2010年5月30日日曜日

説教集C年: 2007年6月3日 (日)、三位一体(三ケ日)

2004三位一体(三ケ日)
朗読聖書: Ⅰ. 箴言 8: 22~31. Ⅱ. ローマ 5: 1~5. 
     Ⅲ. ヨハネ福音 16: 12~15.

① 三位一体の玄義は、人間理性にとっては最も解り難い神秘であります。人間の理性はこの世の三次元世界の事象を理解するために創られていますが、その世界を超える存在や現実については推測することはできても、的確に把握する能力には欠けています。例えば私たちは、何かの力・命・心などの外に現れた現象については解明できますが、力そのもの、命そのもの、心そのものについては見ることも感知することもできません。三位一体の神は、人間理性では感知も解明もできない、そういう力・いのち・心などの世界の奥にあって、この世の宇宙万物ばかりでなく、あの世の一切の存在をも根底から支え維持して下さっている、根源的神秘的ないのちであり、力であります。

② そのため、三位一体の祝日は我々人間にとって最もなじみ難い祝日だ、などと言う人もいますが、限りあるこの世の経験に基礎を置く人間理性の理解を中心にして生きるのではなく、葡萄の根であり幹である主キリストと内的に堅く結ばれて、神の働きに生かされて生きる心のセンスを、目覚めさせるよう努めましょう。そして主キリストや聖母マリアのように、神の僕・婢として、神の導きに従って生きるよう心がけましょう。最高のものは全世界・万物を創造なされた神とその働きであって、私たち人間は、本来その神に感謝し、神の導きに従って生きるよう創られている僕・婢のような存在なのですから。私たちがそのように心がけるなら、神の霊はそのように生活する人の心に、その時その時に必要なことは示し、悟らせて下さいます。心に与えられるその導きに従って生活しましょう。私の学生時代に昔のドイツ人宣教師に聞いた話ですが、理知的なヨーロッパの若者たちに三位一体の教義を説明するのは難しくて苦労するが、日本人には、「これは神秘な神の奥義で、我々人間の頭では理解できず説明もできないが、そのままに受け入れ崇めていると、神がその人の心に働いて下さり、だんだんに判らせ納得させて下さいます」というと、ほとんど抵抗せず、素直に喜んでこの教義を受け入れてくれるとのことでした。そこに私たち日本人の宗教心の一つの特徴があるのなら、その長所を生かすよう心がけましょう。私たち日本人には、神を理解しようとするよりも、心で神をひたすら崇め、その導きに素直に従うことによって助けてもらおうとする傾向が、強いのではないでしょうか。

③ 自分の理解を中心とする理知的な立場に立つ人には、本日の福音である主キリストの言葉もどことなく謎めいていて、心にピンと響いて来ないでしょうが、神への従順を中心としている人には、この福音は本当に有り難い啓示だと思います。三位一体の唯一神は、決してお独りだけの孤独な神ではありません。三方(さんかた)の神が、愛の内に相互に堅く結束して一つになっている共同体の神なのです。ですから、御父が創造なされた被造物が罪によって神に背を向け、神から内的に離れてしまっても、御子がその被造物世界の中に受肉して罪を償い、神の命に生かされることによって救われる道を被造物に提供することができたのであり、さらに聖霊が、信仰する人々の中で働き、全ての必要な真理や真実を実践的に悟らせ、必要な援助を惜しみなく与えて、三位一体の果てしなく大きな愛の交流の中に被造物世界を取り入れて、被造物を神の相互愛の交流に参与させ、輝かしいもの、実り豊かなものへと永遠に高めて下さるのです。私たちが自我を無にし、自分の心を空っぽの器にして神に提供するなら、三位一体の神はその心にも御住み下さり、時々は相互愛のお働きを体験させて下さいます。神秘な神の現存や働きに対する信仰は、理知的な頭の知識を増やすことによってではなく、このような体験の蓄積によって深まり強まるものだと思います。

④ 本日の福音には「その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、云々」とありますが、これは聖霊がいつも御父・御子との愛における一体性の内に、被造物の中で働いて下さることを示しています。すなわち聖霊は、御父が御子を通して語られたことを聞いて告げ、御子を通して御父に光栄を帰するのです。自分中心にではなく、いつも相手のために、相手の働きに配慮しながら生きる、神の永遠の奉仕的相互愛をもって被造物世界の救いと高揚に尽くしておられるのです。その聖霊の器・神殿となり、聖霊の働きに導かれ助けられて生きよう、救われようと思うならば、私たちも自分の理解や欲求・計画などを中心にして生きることを捨て、聖霊と同様に、神の奉仕的愛に生かされ、神から出発して神に光栄を帰する生き方に努めなければなりません。全く誰からも注目されない「陰の人」のようであったとしても、構いません。聖霊のように、陰ながらこつこつと多くの人の救いのために祈り働き続けるならば、心の奥底では三位一体の愛の神との一体性が深まり、内的には強く逞しく仕合わせになれます。それが、主によって啓示された新約時代の信仰者の生き方ではないでしょうか。聖母マリアも、この世ではそのような信仰生活を営んでおられたと思います。

⑤ 聖霊の働き方は、私たちを絶えず下から支え伴っていてくれる土に譬えることもできましょう。土は踏まれても怒らず、人から何と言われても、決して腹を立てません。土はまた、汚い水をも拒まず、静かに受け入れ浄化して、奇麗な地下水に変えて行きます。木々も草花も農作物も、このような土とその中の地下水がなければ、育つことができません。私たちも、全てを黙々と受け入れ浄化して、積極的に生かし育てて行く土の心に学びましょう。誰に対しても怒らず、威張らず、あせらず、負けていない土の精神で生きようと努める時、その人の心に三位一体の愛の共同体精神と神の平安が宿り、その人を守り高めて下さいます。そしてその人は、どんな忌まわしい敵をも神において愛することができる程、全ての対立を超越して平穏に生きる内的力強さを身につけるようになります。

⑥ 本日の第二朗読には「このキリストのお陰で」「神の栄光にあずかる希望を誇りにしており」「苦難をも誇りとしています」という、力強い希望と喜びの言葉が読まれますが、聖書学者たちによると、新約聖書の中に23回登場する「誇り」という名詞は、ヤコブ書とヘブライ書にそれぞれ1回使われている以外は全てパウロの書簡に使われており、また39回登場する「誇りとしている」という動詞も、ヤコブ書に2回使われている以外は全てパウロの書簡にだけ使われています。この頻度から察しますと、使徒パウロにとって神・キリストにおける「誇り」は、何か特別な意味を持っていたように思われます。

⑦ このことと関連して考えさせられるのは、聖アウグスティヌスがその著作や説教の中で、50回も多用している ”sursum corda(心をあげよ)”という言葉です。ラテン語ミサの奉納祈願に続く序唱の初めに、司祭は今でも Sursum cordaと唱え、会衆は Habemus ad Dominum (私たちは主に向かって心を上げています)と答えており、英語のミサでもほとんどそのままの直訳で唱えられていますが、これは古代教会以来の古い伝統です。日本語のミサでは、司祭が「心を込めて神を仰ぎ」と唱え、会衆が「賛美と感謝を捧げましょう」と訳し換えられていますが、私はこの箇所で、心をしっかりと主の方に向けるよう心がけています。古代末期の大きな過渡期に生まれ育ち、崩れ行く異教世界の伝統的思想や文化の中で魂の不安を極度に体験していたアウグスティヌスは、キリスト教の神信仰の内に漸く魂の安らぎを見出して改心してからは、内面から瓦解して移り行く目先の社会や文化にではなく、何よりも神の建設的働きに心の眼を向けながら、信徒指導や著作活動に励んでいたようですが、神の働きに心の眼を向ける行為をSursum corda と呼んで、この言葉を事ある毎に頻発していたのではないでしょうか。使徒パウロが「誇りにしている」や「誇り」という言葉を頻発していたのも同様に、神の働きやキリストの救う力にしっかりと根ざし支えられて生きることを何よりも重視して、日々幾度もそのことに思いを馳せていたからなのではないでしょうか。

⑧ 未曾有の過渡期である現代に生きる私たちも、刻々と移り行く現代世界の激動には少し距離を置いて、何よりも三位一体の神の共同体的愛の働きに日々幾度も心の眼を向け、その働きに根ざして生きるように心がけましょう。そして大きな希望と誇りのうちに、三位一体の愛の交わりに参与して生きるという、キリストによって救われた全ての人が頂いている使命の達成に励みましょう。

2010年5月23日日曜日

説教集C年: 2007年5月27日 (日)、聖霊降臨(三ケ日)

2004聖霊降臨(三ケ日)
朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2:1~11. Ⅱ. ローマ 8:8~17.
     Ⅲ. ヨハネ福音 14: 15~16, 23b~26.


① 本日の第一朗読は、過越祭から五十日目の五旬祭に弟子たちの体験した劇的聖霊降臨の出来事を伝えていますが、本日の朗読箇所に続く使徒言行録2章の後半を読んでみますと、聖霊に満たされた無学な使徒たちの説教に心を動かされて、「その日」受洗した人たちは「三千人ほど」と記されています。この少し後にペトロとヨハネが、神殿で生れながら足の不自由な人を奇跡的に癒して説教し、サドカイ派の人たちに最初に捕らえられた頃の入信者は、使徒言行録4章の始めに、「男の数が五千人ほど」と書かれていますから、このわずかな日時の期間に挙げた大きな実績から考えても、この出来事は真に大きな奇跡であり、教会がこの日を新約時代の神の民「教会」の誕生日としてお祝いするのも、当然だと思います。

② ところで、使徒言行録6章の7には、「こうして神の言葉はますます広まって、弟子の数はエルサレムで非常に増えて行き、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。ここで「祭司」とあるのは、サドカイ派の祭司貴族のことではなく、神殿の大きな収入をほとんど独占的に管理していたサドカイ派からは、抑圧されていた貧しい下級祭司たちを指していると思います。エルサレムではなくユダヤの山地に住んでいた洗礼者ヨハネの父ザカリアも、そういう下級祭司の一人でしたが、彼らの間では預言者的精神が重んじられていたようで、この下級祭司出身者らが中心になって、クムランなどの土砂漠で集団生活を営むエッセネ派が生まれたようです。第二次世界大戦の直後頃に『キリストと時』という名著を出版して有名になった、プロテスタントの聖書学者で古代教会史家のOscar Cullmannは、当時のユダヤ歴史家Flavius Josephusがユダヤで4千人ほどと書いているこのエッセネ派が、聖霊降臨直後頃にほとんど皆キリスト教信仰に転向したと考えています。としますと、初期のキリスト者たちはエルサレムで受洗しても、そのほとんどはエルサレムに住んではいなかったように思われます。またエジプトにも、エッセネ派と関係深いユダヤ人たちのグループがありましたので、キリスト教信仰が比較的早くエジプトに広まったこともよくわかります。

③ 本日の福音は、最後の晩餐の席上での話からのものですが、主はこの話の前に、「私の行く所にあなたたちは来ることができない」、「今はついて来ることができないが、後でついて来るであろう」、「心を騒がせてはならない」、「私は行って場所を準備したら、また戻って来てあなたたちを私の所に連れて行こう」等々の話をなさったので、主と別れなければならないと知った弟子たちの心は、次第に埋め難い空虚さと悲しみの気分に沈んでいったことと思われます。主はその弟子たちを慰め励ますために、新しい愛の掟を与えたばかりでなく、私の掟を守るならば、父に願って「いつまでもあなたたちと一緒にいてくれる助け主」真理の霊を遣わして頂くと約束したり、「私はあなたたちを孤児にはしておかない。云々」などと話したりしておられます。本日の短い福音も、その話の続きであります。

④ しかし、主のそれらのお言葉を聞いても、弟子たちの心は、まだ別離の悲しみを痛感し沈んでいたのだと思われます。主と共に生活することで、それまでの伝統的文化も宗教生活も根底から崩壊しつつある不安な過渡期の社会にあっても、ようやく希望と喜びのうちに生きる道をつかみかけていた弟子たちにとっては、主との死別は自分の人生の意味を見失うことを意味していたでしょうから。主からいろいろと慰めの言葉を聞かされても、彼らの心がなかなかその深刻な不安と悲しみから立ち直れずにいたのは、想像に難くありません。

⑤ そこで主はさらに、本日の福音にあるように、「私を愛する人は私の言葉を守り、私の父はその人を愛される」と、天の御父・神がもっと直接に弟子たちを愛して下さることを宣言し、「父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」、「あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである」などと、たとえ人間イエスの体は死んでも、また目には見えなくても内的には天の御父も主イエスも、主のみ言葉を保持して生きる弟子たちの中に入って、一緒に住むようになるのであることを説明します。天の御父・神は、どこか遠くにおられるのではなく、すでに主において彼らの身近に現存し、彼らに語っておられるのであることも説明しています。

⑥ それだけではなく、主はその上に、天の御父が主イエスの御名によって別の弁護者・聖霊を弟子たちにお遣わしになり、その聖霊が主が弟子たちに話したことをことごとく思い起させ、全てのことを教えて下さることも、約束なさいます。ご自身の受難死を目前にしておられたのに、人間としてのご自身の苦悩は後回しにして、ひたすら弟子たちの悲しみ、苦しみのことに配慮して下さる主の愛には、感動を覚えます。主は現代の私たちに対しても、同じ至れり尽くせりの配慮で、陰ながら世話して下さっているのではないでしょうか。私たち各人の心をも、聖霊の賜物で支え、慰め、強めて下さっていると信じましょう。そして主の深い愛の思いやりに感謝しながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

⑦ 話は違いますが、マタイ福音書3章とルカ福音書3章によると、洗礼者ヨハネは「私は水によって悔い改めの洗礼を授けるが、私の後においでになる方は」「聖霊と火によってあなた方に洗礼をお授けになる」と語っています。洗礼者ヨハネが予見して語った「聖霊と火による洗礼」が、本日私たちの記念している聖霊降臨なのではないでしょうか。なお、ヨハネ福音書3章後半と4章初めの記事によると、洗礼者ヨハネがヨルダン川西のサリム辺りで洗礼を授けていた頃、主キリストもユダヤで弟子たちと一緒に洗礼者ヨハネよりも多くの人に水の洗礼を授けていたそうですから、弟子たちは聖霊と火による洗礼以前にも、主キリストによる水の洗礼も受けていたと思われます。主が授けて下さった水の洗礼によって、魂の奥底が一旦古いこの世的自我中心の命に死んで新しい神の命に生き始め、その命がゆっくりとある程度成長して来た後に、今度は聖霊と火による洗礼を受けるに到ったのではないでしょうか。この聖霊と火による洗礼は、まだ彼らの心に残っていた古いこの世的自我中心の生き方を大きく弱体化し、彼らを、キリストを頭とする、キリストのあの世的一つ体の細胞のようにして統合し、同じ一つのあの世的命、すなわちキリストの命に生かされて生きる存在に高めてくれたのではないでしょうか。

⑧ 新約時代の神の民・教会は、こうして生まれたのです。ですから本日は、新しいキリストの体、キリストの教会の誕生日と言ってもよいと思います。そのキリストの体に属する細胞の間を還流する血液のようにして、各細胞の老廃物を除去し、各細胞を内面から刷新し力づけてくれるのが、神の聖霊であると考えてよいと思います。現代の私たちも、使徒時代以来のこの聖霊の働きを血脈(けちみゃく)のようにして連綿として受け継いでいると信じます。私たちの魂の中での聖霊のこの働きを、私たちの実存として生きる決意を新たにしながら、本日の感謝の祭儀を献げましょう。

2010年5月16日日曜日

説教集C年: 2007年5月20日 (日)、主の昇天(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
     Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.


① 今朝は主の御昇天を偲び記念するにふさわしい、素晴らしい五月晴れに恵まれています。ベランダに出て外の空気を吸っていましたら、風も美しく薫っているように覚えました。そして神も、天上から私たちを祝福しておられると思いました。本日の福音は、ルカがテオフィロ閣下に宛てて書いたルカ福音書の最後の部分ですが、本日の第一朗読は、ルカが同じテオフィロ閣下に宛てて書いた使徒言行録の冒頭部分です。ルカはこの二つの著書を主の昇天という出来事の記事で結んでいますが、主の昇天があの世とこの世とを結ぶ出来事、天にお昇りになった主とこの世の教会とを結ぶ画期的出来事であることを意識して、意図的にそのように両書を構成したのではないでしょうか。

② なお、使徒言行録が紀元61年頃にパウロがローマに到着し、皇帝による裁きを待つ身ながらも獄中にではなく、ある程度の自由が許され、自費で借りた宿舎に滞在して、訪れる人々に教えを説いたりしながら2年間ほど留まっていた所までで終わっており、使徒言行録の最後を飾るにふさわしい、67年のペトロとパウロの殉教について述べていないことから察しますと、使徒言行録は60年代の前半に執筆されたものだと思われます。したがって、それ以前に執筆されたルカ福音書は、50年代後半頃の作品だと思われるというのが、教会史学者たちの伝統的見解であります。ローマのグレゴリアナ大学でその学者たちに学んだ私は、今も同じ見解を大切にしています。戦後次々と矢継ぎ早に新しい見解を発表した一部の聖書学者たちは、ルカ福音書の21章に述べられているエルサレム滅亡についての主の預言が、70年に全くその描写通りに実現したことから、ルカ福音書が70年代に入ってから書かれたなどという新しい見解を広めましたが、それを学説とするためには、主が生前に40年ほど後のエルサレム滅亡を細かく正確に予言することはできなかったということを証明しなければならないと思います。そんな証明はないのですから、私は初めから聖書学者たちのそのような新しい見解には警戒し、従いませんでした。

③ 本日の福音によると、主は昇天する前に、まず弟子たちの担うべき使命について、「あなた方はこれらのことの証し人である」と語っておられます。何を証しするのでしょうか。それについて主は、メシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活することと、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられることとの二つを挙げておられます。メシアの受難と復活については弟子たちが目撃証人ですから分かりますが、罪の赦しを得させる悔い改めをメシアの名によって宣べ伝える主体は一体誰なのでしょうか。聖書学者の雨宮慧神父によると、それはそれについて証しするよう求められている弟子たちではないでしょうから、第二イザヤの預言などを参照すると、神ご自身が悔い改めを宣べ伝える主体になっておられるのではないかとのことです。現代には、神のために自分が主導権をとって宣教するのだ、と考えているような宣教師が少なくないようですが、聖書によると神が宣教の主であり、神が主導権をとり、人間を生きる器・道具として宣教なさるというのが、神の望んでおられる宣教であると思われます。私たち人間は主イエスや聖母マリアのように、神の僕・婢としてひたすら神の導きや働きに従って生きようとしてこそ、神のなさる宣教を最もよく推進し、豊かな実を結ばせるに到るのではないでしょうか。主の弟子たちも、そのように努めることによって実践的に学び知った神の働き、神の宣教について証しする使命を、ご昇天直前の主から頂いたのだと思われます。

④ 主は続いて、弟子たちがその使命を果たすための神の力、聖霊を父の許から送ると約束し、天からのその力に覆われるまでは、都エルサレムに留まっているようにと、お命じになりました。弟子たちが自分の力によって宣教や証しの使命を果たそうとはせずに、主キリストの霊、すなわち神の聖霊に満たされ、動かされてその使命を果たすようにと、望んでおられるからだと思います。主が最後の晩餐の席上で話されたように、葡萄の弦のような私たちは、木であり根である主に外的に繋がっているだけではなく、内的にも主から送り込まれる神の力、神の養分によって生かされているのでなければ、神のお望みになる実を結ぶことができず、形だけの枯れ枝のような存在に化してしまうと思います。主は今も、私たちがそのような存在にならないよう、警告しておられるのではないでしょうか。

⑤ 主はこのように話された後に、エルサレムの東方、べタニアに近い山の上で、手を上げて弟子たちを祝福しながら、天にお昇りになったのです。もはや死ぬことのない永遠の命の輝きと喜びでいっぱいの主のお姿は、集会祈願にもありますように、私たちの未来の姿を示していると思います。将来は私たちも皆、神の超自然の恵みによってそのような輝かしい姿に復活し、感謝と喜びの内に主と共に永遠に生きるのだと思います。本日その喜ばしい出来事を追想しながらミサ聖祭を献げて祈る私たちをも、主は手を上げて祝福しておられることでしょう。しかし、その主はこの世の命に蘇られたのではなく、この世の命には死んで、いわば死後の世界にある死の門を打ち砕いて、あの世の栄光への道を切り開き、死ぬことのないあの世の永遠の命に復活なされたのであることを、心に銘記していましょう。私たちも皆、一旦この世の体に死んであの世に移り、あの世の体に復活して、主が開いて下さった道を通って天の栄光へと昇って行くのだと思います。神が私たちのために備えて下さったこの輝かしい解放と救いの恵みの故に、神に深く感謝致しましょう。
 
⑥ 本日の第二朗読には、「イエスは垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って新しい生きた道を私たちのために開いて下さったのです」という言葉が読まれます。主イエスの肉、すなわち死んであの世の命に復活なされたそのお体以外に、あの世の栄光に入る通路はなく、あの世の恵みを受ける道もないことを教えている言葉だと思います。しかし、ヘブライ書がそのお体を、ちょうど神殿の垂れ幕ででもあるかのように「垂れ幕」と表現していることは、注目に値します。ご聖体の秘跡という大きな深い神秘を堅く信じ、日々その秘跡の力により頼んで生活している私たちは、聖体拝領の時に各人の口にお受けする主のお体を薄い内的垂れ幕のようにして、全能の神ご自身を直(じか)に心の内にお迎えするのではないでしょうか。

⑦ 真に驚嘆するほど畏れ多い話ですが、主イエスご自身も最後の晩餐の時に、「私を愛する人は私の言葉を守るであろう。そして私の父はその人を愛され、私たちはその人の所に行って、そこに住処を設ける」とおっしゃっておられます。主のこのお言葉を心に銘記し、偉大な全能の神が畏れ多くも私たち各人の心の中に主キリストとご一緒に臨在し、そこに聖なる住処を設けておられること、また主のご受難とご復活により、あの世とこの世とがそれほど近く密接に結ばれるようになったことを堅く信じましょう。そしてあの世の神の力によって内面から生かされて生きるよう心がけましょう。

2010年5月9日日曜日

説教集C年: 2007年5月13日 (日)、復活第6主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. 使徒 15: 1~2, 22~29. Ⅱ. 黙示 21: 10~14, 22~23.
     Ⅲ. ヨハネ福音 14: 23~29.

① 復活節第六主日は、カトリック教会で「世界広報の日」とされていますので、本日のミサ聖祭は、世界のマスコミが虚偽や誤報を賢明に回避して、人々に真理と真実をなるべく正しく伝えるように、また特に子供たちの心の教育に有益な情報を流し、少しでも多くの人が不幸な対立の緩和に努めて、平和な世界の建設に努めるように、さらに主キリストの福音が一層多くの人に伝えられるよう、神の照らしと導きの恵みを願い求めて献げたいと思います。ご一緒にお祈りください。

② 本日の第一朗読には、ユダヤから下って来たある人たちが、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と説いたので、パウロとバルナバらとの間で激しい意見の対立と論争が生じた、とあります。本日の朗読箇所には省かれていますが、そう主張したのは、ファリサイ派から改宗して初代教会内に入って来た人たちだったようです。それでこの問題について協議するため、使徒たちと長老たちがエルサレムに集まり、パウロとバルナバを迎えて開催した会議の結論が、第一朗読の後半であります。

③ ファリサイ派からの改宗者たちは、皆真面目に神を信じ、神の国建設のために働こうとしていた熱心な信仰者たちであったと思います。しかし、彼らは自分たちが生まれ育って来た精神文化の枠内でのみ、主キリストの説いた新しい信仰を受け止めていたので、パウロたちと激しく論争するに到ったのだと思います。主が生前に、「ファリサイ派のパン種に警戒せよ」とおっしゃったのも、このことを指していたと思われます。2千年前のこういう問題は、現代の日本の教会とも無関係ではありません。自分たちの生まれ育った日本文化を中心に据えて、その立場から理解し共鳴できる範囲内に限定して、主キリストの説いた神の国を受け入れようと考えている人たちは、今の日本にもいると思われるからです。しかし、神の国、ギリシャ語でバジレイア・トゥ・テウは「神の支配」を意味しており、人間ではなく神が主導権を取って治められる国であります。使徒パウロたちの教えによると、自分と自分中心の精神に死んで、キリストの福音をそのまま素直に受け入れてこそ、神の霊が信ずる各人の心の中で自由に働き、豊かに実を結ばせて下さる、というのが新約時代の信仰生活のようです。主キリストも、「翻って幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」と説いておられます。伝統的日本文化の精髄も、まず神に主導権を譲って謙虚に生きようとする信仰者たちの中でこそ、その本来の輝きを発揮し、豊かな実を結ぶに到るのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読には、天から下って来た聖なる都エルサレムについて、「私は都の中に神殿を見なかった。全能の神・主と小羊とが都の神殿だからである。云々」という言葉が読まれます。これらの言葉も、新しい時代には神が直接その民の中に現存し、全てを照らして下さることを指しており、新約時代の私たちが、全てを神中心に神の光に照らされて企画し、行動すべきことを示唆していると思います。私たちは果たして日々、主イエスのように何よりも天の御父の御旨をたずね求めつつ、その御旨への幼子のような従順を基盤にして生活しているでしょうか。そしてこの世の人間理性主導のファリサイ派のパン種に、十分警戒しているでしょうか。

⑤ 本日の福音は、最後の晩餐の席上での話からの引用ですが、主はこの話の前に、「私の行く所にあなた方は来ることができない」「今はついて来ることができないが、後でついて来るであろう」「心を騒がせてはならない」「私は行って場所を準備したら、また戻って来てあなた方を私の所に連れて行こう」などの話をなさったので、主と別れなければならないと知った弟子たちの心は、次第に埋め難い空虚さと悲しみの気分に沈んでいったことでしょう。主はその弟子たちを慰め励ますために、新しい愛の掟を与えたり、私の掟を守るならば、父に願って「いつまでもあなた方と一緒にいてくれる助け主」真理の霊を遣わして頂くと約束したり、「私はあなた方を孤児にはしておかない。云々」などと話したりしておられます。本日の福音も、その話の続きです。

⑥ その終わりの方に「私を愛しているなら、私が父の許に行くのを喜んでくれるはずだ」というお言葉がありますが、この言葉の裏には「なぜ喜んでくれないのか」という反語の意味も込められていると思います。弟子たちの心は、主との別離の悲しみを痛感していたのではないでしょうか。それまでの伝統的文化や宗教生活が根底から崩壊しつつある不安な過渡期の社会にあっても、主と共に生活することで、ようやく希望と喜びのうちに生きる道をつかみかけていた弟子たちにとっては、主との死別は自分の人生の意味を見失うことを意味していたでしょうから、彼らの心が主の死を恐れ、主からいろいろと慰めの言葉を聞かされても、なかなかその深刻な悲しみから立ち直れずにいたのは、想像に難くありません。

⑦ そこで主はさらに、「私を愛する人は私の言葉を守り、私の父はその人を愛されるであろう」と、天の御父がもっと直接に弟子たちを愛して下さることを宣言し、「父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」「あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである」などと、人間イエスの体は死んでも、内的には天の御父も主イエスも、主のみ言葉を保持して生きる弟子たちの中に入って、一緒に住むようになることを、また天の御父はどこか遠くにおられるのではなく、既に主において彼らの身近に現存し、彼らに語っておられるのであることを説明します。

⑧ それだけではなく、主は、その御父が主イエスの御名によって弟子たちにお遣わしになる弁護者・聖霊が、主が弟子たちに話したことをことごとく思い起させ、全てのことを教えて下さることも約束なさいます。そして最後に、「私は平安をあなた方に残し、私の平安を与える」とおっしゃいましたが、その平安はこの世が与えるような外的共存の平和ではなく、神の愛に根ざしたもっと大きな内的平安であり、弟子たちの心がたとい主の受難死によって一時的に大きく動転しても、やがて心のその激動を内面から抑えて立ち直る力も込めて、主はその平安をお与えになったのではないでしょうか。ご自身の受難死を目前にしておられたのに、人間としてのご自身の苦悩は後回しにして、ひたすら弟子たちの悲しみ、苦しみに配慮して下さる主の愛には感動を覚えます。主は私たちにも、同じ至れり尽くせりの配慮を持って伴い、陰ながら世話して下さっているのではないでしょうか。私たちに対する主のこれほどの愛の思いやりに感謝しながら、マスコミの浄化発展のため、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年5月2日日曜日

説教集C年: 2007年5月6日 (日)、復活第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 14: 21b~27. Ⅱ. 黙示録 21: 1~5a.
     Ⅲ. ヨハネ福音 13: 31~33a, 34~35.


① 先週の日曜日の第一朗読は、使徒パウロとバルナバがピシディア州のアンティオキアで多くの異教徒をキリストの信仰に導いたら、ユダヤ人から迫害されて町から追い出された話でしたが、二人はその後イコニオン、リストラ、デルベの町々でも伝道し、ユダヤ人から迫害されながらも、多くの異教徒を信仰に導きました。本日の第一朗読は、そのデルベからシリアのアンティオキアに戻る第一回伝道旅行の帰路の話であります。二人は少し前に伝道した町々の信徒団を訪ね、教会ごとに長老たちを任命して、各信徒団を指導しつつ、ミサ聖祭を献げる権能を授与したようです。

② その時パウロが、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信徒団を励ましたのは、この地方には主イエスを異端者として、信仰を妨害しようとしているユダヤ人たちが少なくなかったからだと思います。パウロもリストラ滞在中に、他地方から来たユダヤ人たちに石打ちにされたことがあります。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出して行ってしまいましたが、信徒たちが来てパウロの周りを取り囲んでいると、立ち上がって一緒に町に入って行った、と述べられています。同じリストラで、生まれつき足が悪くて歩いたことのなかった男の人を、パウロがひと言で癒す奇跡をしていますから、石打ちの後に立ち直ったのも奇跡であったかも知れません。豊かさと便利さに溢れている現代の日本で生活していますと、このような迫害を受けることはまずないでしょうが、しかし、「神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という使徒の言葉は、現代の私たちにも告げられている神よりの言葉だと信じます。天国の栄光への道は、死の向こう側に主キリストによって開かれた道であり、受難死を遂げて復活の栄光へと進まれた主に、私たちも何らかの形で結ばれ一致しなければ、勝利の栄光に達することはできないからです。

③ 世の終り後のあの世の情景を描いている本日の第二朗読にも、「神は、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」という言葉が読まれます。私たちも主キリストと一致して神から与えられるこの世の苦しみを甘受し、その苦しみによって神と人に対する愛を磨き鍛えてこそ、自我に打ち克ってあの世の栄光に入られた無数の人たちのお仲間に入れてもらえるのではないでしょうか。

④ 本日の短い福音の前半には、ギリシャ語のエドクソー(栄光を与える)という動詞が原文では5回も登場しています。始めの3回は過去の事柄が受動形で、続く2回は未来の事柄が能動形で書かれていますが、日本語では「栄光を受けた」、「栄光をお与えになる」などと訳されており、5回目の時には「栄光を」という言葉が省かれています。ここで「栄光を受ける」とか「栄光を与える」という言葉は、具体的に何を指しているのかと考えますと、主はヨハネ12: 23にもこの同じ動詞を使って「人の子が栄光を受ける時が来た」と話された後、すぐに「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、云々」とご自身の受難死について語っておられます。そして主がその受難死を、「私の時」として迎える決意をお固めになると、同じ動詞を使って天からの力強い声が聞こえ、それは日本語では「私は栄光を現す」などと訳されています。従ってこの動詞は、主の受難死とそれに続く栄光の内での復活・昇天などを併せて示していると思われます。

⑤ 本日の福音に戻りますと、ユダがその裏切りの行為を実行しようとして晩餐の広間から出て行くとすぐ、主は「今や、人の子は栄光を受けた。云々」と話し始められたのですから、ここでも「栄光を受ける」「栄光を与える」の言葉は、主の受難死とそれに続く復活・昇天などを示していると言ってよいでしょう。主は最後の晩餐の締めくくりにも、この言葉を使って天の御父に荘厳な大祭司的祈りを捧げておられますが、その祈りを吟味してみますと、天の神が主にお与えになる栄光は、決して主お一人にだけお与えになる個人的閉鎖的なものではなく、主を信ずる全ての人にも救いと栄光をもたらす開かれた恵みであると思われます。したがって、主を信ずる私たちも皆、遅かれ早かれ主の御後に従って同じ道を歩み、主の復活の命に生かされ助けられて、この世の苦しみを甘受し、この世の命を神に献げてあの世の栄光へと移るべきだと思います。しかも、単に自分一人の幸せのためにではなく、助けを必要としている多くの人々の救いのために、主と一致して主の司祭的精神で甘受し献げるようにというのが、最後の晩餐の席上での主のお言葉やお祈りの意味であり、私たちに対する主の切なる願いであると思います。

⑥ 本日の福音の後半は、既に始まったご自身の受難の時を迎えて、弟子たちに対する、ひいては主を信じて御後に従おうとしている私たちに対する、別離のお言葉であると存じます。「子たちよ」という、格別の愛のこもった呼びかけの後、主は「あなた方に新しい掟を与える。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃいましたが、これは実際新しい愛の掟だと思います。旧約聖書にも、「心をこめ、魂をこめ、力を尽くしてあなたの神を愛せよ」という掟や、「己のように、隣人を愛せよ」という愛の掟はありました。この二つの愛の掟を、第一の掟、第二の掟と優先順位をつけて最も大きな掟として教えられた所に、主キリストの教えの新しさはありますが、この愛の掟それ自体は古い時代から強調されて来た、いわば「古い掟」です。しかし、弟子たちの足を洗うなどの画期的な模範をお示しになったばかりでなく、これから弟子たちの救いのためにも全人類の救済のためにも、ご自身の命を全く献げて恐ろしい受難死を引き受けようとしておられた主はここで、「私があなた方を愛したように」という新しい言葉を添えて、互いに愛し合うことをお命じになりました。主の数々の模範によって裏付けられたこの命令は、神への徹底的愛と従順に根ざした相互愛を意味していると思いますが、それはもう私たちが自力で遵守しようと努めるべき掟と呼ぶよりは、主の生きている模範を見つめつつ、主の霊に生かされ導かれて生きるべき、新しい生き方への招きと言ってよいと思います。私たちは、自力に頼っていてはいつまでもそのような生き方をなすことができず、ただ主の御命に生かされる器のようになり、主に生きて頂くことによってのみ守ることのできる、全く新しい掟なのですから。

⑦ 受難死によって私たち全人類を罪から償い、あの世の永遠の霊的命に復活なされた神の子キリストの愛は、罪から浄化され救い出された私たちの存在の根拠であり、今の私たちの存在を基礎付けている実存であります。主のこのような計り知れない大きな愛とその内的支えに感謝しながら、私たちも主が愛して下さったように捨て身になって相互に愛し合うように努めましょう。私たちのこの純真な努力を妨げるものは山程あるかも知れませんが、負けてはなりません。十字架を運ばれた時の主のように、幾度倒れても新たに立ち上がって主と共に歩み続けましょう。誰方の句か知りませんが、「鯉のぼり泳ぐときには向かい風」という句を見たことがあります。ある程度苦しい向かい風が強く吹く時にこそ、鯉のぼりは青空高く颯爽と美しく泳ぐのではないでしょうか。私たちも精神的内的には、そのような若さと美しさをいつまでも失わないよう心がけましょう。逆風が自分の体を通り抜けることのないような所でのみ生活していようと努め、風を避けていると、だらんと垂れ下がった鯉のぼりのような、喜びと美しさに欠ける見苦しい信仰生活、修道生活になる恐れがあります。気をつけましょう。