2009年2月22日日曜日

説教集B年: 2006年2月19日、年間第7主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 43: 18~19, 21~22, 24b~25.
Ⅱ. コリント後 1: 18~22. Ⅲ. マルコ福音 2: 1~12.

① 本日の第一朗読である第二イザヤ書、すなわちイザヤ40章から55章までの部分は、バビロン捕囚時代になされた預言で、旧約聖書の中でも最も福音的な喜びと慰めのメッセージが多く読まれる預言書です。本日の朗読箇所の少し前にある43章の始めには、「ヤコブよ」「イスラエルよ、あなたを創られた主は、今こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、私はあなたと共にいる。云々」などという、神からの全く特別な愛の表明や、優しい慰め、励ましの言葉が延々と続き、その後半部分に本日の第一朗読の箇所があるのです。本日の朗読箇所にも登場する「ヤコブよ」「イスラエルよ」という呼びかけは、いずれも同じ神の民に対する呼びかけで、このように繰り返すことにより、神は特別な愛を示しておられるのだと思います。
② 「昔のことを思いめぐらすな」とあるのは、昔イスラエルの指導者たちが神信仰から離れて数々の罪を犯し、その結果戦いに負けて、こうして捕囚状態に陥ってしまったことを指していると思います。しかし、神はそれらの罪を全てお赦しになって、今や何か「新しいこと」、すなわちエジプト脱出の出来事にも匹敵するような、新しい救いの業を行おうとしておられることを匂わせながら、「私はあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」と明言しておられます。私たち現代人も、今の社会を見渡してみますと、実に頻繁に神に背き、犯した罪によってどれほど神をお悲しませしていることかと絶望的になる程ですが、教会がミサ聖祭中の朗読を通して新たに現代社会に宣べ伝えている、神からのこのような優しい呼びかけや、慰め・励まし・赦しの言葉などを、そのまま素直に受け止め、それを信じて、神への希望と感謝と奉仕の心を新たに致しましょう。幼子のように素直な信頼を言葉と態度で表明するなら、神はその信頼に応えて必ず働いて下さるのですから。しかし、神よりの言葉をただ理知的に頭で受け止めるだけで、心の意志がそのお言葉を喜んで積極的に受け入れ、それに従って新しい希望と信頼のうちに生きようと努めないなら、折角の神のお言葉も、その人の心の中に根を下ろし実を結ぶことはできません。心に自由な積極的信仰がない所には、神の救う力、全く無償の超自然的恵みも働けないのですから。
③ 本日の第二朗読では、神に対する「然り」と「否」という心の態度について教えられています。20節にある「アーメン」という言葉は、「確かに」「本当に」「そうあって欲しい」などという同意を表すヘブライ語ですが、ここでは「然り」と同じ意味で使われていると思います。神の子キリストは、父なる神よりのお言葉にはいつも「然り」と答えて、そのお言葉に積極的に従おうとしておられたので、神の約束はことごとく主キリストにおいて実現し、私たちも主を通してもたらされた救いの恵みに浴しているのではないでしょうか。本日の第二朗読に述べられている通り、神は洗礼によってその主と結ばれた私たちにも聖油を注ぎ、神の子の証印を押して、私たちが神の言葉に従って生きることができるよう、心に神の霊を与えて下さいました。感謝の心で、キリストの「然り」一辺倒の精神で生きる決意を新たに堅めましょう。
④ 本日の福音であるマルコの第一章には、最初の弟子たち四人の召し出しに続いて、様々な奇跡的治癒の話が述べられていますが、それに続く本日の福音に述べられている奇跡は、これまでの治癒の話とは出来事の周辺状況が少し違ってします。すでに主の奇跡的治癒の話が広まって、遠くの地方からも人々が主の御許に来るようになっていたようですし、それに伴って数人の律法学者たちまで御許に来るようになっていますから。民衆の宗教教育を担当していた律法学者たちは、主キリストの「神の国」宣教活動を視察し監視するために、エルサレムから派遣されて来たのかも知れません。もし主が病気の治癒をしているだけでしたら、そのような治癒の霊能者は、それ以前にもその当時にも、他にもいたでしょうから、それは数人の律法学者が視察に来るほどの問題にはされなかったと思われますが、主が新しい教えを宣べ伝えていると聞いて、主に対する厳しい監視が始まったのではないでしょうか。
⑤ 主は、彼らとの最初の対決の場であると思われる本日の話の家で、ご自身が誰であるかを、それとなく彼らにお示しになります。聖書に明記されてはいませんが、カファルナウムのその家は、ペトロの家であったかも知れません。家の中は、主の話を聞こうとする人々で、戸口の辺りまでいっぱいになっていました。そこへ四人の男が中風者を床に寝せたまま運んで来ましたが、家の中には入れないので、家の中心部の屋根をはがして穴を開け、病人の寝ている床をつり下ろしました。礼儀を重んずる人たちからすれば、これは法外の無礼に当たるでしょうが、主はその人たちの心の信仰を見て、この中風者を癒すのが天の御父の御旨であると思われたようです。快く「子よ、あなたの罪は赦された」と、中風者に言われました。すると律法学者たちは、この言葉は神に対する冒涜である、神の他には誰も罪を赦すことはできないから、などと考え始めたようです。神の他に誰も罪を赦すことができないというのは、正しいです。だから、今ここにおられるのは神よりの人かも知れない、と謙虚に考えようとはせずに、神に対する冒涜だと決め付けようとしたのは問題です。新しい教えを説く人を監視するという役目のため、彼らの心は無意識のうちに、先入観に囚われていたのかも知れません。
⑥ 主は彼らの心の思いを見抜き、それに応えて、「あなたの罪は赦された」というのと、「起きて床を担いで歩け」というのと、どちらが易しいか、と彼らに質問なさいました。人の目には罪の赦しは見えないので、それを言う方が易しいと思われるかも知れません。しかし、罪の赦しは神にしかできないことなので、実際には遥かに難しいことなのです。彼らが黙っていたので、主は「人の子が地上で罪を赦す権能を持つことを知らせよう」とおっしゃって、皆の見ている前でその人を即座に癒して見せました。神の力によってしか癒されないような奇跡を目撃して群衆は皆驚き、神を讃美しました。しかし、同じくその奇跡を目撃した律法学者たちは、どう思ったでしょうか。
⑦ 皆さん、隣人の言行について何かの疑念が生じたような時には、何よりもまず自分の中の先入観に警戒して、原則的に相手の言行をなるべく善意に解釈するよう心がけましょう。私たちは裁くためではなく、主キリストのように全ての人の救いに奉仕するために神から派遣されているのですから。神のためまた人のために、何かを相手に厳しく言う必要があると思う時には、神と人に対する愛のうちに適切になすことができるよう、何よりもまず神に眼を向け、神にひたすら祈ることから始めましょう。そして、最高のものは愛の創り主である神とその働きであることも、心に銘記していましょう。
⑧ 以前にプロテスタントの人たちと交際していて、プロテスタントの中には聖書を最高のものとしている人が多いという印象を受けたことがあります。聖書は古代に神の働きを体験したり神の言葉を聞いたりした人たちの作品で、非常に大切な案内書であり、規範書でもありますが、人間の書いたものであって、最高のものではありません。最高のものは、聖書が書かれる以前にある神ご自身とその働きであります。神の働きを体験したり、神から啓示を受けたりした人は、古代に聖書を執筆した人たち以外にも大勢います。ヘブライ書の冒頭にも述べられているように、神は多くの方法、様々なやり方で人類に語っておられるのですから。神の御言葉の受肉によって神からの啓示は完成されたのですが、その完成を2千年前という時点だけに限定して考えてはなりません。その神の子キリストは聖書を執筆なさらずに、ご自身の生活や働きを通して神を啓示し、死後にも復活して神とその働きを啓示し続けておられますし、「私は世の終りまであなた方と共にいる」とおっしゃったのですから。主はまた「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」とも話しておられます。その主が私たちの人間社会に隠れた形で伴っておられることと、今も私たちの間で人類救済のために働いておられ、そっと人々に語りかけておられることとを信ずるなら、ファリサイ派の聖書一辺倒や一種の原理主義に陥ることのないよう、心を神に向けて大きく開き、神の現存・神の働き中心の精神で生きるよう心がけましょう。今迷っている多くの人たちのためにも、神による照らしと恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2009年2月15日日曜日

説教集B年: 2006年2月12日、年間第6主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 3: 16~19. Ⅱ. コリント前 10: 31~ 11: 1.
Ⅲ. マルコ福音 1: 40~45.

① 本日の第一朗読は創造神話の一場面で、歴史的出来事を目撃者が描写したものではなく、信仰のセンスを深めた預言者的人物が、神から夢幻のようにして与えられた幻示を、見たままに伝えたものであると思われます。しかしそこには、神が現代の私たちにも伝えようとしておられる、神が望んでおられる本来の人間像と、現実の人生苦の由来や意味などが謎のように隠されており、聖母マリアのようにいつも心に留めて考え合わせつつ、学ぶべきことが多いと思います。創世記1章によると、神は私たち人間が生存するに必要なものすべてを豊かに創造し、程よい状態に生成発展させた後に、最後にご自身に似せて人間を創造し、祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上をはう生き物をすべて支配せよ」と言われたのです。この神話によると、この段階ではまだ人生苦は全くなく、「神はお創りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と述べられています。
② また創世記2章7節によると、神は土 (アダマ) で人 (アダム) を造り、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きるものとなったとありますが、ここで言われている「土」は、数多くの進化論的発見が注目されている現代では、非常に広い意味で理解すべきものなのではないでしょうか。私は勝手ながら、近年続々と発掘されている数十万年前の骨格などから、現代人に酷似していると思われる高等動物は、たとえチンパンジーなどとは比較できないほど理知的能力や心の感受性などを発達させていても、まだ聖書のいう「神の息を吹き入れられた」人間、神とともに永遠に生きる霊魂を具備した人間ではないと考えています。聖書はそのような二本足で歩く発達した動物をも、「土」と呼んでいるのではないでしょうか。神はある時点で、そのような「土」を素材としてご自身に似せた人間を創造し、これに万物を支配する使命をお与えになったのだと思います。その時点では、全てはまだ神のご計画通りだったのではないでしょうか。しかし、神の似像であるその人間が、神から授けられた愛の霊と超自然の能力をも利用して万物を支配し、万物を神の栄誉を表すものに高めて行くべきだったのに、その最初の時点で神に背を向け、神の愛も超自然の賜物も失ったために、この世は自然界だけの苦しみの世に留まってしまったのではないでしょうか。それが現存するホモサピエンスと言われる人類の歴史上、いつの段階の出来事であったのかは全く知りません。
③ 私がこんな考えを抱くようになったのは、40年ほど前のある体験からでした。当時カトリック教会では古生物学者ティヤール・ド・シャルダンの進化論的神学思想が話題になっていましたが、壮大な宇宙全体の発展過程を一つの魅力的理論で説明しようとしているこの思想と、原罪やキリストによる救いについてのカトリックの伝統的神学との間には大きな隔たりがあるため、教皇パウロ6世が1966年の6月下旬から7月にかけての頃に、当時の一流神学者たち15人にこの問題にについて審議し答申する秘密の委員会を開かせました。委員会はローマの避暑地ネミの丘上にあった神言会修道院で一週間にわたって開催されましたが、参集した神学者の中ではカール・ラーナーやコンガールたちはまだ若手で、年配者も少なくないので、イタリア語しか話さない台所の修道女たちからの要請で、私とフランス語もドイツ語も話すブラジル人ヴァッレ神父の二人が、その神学者たちと同じ食堂で、小さな別テーブルで食事をしながら奉仕することになりました。ある日の食事中にネアンデルタールのことが話題になったことから、その時の話の結論がどうなったのかは知りませんが、私は後でネアンデルタールを、神が自然界の支配者、万物の霊長とするために神の息吹と超自然の賜物を授与した最終的人間が登場する以前の存在、と考えることもできるのではないかと思った次第です。
④ この人間の創造と関連して、神が2度話しておられる「支配する」という動詞 (ヘブライ語で「ラーダー」) は、列王記などでは国王の統治に用いられていますが、搾取や自由勝手な利用などの意味はなく、むしろ管理する、世話するなどの意味に近く、国王は自分の支配する民の繁栄に責任を負うことも意味しています。創世記2章15節によると、神は人をエデンの園に住まわせ、そこを耕し守るようになされたのですから、人間は楽しく遊び暮らすためにではなく、働くため、自然界に仕え、自然界を一層実り豊かな美しいものに発展させるために創られたのだと思います。「耕す」「働く」などの言葉を聞くと、労苦を伴う仕事を想像するかも知れませんが、超自然の賜物に支えられていた時の人間にとっては、それは喜びと楽しみ以外のものではなく、彼らは苦しむことも死ぬこともなく永遠の幸福へと上げられるよう、予定されていたと考えてもよいのではないでしょうか。こう考えると、人間は自然界の動物たちとは違って、根本的に神と共に、(また女性創造の話からも分かるように) 他の人または人間共同体と共に、更に自然界と共に、感謝と奉仕の精神で生きるよう創られたのだと思われます。もし人間が罪を犯さなかったなら、人間はその超自然の能力を自然界に投資しながら、この自然界を神と共に生きるよう栄光化し、死ぬことなくあの世の栄光の永遠界で、神に感謝しつつ永遠に幸福に生きていたことでしょう。
⑤ それが、悪霊の誘惑に負けてはっきりと神の掟に背き、神に背を向けて超自然の恵みを全て失ったので、人祖は本日の第一朗読にあるような宣告を受けたのだと思います。すなわち女は苦しんで子を産むだけではなく、男を求めながらも男に支配される苦しみに耐えなければならないし、男は罪の穢れを受けた自然界が人間の思い通りにならないために、苦労して食物を得なければならず、死んで土に帰る苦しみも忍ばなければならなくなりました。彼らがもし、神の言葉に従って善悪の知識の木の実に警戒し、同じく園の中央に植えられていた命の木の実を愛好して、神からの命の力に養われ強くなろうと心がけていたなら、悪霊の誘いに負けることもなかったであろうになどと思うと、神話ではありますが、残念でなりません。
⑥ ところで、その悪霊は現代に生きる私たちにも、日々あり余るほどの情報や知識を提供しながら、それとなく私たちの心を神から引き離そうとしているのではないでしょうか。その誘惑に自力で、すなわち自分の人間的理性で受け答えをしたり、抵抗したりすることもできますが、ある所まで行くと、それによって自分の心が知らないうちに神の働きから遠ざかって来ているのに気づく時もあると思います。それよりも、そのような巨大な知識の木には少し距離を置いて、まずは命の木の実や祈りによって自分の内的生命や意志力を強化し、日々神の働きにしっかりと結ばれて生活することが大切だと思います。そうすれば、現代の知識や情報が氾濫し渦巻いている中にあっても、それらに流されず煩わされずに、それらを主体的に利用しながら、神のために豊かな実を結ぶことができるでしょう。人祖についての神話から、このような教訓を学びたいと思います。
⑦ 本日の福音に描かれている治癒は、一つの大きな奇跡だと思います。社会から追放されていた当時のハンセン病者は、その病気を他の人に移さないため、村里に近づくことも正常者に話しかけることも厳禁されており、万一道で正常者に出遭ったような場合は、「穢れ者、穢れ者」と言いながらその人から逃げるよう命じられていたのに、察するにハンセン病者たちはその寂しさに耐え切れず、夜には密かに村里に近づき、人々の間で話題になっていた主イエスによる奇跡的癒しのことを耳にしていたのではないでしょうか。とにかく本日の福音に登場するハンセン病者は、大胆に規則に背いてイエスに近づき、ひざまずいて、ギリシャ語原文によると「お望みなら、私を清くすることがおできになります」と、婉曲にお願いしています。規則を忠実に守っているだけでは、いつまでも救われないからだと思います。その大胆な信仰を喜ばれたのか、イエスも規則に背いてその人に触れながら、彼が使った「望む」と「清くする」という二つの動詞だけをそのまま使い、「望む。清くなれ」と言って、直ちにその人の病を癒されました。
⑧ しかし、日本語で「イエスが深く憐れんで」と訳されている箇所について、聖書学者たちは、より信用のおける古い写本にそこが「イエスが怒って」となっているのを重視しています。もしこの写本の方が正しいとしますと、イエスはここで何に対してお怒りになったのでしょうか。察するに、このようなむごたらしい病気で、神から愛されている人間を極度の孤独に追いやり、いじめ苦しめている悪霊に対して、聖なる怒りの眼を向けられたのではないでしょうか。怒りは全て罪である、などと考えないようにしましょう。聖トマス・アクィナスは、聖なる怒りは一つの聖徳であると教えています。罪のない多くの人を無差別に殺傷するテロ行為をなす人々や、現代の対人地雷などを想像を絶するほど大量に搬入したり、ばら撒いたりする人々に対しても、主は聖なる怒りの眼を向けておられると思います。その背後には、悪魔が暗躍しているのでしょうから。
⑨ 本日の福音にはもう一つ、イエスが癒された人に「誰にも言わないように」と、厳しく沈黙をお命じなっていることも、熟考に値します。ハンセン病者がユダヤ社会に復帰するには、祭司に癒された体を見せて、規定の捧げ物をしなければなりませんから、この社会復帰に関与する人たちには話さなければなりませんが、それ以外の人たちには話さないようにと、イエスはなぜ厳しくお命じになったのでしょうか。善意からではあっても、奇跡的癒しの話が積極的に言い広められますと、信仰のない人たちまで単なる好奇心や現世的欲望から、そういう奇跡だけを求めて大勢参集するようになり、メシアの生活や宣教活動を妨害したり、敵対勢力の結束やメシアの受難死を早めたりして、生まれ出ようとしている新約時代の神の民にも大きな被害を及ぼし兼ねないからではないでしょうか。
⑩ 私たちも、神から何か特別な恵みを受けたりしたら、必要でない限り、そのことを関係のない人々にはなるべく言い広めないよう心がけましょう。聖母マリアのように、自分に与えられた神からの恵みを沈黙のうちに静かに思い巡らし、すべての出来事や体験を考え合わせるように努めましょう。そうすれば、私たちの心は神の働きのうちに一層深く根を張り、豊かな実を結ぶに到ると思います。

2009年2月8日日曜日

説教集B年: 2006年2月5日、年間第5主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヨブ 7: 1~4, 6~7. Ⅱ. コリント前 9: 16~19, 22~23.
Ⅲ. マルコ福音 1: 29~39.

① 本日の第一朗読は、神に忠実に仕えつつ熱心に働いていたヨブが、罪なしに次々と大災害に見舞われ、日々恐ろしい病苦と激しい苦痛に呻吟しながら、この苦しみの世について嘆いた長い話の一端ですが、私は司祭に叙階される2年ほど前に、初めてヨブ記を読んで驚いたことを、今懐かしく思い出します。そこに登場するヨブの三人の友人は悪人ではなく、皆神に忠実に生きようとしている善人で、例えばヨブ記8章に読まれるように、「あなたの子らが神に対して何か過ちを犯したから」罰せられたのであって、「あなたが神を捜し求め、全能者に憐れみを乞うなら、」「神は必ずあなたを顧み、」「あなたの家を元通りにして下さる」などと、災害や病気は何か隠れた罪の行いのために与えられたのだから、謙虚に神に詫びて憐れみを乞うなら癒されると、ヨブに勧めています。それらは友人ヨブに対する大きな愛からの言葉でしたが、ヨブはその勧めには従おうとせず、ひたすら自分も子らも個人としては神に対して罪を犯していないと考える立場から、自分に与えられた恐ろしい苦難の意味を問い続けます。そしてたとえ個人としては罪を犯していなくとも、何か人間存在そのものが神に背く悲惨な状態にあることを、次第に明るみに出して行ったように見えます。そして人間存在のその罪ゆえにこの世の人生が労苦に満ちたものになっていることを、嘆き続けます。
② ヨブ記は42章に及ぶ長い詩文ですので、史実の描写ではなく、義人の受ける苦しみの意味を教えようとした文学作品であると思われますが、旧約の神の民の伝承の中には、太祖アブラハムも、エジプトへ売られたヨゼフも、またその後のトビトや預言者たちの中にも、罪なしに恐ろしい苦しみを受けた話がありますから、ヨブ記は義人の受けるそのような苦しみの意味を、深い次元で考えさせるために書かれた作品ではないでしょうか。自分にこの恐ろしい苦しみが与えられたのは、何か罪を犯したからだなどと、神に対する個人倫理や勧善懲悪の問題という観点だけから考えないよう気をつけましょう。神はご自身の御心を最も安んずる人にも、人々からの恐ろしい誤解や災害などの苦しみをお与えになる方なのです。多くの人の救いのために、また全人類に豊かな祝福を与えるために。信仰に生きる人に与えられるその苦しみは、神の恵みの現れに他なりません。もし私たちがそのような苦難に出遭うなら、たじろがずに、感謝と将来への希望のうちに、その苦難を受けるよう心がけましょう。
③ 特に寒さの厳しい冬の時期、私たちは日々の祈りの中で、時々罹災者や難民、あるいはホームレスの人たちのために神に助けを祈り求めていますが、第一朗読にあるようなヨブの言葉を読む時、私は、他に逃げ場のないその人たちの暗い苦しい人生と、その中での悲嘆や悩みに思いを馳せてしまいます。私は名古屋で幾度もホームレスの人たちの集う「いこいの家」に物資を届けたり、二、三度その人たちと話し合ったりしており、大阪の西成地区を二度訪れて食事をしたり、東京の山谷地区を見に行ったりしていますが、日本の高度経済成長を下から支えて生きてきたその人たちの顔を見ていると、明日の生活も不安な実態なのに、互いに励まし合いながらその不安と苦しみに耐えているように思われ、どことなく人生苦に前向きに立ち向かっている逞しさも感じられます。これからもそういう人たちのために、神の恵みと助けを希望のうちに祈り続けましょう。
④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」「福音のためなら、私はどんなことでもします。云々」と、非常に積極的な行動姿勢を明言しています。すでに人生の終末期に足を踏み入れている私たちには、そのような若さは無理ですが、せめて今困っている人たち、今苦しんでいる人たちの上に神の恵みを祈り求めることは、可能だと思います。歳は進んでも、このような心の若さは失わないように心がけましょう。
⑤ 本日の福音の始めに述べられている治療は、一つの奇跡であったと思います。一週間前の福音にあるように、会堂で悪魔憑きが奇跡的に癒されたので、シモン・ペトロは、姑がおそらく高熱を出して寝ている自分の家に主をお連れして、主に彼女の病気のことを話したのでしょう。主が手を取って彼女を起こされると、すぐに熱が去り、彼女は一同をもてなしたとあります。熱病患者は、高熱が下がってもしばらくはそのまま寝ていないと、ふらふらしてとても皆の食事に奉仕することはできません。それなのに、安息日の会堂礼拝が終わって、おそらくちょうどお昼頃にペトロの家に来たと思われる一行の食事に、すぐに奉仕したのですから、驚きます。癒されて神を讃美したり主に感謝したりする話は一切抜きにして、ただ簡潔に事実を伝えているだけですが、「一同をもてなした」ことが、即時の完全な癒しの証明になっていると思います。この「もてなす」という行為が、主に従って豊かに恵みを受ける女性たちの姿を示しているのではないでしょうか。主の働きに下から黙々と奉仕する実践に生きる者たちの所に、主もよくお出で下さいます。主がカファルナウムではペトロの家に宿泊されることが多かったのは、そのためだと思われます。私たちも、同じ実践に生きるよう心がけましょう。
⑥ 本日の福音は、午前に始まって翌日の朝までの、時間的には24時間以内の出来事を報じていますが、安息日明けの日没後に、町中の人がペトロの家の戸口に集まり、大勢の病人や悪霊に憑かれている人を連れて来て癒していただいたという話には、その表現に多少の誇張があるとしても、人々にそのような印象を与えた出来事のあったことは事実だと思います。通常の平穏な時代には、一つの町にそんなに多くの病人も悪魔憑きもいません。しかし、以前にも話したように、キリスト時代は古代における一つの大きな過渡期で、人口が大きく流動化していた時です。東西交流が盛んで、シルクロードを行き来する人も多く、鳥インフルエンザのようなアジアの病気が、食生活の異なるオリエント地方に伝えられたことも考えられます。歴史時代にも、ペストがわずかの間に数百万人、数千万人もの命を奪ったことがあり、天然痘が猛威をふるったこともあります。それほどの恐ろしい伝染病ではないにしても、キリスト時代にも、それまでの伝統的な薬では治りにくい熱病が、抵抗力の弱い子供や老人たちの間に流行っていたかも知れません。また福音書に、悪魔憑きが多くいたように書かれているのは確かに異常ですが、神の子自身の来臨を考慮すると、大勢の悪魔が活発に動きまわったと思われる当時のユダヤは、この点でもかなり異常な状態だったかも知れません。今の時代の尺度でキリスト時代のユダヤ社会を考えないよう、判断には慎重でありましょう。
⑦ ところで、病気の癒しや悪霊の追放は神の国が今ここに来ていることの証であり、主の宣教の一つの手段でしかありません。主は、慈善事業を目的としてこの世に来臨なされたのではありませんから。「悔い改めて福音を信じなさい」という主の要求を実践的に受け入れ、信仰と愛の実を結ぶよう努めなければ、主はその人たちの地を去って行かれることでしょう。主は、何よりも神の国を宣教し人々の心の中に根付かせるために、そして神の愛の実を豊かに結ばせるためにこの世に来られたのですから。本日の福音の後半は、主が最初の弟子たちにそのことを悟らせようとしておられたことを示しています。私たちも、慈善活動は主が教会を設立なされた本来の目的ではなく、一つの手段に過ぎないことを心に銘記しつつ、何よりも神が求めておられる信仰と愛の心の実を結ぶことに、そしてその信仰と愛の命を多くの人の心に根付かせることに励みましょう。

2009年2月1日日曜日

説教集B年: 2006年1月29日、年間第4主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 18: 15~20. Ⅱ. コリント前 7: 32~35.
Ⅲ. マルコ福音 1: 21~28.

① 本日の第一朗読は、ヨルダン川を渡って約束の地に入る前に、モーセが神の民に語った話の形をとっていますが、モーセ五書の一つである申命記に書かれていることが皆、モーセの時代からそのままに伝えられている伝承ではなく、その中のかなりの部分は後の時代に付け加えられたものだと思います。礼拝する所はエルサレムだという話があったりしますし、本日の朗読箇所の少し前の17章にも、神の民を治める国王についての細かい規定が述べられていて、それらのことをモーセが民に語ったと考えることはできませんので。
② しかし、少なくとも本日の第一朗読にある話は、モーセが実際にその民に語った遺言の言葉であるかも知れません。それはモーセがシナイで聞いた神の言葉を伝えているからです。ここでホレブとあるのは、海抜2千メートル前後のシナイ連山の一つで、今日アラビア語でジェベル・ムーサ (モーセの山) と呼ばれている山を指すと思われますが、そのホレブの山の麓でモーセは神の声を聞き、神の民は大きな畏れのうちに神を礼拝しました。その礼拝のために集められた神の民は、その時の雷鳴のような恐ろしい威厳に満ちた神の声を聞き、山を覆い隠すほどの大きな火を見て、死ぬのではないかと思ったほど恐れたようで、もう二度と神が民に直接お語り下さらないよう、モーセを介して願ったので、神はその願いを受容し、これからも神の民の中からモーセのような預言者を立てて語ることを約束して下さったのです。モーセは民と別れるに当たって、本日の朗読にあるように、神のこの約束を民に思い出させているのです。
③ 神の啓示である聖書の示す信仰生活は動的なものです。神の民の生活する歴史的状況の変化に応じて、神は次々と新しい啓示や指導をお与えになるからです。神がモーセの生前に語られたお言葉だけに注目し、それに従っていればそれで良い、というようなものではないようです。神はモーセを介して、神の民が入る「約束の地」、カナン人たちの住んでいる土地を「乳と蜜の流れる土地」と語っておられますが、しかし、神の民はそこに行って流れ出る乳と蜜を飲んで楽しく遊んで暮らすことができる、などとは話しておられません。事実神の民が戦いに勝利して実際にその地に住んでみますと、一所懸命に働くなら乳と蜜を豊かに得ることのできる土地ではありますが、しかし、民を誘惑して主なる神から引き離そうとする異教文化の現世的知識や伝統的慣習が満ち溢れており、周辺には神の民を征服して自分たちに従わせようとする強い部族たちもいました。ですから神から与えられた約束の地は、神の民が自分の不純な内心に対しても、また自分を神から引き離そうとする外界からの誘惑に対しても、絶えず戦わなければならない厳しい修練の場でありました。第一朗読の後半に読まれる神のお言葉は、モーセの後にも神が民の中からモーセのような預言者を立てて、ご自身の言葉を授けることの約束であります。神がそこで神の導きに聞き従わない者たちや、神の命じていないことを勝手に神の名によって語る預言者に対して付言しておられる、厳しいお言葉も聞き漏らしてはなりません。
④ 神がモーセに与えられたこの啓示は、現代の私たちに対する神のお言葉でもあると思います。今の私たちも、隠れておられる神の神秘なお導きから眼をそらし勝ちな、自分自身の不信の心に対しても、また自分を神の導きから引き離そうとする様々の誘惑に対しても、絶えず戦わなければならない厳しい修練の場に、この世にいる限り置かれていると思います。神の民に対する聖書の啓示は、最高の啓示者であられる主キリストの来臨によって完全なものとなりましたが、その主は、「私は世の終りまでいつもあなた方とともにいる」とおっしゃって、今もご自身の霊、すなわち聖霊によって事ある毎に私たちの心に呼びかけ、私たちを守り導き助けようとしておられます。私たちのキリスト教信仰生活は、主によるその呼びかけや導きに対する心のセンスを祈りのうちに磨きつつ、絶えずそれに聞き従うことに成り立っていると思います。
⑤ ですから主キリストをこの世の人という次元でだけ受け止め、神の啓示は2千年前のキリストの時代で完結したのだから、その時までに書かれている現存の聖書だけを研究し、それに従おうとしていれば良いというのは、人間の側で構築した枠を神の啓示に押し付け、その狭い枠内でだけ神の啓示を眺め解釈しようとする不遜な試みとして、神から退けられるのではないでしょうか。信仰に生きる無数の聖人・賢者たちの体験からも明らかなように、神は実際に今も私たち信仰者の平凡な日常生活に伴っておられ、事ある毎に声なき声でそっと語りかけ、導いておられるのですから。私は自分の長年にわたる体験からも、このことを確信しています。マタイ16章とルカ17章によると、主は「自分の命を救おうとする者はそれを失うが、私のために命を失う者は、それを得る」と話しておられますが、何でも人間中心に自力で考え決めようとする心に死んで、もっと自分自身を徹底的に「無」にし、神の神秘な導きに聞き従おうと努めてこそ、私たちはいっそう深い次元で、神の啓示やその救いの御業を悟るに至るのではないでしょうか。
⑥ 本日の第二朗読は一週間前の朗読箇所の続きで、結婚生活のマイナス面について教えていますが、先日も話したように、私はむしろ結婚生活のプラス面により多く眼を向けていますので、信仰に生きる夫婦は、もし二人で助け合って祈りのうちに神の導きに対する心のセンスを磨くなら、独身者に劣らず成聖の道に進むことができると信じています。ですから、パウロがここで述べている言葉は一つの大切な警告と勧めですが、あまりそれに囚われる必要はないと思います。
⑦ 本日の福音も一週間前の福音の続きですが、最初の四人の弟子をお召しになった時とは、場面も内容も全く違っています。律法すなわち聖書の権威を独占的に利用しているファリサイ派に属しておられない主が、カファルナウムの会堂に入って教え始められたのです。察するに、これが主が会堂内で教えを説かれた最初だったのではないでしょうか。会堂内にいた「人々はその教えに非常に驚いた」とありますが、何に驚いたのでしょうか。聖書の言葉を引用しながらそれを解説し、掟の厳守を強調していたファリサイ派・律法学者たちとは違って、先日の福音にもあったように、神の国の現存と、それを受け入れ、それに従おうとする心の内的変革とを強調なされたからではないでしょうか。神ご自身が主導権をとって私たちの生活の中で働いて下さる、新しい時代が到来したのです。
⑧ 律法学者たちの話したことのない、神の間近な存在を神の権威をもって力説なされた時、その場にいた悪魔憑きの男が、「ナザレのイエスよ、お前と俺たちとどんな関係があるのか。俺たちを滅ぼしに来たのか。お前が何者か知っているぞ。神の聖者だ」と叫びました。初対面のその男は、イエスについてはまだ何も知らなかったでしょうが、これは、その男に取り憑いている悪魔の言葉だと思います。その言葉には誤りがありません。悪魔は真実を表明したのです。でも、そこには神に対する愛と従順の心が込められていませんから、主はすぐに「口をつぐめ。この人から出て行け」とお叱りになり、悪霊は大声をあげて出て行きました。悪霊たちは、ナザレのイエスについてもキリスト教会の説く教えについても、この世にいる私たちキリスト者より多くのことを正確に知っていることでしょう。しかし、神に対する愛と従順の精神が込められていないそのような信仰は「悪魔の信仰」などと言われており、神から忌み嫌われます。私たちも気をつけましょう。信仰の真理を正確に知っているだけではまだ足りません。ミサの「みことばの祭儀」の最後に信仰宣言をなす時も、外的習慣的にならないよう気をつけ、その宣言に神に対する感謝と愛の心を込めるように心がけましょう。神は、私たちの祈りや宣言の言葉に込められている心に、何よりも多く注目しておられるでしょうから。
⑨ 毎年1月の最後の日曜日は「カトリック児童福祉の日」とされていますから、多くの教会の信徒たちと心を合わせて、私たちも成長過程の子供たちのため、特に今苦しんでいる、今助けを必要としている子供たちのために、ミサ聖祭の中で祈りましょう。しかし、このミサ聖祭自体は、私たちが昨年の4月以来毎月一回捧げているように、私たちの隣国である中国・北朝鮮・韓国の人たちのためにお献げしたいと思います。私たち極東の諸国民が心を大きく開いて、互いに愛し合い、理解し合い、赦し合って平和に仲良く生きる恵みを、神に願い求めつつ。皆様のご協力をお願い致します。