2011年8月14日日曜日

説教集A年:2008年8月17日年間第20主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 56章1、6~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 11章13~15、29~32節
福音朗読 マタイによる福音書 15章21~28節

① 本日の三つの朗読聖書に共通しているのは、イスラエル人とは宗教の違う異教徒に対する開いた心と称して良いと思います。イザヤ書の第三部56章から66章までは、バビロン捕囚から帰国した直後頃に第三イザヤが伝えた主の預言とされていますが、既に70年余り異教国バビロンで生活し、神が異教国でも自分たちの祈りに応えて助けて下さることを体験し、また多くの異教徒を友人・知人として持つに至った神の民は、もうかつてのように、異教徒を神の敵とは思わなくなっていたことでしょう。そこで主は言われたのです。「私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。主の下に集って来た異邦人が主に仕え、」「私の契約を堅く守るなら、云々」と、異邦人も神による救いの恵みに参与する時代の来たことを告げ、最後に、「私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれる」とおっしゃったのです。神はかつてアブラハムをお召しになった時、「地上の氏族は全て、あなたによって祝福に入る」と予言され、その後にも例えばソドムの滅亡の前には、「アブラハムは大きな強い国民になり、世界の全ての国民は彼によって祝福に入る」などと話しておられますが、いよいよ神のそのお言葉が実現する時が来た、と考えて良いのかも知れません。

② 第二朗読であるローマ書11章は、ユダヤ人が神よりの救い主に躓いて罪を犯すことにより、救いの恵みが異邦人にもたらされる結果になったが、それはユダヤ人たちに妬みを起こさせるためであることを説いています。したがって本日の朗読の後半に読まれるように、かつて神に不従順であった異邦人たちが、今はユダヤ人たちの不従順によって神の憐れみを受けるに至ったように、誇り高い自民族中心の精神に眩(くら)まされて神よりの救い主を排斥した罪により、今は不従順の状態に閉じ込められているユダヤ人たちも、やがて神の憐れみを受けて、神から受けた自分たちの本来の使命に目覚め、救い主を全面的に受け入れる時が来ることを予告しています。神はこうして全ての人を憐れみによって罪から救って下さるのです。

③ ご存じでしょうか、かつてキリスト教国として誇っていたヨーロッパの国々でも、最近ではカトリック・プロテスタントを問わず、でも特にプロテスタントに多いそうですが、若者たちの間でキリスト者であることを拒否し、教会維持費などを納めない人たちが半数以上に増えて来ています。牧師・神父たちの説教が魅力を失って、人々の心に訴えて来ないことにもよるようです。日曜日に信徒が来ないため、かつての教会がレストランになったり、他の用途に貸し出されたりしている所もあるようです。この傾向は信仰に生きる今の高齢者がいなくなると、ここ20年程の間に急速に進むと思われます。かつてキリスト教国であることに誇りを持っていた欧米諸国が、理知的自由主義的な現代文明の流れの中で、伝統的キリスト教信仰から急速に離脱して行くかも知れません。しかし他方、ユダヤ人たちの間では、現代の途方もないグローバリズムの潮流の中で、数千年来の自分たちの信仰を新たに見直す動きが広まって来るのではないでしょうか。既に60年前のイスラエル建国の後10数年間にわたってそのような精神運動が一部で見られたのですが、アラブ諸国との対立が絶望的に深まると、その憧れがまた若者たちの間で復興して来るように思われます。ユダヤ人たちが神の憐れみを受ける時が近づいているのではないでしょうか。

④ 本日の福音の中で主イエスはカナンの女に、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とおっしゃって、その娘の病気を癒しておられます。「信仰」と聞くと、神についてのどういう教理内容を信じているかを問題にする人がいますが、異教徒であるカナンの女は、ユダヤ教の伝統的教理のことはほとんど知らず、ただ万物の創り主であられる神と、その神から派遣されたと思われる「神の人」に一心により頼むだけだったのではないでしょうか。主はここで頭の教理的信仰ではなく、ひたすらに神に依り頼む心の意志的信仰の大きさを褒めておられるのだと思います。

⑤ そういう信仰の実例は、理知的な西洋の宗教と違って神の働きを感知することを重んずる東洋の諸国に数多く見られ、わが国でも、そういう心の信仰によって神から救いの恵みを受けた実例が数多くあります。私はそういう人たちは皆、聖トマス・アクィヌスの言う「望みの洗礼」を受けていると考えています。私は、19年前の1989年の秋に「親鸞に学ぶ」というテーマで東本願寺で開催された、京都のNCC宗教研究所主催の三日間の研修会に参加し、三日目の総括討議集会で司会させられたことがありましたが、その集会で大谷大学の武田武磨教授が、史料的には確認できませんが、大乗仏教はシルクロードを介して伝えられたキリスト教の影響を受けて発生した宗教で、浄土仏教の念仏も、古代東方教会に流行していた主キリストの憐れみを願い求める短い祈りをゆっくりと繰り返し唱えるだけの祈りから学んで発生したものと思われます、という言葉に大いに啓発されました。そう言えば、原始仏教には見られない西方浄土や極楽・地獄の思想や、死後の審判の思想、並びに世の終わりの弥勒菩薩到来の思想や阿弥陀仏による救いの思想なども、皆キリスト教の影響で生まれたものと思われます。

⑥ としますと、仏教徒の中には中世の神学者たちが説いた「望みの洗礼」によって主キリストの恩寵に浴している人たちが非常に多くいるように思います。40数年前に神学者カール・ラーナーは、そういう人たちを「無名のキリスト者」と呼びましたが、ユダヤ教やキリスト教の教えを知らなくても、心で神の導きや働きを感知しつつ、それに従って生きている多くの人たちが東からも西からも来て、主のお言葉にあるように、神の国でアブラハムたちと食卓を共にするのではないでしょうか。異教徒や無宗教の人たちに対しては、もっと大きく開いた心と明るい希望の内に対応する心がけましょう。