2011年1月30日日曜日

説教集A年:2008年2月3日年間第4主日(三ケ日で)

第1朗読 ゼファニヤ書 2章3、3章12~13節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 1章26~31節
福音朗読 マタイによる福音書 5章1~12a節
 
① 本日の第一朗読のゼファニヤ預言者は、敬虔なヒゼキヤ王の血を引く貴族出身者であったようですが、紀元前7世紀のヨシア王の時代に「主の日」、すなわち恐ろしい主の怒りの日の到来について預言しています。その予言書1章の始めには、「私は地の面からすべてのものを一掃する」という主のお言葉があり、続いてさまざまな生き物や人々に対する容赦なしの恐ろしい天罰が、具体的に描かれています。近年キリスト教会内には、聖書に予言されているこういう恐ろしい「主の日」を古い時代の単なる思想として片付け、現代社会に適合した信仰倫理だけに注目する傾向が強いようですが、しかし、神による厳しい裁きと「主の日」の到来に対する信仰は、私たちの信仰生活の一つの大切な基盤であり、神に対する畏れや神から離れる危険性を軽視する人は、この世の罪深い流れに無意識のうちに巻き込まれて行くと思います。

② しかし、私たちの神は罪の穢れを忌み嫌って、穢れているものを全て滅ぼそうとしているだけの神ではありません。何よりも私たちを愛し、その穢れた流れから救い出そうとしておられる愛の神であります。ですから恐ろしい「主の日」について警告しているゼファニヤの預言の中には、本日の第一朗読にあるように、私たちに救いの希望を与えて、慰め励ます言葉も読まれます。使徒パウロは、テモテ前書の1章に自分の過去の罪について告白していますが、「しかし私は、これらの事を信仰がなかった時、無知のためになしたのだから、憐みをこうむった」「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さったのだ」などと述べています。私たちも使徒のこの模範に倣って、この世の罪故に神から自分に与えられる困難や苦しみを逃げようとせず、主キリストの助けに縋りつつ、静かにその苦しみに耐えるよう努めましょう。そうすれば恐れることはありません。ゼファニヤの預言にあるように、私たちは主の怒りの日に身を守られて、「イスラエルの残りの者」の群れに加えられ、神に養われて憩いを見出すことでしょう。

③ 本日の第二朗読の中で、使徒パウロは「神は知恵ある者に恥をかかせるために世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために世の無力な者を選ばれました」と述べています。この言葉を誤解しないよう気をつけましょう。神の選びを受けて人の何倍も逞しく働いていたパウロは、人間的には決して無学で無力な者ではありませんでした。しかし、自分の学識や強靭さなどを誇ったり人々に見せつけたりはせず、ひたすら自分の弱さや「無であること」に心の眼を向けつつ、その弱さの中にこそ現存して下さる復活なされた主キリストの全能の力に縋って、主キリストの救う働きを身をもって証しようと心がけていたのだと思います。それが彼のいう「無学な者」「無力な者」の生き方だと思います。私たちも神に愛され選ばれるために、自分の理知的な考えや力に頼ることなく、何よりも神の御摂理に心の眼を向け、主キリストの助けを願い求めつつ生きるように努めましょう。

④ 本日の福音は、「山上の垂訓」とも言われている話の冒頭に主が掲げた箇条書きの信条のような話ですが、十戒を基本にした旧約の神の民の倫理とは違う、「新しい神の民の憲法」と称してもよいと思います。世界中のどの民族の宗教にも、成文化されているいないに拘わらず、他の人に迷惑をかけないための一定の法規のようなものがありますが、主がここで話された神の民の倫理は、それらのどこにも見られない全く新しいものですから、この神の民になるためには、どの民族の出身者にも、倫理の考え方や心の根本的変革が神から求められていると思います。実は仏教にも、「山上の説法」と呼ばれているものがあります。釈尊が象頭山(ぞうずせん)上から村や町を見下ろしながら語られた話を、後世の人たちがそう称したのですが、これも何かの画一的法規のようなものについての話ではありません。釈尊は、「比丘(びく)たちよ、全ては燃えている。熾念(しねん)として燃えさかっている」という言葉で始って、この世の人々の耳も鼻も舌も、体も心も、貪りや怒りや愚痴などの炎で燃えていることを強調した後に、その煩悩の炎を消し尽した処に、涅槃(ねはん:ニルバーナ)の境地が実現することを説いています。自然の目には見えない心の現実についてのこの話も貴重ですが、しかし、主の山上の垂訓はそれとも大きく違って、何よりも神を起点として、自分の生き方を考え直すことを説いています。

⑤ 各人は、この世の社会や一緒に生活している人間にだけ焦点を合わせて、自分の生き方を考えるのではなく、何よりも宇宙の創り主であられる愛の神とその御旨に心の眼を向けて、その神の御前に貧しく柔和に、清く正しく忍耐強く生きようと心掛けるべきことが説かれているのです。また隣人に対しても、憐れみ深く、平和を実現する人であるよう求められていますが、これは、他の個所での主のお言葉を参照すると、どんなに欠点多い隣人の内にも隠れて現存しておられる神の人・主イエスに対する愛と信仰なしには、完全には実行し難いと思われます。

⑥ いずれも私たちがもって生まれた自然の力では、難し過ぎる生き方です。そこで主は、私たちがその生き方を、神の超自然の力に参与して実践することができるよう、洗礼や聖体などの秘跡をお定めになり、私たちにお与えになりました。私たちは皆それらの秘跡の恵みを受けていますが、果たして主がここで求めておられるような生き方をしているでしょうか。単に外的に秘跡を受けるだけでは足りません。先程も申しましたように、もっと神への畏れと神の現存に対する愛と信仰をもって謙虚に受ける必要があると思います。その時、神の超自然の恵みが私たちの内に深く根を下ろし、生き生きと働いて下さるのではないでしょうか。そのための照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年1月23日日曜日

説教集A年:2008年1月27日年間第3主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 8章23b~9章3
節第2朗読 コリントの信徒への手紙1 1章10~13、17節
福音朗読 マタイによる福音書 4章12~23節


① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀に第一イザヤが告げた預言ですが、そこに「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが」とある言葉は、ガリラヤ湖の北西地方に住んでいた二つのイスラエル部族が、ちょうどこの第一イザヤの時代にアッシリア軍に侵略され、ガリラヤ地方、サマリア地方に住んでいたイスラエルの他の諸部族と共に、アッシリア帝国の支配下に入れられたことを指していると思います。神から「イスラエル」の名をもらった太祖ヤコブには4人の妻がいて、ヤコブが一番愛した妻ラケルにはなかなか子供が生まれず、他の3人の妻たちに遅れて、一番最後に二人の男の子ヨゼフとベンヤミンを産んだのでした。

② 妻リアは、男の子6人を産みましたが、その6人目の子供がゼブルンです。妻ゼルファと妻バラは、それぞれ二人の男の子を産みましたが、妻バラが産んだ二人目の男の子がナフタリです。太祖ヤコブのこれら12人の男の子の名前は、それぞれその子孫12部族の部族名とされました。モーセに引率されてエジプトを脱出したイスラエル12部族は、ヨシュアに率いられて攻め取った約束の地カナアンで土地の分配にあずかり、ヤコブの妻リアの血を受けたユダ族は一番南の地方、今のエルサレム近辺に定住しましたが、同じリアの血を受けて最後に生まれたゼブルンの子孫とバラの血を受けて最後に生まれたナフタリの子孫とは、一番北の地方に定住したようです。

③ なお、リアの血を受けてユダよりも一つ先に生れたレビの子孫は、そのレビ族に所属するモーセの規定によって、土地の分配を受けずに宗教行事を担当し、他の諸部族からの神への献げ物によって生計を立てていました。ユダ族出身のダビデ王がエルサレムを攻略して神の民の都とし、そこに契約の櫃を迎えて彼らの宗教的中心にすると、レビ族もユダ族と深く結ばれて生活するようになりましたが、今年の主の公現祭にも申しましたように、ソロモン王の時代に実に豊かになったユダの地は、ガリラヤやサマリアと違って、残酷なアッシリアの侵略を免れることができました。イザヤ預言者はその時点で、ユダの地とは比較にならない程悲惨な状態に落されたゼブルンの地、ナフタリの地、異邦人の土地と化したガリラヤを慰めるかのように、それらの土地がいつか将来に、「栄光を受ける」日が来ることを預言したのだと思います。預言者はこの時、数百年後にメシアがまずこれらの土地の人たちを病気などから奇跡的に癒し、これらの土地の人たちに神の国の教えを説く輝かしいお姿を予見していたのでしょう。

④ 本日の福音の中で、マタイはイザヤ書にあるこの預言のことを思い出しています。主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞くとガリラヤに退かれましたが、ご自分の故郷ナザレではなく、「ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに」お住みになったからです。そしてその時から主は、洗礼者ヨハネの後を受けて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に力強く呼びかけ、神の国の宣教をお始めになりました。主がなされた数々の奇跡の話は、ガリラヤとユダの諸地方だけではなく、遠く離れたシリアの諸地方にまでも語り伝えられ、ユダヤ人も異教徒も、数えきれない程多くの人が神よりの人・主イエスを一目見よう、そして自分たちの病人も癒してもらおうと、その御許にやって来ました。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。云々」というイザヤの預言は、その喜びの情景を描いています。

⑤ 本日の福音の後半は、主イエスがそのカファルナウムに住む若い漁夫たち4人を、ご自分の弟子としてお召しになった話ですが、彼らがすぐに、網も舟も父親も残して主のお招きに従って行ったことは、注目に値します。聖書の教えているキリスト教信仰の特徴は、神よりの招きに従って行動することにある、と申してもよいのではないでしょうか。まず「聖書を読め。聖書を読め」と言って伝道する人たちもいますが、しかし、国家や社会や家庭が内側から崩壊する危機に直面している時ならいざ知らず、奥底の心がまだ半分眠っていて、表面の理知的な精神だけが活発な人たちに聖書を読ませても、疑問に思うことが次々と生じて来て、なかなか神信仰へと踏み切れないのではないでしょうか。それではいけません。聖書が教えているのは、自主的な真理探究の宗教ではなく、何よりも神よりの啓示や招きを素直に受け止め、それに従って行動する従順の信仰であり、その実践の積み重ねを介して神の啓示や真理に対する奥底の心のセンスや眼が次第に磨かれて来る宗教であります。

⑥ 主に召された無学なガリラヤの漁夫たちは、よく分からなくても主のお言葉に従順に従い続けることにより、ついには社会のどんな知識人たちにも負けずに宣教する偉大な使徒たちになったのではないでしょうか。主から修道生活へと召された私たちの歩む道も、同様だと思います。修道家族という共同体を造って生活するのですから、そこに様々の危険や対立を回避するための規則があるのは当然ですが、それはいわばガードレールのような手段で、それらの規則に背かないようにしているだけでは、主が私たち各人から期待しておられる薫り高い修道的愛の実を結ぶことはできません。平凡な日常茶飯事の中での、主の声なき声に対する心の感覚を磨くことに努めましょう。そして主の招きに対する従順と神の愛の実践に心がけましょう。これが私たちの信仰生活、修道生活にとって一番大切なことだと思います。私たちの心の仕合わせと喜びも、信仰の確証もそこから生まれ育って来ます。本日のミサ聖祭の中で、そのための照らしと導きの恵みも主に願い求めましょう。

2011年1月16日日曜日

説教集A年:2008年1月20日年間第2主日(三ケ日で) 

第1朗読 イザヤ書 49章3、5~6節
第2朗読 コリントの信徒への手紙 1 1章1~3節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章29~34節

① 本日の第一朗読は、先日話したイザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第二の歌の一部です。本日の朗読箇所の少し前の1節には、「主は母の胎にある私を呼び、母の腹にある私の名を呼ばれた」とあって、主の僕は母の胎内にいた時から、神からの選び・召し出しを受けていたことを示しています。3節にはただ今朗読されたように、「あなたは私の僕イスラエル、あなたによって私の輝きは現れる」と神が話しておられますが、この「イスラエル」は、救いの恵みを受ける神の民イスラエルを代表し、象徴的に示している個人、人間イエスを指していると考えてよいと思います。「主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力」という言葉は、そのイエスの言葉と理解してよいと思います。

② 神の僕イエスは、神が「ヤコブ(の諸部族)を御もとに立ち帰らせ、イスラエル(の民)を集めるために、母の胎にあった私を御自分の僕として形づくられた」ことをはっきりと自覚しています。そして神の僕の使命について、神から告げられた言葉を伝えています。「私はあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまでもたらす者とする」という言葉です。第二イザヤを介して語られたこの預言の数百年後に、この世にお生まれになった人間イエスは、天の御父より与えられたこの使命を片時も忘れずに、救い主・メシアとしてのその御業をお始めになったと思われます。

③ その御業は、メシアの受難死によって挫折したのではありません。むしろその受難死と復活によって、あの世の永遠界と一層密接に結ばれた新しい段階、新しい次元へと大きく発展し、全世界の全ての民族に救いの恵みを豊かにもたらすものとなり、今なお続いているのです。主イエスがお与えになる超自然的救いの恵みを、全人類の中の一部の人間集団でしかないカトリック教会内だけにあるもの、と考えてはなりません。主イエスが創立なされて主の御教えを広めさせ、ミサ聖祭やその他の秘跡を行わせておられるキリストの教会は確かに豊かに救いの恵みを受けていますが、しかし主は、その教会の働きや祈りを介して、全人類に救いの恵みを注いでおられるのです。全てを何か不動の原則に従って合理的に考えようとする人間理性を退け、慈しみ深い神の愛の御旨に従うことを中心にする立場で考えるように致しましょう。メシアは、確かに「国々の光」となり、神の救いを「地の果てまでもたらす者」となっておられる、と思います。

④ 本日のミサの答唱詩編には、「神よ、あなたの不思議な業は数えきれず、そのはからいは類なく、私がそれを告げ知らせても、全てを語り尽くすことはできない」という詩編40番の言葉がありましたが、実際神の創造の御業も救いの御業も数多くの神秘に満ちていると思います。その神秘を感謝と驚きのうちに素直に受け止め、そこに人間中心の理知的説明などを持ち込まないよう気をつけましょう。

⑤ 本日の第二朗読はコリント前書冒頭の挨拶文ですが、その中にある「至る所で私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」という言葉に注目致しましょう。使徒パウロはこの言葉で、コリントにいる信徒団だけではなく、同時に世界各地の至る所でキリストによる救いの恵みを受けているすべての人を思い浮かべていると思います。その上で「イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にありますように」と、その挨拶文を結んでいるのだと思います。

⑥ 教会がこの挨拶文を本日の朗読聖書として採用したのは、召されて聖なる者とされ、キリストの恵みにあずかっている全世界の全ての人は、主イエス・キリストにおいて皆一つの民、一つの体にされているという、規模の大きな喜ばしい聖書の教えに従い、神の民全体と内的に結ばれて生活させるためであると思います。忽ち過ぎ去る目前の小さな現実、自分個人の成功・失敗、あるいは喜び・苦しみだけではなく、神の御前ではそれらが主において他の人たちの救いや成功・失敗、あるいは喜び・苦しみとも内的に関連していることを、見逃さないように心がけましょう。キリスト教一致祈祷週間にあたって、全てのキリスト教各派が個々の教派の枠を超えて、広い大らかな心で相互の幸せのために祈り、苦しみを献げる精神を広まるためにも尽力しましょう。

⑦ 福者マザー・テレサは、こんな話をなさったことがあります。「病気の人や体の不自由な人は、……自分の苦しみを捧げながら、(私と)完全なつながりをもって貢献しているのです。二人はまるで一人となり、お互いをもう一人の私と呼び合います。この前に訪れた時、そのもう一人の私は私に言いました。『あなたはこれから歩き回り、働き、人々に語り、ますます大変な時を迎えようとしているのが分かります。私の背骨の痛みが、そのことを語っています』と。彼女はその時、17回目の手術の直前でした。私が何か特別なことを実行する時はいつも、彼女が私の影となり、そのことを成し遂げる力と勇気の全てを、私に与えてくれるのです」という話です。

⑧ 使徒パウロもコリント後書1章に、「キリストの苦しみが満ち溢れて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れています。私たちが悩み苦しむ時、それはあなた方の慰めと救いになります。また私たちが慰められる時、それはあなた方の慰めになり、あなた方が私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるためです。云々」と書いています。こうして遠く離れている人同志でも、主キリストにおいて苦しみや慰めを分かち合い助け合いながら信仰に生きることが、私たちにとっても大切なのではないでしょうか。私は、私がお世話になったドイツ人宣教師たちの模範に従って、煉獄といわれる清めの状態に置かれているあの世の霊魂たちのために、毎日小さな祈りや苦しみを献げていますが、時々その清めの霊魂たちに教えられ助けられたのではないかと思うような、小さな気付きや導き・助けなどを体験しています。それで、あの世の人たちも主において私たちと一つに結ばれており、互いに助け合うことができるのだと確信しています。

⑨ 本日の福音は、ヨルダン川で主イエスに悔い改めの洗礼を授けて天からの証しを目撃した洗礼者ヨハネが、そのイエスについて人々に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を」という言葉で始まる証しをなした話であります。しかし、これについては先週の日曜日にも話しましたので、ここでは省きましょう。全人類の罪科を背負ってその赦しを神に願いつつ生き抜き、受難死を遂げられた神の御子キリストにおいて、私たちは皆一つの聖なる体の細胞のようになって、相互に深く結ばれている存在であることを思い、愛と信頼と希望のうちに互いに助け合い補い合って生きるよう心がけましょう。

2011年1月9日日曜日

説教集A年:2008年1月13日主の洗礼(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 42章1~4、6~7節
第2朗読 使徒言行録 10章34~38節
福音朗読 マタイによる福音書 3章13~17節


① 本日の第一朗読は、第二イザヤがバビロン捕囚時代のイスラエルの民に、神による解放の希望を予告した話の一節であります。イザヤ書には「主の僕の歌」と言われるものが四つありますが、本日の第一朗読の1節から4節までが、その最初のものであります。ユダヤ教では、この「主の僕」は誰か特定の人、例えばイスラエルの民をバビロン捕囚から解放したクロス王か預言者の誰かを指しているのか、それともイスラエルの民全体を指しているのか、などと議論された時代がありましたが、キリスト教では本日の福音にもあるように、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時に天から聞こえた声、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」に基づいて、主イエスを指していると信じています。

② 主イエスが「神の僕」として実際に歩まれたその生き方を、洗礼によって主イエスの命に内的に結ばれている私たちキリスト者からも、天の御父神は期待しておられ、私たちについても同じ「主の僕の歌」を語っておられるのではないでしょうか。弱い人間の力ではできない生き方ですが、主イエスの御命に深く一致することにより、可能な限り御父神のご期待に応えるよう心掛けましょう。そして少しでも多く、神の愛の道具となって多くの人の救いのために尽力するよう努めましょう。

③ 本日の第二朗読は、ヨッパで昼の祈りを捧げていた時に3回も幻の中で神の声を聞いた使徒ペトロが、カイザリアからの百人隊長コルネリオの使者たちに伴って、その異邦人の家に行った時に語った話の一部です。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」という言葉は、ペトロがヨッパで幻のうちに聞いた神の声に基づいています。神はユダヤ人・異邦人の区別なく、どんな国の人であっても、全ての人の主と立てられたイエスによって清くし、救って下さるのです。神から聖霊と力によって油注がれた者とされた主は、方々を巡り歩いて、ユダヤ人・異邦人の区別なく多くの人を助け、病気や悪魔に苦しめられている人たちを全て癒されたことを、ペトロはここで改めて思い出し、「それは、神がご一緒だったからです」と話しています。神よりの恵みや洗礼の恵みを、教会というこの世での人間集団や組織の枠内だけに限定して考えないよう気をつけましょう。善人にも悪人にも恵みの雨を降らせて下さる神は、時には教会という人間集団の規定を超えて、他の集団に属する人たちにも超自然の恵みを与えることをお望みになるのです。何よりもその神の御心に心の眼を向けながら、主イエスにおいて神の子とされる救いの恵みを、多くの人に伝えるよう心がけましょう。

④ 本日の福音に読まれるヨルダン川での主イエスの受洗は、メシアとしての「神の国宣教活動への就任式」と申してもよいと思います。主はメシアを待望していた一般民衆の列に加わり、民衆の一人となって洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるために、ヨハネの前に現れます。ヨハネはすぐ主を識別し、悔い改めの受洗を思い留まらせようとして、「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私の所へ来られたのですか」と申します。しかし主は、「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになります。

⑤ ここで「正しいこと」という言葉は、天の御父の御旨を指していると思います。天の御父は、メシアが救われるべき私たち罪人と全く同じ姿になり、か弱い乳飲み子となってこの世に生れ、ナザレの子供たちと遊びながら苛めや孤独も体験し、長じてヨゼフの仕事を手伝いながら汗水を流すことも、また民衆の一人となって社会の罪、多くの人の罪を背負って悔い改めの洗礼を受けることも、お望みになったのだと思います。洗礼者ヨハネはそのお言葉に従い、主を他の人たちと同様にヨルダン川の水の中に沈め、悔い改めの洗礼を授けました。主がその水の中から上がられると、それまで厚い雲に閉ざされていた天が主イエスに向かって開け、太陽の光が主を照らし出したようです。そして神の霊が鳩の姿で主の上に降り、天から「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という声が聞こえたのではないでしょうか。

⑥ それを目撃した洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書によると、主が後で自分の方に来られるのを見て弟子たちに、「御覧なさい。世の罪を除く神の小羊を。『私の後に来られる方は、私より優れておられる。私より先に存在しておられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。」「しかし、水の洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『あなたは、霊がある人の上に留まるのを見る。その方こそ聖霊によって洗礼を授ける者である』と言われた。私はそれを見た。それで私は、この方こそ神の子である、と証ししたのである」と話しています。「世の罪を除く神の小羊」という表現から察しますと、洗礼者ヨハネは、罪がないのに悔い改めの洗礼をお受けになった主イエスが、この世の社会の罪、全人類の罪を背負って、いけにえの小羊のように殺される運命にあることを見抜いており、その先駆者として神から派遣された自分も、同様に殉教する使命を神から戴いているのだと覚悟していたのではないでしょうか。

⑦ この話の中にある「私はこの方を知らなかった」という言葉に躓く人もいるようですが、察するに、母の胎内にいた時から聖霊の恵みに浴していたヨハネは、自分の血縁者・身内である人間イエスが神の子であることは、子供の時からよく聞き知っていたと思います。しかし、そのイエスの上に神の御旨がどのように働くのか、イエスがメシアとしての使命をどのように果たされるのかなど、イエスの人生の将来については何も知らずにいた、という意味なのではないでしょうか。天使のお告げによってイエスが神の子であること、ダビデの王座に就き、その治世が永遠に続くことは信じていた聖母マリアも、その子イエスの人生の将来に何が待っているかなどについては、始めは何も知らずにいたのではないでしょうか。それでイエスの周辺に起こる出来事を全て心の内に留め、神の御旨をたずね求めつつ考え合わせておられたのではないでしょうか。「信仰に生きる」「信仰の道を歩む」ということは、このようにしてまだ明らかに知らされていない神の御旨に心の眼を向けながら、信頼と希望の内に生きることだと思います。おそらく人間イエスも、この世においてはそのようにして信仰の道を歩んでおられたことでしょう。

⑧ 神から水の洗礼を授けるようにと派遣された洗礼者ヨハネも、その神から「あなたは霊がある人の上に降って留まるのを見るが、その方が聖霊によって洗礼を授ける者である」という啓示を受けた段階では、それが何時どのような形で起こるのかは全く知らず、聖母マリアと同様に自分の身の回りに起こる出来事を慎重に心の中で考え合わせながら、予告されたその出来事を目撃する日を待っていたのではないでしょうか。「私はこの方を知らなかった」という洗礼者ヨハネの言葉は、この事を指していると思います。

⑨ 私たちも、神が自分の人生の将来に何を予定しておられるか何も知りませんが、聖母や洗礼者ヨハネたちのように、身の回りに起こる全ての出来事を心に留めて考え合わせつつ、絶えず神の御旨をたずね求めていましょう。神の御導きを正しく発見し、それに一層よく従うことができますように。

2011年1月2日日曜日

説教集A年:2008年1月6日主の公現(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 60章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節
福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

① 本日の第一朗読は、第三イザヤがバビロンから帰国した神の民を励まし力づけるために、遠い将来に対する明るい展望を予見して、当時のユダヤの人々が連想し易いイメージを象徴的に用いながら、預言したものであると思います。したがって、この世の歴史的現実においてはその言葉通りの出来事が起こらなかったとしても、それに躓く必要はありません。メシアの来臨によって無数の異邦人をも加えるに至った神の民の世界的広まりと発展は、それらのイメージによって象徴的に語られた将来展望を、ある意味で確かに実現していますから。

② ここでイザヤが「ミディアン」と言っているのは、最古のらくだ遊牧民として知られる北西アラビア地方の部族を指していますが、「エファ」とあるのは不明です。イスラエルと接触のあった、同じ地方の部族かも知れません。「シェバ」とあるのは、「シェバの女王」で有名な、アラビア南部の民族を指していると思います。それから答唱詩篇に登場する「タルシス」は、当時フェニキアの商船が行き来していた今のスペイン南部の地方を指しており、「シバ」は今話したアラビア半島南端に近い「シェバ」の地を、「セバ」は紅海をはさんでその対岸の少し南の地方に住んでいたエチオピアの一民族の地を指しています。ソロモン王がフェニキア人に頼んで10隻建造してもらった大きな商船は、紅海を経てアフリカの東海岸の産物を輸入する途中で、シバにもセバにも立ち寄ってエルサレムを一層豊かにしていたでしょうから、これらの地名は詩篇72を介して、当時のユダヤ人たちに、過去の豊かな繁栄時代の記憶と結ばれてなじみ深いものとなっていたと思われます。ソロモン王はアカバ湾北西の地帯で鉄と銅の大きな鉱脈を発見し、古代オリエントで最大の製錬能力を持つ溶鉱炉を活用して、巨万の富を築いた王でした。

③ 本日の第二朗読には、神の「秘められた計画が啓示によって私に知らされました」という言葉が読まれます。この計画というのは、神の霊に照らされ導かれている知性によってのみ悟ることのできる神秘な奥義であって、理知的な人間理性では知り得ない神のご計画であります。ですから使徒パウロは「秘められた計画が啓示によって私に知らされました」と書いたのです。キリスト教の信仰は、根本的に神から啓示されたこのご計画に従うこと、しかも自ら進んで神の僕・婢となり謙虚に従いながら生きることであり、人間が聖書から学び取った合理的真理に従って生きることではありません。

④ 中世の偉大な神学者聖トマス・アクィヌスは、真理を理解する人間の能力をintellectus(知性)とratio(理性)との二つに分けて、知性を心で全体的に直観し悟る能力、理性を理知的推理考察を手段として理解する能力と説明しています。理性はこの世の経験的事物現象を観察し、その背後にある真理や原理を発見したり理解し説明したりする理知的能力で、この世で生活するのに役立つ各種の知識や技術を習得・練磨するのにも必要な能力であります。人類の近代文明は人間のこの理知的能力によって大いに発展し、豊かな文明世界を世界中に広めました。

⑤ しかし、人間が見聞きするこの世の経験に基づいて自主的に考える理性は、神よりの啓示に基づいて心で実践的に悟ることや、神の霊の導きを直観的に悟り、それに従って行く心の宗教的悟りには向いておらず、そのためには知性というもう一つの優れた能力が心に与えられているというのが、聖トマス・アクィヌスの思想だと思います。理性は「頭の能力」ですが、知性は神から心の奥底に与えられている宗教的な愛と芸術的なセンスに根ざしている、どちらかと言うと「心の能力」と言ってよいと思います。聖トマスはこの立場から信仰と知性とのバランスよい協働を唱道していますが、14世紀頃から神のご計画や神の啓示よりも、人間のこの世の体験や生活を中心にして自主的に考えようとする、人間中心のいわゆる人文主義思潮が広まり始め、16世紀には教会の組織や教理も聖書に基づいてもっと合理的に改革しようとする宗教改革が大きな流れになったり、17世紀には、「我思う。故に我あり」の、自分個人を中心にして全てを合理的に見直し考え直そうとしたデカルトを初めとして、人間中心の新しい近代思想が広まり始めました。すると、英語などでもintellect(知性)とreason(理性)とが同じ意味で使われるようになり、神から人間に与えられている二つの対照的に異なる能力の違いが、多くの人には分からなくなってしまいました。この人文主義的近世思想やその後の啓蒙主義思想の影響を、現代人も受け継いでいます。したがって、現代人が聖書が求めている神の僕・婢としての徹底的従順心に根ざした実り豊な信仰生活を営むには、全てを合理的に理解し企画することを中心とする生き方から脱皮して、まず心の奥底の知性的能力をあの世の神に向けて目覚めさせ、神の働きや神の現存を感謝の心で感知し、受け止めることから始めなければならないように思います。現代文明の混沌とした流れの中で道を模索して悩んでいる多くの人たちのために、神の照らしと導きを願い求めながら、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

⑥ 本日の福音の中心をなしているのは、確か2年前にも申したように、ヘロデ王でも東方の博士たちでもありません。この世にお生まれになった神の子メシアです。このメシアの来臨が、ヘロデ王のようなこの世の富や権力の獲得保持を第一にして生きている人間の心に、深刻な不安を与えるのです。その支配下にあって旨い汁を吸いながら生きていたユダヤ教指導者たちは、ヘロデ王の怒りや嫌疑を買わないよう、生まれたばかりのメシアには無関心を装います。しかし、そういうこの世の流れから自由になってひたすら人類の救い主を待望し、メシア中心に生きようとしていた人たちは、東方の博士たちのように、あるいはマリアとヨゼフ、ベトレヘム周辺の羊飼いたちのように、幼子のメシアに会って心が大きな喜びに満たされ、恵みのうちに高められて行きます。しかし本日の福音は、そのような信仰に生きる人たちに、ヘロデ王のような人たちからの恐ろしい迫害がなされることもあることを教えています。神の導きに対する知性的信仰感覚を磨いていましょう。そうすれば、東方の博士たちやヨゼフのように、神が護り導いて下さいます。

2011年1月1日土曜日

説教集A年:2008年1月1日神の母聖マリア(三ケ日で)

第1朗読 民数記 6章22~27節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 2章16~21節

① 先日ふとしたことから、万葉集の最終歌が正月の歌であることを知って嬉しくなりました。それは、中央政権から遠ざけられることの多かった大伴家持が、因幡守として開いた正月の宴会で詠った歌で、万葉集巻二十の最後に載っています。「新しい年の始めに降り積もる新春の雪のように、ますます重なってくれ、吉き事よ」と、年始めの寒波がもたらす新しい雪を、その年に受ける数々の恵みの徴として喜び迎えているような、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)」という歌であります。昨年は、思い寄らないような不幸な事件が次々と発生したり明るみに出たりして、多くの人を不安にした年でもありましたが、その苦しい寒波に負けずに、その寒波がもたらした神よりの招きの声と新しい恵みの徴に心の眼を向けながら、感謝と希望のうちに新しい1年の生活を始めましょう。

② 本日の第一朗読には、神がモーセを介して教えて下さった民を祝福する言葉があります。イスラエルの民が神の名を崇め、祭司がこの言葉で民を祝福する時、「私は彼らを祝福するであろう」と神は約束しておられます。それで旧約時代のイスラエルの祭司たちは、礼拝するために集まって来た民に対し、この言葉を唱えて祝福していました。神は信仰に生きる人々を愛し、祝福なさりたいのです。その人たちに豊かな恵みをお与えになりたいのです。神のこの温かいお心は、今も変わっていません。感謝と希望のうちに、素直な幼子の心になって神に近付きましょう。

③ 本日の第二朗読は、神が私たちを神の子とするために、この世にお遣わしになった神の御子の霊を私たちの心に送って下さることを教えています。十字架刑をお受けになった主イエスについて非常に多く書いている使徒パウロは、聖母マリアについてはほとんど何も書いていませんが、ただガラテヤ書4章の本日の朗読箇所を執筆した時だけは、この世にお生まれになった幼子イエスと一緒に、その聖母マリアについても考えていたと思われます。「時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と書いていますから。「アッバ、父よと叫ぶ御子の霊」と書いた時、パウロは幼子イエスのお姿を心に描いていたと思われます。パウロの数多くの書簡の中で、聖母マリアに言及している個所は、この一箇所だけです。しかし、使徒パウロの第二回と第三回伝道旅行に伴っていて、「我々は」という言葉を連発しながらその旅行記を書いているルカは、最初のクリスマス前後の出来事について直接聖母から詳しく聞いて書き残していますし、聖母について最も多く書いている福音記者でもありますから、使徒パウロも、そのルカを介して、聖母とその聖霊による神の御子ご懐妊のことなどをいろいろと聞いていたと思われます。

④ 本日の福音は、天使によって救い主誕生の知らせを受けたベトレヘム近郊の羊飼いたちの、喜びに満ちた反応について語っています。12, 13世紀の十字軍遠征が失敗に終わり、ヨーロッパから聖地への巡礼がほとんど途絶えた後に始まったルネッサンス時代には、アシジの聖フランシスコ以来の幼子イエスに対する信心を発展させて、クリスマスを祝う教会内に箱庭のような馬屋を作り、そこに幼子イエスとマリアとヨゼフのきれいな御像を飾る慣習が広まりましたが、そこにはベトレヘムの羊飼いたちの像も飾られていて、彼らが羊飼いであることを示すために、羊たちの像も置かれています。

⑤ これは、メシアがお生まれになってから千年以上も後のルネサンス人たちが、自由な想像と敬虔な信仰心で作り上げた美しいクリスマスの情景で、私はそのこと自体に反対ではありませんが、しかし、そこには2千年前の現実とは異なると思われることも幾つかあります。例えば天使ははっきりと「ベトレヘムの町の中に」と告げているのに、町の外の破れかかった家畜置場を描いたり、夜中に群れと一緒に眠っている羊たちを起こして、お生まれになった乳飲み子を捜すのに連れて行ったかのように想像したりするのは、現実離れしていると思います。聖書には「急いで行って」「探し当てた」とあり、羊を連れて行くとなると、動きが遅くなるからです。一緒に野宿していた誰かが群れ全体の見回り番をし、他の羊飼いたちが走って行ってお生まれになった幼子メシアを探し当て、拝んだのではないでしょうか。

⑥ このような多少の不完全や疑問点があるとしても、野宿していた貧しい羊飼いたちが、社会の多くの人たちの中でも真っ先に、天使からメシア誕生の知らせを受け、早速それを確認しに行ったこと、そしてそれを他の人たちにも知らせたことは、真に美しい詩的な喜ばしい話だと思います。神はこのようにして、メシアの誕生を当時の庶民たちにも知らせたのですが、この段階では果たしてどれ程人たちが貧しい羊飼いたちの話を信じたでしょうか。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた」という聖書の言葉は、神を忘れて全てを人間中心に考える人の多い現代に生きる私たちにとっても、大切だと思います。人間中心主義からは、羊飼いたちが味わったような心の本当の深い喜びは湧いて来ません。私たちはもっと神の働きに心の眼を向けながら、聖母や羊飼いたちと共に、新しい一年を神の御手からお受けするように致しましょう。

⑦ ご存じのように、公会議後の1968年から元日はカトリック教会で「世界平和の日」とされています。今年のこの日のために現教皇がお出しになったメッセージは、まず家庭の平和、身近な社会の平和から説き起こしています。世界の平和の基礎は、私たちに一番身近な人間関係における、何よりも神の権威に従い神の愛に生きようとする平和共存の精神にあると思います。私たち相互の人間関係の中で、主キリストがもたらしたこのような平和の精神が生き生きと証しされるよう、照らしと恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。