2013年5月26日日曜日

説教集C年:2010三位一体(三ケ日)

朗読聖書: . 箴言 8: 22~31. 
        Ⅱ. ローマ 5: 1~5.
              Ⅲ. ヨハネ福音 16: 12~15.  

    本日の第一朗読は神の知恵が語る言葉ですが、この知恵は何方を指しているのでしょうか。神の創造の御業に先だってあり、いつもその創造の御業に伴っておられることから察しますと、神の御独り子を指していると申してよいと思います。あるいは神の聖霊を指している、と考えてもよいかも知れません。この箴言の言葉は詩的で、主なる神はまるで遊んでいる子供のように、全く自由に次々と天地万物を創造なされたように描かれています。神の知恵は、主なる神のこの御業についての話の最後に、「私は御許にあって巧みな者となり、日々主を楽しませる者となって絶えず主の御前で楽を奏し、主が創られたこの地上の人々と共に楽を奏して、人の子らと共に楽しむ」と語っています。「日々絶えず主の御前で楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」というこの生き方は、その神に似せて創られた私たちも心掛けるべき、人間本来の生き方なのではないでしょうか。私たちも、神が創造なされたこの素晴らしい大自然界を眺めて神に讃美と感謝の歌を捧げつつ、楽しんで生活しましょう。

    今年は奈良の都が造られ、首都として発足した1300周年なので、その当時の平城京跡地に第一次大極殿とその前庭や、朱雀門、東院庭園等々が遠い昔のままに再建されて、訪れる多くの人に大きな感動を与えているようです。その平城京を建設した万葉時代の人たちの心の表現である和歌を調べて見ますと、当時の日本人は数々の人生苦を耐え忍びながらも、神から与えられた大和の美しい大自然に学び、大きな希望をもって建設的に生きていたように思います。先日もここで紹介しましたが、「御民われ生けるしるしあり 天地の栄ゆる時に逢えらく思えば」という歌もあります。小さな自分個人の苦楽よりも、神がお創りになったこの美しい天地の発展、その中での日本国の発展に心の眼を向けて喜び祝いつつ、その発展のために自分の人生を捧げようとしていた人たちが多かったのではないでしょうか。この大宇宙を創造なされた三位一体の神も、そのような感謝と喜びに溢れている若々しい社会を、また生まれて間もない日本の国家を、喜びの御眼で眺めておられたと思われます。

    それに比べると、現代日本の社会では人々が高度に発達した科学文明のお蔭で、遥かに豊かにまた便利に生活していますが、そこでは驚くほど多くの人の心が孤独に苦しんでいます。毎日同じ家に住む家族であっても、相互に殆ど会話せず、各人ばらばらに自分なりの生活を孤独に営んでいるということが少なくないようです。相互に喧嘩もしないが、積極的奉仕的に愛し合うこともない、各人が夫々自分の好みや自分の考えのままに、家庭も社会も日々出会う自然界も、全て自分中心に利用しながら生活しているという、そんな個人主義・自由主義に生きている人たちの家庭や社会を、三位一体の神はどんな御眼で眺めておられることでしょう。わが国では、今の人生に生きがいが感ぜられずに自死する人が、12年前から毎年3万人以上もいます。後に残された家族の悲しみや苦労を考慮すると、これは恐ろしいことです。

    交通事故による死者の数が1万人を超えたことは、1960年から70年代の前半まで十数年続いたことがあり、90年前後にも少しありましたが、しかし最近は、車の数が60年代よりも遥かに増えているのに、交通事故死は大きく減って来ており、昨年は4,900人程になっていますから、この頃はその交通事故死数の6倍以上の人が、毎年自死しているのです。自死を考えている人の数は、その10倍もあると言われています。奈良時代のまだ貧しかった時代には、皆で助け合って希望の内に逞しく生きていた日本人が、豊かさの中でどうしてこれ程惨めな人間に成ってしまったのでしょうか。貧しさの中で皆で助け合って一緒に働く共同体精神が家庭でも社会でも消え失せ、個人主義・自由主義の利己的精神が社会のあらゆる分野に広まり、昔の人たちが大切にしていた共同体精神や心の教育をなし崩しに葬り去ったからだと思います。皆のため全体のために生きようとする、自己犠牲的無料奉仕の愛のない心、自分中心の「古いアダムの精神」がはびこっている心には、ずる賢い悪霊が働きかけて来ます。こうして神にも人にも信用できない絶望的孤独感の内に、自分の命を絶つ人が増えて来ているのではないでしょうか。真に可哀そうだと思います。

    本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちは」「このキリストのお陰で」「神の栄光にあずかる希望を誇りにしており」「苦難をも誇りとしています」という、どんな苦労も苦難も厭わない、力強い希望と喜びの言葉を表明しています。聖書学者たちによると、新約聖書の中に23回登場する「誇り」という名詞は、ヤコブ書とヘブライ書にそれぞれ1回使われている以外は全てパウロの書簡に使われており、新約聖書に39回登場する「誇りとしている」という動詞も、ヤコブ書に2回使われている以外は全てパウロの書簡にだけ使われています。この頻度から察しますと、使徒パウロにとって復活なされた主キリストにおける「誇り」は、何か特別な意味を持っていたように思われます。彼は、神の働きやキリストの救う力にしっかりと根ざして生活し、日に幾度もそのことに思いを馳せながら、日々の労苦や苦難を多くの人の救いのため、主キリストの救いの御業に合わせて、喜んで天の御父に献げていたのではないでしょうか。この実践を数多く度重ねますと、キリストご自身の御命がその心の中に次第に力強く働き始め、やがて彼のいう嬉しい「誇り」の心情も心の中に芽生えて、強く逞しく成長し、輝き始めたのだと思います。

    未曾有の過渡期である現代に生きる私たちも、刻々と移り行く現代世界の流れや、社会から提供される事物には少し距離を置いて、何よりもまず三位一体の神の共同体的愛の働きに日々幾度も心の眼を向け、その働きに根ざして生きるように心がけましょう。そして使徒パウロのように、自分の祈りや生活の全てを、主キリストの救いの御業に合わせて神に献げるよう努めましょう。そうすれば三位一体の神の愛が私たちの心の中でも次第に力強く働き始め、明るい感謝と喜びの心情と共に、神に愛され神に支えられているという誇りの心情も、私たちの心の中に芽生えて輝き始めると信じます。何も言わなくても結構です。日々このような感謝と深い喜びと誇りをもって神と共に生活していますと、神ご自身が私たちの心を介して周辺の人々の心にも働きかけ、救いの恵みを与えて下さいます。諦めと絶望の中に生活しているような現代人には、人間の言葉による宣教よりも、まずは神ご自身が信仰者の生活態度を通してお働き下さる、このような沈黙の宣教、生活態度による宣教が効果的なのではないでしょうか。三位一体の大祝日に当たり、神に深く感謝するだけではなく、私たちの心が主の働く愛の器・道具となる恵みも、願い求めましょう。

2013年5月19日日曜日

説教集C年:2010聖霊降臨(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 2:1~11.  
         Ⅱ. ローマ 8:8~17.

     Ⅲ. ヨハネ福音 14: 15~16, 23b~26. 

    本日の第一朗読は、過越祭から五十日目の五旬祭に弟子たちの体験した聖霊降臨の出来事を伝えていますが、この出来事は、復活なされた主キリストの許に呼び集められた新しい神の民、新約時代の教会の根本的特徴を如実に示していると思います。御昇天直前の主から、聖霊によって洗礼を受けるまでエルサレムを離れないようにと命じられた弟子たちは皆、使徒言行録1: 14, 15によりますと、「婦人たちやイエスの母マリア、及びイエスの兄弟たちと共に、心を合わせてひたすら祈っていた。百二十人程の人たちが一つの群れとなっていた」と描写されています。各人は主のお言葉に従い心を一つにして集まり、一緒に熱心に祈っていたのですが、それだけではまだ百パーセントの新約の教会になっておらず、そこに聖霊が下って各人の心を内部から生かす必要があったのだと思います。それが、聖霊による洗礼というものであると思います。使徒たちが、聖母や婦人たちを中心にして集まっていたことも注目に値します。ペンテコステ前の神の民は、女性が主導権を持つ自由な家庭的教会の性格を示しており、そういう家庭的教会においては、神は女性を介して群れをお導きになることが多かったのかも知れません。

    余談になりますが、私が大学一年の神学生であった時、あるドイツ人神父が聖霊降臨の説教の中で、当時のヨーロッパの神学者のこんな見解を紹介したことがありました。聖霊降臨前のその家庭的教会の段階で、突然ペトロが立って、ユダが主を裏切って使徒職から離れ死んでしまったので、聖書に基づいてそのポストを補充するため、私たちと行動を共にした人たちの中から誰か一人を主の復活の証人にしなければならないと呼びかけたこと、そしてヨゼフとマッテアの二人を選んで、「全ての人の心を知りたもう主よ、この二人の内、あなたはどちらをお選びになったかをお示し下さい。ユダが捨てた使徒職の後を継がせるためです」と祈って、二人に籤を引かせマッテアを使徒にしたのは、神の聖霊の働きに基づかない、人間的聖書解釈からの早まった決定だったのではないか、という見解でした。聖霊降臨前のペトロたちによって使徒に選ばれたマッテアが、その後どれ程福音宣教の実績を挙げたのかは知られていませんが、その神学者によりますと、後に主イエスご自身によって使徒に召されたパウロを、ユダの代わりにその裏切りを償い、他の使徒たち以上に大きな苦しみと働きを神に捧げる使徒となすことを、神はあらかじめ予定しておられたのではないかとのことでした。一つの注目に値する見解だと思います。主は聖霊によって洗礼を受けるのを待ちなさい、と弟子たちに命じられたのですから。現代の私たちも、自分の人間的合理的な見解や聖書解釈を先にして、神や教会のために何か良いことをしようとするような早まった生き方に警戒し、何よりも祈りの内に神の聖霊の導きや働きを待つこと、そして心から聖霊に生かされて生きるよう心掛けましょう。

    過越祭から七週間後のペンテコステは、出エジプト記23: 1634: 22によると、古くはイスラエルの民にとって畑に蒔いた産物の初物を刈り入れる祭り、小麦の初穂の収穫祭とされていました。が、後にはエルサレムで、シナイ山での律法の公布を記念する祝日、すなわちイスラエル民族が神の民となったことの記念日として、過越祭に次ぐ大きな祝日にされていました。それでキリスト時代には、この日にオリエント・地中海世界の各地から多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まり、神への忠誠心を新たに固めていました。天にお昇りになった主は、その十日程後のこのペンテコステの祭日を選んで、天から聖霊を豊かに派遣なされたのだと思います。本日のミサの三つの祈願文はいずれも天の御父に向けられていますから、聖霊降臨の祝日は聖霊だけの祝日と考えてはなりません。天からその聖霊を派遣なされた天の御父と主イエスの祝日でもあると思います。本日の福音に読まれる、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」という主イエスのお言葉も、聖霊降臨の祝日に当たって忘れてならないと思います。聖霊だけではなく、天から聖霊をお遣わしになった天の御父も復活の主ご自身も私たちの心を訪れ、聖霊とご一緒にお住み下さる大祝日のようですから。

    本日の第一朗読によりますと、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し始めた」のです。それはもう、この世の人間が主導権を持つ人間的な活動や出来事ではありません。全世界に散在している全ての人を復活の主キリストの一つ体に呼び集めて、神の愛に生きる全く新しい神の民に創り上げようとする、神の霊による新しい創造であります。この新しい社会的教会においては主イエスから召された使徒たちが立ち上がり、「霊が語らせるままに」語り始めましたが、彼らはガリラヤ人たちの一つの言葉だけで話したのではありません。自然的人間的には彼ら自身もまだ知らない、いろいろな国の言葉で話し始めたのです。そしてオリエント・地中海世界のいろいろな国からエルサレムに来ていた多くの人たちが、それぞれ自分たちの国の言葉で、自分たちの文化的伝統の立場から使徒たちの語る「神の偉大な御業」、神の新しい救いの御業を理解できたようなのです。この福音宣教は、無学なガリラヤ出身の人たちが自力ではなし得ない大きな奇跡であったと思います。神の御業の証し人、宣教師として召された使徒たちは、神の僕・聖霊の生きる道具のようになり、自分たちの受けた神の霊の語らせるままに話せば良いのです。それが、新しく生まれた社会的教会、神の民の根本的特徴だと思います。

    現代のカトリック教会はこの一番大切な特徴を無視し、忘れ去っているのではないでしょうか。人間たちが自力でなす宣教活動をどれ程続けても、神が求めておられる豊かな実を結ぶことができません。そこでは、神の霊が自由に働けなくなっているからです。現代の教会がこの残念な現状に目覚め、ファリサイ的パン種に警戒しつつ、神の僕・婢として謙虚に神の霊に導かれ生かされて生きる初代教会の熱心を体得するに至るよう、本日のミサ聖祭の中で恵みを祈り求めましょう。本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体の業を絶つならば、あなた方は生きます」と説いています。私はこの「肉に従って生きる」や「体の業」という言葉を、可能な限り大きく広げて理解しています。大きな善意からではあっても、自分の人間的主導権を第一にして、神のため何か良いことをしようと励むファリサイ的信仰生活も、パウロの言う「肉に従って生きる」こと、「体の業」なのではないでしょうか。そんな古いアダムの精神、古いアダムの生き方には、「聖霊による洗礼」によって一旦完全に死に、天の神への従順中心の主キリストの精神、我なしの僕の精神に徹底して生きるよう心掛けましょう。しかし、このように心掛ければ、全能の神の働きによって万事が問題なく順調に行くと思ってはなりません。むしろ主イエスご自身や使徒パウロが度々体験したように、様々な不運や誤解、失敗や迫害などを体験するかも知れません。でも、その時神の霊が私たちの心の中でも自由にのびのびと働いて下さいます。そして後になって見ると、自分が耐え忍んだこの苦しみが介して、神ご自身が豊かな実を結ばせて下さったことを見出すに至ると思います。本日私たちのこの献げの決心と明るい希望、神への信頼と願いとを、復活の主キリストがお献げになるこのミサ聖祭のいけにえに合わせて、天の父なる神に献げましょう。聖霊も私たちの心の中で、私たちの全てを天の御父に一緒に献げて下さると信じます。

2013年5月12日日曜日

説教集C年:2010年主の昇天(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 1: 1~11. 
         Ⅱ. ヘブライ 9: 24~28, 10: 19~23.
      . ルカ福音 24: 46~53.

    三日前に素晴らしい五月晴れに恵まれ、名古屋の神言神学院のベランダに出て、強風が運ぶ空気を吸っていましたら、その風が美しく薫っているように実感しました。花の香りなのか新緑の香りなのか分りませんが、私はその時ふと、新しく萌え出た若葉たちも薫っているのではないか、などと考えました。そして神も、天上から私たちを祝福しておられるように思いました。本日の福音は、ルカがテオフィロ閣下に宛てて書いたルカ福音書の最後の部分ですが、本日の第一朗読は、ルカが同じテオフィロ閣下に宛てて書いた使徒言行録の冒頭部分です。ルカはこの二つの著書を主の昇天という出来事の記事で繋いでいますが、主の昇天があの世とこの世とを結ぶ出来事、天にお昇りになった主とこの世の教会とを結ぶ画期的出来事であることを意識して、意図的にそのように両書を構成したのではないでしょうか。

    なお、使徒言行録が紀元61年頃にパウロがローマに到着し、皇帝による裁きを待つ身ながらも獄中にではなく、ある程度の自由が許され、自費で借りた宿舎に滞在して、訪れる人々に教えを説いたりしながら2年間ほど留まっていた所までで終わっており、使徒言行録の最後を飾るにふさわしい、67年のペトロとパウロの殉教について述べていないことから察しますと、使徒言行録は60年代の前半に執筆されたものだと思われます。したがって、それ以前に執筆されたルカ福音書は、50年代後半頃の作品だと思われるというのが、教会史学者たちの伝統的見解であります。ローマのグレゴリアナ大学でその学者たちに学んだ私は、今も同じ見解を大切にしています。戦後次々と矢継ぎ早に新しい見解を発表した一部の聖書学者たちは、ルカ福音書の21章に述べられているエルサレム滅亡についての主の預言が、70年に全くその描写通りに実現したことから、ルカは70年代に入ってからその福音書を書いたのではないかなどという見解を広めましたが、それを学説とするためには、主が生前に40年ほど後のエルサレム滅亡を細かく正確に予言することはできなかったと証明しなければなりません。そんな証明はできないのですから、私は初めから聖書学者たちのそのような新しい見解には警戒し、従いませんでした。

    本日の福音によりますと、主は昇天する前に、まず弟子たちの担うべき使命について、「あなた方はこれらのことの証人である」と語っておられます。何を証しするのでしょうか。それについて主は、メシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活することと、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられることとの二つを挙げておられます。メシアの受難と復活については弟子たちが目撃証人ですから分かりますが、罪の赦しを得させる悔い改めをメシアの名によって宣べ伝える主体は一体誰なのでしょうか。聖書学者の雨宮神父によりますと、それはそれについて証しする弟子たちではないでしょうから、第二イザヤの預言などを参照しますと、神ご自身が悔い改めを宣べ伝える主体になっておられるのではないかとのことです。現代には、神のために自分が主導権をとって宣教するのだ、と考えている宣教師が少なくないようですが、聖書によると神が宣教の主であり、神が主導権をとり、人間を生きる器・道具として宣教なさるというのが、神の望んでおられる宣教であると思われます。私たち人間は主イエスや聖母マリアのように、神の僕・神の婢としてひたすら神の導きや働きに従って生きようとしてこそ、神のなさる宣教を最もよく推進し、豊かな実を結ばせるに到るのではないでしょうか。主の弟子たちも、そのように努めることによって実践的に学び知った神の働きについて証しする使命を主から頂いたのだと思われます。
    主は続いて、弟子たちがその使命を果たすための神の力、聖霊を父の許から送ると約束なされ、天からのその力に覆われるまでは、都エルサレムに留まっているようにと、お命じになりました。このように話された後に、主はエルサレムの東方、べタニアに近いオリベト山の上で、手を上げて弟子たちを祝福しながら、天にお昇りになったのです。もはや死ぬことのない永遠の命の輝きと喜びでいっぱいの主のお姿は、集会祈願にもありますように、私たちの未来の姿を示していると思います。将来は私たちも皆、神の超自然の恵みによってそのような輝かしい姿に復活し、感謝と喜びの内に主と共に永遠に生きるのだと思います。本日その喜ばしい出来事を追想しながらミサ聖祭を献げて祈る私たちをも、主は御手を上げて祝福しておられることでしょう。しかし、その主は、死ぬことのないあの世の永遠の命に復活なされたのであることを心に銘記していましょう。私たちも皆、一旦この世の体に死んであの世に移り、あの世の体に復活して、主が開いて下さった道を通って天の栄光へと昇って行くのだと思います。神が私たちのために備えて下さったこの輝かしい解放と救いの恵みの故に、神に深く感謝致しましょう。

    ところで本日の第一朗読によりますと、昇天して雲に隠れてしまわれた主イエスのお姿を慕い求めて天を見つめていた弟子たちに、白い服を着た二人の天使が傍に現れ、「ガリラヤ人たちよ、なぜ天を見上げて立っているのか。云々」と話しかけたと述べられています。マタイやマルコの福音書の最後も、弟子たちの福音宣教への派遣やその活動業績の言葉で結ばれていますが、ルカ福音書も、主の福音宣教のその使命をしっかりと想起させているのではないでしょうか。第一朗読には「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる」という主のお言葉も読まれます。このお言葉も大切だと思います。第二ヴァチカン公会議は「教会は本来宣教者である」と断言していますが、復活なされた主は実際に私たちの間に現存し、聖霊を送ることにより主の僕・婢として生きようとしている私たちを道具のように使いながら、神の救いの御業を全人類に広めつつあるのではないでしょうか。自分中心・人間中心の立場から神による救いの恵みを仰ぎ見るのではなく、神の道具として使って頂くという立場から、神の御導き、御働きに実践的に従い協力するよう心掛けましょう。牧者である主の御声を正しく聞き分けそれに従う小羊のいる所に、復活の主とその聖霊の御力がのびのびと働き、神を知らない世の闇に生きている人々の心を神信仰の光へと導いたり、病める人々を癒したり救いに導いたりなさるのではないでしょうか。

    余談になりますが、本日はちょうど十年前に帰天なされたヨハネ望月光神父の祥月命日に当たります。望月神父は長年ドイツの一流神学者たちに学んでこともあって、カトリックの伝統的神学を広く深く身につけておられ、私の見る所では、これまでの東京教区司祭の中で最も優秀な神学者の一人であったと思います。日本語やラテン語の著作を何冊も残しておられますが、公会議後に流行した新しい神学とは違うので、残念ながらまだ多くの人に知られておらず、世に埋もれています。私は40年程前に秋田教会で望月神父と親しく語り合っただけですが、現代の流行思想に批判的な望月神父の見解は伝統的神学路線を尊重する私の見解でもありますので、神父のあの世からのお助け、お導きを願いながら、あの世での望月神父のお幸せを祈り求めつつ、本日の御ミサをお献げしたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。