2011年5月29日日曜日

説教集A年:2008年4月27日復活節第6主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 8章5~8、14~17節
第2朗読 ペトロの手紙1 3章15~18節
福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~21節


① ご存じのように、カトリック教会は41年前の1967年以来復活節第6主日を「世界広報の日」として、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画等々のマスメディアが、人々に必要な真実を正しく伝えて人類の平和と福祉に一層良く貢献するように祈る日としています。現代には人の心を汚染するマスコミの力が大きくなっていますので、それが偏狭な危険思想などにゆがめられたり牛耳られたりすることのないように、神による導きと助けが望まれています。それで、本日のミサ聖祭はこの目的のため、神からの豊かな恵みと祝福を願い求めてお献げ致したいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読は、使徒たちからステファノたちと一緒に使徒的奉仕職に叙階されたフィリッポの、サマリア布教について伝えています。サマリア人たちはフィリッポがなす数々の奇跡的癒しを見聞きして、その説教にも耳を傾けるようになり、受洗してキリスト信者になったようです。主イエスもなさったように、病人を癒す奇跡など神の現存と愛を証しする慈善活動は、宣教のために大切です。しかし、それは神の現存と愛を証しするためであることを忘れてはならないと思います。主イエスは、単なるこの世的人助けの社会事業として癒しの奇跡をなさったのではありません。そんな社会活動は、神を信じない人たちもやっています。エルサレムにいた使徒たちは、多くのサマリア人が受洗したことを聞いて、ペトロとヨハネをサマリアの信徒団の所に送りました。サマリア人たちは洗礼を受けただけで、まだ堅信の秘跡による聖霊を受けていなかったからでしょう。二人の使徒がその人たちの上に手を置いて、聖霊を受けるようにと祈ると、聖霊は彼らの上に降り、それは、例えば異言を話すなどの何らかの目に見える形でその場にいた人たちに感じられたようです。

③ この話から察すると、使徒たちは按手によってステファノたち七人を司祭職に叙階しましたが、聖霊の賜物を注ぐ堅信の秘跡を授ける権限はまだ自分たちの所に保留していたようです。その使徒時代からの伝統でしょうか、第二バチカン公会議後に司祭たちでも授けることができるように変革された堅信の秘跡は、それまでは司教が授ける秘跡とされていました。私たちは皆その公会議前からの信者ですので、教区長から堅信の秘跡を受けましたが、この古い伝統は、信徒たちが個々の小教区を超えて教区全体を一つの信徒団として意識し、各人が司教の呼びかけの下に心を広げて幅広く相互に協力し合うのを優位にしていたかも知れません。しかし、近年ではインターネットや携帯電話等々の普及で、各人が自分の都合や好みを第一にする生活の個人主義が信徒団の中にも圧倒的に広まりつつあり、信徒団のまとまりが弱体化しているように見えますが、いかがなものでしょうか。

④ 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「心の中でキリストを主と崇めなさい。云々」と述べていますが、この勧めは、生き方の個人主義が普及しつつある現代社会の流れに生きる私たちにとって大切だと思います。国家も会社も家庭も古来の温かい家族的共同体精神を失って、内的に崩壊しつつあるように見えるからです。こういう時代には、もはや死ぬことのない霊的な命に復活し、目に見えないながらも世の終わりまで私たちの中に現存して働いて下さる主イエスを、各人がそれぞれ自分の心の主と崇め、主と内的にしっかりと結ばれて生活することが、現代流行の個人主義の孤独感やあらゆる困難・不安に耐えて安らかに生きる道だと信じます。

⑤ 本日の福音に読まれる主のお言葉は、最後の晩餐の席で弟子たちに語られた話ですが、心の拠り所を失って悩み苦しむ人の多い現代の精神的危機の下に生活する、私たちに対する御言葉でもあると思います。主はおっしゃいます。「私のおきてを受け入れ、それを守る人は私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す」と。主がお定めになった「私が愛したように互いに愛し合いなさい」という、この無償の献身的愛のおきて一つを忠実に守り抜くなら、外の世界がどのように変わろうとも心配いりません。私たちは神にも主イエスにも愛されて、逞しく生き抜くことができます。主はまたおっしゃいます。「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を派遣して、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は、真理の霊である」と。すなわち、主を愛しそのおきてを守る魂の中には、神の愛の霊・聖霊も天の御父から派遣されて、永遠に住んで下さり、いわば各人の魂を「聖霊の神殿」として下さるのです。主のこのお言葉を堅く信じて、大きな希望と喜びの内に生活するよう心がけましょう。

2011年5月22日日曜日

説教集A年:2008年4月20日復活節第5主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 6章1~7節
第2朗読 ペトロの手紙1 2章4~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 14章1~12節

① 本日の第一朗読に「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」とあるのは、パレスチナ以外の土地、すなわちギリシャ語が通用語となっている土地で生まれ育ったユダヤ人たちを指しています。紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王がペルシャ軍を撃退して、オリエント諸国をギリシャ人の支配する国となし、高度に発達したギリシャ文明を各国に広めると、ギリシャ語は国際語となって定着し、紀元前1世紀の後半にローマの将軍アントニウスがオリエント諸国を征服してローマの支配下に置いても、ローマ人のラテン語ではなく、すでに国際語として定着していたギリシャ語が、シリア、エジプトなどの各国で話されており、ローマ帝国の下で国際貿易が盛んになり、商人や労務者の人口移動が激増すると、ローマをはじめ当時のイタリア諸都市でもギリシャ語が話されるようになりました。

② 帝国の公式文書にはラテン語が使用されていましたが、外国人と交流することの多い皇帝たちやローマの官吏たちも、自由にギリシャ語を話していました。紀元前3世紀にエジプトを支配するギリシャ人のプトレマイオス王朝が、エジプト支配を安定させるため大勢のユダヤ人を優遇してエジプトに住まわせると、エジプトで生まれ育ったユダヤ人の中にはヘブライ語を知らない人たちが増えたので、旧約聖書のギリシャ語訳が紀元前3世紀の中頃に作られましたが、「七十人訳」と呼ばれるこのギリシャ語聖書は、ローマ帝国の支配下で異邦人たちにも広く読まれるようになりました。初代教会の異邦人伝道が目覚ましい発展を遂げたのは、既にこのような文化的地盤が築かれていたからです。新約聖書の原文も、全てギリシャ語で書かれています。ローマの信徒団に宛てた使徒パウロの書簡も、ギリシャ語で書かれています。使徒たちはギリシャ語を話すだけで、どの国でも宣教することができたのです。

③ ところで、そのギリシャ語圏出身のユダヤ人たちがエルサレムで滞在した時には、日々の食料の分配などで差別扱いを受け、苦情が出たというのは何故でしょうか。察するに、エルサレムの信徒たちが全財産を共有にして生活していた所に、外地に夫々自分の私有財産を持つ信徒たちが来て、エルサレムの信徒たちと食事を共にしようとしたからなのではないでしょうか。外地の出身者たちは、それぞれ自分たち独自のグループ組織を結成して生活した方が良いというのが、エルサレムの信徒たちの考えであったと思います。そこでペトロは、他の使徒たちと外地出身の信徒たちとを全て呼び集め、「私たちが神の言葉を蔑ろにして、食事の世話をするのは好ましくない。云々」という話をし、外地出身者たちの中からステファノたち七人を選ばせたのだと思います。使徒たちは祈ってこの七人の上に按手し、彼らにギリシャ語圏出身の信徒たちを組織し指導する、使徒的権限を譲渡しました。食事の世話をする務めに任命したのではありません。ステファノやフィリッポたちのその後の活動を見ますと、説教したり宣教したり秘跡を授けたりしていますから。察するに、按手によって叙階の秘跡を受けた七人を中核としてギリシャ語圏出身者の信徒団が結成されると、食事の世話などの問題は、その信徒たちの相互協力で自然に解消したと思われます。

④ ここでもう一つ、「私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」という、使徒ペトロの言葉に注目したいと思います。ペトロは、公生活中の主イエスの宣教活動を回顧しながら、こう話したのだと思います。主は政治活動などは一切なさらずに、ひたすら祈りと神の御言葉を宣べ伝えることとに専念しておられ、ご自身が神から派遣されて来たという証しに、病人や悪魔つきの奇跡的癒しや、死者の蘇りなどの奇跡をなしておられました。ペトロたちはこの御模範から学んで、食物の合理的分配などという一種の社会的政治的活動などには手をつけず、それらを一般の信徒たちに委ねて、主の聖なる司祭職に叙階された者たちは、何よりも主イエスのように祈りと神の御言葉の奉仕に専念すべきである、と考えたのだと思われます。主が話された「葡萄の木」の譬えからも学んで、葡萄の蔓として主の恵み・主の働きを人々に伝えることだけに、全身を打ち込んでいようと思ったのかも知れません。

⑤ 司祭としての私の数多くの小さな個人的体験を振り返って見ても、政治活動に関与せずにひたすら祈りと説教に身を打ち込んでいますと、不思議に神が私を介して周辺の人々に働いて下さったのではないか、と思われるようなことを幾度も経験しています。自分で社会のため人のために何か良い業をしようなどと企画せずに、ただ神を現存させる器、神の働きの道具であろうと心がけているだけで、私の内に内在しておられる主が、私の所属する社会のためや周辺の人のために働いて下さるように感じています。主は山上の説教の中で、「何よりもまず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる」と勧めておられますが、これが主イエスの生き方であり、主によって選出され派遣された聖職者たちの体現すべき生き方でもあると信じます。私はそのような生き方に心がけることにより、本当にたくさんの神の働きや恵みを体験させて戴きました。
⑥ 同じような体験を重ねている聖職者は、他にも少なくないと思います。そのせいか、40数年前の公会議の「現代世界憲章」第76項にも、またヨハネ・パウロ2世教皇が発行なされた『カトリック教会のカテキズム』の第2442条にも、政治体制や社会生活の組織づくりに介入することは、教会の司牧者のすべきことではなく、それは信徒の自由に委ねるべき分野であることが明記されています。現代の聖職者たちの中には政治批判などに熱心な人もいますが、これは公会議の決議や教皇の方針に背くことであり、主イエスが模範をお示しになった、神の特別の御意志によって派遣された宗教的愛の使節としての生き方にもそぐわないと思います。

⑦ 誤解がないよう重ねて申しますと、主に召されて主イエスの生き方を体現すべき聖職者は、政治運動には直接介入しませんが、多くの人の幸せのため、政治問題・社会問題の解消のため、また為政者たちが神の導きや助けを受けてより良い政治をなすことができるようにと、神の祝福と助けを熱心に祈り求めるというのが、百数十年前に教皇領がイタリア政府に奪われた後の状況の中で教皇レオ13世が明示した教会の生き方であり、その後のカトリック教会の基本方針でもあると思います。ローマ・カトリックだけではなく、ギリシャ正教もロシア正教も、伝統的にそのような生き方を続けて、苦しみながらも数多くの困難を祈りの内に乗り越えています。

⑧ 本日の福音の中で、主は「私は道であり」「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」「父が私の内におられることを信じないのか」などと話しておられます。これらの御言葉は、主がご自身を天の御父の寵愛と恵みをこの世の人々に届けるための道、そして人々を天の御父へと導くための道と考えておられたこと、また天の御父がご自身の内に実際に現存して語ったり働いたりしておられることを、生き生きと実感しておられたことを示していると思います。多くの人の中から主によって選ばれ、叙階の秘跡で聖別された聖職者たちも、その主のように心の内に神の現存を信じながら、葡萄の木の蔓のようになって、超自然的愛の実を結ぶことに努めるべきなのではないでしょうか。聖職者だけではなく、一般の信徒や修道女たちも、それぞれ分に応じて主のこのような生き方を証しすべきだと思います。本日の第二朗読の中でペトロは、「あなた方は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と言って、全てのキリスト者がキリストの普遍的祭司職に参与していることを説いているからです。私たちが主イエスの生き方を体現しようと努める時、神はそういう生き方をする教会を介して、この世の家庭・社会・政治・経済の全てをも豊かに祝福し、希望と喜びで満たして下さると信じます。

2011年5月15日日曜日

説教集A年:2008年4月13日復活節第4主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 2章14a、36~41節
第2朗読 ペトロの手紙1 2章20b~25節
福音朗読 ヨハネによる福音書 10章1~10節

① 本日の第一朗読と第二朗読は、一週間前の日曜日と同様、聖霊降臨直後のペトロの説教からの引用と、ペトロ前書からの引用です。第一朗読の中でペトロは、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神が主としメシアとなさった」ことを、「はっきりと知らなくてはなりません」と説いていますが、ここで述べられている「あなた方が」は、神を信じている人たちをも含め、全人類と考えてよいと思います。神を信じながらも、心の奥底に潜む自己中心主義に克てずに犯してしまう弱さの罪。神の愛に背くそういう罪を償うためにも、主キリストは十字架刑の苦しみと死を神から受けて下さったのです。心の片隅にそういう罪が少しでも残っている限り、霊魂はいつまでも神中心の聖さと純粋さに輝いている天国に、入れてもらうことができないのですから。私たちは、まずこのことをはっきりと自覚しなければならないというのが、使徒ペトロを介して話された聖霊の教えなのではないでしょうか。私たちも、この事を心に銘記していましょう。

② この話を聞いた人々は「大いに心を打たれ」、「私たちはどうしたら良いのですか」と尋ねたとあります。ペトロはそれに対して、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と話しています。ここで言われている「悔い改めなさい」(原文でmetanoesate)という言葉は、単に心を神の方に向けるという意味の「回心しなさい」ではありません。心の奥底から自分の考えや生き方を変更しなさい、という強い意味の言葉です。自分の幸せのためには神をも利用しようとするような心で、目を神の方に向けても恵みはもらえません。「キリストの名によって」と邦訳されている言葉は、直訳するなら「キリストの名の内に」、すなわちキリストの新しい生命の内に入ってという意味で、「洗礼」は以前にも申しましたように、自分中心のこれまでの生き方に死んで、キリストの生命に生かされて、神中心の新しい生き方を始めることを指しています。そうすれば、キリストの御功徳によって心の奥底に宿る自分中心の罪を赦して頂けるのです。そして我なしのそういう心の中に、神の愛・聖霊が宿り、働いて下さるのです。
③ ペトロは、この他にもいろいろの話をして、「邪悪な(今の)この時代から救われなさい」と勧めたようですが、この言葉は、現代に生きる私たちにとっても、忘れてならない勧めであると思います。個人主義・自由主義・自己中心主義の繁茂する現代世界は、恐ろしい自己破滅への道に落ち込みつつあるようですから。余談になりますが、好天に恵まれたこの前の日曜日に、隣の気賀町の「姫様道中」行列を見に行ったついでに、町から一キロ半ほど離れた気賀大橋まで河畔を散歩しましたら、途中に人が歩いて渡るためにかけられた、あの赤い大きな飾りの吊橋が平成元年の竣工で、「澪つくし橋」という名が刻まれているのを発見しました。後で辞書を開いてみましたら、「澪」は船の航行ができる水路を指しており、「澪つくし」は「澪の串」という意味で、船にその水路を知らせるために立てられた杭のことだそうです。都田川にかかるあの赤い大きな橋脚は、水路を知らせるという意味に見立てられているのかも知れません。辞書には「君恋ふる涙のとこにみちぬれば みをつくしとぞ我はなりける」という古今集の和歌も載っていました。この歌では、「澪つくし」は、心の水路を知らせるという意味と、身を尽くすという意味との二つを兼ねているようです。私たちも現代社会の中にあって、神の道を証しするそのような「澪つくし」になりたいものであります。

④ 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」ことが神の御心に適うことであり、あなた方はそのために召されたのであり、魂の牧者キリストも苦しみを受け、私たちがその後に続くようにと模範を残されたのだ、と説いています。野獣に餌食として狙われ勝ちな羊は、自分独りでは愚かで弱い存在ですが、自己中心に生きるのではなく、神よりの魂の牧者に従って生きるなら安全であり、価値の高い存在になることができます。主の模範に従って苦しみを恐れず、主の導きにつき従って生きましょう。

⑤ 本日の福音は、「良い牧者のたとえ」と言われる話です。「門を通らずに、他の所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」という主のお言葉は、主の教会という囲いの中に入っていても、神中心の主イエスの信仰精神に生きていない指導者が、次々と遠慮なく侵入して来るという、悲しい現実について警告していると思います。気をつけましょう。「私は門である」という主のお言葉を考慮しますと、「この門を通らずに入る者」というのは、天の御父の導きに徹底的に従順であろうとなさった主の我なしの御精神に生かされておらず、自己中心の理知的精神で信徒を指導している人たちを指していると思われます。主から「盗人」として厳しく非難されているそういう指導者たちは、主から「盗人」として非難されている指導者たちは、ファリサイ派のように人間理性に訴えて説得しようとするようです。そういうファリサイ派のパン種には警戒し、自分の理知的知識や理解よりも、いつも神の導きに心の眼を向け、神中心の献身的奉仕愛に生きる実践に心がけていましょう。もし自己中心の生き方に死んで心の奥底に神の聖霊を宿しているなら、良い牧者キリストの御声を正しく聞き分け、それに従って行くことができます。

⑥ 復活節の第四主日は「良い牧者の主日」と呼ばれていて、良い牧者・主キリストのお声を聞き分け、それに従う決意を新たにする日とされていますが、同時にその良い牧者の器となって人々を神に導く、司祭・修道者の召命のため祈る「世界召命祈願の日」でもあります。現教皇はこの日に当てて、長いメッセージを出しておられます。このミサ聖祭の中で、司祭・修道者の召命のためにも心を合わせて主に祈りましょう。

2011年5月8日日曜日

説教集A年:2008年4月6日復活節第3主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 2章14、22~33節
第2朗読 ペトロの手紙1 1章17~21節
福音朗読 ルカによる福音書 24章13~35節

① 現代の政治も経済も社会も、いろいろと新しい問題を抱えて苦しんでいるようですが、そんな中にあっても、年度始めに新しい顔の人たちを迎えて一緒に散歩したり花見を楽しんだりしていると、人の心は重苦しい嫌な問題は忘れて互いに打ち解け、これまでとは違う新しい生き方に憧れたり、新しい人間関係を求めたりするように思われます。復活なされた主イエスも、そのような人の心に語りかけ、新しい命の道を教えようとしておられるのではないでしょうか。

② 本日の福音は、エルサレムからエマオ村へと下って行く二人の弟子たちに、復活なされた主が生前とは異なるお顔とお姿で伴って歩き、メシアが苦しみを受けた後に復活の栄光に入るはずであることを、聖書に基づいて説明なさった出来事を伝えています。察するに、それも春の、(本日のように)温かいよく晴れた日のことだったのではないでしょうか。その日の朝早くに、数人の婦人たちが香料を携えて、主が葬られた墓を訪ねていますし、その墓が空になっていると婦人たちから知らされて、ペトロとヨハネが走ってその墓を見に行っていますから。若葉が芽を出し花が咲く、新しい若々しい生命の営みが大自然界を冬から春へと蘇らせる、こういう美しい春の日には、部屋の中にだけ籠っていないで、少し外の景色に目をやってみましょう。私たちもそこで、復活の主の隠れた営みに出会うかも知れません。主は美しい自然界を介しても、私たちの心に呼びかけておられるでしょうから。

③ 本日の第一朗読は、復活なされた主が昇天なされて九日程経った五旬祭の日に、聖母や婦人たちや他の使徒たちと共に聖霊降臨の恵みに浴した使徒ペトロが、集まって来た大勢のユダヤ人たちに向って、声を張り上げて大胆に話したペトロの最初の説教です。そこには旧約聖書からの引用もありますが、その話は当時のユダヤ教のファリサイ派教師たちの話とは全く違っています。ファリサイ派の教師たちは、神を私たち人間を遥かに凌ぐ聖なる方として遠くから崇め尊ぶだけで、実際上は神からの啓示に基づく律法を合理的に解説しながらユダヤ民族の宗教教育を担当することだけにほとんど専念し、当時のユダヤ社会に大きな影響力を行使していました。無学な漁師であったペトロたちは、律法についての知識では彼らに全然かないませんが、しかし、主キリストと3年間生活を共にした体験から身に付いた知識については、彼らより遥かに豊かになっており、その神信仰・メシア信仰も、数多くの不思議体験や復活の主キリストとの交わりによって高められ、不屈の強さを帯びていました。その心の中に聖霊が火の舌の形で降臨して下さったのですから、ペトロは火の霊に促されて立ち上がり、声を張り上げて話し始めたのだと思います。

④ その話は、ナザレの人イエスこそ神が派遣なされたメシアであるという証言と、ユダヤ人たちによってローマ総督に渡され十字架刑を受けて殺されても、神によって復活させられ、神の右に上げられたイエスは、約束された聖霊を神から受けて私たちの上に注いで下さったのだという証言との、二つに纏めてよいと思います。ペトロは主イエスのお言葉に基づいて、「私たちは皆、そのことの証人です」と断言していますが、この言葉は、現代の私たちにとっても大切だと思います。

⑤ 使徒時代の教会は、何よりも自分たちの内に現存しておられる神の働き・神の導きに心の眼を向けており、神の御旨中心に動いていました。既に信徒団と言われるようなグループは各地に形成され始めていましたが、その組織も規制もまだ柔軟で流動的であり、使徒たちも信徒たちも、自分たちの内に現存しておられる神の働き・神の御旨に真っ先に心の眼を向けていたと思われます。主キリストが創立なされた教会は、大きな社会的集団になるにつれて組織や規制を固めて、本来の柔軟さや流動性を失い兼ねない存在になるおそれが生じて来ますが、使徒ペトロは、本日の第二朗読の中で、「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と述べています。この地上の教会は、仮住まいする間の信仰者相互の団結と信仰伝達の手段であるに過ぎません。主が創立なされた教会の信仰精神や組織を大切にしつつも、主イエスを断罪したファリサイ派のパン種に警戒し、教会の外的規制の順守だけに囚われることなく、何よりも神の御旨を中心にして生きること、そして自分の信仰体験に基づいて証言することに心がけましょう。ファリサイ派教師たちのように、何かの理知的な教理や規則を教えることに専念するのではなく、使徒たちのように、体験に基づく自分の信仰を人々に力強く証しすることが大切なのです。初代教会のこの信仰精神が、現代のキリスト者たちの間には、残念ながらあまりにも衰微してしまっているのではないでしょうか。

⑥ 人類社会の政治的・経済的・文化的グローバリズムの時代を迎えて、現代のカトリック教会は、近い将来大きな危機を迎えることになるかも知れません。その時、使徒時代の教会が持っていた神の御旨中心の柔軟で流動的な信仰精神が、教会をその危機から救い出すと思います。本日の第二朗読の最後に使徒ペトロが「あなた方の信仰と希望は神にかかっているのです」と述べている言葉も、心に銘記して置きましょう。ここで、「神にかかっている」と邦訳されている言葉は、「神に基づく」と「神に向かっている」との両面を持つような言葉だ、と聞いています。とにかくこれからの時代は、各人の理知的思考中心にではなく、何よりも私たちの間に現存しておられる神の働きに信仰と従順の精神でしっかりと結ばれて生きよう、と努めるべき時代であると思います。

2011年5月1日日曜日

説教集A年:2008年3月30日復活節第2主日(三ケ日) 

第1朗読 使徒言行録 2章42~47節
第2朗読 ペトロの手紙1 1章3~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節
 
① 主イエスの復活を記念しお祝いする八日間の締めくくりに当たる本日は、「神の慈しみの主日」と言われています。主の復活は、神が主にお与えになった特別の恵みであるだけではなく、何よりも私たち人類に対する神の大きな慈しみの徴であることを、信ずる各人の心にしっかりと銘記させるためであると思われます。黙示録1章の18節によると、主は使徒ヨハネの上に右手を置いて、「私は死んだ者となったが、今は永遠に生きている。云々」と語っておられますが、私たちもその主のように、この苦しみの世に死んだ後には、神により神と共に永遠に生きるよう召されており、神は主イエスの復活によってそのことを私たちに保証しておられるのだと思います。神は私たち人間を、誤解や悲劇の多いこの儚い苦しみの世に住まわせるために創造なされたのではなく、何よりもご自身の御許で永遠に輝く存在とするために、ご自身に似せて創造なされたのです。私たちの本当の人生はこの世にではなく、死後の復活後に永遠に続くものとしてあるのです。私たちに対する神のこの大きな慈しみに、感謝致しましょう。

② 本日の福音は、主が復活なされた日の夜とその八日後に、弟子たちが鍵をかけて集まっていた家に、主がご出現なさった時のことを伝えています。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」、家の全ての戸に鍵をかけて集まっていたそうですが、もはや死ぬことのないあの世の命に復活なされた主は、ご自身のその復活体を神出鬼没に幾度も出現させ、親しく弟子たちとお語りになったようです。彼らの心が、その度重なる体験を介して、もはや死ぬことのないあの世の命への復活という現実が実際に存在することや、その命が自分たちにも約束されていることを、次第に生き生きと堅く信ずるようになるためであったと思われます。私たちの心は体験によって目覚め、体験によって鍛えられ、堅く立つように造られています。ですから、神の現存や神の愛などに対する信仰も、現実的体験なしにいくら理性が心に説得したとしても、心に根を張ることはできません。しかし、神の働きの不思議を度々体験し始めると、たちまち目覚め、頼もしく成長し始めます。復活なされた主は、そのために幾度も弟子たちにご出現なされたのだと思われます。

③ 本日の第一朗読は、復活の主の度重なるご出現を体験した使徒たちを中心にして生まれた、エルサレムの信徒団の生き方を伝えています。信徒たちは皆心を一つにして、全てのものを共有にし、相互の交わりにも祈りにも熱心であったようですが、「全ての人に恐れが生じた」という言葉も読まれます。どういう恐れでしょうか。察するに、使徒たちを通して次々と不思議を行われる神の現存や働きが身近に痛感されたからかも知れませんが、同時に主が受難死の少し前にお話しになったエルサレム滅亡の時と世の終わりの時が、間近に迫っているという危機感と結ばれた恐れなのではないでしょうか。エルサレムの町は経済的にはまだ繁栄していましたが、現代の多くの国々のように、貧富の格差は際限なく広がり続けていて、ローマ帝国の支配に対する若者たちの不満や政治不信も、次第に深刻になっていたと思われます。主の没後30年余り経った60年代には、現状維持の立場に立つ要人が幾人も暗殺される事件が相次ぎ、初代のエルサレム司教であった使徒小ヤコブが処刑される事件まで発生して、ローマ帝国に反旗を翻したエルサレムの町は70年に滅亡してしまいました。

④ しかし、その2,30年前頃から、エルサレムには社会崩壊の兆しが露わになっていて、一部の住民は危機感と恐れに囚われていたのではないでしょうか。信徒たちが財産を共有にして、続々と入信する貧者たちを積極的に助けたのは、主の御言葉通りにエルサレムが間もなく滅びるのなら、財産は貧者に施して復活後の人生に心を準備することに努めた方が賢明、と考えたからであると思われます。

⑤ 現代の私たちも、ある意味では似たような状況に置かれているように思いますが、いかがでしょうか。先日JR常磐線の荒川沖駅で、ゲーム好きだったと聞く24歳のある男が次々と数人を殺傷し、警察には「捕まえてごらん」と電話したり、捕えられてからも「誰でもいいから、人を殺したかった」などと、遊び感覚で淡々と平気で話しているのをテレビで知った時、私は南山大学での西洋史の講義で、ネロ皇帝について話した言葉を懐かしく思い出しました。ネロ皇帝と聞くと、陰険で残酷な顔をしている人間を考える人が多いかも知れませんが、国宝級の貴重な古い彫刻を展示しているローマのカピトール丘の博物館で私の見たネロ皇帝の彫像は、遊び心で輝いているような顔をしていました。それで私は、「ネロは最初の現代人のようだ」という表現も使いながら、「現代の悪魔は、見たところそれ程悪気のなさそうな遊び感覚の人間を使って、思いがけない恐ろしい不幸を人々に齎そうとしているかも知れない」という風な話をしていました。

⑥ 奥底の心に対する適切な躾や教育に欠如している現代の家庭・学校・社会からは、今後もこのような遊び感覚の危険人間が続出するかも知れません。人目には何事もてきぱきと遣りこなす、有能な真面目人間に見えるかも知れません。そして本人自身も、自分をそれ程悪い人間とは思っていないことでしょう。しかし、それが恐ろしい悪魔の武器となり得るのです。神の導きと助けを願い求めつつ警戒し、賢明に目覚めていましょう。そして「見ないのに信じる人は、幸いである」と使徒トマスにおっしゃった主のお言葉を心に刻みつつ、目には見えなくても、主キリストの現存・神の現存に対する意志的信仰を新たに堅め、神中心の畏れと信頼の内に、日々の生活を営むよう心がけましょう。