2011年8月28日日曜日

説教集A年:2008年8月31日年間第22主日(三ケ日で)

第1朗読 エレミヤ書 20章7~9節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 12章1~2節
福音朗読 マタイによる福音書 16章21~27節

① 本日の三つの朗読聖書は、自分中心・人間中心の考えや生き方を捨てて、多くの人の救いのため自分の命をいけにえとして神に献げ、神の御旨に従って生きるように心がけよ、という勧めの観点から選ばれているように思います。第一の朗読聖書は「エレミヤの告白」と呼ばれている個所の一つで、神が告げるようお命じになった御言葉を告げたために、神の都エルサレムとその神殿は滅びることがないと信じていたユダヤ人たちから非難され迫害されたエレミヤが、神にその苦しみを訴えた嘆きの言葉です。もう「主の名を口にすまい、その名によって語るまい」と思っても、神の御言葉は預言者の心の中で火のように燃え上がり、エレミヤはそれを抑えることに疲れ果て、どれ程人々から迫害されようとも、神よりの厳しい警告の言葉を語らざるを得なかったようです。

② この預言者の苦しみと似たような苦しみを感じている人たちは、未だ嘗てなかった程の大きな過渡期に直面している、現代のキリスト教会の中にもいるかも知れません。日本のカトリック新聞にはほとんど載っていませんが、先日この8月のキリスト新聞を通覧していましたら、ドイツのカトリック教会で「教会封鎖めぐり紛糾」という記事がありました。ドイツ北東部のニーダー・ザクセン州のカトリック、ヒルデスハイム教区では、438教会のうち80の教会が閉鎖されると新聞が報じたことからこの紛糾が始まったようです。しかし、ヒルデスハイム教区のトレル司教は、カトリック信者の懸念と怒りは十分に理解するが、他の教会を救いそこを活動の最前線にするために、閉鎖はやむを得ないのだと弁明しています。司祭の不足やその他の理由で千数百年の伝統あるキリスト教が、こうして次々とヨーロッパ社会から消えて行くのを見るのは、司教にとっても本当に苦しい負け戦なのかも知れません。

③ 前にも申しましたように、牧師夫婦の生活費や子供の教員費などを抱えているプロテスタントではカトリック以上に教会維持費の激減に苦しみ、礼拝堂がレストランになったり、リースとなって貸し出されたりしているようです。ヒルデスハイム教区協議会では、そのルーテル派に会堂の共有を呼びかけ、ルーテル派もその構想を歓迎しているそうです。察するに、出席者激減のため日曜日のミサや礼拝は行われなくなっても、せめて葬儀や結婚式などはそれぞれの村で挙行できるよう、会堂の共有案がなされたのだと思います。私が神学生時代から文通していたドイツ人教区司祭を、1970年代に数回訪問した時には、その司祭はSiegenという町の主任司祭を務めながら、その周辺の三つの村の教会も担当していました。察するに、ヒルデスハイム教区で廃止されることになった50の教会というのは、いずれも若者のほとんどが都会に出てしまい、残っている信徒の高齢化も進んで、ミサに参加する人たちが少なくなっている村々の教会ではないかと思われます。

④ 先日フランシスコ会の教会法学者浜田了神父と会談していましたら、話題がドイツの教会の現状になった時、浜田神父は一度ぜひ日曜日にある村の教会にミサに来てほしいと依頼され、迎えの車に乗せられて行った普通の大きさの村の教会でミサに参加したのは、車で迎えに来た一家族と他に一人の老人だけだったそうです。数十年前まで大勢の村人で賑わっていたドイツや他のキリスト教国の教会は、最近ではこのようにして寂れて来ているようです。近年の日本の田舎と同様に、若者たちの多くが都会に出て行って子供の数も少なくなり、若さと活気を失って来たのでしょうか。

⑤ 各人のこの世の生活の豊かさや便利さだけを称揚して追求させる巨大な理知的現代文明の潮流は、全ての人の心に蒔かれているキリスト教信仰の遺伝子を抑えて、人間中心の新しい自主的遺伝子の数を激増させ、神が求めておられるような実を結べないようにしつつあるようにも見えます。今流行の遺伝子組み換え技術は、害虫や悪環境に強い動植物を造り出して農民や漁民の収益を画期的に拡大したり、ガソリンに代わる燃料を大量に産出して国益を増大させたりするのに利用されていますが、現代の宗教の分野でも、自分たちの影響力拡張のため、一部では一種の遺伝子組み換えが人間主導で試みられているように思われます。そのようにして神が本来望んでおられた、神に似せて創られた人間の生き方が人間主導で歪められると、いつの日か恐ろしい天罰を招くことになりはしないかと怖れますが、いかがなものでしょう。

⑥ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方の為すべき礼拝です。あなた方は、この世に倣ってはなりません」と勧めています。ここで「体」とあるのは、肉体だけではなく、精神も含めた人間全体を指していると思います。こうして自分をいけにえとして神に献げ、神の御旨に徹底的に従う聖なる存在に高めますと、そこに神の霊が働き始めて、「何が神の御旨であるか、何が善いことで神に喜ばれるか」を弁え知るようにして下さいます。これが、主キリストが身をもってお示しになった生き方ではないでしょうか。

⑦ 本日の福音の後半にも、「神のことを思わず、人間の事を思っている」とペトロを公然と叱責なされた主イエスは、「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。云々」と勧めておられます。私たちはこの世での限られた経験や学習から、どこにでも通用する普遍的真理や原理を学び取ろうとする、「理性」という能力を神から戴いています。それは、神の存在や働きまでも推測できる程の真に優れた能力ではありますが、しかし経験や学習の不備不完全から、原罪によって暗く複雑な世界にされているこの世では誤りに陥ることも多く、特にあの世の真理やあの世からの招き・導きなどについては感知するセンスに欠けています。でも神はもう一つ、私たちの心の奥底にあの世の神に対する憧れと愛という、もっと優れた知性的な信仰の能力を植え付けて下さいました。

⑧ これは、私たちの心がこの世に生を受けた時から本能的に持っている能力で、親兄弟や友人・隣人を介して神から与えられる愛のこもった保護・導き・訓練などを素直に受け止め、それに従おうとしていると、神の恵みによって目覚め、芽を出し、逞しく成長し始める生き物のような能力です。ここで言う「信仰」は、聖書にpistis(信頼)と表現されている、神の導き・働きへの信頼とお任せと従順の心で、自分で自主的に真偽・正邪を決定したり行動したりする、人間主導の能力ではありません。ですから主は、福音の中でそういう人間主導の「自分」というものを捨てて、従って来るよう強調しておられるのです。各人の心の奥底に植え込まれている神へのこのpistis(信頼・信仰)が大きく成長しますと、そこに神の愛・神の霊が働いて多くのことを悟らせて下さるだけではなく、また豊かな実を結ばせて下さいます。主がぺトロを「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責なされたのは、この世の人間主導の生き方に死んで、神の御旨中心の生き方へと目覚めさせ、強く引き入れるためであったと思われます。

⑨ 使徒パウロはコリント前書1章に、「神は(この世の)知恵ある者」「力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」と書いていますが、人間的外的にしどれ程無学無力であっても構いません。この世の知恵や人間中心の生き方を捨てて、愛する牧者の声に素直に聞き従う羊たちのように生きようとするなら、使徒パウロが記しているように、主キリストがその人たちの知恵となり、神の祝福を天から豊かに呼び下すのではないでしょうか。私たちも自分の命を神へのいけにえとして献げつつ、主に従い続ける恵みを願って、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年8月21日日曜日

説教集A年:2008年8月24日年間第21主日(藤沢の聖心の布教姉妹会で)

第1朗読 イザヤ書 22章19~23節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 11章33~36節
福音朗読 マタイによる福音書 16章13~20節

① 本日の三つの朗読聖書に共通しているのは、全能の神がその御摂理によって神の民の歴史を導いて下さる、という信仰だと思います。第一朗読は紀元前8世紀の中頃から長年ユダ国王ヒルキヤの宮廷を支配していた書記官シェブナという人物に対する、預言者イザヤを介して語られた神の言葉であります。このシェブナという人は、国王がまだ幼く若い時に国政を担当し、国王の父アハズ王が晩年大国のアッシリアに隷属した、その苦しい従属関係から王国を脱出させるため、前714年と705年に反アッシリア同盟に加入して失敗し、二度とも降伏して辛うじて王国の滅亡を免れましたが、しかし、国土の大半を失い、国内にはアッシリアからの異教勢力が強まってしまいました。

② アブラハムの神を信じ、前の国王アハズの政治を改めてユダ王国を異教勢力から完全に自由にしようと、長年にわたって努力し続けたのは評価できますが、しかし推察するに、彼はあまりにも神のための自分の人間的企画にだけ眼を注ぎ、その成功と実現のために神の助けを祈り求めていたのではないでしょうか。神の民のためではありますが、自分が立てた企画のために神の力も利用しようとしていた所に、神の御旨に沿わない本末転倒があったのではないでしょうか。そのため本日の朗読の始めにあるように、神は「私はお前をその地位から追う。お前はその職務から退けられる」とおっしゃって、ヒルキヤ王の王子エルヤキムにその権力を移し、彼が意図していたものを新たな形で実現させて下ったのだと思います。晩年のヒルキヤ王は、ユダ王国の『歴代誌』の著者から敬虔な王として高く評価され、神によってその寿命が延ばされた奇跡も伝えられています。何事にもまず神の御旨をたずね求めてそれに従おうとする生き方が、神の祝福をこの世にもたらすのだと思われます。

③ ここで、人間中心の合理主義的現代文明のグローバルな広がりの中で、私たち人類の直面している危機について少し考えてみましょう。アジアの各地では今「水の争い」が発生しています。人口増加による食糧需要の高まりや、経済発展に伴う工業用水急増のためだと思います。インドでは、借金をして井戸を深く掘ったのに水が出ず、自殺する農民が後を絶たないと聞いています。大企業による工業用水汲み上げのためだと思います。タイの穀倉地帯でも、水不足が深刻になっているそうです。宇宙から見れば、地球は他のどこにも見られない程美しい青い星で、まさに「水の惑星」であります。でもその水のほとんどは海水で、私たちの生活に役立つ淡水は、全体の2.5%に過ぎません。しかも、その淡水の多くは南極や北極の氷山で、高い山の氷河などをも差し引いた河川や地下水の量は、地球全体の水量の0.7%だけのようです。

④ 東大の沖教授らの試算によりますと、水を安定的に得るのが困難な人たちは、今の段階で既に25億人に上っており、今世紀の半ばには約40億人に増加すると予測されているそうです。40億人と言えば、全人類の半数を超える人数ですので、商工業の国際的発展で支配層や中間層の人々がどれ程裕福になっても、各国政府はそれぞれ解消し難い深刻な格差問題を国内に抱えることになると思います。それに、後進国が先進国並みに近代化するにつれて地球温暖化は刻々と進み、気候の不順・自然災害の巨大化・生態系の乱れによる害虫や疫病の異常発生などで苦しむ人たちが、予想を遥かに超えて急増するかも知れません。巨大な過渡期に伴う若者の心の教育や鍛錬の不足で、現代社会に生き甲斐を感じられない人たちによる無差別の悪魔的通り魔事件や自爆事件なども、文明社会の真っただ中に多発するかも知れません。

⑤ 悲観的な話をしてしまいましたが、これからの人類社会はこれまでのようには楽観できないように思います。人間中心の近代科学によって苦しめた自然界からの反逆も、まともに受けることになると思われるからです。人類の一部である私たちも、主キリストと一致してその苦しみをあの世での人類の救いのために喜んで甘受しましょう。神に対するパーソナルな愛と信頼を新たにしながら生活するなら、神の導きと助けによってどんな苦難にも耐えることができると信じます。

⑥ 「パーソナルな愛」というあまり聞き慣れない言葉を使いましたが、私の学んだ聖トマス・アクィヌスの教えによると、神の愛には特定の個人を対象にしたパーソナルな愛amorと、全ての被造物を対象にしている博愛caritasという我なしの献身的奉仕的な愛の側面があるようで、この二つは一つのものではありますが、聖書の『雅歌』や聖ベルナルドの説教などでは、神のパーソナルな愛amorの側面が強調されているように思われます。余談になりますが、大戦中に戦地の兵隊さんたちのために何かの不便や苦しみを喜んで献げる、「欲しがりません。勝つまでは」の、祖国のため我なしの節約教育を受けた私は、戦後カトリックに改宗して神言会の修道生活に召されると、神に対する心のパーソナルな繋がりと献げとを重視するようになり、ヨーロッパ留学を終えて帰国した1966年頃の日本の、「贅沢は美徳」などと言われていた高度発展期の消費ブームになじめず、神に清貧を誓った身なのだからと、一緒に生活している他の会員たちの自由な見解に配慮し、それに合わせるよう心がけながらも、自分個人としては愛する神の御旨に心の眼を向けつつ、できるだけ節電・節水などに心がけていました。

⑦ 今も毎朝神に対する献げの誓いを新たにしながら、なるべく無駄使いを少なくするよう心がけています。すると私に対する神の特別な愛の配慮や助けを小刻みに実感するようになり、日々喜びの内に生活しています。私が過去40年間に日本で見聞きしたことを回顧して見ますと、現代文明の豊かさ・便利さの中で生活するようになった多くの修道者は、どこまで許されており何が禁止されているかという規則にだけ眼を向けて、大きな愛をもって私たちに期待し、私たちを助けようとしておられる神のパーソナルな愛や御旨には、ほとんど注目していないように見えます。これは、2千年前に主イエスが身をもってお示しになった生き方ではなく、主が厳しく批判なされた規則中心主義の生き方に近いと思われます。そこには、神に対する幼子のような純真な愛が生きていませんから。世間の常識のままに水や電気を存分に消費していた修道者たちが、次々と召し出しを失ったり病気になったりした実例があまりにも多いように思います。神からの召命に留まり続けて豊かな実を結ぶには、規則遵守だけではなく、何よりも神のその時その時のパーソナルな愛の呼びかけや導きに心の眼を向けつつ、日々神への修道的献げを心を込めて証しする実践が、大切なのではないでしょうか。修道生活への召し出しは、神からの愛の呼びかけなのですから。

⑧ 本日の第二朗読は、人間の理知的な頭では理解し難い神の定め・神の道の神秘について感嘆していますが、危機的な現代の状況を賢明に無事生き抜くのにも、日々その神の導きに注目し、徹底的に従おうとする心がけが、一番大切なのではないでしょうか。また福音には、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、私の天の父なのだ」という主の御言葉が読まれます。天の御父は今も、私たちの心をご自身の道具のようにして使って下さいます。全てを自分で考え、神のためにも自分の好きなように全てをしようとするのではなく、自分の心を神の御手にある粘土や道具のように考えて、神の霊にご自由に使ってもらいながら生きようとするのが、現代の複雑多難な危機を無事に生き抜く一番賢明な生き方なのではないでしょうか。私たちが人間の企画中心主義にならないよう警戒し、神の御旨中心の「委ねと従順の精神で」現代の危機を無事生き抜くことができますよう、照らしと恵みを願い求めながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年8月15日月曜日

説教集A年:2008年8月15日聖母の被昇天(三ケ日)

第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節
福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

① 本日の集会祈願では、汚れのない聖母マリアの体も魂も天の栄光に上げられた神に、信じる民も聖母と共に永遠の喜びに入ることができますように、と願っており、奉納祈願でも拝領祈願でも、そのための聖母の取り次ぎを願っています。体ごとあの世の栄光に上げられた聖母は、確かに私たちの将来の幸せな姿を予告しており、私たちの希望と憧れの的でもあります。しかし私は、天に上げられたその聖母の少し違うお姿について、本日皆様と一緒に考えてみたいと思います。

② この世で神に忠実な清い生活をなし、小さな罪の償いまでも果たして帰天した聖人たちの霊魂は、天国に迎え入れられても、世の終わりに主イエスが栄光の内に再臨して全ての人が復活するまでは、まだ肉体を持たない状態、すなわち人間としては死の状態に留まっていますので、13世紀の偉大な神学者聖トマス・アクィヌスの考えでは、神から創られた人間本来の認識や活動ができない状態にあって、復活の日を待たされているのだそうです。としますと、自分に助けを祈り求める人たちのため神に取り次いで必要な助けを祈り求めることや、生前に自分と知り合った人たちの幸せを祈り求めることはできても、今の社会の歴史的動向やその中で生きる無数の人たちの心の状態などを人間的認識能力で知ることも、それに対する行動を取ることもできないと思われます。

③ ところが、永遠に死ぬことのないあの世の神の命に体ごと復活し、今も人間として生きておられる主イエスは、あの世の栄光の内にありながら、この世の歴史の動きを全て人間としても知っておられ、多くの人の救いのためにそれに対応する活動をなしておられると思います。主が最後の晩餐の時に話された数々の御言葉、たとえば「私はあなた方を孤児にはしておかない。私はあなた方の所に戻って来る」(ヨハネ14:18)などの御言葉や、マタイ福音書の最後に記されている「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」などのお言葉は、このことを示していると思います。主は今も、目に見えないながら実際に私たちの間に生きる霊的人間として現存し、私たちの必要に応じて助け導いて下さるのです。信仰のない所に主は何もお出来になりません。しかし、この信仰と愛を持っている人たちは、度々小刻みに実際に主の導きや助けを体験しています。それは福者マザー・テレサの残された言葉や、その他の多くの聖人たちの言葉の中に現れていますが、小さいながら信仰に生きる私も、小刻みに数多く体験しています。

④ 体ごと天に上げられた聖母マリアも、世の終わりまでの主イエスのこのお働きに、母の心をもって参加するよう神によって特別に召されたように思います。40数年前に開催された第二ヴァチカン公会議は、教会憲章の第8章に聖母マリアについてかなり詳しく述べていますが、聖母マリアは恩寵の世界において我々の母であると明記し、教会教導職が代々勧めて来たマリアに対する信心業を重んずることや、我らの母を子どもとして愛し、母の徳を模倣することなどを勧めています。この観点から教会の歴史を振り返ってみますと、聖母がまだこの世に生きておられた頃の初代教会を別にしても、ローマ帝国で迫害が激しくなった4世紀初め頃から聖母に助けを祈り求めることが広まり、少し後には他のどの聖人に対する祈りよりも、聖母に対する祈りが効果的であるなどと言われていました。その4世紀初めに普及した祈りは、ラテン語でSub tuum praesidiumという言葉で始まる祈りですが、日本語にも訳されて、以前の公教会祈祷書には「天主の聖母の御保護によりすがり奉る。いと尊く祝せられ給う童貞、必要なる時に呼ばわるを軽んじ給わず、かえって全ての危うきより、常に我らを救い給え。アーメン」とあり、終業の時などに唱えられていました。

⑤ 古代末期にも中世にも、聖母に祈ってその助けを体験した人は数知れず、それを記念したと思われる聖母の巡礼所や巡礼聖堂はヨーロッパに非常に多く残っています。しかし、18世紀に人間理性中心に全てを批判的に考え直し、人間中心に合理的に生きる潮流が政治・社会・教育のあらゆる分野で広まると、信仰をもって聖母の取り次ぎを祈り求める人が少なくなったかも知れません。それで聖母マリアも、人類に対する働き方を少し変更なされたように見えます。それまでの社会形態を大きく変えた産業革命と、強い人たちの冷たい合理主義的考え方・生き方の下にあって、不安に苦しむ弱い人たちが激増し始めたからです。フランス革命後のこのような新しい不安な社会状況の中で、聖母は1830年にパリで御出現になり、不思議なメダイを身につけて聖母の保護を受けるようお勧めになったのを始めとして、今日に至るまで世界各地に度々御出現になって、素直にそのお言葉に従って祈る人、ロザリオを唱える人たちに御保護や癒しの恵みを与えたりしておられます。この世で悪がはびこり救いを求めて苦しむ人たちがいる間は、聖母は天国の喜びの中におられても、母として深い悲しみや苦しみを味わって、涙を流しておられるのではないかと私は考えますが、いかがなものでしょうか。

⑥ 涙と言えば、イタリアでも涙を流す聖母像の現象がありましたが、わが国でも秋田で聖母像が1975年1月4日から81年の9月15日までの間に101回にわたって涙を流す現象が、非常に多くの人たちに目撃されています。79年の3月25日には、聖母像のお顔の全面だけでなく、御像の台までひたす程多量の涙が流されています。それらの涙は首都圏や本州各地の人たちによってだけではなく、北海道や九州・沖縄・韓国などからの多くの巡礼者たちにも目撃されており、79年12月8日には、東京12チャンネルのテレビ局のスタッフ4人によって撮影されています。岐阜大学医学部の勾坂馨教授が二度にわたって綿密に鑑定した結果によりますと、聖母像の右手の傷口から出た血と両眼から出た涙は全て人間のもので、血はB型で、涙はAB型であったり、O型であったりしています。あの世の霊化した聖母のお体は、この世の肉体とは違って、一つの血液型だけに束縛されないのかも知れません。聖母の御声や天使の声を度々聞いた姉妹笹川カツ子さんの血液型はB型だそうですから、笹川さんの血や涙が無意識的超能力によって、そこに転写したものではあり得ません。そこにはやはり、あの世からの超自然の力と徴しが働いて、私たちに何かを訴えているのだと思われます。

⑦ 天に上げられた聖母は、大きな過渡期の混乱と不安の中に生きている私たち人類に、何かをしきりに訴えておられると思います。終戦記念日にあたり、祈りの内にその聖母の「声なき声」に心の耳を傾け、武力に頼らない、思いやりと奉仕の愛に根ざした真の平和が人類社会の各国で実現するよう、神によって主イエスと共に今も霊的人間として生きておられ、人類の霊的母と立てられた聖母の取り次ぎを願って祈り求めましょう。本日のミサ聖祭は、その世界平和を願ってお献げ致します。ご一緒にお祈り下さい。

2011年8月14日日曜日

説教集A年:2008年8月17日年間第20主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 56章1、6~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 11章13~15、29~32節
福音朗読 マタイによる福音書 15章21~28節

① 本日の三つの朗読聖書に共通しているのは、イスラエル人とは宗教の違う異教徒に対する開いた心と称して良いと思います。イザヤ書の第三部56章から66章までは、バビロン捕囚から帰国した直後頃に第三イザヤが伝えた主の預言とされていますが、既に70年余り異教国バビロンで生活し、神が異教国でも自分たちの祈りに応えて助けて下さることを体験し、また多くの異教徒を友人・知人として持つに至った神の民は、もうかつてのように、異教徒を神の敵とは思わなくなっていたことでしょう。そこで主は言われたのです。「私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。主の下に集って来た異邦人が主に仕え、」「私の契約を堅く守るなら、云々」と、異邦人も神による救いの恵みに参与する時代の来たことを告げ、最後に、「私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったのです。神はかつてアブラハムをお召しになった時、「地上の氏族は全て、あなたによって祝福に入る」と予言され、その後にも例えばソドムの滅亡の前には、「アブラハムは大きな強い国民になり、世界の全ての国民は彼によって祝福に入る」などと話しておられますが、いよいよ神のそのお言葉が実現する時が来た、と考えて良いのかも知れません。

② 第二朗読であるローマ書11章は、ユダヤ人が神よりの救い主に躓いて罪を犯すことにより、救いの恵みが異邦人にもたらされる結果になったが、それはユダヤ人たちに妬みを起こさせるためであることを説いています。したがって本日の朗読の後半に読まれるように、かつて神に不従順であった異邦人たちが、今はユダヤ人たちの不従順によって神の憐れみを受けるに至ったように、誇り高い自民族中心の精神に眩(くら)まされて神よりの救い主を排斥した罪により、今は不従順の状態に閉じ込められているユダヤ人たちも、やがて神の憐れみを受けて、神から受けた自分たちの本来の使命に目覚め、救い主を全面的に受け入れる時が来ることを予告しています。神はこうして全ての人を憐れみによって罪から救って下さるのです。

③ ご存じでしょうか、かつてキリスト教国として誇っていたヨーロッパの国々でも、最近ではカトリック・プロテスタントを問わず、でも特にプロテスタントに多いそうですが、若者たちの間でキリスト者であることを拒否し、教会維持費などを納めない人たちが半数以上に増えて来ています。牧師・神父たちの説教が魅力を失って、人々の心に訴えて来ないことにもよるようです。日曜日に信徒が来ないため、かつての教会がレストランになったり、他の用途に貸し出されたりしている所もあるようです。この傾向は信仰に生きる今の高齢者がいなくなると、ここ20年程の間に急速に進むと思われます。かつてキリスト教国であることに誇りを持っていた欧米諸国が、理知的自由主義的な現代文明の流れの中で、伝統的キリスト教信仰から急速に離脱して行くかも知れません。しかし他方、ユダヤ人たちの間では、現代の途方もないグローバリズムの潮流の中で、数千年来の自分たちの信仰を新たに見直す動きが広まって来るのではないでしょうか。既に60年前のイスラエル建国の後10数年間にわたってそのような精神運動が一部で見られたのですが、アラブ諸国との対立が絶望的に深まると、その憧れがまた若者たちの間で復興して来るように思われます。ユダヤ人たちが神の憐れみを受ける時が近づいているのではないでしょうか。

④ 本日の福音の中で主イエスはカナンの女に、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とおっしゃって、その娘の病気を癒しておられます。「信仰」と聞くと、神についてのどういう教理内容を信じているかを問題にする人がいますが、異教徒であるカナンの女は、ユダヤ教の伝統的教理のことはほとんど知らず、ただ万物の創り主であられる神と、その神から派遣されたと思われる「神の人」に一心により頼むだけだったのではないでしょうか。主はここで頭の教理的信仰ではなく、ひたすらに神に依り頼む心の意志的信仰の大きさを褒めておられるのだと思います。

⑤ そういう信仰の実例は、理知的な西洋の宗教と違って神の働きを感知することを重んずる東洋の諸国に数多く見られ、わが国でも、そういう心の信仰によって神から救いの恵みを受けた実例が数多くあります。私はそういう人たちは皆、聖トマス・アクィヌスの言う「望みの洗礼」を受けていると考えています。私は、19年前の1989年の秋に「親鸞に学ぶ」というテーマで東本願寺で開催された、京都のNCC宗教研究所主催の三日間の研修会に参加し、三日目の総括討議集会で司会させられたことがありましたが、その集会で大谷大学の武田武磨教授が、史料的には確認できませんが、大乗仏教はシルクロードを介して伝えられたキリスト教の影響を受けて発生した宗教で、浄土仏教の念仏も、古代東方教会に流行していた主キリストの憐れみを願い求める短い祈りをゆっくりと繰り返し唱えるだけの祈りから学んで発生したものと思われます、という言葉に大いに啓発されました。そう言えば、原始仏教には見られない西方浄土や極楽・地獄の思想や、死後の審判の思想、並びに世の終わりの弥勒菩薩到来の思想や阿弥陀仏による救いの思想なども、皆キリスト教の影響で生まれたものと思われます。

⑥ としますと、仏教徒の中には中世の神学者たちが説いた「望みの洗礼」によって主キリストの恩寵に浴している人たちが非常に多くいるように思います。40数年前に神学者カール・ラーナーは、そういう人たちを「無名のキリスト者」と呼びましたが、ユダヤ教やキリスト教の教えを知らなくても、心で神の導きや働きを感知しつつ、それに従って生きている多くの人たちが東からも西からも来て、主のお言葉にあるように、神の国でアブラハムたちと食卓を共にするのではないでしょうか。異教徒や無宗教の人たちに対しては、もっと大きく開いた心と明るい希望の内に対応する心がけましょう。

2011年8月7日日曜日

説教集A年:2008年8月10日年間第19主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 19章9a、11~13a節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 9章1~5節
福音朗読 マタイによる福音書 14章22~33節
 
① 天から火を呼び下して真の神を証しし、偽りの神を礼拝させていた異教の祭司たち数百人を民衆に殺害させたエリヤ預言者は、王妃イゼベルに命を狙われて逃れ、神の山ホレプに身を隠しましたが、本日の第一朗読は、その山の洞穴で夜を過ごしていた時の神ご出現の話であります。宇宙万物の支配者であられる神のご出現と聞くと、多くの人は、神が何か大きな力や徴しに伴われて人間にお現れになると思うでしょう。神は勿論そのようにしてご出現になることがお出来になりますし、世の終わりの時には、私たちの想像を絶するほど大きな権力に伴われて全人類の前に出現なさると思われます。しかし、通常は深く隠れて私たちに伴っておられる神、隠れた所から私たちを見守っておられる神だと思います。

② ホレプの山で預言者エリヤに出現なさった時も、激しい風や地震や火の中でではなく、静かに囁く声が聞こえた時でした。あらかじめ「山の中で主の御前に立つ」よう命じられていたエリヤは、その静かに囁くような声が聞こえた時に、外套で顔を覆い、洞穴の入り口に出て、神からの新しい啓示を受けたのでした。神は今も小さなことの中に深く隠れて私たちに伴っておられます。神に喜んでもらおうと思うなら、大きなことを成し遂げるよりも、日常の小さなことを心をこめて立派になし、それを神にお献げしてみて下さい。日々そのように心がけていますと、神がそのような小さな献げを殊のほかお喜びになられるという徴を、体験するようになります。例えば神に清貧を誓った身である私は、現代の大量浪費の風潮に流されずに、貧困や水不足に悩む人たちとの連帯精神を重んじながら、日々小さな節水や節電に心がけています。価値観の違う人たちと一緒に生活していますので、全く自分個人の場で個人的になす小さな節水・節電ですが、神はその小さな献げを喜んで下さっているように覚えます。神も、小さなことでそっと私を助けて下さるのを数多く体験していますから。人間が自分で何かの合理的な計画や目標を設定してそれを自力で几帳面に細かく順守し、人にも守らせようとするのも一つの生き方だと思います。2千年前のファリサイ派宗教者たちはそのように努めていましたが、それよりも、隠れておられる神に心の眼を向けて小さな節約に心がける方がもっと神をお喜ばせするように思います。いかがでしょうか。

③ 本日の第二朗読に読まれる「肉による同胞」という言葉は、使徒パウロの血縁上の同族にあたる全てのユダヤ人たちを指しています。当時のほとんどのユダヤ人たちが、真の神を信奉しながらも、その神から派遣された主キリストを正しく理解できずに、ある意味ではキリストに敵対する生き方を続けていることに、パウロの心は深い悲しみと絶え間ない痛みとを感じており、その同胞たちのためなら、十字架上の主のように、自分も「神から見捨てられた者になってもよいとさえ」思っています。真の神の隠れた現存や働きに対するキリスト教信仰を知らずに、自分独りで現代生活の悩みや苦しみを背負っている無数の孤独な人たちとのこのような連帯感を、私たちも大切にするよう心がけましょう。大きなことは何もできない私たちですが、せめて日々の小さな祈りで、その人たちの上に神の祝福を願い求めましょう。

④ 本日の福音は、数千人の人をパンで満腹させるという大きな奇跡の後で、主が夜の湖上を歩いて弟子たちの舟に近付いて行かれた奇跡についての話であります。弟子たちの乗る舟は、陸から数百メートル乃至千数百メートル離れた、ガリラヤ湖の中央部に差し掛かった辺りで、逆風の波にもまれて進めずにいたようです。それは、現代のような大きな過渡期の複雑な風や浪に悩まされて、なかなか思うように進めずにいる教会のシンボル、あるいは私たち各人の心のシンボルと観ることもできましょう。主は、そういう弟子たちの舟の傍を、暗い波の上を歩いてお通りになったのです。それを見た弟子たちは、幽霊だと思って恐怖の叫びを上げましたが、主はすぐに「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と、彼らに呼びかけられました。「私だ」という言葉は、ヘブライ語では「私はある」という神の御名とも関連しています。主は「ここに神がいる」という意味も込めて、「私だ」と話されたのだと思います。

⑤ 極度に多様化して複雑に変転する人間社会の様々な価値観が教会の中にまで入り、私たちの信仰生活まで悩ますような時、人間の理知的な考えで問題を解決しようとはせずに、まずは隠れて私たちに伴っておられる主キリストの現存に心の眼を向けるように致しましょう。外の強い風や波に心を向けると恐れが生じますが、一心に主のみを見つめて歩み、主を心の中にお迎えすると、不思議に風が静まり、主のお望みになる所へと進むことができます。これは、現代のような激動時代に生きるキリスト者にとって、忘れてならない成功の秘訣であると思います。私たち自身のため、また他の多くの今、道を求めて悩み苦しんでいる人たちのために、そのようにして信仰一筋に生きるための照らしと導きの恵みを祈り求めて、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。