神が赦して下さったように、あなた方も赦し合いなさいという言葉は、使徒たちの書簡の中でも度々登場しています。2千年前のオリエント社会においてと同様に、いや恐らくはそれ以上に、複雑多様化している現代社会では、人と人との間に小さな誤解や思い違い、見解の違いや意見の対立が起こり易くなっていると思われます。神よりの聖書の言葉をしっかりと心に銘記しながら、神のように憐れみ深い人間、主キリストのように人の罪科を黙々と背負って、自分で償おうとする神の子になるよう努めましょう。神はそのような信仰と愛の人に注目し、どこまでも憐れみ深く恵み深い父であられると信じます。


   本日の第二朗読には、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」という言葉が読まれます。現代流行の個人主義や物質主義の立場で自分というものを理解していますと、これらの言葉は謎に包まれていて、幾度読み返しても理解できません。私たちの心の奥底に留まり続けている泉のような洗礼の秘跡の恵みによって、そういうこの世的自分というもの、「古いアダムの命」に死んでしまいましょう。そして「新しいアダム」キリストのあの世的命に生かされ、キリストの体の細胞の一つになって生きるように実践的に心掛けましょう。するとこの実践の積み重ねにより、これらの言葉は次第に心で解るようになります。それは頭で理解するこの世的な言葉ではなく、奥底の心が目覚めて実践的に悟るべきあの世的な言葉であると思います。その悟りの恵みも願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2014年9月7日日曜日

説教集A2011年:第23主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願450 叙唱578~>
 第1朗読  エゼキエル書 33章7節~9節
 答唱詩編  35(1, 3, 4)(詩編 95・1+2, 5+6, 7+8)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 13章8節~10節
 アレルヤ唱 270(23A)(二コリント5・19)
 福音朗読  マタイによる福音書 18章15節~20節

   本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代に、その捕囚地で預言者エゼキエルに与えられた神の言葉ですが、それによりますと、預言者は神から与えられた警告の言葉を、そのまま相手に伝えるだけであってはならないようです。例えば「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」という神よりの警告を相手に伝えるだけではなく、預言者自身もその人に警告し、その人が悪の道から離れるように説得しないなら、神からその責任を問われることになる、というのです。自分一人だけで神の掟を忠実に守り、神に喜ばれる人間になろうとしてはならないという、こういう神のお言葉を読みますと、私は神学生時代にドイツ人宣教師から「必ず少なくとも一人か二人に自分の受けた信仰の恵みを伝え、手をつないで天国に行こうとしなければ、天国の門前でその怠りを咎められるでしょう」と言われたことを、懐かしく思い出します。

   20年ほど前に京都の知恩院で研修を受けた時、浄土宗でも教祖法然の教えに従って「お手つぎ運動」というのがあることを知りましたが、私たち人間が互いに助け合い補い合って愛の共同体を造ること、そして共同体となって生活し、神のおられる天国へと進んで来ること、それが神が創造の初めから望んでおられる、この世の人間の理想的生き方であると思います。聖書によりますと、人間は「我らにかたどり、我らに似せて創ろう」と仰せになった三位一体の共同体的愛の神に特別に似せて創られた存在であり、神のように共同体的愛の内に他者と共に生きることが、全ての人間が神から受けている使命だと思います。現代の社会には個人主義が盛んですが、自分一人で救われようとする考えを放棄して、一人でも多くの人と、特に今苦しんでいる人たちと内的に手をつなぐ連帯精神を大切にし、そういう隣人たちのために日々自分の祈りや苦しみ、あるいは小さな不便や節約などを喜んで献げつつ生活するよう心がけましょう。すると不思議に神の導きや助けを体験し、実感するようになります。神は人目に隠れたそのような小さな実践や祈りに、特別の関心をお持ちのようです。

   本日の第二朗読も、この立場で理解しましょう。使徒パウロの考えでは、神から与えられた律法や掟は全て、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。ここで言われている「隣人」は、現実にはいろいろと数多くの罪科や欠点を抱えていて、自分とは考えも好みも大きく異なる、真に付き合い難い人間であるかも知れません。しかし、そういう隣人の中にこそ神が隠れて現存し、そっと私たちに御眼を向けておられるのです。その人の行いや言葉を自分の好みや理知的考えで批判したり退けたりする前に、まず神が私から求めておられると思われる自己放棄や苦しみを喜んでお献げ致しましょう。それからその隣人が神信仰に成長して仕合わせになるために必要と思われることを、進んで提供することに努めましょう。それが、神の求めておられる「隣人を自分のように愛する」ことだと思います。

   本日の福音の前半には、こういう兄弟愛の生き方に背く罪の中に留まり、自分中心に生きようとしている信者に対する対処の仕方を教えた主のお言葉だと思います。2千年前のキリスト時代と同様に、いやそれ以上の大きな過渡期である現代には個人主義が盛んで、信仰の恵みに浴しても自分中心に生き続けている人は少なくないと思われます。人間の心の弱さから教会や修道院の共同体内部になで浸透して来るそういう現実に対しては、主のお言葉に従って、何よりも祈りと愛の内に適切に対処するよう心がけましょう。本日の福音の後半に読まれる、「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる」という主のお言葉は、私たちの心に大きな慰めを与えます。復活なされた主イエスは、その復活の日の午後エマオへ行く弟子たちに出現なされた時と同様に、今も世の終りまでその復活体でこの世でも生きておられ、目には見えない私たちの集まりの中に現存しておられるのです。この事を堅く信じましょう。するとその信仰のある所に、不思議に主が働いて下さいます。私たちが少人数で捧げるこのミサ聖祭の中でも、主は実際に現存しておられます。そして主は今も、私たちが「心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えて下さる」と確約しておられるのではないでしょうか。本日の福音に読まれるこのお言葉に信頼しつつ、私たちの願いを捧げましょう。


   第二ヴァチカン公会議後に刷新された典礼では、全ての日曜日は主の復活を記念し崇め尊ぶ日とされています。それは、2千年前の出来事を単に記念するという意味ではないと思います。もはや死ぬことのないあの世の命に復活なされ、度々弟子たちに出現なされた主イエスは、今もその同じ復活体で生きておられ、目には見えないながらも世の終りまでこの世の私たちに伴い、神出鬼没に私たちの間に現存しておられるのです。主は受難死によってこの世の人の目には見えなくなりましたが、しかし復活なされたあの世の命によって、神のように時間・空間の束縛を超えてどこにでも遍在する存在となり、私たちと共におられることを堅く信じましょう。私たちも、世の終りに復活した後には皆そのような神によく似た存在に成り、永遠に神と共に感謝と愛の内に生きるようになるのですから。それが、創世記に「我らにかたどり、我らに似せて創ろう」とある、神の意図しておられた本来の人間像であると思います。神のその大きな愛に感謝しながら、本日の感謝の祭儀を捧げましょう。