2010年5月16日日曜日

説教集C年: 2007年5月20日 (日)、主の昇天(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
     Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.


① 今朝は主の御昇天を偲び記念するにふさわしい、素晴らしい五月晴れに恵まれています。ベランダに出て外の空気を吸っていましたら、風も美しく薫っているように覚えました。そして神も、天上から私たちを祝福しておられると思いました。本日の福音は、ルカがテオフィロ閣下に宛てて書いたルカ福音書の最後の部分ですが、本日の第一朗読は、ルカが同じテオフィロ閣下に宛てて書いた使徒言行録の冒頭部分です。ルカはこの二つの著書を主の昇天という出来事の記事で結んでいますが、主の昇天があの世とこの世とを結ぶ出来事、天にお昇りになった主とこの世の教会とを結ぶ画期的出来事であることを意識して、意図的にそのように両書を構成したのではないでしょうか。

② なお、使徒言行録が紀元61年頃にパウロがローマに到着し、皇帝による裁きを待つ身ながらも獄中にではなく、ある程度の自由が許され、自費で借りた宿舎に滞在して、訪れる人々に教えを説いたりしながら2年間ほど留まっていた所までで終わっており、使徒言行録の最後を飾るにふさわしい、67年のペトロとパウロの殉教について述べていないことから察しますと、使徒言行録は60年代の前半に執筆されたものだと思われます。したがって、それ以前に執筆されたルカ福音書は、50年代後半頃の作品だと思われるというのが、教会史学者たちの伝統的見解であります。ローマのグレゴリアナ大学でその学者たちに学んだ私は、今も同じ見解を大切にしています。戦後次々と矢継ぎ早に新しい見解を発表した一部の聖書学者たちは、ルカ福音書の21章に述べられているエルサレム滅亡についての主の預言が、70年に全くその描写通りに実現したことから、ルカ福音書が70年代に入ってから書かれたなどという新しい見解を広めましたが、それを学説とするためには、主が生前に40年ほど後のエルサレム滅亡を細かく正確に予言することはできなかったということを証明しなければならないと思います。そんな証明はないのですから、私は初めから聖書学者たちのそのような新しい見解には警戒し、従いませんでした。

③ 本日の福音によると、主は昇天する前に、まず弟子たちの担うべき使命について、「あなた方はこれらのことの証し人である」と語っておられます。何を証しするのでしょうか。それについて主は、メシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活することと、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられることとの二つを挙げておられます。メシアの受難と復活については弟子たちが目撃証人ですから分かりますが、罪の赦しを得させる悔い改めをメシアの名によって宣べ伝える主体は一体誰なのでしょうか。聖書学者の雨宮慧神父によると、それはそれについて証しするよう求められている弟子たちではないでしょうから、第二イザヤの預言などを参照すると、神ご自身が悔い改めを宣べ伝える主体になっておられるのではないかとのことです。現代には、神のために自分が主導権をとって宣教するのだ、と考えているような宣教師が少なくないようですが、聖書によると神が宣教の主であり、神が主導権をとり、人間を生きる器・道具として宣教なさるというのが、神の望んでおられる宣教であると思われます。私たち人間は主イエスや聖母マリアのように、神の僕・婢としてひたすら神の導きや働きに従って生きようとしてこそ、神のなさる宣教を最もよく推進し、豊かな実を結ばせるに到るのではないでしょうか。主の弟子たちも、そのように努めることによって実践的に学び知った神の働き、神の宣教について証しする使命を、ご昇天直前の主から頂いたのだと思われます。

④ 主は続いて、弟子たちがその使命を果たすための神の力、聖霊を父の許から送ると約束し、天からのその力に覆われるまでは、都エルサレムに留まっているようにと、お命じになりました。弟子たちが自分の力によって宣教や証しの使命を果たそうとはせずに、主キリストの霊、すなわち神の聖霊に満たされ、動かされてその使命を果たすようにと、望んでおられるからだと思います。主が最後の晩餐の席上で話されたように、葡萄の弦のような私たちは、木であり根である主に外的に繋がっているだけではなく、内的にも主から送り込まれる神の力、神の養分によって生かされているのでなければ、神のお望みになる実を結ぶことができず、形だけの枯れ枝のような存在に化してしまうと思います。主は今も、私たちがそのような存在にならないよう、警告しておられるのではないでしょうか。

⑤ 主はこのように話された後に、エルサレムの東方、べタニアに近い山の上で、手を上げて弟子たちを祝福しながら、天にお昇りになったのです。もはや死ぬことのない永遠の命の輝きと喜びでいっぱいの主のお姿は、集会祈願にもありますように、私たちの未来の姿を示していると思います。将来は私たちも皆、神の超自然の恵みによってそのような輝かしい姿に復活し、感謝と喜びの内に主と共に永遠に生きるのだと思います。本日その喜ばしい出来事を追想しながらミサ聖祭を献げて祈る私たちをも、主は手を上げて祝福しておられることでしょう。しかし、その主はこの世の命に蘇られたのではなく、この世の命には死んで、いわば死後の世界にある死の門を打ち砕いて、あの世の栄光への道を切り開き、死ぬことのないあの世の永遠の命に復活なされたのであることを、心に銘記していましょう。私たちも皆、一旦この世の体に死んであの世に移り、あの世の体に復活して、主が開いて下さった道を通って天の栄光へと昇って行くのだと思います。神が私たちのために備えて下さったこの輝かしい解放と救いの恵みの故に、神に深く感謝致しましょう。
 
⑥ 本日の第二朗読には、「イエスは垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って新しい生きた道を私たちのために開いて下さったのです」という言葉が読まれます。主イエスの肉、すなわち死んであの世の命に復活なされたそのお体以外に、あの世の栄光に入る通路はなく、あの世の恵みを受ける道もないことを教えている言葉だと思います。しかし、ヘブライ書がそのお体を、ちょうど神殿の垂れ幕ででもあるかのように「垂れ幕」と表現していることは、注目に値します。ご聖体の秘跡という大きな深い神秘を堅く信じ、日々その秘跡の力により頼んで生活している私たちは、聖体拝領の時に各人の口にお受けする主のお体を薄い内的垂れ幕のようにして、全能の神ご自身を直(じか)に心の内にお迎えするのではないでしょうか。

⑦ 真に驚嘆するほど畏れ多い話ですが、主イエスご自身も最後の晩餐の時に、「私を愛する人は私の言葉を守るであろう。そして私の父はその人を愛され、私たちはその人の所に行って、そこに住処を設ける」とおっしゃっておられます。主のこのお言葉を心に銘記し、偉大な全能の神が畏れ多くも私たち各人の心の中に主キリストとご一緒に臨在し、そこに聖なる住処を設けておられること、また主のご受難とご復活により、あの世とこの世とがそれほど近く密接に結ばれるようになったことを堅く信じましょう。そしてあの世の神の力によって内面から生かされて生きるよう心がけましょう。