2013年12月29日日曜日

説教集A2011年:2010年聖家族(三ケ日)



第1朗読 シラ書 3章2~6、12~14節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章12~21節
福音朗読 マタイによる福音書 2章13~15、19~23節
 
   毎年の最後の日曜日は、かよわい幼子の姿でこの世にお生まれになった救い主を囲む、ヨゼフとマリアの「聖家族」を偲び、その模範に見習う祝日とされていますが、私たちの一番見習うべき点はどこにあるでしょうか。それは、何よりも日常茶飯事の中での神の現存と神の愛の御配慮を日々心の眼で新たに発見し、生き生きと見定めながら、神の御旨に従って生きようとする生き方にあると思います。各個人の自由と個性を何よりも尊重した戦後教育の誤った成果なのでしょうか、近年の我が国では家族の一致と団欒の崩壊を示す悲惨な事件がたくさん発生しています。目に見えないながらも人間社会の上に君臨しておられる天の権威、神の権威に謙虚に従おうと努める心に、私たち各人の一致と和合の基礎があることを軽視し、その基礎に違反する言行が招いた破滅なのではないでしょうか。自分の自由よりも、神の御旨への従順を先にしていた聖家族の生き方に見習いましょう。ヨゼフもマリアも、この聖家族は神のお考え、神の御働きによって生まれたのであることを確信し、何よりも神から与えられた使命を大切にしつつ、神に従う心で家庭生活を営んでいたでしょうし、幼子イエスも物心がついたころから、同じ精神で両親に対する従順に心がけていたと思われます。いつも神の御旨に心の眼を向けながら生活するこの模範は、人間各人の考えも価値観も極度に多様化しつつある現代には、特に大切だと思います。キリスト教の教えは知らない日本人でも、「御天道様が見ておられる」などの俚諺が昔から民間に広まっていましたから、聖家族に見習い、神への畏敬の内に生活することはできると思います。

   年末にあたり、日頃私たちの使い慣れている事物だけではなく、富も名声も業績も家族や親しい知人たちも、この世の全ては流転して行くもの、神から一時的に貸し与えられているものであることを改めて思い直す時、多くの現代人が無意識の内に営んでいる生き方、自分中心・人間中心に周辺の自然をも社会をも神をも利用しようとする生き方の虚しさと、その責任の重さを痛感させられます。詩編24に、「地とそこにあるもの、世界とそこに住むものは神のもの。神は海に地の基をすえ、水の上に固められた」とありますが、私たちのこの存在も、私たちの所属するこの世界の全てもことごとく神の所有物であり、神はそれらを水のように流動的なものの上に据えて、支えておられるのではないでしょうか。したがって、今も私たちの心の奥に潜む自分中心の「古いアダム」の精神に従って神の御旨を無視し、自分の望みや意思のままに生きようとすることは、内的根本的には自分の存在を神から離れたもの、内面から崩れゆく恐ろしく不安なものに陥れるのではないでしょうか。自分の存在の全ては、流れゆく水のように流動的なものの上にのせられており、神の支えと導きから逸脱するなら、地盤の液状化で傾き倒壊する危険にさらされる運命に置かれているのですから。主は一度、主のお言葉を聞いて、それを実行する人を「岩の上に土台を据えて家を建てた人に似ている」と話し、「聞いても行わない者は、土台なしに土の上に家を建てた人に似ている」と話されたことがあります。私たち各人の生活を根底から揺り動かす神からの洪水、神からの試練の時は必ず来ます。それは天へと召され昇って行く時でしょうが、その時この世の過ぎゆく事物と共に下の方へと押し流されないよう、今から聖家族の模範に見習う生き方を実践していましょう。日々神に心の眼を向け、感謝と奉仕の心で神の御旨に従っていようとするのが、外的にはどれ程貧しい生活であろうとも、内的には最も実り豊かな充実した生き方であると思います。

   本日の第一朗読は紀元前200年頃に書かれたと考えられているシラ書からの引用ですが、このシラ書は、全てを「主を畏れること」を基盤にして教えており、本日の朗読箇所でもその立場から、父母を尊び敬う人が神から受ける恵みについて教えています。また第二朗読であるコロサイ書は、洗礼によってキリストとひとつ体になったキリスト者の生き方について教えていますが、本日の朗読箇所に読まれる「互いに忍び合い」「赦し合いなさい」という勧めは、極度の多様化と各人の個性の対立に揉まれて生きる私たちにとっても、大切な勧めであると思います。使徒パウロはさらに、「妻たちよ、夫に従いなさい」「夫たちよ、妻を愛しなさい」などと、夫婦間の従順と愛の精神を勧告していますが、「子供たちよ、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです」などと続けており、全ては「主に喜ばれる」という、神御旨中心の聖家族の精神で受け止めるべき勧めであると思います。

   本日の福音は、ヘロデ大王によるベトレヘムとその周辺での幼子殺害を逃れて、ヨゼフが幼子とその母を連れてエジプトに逃れたことと、その数年後エジプトでヘロデ大王死去の知らせを再び夢の中で天使から受け、ナザレの町に戻って来たこととを告げています。神は、ひたすら神の御旨中心に生きている最愛の聖家族にも、時としてこのような苦難・労苦をお与えになる方なのです。あの世の人生のための功徳や救いの実りを一層大きくしてあげるためだと思います。神中心に生きる人たちのそれらの苦難や労苦によって、まだ神による救いの恵みに浴していない多くの霊魂たちに、神からの救いの恵みが届けられるのだ、と考えてもよいでしょう。幼子イエスを守り育てる家族員、ヨゼフとマリアの団結と相互愛も、また神への信仰と愛と感謝も、それらの苦難や労苦によって実践的に鍛えられ、いっそう堅く深いものになったことでしょう。神は、私たち各人の奥底の心も、苦難や労苦や、あるいは小さな価値観の対立などによって一層大きく信仰と愛に成長することを、深い愛の内にお望みになる方であることも、心に銘記していましょう。私たちが今年一年、その神の温かい御配慮によってこうして護られ導かれていたことに対する感謝の念を新たにして、本日の感謝の祭儀を献げましょう。

2013年12月25日水曜日

説教集A2011年:2010年12月25日降誕祭日中のミサ(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 52章7~10節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 1章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節
   ヨハネ福音書の序文である本日の福音に、使徒ヨハネはまず、「初めに言(ことば)があった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と繰り返すようにして、神の言の神聖な起源を荘厳に強調します。それから「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と、神の言は被造物ではなく、神と同じ次元にいる万物の創造者であることを宣言します。ヨハネは続いて、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と述べています。言によってご自身をお示しになる神は、根本的に命なのです。そして言は、その神の命を私たち人間に伝える光なのです。この根源的愛の命に参与させることが、神による創造と救済の御業の目的であると申してもよいでしょう。

   しかし、神からの光は輝き照らし続けても、私たちの住むこの世には内的霊的な闇が続いています。その光を受け止めるものがなく、真空のようになっているからです。宇宙船に乗ってこの地球の大気圏から飛び出し、空気も何もない真空の宇宙空間に入るなら、途端に周辺は真っ暗闇になります。太陽は遠くに照っていますが、その光を反射するものが何もないからです。ちょうどそのように、あの世の神の光は照り輝いていても、それを信仰と愛をもって受け止めるものが何もない、霊的真空状態に留まっているなら、暗闇はこの世に居座り続けます。「その光は真の光で、世に来てすべての人を照らす」「言は世にあったが、世は言を認めなかった」「言はご自分の民の処に来たが、民は受け入れなかった」という悲惨な霊的状況に心を痛めながら、ヨハネはその福音を書き続けます。ここで「世」あるいは「民」と表現されている人たちは、目前の過ぎ行くこの世の事物現象を理解するための理性は持っているのですが、心の奥底に与えられている神に対する感謝・愛・信仰などの能力や感覚はまだ深く眠ったままにしているのだと思います。あの世の神の霊的光は、この世の経験に基づいて自分中心に考える理性によっては理解できません。この世の物質的光とは次元の違う霊的光で、何よりも感謝と愛の心のセンスを実践的に磨くことによって、私たち各人が本来神から頂戴している奥底の心の眼に見えて来る光なのです。「暗闇は光を理解しなかった」というヨハネの言葉は、そのことを指しています。

   ヨハネはここで、神の摂理によって派遣された洗礼者ヨハネを登場させます。「彼は光ではなく、光について証しするために来た」のです。「証しする」というのは、闇夜に輝く月や金星たちのように、信仰と愛のうちに神よりの光を受け止め、自分の身も心も生活もその光によって照らされ輝きながら、その光を反射して世の人々に伝えることを意味していると思います。洗礼者ヨハネがどれ程熱心に証ししても、光と闇との対立、神よりの光を受け入れようとしない人たちの暗躍は、根強く続くことでしょう。しかし、神の言は、洗礼者ヨハネの証しを受けて悔い改め、奥底の心を目覚めさせてご自分を受け入れた人々、その名を信じる人々には「神の子となる資格を与え」、あの世の神の命によって生まれた新しい存在に高めて下さいます。使徒ヨハネは、こうして「神の子」とされる恵みに浴した人たちの体験に基づいて、その序文の後半に「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いています。

   洗礼者ヨハネの後を受け継ぎ、この使徒ヨハネのように「神の子」として戴いた恵みに感謝しつつ、自分の見聞きした体験に基づいてこの世にお出でになった神の言、救い主とその愛の霊について証しすることが、救い主が創立なされたこの世の教会の最も大切な務めであると思います。40数年前に神の霊に導かれて開催された第二ヴァチカン公会議は、教会は本質的に宣教者であると宣言し、世界に開かれた教会、全人類に向かって神の光を輝かし、一人でも多くの人に神の子となる恵みを伝える普遍的秘跡としての教会の使命を明示しました。公会議が聖霊に導かれて当初から目指していた「教会の現代化」とは、高度に発達した現代文明の流れに揉まれて各種の行き詰まりの悩みを抱え、模索を続けている世界の諸宗教とも広い心で連携しながら、主キリスト以来の伝統的信仰の遺産を全人類に分け与え、そこに込められている霊的光を現代世界に新たに輝かせようと意図したものでした。しかし、それが未だに実現できずにいるのは、公会議の開催を機に人間の合理的考えや人間の意思を中心にする、16世紀のプロテスタント的改革精神がカトリック教会内に入り込んで居座り、神の導き・神の御旨中心の神の御言の生き方、光の生き方を覆い隠して、教会を外的この世的な組織に改革しようと画策して止まないからなのではないでしょうか。そのため、現実のカトリック教会は公会議の意図していた若々しい宣教精神を失い、どこでも熱くも冷たくもない生ぬるい精神や、若さが消えて老衰に耐えているような姿をさらけ出すようになっているのではないでしょうか。

   あの世の神の御言は、今のカトリック教会をどう御覧になっておらるのでしょうか。神の光は今も教会内に臨在しているのですが、それを全面的に受け止めて証しする若々しい奥底の心の信仰も愛も目覚めておらず、全てが闇に包まれているようなのです。ことによると、神は遠からず全人類の上に恐ろしい試練の嵐をお遣わしになるかも知れません。一人でも多くの人の奥底の心の目覚めのために。その試練の時にすぐに神に心の眼を向け、徹底的悔い改めの恵みを受けるよう、今から心を整え覚悟していましょう。神の求めておられるその悔い改めは、自分の力では為し得ないもの、神の恵みの力によってのみ実現できる奥底の心の根本的変革なのですから。一人でも多くの人のためその神の恵みと助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2013年12月24日火曜日

説教集A2011年:2010年12月24日降誕祭夜半のミサ(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節
   クリスマスは、全宇宙の創り主で全知全能の神の御子が、私たちの歴史的現実の中に人間となってお生まれになったことを記念し感謝する、喜びと希望の祭りであります。ご自身に特別に似せて人間をお創りになった、と聖書に啓示されているその人間の姿をとって、私たちの歴史的現実の中にお現れになったのです。ということは、神よりのその人、救い主イエスの生き方の中に、私たち人間の本当の生き方の模範が示されていると申しても良いでしょう。

   その人は、神としては計り知れない程の無限の富と絶対の権力の持ち主ですが、人間としてはそれらの一切をあの世に置いて、罪の闇に抑圧され苦しんでいるこの世の人間社会の最も貧しく弱い者たちの所に、貧しく弱い幼子の姿をとってお生まれになりました。その人間社会の最上位には、当時ローマ皇帝アウグストゥスが君臨し、シルクロードを介しての東西世界の国際貿易を積極的に支援して、驚くほど豊かな富と軍事力を保持してオリエント・地中海世界の平和と繁栄を安定させており、民衆からは「世の救い主」と崇められ賛美されていました。そしてこの社会的豊かさの中で、人口移動が国際的に激しくなっていたので、税制の公平さのためにも14年毎に全領土の住民に住民登録をさせる勅令を発しました。その最初の住民登録は、多くの地域で紀元前8年に施行されましたが、ローマの属国となっていたヘロデ王の支配するユダヤでは、まだ識字率が低いため住民が登録のために各々自分の出身地に集められ、顔を見比べながら役人に記録されるという登録方法に不満を持つ人たちの暴動を阻止するため一年遅らせ、シリア州での住民登録が終わった後の紀元前7年に、強大な国境警備軍を持つシリア州の総督クリニウスの軍事的圧力の下で行われました。ただ今ここで朗読された福音の始めにも「クリニウスがシリア州の総督であった時に行われた最初の住民登録」とありますように、この最初の住民登録の時に救い主がダビデ家に属するヨゼフの出身地ベトレヘムにお生まれになったのです。ローマ帝国の住民登録は、紀元6年にも二回目の住民登録が行われましたが、『使徒の宣教』5:37に述べられているように、その時ガリラヤで発生したユダヤ人の反乱は厳しく弾圧されました。住民登録に対する不満や反対があまりにも強いので、アウグストゥス皇帝が紀元14年に没すると、その後はもう行われなくなりました。しかし、その最初の住民登録により、救い主イエスの名がこの世の人類社会の歴史の中にはっきりと書き留められ、登録されたという意義は注目に値します。単に生後一週間で割礼を受け、ユダヤ人としてユダヤ社会に認められただけではなく、諸国民を統合し支配していた当時のローマ帝国の一員、人類の一員としてその名が登録されたのですから。そして長じて全人類の救いのため大きな働きを為すよう神から召され、事実その使命を立派に成し遂げるに至るのですから。

   神の御子のこの誕生は、高度に発達して人々の生活を極度に便利にまた豊かにしつつある現代文明の恩恵を受けている人々の、心の問題の解決のためにも大きな意味を持っていると思います。45年前に日本青少年研究所が、日本・中国・アメリカの高校生それぞれ千人に対して、自分に親に対しての意識調査をしたことがありました。「将来自分の親が高齢になって手助けなしに生活できなくなった時、親の面倒をみる」と答えた生徒は、中国は66%、アメリカは46%なのに対して、日本はわずか16%でした。「親は自分の子供に介護されることを喜ぶか」という問いに対しても、中国とアメリカはイエスと答えた返事が70%なのに対して、日本は30%でした。今の日本の若い世代における親子の心の断絶を示した、真に衝撃的な数値ですが、心理学者たちによるとその原因は、1歳から6歳頃までの子供の心の情緒が発達する時期に、一番必要としている親子の心の交流の不足している家庭が、最近の日本には極度に増えて来ていることにあるようです。両親の共働きや、テレビ並びに子供の一人遊びに便利なパソコン器具の普及などと関係しているのかも知れません。

   戦前のまだテレビもラジオもない貧しい農村で生まれ育った私は、小学校に上がるまではいつも父母の傍で優しい言葉をかけられたり、愛撫されたり、童謡やお伽噺を聴かされたりしていましたが、今思うと、それらが私の心の情緒や情操を育てて、対人関係を円満にする心の力を目覚めさせてくれたのではないかと、感謝しています。最近は人間の脳の研究が盛んで、精神科医や発達心理学者や幼児精神医学者たちの研究を総合してみますと、人間の大脳は胎児の時から急速に造られ始め、お腹の赤ちゃんに話しかけたり歌を歌ってあげたりしても、胎児なりにそこに込められている情緒的な愛を受け止め始めているのだそうです。そして生まれた時には既に大人の脳の50%は出来上がっており、それから小学校1年生の満6歳頃に論理的思考が始まるまでの間に大脳の90%は完成し、胎児期からこの6歳前後までの間に、子供の心の情緒の基盤が造り上げられるのだそうです。この期間に親との心の交流が不足し、邪魔者扱いを受けたりした傷を持つ子供の心は、大人になっても親とはどこか馴染めないものを抱えているそうですが、今の日本の若者たちの中には、そういう心の傷を持つ人が増えているのかも知れません。人間の脳は12歳頃に100%に完成し、20歳代から脳細胞は少しずつ剥がれ落ちて行くのだそうですが、クリスマスに当たり、心の情緒の基盤が造り上げられる満6歳までの子供の心の教育が温かく行き届いたものになるよう、特にわが国の家庭の若い親たちのため、今宵のミサ聖祭の中で神にお祈り致しましょう。

   そして私たち自身も、子育てのため人間関係の面でも経済的にも様々な問題を抱えている若い親たちのため、可能な限り温かい援助の手を差し伸べ、これからの社会のため思いやりのある子供を育て上げることができるよう支援しましょう。余談になりますが、私は2年余り前に派遣切りで失職した四日市の56歳の仏教信者の依頼を受け、保育園児から高校1年まで5人の子供を抱えているその家族の生活を、私の乏しい小使い銭で支援するため奮闘しています。昨日もその家庭を訪問して来ました。そしてこれらの体験を通して、貧しく弱い幼児の姿でこの世にお生まれになった救い主の誕生・クリスマスを喜び祝う目的の一つは、私たちも小さな幼児のような素直な心に立ち帰って、貧窮者や困窮者とも心を分かち合うことにあると思うようになりました。貧しさを厭わない神からのその温かい愛が、私たちの心の中で新しい実を結ぶよう神の恵みを祈り求めましょう。

   昔の聖人たちの伝記を調べてみますと、聖人たちの中にはこのクリスマスの季節に、か弱い幼児のお姿でこの世にお出でになった救い主と内的に深く一致するために、自分もこれまでの大人の心、大人の考えから離れて、この世に生まれたばかりの幼児の心に立ち帰り、幼児救い主と共にこれからの自分の人生、これからの新しい一年を父なる神に献げ、そのための幼児救い主のご指導やお助けを願っていた人たちが少なくなかったようです。古い時代の一つの伝統なのでしょうか。彼らの心はそのようにして、神から新しい恵みや力を豊かに受けていたようです。先ほども申しましたように、生まれたばかりの幼児の心は、情緒や情操の面ではすでに目覚めていて、神や外の世界からの導きや指導を一心に求めていると思います。その時の素直な心、純真な心に立ち帰って新しく生き始めて欲しいとの願いも込めて、救い主はか弱い幼児のお姿でお出でになったのかも知れません。私たちもこのクリスマス・お正月の季節には、お互いに幼児の心に立ち帰って相互の心の交流や、子供たちとの温かい心の交わりなどに心掛けましょう。きっと神から喜ばれ、豊かな内的恵み、クリスマスの恵みを頂くと思います。