2013年12月25日水曜日

説教集A2011年:2010年12月25日降誕祭日中のミサ(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 52章7~10節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 1章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節
   ヨハネ福音書の序文である本日の福音に、使徒ヨハネはまず、「初めに言(ことば)があった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と繰り返すようにして、神の言の神聖な起源を荘厳に強調します。それから「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と、神の言は被造物ではなく、神と同じ次元にいる万物の創造者であることを宣言します。ヨハネは続いて、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と述べています。言によってご自身をお示しになる神は、根本的に命なのです。そして言は、その神の命を私たち人間に伝える光なのです。この根源的愛の命に参与させることが、神による創造と救済の御業の目的であると申してもよいでしょう。

   しかし、神からの光は輝き照らし続けても、私たちの住むこの世には内的霊的な闇が続いています。その光を受け止めるものがなく、真空のようになっているからです。宇宙船に乗ってこの地球の大気圏から飛び出し、空気も何もない真空の宇宙空間に入るなら、途端に周辺は真っ暗闇になります。太陽は遠くに照っていますが、その光を反射するものが何もないからです。ちょうどそのように、あの世の神の光は照り輝いていても、それを信仰と愛をもって受け止めるものが何もない、霊的真空状態に留まっているなら、暗闇はこの世に居座り続けます。「その光は真の光で、世に来てすべての人を照らす」「言は世にあったが、世は言を認めなかった」「言はご自分の民の処に来たが、民は受け入れなかった」という悲惨な霊的状況に心を痛めながら、ヨハネはその福音を書き続けます。ここで「世」あるいは「民」と表現されている人たちは、目前の過ぎ行くこの世の事物現象を理解するための理性は持っているのですが、心の奥底に与えられている神に対する感謝・愛・信仰などの能力や感覚はまだ深く眠ったままにしているのだと思います。あの世の神の霊的光は、この世の経験に基づいて自分中心に考える理性によっては理解できません。この世の物質的光とは次元の違う霊的光で、何よりも感謝と愛の心のセンスを実践的に磨くことによって、私たち各人が本来神から頂戴している奥底の心の眼に見えて来る光なのです。「暗闇は光を理解しなかった」というヨハネの言葉は、そのことを指しています。

   ヨハネはここで、神の摂理によって派遣された洗礼者ヨハネを登場させます。「彼は光ではなく、光について証しするために来た」のです。「証しする」というのは、闇夜に輝く月や金星たちのように、信仰と愛のうちに神よりの光を受け止め、自分の身も心も生活もその光によって照らされ輝きながら、その光を反射して世の人々に伝えることを意味していると思います。洗礼者ヨハネがどれ程熱心に証ししても、光と闇との対立、神よりの光を受け入れようとしない人たちの暗躍は、根強く続くことでしょう。しかし、神の言は、洗礼者ヨハネの証しを受けて悔い改め、奥底の心を目覚めさせてご自分を受け入れた人々、その名を信じる人々には「神の子となる資格を与え」、あの世の神の命によって生まれた新しい存在に高めて下さいます。使徒ヨハネは、こうして「神の子」とされる恵みに浴した人たちの体験に基づいて、その序文の後半に「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いています。

   洗礼者ヨハネの後を受け継ぎ、この使徒ヨハネのように「神の子」として戴いた恵みに感謝しつつ、自分の見聞きした体験に基づいてこの世にお出でになった神の言、救い主とその愛の霊について証しすることが、救い主が創立なされたこの世の教会の最も大切な務めであると思います。40数年前に神の霊に導かれて開催された第二ヴァチカン公会議は、教会は本質的に宣教者であると宣言し、世界に開かれた教会、全人類に向かって神の光を輝かし、一人でも多くの人に神の子となる恵みを伝える普遍的秘跡としての教会の使命を明示しました。公会議が聖霊に導かれて当初から目指していた「教会の現代化」とは、高度に発達した現代文明の流れに揉まれて各種の行き詰まりの悩みを抱え、模索を続けている世界の諸宗教とも広い心で連携しながら、主キリスト以来の伝統的信仰の遺産を全人類に分け与え、そこに込められている霊的光を現代世界に新たに輝かせようと意図したものでした。しかし、それが未だに実現できずにいるのは、公会議の開催を機に人間の合理的考えや人間の意思を中心にする、16世紀のプロテスタント的改革精神がカトリック教会内に入り込んで居座り、神の導き・神の御旨中心の神の御言の生き方、光の生き方を覆い隠して、教会を外的この世的な組織に改革しようと画策して止まないからなのではないでしょうか。そのため、現実のカトリック教会は公会議の意図していた若々しい宣教精神を失い、どこでも熱くも冷たくもない生ぬるい精神や、若さが消えて老衰に耐えているような姿をさらけ出すようになっているのではないでしょうか。

   あの世の神の御言は、今のカトリック教会をどう御覧になっておらるのでしょうか。神の光は今も教会内に臨在しているのですが、それを全面的に受け止めて証しする若々しい奥底の心の信仰も愛も目覚めておらず、全てが闇に包まれているようなのです。ことによると、神は遠からず全人類の上に恐ろしい試練の嵐をお遣わしになるかも知れません。一人でも多くの人の奥底の心の目覚めのために。その試練の時にすぐに神に心の眼を向け、徹底的悔い改めの恵みを受けるよう、今から心を整え覚悟していましょう。神の求めておられるその悔い改めは、自分の力では為し得ないもの、神の恵みの力によってのみ実現できる奥底の心の根本的変革なのですから。一人でも多くの人のためその神の恵みと助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。