2011年7月31日日曜日

説教集A年:2008年8月3日年間第18主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 55章1~3節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章35、37~39節
福音朗読 マタイによる福音書 14章13~21節

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚からの解放を告げる第二イザヤ預言者の最終の章からの引用であります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」という呼びかけで始まる神の御言葉は、神を信ずる民を全ての飢え渇きから解放し、神の保護下にある新たな国で自由にまた豊かに生きれるようにしてあげようとする、神の大きな愛を示しています。しかし、「耳を傾けて聞き、私の許に来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」というお言葉は、心を何よりも神の御言葉、神の御導きに徹底して従う方に向けることを、求めています。そうすれば神は、民が数々の忘恩と裏切りの罪によって破棄したとこしえの契約を再び締結し、民の犯した罪も赦し、洗い流して下さることを約束しておられるようです。

② 本日の第二朗読は、かつて伝統的律法に対する忠実さ故にキリスト者を迫害した使徒パウロが、改宗後に体験した数々の困苦・迫害・危険と、そこからの神の導き・助けによる脱出とに基づいて語った確信であります。「私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています」という勝利宣言や、「死も命も天使も、他のどんな被造物も」「神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」という言葉には、涙ぐましい程の力と喜びが籠っているように覚えます。私たちもその模範に倣い、これからの将来にどんな苦難・病苦・災害などに出会おうとも、神の愛と助けを堅く信じつつ、勇気をもってそれらに対処するよう心がけましょう。

③ 本日の福音は、洗礼者ヨハネが殺された後、弟子たちと共に舟に乗って人里から遠く離れた所に退かれた主を慕って、数千人の大群衆が集まって来た時の話です。ちょうど農閑期で仕事がない時期だったのでしょうか。集まった群衆はほとんど皆貧しい人たちだったようで、食べ物を十分に持参していませんでした。彼らの求めに応じて、主が終日病人を癒したり長い話をなさったりした後、夕暮れになって彼らの所に残っていた食べ物は、パン五つと魚二匹だけでした。主はそれらを持って来させ、天を仰いで賛美の祈りを唱え、それらの食べ物を増やして全ての人が食べて満腹し、12の籠いっぱいになる程食べ残すという、神のみが為すことのできる前代未聞の偉大な奇跡をなさいました。この話を歴史的出来事として堅く信じましょう。私たち人間の側に信仰が生きているなら、神は、今日でもそのような奇跡をなさることに吝かでない程に、私たちを愛しておられる全能の方なのです。

④ ご存じでしょうか、今アジア各地では厳しい「水の争い」が発生しています。人口増加による食糧需要の高まりや、経済発展に伴う工業用水急増のためだと思います。インドでは、借金をして井戸を深く掘ったものの水が出ずに、自殺する農民が後を絶たないと聞いています。大工場による汲み上げ過剰で、地下水の層が年々深くなっているためだと思います。住民の経済格差も年々広がって、貧しい農民たちは、もう数千年来の自給自足の生き方では生活できない状況へと追い込まれているようです。このことは、ネパールや中国奥地の無数の住民についても同様に言うことができると思います。タイの穀倉地帯でも、農業と工業で水の取り合いが激しくなり、水不足が深刻になっているそうです。支配層は工業の発展で年々豊かになりつつありますが、その陰では国の近代化に恨みを持つ貧民が激増しつつあるのではないでしょうか。

⑤ 宇宙から見れば、地球は他のどの星にも見られない程美しい青い星で、まさに「水の惑星」であります。でもその水のほとんどは海水で、私たちの飲料になる淡水は、2.5%に過ぎません。しかも、その淡水の多くは南極や北極の氷山で、高い山の氷河なども差し引いた河川や地下水の量は、地球全体の水量の0.7%だけのようです。東大の沖教授の試算によると、水を安定的に得るのが困難な人たちは、今の段階で既に約25億人に上っていますが、今世紀半ばには約40億人に増加すると予測されているそうです。40億人と言えば、全人類の半数を超える人数ですので、商工業の国際的発展で支配層や中間層の人々がどれ程裕福になっても、各国政府はそれぞれ解消し難い深刻な問題を国内に抱えることになると思われます。それに、後進諸国が先進国並みに近代化するにつれて、先進諸国がどれ程努力しても地球温暖化は刻々と進み、気候の不順・自然災害の巨大化・生態系の乱れによる害虫や疫病の異常発生などで苦しむ人たちが、予想を遥かに超えて急増するかも知れません。更に、先日も申しましたように、巨大な過渡期に伴う心の教育の欠陥で、現代社会に不満を持つ人たちによる悪魔的な通り魔事件や自爆事件なども、文明社会の真っただ中に多発するかも知れません。

⑥ 間もなく北京オリンピックを開催する中国は、テロが発生しないよう数万人の警官を北京とその周辺に配備して物々しい様相を呈していると聞きます。南アジア諸国の首脳たちも、今テロ対策と食糧問題のために会議を開催しています。近代商工業の急速な発達で、国民の間に持てる者と持たざる者との格差が大きくなり、これまでのやり方ではもう生活して行けなくなる程、貧窮に追い込まれている人たちが増えて来ているからだと思います。

⑦ 悲観的な話をしてしまいましたが、これからの人類社会は決してこれまでのようには楽観できないように思います。神を無視した人類がその利己主義によって乱し苦しめた自然界からの反抗と反逆も、まともに受けることになる時代が来ると思うからです。人類の一部である私たちも、その苦しみを主キリストと一致してあの世での人類の救いのために喜んで甘受しましょう。神に対する愛と信仰を新たにしながら生活するなら、神の導きと助けによってどんな苦難にも耐えることができると信じます。一人でも多くの人がそのように生きることができるよう神の恵みを願い求めながら、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。

2011年7月24日日曜日

説教集A年:2008年7月27日年間第17主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 3章5、7~12節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章28~30節
福音朗読 マタイによる福音書 13章44~52節

① 本日の第一朗読は、ダビデの王位を継承して間もない頃のソロモン王が、エルサレムの北10キロ程のギブオンという町で神に祈った願いと、その願いを喜ばれた神の御言葉であります。エルサレムに神殿が建設される以前のことなので、ソロモン王は、昔カナアン人が神に祈っていた聖なる高台のあるギブオンに来て、太祖アブラハムらの神にいけにえをささげて祈ったのだと思います。するとその夜、主がソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」とおっしゃったので、ソロモンは民からの訴えを正しく聞き分ける心の知恵を願いました。長寿や富や敵に対する勝利などではなく、心の知恵を願ったことをお喜びになった神は、「今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」とおっしゃり、実際に驚く程優れた知恵をお与えになったようです。

② 申命記8章の前半には、神から賜る豊かな「約束の地」についてのモーセの描写がありますが、その最後に「石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である」という言葉が読まれます。ソロモン王はこの言葉に基づいて、ネゲブ砂漠の南部、紅海のアカバ湾に近い地方一帯から、鉄と銅の大鉱脈を発見し、古代オリエントで最大の製錬能力を持つ大溶鉱炉を造って、巨万の富を築いたようです。「ソロモンの栄華」という言葉はその後の歴史の中で度々人々の口にされていますが、紀元前10世紀という遠い昔の話なので、その実態はほとんど知られずにいました。しかし、第一次世界大戦でオスマントルコ帝国が滅び、エジプトとパレスティナ諸国が英国の統治に委任されると、複数のアメリカ探検隊が聖地とその周辺地域の発掘探検に従事して、ネゲブ砂漠南部の砂の下から鉄と銅の豊富な鉱脈の発掘跡を発見しました。大きな溶鉱炉や鋳造用の鋳型の跡、並びに累々と続く壁の残骸や大量の緑の鉱滓(こうし)なども発見されました。その作業場は、北方の山からWadiと呼ばれる広い谷へとほとんどいつも風が吹き下ろしている所にあって、溶鉱炉は、火口と煙突を南北一直線に配置した形で並んでいました。これは、19世紀に近代産業を一段と発展させたBessemer溶鉱炉と同じ方式で、間断なく吹き下ろす風にフイゴの役をさせるシステムであります。各溶鉱炉の溶融壺は14立方フィートで、古代の製銅業の中心であったバビロニアやエジプトにも、その他のどこにもこれほど大きな溶鉱炉は発見されていないそうです。

③ ソロモンはまた、この鉱山から得た富でEzeon-Geberに造船場を建設し、ティルスの国王から派遣されたフェニキア人技師たちの協力を得て、遠洋航海用の大船10隻を建造し、フェニキア人の船長たちを雇ってOphirの国と貿易をしました。その国は、当時フェニキア船が商業を独占していた地中海沿岸にはなく、紅海から赤道を越えて南下したアフリカ東海岸にあった国のようです。多くの学者は、その国をマダガスカル島の対岸に当たる現代のモザンビークの南端辺りにあった国ではないか、と考えています。そこには数千年前に金銀が採掘された鉱業設備の跡があり、一部にフェニキア特有の特色も見られるそうですから。10隻の船団は、大量の金銀・象牙や猿などの他に、当時はアフリカにしかいなかった珍しい孔雀も運んで来ましたが、夏の炎暑をできるだけ避けるために、11月頃に出発して三年目の5月頃に帰着したのではないか、と推測されています。としますと、3年に1度の往復になります。40年間王位にあったソロモン時代に何回往復したのか知りませんが、この船団のもたらした莫大な富によって、ソロモンはオリエント諸国の内で最も豊かな国王となり、15万人の労働者を7年間働かせて、豪華なエルサレム神殿と自分の王宮を建設させています。しかし、その大きな富故に周辺諸国の国王たちから王女を贈られ、異教の儀式にも参加したり協力したりして、遂に天罰を受けるに到りました。神への徹底した従順が最も大切だと思います。

④ 本日の第二朗読には、「神を愛する者たち」「には、万事が益となるように共に働く」という言葉が読まれます。これは、数多くの体験に基づく使徒パウロの確信だと思います。しかし、ここで言われている「万事」には、喜ばしい成功や楽しい幸運だけではなく、悲しい失敗や日々の労苦、災害・貧困などの、耐えがたい苦しみも含まれていることを見落とさないようにしましょう。神はご自分を愛する者たちを、「御子の姿に似たものにしようと」それらの苦しみをもお与え下さるのです。ソロモン王のように成功から成功への道を歩んでいますと、日々神を崇め神に感謝していても、悪魔の蒔いた毒麦に取り囲まれた時に、それに打ち勝つ力を失ってしまいます。神が日々お与え下さる労苦・失敗・苦難などに感謝し、それらを喜んで耐え忍ぶよう心がけましょう。

⑤ 悪魔は、伝統的共同体精神が内面から崩れつつある、現代の自由主義・個人主義横行社会の中で、昔とは比較できない程積極的に毒麦の種を蒔いていると思います。豊かさ便利さの中に生まれ育ち、自分の心の欲求や自主独立権にだけ眼を向けていますと、人前では日頃どんなにまじめに生活し、良い人間と思われていても、突然悪魔がその心に乗り移り思わぬ犯罪をさせることも起こり得ます。キリスト時代のオリエントでも、商工業の繁栄で人口移動が盛んになり、自由主義・個人主義の精神が広まると、社会的には立派な家庭と思われている家の子供に、放蕩息子のような欲求が芽を出したり、マグダラのマリアのように、心が七つの悪魔に乗り移られたりする人たちが珍しくなかったようです。

⑥ 現代社会も、そのキリスト時代の社会以上に過去の伝統が内側から瓦解する大きな過渡期の波に揉まれています。悪魔たちの蒔く毒麦に心を乗っ取られた人の犠牲にされる、という悲劇も激増しています。そういう悲劇を無くするため、事件を起こした人の考えなどを理知的にどれ程分析してみも、問題の解決は期待できません。こうすればこうなるという理知的な計算に基づいてなした行為ではなく、本人も自分でよく説明できない程異常な、心の衝動からなしてしまった行為だと思われるからです。毒麦を蒔いたのは悪魔であり、その悪魔に対抗する神の力を身につけなければ、この種の悲劇は、回避することも阻止することもできないと思われます。

⑦ 本日の福音に述べられている「畑に隠されている宝」や「高価な真珠」は、その神の力を意味していると思います。神の働きの現存に目覚め、神の力にしっかりと結ばれて神の御旨中心に生きようとしている魚たちは、心に悪魔からの毒を宿す魚たちと一緒に同じ海を泳ぎまわっていても、世の終わりの時天使たちによって天の国へと投げ入れられるでしょうが、そうでない魚たちは恐ろしい火に投げ込まれることでしょう。近年不可解な事件が多発しているのは、その時がいよいよ近づいて来ているという、一つの兆しかも知れません。私たちも悪魔の策動に陥れられないよう警戒し、日々神の働きに深く結ばれて生活していましょう。











余談になりますが、4世紀にローマ帝国がキリスト教迫害を止め、国を挙げてキリスト教を保護し始める、多少合理主義的な新しい秩序造りが軌道に乗ってきますと、コンスタンチノープルを中心とした東方教会で、悪霊を追い出してもらったマグダラの罪の女マリアと、富裕なベタニアの家に住むマルタの妹マリアとは別人であるという思想が起こり、東方教会では今もこの考えを続けています。しかし、4世紀の後半に聖地に滞在して主キリストに関する出来事を綿密に調査した聖ヒエロニムスは、両者は同一人物であると証言しています。社会が極度に流動化する大きな過渡期には、社会の秩序も心の教育も合理的に確立され安定している平和時代には考えられないような、不可解な現実が多発するのです。私たちの生活している現代社会も、そういう大きな過渡期の流動的社会だと思います。4世紀後半の聖アンブロジオ司教は、東方教会と西方教会の分裂を回避するためにも、マグダラのマリアについての考えは未決定のままにして置こうと提案し、ローマ教皇もそれに従っていましたが、200年程後の教皇聖グレゴリウス1世の時から、西方教会は聖ヒエロニムスの研究に基づいて、マグダラの罪の女マリアとベタニアのマリアとを同一人物とするようになりました。….

2011年7月17日日曜日

説教集A年2008年7月20日年間第16主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 12章13、16~19節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章26~27節
福音朗読 マタイによる福音書 13章24~30節
 
① 本日の第一朗読は、紀元前1世紀の頃に書かれたと思われる知恵の書からの引用ですが、紀元前1世紀と申しますと、ユダヤ人の支配層やそれに奉仕する社会の上層部の人たちは、国際的なギリシャ・ローマ文明の影響を受けて豊かになりつつあった時であります。特に知恵の書執筆の地盤と思われるアレキサンドリアの有能なユダヤ人たちは、ギリシャ系のプトレマイオス王朝から優遇され、広大なエジプト支配とその秩序維持に積極的に協力していたので、ギリシャ・ローマ文化にも温かい理解を持ち、寛容の精神で異教徒たちと協力し、一緒に平和なエジプト世界を造っていました。大きな港町アレキサンドリアは五つの区に分けられていましたが、そのうち二つの区はユダヤ人街とされていた程、多くのユダヤ人がこの豊かな国際的港町に住んでいました。

② 文明文化のグローバリズムが進展して現代世界の多くの都市も、同様の多民族都市になりつつあります。文化的伝統も信仰もそれぞれ異なる人たちが一緒に生活し、助け合いながら社会を造っている所で大切なのは、思いやりと寛容の精神だと思います。それ以前の旧約時代には神の民としての誇りと選民意識を堅持していたユダヤ人も、旧約末期にアレキサンドリアで生活するようになったら、伝統的な律法や規則遵守の中でだけ神の働きを見ていた生き方から少し自由になって、「寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもって」相異なる文化の人たちを治めておられる神の新しい働き方に目覚めたようです。本日の第一朗読は、神のその寛大な働き方に新しく目覚めた人によって書かれたと思われます。

③ この朗読箇所の最後に、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた」とありますが、ここで「人間」と言われているのは、同じ神信仰に生きる人たちよりは、むしろまだ神を信じていない人たちや異教徒たちを意味していると思います。続いて「こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」とある言葉も、現代に生きる私たちにとって、特に自分の受け継いだ一神教に大きな誇りを抱いているキリスト者・ユダヤ教徒・イスラム教徒にとって大切だと思います。その受け継いだ伝統的生き方だけに狭く立てこもり、信仰の異なる人たちへの献身的奉仕や、寛大な彼ら寛大な精神で共存して平和な社会を築くようにという神の新しいお導きを無視するなら、私たちは神に背いて文化対立・民族対立の新しい恐ろしい罪を犯すことになり、神からも見捨てられる絶望的道を歩むことになると思います。全ての人間に対する開いた温かい心に励み、そんな心の狭い罪からの回心に心がけましょう。

④ 本日の第二朗読は、私たちの心の中での神の霊の祈りと神へのとりなしについて教えています。現代の複雑なグローバル社会の中で、私たちはしばしば何をどう受け止め、どう祈るべきかを知りませんが、神の霊が御自ら私たち各人の心の中で、「言葉で表現できないうめきをもって(私たちのために)執り成して下さいます」。何よりもその霊の祈りや働きにより頼み、霊の導きを識別してそれに従うことに努めていましょう。自分の理知的人間的な考えを第一にして生きようとはせずに。超越的な神の御旨、神の新しいお導き中心のこのような信仰生活は、現代の私たちにとって大切だと思います。

⑤ 本日の福音は、毒麦のたとえ話とそれについての主の解説ですが、「毒麦」と邦訳されている、小麦によく似た雑草は、精神的には現代人の心の中に、真面目な信仰者の心の中にも、恐ろしい程たくさんばら撒かれていると思います。主の解説によると、悪魔が夜の間にその種を蒔くようです。近年は、以前には誰も考えなかったような不祥事件や犯罪が増え、犠牲者も激増しています。そういう犯罪に走るような人間を、社会から徹底的に排除しようとしても、昔のある程度画一的な共同体組織や共同体精神が崩壊し、民主主義・個人主義の精神がこれほど深く各人の生活の中に浸透し普及している時代には、もうそのような排除からは十全な成果を期待できません。既に大きくなっている無数の隠れた毒麦たちと共存しながら、その毒に侵されないよう十分に警戒し、毒麦たちに負けずに良い実を豊かに結ぶよう戦うこと、それが、現代のような時代に幸せに生きる道だと思います。

⑥ 主はこの毒麦のたとえ話と並べて、辛子種のたとえ話とパン種のたとえ話もなさいました。天の国、すなわち神によって蒔かれたあの世的命の種は、外的この世的には小さくて隠れていても、どんな毒麦にも負けない逞しい強大な力を備えています。この世の人間的共同体組織が次第に統率力を失って、内面から崩壊しつつある現代のような時代には、隠れて現存しておられる神の働きに心の眼を向け、神の霊の働きを識別しながら、直接その霊の導きに従って生きようとする新しい信仰生活に転向するのが神のお望みであり、最も安全にまた幸せに生きる道であり、神の力によって豊かな実を結ぶ道なのではないでしょうか。神の霊は、人間社会の共同体組織が弱体化して自分の無力に悩む人が激増している、現代のような自由主義・個人主義の時代にこそ、信仰に目覚める人たちに新しい救いへの道を示そうと、声なき声で積極的に呼び掛けたり働きかけたりしておられるのです。一人でも多くの人がそれぞれ自分なりにその道を見出し、神の御子と内的に深く結ばれる存在に高められるよう、神の照らしと導き・助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと存じます。

2011年7月10日日曜日

説教集A年:2008年7月13日年間第15主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 55章10~11節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節
福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節
 
① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代の神の民に預言者を介して神による祝福と捕囚からの解放とを告げた神のお言葉ですが、私たち人間の言葉とは違って、神の口から出るお言葉には、この世の事物や生命を生かす力と使命が込められていると明言されています。このことは、神よりの全ての言葉について言われている、と受け止めてよいと思います。

② 特に人となってこの世にお生まれになった神のロゴス、そして死後もあの世の命に復活して世の終わりまで私たちと共にいて下さる神のロゴスは、私たち被造物を生かす力と使命を持つ、そのような神の御言葉だと思います。その御言葉は、私たちが日々献げているミサ聖祭の中ではパンの形で現存して下さいます。神の力、神の言葉自体はこの世の体の目には見えませんが、しかし、神からの生きている力、ロゴスがここに私たちの中で働く使命を持って現存していることを信じましょう。そして感謝と従順の心でその御言葉を拝領しましょう。私たちがこの信仰に留まっているなら、神の御言葉は必ず働いて下さいます。今はただ信仰・希望・従順の時ですから、今その働きを見ることはできませんが、ずーっと後になって自分の人生体験を振り返る時、私たちは神の御言葉が実際に働いて下さったことを確信することでしょう。

③ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「被造物は、神の子らの現れるのを切に待ち望んでいます」と説いていますが、ここで言われている「神の子ら」は、信仰と愛の内に神の子メシアの命に参与している私たち人間を指しています。外的自然的には私たちは皆小さな弱い存在です。数々の罪科や欠点に覆われ、汚れている粘土のような存在かも知れません。しかし、神から受けた信仰の眼をもって、この汚れた粘土のような存在を振り返る時、そこには恐ろしい程大きな生命力を備えた神のロゴス・神の御言葉が根を下ろしています。この真実を見逃さないように致しましょう。私たちが肉の心で生きることなく、神の霊の心で生きるよう心掛けるなら、神の子メシアの命が私たちの中で、私たちを通して無数の被造物の救いのために働いて下さいます。多くの被造物、信仰を知らない人々は虚無に隷属させられて苦しみ、うめいていますが、メシアの救う力が神の子らを介して世に現れ出るのを、切に待ち焦がれているのではないでしょうか。メシアの命の根を宿している私たちは、外的人間的にはどれ程小さく無力でも、その救う力の生きている道具だと思います。この世の小さな自分の生活の事よりも、もっと自分の存在の中での神の御言葉に心の眼を向け、祈りと愛と従順の実践により、その御言葉が多くの被造物のため働き出すのに協力しましょう。

④ 本日の福音は、主イエスがお語りになった「種蒔く人」の譬話ですが、主が弟子たちの質問に答えて解説なさった話から察しますと、蒔かれた種はあの世の神の救う力を宿した神の御言葉のようです。その御言葉はこの世的な実を結ぶものではないので、この世の社会やこの世の成功にだけ心を向けている人は、聞いても心で理解できず、悔い改めようともしません。主が「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である」などと、蒔かれた種とその人とを一緒にして話しておられるのは、注目に値します。私たちの奥底の心は、神の御言葉の種を宿す単なる土壌ではなく、あの世的な命の種を宿すことにより、その種と一つになってあの世的存在へと次第に変革される生き物なのではないでしょうか。神の働きに従おうとする精神に欠けている下心の土壌では、折角蒔かれた恵みの種も根を下ろすことができずに枯れてしまいます。またこの世の思い煩いや富にあまりにも囚われている下心の土壌では、恵みの種は実を結ぶことができません。しかし、神の霊の働きに忠実に従おうと祈っている奥底の心の中では、神の種はその忠実さの度合に応じて豊かな実を結び、その心自体もますます神の子に似た者に変革され、あの世的存在に高められて行くのではないでしょうか。私たちも皆、そうなりたいものです。そのための照らしと恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年7月3日日曜日

説教集A年:2008年7月6日年間第14主日(三ケ日)

第1朗読 ゼカリヤ書 9章9~10節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章9、11~13節
福音朗読 マタイによる福音書 11章25~30節
 
① 本日の第一朗読の出典であるゼカリヤの預言書は14章から成っていて、前半の1章から8章には、ゼカリヤの見た八つの神秘的幻に続いて、「万軍の主はこう言われる」という言葉が10回も繰り返され、神の恵みにより世界の諸国民の憧れの的となるエルサレムの将来について、予告されています。そして9章以降の後半には、主が来臨なされた後の諸国民や悪い羊飼いたちへの裁き、並びにエルサレムの救いと浄化などについての預言が読まれます。

② 本日の第一朗読は、その第9章の中ほどにある、主のエルサム入城についての預言であります。旧約末期の黙示文学的色彩を濃厚に留めている預言書であることや、ヨブ記の1章と2章に数回登場するサタンという悪霊の名前を、3回も登場させている唯一の預言書であることから察しますと、ゼカリヤは、あの世の霊界の動向に対する鋭い感覚の持ち主であったかも知れません。その悪霊サタンは、高度に発達した明るい現代文明の社会の陰でも暗躍し、真面目に働く人たちを次々と不幸のどん底に陥れていることでしょう。私たちも信仰と祈りによって内的にしっかりと神に結ばれ、警戒していましょう。サタンは、私たち人間の力を遥かに凌ぐ恐ろしい力の持ち主なのですから。

③ 本日の第二朗読であるローマ書8章には、霊と肉、霊の法則と肉の法則とが敵対関係にあることが詳述されていますが、その8章の始めには、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません。キリスト・イエスによって命を齎す霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」という言葉が読まれます。本日の朗読箇所も、この解放された者の立場で理解するように致しましょう。しかし、そこに述べられている「肉に従って生きる」という言葉を、私は非常に広い意味で理解しています。例えば、戦争中の節約時代の教育を受けて育った私は、7年間のヨーロッパ留学から帰国して、40年ほど前の高度成長期の日本人の豊かな生活ぶりを目撃した時、水にしろ電気にしろこんなに浪費するのは神に清貧を誓った私の生き方ではない。他の人たちはどう生きようと、私は神に心の眼を向けながら節水・節電に心がけようと、清貧の決心を新たにしました。

④ その数年後、私が一人の少し若い神言会員に節電の呼びかけをしたところ、その会員から、「この蛍光灯をつけっぱなしにしても、電気の料金はほとんど違いませんよ」と反対されました。実際に料金、すなわちこの世の金銭を基準にして考えるなら、「贅沢は美徳、経済を発展させるから」などと言われていたあの豊かな時代には、節水も節電も人の心に訴える力に欠けていました。それで、時代遅れの人間と思われた私は、その後はもう節水も節電もほとんど口にしなくなりました。しかし、ここ三十数年間、私は惜しげもなく水も電気もその他の資源も使い果たしていた人たちが、病気には勝てずに次々と薬漬けにされ、病床で長い間様々の節制を強要されて死んで行くのを見るにつけ、過ぎ行くこの世の資金や事物を価値評価の基準にして生活するのは「肉に従って生きる」ことではないのか、と思うようになりました。

⑤ この大自然界の全てのものは、神の所有物です。神に感謝と愛の心を向けながら、神の御心を基準にしてそれらを大切に利用し生活するのが、使徒パウロのいう「命を齎す霊の法則」に従って生きることなのではないでしょうか。鷹揚な神が有り余るほど豊かに自然の富を与えて下さっている間は、自分で基準を決めてケチる必要はありません。私たちも、感謝の内に鷹揚に利用させて頂きましょう。しかし、過度の無駄遣いは避けるように心がけましょう。それが、神の霊に従って生きる生き方であり、あの世の神からのご保護と祝福を、この世の人生に豊かにもたらす生き方であると信じます。

⑥ 本日の福音の中で主イエスは、「天地の主なる父よ、あなたを褒め称えます」という言葉で、この世の知恵ある者や賢い者たちに隠されており、幼子のような者たちに示されている、「霊に従う」生き方の秘訣について話しておられます。幼子は、この世の知者や賢者たちのように、人間社会を基準にして善悪・損得を評価しません。何よりも自分を愛し守り支えてくれている方にしっかりと捉まり、その方のお考えや導きに従っていようとします。神も、愛と信仰のうちにひたすらご自身に従って生きようとしている幼子のような弱者たちに、真の知恵と必要な力とを次々と与えて下さるお方だと思います。主はその話の後半に、「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私の下に来なさい」と招き、「私のくびきを負い、私に学びなさい」と勧めています。くびきは牛などの家畜を二頭並べて繋ぐ木の道具で、ここでは内的に主イエスと並んで、自分に課せられている生活の重荷を一緒に担うことを意味していると思います。私たちが日々ご聖体を拝領するのは、主と内的に一致してその生き方をするためなのではないでしょうか。主と並んで同じくびきを担うとは、この世の肉的価値観を放棄し、何よりも神の御旨・神の愛に心の眼を向けながら、自分に与えられている全てのものを大切に利用しつつ、生きることを意味していると思います。それが、私たちの心に本当の安らぎを与えてくれる生き方だと信じます。私たちが主と共にこの新しい生き方に徹して忠実に生きることができるよう神の助けを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。