2013年12月15日日曜日

説教集A2011年:2010年待降節第3主日(三ケ日で)




第1朗読 イザヤ書 35章1~6a、10節
第2朗読 ヤコブの手紙 5章7~10節
福音朗読 マタイによる福音書 3章1~12節



   待降節第三主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれて来ました。それはこの主日の入祭唱にいつもフィリピ書44,5節の「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」が歌われたり唱えられたりしていたからです。この伝統は変更されずに、今も続いています。クリスマス前の待降節が既に半分は過ぎて、懐かしい降誕祭や御正月のお祝いがもうすぐ来るという、多少子供らしい夢や期待もふくらんで、この待降節第三主日のミサは中世紀以来喜びの内に祝われていたようです。私も神学生時代に、グレゴリアン聖歌Gaudete in Domino(主において喜べ)で始まる、待降節第三主日のラテン語のミサを皆と共に大きな声で喜んで歌っていたのを、今懐かしく思い出します。

   本日の第一朗読は紀元前8世紀に記された第一イザヤの預言ですが、預言者はその2世紀後の神の民のバビロン捕囚からの解放を、幻のうちに予見していたようです。この第一朗読は、紀元前537年にバビロン捕囚から廃墟と荒れ野と化したユダヤに戻って来て、失望落胆するユダヤ人たちを慰め励まし、彼らに神の力による新しい希望を与えるにふさわしいような預言であります。同じ預言は、主の再臨前に起こると、主ご自身によって予告されている様々の戦争や暴動、あるいは偽預言者たちの偽りの言葉や、恐らく各種の詐欺事件などによって生活を脅かされ、打ちひしがれている無数の人たち、現代世界の各地に、そしてわが国にもいるそのような苦しむ人たちに対する神よりの慰めと励ましの言葉として受け止めることもできると思います。私たちの本当の希望、本当の人生は、罪と闇の力の支配するこの世にあるのではなく、主の栄光に満ちた再臨によって全ての人が復活した後の、全く新しい世にあるのです。ご存じのように待降節の前半1216日までは、主の再臨を待望しつつそれに備えて心を整え、悔い改めに励む期間とされています。本日は輝かしい栄光の内に再びこの世にお出で下さる主を喜び迎える希望の心を新たにしながら、このミサ聖祭を献げましょう。

   待降節にはよく、「牧場におりる露のように、地を潤す雨のように王は来る」という、詩篇72の言葉が唱えられたり歌われたりしますが、「地を潤す雨」という表現は、「降るとも見えず」と言われる春の真に細い柔らかな雨を連想させます。牧場に降りる露も、いつ降りたか分からないような存在であります。待降節にあたって私たちの心がけるべきことは、そういう目には見えない真に秘めやかな主キリストの来臨と現存に対する、奥底の心の信仰感覚を磨くことだと思います。復活なされた主は、世の終わりの時点までこの世から遠く離れて天にだけ留まっておられるのではなく、それまでの間にも目に見えないながら霊的にこの世の被造物界全体を両手でしっかりと受け止めておられ、ゆっくりと天上へと持ち上げつつあるのです。私たちの日常茶飯事の中でもそっと現存しておられる、その主に対する信仰のセンスを磨きながら、隣人と交わる時、あるいはミサ聖祭や祈りの時、そのことに心がけてしっかりと深く目覚める恵みを願い求めましょう。

   本日の福音は、投獄された洗礼者ヨハネが自分の弟子たちを主イエスの許に派遣して、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか」と尋ねさせた話で始っています。聖書に基づいてこの世の政治・社会を改革しようとするのがキリスト教の務めである、と考えるプロテスタントの改革的流れを汲む一部の人たちが、1960年代に、洗礼者ヨハネはメシアが来臨してもユダヤ人の政治・社会に期待していたような改革が進まず、牢獄で疑問と不安に悩んでこのような質問を主に届けさせたのであろう、と主張したことがあります。その後カトリック者の中にも、それに類する発言をする人を見受けるようになりましたが、カトリックの伝統はそのような解釈を退けています。主を「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介した洗礼者ヨハネは、過越の小羊のようにして受難死をお受けになるメシアの救いの御業をすでにはっさりと予見していて、自分の弟子たちをそのメシアの方に行かせようとしていたのですが、一部の弟子たちは厳しい預言者的生活を営まないメシアの方には行こうとしないので、自分の名で本日の福音にあるような質問を主イエスにさせて、直接に主の御人柄とその活動に触れさせようとしたのだ、というのがカトリック教会の伝統的解釈であります。

   ヨハネから派遣された弟子たちが、イザヤ書61章にメシアの徴として予告されていた通りの活動をしておられた主のご活動を見聞きして、そのことをヨハネに伝えた後、どのような道を歩んだかについては福音書に述べられていません。しかし、ヨハネが殉教した後にその遺骸を引き取って葬ったのも、そのことを主イエスに伝えたのも、同じヨハネの弟子たちであったと思われます。本日の福音の後半にあるように、彼らが去った直後に、主が洗礼者ヨハネのことを褒めておられることから察すると、ヨハネはやはり、主のメシア性について疑問を抱いたのではなかったと思われます。

   私たちも聖書を読む時、今の世の人間中心・社会中心の先入観を持ち込まないよう慎重でありましょう。私たちの本当の救いも人生も、死後の霊的な世界にあるのです。主は私たちがあの世で神の御許で永遠に幸せに生きるようにと、神から派遣されたメシアであって、この世の政治社会を改革して神の国とするためにあの世から来られたのではありません。福音をこの世中心の観点から受け止めていますと、洗礼者ヨハネがこの世の支配権を獲得しようとしない主イエスのメシア性について疑問を抱いたのではないか、などという解釈を産み出すに至ります。似たような誤った聖書解釈が、公会議直後頃の西欧の若者たちの間にも一時的に流布したようで、私が1965年にドイツを旅行した時には、年配のカトリック者たちから幾度も「神の国はこの世にではなく、あの世にあるのです」という言葉を聞かされました。察するに、誰かがそのような政治的期待を当時の新聞に書いたのかも知れません。伝統的カトリックの立場からの聖書理解がこれからも世界に定着するよう希望しつつ、主キリストの隠れた来臨と現存に対する私たちの信仰感覚が実践的に磨かれるよう恵みを願いつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。