2011年1月23日日曜日

説教集A年:2008年1月27日年間第3主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 8章23b~9章3
節第2朗読 コリントの信徒への手紙1 1章10~13、17節
福音朗読 マタイによる福音書 4章12~23節


① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀に第一イザヤが告げた預言ですが、そこに「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが」とある言葉は、ガリラヤ湖の北西地方に住んでいた二つのイスラエル部族が、ちょうどこの第一イザヤの時代にアッシリア軍に侵略され、ガリラヤ地方、サマリア地方に住んでいたイスラエルの他の諸部族と共に、アッシリア帝国の支配下に入れられたことを指していると思います。神から「イスラエル」の名をもらった太祖ヤコブには4人の妻がいて、ヤコブが一番愛した妻ラケルにはなかなか子供が生まれず、他の3人の妻たちに遅れて、一番最後に二人の男の子ヨゼフとベンヤミンを産んだのでした。

② 妻リアは、男の子6人を産みましたが、その6人目の子供がゼブルンです。妻ゼルファと妻バラは、それぞれ二人の男の子を産みましたが、妻バラが産んだ二人目の男の子がナフタリです。太祖ヤコブのこれら12人の男の子の名前は、それぞれその子孫12部族の部族名とされました。モーセに引率されてエジプトを脱出したイスラエル12部族は、ヨシュアに率いられて攻め取った約束の地カナアンで土地の分配にあずかり、ヤコブの妻リアの血を受けたユダ族は一番南の地方、今のエルサレム近辺に定住しましたが、同じリアの血を受けて最後に生まれたゼブルンの子孫とバラの血を受けて最後に生まれたナフタリの子孫とは、一番北の地方に定住したようです。

③ なお、リアの血を受けてユダよりも一つ先に生れたレビの子孫は、そのレビ族に所属するモーセの規定によって、土地の分配を受けずに宗教行事を担当し、他の諸部族からの神への献げ物によって生計を立てていました。ユダ族出身のダビデ王がエルサレムを攻略して神の民の都とし、そこに契約の櫃を迎えて彼らの宗教的中心にすると、レビ族もユダ族と深く結ばれて生活するようになりましたが、今年の主の公現祭にも申しましたように、ソロモン王の時代に実に豊かになったユダの地は、ガリラヤやサマリアと違って、残酷なアッシリアの侵略を免れることができました。イザヤ預言者はその時点で、ユダの地とは比較にならない程悲惨な状態に落されたゼブルンの地、ナフタリの地、異邦人の土地と化したガリラヤを慰めるかのように、それらの土地がいつか将来に、「栄光を受ける」日が来ることを預言したのだと思います。預言者はこの時、数百年後にメシアがまずこれらの土地の人たちを病気などから奇跡的に癒し、これらの土地の人たちに神の国の教えを説く輝かしいお姿を予見していたのでしょう。

④ 本日の福音の中で、マタイはイザヤ書にあるこの預言のことを思い出しています。主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞くとガリラヤに退かれましたが、ご自分の故郷ナザレではなく、「ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに」お住みになったからです。そしてその時から主は、洗礼者ヨハネの後を受けて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に力強く呼びかけ、神の国の宣教をお始めになりました。主がなされた数々の奇跡の話は、ガリラヤとユダの諸地方だけではなく、遠く離れたシリアの諸地方にまでも語り伝えられ、ユダヤ人も異教徒も、数えきれない程多くの人が神よりの人・主イエスを一目見よう、そして自分たちの病人も癒してもらおうと、その御許にやって来ました。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。云々」というイザヤの預言は、その喜びの情景を描いています。

⑤ 本日の福音の後半は、主イエスがそのカファルナウムに住む若い漁夫たち4人を、ご自分の弟子としてお召しになった話ですが、彼らがすぐに、網も舟も父親も残して主のお招きに従って行ったことは、注目に値します。聖書の教えているキリスト教信仰の特徴は、神よりの招きに従って行動することにある、と申してもよいのではないでしょうか。まず「聖書を読め。聖書を読め」と言って伝道する人たちもいますが、しかし、国家や社会や家庭が内側から崩壊する危機に直面している時ならいざ知らず、奥底の心がまだ半分眠っていて、表面の理知的な精神だけが活発な人たちに聖書を読ませても、疑問に思うことが次々と生じて来て、なかなか神信仰へと踏み切れないのではないでしょうか。それではいけません。聖書が教えているのは、自主的な真理探究の宗教ではなく、何よりも神よりの啓示や招きを素直に受け止め、それに従って行動する従順の信仰であり、その実践の積み重ねを介して神の啓示や真理に対する奥底の心のセンスや眼が次第に磨かれて来る宗教であります。

⑥ 主に召された無学なガリラヤの漁夫たちは、よく分からなくても主のお言葉に従順に従い続けることにより、ついには社会のどんな知識人たちにも負けずに宣教する偉大な使徒たちになったのではないでしょうか。主から修道生活へと召された私たちの歩む道も、同様だと思います。修道家族という共同体を造って生活するのですから、そこに様々の危険や対立を回避するための規則があるのは当然ですが、それはいわばガードレールのような手段で、それらの規則に背かないようにしているだけでは、主が私たち各人から期待しておられる薫り高い修道的愛の実を結ぶことはできません。平凡な日常茶飯事の中での、主の声なき声に対する心の感覚を磨くことに努めましょう。そして主の招きに対する従順と神の愛の実践に心がけましょう。これが私たちの信仰生活、修道生活にとって一番大切なことだと思います。私たちの心の仕合わせと喜びも、信仰の確証もそこから生まれ育って来ます。本日のミサ聖祭の中で、そのための照らしと導きの恵みも主に願い求めましょう。