2012年12月30日日曜日

説教集C年:2009聖家族の祝日(三ケ日)



朗読聖書:. サムエル上 1: 20~22, 24~28. . ヨハネ第一 3: 1~2, 21~24. Ⅲ. ルカ福音 2: 41~52.

    私たちはこの修道院創立の頃から、三ヶ月に一度土曜日か日曜日に、浜松から豊橋に至るまでの地元民の上に神の豊かな祝福を願い求めてミサ聖祭を献げていますが、本日のミサはその意向で献げられます。ご一緒にお祈りください。現代には家族共同体の和が崩れつつある家庭が増えているようですが、特にそういう悩みを抱えている家族たちのために神の憐れみと導きを願い求めましょう。

    本日の福音には、過越祭の巡礼団に参加して両親と共に聖都エルサレムに滞在した、12歳の少年イエスの言葉が読まれます。福音書にはそれ以前のイエスの言葉が全く載っていませんから、この言葉が、私たちに残された主イエスの最初の言葉になります。過越祭の祭りが終わって、ヨゼフとマリアは、ナザレからの巡礼団の男組と女組とに分かれてエリコ辺りにまで行ってから、一緒に野宿しようとしましたら、巡礼団の中に少年イエスがいないことに初めて気づきました。それまでは毎年、イエスは母マリアと一緒に女組に属して巡礼していたと思います。それが当時の男の子の慣例でしたから。しかし、男の子は12歳頃から男組に移行する慣例になっていましたから、ちょうどその境目の時でしたので、マリアはイエスがヨゼフと共にいると考え、ヨゼフはまだマリアと共にいると考えて、帰路最初の一日分の道のりを巡礼団と共に歩いたのだと思います
    ところが巡礼団の中にはいなかったので、野宿の後、二人は巡礼団から分かれて、心配しながらエルサレムに戻り、夕刻になっても知人の家々を訪ね歩いて、少年イエスを捜しまわったのだと思います。そして三日目の朝に漸く神殿の境内にいるイエスを見つけ、母が「なぜ (無断で) こんなことをしたのですか。ご覧なさい。お父さんも私も、心配して捜していたんです」と、詰問したのだと思われます。それに対する少年イエスのお答えは、日本語の邦訳では、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」となっていますが、これは聖書の原文とは違っています。主はそのように話されたのではなく、もっと神秘的な言い方をしたのです。ギリシャ語の原文を直訳しますと、「なぜ私を捜されたのですか。自分の父のにいる筈だ、ということを知らなかったのですか」となります。「自分の父のにいる」では読者に解り難いという理由で、欧米の近代語でも、それに倣う日本語でも「自分の父の家にいる」と言葉を補って翻訳したのだと思われますが、それでは主イエスの真意が歪められたことになり、逆に「なぜ父の家に?」という疑問も生じて来ます。殊に本日ここで読まれた日本語訳のように、「私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを」などと訳しますと、母のマリアもそのまま黙って引っ込みはしなかったと思われます。そんなことは「当たり前」ではないのですから。

    実際にはしかし、主イエスは12歳ながらよく考えた神秘的表現で、「自分の父のにいる」とお答えになったのだと思います。事によると、主はその時父母に大変なご心配をかけたことで、目に涙を浮かべておられたかも知れません。それで両親は、イエスの言葉の意味が分からないながらそのままに受け止めて、その言葉について尋ねることはしなかったのだと思われます。イエスはすぐ両親と一緒にナザレに帰り、それまで通り両親に仕えながら生活なされたようですが、聖母マリアは自分の産んだイエスが天の神を「自分の父」と初めて表現したことから、この時からイエスに対する態度を幾分変更し、これらのことを全て心に納め、改めて考え合わせるようになったのではないでしょうか。

    私の勝手な推察ですが、12歳になった少年イエスは、この巡礼の時にエルサレム神殿で生まれて初めて神からの呼びかけの声を聞き、神を「自分の父」と表現し始めたのではないでしょうか。そしてその父なる神の声に従って神殿に留まり続け、巡礼団と一緒に行動しなかったのだと思います。その行為が両親に大きな心配と迷惑をかけることは、後でお気づきになったと思います。しかし、人間社会の論理や通念で両親に迷惑をかけたことを謝ろうとはせず、天の父なる神は、罪のない敬虔な信仰者たちからも、多くの人の救いのために時としてこのような苦しみや犠牲をお求めになることを示すために、あのような解り難い神秘的返事をなさったのだと思います。私たちもこの世の社会的通念だけで善悪を判断したり行動したりしないよう気をつけましょう。天の父なる神は時として私たちの平凡な日常生活にも介入し、思わぬ苦しみや犠牲を喜んで捧げることをお求めになります。神からのその突然のお求めに適切に対応できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

2012年12月25日火曜日

説教集C年:2009降誕祭日中ミサ(三ケ日)



朗読聖書: . イザヤ 52: 7~10. Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
     Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

    本日の日中ミサ聖祭は、ローマ教皇のご意向に従って全教会・全人類の上に、人となってこの世にお生まれになった救い主の祝福を願い求めて献げられます。世界中のキリスト者たちと心を合わせ、この意向でお祈り致しましょう。本日の第一朗読には、「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、全ての人が私たちの神の救いを仰ぐ」という大きな希望の言葉が読まれます。これは、エルサレムの滅亡とバビロン捕囚という悲惨な現実を体験し、落胆していた神の民にイザヤ預言者が語った言葉ですが、預言者はこの言葉の少し前に、「シオンよ、目覚めよ。目覚めよ」と、信仰の眼を見開いて神の働き、神が為して下さっておられる業をしっかりと見据えるよう勧めています。

    私たちこの世の人間は、とかく肉の目に見える現実に支配され易いですが、聖書によりますと、刻々と過ぎ行くこの仮の世の現実は皆夢のようなもので、本当の現実は、その外的現実の陰で神がなさっておられる働き、救いの御業にあるようです。信仰の眼を見開いてこの現実を見定め、神の囁きに心の耳を傾けるよう、預言者は勧めているのだと思います。私たちの住んでいるこの現代世界は、次第に終末的様相を呈し始めているようにも見えますが、終末は神による被造物世界の徹底的浄化刷新への生まれ変わりを意味しており、それは、人となられた神の子と、その神の子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、長い年月をかけてゆっくりと準備された後に、突然に世界の表に現われ実現するもののようです。ちょうど最後の晩餐から受難死・復活までの短時日のうちに成就したメシアによる贖いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い年月の生命的準備期を基盤としているように。聖書の言葉が、神の子メシアの来臨を終末時代の始まりとしていることも、注目に値します。

    本日の福音は、ヨハネ福音の序文(プロローグ)からの引用ですが、この世に来臨なされた神の子メシアの本質が何であるかを教えていると思います。それによると、かわいい幼子の姿で赤貧の中にお生まれになったメシアは、実は永遠に存在しておられる神で、万物を創造した全能の神のロゴス、すなわち神の言葉であり、全ての人を生かす神の命、全ての人を照らす神の光なのです。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」という、ただ今朗読された聖句に注目しましょう。その言葉は、私たち人間の言葉とは全く違う、愛の命と光とに溢れている全能の神の言葉なのです。この言葉、すなわちロゴスは、三位一体の共同体的愛の交わりの中では永遠に明るく燃え輝いている光ですが、神に背を向け目をつむる暗闇には理解されず、その暗闇の勢力下に置かれて、神に背を向けて生きる暗い罪の世に呻吟し、道を求めている人たちを訪ね求めて救うため、己を無にして本来の光と力をそっと隠し、赤貧の内にか弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中に、深く身を隠して現存しておられる神のロゴスを、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのだと思います。恐るべき終末の審判は、今すでに始まっていると言ってもよいでしょう。

    本日の福音の後半には、人となってこの世に来臨した神のロゴスについて語られています。ご自分の民の所へ来たのに、その民は受け入れなかった、という悲しい言葉が読まれますが、しかし、受け入れた者には神の子となる資格を与えた、という喜ばしい言葉もあります。罪に穢れたこの世の暗い内的闇の勢力に囲まれて生きている私たちには、自分の力、自分の努力によって神の子の資格を得たり、その恩恵に浴したりすることは全く不可能ですが、己を無にしてこの世にお生まれになった神のロゴスが、ご自身を信じ、ご自身により頼む全ての人にその恵みを無償で与えて下さいます。社会の伝統的秩序や価値観が悪を統御する力を失って、闇の勢力が世界中に跋扈する様相を呈し始めている今日、私たちを神の子とし、全能の神の働きによって罪の闇から救い出して下さるため、この世にお生まれになった神の御子にひたすら縋り、私たち自身も神の御子に倣って己を無にし、貧しさ・小ささを愛すること喜ぶことにより、内的に深く神のロゴスに結ばれるよう努めましょう。クリスマスに当たり、絶望的不安のうちに真の道を捜し求めている多くの人々の上にも、そのための導きの光と恵みの力とを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2012年12月24日月曜日

説教集C年:2009降誕祭夜半のミサ(三ケ日)



朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 9: 1~3, 5~6. Ⅱ. テトス 2: 11~14.
     Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

    毎年今宵のミサの福音を読む度に、私はよく1964年の冬にイタリア中部の小さな山の上の古い田舎町フィウッジで、3週間ほど滞在した時のことを懐かしく思い出します。その町でドイツ系修道女会が経営していた病院の病院付司祭が、しばらく故国ドイツで休みを取りたいので、その間代わりに病院に滞在しミサを捧げたり、場合によっては死に逝く病人の世話や、葬儀も担当したりするようにとの依頼でしたので、当時ローマ教皇庁からの聴罪免許証を持っていて、毎日曜日の午前にローマのサン・ベネデット教会で聴罪師の仕事を手伝っており、ドイツ人会員の多くいたローマの本部修道院に住んでドイツ語も話していた私に、その依頼が回されて来たのだと思います。

    修道女経営のその病院に滞在していて、イタリアの古い埋葬慣習のことやその他様々のことを新しく学びましたが、その一つは、もう今はいなくなったイタリアの貧しい羊飼いと、羊を入れて置く町外れの半分洞窟になっている家畜小屋などにめぐり合ったことであります。ルネサンス時代のイタリアの画家たちは、こういう田舎町の外にある家畜小屋を見慣れていたので、「マリアが生まれた赤子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」という聖書の記事を読むと、救い主はベトレヘムの町の外に生まれたのだと思ったようですが、これは古代教会の理解とは違っています。…..

    私はその前年の夏にも、ローマに留学している優秀な神言会神学生たちが、ローマの北50キロ程の避暑地の丘上に建つ神言会の家に2週間余り滞在した機会に、ミサ聖祭を捧げる司祭として、また会計係として一緒に生活するようにと院長から依頼され、サン・ヴィトと呼ばれたその村の家にも滞在しましたが、その時神学生たちと一緒に中型のマイクロ・バスで古代ローマの有名な詩人の一人 Horatius の故郷の山、monte Soratteという高さ百メートル程の山に遊びに行きました。このHoratiousという詩人は、救い主がこの世にお生まれになる直前に、全領土の住民登録を命ずる勅令を出したAugustus皇帝の下で活躍した詩人で、Augusatusが確立した「ローマの平和」と、その下での田園生活の楽しさや、貧しい人・苦しむ人たちへの温かい思いやりなどを、情熱を込めて詠いあげた人であります。

    そのmonte Soratteという山は、古代にはローマ市を北方からの敵から守る砦の一つとされていましたが、ゲルマン民族によって西ローマ帝国が滅ぼされると、中世初期には異教寺院の山に変わり、その後キリスト教が田舎の諸地方にまで普及すると、その寺院の廃墟だけが残る山となってしまいました。私たちが46年前にその山に登った時には、まだその寺院の廃墟が部分的に残っていましたが、傾斜の緩やかな登山道が一本しかなく、他は皆数十メートルの岩の絶壁に囲まれているその山全体は、麓に大きな屋敷を持つ農家の、羊や山羊の放牧場になっていました。周辺地方一帯に眺望の効くこの山の上でも、一つ珍しい体験をしました。(迷羊の話)

    ベト・レヘムはヘブライ語で「パンの家」という意味ですが、二千年前にそのベトレヘムでお生まれになった救い主は、今宵はパンの形で私たち各人の内に、神からのご保護と救いの恵みを豊かにもたらすためにお生まれになるのだと信じます。理知的な人たちは、その信仰を子供じみた夢として軽蔑するかも知れません。しかし、冷たい合理主義や能力主義、あるいは自分の権利主張などが横行して潤いを失っている社会に、温かい思いやりや赦しあう献身的奉仕の精神をもたらすには、心が夢に生きる必要があります。体や頭がどれほど逞しく成長しても、心の奥底にはいつも素直で純真な子供心というものが残っていて、それが同じことの繰り返しでマンネリ化し勝ちな私たちの日常生活に、いつも新たに夢や憧れ、感動や喜びなどを産み出してくれます。そして数々の困苦に耐えて生き抜く意欲も力も与えてくれます。私たち各人の命の本源は、その奥底の心にあるのです。救い主も、夢を愛するその奥底の心の中にお出で下さるのです。二千年前の救い主の誕生前後に、ヨゼフも東方の博士たちも、夢によって教え導かれましたが、神は今も度々夢を介して私たちを教え導かれます。夢を愛する子供心を大切にしましょう。今宵の聖体拝領の時、二千年前の聖母のご心情を偲びつつ、神のため社会のために私たちの授かる恵みの御子を心の内に内的に育てよう、そして神による救いの恵みがこの御子によって周囲の社会に行き渡るよう奉仕しよう、との決心を新たに堅めましょう。

    今宵主の降誕祭の記念ミサを捧げている私たちの目の前に、救い主は幼子の姿でお生まれになることはありませんが、しかし、内的には私たち各人の心の内に密かにそっとか弱い幼子の姿でお出で下さり、もし私たち各人が心を開いてその主をお迎えするならば、私たちの心の願いをしっかりと受け止め、その達成のために尽力して下さると信じます。子供騙しの夢のような話ですが、信じましょう。私は63年前に公教要理を学んでいた時、素直な子供心に立ち返って、神が私たちに提供しておられる数々の夢をまともに信じ、全てを神に委ね、神のお望み通りに生きようとし始めました。そうしましたら、今振り返っても驚くほど沢山の不思議な出逢いや恵みの出来事を体験させて戴きました。神は実際に存在し、私たち各人に伴っておられると思います。既に復活してあの世に生きておられる主キリストの、私たち各人の心の中での隠れた誕生、隠れた来臨に対する信仰を新たにしながらこのミサ聖祭を献げましょう。

2012年12月23日日曜日

説教集C年:2009待降節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: . ミカ: 5: 1~4a.    . ヘブライ: 10: 5~10.

     Ⅲ. ルカ福音 1: 39~45.

   本日の第二朗読の前半に読まれる主キリストのお言葉は、聖書の他の個所には全然読まれない御言葉で、神が、あるいは復活なされた主がヘブライ書の著者に特別に啓示して下さった、聖三位一体の第二のぺルソナが人間となって、聖母マリアの胎内に懐妊された時の祈りであると思います。ご自身の体、ご自身のこの世の人生は、人類の罪を贖うために焼き尽くされる幡祭(はんさい) のいけにえ、御父の御旨を行うためだけのものであるという、この徹底的献身と従順の決意は、主イエスが聖母マリアのお体に宿られた瞬間から受難死を成し遂げた時まで、救い主の人生を貫いている不屈の精神であったと思います。聖母も単に主のお体だけではなく、そのお体に籠る主のこの御精神をも宿し、この御精神でご自身の人生を神に捧げ尽くすことによって、主と共に救いの恵みを人類の上に呼び下し、私たちの精神的母となられたのではないでしょうか。私たちも、救い主のこの決意、この精神に参与して生きる度合いに応じて、クリスマスの恵みに浴するのだと信じます。そのための照らしと力を願い求めつつ、主と聖母と共に生きる決意を新たにして本日のミサ聖祭を献げましょう。

   聖マリアの「無原罪」という言葉を聞くと、多くの人は、あらゆる罪の穢れを免れた心の完璧な清さや美しさだけを考え勝ちのようです。それは正しいのですが、しかし、罪に穢れた私たちの心の現実を高く凌駕している、そのような清さや美しさだけに注目するのは、片手落ちだと思います。もっと大切なことは、聖マリアが救い主に先立って、神からの特別の恵みであるそのような超自然的清さをもってこの罪の世に生れ、子供の時から生涯、私たちの想像を絶するほど多くお苦しみになったことに、注目することだと思います。お心のその超自然的清さ故に、聖マリアは原罪の穢れを持つ他の子供たちや社会の人たちの言うこと為すことに、人知れず苦しみ悩んでおられたのではないでしょうか。なぜそんなことをするのか、なぜそんな言い方をするのか、などと。生来罪の穢れに慣れている私たちの心とは、感じ方が大きく違っていたと思われます。

   聖マリアは、子供の時から頻繁に体験したその苦しみ故に、ひたすら神の助けを祈り求めつつ生活するようになり、ご自身のその苦しみをそっと神に捧げて、人々の救いや仕合わせのためにも祈っていたと察せられます。そしてやがて、ご自身を「神の婢」と思うようにもなられたのではないでしょうか。天使から全く思いがけないお告げを受け、その説明をしてもらった後にすぐ、「私は主の婢です」というお言葉を口にされたのは、日頃その精神で生活しておられたからだと思います。思うに主イエスも、生来の無原罪のため、同様に子供の時から一生涯お苦しみになられたのではないでしょうか。神の御子はその絶えざる御苦しみを、この罪の世に派遣された最初の瞬間からあらかじめ天の御父神に捧げつつ、「ご覧下さい。私は御旨を行うために来ました」と申し上げたのだと思われます。

   本日の福音は、天使のお告げを受けた聖マリアが、ザカリアの妻エリザベトを訪問した時の話ですが、ナザレから徒歩で数日かかるザカリアの家までの旅は、3年前にもここで説明したように、大胆な女の一人旅であったと思われます。当時のユダヤ社会の状況を考慮しますと、それは不安も危険も大きい旅であったと思います。しかし聖マリアは、神の御子を宿しているなら神ご自身が護って下さるという信頼の内に、ひたすら御胎内の神の御子に祈りつつ、この危険な旅をなさったのではないでしょうか。天使が最後に付言した、親戚のエリザベトが男の子を奇跡的に懐妊しているという知らせも、マリアの心を照らす一条の光となったいたと思われます。もし自分がもう子供を産めない程年老いているエリザベトを訪問し、既に六ヶ月になっているという胎児を宿して、生活の世話を必要としているその老婦人が出産するまでの生活を手伝い、産み落としたその子が男の子であるのを確認すれば、それは天使のお告げが神よりのものであるという証拠になり、ヨゼフを説得する道がそこから開けて来ると思われるからです。天使は自分にそのことを確認させるために、エリザベトの懐妊を知らせてくれたのではないか、とお考えになっておられたことでしょう。

   こうして無事ザカリアの家に辿り着いた時、聖マリアは安堵の喜びと神に対する感謝の内に、感動に満ちた挨拶の言葉を発したのだと思います。それは通常の儀礼的挨拶とは異なり、神の霊と力に満ちた挨拶になっていたのではないでしょうか。果たしてその声を聞いたエリザベトの内にも、既に六カ月を越えていた胎児が聖霊に満たされて大きく踊り、エリザベトも聖霊と喜びに満たされて戸口に現われ、女預言者のように声高らかに話し始めました。こんなことは、事細かに旧約時代の掟を遵守していた以前のエリザベトには、長年全く見られなかったことだったと思われます。彼女の内にも既に新約時代の新しい信仰生活、すなわち不動の文字で認められている掟や規則の順守中心の生活ではなく、何よりも自分の体内、自分の日常生活の中でお働きになる神の御旨に注目し、その御旨に従って生きようとする預言者的信仰生活が始まっていたのではないでしょうか。

   現代のグローバル変動、全世界的変動の時代を迎え、一般社会だけではなくカトリック教会も司祭・修道者の激減という深刻な危機に直面していますが、私たちも聖母マリアや聖エリザベトの模範に倣って、自分の今体験している日々の出来事から神の御旨を新たに学び取りつつ、これまでとは少し違うもっと自由で流動的な新しい信仰生活を営むべきなのではないでしょうか。そのための照らしや導きを願い求めながら、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。

   余談になりますが、最近北イタリアのある公立学校の教室に昔から掲げてあった十字架像に対して、フィンランド出身のある母親が生徒に特定宗教を強要するものとして訴訟を起こしたら、今年の113日に、フランスのストラウブール人権裁判所が十字架像は信仰を強制することになるので、イタリア国家は敗訴して5千ユーロの罰金をを支払うようにとの判決がなされたそうで、イタリア市民も抗議し、教皇も憂慮しておられるという記事を読みました。ドイツにも10年ほど前に同様の訴訟事件があり、その時はドイツの裁判所が十字架をドイツの文化的伝統として尊重させることで、事件を収めたそうですが、今回はそのようには治まらないようです。最近公表されるようになったドイツのカトリック離脱者数は、2007年には93千人余、08年には12万人以上だそうで、教会維持費納入を回避したい信徒の心の変化も関係していると思いますが、ヨーロッパはもうキリスト教国ではなく、再布教すべき国になり下がりつつあるように思われます。さのヨーロッパ諸国のキリスト教化の恵みも祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2012年12月16日日曜日

説教集C年:2009待降節第3主日(三ケ日)

朗読聖書:. ゼファニヤ 3: 14~17. Ⅱ. フィリピ 4: 4~7.

     Ⅲ. ルカ福音 3: 10~18.   

   本日のミサは昔から「喜びのミサ」と呼ばれて来ました。入祭唱に「喜べ」という言葉が二回も重ねて登場するからですが、それだけではなく、第一朗読にも第二朗読にも「喜び叫べ」「喜び躍れ」「喜びなさい」などの言葉が何回も言われているからです。いったい神は、なぜ「喜べ」と言われるのでしょうか。またなぜ「恐れるな」と言われるのでしょうか。第一朗読はその理由を「イスラエルの王なる主がお前の中におられる」から、「主なる神がお前のただ中におられて、勝利を与えられる」からなどと説明し、第二朗読も「主が近くにおられる」からと説いています。しかし、主なる神は単に近くにおられる、あるいは私たちのただ中におられるだけではないのです。第一朗読の末尾には、「主はお前のゆえに喜び楽しみ」「お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」という言葉も読まれます。私たちに対する大きな愛ゆえに喜び楽しんでおられるその神と共に喜ぶよう、神が私たちを招いておられるのではないでしょうか。神が私たちの中におられて愛の眼差しを注いでおられる、私たちを救おう助けようと見つめておられるのだと、信じましょう。そのように信じ、その信仰に堅く立ってこそ初めて、私たちの恐れや思い煩いが全て消えて行くと思います。そして神と共に日々喜んで生きる時に、神の恵みも私たちの内に働き易くなると信じます。

   「愛する」とは、「見つめること」だと思います。神は隠れておられても、私たちをじーっと見つめておられるのです。私たちもそれに応えて、時々その神に信仰の眼を向けるよう心がけましょう。何も言わなくてもよいのです。ただ静かに神に感謝と愛の心の眼を注いでいると、神の霊が私たちの中に働いて、心の奥に深い喜びと安心感を与えて下さいます。日々の黙想の時など、目をつむって神の愛の視線を体の肌で感ずるように心がけましょう。乳飲み児のように素直な心で。そして目には見えないその神の御心に私たちの感謝と愛の心を向けながら、静かに神と共に留まるように努めてみましょう。日々このようなことを続けていますと、不思議に神が私に伴っておられて私を護り導いて下さるのを、小刻みながら幾度も体験するようになります。そしてその小さな体験が積み重なると、私たちの心の中に神に対する感謝と愛が深まってくるのを覚えるようになります。神の霊が私の心の内に、働いて下さるのだと思います。

   本日の福音は、民衆や徴税人・兵士たちの質問や思惑に対する洗礼者ヨハネの返答と申してよいと思います。ヨハネの力強い呼びかけや、悔い改めの洗礼を授ける活動を見聞きした群衆は、いよいよ神が約束なされたメシア到来の時が来たのではないか、と考えたことでしょう。それである人たちは、社会改革やユダヤ独立のために自分たちも何かなすべきではないかと考え、何をしたらよいかと尋ねたのだと思います。ヨハネはそれに対して、貧しい者たち、困っている者たちに下着や食べ物を分けてやるように勧め、徴税人や兵士たちにも同様、規定以上のものを取り立てないように、自分の給料で満足するようになどと、今置かれている地位や職業の中で実践すべき、ごく平凡な兄弟愛と忠実の心構えについて勧めただけでした。群衆は少し拍子抜けしたかも知れません。主キリストも同様に、何かの新しい社会活動や政治活動などではなく、例えば金持ちの青年には、子供の時から教わっている掟の遵守や貧しい人々への施しを勧めるなど、既にユダヤ教会でも子供の時から教わっている教えを実践すること、そして自分の日ごろの生活を厳しく律することだけしか勧めておられません。この点では、洗者ヨハネと同じ立場に立っておられると思います。主は一度「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返せ」とおっしゃったこともありますが、ローマ皇帝の政治に対抗するこの世的政治・社会活動よりも、まずは神の働きに従うための各人の生き方の改善・変革を優先して、おっしゃったお言葉であると思います。

   新約のメシア時代には、自分の置かれている所で神に心の眼を向けながら、愛の実践に生きること、日ごろの生活を厳しく律することに努めるなら、そこに主キリストの愛の霊が働いて、その人をも周辺の社会をも変革し、神による救いへと導いて下さるというのが、聖書の教えなのではないでしょうか。私たちの心は、神に眼を向け神の霊を自分の内に迎え入れることによって、清められ変わるのです。それが、待降節に当たって神から求められている改心だと思います。主キリストが始められた新約時代の洗礼はヨハネの洗礼とは違って、聖霊と火による内的洗礼の象りであり、人間の魂を清めて主キリストの御命に参与させ、神の住まい、聖霊の神殿に変える力を持つ洗礼であります。私たちの魂は皆この洗礼を受けて、神の神殿となっているのです。救い主から受けたこの大きな恵みに感謝しつつ、終末の日にその主を少しでも相応しくお迎えできるよう、神への愛と信仰の精神で日ごろの生活を整え、自分の心も厳しく律する実践に努めましょう。そしてそういう信仰実践のための照らしと力とを、今の世に苦しんでいる多くの人々のためにも、本日のミサ聖祭の中で祈り求めましょう。