2010年5月2日日曜日

説教集C年: 2007年5月6日 (日)、復活第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 14: 21b~27. Ⅱ. 黙示録 21: 1~5a.
     Ⅲ. ヨハネ福音 13: 31~33a, 34~35.


① 先週の日曜日の第一朗読は、使徒パウロとバルナバがピシディア州のアンティオキアで多くの異教徒をキリストの信仰に導いたら、ユダヤ人から迫害されて町から追い出された話でしたが、二人はその後イコニオン、リストラ、デルベの町々でも伝道し、ユダヤ人から迫害されながらも、多くの異教徒を信仰に導きました。本日の第一朗読は、そのデルベからシリアのアンティオキアに戻る第一回伝道旅行の帰路の話であります。二人は少し前に伝道した町々の信徒団を訪ね、教会ごとに長老たちを任命して、各信徒団を指導しつつ、ミサ聖祭を献げる権能を授与したようです。

② その時パウロが、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信徒団を励ましたのは、この地方には主イエスを異端者として、信仰を妨害しようとしているユダヤ人たちが少なくなかったからだと思います。パウロもリストラ滞在中に、他地方から来たユダヤ人たちに石打ちにされたことがあります。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出して行ってしまいましたが、信徒たちが来てパウロの周りを取り囲んでいると、立ち上がって一緒に町に入って行った、と述べられています。同じリストラで、生まれつき足が悪くて歩いたことのなかった男の人を、パウロがひと言で癒す奇跡をしていますから、石打ちの後に立ち直ったのも奇跡であったかも知れません。豊かさと便利さに溢れている現代の日本で生活していますと、このような迫害を受けることはまずないでしょうが、しかし、「神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という使徒の言葉は、現代の私たちにも告げられている神よりの言葉だと信じます。天国の栄光への道は、死の向こう側に主キリストによって開かれた道であり、受難死を遂げて復活の栄光へと進まれた主に、私たちも何らかの形で結ばれ一致しなければ、勝利の栄光に達することはできないからです。

③ 世の終り後のあの世の情景を描いている本日の第二朗読にも、「神は、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」という言葉が読まれます。私たちも主キリストと一致して神から与えられるこの世の苦しみを甘受し、その苦しみによって神と人に対する愛を磨き鍛えてこそ、自我に打ち克ってあの世の栄光に入られた無数の人たちのお仲間に入れてもらえるのではないでしょうか。

④ 本日の短い福音の前半には、ギリシャ語のエドクソー(栄光を与える)という動詞が原文では5回も登場しています。始めの3回は過去の事柄が受動形で、続く2回は未来の事柄が能動形で書かれていますが、日本語では「栄光を受けた」、「栄光をお与えになる」などと訳されており、5回目の時には「栄光を」という言葉が省かれています。ここで「栄光を受ける」とか「栄光を与える」という言葉は、具体的に何を指しているのかと考えますと、主はヨハネ12: 23にもこの同じ動詞を使って「人の子が栄光を受ける時が来た」と話された後、すぐに「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、云々」とご自身の受難死について語っておられます。そして主がその受難死を、「私の時」として迎える決意をお固めになると、同じ動詞を使って天からの力強い声が聞こえ、それは日本語では「私は栄光を現す」などと訳されています。従ってこの動詞は、主の受難死とそれに続く栄光の内での復活・昇天などを併せて示していると思われます。

⑤ 本日の福音に戻りますと、ユダがその裏切りの行為を実行しようとして晩餐の広間から出て行くとすぐ、主は「今や、人の子は栄光を受けた。云々」と話し始められたのですから、ここでも「栄光を受ける」「栄光を与える」の言葉は、主の受難死とそれに続く復活・昇天などを示していると言ってよいでしょう。主は最後の晩餐の締めくくりにも、この言葉を使って天の御父に荘厳な大祭司的祈りを捧げておられますが、その祈りを吟味してみますと、天の神が主にお与えになる栄光は、決して主お一人にだけお与えになる個人的閉鎖的なものではなく、主を信ずる全ての人にも救いと栄光をもたらす開かれた恵みであると思われます。したがって、主を信ずる私たちも皆、遅かれ早かれ主の御後に従って同じ道を歩み、主の復活の命に生かされ助けられて、この世の苦しみを甘受し、この世の命を神に献げてあの世の栄光へと移るべきだと思います。しかも、単に自分一人の幸せのためにではなく、助けを必要としている多くの人々の救いのために、主と一致して主の司祭的精神で甘受し献げるようにというのが、最後の晩餐の席上での主のお言葉やお祈りの意味であり、私たちに対する主の切なる願いであると思います。

⑥ 本日の福音の後半は、既に始まったご自身の受難の時を迎えて、弟子たちに対する、ひいては主を信じて御後に従おうとしている私たちに対する、別離のお言葉であると存じます。「子たちよ」という、格別の愛のこもった呼びかけの後、主は「あなた方に新しい掟を与える。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃいましたが、これは実際新しい愛の掟だと思います。旧約聖書にも、「心をこめ、魂をこめ、力を尽くしてあなたの神を愛せよ」という掟や、「己のように、隣人を愛せよ」という愛の掟はありました。この二つの愛の掟を、第一の掟、第二の掟と優先順位をつけて最も大きな掟として教えられた所に、主キリストの教えの新しさはありますが、この愛の掟それ自体は古い時代から強調されて来た、いわば「古い掟」です。しかし、弟子たちの足を洗うなどの画期的な模範をお示しになったばかりでなく、これから弟子たちの救いのためにも全人類の救済のためにも、ご自身の命を全く献げて恐ろしい受難死を引き受けようとしておられた主はここで、「私があなた方を愛したように」という新しい言葉を添えて、互いに愛し合うことをお命じになりました。主の数々の模範によって裏付けられたこの命令は、神への徹底的愛と従順に根ざした相互愛を意味していると思いますが、それはもう私たちが自力で遵守しようと努めるべき掟と呼ぶよりは、主の生きている模範を見つめつつ、主の霊に生かされ導かれて生きるべき、新しい生き方への招きと言ってよいと思います。私たちは、自力に頼っていてはいつまでもそのような生き方をなすことができず、ただ主の御命に生かされる器のようになり、主に生きて頂くことによってのみ守ることのできる、全く新しい掟なのですから。

⑦ 受難死によって私たち全人類を罪から償い、あの世の永遠の霊的命に復活なされた神の子キリストの愛は、罪から浄化され救い出された私たちの存在の根拠であり、今の私たちの存在を基礎付けている実存であります。主のこのような計り知れない大きな愛とその内的支えに感謝しながら、私たちも主が愛して下さったように捨て身になって相互に愛し合うように努めましょう。私たちのこの純真な努力を妨げるものは山程あるかも知れませんが、負けてはなりません。十字架を運ばれた時の主のように、幾度倒れても新たに立ち上がって主と共に歩み続けましょう。誰方の句か知りませんが、「鯉のぼり泳ぐときには向かい風」という句を見たことがあります。ある程度苦しい向かい風が強く吹く時にこそ、鯉のぼりは青空高く颯爽と美しく泳ぐのではないでしょうか。私たちも精神的内的には、そのような若さと美しさをいつまでも失わないよう心がけましょう。逆風が自分の体を通り抜けることのないような所でのみ生活していようと努め、風を避けていると、だらんと垂れ下がった鯉のぼりのような、喜びと美しさに欠ける見苦しい信仰生活、修道生活になる恐れがあります。気をつけましょう。