2011年1月9日日曜日

説教集A年:2008年1月13日主の洗礼(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 42章1~4、6~7節
第2朗読 使徒言行録 10章34~38節
福音朗読 マタイによる福音書 3章13~17節


① 本日の第一朗読は、第二イザヤがバビロン捕囚時代のイスラエルの民に、神による解放の希望を予告した話の一節であります。イザヤ書には「主の僕の歌」と言われるものが四つありますが、本日の第一朗読の1節から4節までが、その最初のものであります。ユダヤ教では、この「主の僕」は誰か特定の人、例えばイスラエルの民をバビロン捕囚から解放したクロス王か預言者の誰かを指しているのか、それともイスラエルの民全体を指しているのか、などと議論された時代がありましたが、キリスト教では本日の福音にもあるように、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時に天から聞こえた声、「これは私の愛する子、私の心にかなう者」に基づいて、主イエスを指していると信じています。

② 主イエスが「神の僕」として実際に歩まれたその生き方を、洗礼によって主イエスの命に内的に結ばれている私たちキリスト者からも、天の御父神は期待しておられ、私たちについても同じ「主の僕の歌」を語っておられるのではないでしょうか。弱い人間の力ではできない生き方ですが、主イエスの御命に深く一致することにより、可能な限り御父神のご期待に応えるよう心掛けましょう。そして少しでも多く、神の愛の道具となって多くの人の救いのために尽力するよう努めましょう。

③ 本日の第二朗読は、ヨッパで昼の祈りを捧げていた時に3回も幻の中で神の声を聞いた使徒ペトロが、カイザリアからの百人隊長コルネリオの使者たちに伴って、その異邦人の家に行った時に語った話の一部です。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」という言葉は、ペトロがヨッパで幻のうちに聞いた神の声に基づいています。神はユダヤ人・異邦人の区別なく、どんな国の人であっても、全ての人の主と立てられたイエスによって清くし、救って下さるのです。神から聖霊と力によって油注がれた者とされた主は、方々を巡り歩いて、ユダヤ人・異邦人の区別なく多くの人を助け、病気や悪魔に苦しめられている人たちを全て癒されたことを、ペトロはここで改めて思い出し、「それは、神がご一緒だったからです」と話しています。神よりの恵みや洗礼の恵みを、教会というこの世での人間集団や組織の枠内だけに限定して考えないよう気をつけましょう。善人にも悪人にも恵みの雨を降らせて下さる神は、時には教会という人間集団の規定を超えて、他の集団に属する人たちにも超自然の恵みを与えることをお望みになるのです。何よりもその神の御心に心の眼を向けながら、主イエスにおいて神の子とされる救いの恵みを、多くの人に伝えるよう心がけましょう。

④ 本日の福音に読まれるヨルダン川での主イエスの受洗は、メシアとしての「神の国宣教活動への就任式」と申してもよいと思います。主はメシアを待望していた一般民衆の列に加わり、民衆の一人となって洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けるために、ヨハネの前に現れます。ヨハネはすぐ主を識別し、悔い改めの受洗を思い留まらせようとして、「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私の所へ来られたのですか」と申します。しかし主は、「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになります。

⑤ ここで「正しいこと」という言葉は、天の御父の御旨を指していると思います。天の御父は、メシアが救われるべき私たち罪人と全く同じ姿になり、か弱い乳飲み子となってこの世に生れ、ナザレの子供たちと遊びながら苛めや孤独も体験し、長じてヨゼフの仕事を手伝いながら汗水を流すことも、また民衆の一人となって社会の罪、多くの人の罪を背負って悔い改めの洗礼を受けることも、お望みになったのだと思います。洗礼者ヨハネはそのお言葉に従い、主を他の人たちと同様にヨルダン川の水の中に沈め、悔い改めの洗礼を授けました。主がその水の中から上がられると、それまで厚い雲に閉ざされていた天が主イエスに向かって開け、太陽の光が主を照らし出したようです。そして神の霊が鳩の姿で主の上に降り、天から「これは私の愛する子、私の心にかなう者」という声が聞こえたのではないでしょうか。

⑥ それを目撃した洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書によると、主が後で自分の方に来られるのを見て弟子たちに、「御覧なさい。世の罪を除く神の小羊を。『私の後に来られる方は、私より優れておられる。私より先に存在しておられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。」「しかし、水の洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『あなたは、霊がある人の上に留まるのを見る。その方こそ聖霊によって洗礼を授ける者である』と言われた。私はそれを見た。それで私は、この方こそ神の子である、と証ししたのである」と話しています。「世の罪を除く神の小羊」という表現から察しますと、洗礼者ヨハネは、罪がないのに悔い改めの洗礼をお受けになった主イエスが、この世の社会の罪、全人類の罪を背負って、いけにえの小羊のように殺される運命にあることを見抜いており、その先駆者として神から派遣された自分も、同様に殉教する使命を神から戴いているのだと覚悟していたのではないでしょうか。

⑦ この話の中にある「私はこの方を知らなかった」という言葉に躓く人もいるようですが、察するに、母の胎内にいた時から聖霊の恵みに浴していたヨハネは、自分の血縁者・身内である人間イエスが神の子であることは、子供の時からよく聞き知っていたと思います。しかし、そのイエスの上に神の御旨がどのように働くのか、イエスがメシアとしての使命をどのように果たされるのかなど、イエスの人生の将来については何も知らずにいた、という意味なのではないでしょうか。天使のお告げによってイエスが神の子であること、ダビデの王座に就き、その治世が永遠に続くことは信じていた聖母マリアも、その子イエスの人生の将来に何が待っているかなどについては、始めは何も知らずにいたのではないでしょうか。それでイエスの周辺に起こる出来事を全て心の内に留め、神の御旨をたずね求めつつ考え合わせておられたのではないでしょうか。「信仰に生きる」「信仰の道を歩む」ということは、このようにしてまだ明らかに知らされていない神の御旨に心の眼を向けながら、信頼と希望の内に生きることだと思います。おそらく人間イエスも、この世においてはそのようにして信仰の道を歩んでおられたことでしょう。

⑧ 神から水の洗礼を授けるようにと派遣された洗礼者ヨハネも、その神から「あなたは霊がある人の上に降って留まるのを見るが、その方が聖霊によって洗礼を授ける者である」という啓示を受けた段階では、それが何時どのような形で起こるのかは全く知らず、聖母マリアと同様に自分の身の回りに起こる出来事を慎重に心の中で考え合わせながら、予告されたその出来事を目撃する日を待っていたのではないでしょうか。「私はこの方を知らなかった」という洗礼者ヨハネの言葉は、この事を指していると思います。

⑨ 私たちも、神が自分の人生の将来に何を予定しておられるか何も知りませんが、聖母や洗礼者ヨハネたちのように、身の回りに起こる全ての出来事を心に留めて考え合わせつつ、絶えず神の御旨をたずね求めていましょう。神の御導きを正しく発見し、それに一層よく従うことができますように。