2008年4月27日日曜日

説教集A年: 2005年5月1日:2005年復活節第6主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 8: 5~8, 14~17. Ⅱ. ペトロ前 3: 15~18. Ⅲ. ヨハネ福音 14: 15~21。

① 激動する現代世界の極度に多様化しつつある流れに、大きく心を開いて働く路線を打ち出した第二ヴァチカン公会議が終わって1年半ほど経った1967年の春から、復活節の第6主日は「世界広報の日」とされて、カトリック教会では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画などをはじめとして、各種の社会的コミュニケーションが世界の情報や文化を正しく伝えて、諸国諸民族間の相互理解と共存共栄に貢献するように祈る日、また主キリストの愛の福音がそれらのメディアを介して一層多くの人の心に光と喜びを齎すよう、祈りや献金などで積極的に支援する日とされています。それで私たちも、本日のミサではこの目的のために、特別に心を合わせて祈りましょう。

② ご存じのように、この春には中国でも韓国でも反日デモやそれに類する動きが高まりました。中国では10年ほど前から愛国主義教育が続けられていますから、この動向は一部の中国国民の間で今後も長く継続されると思われます。かつての文化大革命時代に紅衛兵であったりした世代が、今尚軍事や政治の共産主義的中核勢力となって活躍しているようですから。また先日、私の教え子であった韓国人の若手学者と話していましたら、竹島問題についても、韓国人がその島に来ていた古い記録が幾つも残っているのだそうで、この問題も長く燻り続けると思われます。しかし、どちらの国でも狭い国家主義を乗り越えて、人類全体の福祉のために生きようとしている人々も少なくないのですから、日本人も譲ることのできる所は譲って同じ広い心で生きようとするなら、道は開けて来ると思います。広大な中国のほとんどの田舎町には電話線が引かれていませんが、欧米や日本から導入された便利で安価な携帯電話は、驚くほど早く中国全土に普及しています。そして今やインターネットも普及し、民間の若手中国人たちは世界の人々と自由に情報交換をし始めています。保守的共産主義者たちはそのことで神経を尖らせているようですが、思想の自由化へのこの流れの統制は難しいと思います。これまで抑圧されて来た宗教に対しても、関心を示している人が増えているようです。インターネットが福音宣教の新たな手段として大きな成果を挙げることができるよう、祈りたいと思います。

③ 本日の福音は、18節の「私はあなた方を孤児にはしておかない」を境にして、前半と後半とが対照的に違う色合いを示しています。前半の16,17節では「別の弁護者」「真理の霊」すなわち聖霊が中心であり、後半の18~20節では「私」すなわち主イエスが中心になっています。ここで「別の弁護者」と言われているのは、主イエスも御父の御許で弁護者だからだと思います。ヨハネの第一書簡2章の始めに、「御父の御許に弁護者、義人イエス・キリストがおられます」とありますから。しかし、17節と19節に述べられているように、この世は、聖霊に対しても主イエスに対しても、主の弟子たちとは違って、見ようとも知ろうともしていません。弟子たちが聖霊と主イエスの両弁護者を知っているのは、主のご説明によると、どちらの弁護者も弟子たちと一緒に、弟子たちの中にいるからのようです。主は20節に、「かの日には」と話しておられますが、これは旧約聖書以来の伝統的表現で、神がこの世に決定的に介入し裁きをなされる終末の日を指しています。その日が来るまでは、聖霊の働きも主イエスの働きも信仰の霧に包まれていて、この世に生活している私たち信仰に生きる人たちにも、はっきりとは見ること知ることができないようです。

④ しかし、神の無償の大きな愛に感謝しつつ、私たちも日々そのような愛の実践に生きようと励むなら、天の御父が「永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる」と主のお言葉にある聖霊が、不思議に私たちの生活や仕事に伴っていて下さるのを実践的に体験するようになり、やがてその聖霊の勧めや導きに対する預言者的感覚のようなものが、自分の心の中に次第に育って来るのを実感するようになります。主は弟子たちに、迫害される時「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。その時 (中略) 話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」(マルコ 13:10) などと話されましたが、聖霊降臨直後頃の弟子たちは、主のこのお言葉が事実であるのを幾度も体験していたようです。例えば使徒言行録4章には、「ペトロは聖霊に満たされて答えた」だの、「一同は聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語っていた」などの言葉が読まれるからです。

⑤ 2世紀から4世紀始めにかけて迫害が断続的に激しさを増し、殉教者が続出するようになると、日頃から迫害に備えて、聖霊の生きている神殿としての生き方に励んでいたキリスト者たちの中には、聖霊の働きで自分の心が日々神へと高められ強められて行くのを実感していた人たちが多かったようで、3世紀の始め202年に殉教したリオンの司教聖エイレナイオスは、2世紀後半の名著『異端反駁』の第四巻に、人間が日々神の霊によって養い育てられ、進歩して神に近い者になっていくことを明記しています。これは、自らの数多くの体験に基づく話だと思われます。当時のキリスト者たちの人間観では、人間は単に霊魂と肉体との二つの構成要素から成り立つというだけではなく、そこにもう一つ神の霊の働きも添えて「人間」というものを考えていたようで、こういう人間観の伝統は、今でもギリシャ正教会に根強く保持されています。テサロニケ前書5:23にも、「平和の神が、(中略) あなた方の霊も心も体も完全に守って下さるように」とありますから、このようなキリスト教的人間観は、使徒時代からの伝統なのかも知れません。私たちも、自分の内にいつも現存し働いていて下さる聖霊に対する信仰感覚を実践的に磨きつつ、日々聖霊に導かれ養われて生活するよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の始めに主は、「あなた方が私を愛しているなら、私の掟を守る」と言い、福音の終わりには「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。云々」と話しておられますが、この言葉は、愛と主の掟との密接な相関関係を示しています。ここで言われている「私の掟」は、人を外から束縛する社会的倫理的義務や、合理的な道徳法などではありません。主が最後の晩餐の席上で与えたばかりの新しい掟、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という、ヨハネ13章に述べられている掟だと思います。それは、神の愛と助けを体験し、感動している心の内に、感謝と喜びと共に自発的に湧き出て来る決意や誓いのようなものでもあります。人間同士の心と心の関係においても、自ら自分に課するこのような感謝と決意の掟、自分の一生をかけた結婚の誓いのようなパーソナルな心のこもった掟があります。人の心は本来そのように生きるよう創られているのだと思いますが、主が私たちから順守を求めておられる愛の掟も、そのような自ら自分に課する「心の掟」なのではないでしょうか。としますと、何か社会的合理的な規則にだけ目を向けていては足りません。何よりも聖霊の神殿としての自分の心と、聖霊の働きの場である自分の日常体験に心の眼を向けていましょう。そして神の霊に導かれ助けられつつ、相互に愛し合うよう努めましょう。主の求めておられるこの新しい愛の生き方が、私たちの心の中に、また多くの人の心の中に益々深く根を下ろすよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。

2008年4月20日日曜日

説教集A年: 2005年4月24日:2005年復活節第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 6: 1~7. Ⅱ. ペトロ前 2: 4~9. Ⅲ. ヨハネ福音 14: 1~12.

① ヨハネ福音書の14章から17章までは、最後の晩餐の席で主が語られた、告別の説教と祈りであると思います。本日の福音は、その長い説教の最初の部分で、途中にちょっとトマスの質問とフィリッポの願いの言葉が入りますが、それ程長くないパラグラフなのに、その中には「父」という言葉が何と14回も登場しています。ヨハネはこの話の少し前で、裏切り者の「ユダはそのパンを食べると、すぐに出て行った。時は夜であった」と書いていますが、夜の闇が主と弟子たちの小さな光の集いを覆い、ユダが外の闇の中へ消えて行ってから、主はご自身の魂の内奥に脈打っていた一番大切な掟や教えや願いなどを、次々と弟子たちの前に披露なされたのではないでしょうか。その最初が、13章後半に述べられている新しい愛の掟ですが、続く14章で主は、父なる神について、愛する者たちに父から派遣される聖霊について、また愛する者たちの心に住んで下さる神について語っておられます。

② 本日の福音の始めに、主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と話しておられますが、それは、「私は光として世に来た」(ヨハネ12:46)と公言なされた神の子の光をも呑み込む程、大きな黒い闇の勢力が攻撃のすさまじさを増して周辺に迫り、暗い不安が海の潮のように、エルサレムの町中に満ちて来ていたからだと思われます。現代世界の状況も、ある意味で当時のユダヤ社会に似ているかも知れません。当時のエルサレムには、明るい建築ブームが続いていました。国際化が急速に進展して、多くの貿易商や観光客、巡礼団などが来訪していたからでした。しかし内的には、政治も宗教もこのあまりにも急激で大きな国際化と多様化の流れにどう対応したらよいかに戸惑い、富の流れに巻き込まれたり、昨日と異なる思想を全て拒絶したりして、形骸化した事なかれ主義に終始していたようです。それで、商工業優先の新しい国際的流れの中で続々と産み出されて来る無数の貧者や苦しむ者たちを救う活力を失っていました。外的経済的には社会は明るく大きく発展し続けていたのですが、内的には心の教育も、家庭の絆も、信仰生活も、内面から崩壊しつつあったようです。このことは、福音書に登場する譬え話や出来事にも反映しています。日本を含め、現代のアジア諸国、いや世界のほとんど全ての国で、今同様の危機的状況が急速に進行しつつあるのではないでしょうか。主は本日の福音の中で、そのような状況の下で生活している現代人にも、父なる神に信仰の眼を向け、信頼と明るい希望をもって生きるよう勧めておられるのだと思います。

③ 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。云々」というお言葉で、主は、私たちが永遠に仕合せに生活する場所が神ご自身によって用意され、主が私たちをそこへ連れて行って下さることを確約なさいました。崩壊しつつある古い社会の激流に押し流されて、浮き草や流れ藻のように神から遠く離れた所へ運び去られ、実を結べない不幸な存在とならないように、父なる神が人類に提供なされた足場、深く根を下ろすための地盤は、神の真理であり、魂に活力を与える神のいのちであり、信ずる者が日々神に近づくのを可能にする道であります。そしてその神の真理・いのち・道は、神から派遣されて人となり、死後は霊的いのちに復活して今も私たちの近くに共にいて下さるメシア、神のロゴス、神の御言葉なのです。主ご自身が本日の福音の中でそうおっしゃっておられるのです。主のこの宣言を堅く信じましょう。主がここで私たちから求めておられるのは、単にそれは本当だと思うだけ、納得するだけの、理知的な頭の信仰ではありません。主のお言葉に日々新たにしっかりと掴まって生きようとする心の実践的信仰、意志的信仰であります。この信仰のある所に神の救う力が働くのです。神の働きに内的に結ばれ支えられて生きようとしない、単なる「頭の信仰」だけの人の中では、神の力が働けません。それは、ある意味で悪魔の信仰のようなものだからです。神の力強さをいつも痛感させられている悪魔も、全知全能の神の存在を信じています。しかし、その心は神に従おうとはせず、神に結ばれて生きようとはしていません。私たちの信仰も、神に対する愛に欠ける冷たいもの、実践の伴わない口先だけの「頭の信仰」にならないよう気をつけましょう。

④ 目に見えるこの世の過ぎ行く事物現象に囚われて、自分の人生をこの世だけの、間もなく朝露のように消え行くものと考えないよう気をつけましょう。洗礼によって神の子のいのちに参与している私たちは死後も、私たちを限りなく愛しておられる天の御父の下で、霊化されたいのちに復活なされた主のお体のように一切の労苦や病苦から自由になって、神の栄光の内に永遠にのびのびと生きるよう召されているのです。復活なされた主の神秘なお体の、言わば無数の細胞の一つとなって父なる神を讃えつつ、仕合せに生き続けるよう召されているのです。あの世のその自由と栄光に満ちた人生の側から眺めると、今の世は何か知らない暗い夢のような世界、あの世に生まれ出るまでの胎児の世界、しかも、原罪による誤謬・誤解・労苦・害悪などが無数に蔓延しているような、狭苦しい世界なのではないでしょうか。それらの誤りや罪悪の毒素によって心が蝕まれたり歪められたりし、出来損ないの人間となってあの世に生まれ出ることのないよう、神の子キリストのいのちに結ばれ、生かされて生きるよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音の中で、主は「私は道であり、真理であり、いのちである」と話しておられますが、ここで言われている道について、人間がその上を足で踏んで行くような地上のこの世的道を連想しないよう気をつけましょう。それは、私たちの魂を着物のように四方から包み込んで、神へと運び導いてくれる精神的パイプ、柔軟なホースのようなトンネル通路に似ている道なのではないでしょうか。使徒パウロが「キリストを着る」(ガラ3:27)と表現しているのも、このことだと思います。私たちの魂は、キリストという通路を通ってあの世に生まれ出るのだと思います。ですから、使徒トマスが心配したように、どこへ行くのか目指す行き先やその道筋を、この世においては見通すことができなくても、見ないで信じていて良いのではないでしょうか。主がここでおっしゃった真理についても同様に、この世の人間が持って生まれた自然理性で理解し、自力で利用できるようなこの世的真理ではなく、私たちの心の眼を内面から照らし目覚めさせて、神の啓示や働きを洞察させ確信させるような、生きている信仰の真理なのではないでしょうか。人間イエスや聖母マリアが身をもって示された神の僕・婢としての生き方に倣い、私たちも神の僕・婢として、神の言葉や導きに全く信頼しながら、私たちを愛しておられる父なる神へと進んで行きましょう。

⑥ 本日の第二朗読の中で、使徒ペトロは「石」という言葉を七回も使いながら、「(主は)神によって選ばれた、尊い生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。云々」と書いています。石は、自分主導に神を利用して何かをなそうと積極的に動く存在ではなく、むしろ神のお望み通りに取り上げられるのをじーっと待ち、自分の置かれた持ち場で神の家を下から支える存在だと思います。「隅の親石」となられたキリストに見習って、私たちも神のお望みに徹底的に従う石となるよう努めましょう。

2008年4月13日日曜日

説教集A年: 2005年4月17日:2005年復活節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 14a, 36~41. Ⅱ. ペトロ前 2: 20b~25. Ⅱ. ヨハネ福音 10: 1~10.

① 本日の第一朗読は、五旬祭すなわちペンテコステの祝日に聖霊の恵みに満たされてから、ペトロが他の使徒たちと共に立ち上がって語った、最初の長い説教からの最後の部分の引用ですが、ペトロはこの説教の中で、ナザレのイエスこそ神から遣わされたメシアであると、いろいろと言葉を変えて幾度も強調しています。その最初の所でペトロは預言者ヨエルの書3章から引用して、「神は言われる。終りの日に私の霊を全ての人に注ぐ。するとあなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」などと話しています。

② 神は預言者の口を通してなぜ幻だの夢だのという話をなさったのでしょうか。またペトロは、エルサレムでの祭りに集まっていた大勢の民衆に向かっての自分の最初の説教の冒頭に、その言葉を引用したのでしょうか。それは、彼らが今エルサレムで見聞きしている、  ラザロの蘇り、イエスの受難死と復活、それに聖霊降臨などの出来事は、神が数百年前から預言者の口を介して予告しておられた夢・幻のように不可解で神秘な現実であり、そこには神が臨在しておられて、私たちから信仰と従順の心を求めておられるということを、示すためであったと思われます。この世の人間的、自然的な出来事であるならば、人間が持って生まれた理性で考究し理解することもできるでしょうが、そういう地上世界を遥かに超える神秘な真理そのものであられる偉大な神が臨在してお示しになる、夢・幻のように不可解な現実に対しては、まずこの世の人間中心の態度や能力は引っ込め、慎んで謙虚に自分の罪深さを反省し悔い改めることが大切だと思います。この観点から本日の第一朗読を見直してみますと、ペトロも集まって来た民衆に、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と勧めています。

③ 神から聖霊の賜物を受けるなら、夢・幻のように不可解な現実も神のお望み通りに正しく知解できると思います。ペトロの言葉を受け入れて、その日のうちに3千人ほどの人が洗礼を受け、使徒たちの仲間に加わったように述べられていますが、その人たちのほとんどは祭りのためにエルサレムに来ていた人たちで、祭りが終わればいなくなるので、エルサレムに残った信徒の数は、多くても2,3百人ほどだったのではないかと推察されます。私見では、受洗した3千人ほどの民衆の多くは、当時ユダヤとその周辺の荒れ野で預言者的精神で貧しく共同生活を営んでいたエッセネ派の人たちだったと思います。第二次世界大戦後に発見されたクムラン文書から、彼らの生活や思想もある程度明らかになっていますが、キリスト時代のその数は4千人ほどに達していたと思われます。メシアを待望していた彼らは、祭りの時に上京してナザレのイエスに会うと、慎重に考えながらもイエスをメシアとして信ずる方に傾いていたと思われます。彼らは福音書では「民衆」と書かれていますが、大祭司たちも預言者的精神で敬虔に厳しい生活を営んでいたエッセネ派には一目置いていたので、イエスを捕えたくても、祭りの時にはその「民衆」の反抗を恐れて手を出せずにいたことが幾度もありました。使徒言行録4:4によると、聖霊降臨後間もないある日、生まれながらの足の不自由な男を癒したペトロとヨハネが大祭司たちに捕えられた頃には、キリストに従う人の数は「五千人ほど」と記されていますが、これもエッセネ派が聖霊降臨後に続々と受洗した結果であると思われます。旧約時代の預言者たちのように、神の霊の働きに対する心の感覚を日頃から実践的に磨いていること、それが主の恵みを早くまた豊かに受ける最良の準備だと思います。

④ 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「キリストはあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたのです」。だから、「善を行って苦しみを耐え忍ぶのが、神の御心に適うことです」と強調しています。聖書のどこにも、教会に来てお祈りしていればそれで救われる、などとは書かれていません。2千年前のファリサイ派はそのように考え、競うようにして沢山の祈りをしていたかも知れませんが、人間側の努力にだけ眼を向けていて、神の働きに対する心のセンスは磨いていなかったのか、メシアを死に追いやってしまいました。何よりも父なる神よりのものに心の眼を向けつつ生活し、神から与えられた苦しみも喜んでお受けし、耐え忍ぶこと、これが主キリストが私たちに残された模範であり、神の御心に適う生き方なのではないでしょうか。

⑤ 主は模範ばかりでなく、私たちがそのように生きるための力も残し与えて下さいました。すなわちキリストを信じて受洗し、主が最後の晩餐の時にお定めになったミサ聖祭の中で与えられる主の御肉を食べ、主の御血を飲んで御受難の主と霊的に一つ体になるならば、主の復活の立ち上がる力が私たちの魂の中にも働いて、私たちは小さいながらも主と同様に生きるようになれると信じます。ペトロも本日の第二朗読の中で、「私たちが罪に死んで義に生きるようになるために」、また「魂の牧者の所へ戻って来るために」、キリストは「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さった」と説いています。信仰は決断です。信仰のない所、決断のない所には神の力も働かず、救いもありません。主キリストと内的に一致して日々自分に与えられる十字架の苦しみを担い、多くの人の救いのために主と共に苦しみを耐え忍び、その苦しみを神にお捧げしようとの決意を新たに致しましょう。この決意に欠けている心には、この世に死んで復活なされた主の救う力も働かない、と信じるからです。

⑥ 本日の福音の中で、主は「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。云々」と話して、「門」と「羊飼い」という二つのテーマを持ち出しておられますが、11節以降に読まれる羊飼いについての話は本日の福音から外されていますので、ここでは、「私は門である。私を通して入る者は救われる。云々」と、主がご自身を「門」と見立てておられる譬えについてだけ考えてみましょう。主は別の箇所ではご自身を「道」と称されていますが、ここで「門」とあるのは、救いに到る真の門である精神、すなわち何よりも神の御旨中心に生きようとする神の子の奉仕的愛、キリストの自己犠牲的精神を指しているのではないでしょうか。

⑦ この愛や精神なしに羊たちの世話をしよう、羊たちを教え導こうとする教師や宗教者たちに対して、主は「盗人であり、強盗である」と、二度も厳しい非難の言葉を浴びせておられます。自分のこの世的地位や知識・能力などを利用して、助けを必要としている羊たちを食い物にする、そのような教師や宗教者たちに、私たちも気をつけましょう。たとえその人たちの話がどれ程面白く、心を和らげ楽しませるものであろうとも、その人たちの心がキリストの自己犠牲的奉仕愛の精神に生かされていないようでしたら、警戒しましょう。18世紀から19世紀にかけてのフランス革命時代に、ウィーンで数多くの若者や知識人たちを伝統的カトリック信仰に復帰させることに成功した聖クレメンス・マリア・ホーフバウエルは、無数の間違った聖書解釈や危険思想の乱れ飛ぶ過渡期には、カトリック者は信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別しなければならないと説いています。現代も、そのような危険が溢れているような過渡期ではないでしょうか。私たちも信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別するよう心がけましょう。二千年前のエッセネ派の人々も、同様の預言者的鼻の嗅覚で真偽を確かめていたのだと思います。

⑧ 本日の福音のすぐ前のヨハネ福音書9章には、生まれながらの盲目を癒された人が、ファリサイ派の人たちから何を言われても、それに従わず、自分の心が真に従うべきメシアをひたすらにたずね求めて、遂にそのメシアにめぐり会い、「主よ、私は信じます」と告白して、主を拝むに到った話が感動的に語られています。主はそういう人たちを示唆しているかのように、羊は門から入る羊飼いの声を聞き分け、その声を知っているので、先頭に立って行く羊飼いにはついて行くが、外の者にはついて行かない、などと話しておられます。しかし、ついて行く行かないは羊の心の問題ですので、やはり日頃から信仰の嗅覚を鋭く磨きつつ、真の牧者の声を正しく識別し、あくまでもその牧者に付き従って行く決意を固めていましょう。

⑨ 最近、韓国や中国で反日感情や反日運動が高まっていますが、この動向はこれからもまだ長く続くと思われます。中国では数年前から愛国主義教育が施行され盛んになっているようですから、その教育を受けて全てを中国中心に評価する偏狭な価値観や世界観で生きる若者たちが非常に多くなっていると思われるからです。しかし、同じ中国には、何よりも人類全体の平和共存を願う国際主義的価値観や民主主義にも温かい理解と好意を抱いている人も少なくありません。中国・北朝鮮・韓国で万事に平和共存を優先する温厚な人々の見解が重んじられて、不要な対立や戦争の危機が解消されるよう、また神の聖霊が隣国の人々の心を明るく照らし守り導いて下さるよう、この四月からは毎月一回、日曜日にミサを捧げてご一緒に祈りたいと思います。本日のミサ聖祭はそのために捧げられますが、ご協力をお願い致します。

2008年4月6日日曜日

説教集A年: 2005年4月10日:2005年復活節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 14, 22~33. Ⅱ. ペトロ前 1: 17~21. Ⅲ. ルカ福音 24: 13~35.

① 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「あなた方は、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と教えています。天の父なる神は、深い大きな愛をもって、罪深い私たちの救いのために真剣になっておられるのです。罪や穢れの全くない最愛の御独り子の尊い御血によって私たちを贖い、永遠の栄光への道を開いて下さったのです。私たちが死後永遠に仕合せになれるか否かは、ひとえにこの神の愛を信じて日々その神に感謝しつつ、神と共に生きようと努めるか否かにかかっている、と言ってもよいと思います。終末の時に神がお裁きになるのは、この神の愛を無視して神に背を向ける行為と、背を向けなくても自分の欲や考えや計画などを優先して、神に従って生きようとしない怠りの行為だけである、と思います。神に感謝することを知らない、そんな冷たい心で日々戴いている神よりの恵みを無駄遣いすることのないよう、神の裁きを恐れることに心がけましょう。厳しい裁きの時は、私たちにも遠からずやって来るのですから。

② とかく目前の人間関係や利害関係のことに眼を奪われ、自分中心の煩悩の霧にこもって生活し勝ちな私たちでしたが、この世のそういう霧や雲の上から、私たちに大きな愛と期待の眼差しを注いでおられる父なる神、目には見えなくても温かい春の太陽のように万物を養い育てておられる献身的奉仕愛の神に、感謝と信仰の眼を向けながら祈り、働き、生活するように努めましょう。私たちがそのように生きる時、復活の主キリストの新しい命が私たちの心の内に生き生きと働くようになり、私たちは復活なされた主キリストが、今も目に見えないながら実際に私たちと共におられ、そっと私たちを助け導いておられることを、数多くの小さな体験から次第に確信するようになります。現代は情報も価値観も刻々と急激に変貌し多様化しつつある、ある意味では非常に不安な落ち着きのない時代であり、未だ嘗てなかった程の恐ろしい詐欺やテロや自然災害の危険も高まっている時代ですが、こういう時にこそ、心の奥底に伴っていて下さる復活の主と日々内的に堅く結ばれて生活することは、非常に大切であり、また有り難いことだと思います。神が望んでおられるこの信仰の生き方を体得し、世の人々にも伝えるよう努めましょう。

③ 本日の福音は、24節までの前半部分と、それ以後の後半部分とに分けて考えることができますが、前半と後半には、それぞれ「エルサレム」「互いに」「彼らの目が」「認める」「預言者」などの共通する言葉が幾つも登場していて、ある意味では対照的に対応しています。しかし、前半では主の受難死に深刻な落胆を覚えて立ち上がれずにいる二人の弟子たちが中心になっており、エマオへの途上に出会った見知らぬ旅人に、ナザレのイエスをめぐる最近の出来事について語り聞かせます。彼らは、業にも言葉にも力ある預言者であったイエスに大きな期待を抱いていたのに、そのイエスが十字架刑で死んでしまい、もうこの世にはいないので、暗い顔をしています。その日の早朝、仲間の婦人たちが墓にご遺体がなくなっているのを発見し、天使たちから「イエスは生きておられる」と告げられたことも、仲間の弟子たちがその墓に行って、婦人たちの言う通りご遺体がなくなっているのを確認したことも知っていました。しかし二人は、この世の目に見える出来事にだけ心を向け、ご遺体は誰かに盗み去られたのかも知れないなどと考えたのか、いつまでも落胆から立ち直れずにいました。まだまだ聖書の預言や教えのことを知らず、人間理性中心の立場で全ての出来事や情報を解釈する、この世的生き方にこだわっていたからだと思います。

④ 後半部分では、見知らぬ旅人の姿で出現なされた復活の主が中心です。主はモーセと全ての預言者たちの言葉を解説しながら、メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るのが神の御旨であったことを、聖書全体から説明なさいました。一行が目指す村に到着すると、二人は「一緒にお泊り下さい。そろそろ夕方ですから」と、主を強いて引き止め、宿の家に入って一緒に食事の席に着きました。すると復活の主がパンを取って賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになりました。主が食卓の主人であるかのように振舞われたのです。この動作は、最後の晩餐などの時の主の日ごろの所作に似ていたと思われます。二人がそのパンを戴くと、心の眼が開けてその旅人が復活の主であることに気づきましたが、その瞬間にそのお姿は見えなくなりました。

⑤ 主が主導権を取っておられるこの後半部分では、二人の心は聖書の教えに眼を向けるようになってだんだんと立ち直り、やがて全く新しい希望の火に燃え立ち、メシアの復活を信じるようになりました。そして見知らぬ旅人が復活の主であったことに気づくとすぐ、急いでエルサレムに立ち帰り、見聞きした出来事を他の弟子たちに報告しています。この後半部分は、復活の主との出会いの場がどこにあるかを、現代の私たちにも教えているのではないでしょうか。それは、自分中心の理知的立場で主の復活について幾ら考察しても、復活の主に出会うことはできず、むしろ自分から抜け出て見知らぬ人にも親切を尽くそうとする行為のうちに、また聖書から神のお考えを学びそれに従おうとする心のうちに、そして特にミサ中の聖体拝領の時に、心を大きく開いて神の御旨に徹底的に従って生きようとする意思を実践的に表明するなら、復活の主は、私たちにも心の奥で主に出会う恵みを与えて下さるのではないでしょうか。希望をもって日々復活の主と出会い、現代社会の不安に耐えて生き抜く力を戴くように努めましょう。